訳者まえがきこの本を手にとってくださったあなたは、今、何を感じていますか?2021年の終盤を迎えた今、世界中の人たちがコロナ禍を体験しました。
ソーシャルメディアやインターネット技術の進化によって、新しいつながりを得た人もいるでしょう。
一方で、お互いに願いを共有しているはずなのに、どうしてもつながれない、わかりあえないもどかしさを抱いている人もいるはずです。
社会の格差はますます広がっており、価値観の異なる人たち同士の対立や分断が深まっているように感じている人もいるかもしれません。
このようなときに、「わかりあう」とは、「つながり」とは、私たちにとってどんな意味を持つものなのでしょうか。
本書の著者であるマーシャル・B・ローゼンバーグが、NVC(非暴力コミュニケーション)を形にしたのは1970年代のことでした(NVCを学ぶ人は彼のことを親しみを込めて「マーシャル」と呼んでいます)。
マーシャルは幼い頃に、他者に対する非難や批判だけでなく、もっと暴力的な行動に向かう人たちがいる一方で、思いやりをもって与え合うことを喜びとする人たちがいることに気づきます。
その体験から「人とはどんな存在なのか」という問いを探究するようになりました。
そして、私たちが日々使う「言葉」が、自分自身や相手・世界の捉え方に影響を及ぼしていることに注目し、NVCを考案します。
私たちが暴力的な言動をとる背景には「何が正しく、何が間違っているか」という捉え方があると、マーシャルは指摘します。
「間違っているものは正されるべき」という考えが暴力を正当化し、それが言動に表れるというのです。
この考えは他者にのみならず、自分自身にも及びます。
「自分はもっとこうすべきだったのに」「なぜ自分はこんなこともできないのか」と自分を攻撃する心の声を、誰もが聞いたことがあるのではないでしょうか。
自分の至らなさを埋めるためにさまざまな行動を起こすけれど、内面が満たされることがなく、果てには消耗してしまう。
そんな人も少なくないのではないかと思います。
マーシャルがNVCを通じて提供しているのは、このような捉え方をがらりと変えるまなざしです。
「自分の内面で何が息づいている・生き生きしているか(What’saliveinme?)」に意識を向けると、そこから自分や相手とつながりをつくることができる、という視点です。
私たちの言動の源には、自分自身のいのちが満たそうとしている大切なもの(ニーズ)がある、とマーシャルは伝えています。
私たちが心地よいと感じる(つまり快の感情をいだいている)ときは、ニーズが満たされている状態です。
一方で、不快の感情を抱いているときは、何らかのニーズが満たされていない状態です。
あらゆる感情は、いのちが何を欲しているのかを知るための重要な手がかりだというのです。
人生を豊かにするために大切なものは、自分の内面に意識を向けることによって気づくことができる。
自分自身に耳を傾け、寄り添うことによって、人は本当の智慧と強さを思い出すことができる。
この画期的な視点に、私たちはそれまで捉えていた世界観ががらりと変わるほどの衝撃を受けました。
私たちは、本書が「海士の風」という、島根県の離島・海士町に誕生したばかりの出版社から世に出る意義も感じています。
海士町は、自分たちにすでにあるもの・大切にしてきたものにまなざしを向け、「よそもの」も受け入れ、これまでの常識を超えた新たな挑戦に挑むことによって、集落の存続の危機を乗り越えました。
その取り組みは、日本全国のみならず、世界からも注目を集めています。
「ないものはない(なくてもよい・大事なものはすべてここにある)」を掲げるこの島に息づく人たちの、日々の営みの中に、私たちはNVCの精神性へのつながりを感じました。
この本の原題は「SpeakPeaceinaWorldofConflict:WhatYouSayNextWillChangeYourWorld」、直訳すると、「対立の世界で平和を語る──あなたが次に話すことがあなたの世界を変える」です。
日本語版のタイトルを考えるにあたって、私たちは何度も議論を重ねました。
原題のSpeakPeaceを気に入っていた翻訳メンバーは、当初はそれをメインタイトルに据えて、副題で個人と世界のつながりを示す言葉を添えるとよいのでは、と考えていました。
そうすることで、この本の持つ奥深さとスケール感を伝えたいと思ったのです。
それに対して、Peaceという言葉にいろんな解釈があることや、とくに英語が得意でない人にとっては逆に自分とは遠いものに感じられるのではないか、という意見もありました。
情熱をともにする人たちの対立。
これもよく起こることではないでしょうか。
わかりあえないもどかしさを抱えながらも、私たちはもう一度NVCのプロセスを辿ろうとしました。
ひとりひとりがこの本に感じた可能性は何なのか、それぞれの言葉に耳を傾け、深く聴き合うことを繰り返しました。
その過程を通じて見えてきたのは、「私たちの言葉で語ることを大切にしたい」という願いでした。
そこに気づいたときに、『「わかりあえない」を越える──目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC』というタイトルが生まれました。
これこそが私たち出版チームのひとりひとりが大切にしていることであり、信じてやまない希望だ──。
言葉に魂が宿った瞬間でした。
NVCの構造はとてもシンプルで、「観察」「感情」「ニーズ」「リクエスト」という4つの要素に意識を向けてみよう、というものです。
この4つの要素を知らなくても、これまで人々が日常生活の中で実践してきたことである、とマーシャルは言っています。
けれども、「人には人生を豊かにする力があり、喜びから与え合うことでいのちに貢献できる」という、NVCが示す希望や可能性の大きさを真に体現するのは、そう簡単ではありません。
なぜなら、私たちがこれまで社会的に身につけた「するべき」「しなければならない」とは違うあり方を歩むことになるからです。
NVCを学ぶこと・実践することは、その希望を生きるための「試み」です。
一筋縄ではいかないことを、私たちも実感しています。
それでもなおNVCに魅了されるのは、その試みを続けることが間違いなく人生を豊かにする、と実感しているからです。
そうでなければ、人と人が憎しみあう現場で、立場や権力が圧倒的に違う人たちの集う場で、価値観の異なる人たちと対話に臨む場で、NVCが実践され続けることはなかったでしょう。
「対立に満ちた世界で平和を語る」のは現実に可能なのだということを、マーシャルは彼自身の生涯をもって証明し続けてきました。
本当に大切なものは、誰もが手にすることができるはずです。
この本を通じて、マーシャルの示した希望を、多くの方と分かちあえたら嬉しく思います。
人はつながりの中で傷を負いますが、つながりのなかでこそ癒やしも起こるのです。
NVCは今、世界中のさまざまな現場で、さまざまな人たちの個性が活かされながら実践され、伝えられています。
本書を通じてNVCを生み出したマーシャルの想いに触れることで、みなさんの試みがより豊かなものになることを願っています。
今井麻希子鈴木重子安納献
「わかりあえない」を越える目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC目次訳者まえがき謝辞まえがき(ドロシー・J・メイヴァー博士)まえがき(デヴィッド・ハート)はじめにNVCの起源NVCの目的第Ⅰ部平和のことば・NVCの仕組み2つの問い「自分の内面で何が息づいているか」を表現する観察感情ニーズ人生をよりすばらしいものにするには?リクエスト(要求・お願い)リクエストVS強要
謝辞30年以上前にわたしがこの活動を始めた当時、世界の新たなありようを思い描ける人には、なかなかお目にかかれませんでした。
求められる社会の変化を起こすだけのエネルギーやスキルを備えた人は、ほとんどいなかったのです。
ところが、今ではさほど目を凝らさなくても見つかるようになりました。
非暴力コミュニケーション(NVC)が草の根のムーブメントとして広がる様子には、じつに励まされます。
NVCのトレーニングを受けた人が、他の国の人とつながってトレーニングを提供し、それを受けた人がまた他の人へトレーニングする、という光景に。
彼らはわたしに希望を与える存在であり、今や世界のいたるところで活動しているのです。
わたしには、大半の人がテレビで見ているのとは違う世界が見えています。
わたしはこれまで、ニュースで報道されているような場所の多くで活動をしてきました。
たとえば、シエラレオネ、スリランカ、ブルンジ、ボスニア、セルビア、コロンビア、中東などです。
ルワンダとナイジェリアでは、家族全員が殺されてしまった人たちを支援したこともあります。
ですから、この世界でどんなことが起こりうるかは知っているつもりです。
しかし、わたしが行く先々で出会うのは、世界が今のままである必要はない、という人たちです。
わたしが関わる人たちは、従来とは違う世界観と意識を持ち、その意識を急速に広げています。
彼らの勇気、ビジョン、そして──どんなに困難な状況にあっても──活力を失わずにいられる能力に、わたしは言葉にならないほど勇気づけられているのです。
心理学者のカール・ロジャーズ教授が対人支援における関係性について研究していた当時、その下で学び、仕事をさせていただけたことに感謝しています。
当時の研究成果は、本書で述べるコミュニケーション・プロセスの進化に重要な役割を果たしてくれました。
友人のアニー・ミュラーにも感謝を捧げます。
わたしの研究の精神的な基盤をもっとはっきりさせるように、と彼女が励ましてくれたことで、研究がより強固になり、わたしの人生がより豊かになりました。
社会学者のマイケル・ハキーム教授には、終生感謝するでしょう。
病理学的に人間を理解しようとすることの科学的な限界と、その社会的・政治的な危険性に気づけたのは、教授のおかげです。
そのモデルの限界を知ったことで、わたしは、人間のあるべき姿をより明確に打ち出すような心理学的モデルを探求するようになりました。
また、わたしが「NVCブリーダー」と呼ぶ人たち──NVCの意識の普及に人生を捧げてきた人たち──にもとりわけ感謝しています。
初期の段階に世界各地で重要な役割を果たしてくれた方々のお名前を、ここに挙げておきます。
ナフェズ・アサイリー(パレスチナ)アンヌ・ブリ(スイス)ボブ・コンデ(シエラレオネ)ヴィルマ・コステッティ(イタリア)ダニア・ハテジェキマナ(ブルンジ)クリス・ラジェンドラム(スリランカ)ホルヘ・ルビオ(コロンビア)イゾルデ・テシュナー(ドイツ)ジャン=フランソワ・ルコック(ベルギー)ルーシー・リュー(アメリカ合衆国)パスカル・モロ(フランス)シオドア・ムクドンガ(ルワンダ)シスター・カーメル・ニーランド(アイルランド)リタ・ハーゾグ(アメリカ合衆国)ナダ・イニャトヴィッチ=サヴィッチ(ユーゴスラビア)サミー・イヘジルカ(ナイジェリア)バーバラ・クンツ(スイス)トウエ・ウィドストランド(スウェーデン)ここにすべての名前を挙げることはできませんが、ほんとうに多くの方々の存在があります。
そのお1人お1人が、他の何千人もの人々とともに、それぞれのコミュニティ、国や地域、そして今や世界中で平和に貢献してくださっている姿は、わたしにとって大きな喜びの源なのです。
──マーシャル・B・ローゼンバーグ博士
まえがき(ドロシー・J・メイヴァー博士)音は、力強くて創造的な媒体です。
わたしたちが発する言葉は、わたしたちが何を考え、何を感じ、どんな世界に生きているかを浮き彫りにします。
自分がどんな人間かということは、発する言葉によって知れ渡るのです。
なぜなら言葉は、その人の日々の思考と本質を物語るからです。
わたしたちの話す言葉次第で、ドアは開きもすれば、閉じもします。
傷を癒やすか、傷をつけるか、喜びを生み出すか、はたまた、苦しみを生み出すか、そして、究極的には、発する言葉によって自分自身の幸福度が決まるのです。
マーシャル・ローゼンバーグ博士が平和のことばについて語るのを初めて聞いたとき、この方はビジョンをいだいてそのために行動する勇気を持っている、そんな人に出会えたのだとわたしは確信しました。
博士の話はユーモアたっぷりで、深いものの見方を示し、1人ひとりのニーズが満たされればどれほど人生が変わりうるかを示す、さまざまな実話が織り込まれていました。
それを聞いてわたしは、心のどこかで感じていたことが認められたのだと思いました。
人間と人間、そして人間と生きとし生けるものが、適切な関係性のなかで生きていくことは可能なのです。
世界が痛みと苦しみにあふれているこの時代に、ローゼンバーグ博士は鍵を差し出しています。
それは、言葉の使い方が、自他の人生にいかに作用し、大きな影響を与えているかを理解するための貴重な鍵です。
具体的な事例、深い見識、そして豊富なツールを提供しながら、博士は、どんな状況であっても、そこに関わろうという意欲があるなら、対立を乗り越えて調和をもたらしうることを示しています。
ある人は、政治活動家のためのNVCワークショップに参加したときの経験を振り返り、怒りが変化して解決されていくにつれて、安心感と希望を感じたと語ってくれました。
今まで怒りに満ちたコミュニケーション方法をとっていたことが、政治活動家や社会変革者として効果的に活動することの妨げになっていました。
対立だらけのこの世界で、「平和のことば」を学ぶにつれ、1人ひとりが単なる結果ではなく、源となって、この世界を変容させるのです。
わたしたちの発する言葉は、すべての人のためになる世界を誕生させるでしょう。
それは、人々がNVCのコンセプトを理解し、実践するような世界です。
このような意図を持って生きることで、わたしたちの行動の動機が変容します。
そして、「すべての行動は、他者と自分自身の幸福のために自らの意思で貢献するという、たったひとつの目的のために行われる」という博士の言葉の意味を理解するのです。
本書は、単なる自己啓発本の枠をはるかに超えています。
読み終えたとき、あなたは、個人、社会、政治、世界の変化に効果的に関わる方法を手にするでしょう。
この進化の岐路にあるわたしたちにとって、これは待望の必読書なのです。
平和はわたしたち1人ひとりから始まります。
著者マーシャル・ローゼンバーグ博士が平和の文化の構築に果たした、多大なる貢献に感謝します。
──ドロシー・J・メイヴァー博士ピース・アライアンスおよびピース・アライアンス財団理事平和文化の教育と米国平和省設立運動に従事www.ThePeaceAlliance.org
まえがき(デヴィッド・ハート)ワシントンDC、2005年7月わたしがこうして非暴力コミュニケーション(NVC)の重要性をめぐるまえがきを書いている今も、2005年7月7日に起きたロンドン地下鉄同時爆破テロの余波で、世界中が揺れています。
わたしたちは、またしても「それ」が起きてしまったことを悟ったのです。
わたしたちは暴力の映像を目の当たりにし、暴力の音を耳にするにつけ、1人の人間として、被害者やいまだに苦しんでいるその家族とのつながりを感じとりました。
海の向こう側の出来事であっても、暴力がもたらす痛みはひしひしと伝わってきます。
爆弾の威力の前では肉体はあまりにもはかなく、尊い人の生命はいとも簡単に引き裂かれる、そんな現実にわたしたちは再び突きつけられているのです。
物理的な距離がわたしたちのショックをいくらか和らげたとしても、ワシントンDCにいようと、合衆国の別の場所にいようと、世界のどこにいようと、恐怖の破壊的な力を痛感せずにはいられません。
NVCの方法論が読者の手に届いていることを祝福しつつ、今わたしが考えているのは、何が「対立に満ちた世界での平和のことば」を現実にするのか、ということです。
2005年7月7日、世界を震撼させた暴力は、あまりにもありふれた日常になってしまいました。
世界のいたるところで人々が暴力の犠牲になっています。
その犠牲者たちに、わたしたちはときおり自分自身を重ね合わせもしますが、たいていは他人事のようです。
暴力の痛みも、共通の人間性という美しさも、感じとれなくなってはいないでしょうか。
ロンドン爆破テロの前日、バグダッドとファルージャでも命が引き裂かれました。
わたしたちはその暴力を目の当たりにしながら、犠牲者たちを悼むことも、暴力がいつ終わるのかと問うこともしません。
人生半ばで命を奪われた人々にわたしたちが目を向けるとすれば、それは、彼らが「自分たちに似ている」ときだけのようです。
犠牲になったのが、しかるべき制服を着ている人、あるいは「自分たちに似ている」人なら、わたしたちは共通の経験として認識し、その人を完全に人間と見なすのです。
そうでない場合、わたしたちは彼らの命の価値をつかみそこねてしまうかもしれません。
この重要な本で、ローゼンバーグ博士はこう語りかけています。
「わたしたちは長い間、破壊的な神話のもとに生きてきた。
その物語には人間から人間性を奪い、モノとして扱ってしまう言語が不可欠な要素として含まれている」そのうえで博士は暗闇から抜け出す道筋を指し示しています。
博士の言葉は、わたしたちの言葉と行動がいかに重要であるかを思い出させてくれます。
広がり続ける暴力に対して、わたしたちが行動を起こすか起こさないかによって、世界が形づくられ、未来が決定されるのです。
紛争解決協会(ACR)の一員として、光栄にもわたしは、高度な技能を備えた専門家たちと仕事をしています。
彼らは、対立関係にある人々が、創造的、建設的、非暴力的な方法で和解できるように、日々、支援に力を尽くしています。
紛争解決という、今も広がる重要な分野の実践者である仲間たちは、対立や紛争は人生の自然で健全な一部であると認識しています。
わたしたちは決して対立や紛争を根絶しようとはしません。
なぜなら、対立や紛争は個人や社会を成長させるものだと信じているからです。
対立を根絶するのではなく、わたしたちが追求しているのは、もっと効果的な対立への向き合い方です。
ローゼンバーグ博士が示しているのは、暴力あふれる世界においてどのようにコミュニケーションができるかについての、ひとつの創造的な方法なのです。
よりよい世界を求め、それを実現するために日々奮闘する地に足のついた理想主義者たちに、わたしは賛辞を送ります。
互いに力を合わせれば、暴力の闇を抜け出し、平和に続く光の道を見つけられるでしょう。
ローゼンバーグ博士は、重要な対話の場に思慮に富んだ考えを提供してきました。
博士のアプローチは洞察力に満ち、刺激的であり、議論を巻き起こさずにいられません。
彼の方法とわたしの方法が完全に一致するわけではありませんが、そのこと自体は重要ではありません。
すんなりと同意を得ることなど博士は期待しないでしょう。
彼が求めているのは、わたしたちが活発な対話に参加すること、そして、その対話によって、わたしたちがみずからの内面を見つめ、この世界をよりよい場所にするために自分に何ができるかを問うことなのです。
NVCは、わたしたちが今日直面している問題に対する解決策の一部です。
ここワシントンDCの地下鉄に身構えながら乗り込むとき、わたしは、対立に暴力で応えるような現状を受け入れるつもりのない、ローゼンバーグ博士と世界中にいる彼の仲間たちの活動に勇気づけられているのです。
読者は、どうかこの本のメッセージを深く心に刻み、自己発見と平和構築という人生の旅路の一歩にしてください。
この対立に満ちた世界でわたしたちは力を合わせ、少しずつ、一語ごと、一日ごとに「平和のことば」を実践していきましょう。
そうすれば、やがて明るい未来を築けるのですから。
──デヴィッド・A・ハート紛争解決協会(ACR)CEO(肩書は個人を特定するためだけのものであって、団体としてのACRから推薦されているわけではありません)
凡例 原文の段落は、読みやすさを考慮して、適宜、改行を加えています。
訳注、書誌情報は脚注に記載しています。
はじめに我々には、もっと平和な世界が必要です。
それは、もっと平和な家庭、近隣関係、地域社会から生まれるものです。
そのような平和を確保して育んでいくためには、互いに愛し合わなければならないのです。
友人同士はもちろん、たとえ敵同士であっても。
──ハワード・W・ハンター(宗教家)この本を通して、NVC(非暴力コミュニケーション)の目的と原理、そして世界各地でのさまざまな活用事例を紹介する機会に恵まれたことを、感謝しています。
本書では、NVCが個人の内面でどのように活用されているか、さらには、家庭や職場、社会を変える活動の現場で、他者との間に良質なつながりをつくり出すために、どう役立てられているかをお伝えしていきます。
平和のことば(SpeakingPeace)は、暴力を伴わないコミュニケーションであり、NVCの原理を応用することから得られる、現実的な結果でもあります。
具体的には、きわめて重要な、以下の2つの問いを中心において、相互に思いをやりとりすることです。
わたしたちの内面で何が息づいている・生き生きしているか?(What’saliveinus?)人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?(Whatcanwedotomakelife(§)morewonderful?)平和のことばは、本来人間が持っている思いやりの心を花開かせるようなつながりを、相手との間に結ぶための方法です。
世界中どこであっても──相手が問題を抱えた家庭、機能不全に陥った官僚組織、戦争で荒廃した国々であろうと──対立や紛争の平和的な解決をめざすうえで、これ以上効果的な方法をわたしは知りません。
むしろ、NVCによる平和のことばは、対立を縮小させるか、そもそも対立を生じさせない可能性を示しています。
これはわたしたちの大半に言えることですが、平和的な変化をもたらすプロセスは、自分自身のマインドセット、すなわち自分と他者をどのように見ているか、そして自分のニーズをどのように満たすのか、を見直すことから始まります。
この基本的な実践は、いろいろな意味で、平和のことばにおいて最も難しいところです。
なぜなら、平和のことばを実践するためには、たいへんな正直さと開かれた心が求められるからです。
さらに、それに即した表現リテラシーを身につけることも必要で、判断・決めつけ、恐れ、義務、責務、懲罰と報酬、恥の意識を強いるような、これまで教育で植えつけられたものを克服しなければなりません。
簡単なことではないでしょうが、努力すれば、それに見合う結果を得られるでしょう。
本書の第1部では、2つの基本的な問いを扱いながら、NVCの仕組みについて述べていきます。
その問いに答える行為は、それ自体がNVCの概要を見事に説明していると同時に、NVCが、今あなたが理解しているような対立解決の方法とは違うものであることを示してくれます。
NVCをあなた自身の人生や人間関係に、そして、より大きな対立や紛争を平和的に解決するための活動で実践するとき、ほぼ確実に、あなたの世界観と生き方は大きく変わるでしょう。
たとえば、NVCを構成する基本概念の1つである、「わたしたちのあらゆる行動は、わたしたちのニーズに貢献するためである」は、一般的な通念にはそぐいません。
この概念をもとに相手を見つめてみると、自分にとって真の敵など、どこにもいないことがわかるでしょう。
相手の自分に対する行動は、相手がその人自身のニーズを満たすうえで、相手が考えうる最善の方法なのです。
そのときわたしたちは、それよりも効果的で害の少ない方法があるのだと相手が理解するように、支援することができます。
ただし、こちらの望むような人間ではないからといって、相手を責めたり、恥じ入らせたり、憎んだりするのではありません。
何もせずに無力感に浸っている必要もないし、かといって、相手を上から力で押さえてこちらのニーズを満たす必要もないのです。
平和のことばでは、「パワー・ウィズ(ともに力を持つ)」という作戦をとります。
続く第2部では、わたしたち自身の内面で生じる変化についてお話しします。
「人生を豊かにすること」がこれからの行動の動機になるのだ、と捉えたとき、他者に対する見方も世界観も変わってくるのです。
第3部では、読者の実践の支援になるように、社会の変化を目指す活動にNVCを使った応用事例をご紹介します。
ぜひ、あなたと似た価値観の人とチームを組んで、どうすればそれが実践できるのかを話し合ったり、自分たちの働きかけにさほど反応を示さない人々を相手にするとき、どうすれば自分たちのニーズを満たせるか意見を交わしてみてください。
本書では、「政治的な」変化と呼びうるものだけでなく、それ以外の社会の領域である、ビジネスや教育分野においてNVCを活用する方法も見ていきます。
これは偶然ではなくNVCはそうなるように設計されているのですが、他者とつながるというNVCの基本的なプロセス──明確な「観察」をし、「感情」と「ニーズ」を表現して受け止め、明確な「リクエスト」をする──は、どのような種類の社会を変える活動に応用しても、つねに効果を発揮するのです。
§ life:「人生」「いのち」という意味があるが、myやyourなどの所有格を伴わない場合、マーシャルは、個人だけでなくその外側にある集団や自然など、大きな全体のいのちに貢献することも意図していると思われる。
NVCの起源わたしは暴力に反対する。
なぜなら、暴力が善をもたらすように見えたとしても、それは一時的にすぎないからだ。
むしろ暴力のもたらす悪は、永遠に続く。
──マハトマ・ガンジー(政治指導者)わたしが新しいコミュニケーション方法に目を向けるきっかけになったのは、子どもの頃からずっと心に抱いていた、いくつかの疑問でした。
1943年、一家でミシガン州デトロイトに引っ越した直後、人種暴動が始まりました。
住んでいた地域では4日間で30人もの人々が殺され、その間わたしたちは、自宅に留まらなければなりませんでした。
外出するなど、不可能だったのです。
少年のわたしにとって、それは強烈な学びの機会となりました。
痛みを伴う学びではありましたが、そのときからわたしは、肌の色の違いを理由に人が人を傷つけるかもしれない世界に住んでいるのだ、ということをはっきり意識するようになったのです。
やがて学校に上がると、初日から、自分の名字が、周りの人に対して、わたしへの攻撃衝動を刺激しうることに気づきました。
その後も、大人になるまで何度となく疑問にぶつかることになりました。
名前、宗教、生い立ち、肌の色を理由に、人が他者を傷つけたくなるのは、いったいなんの影響なのか、と。
幸いにもわたしは、人間の別の側面にふれる機会がありました。
祖母は全身が麻痺していたのですが、母はその祖母をいつも世話していました。
そして、毎晩のように手伝いに来ていたおじは、祖母の体をきれいにするときも食事の介助をするときも、いつも最も美しい笑みを浮かべていたのです。
少年のわたしには、不思議でしかたがありませんでした。
この世には、おじみたいに、他者の幸福に貢献することを心から楽しんでいるように見える人もいれば、互いに暴力をふるいたくてしかたがない人たちもいる、それは、いったいなぜなんだろう。
やがて、将来の進路を決める時期になると、わたしは、これらの重要な疑問に向き合う勉強がしたいと思うようになりました。
問いの答えを見つけるために最初に選んだのは、臨床心理学です。
最終的に博士号を取得したものの、わたしが教わったことにはある種の限界があって、望むほど十分な答えは得られませんでした。
人間本来の生き方とはどのようなものなのか、そして何が人間を暴力的な傾向から遠ざけるのかを、もっと知りたくなったのです。
そこで、大学院を終えてからは、自力で問いの答えを探し始めました。
おじのように喜んで他者の幸福に尽くす人がいる一方で、他者を苦しめて楽しんでいるような人がいるのはなぜなのか、その理由を自分なりに理解しようとしたのです。
本書で語る結論に至るまでに、いくつもの異なる方法を試しました。
なかでもとくに力を入れたのが、尊敬する人たちを研究することでした。
対立に巻き込まれながら、あるいは、破壊的な対立が続くような環境に身を置きながら、なぜ、その人たちは他者の幸福のために喜んで尽くそうとしているのか、彼らの何がどう違うのか、それを突き止めようとしたのです。
わたしはそういう人たちと話をし、彼らを観察し、彼らが学んできたことを、自分でもできるかぎり学んでみました。
わたしが捉えようとしたのは、いったい彼らは何によって、人間本来の性質だとわたしが思うもの──お互いの幸福のために貢献しようとすること──を持ち続けることができたのか。
わたしの学びの範囲は、比較宗教学にも及びました。
宗教の基礎的な実践から、何かしらわかるかもしれないと思ったのです。
わたしが学んだ宗教は、人間本来の生き方とはどのようなものかという問いに関して、ある程度は考えが一致しているようでした。
さらに、癒やしにおける関係性の特徴を探ったカール・ロジャーズの研究のような、特定分野の学術研究も、理解を深めるうえで大いに役立ちました。
こうしてさまざまな方面で得たものと、人間の行動はこうあってほしいという自分自身の願いをもとに、わたしは、1つのプロセスを構築しました。
そのプロセスの「目的」を読者にはっきり示すことができれば、プロセスの仕組みも、おのずと生きたものになるでしょう。
なぜなら、NVCとは、ある種の精神性と、その精神性を日常生活から人間関係、政治運動にいたるさまざまな場面で具現化するためのスキルを統合したものだからです。
そういうわけで、まず、わたしがめざした精神性とは何かを明らかにしてから、つぎに、それを具現化する試みの中で見出したスキルについて紹介することにしましょう。
NVCの目的3つの真理を万人に知らしめなさい。
寛大な心、優しい言葉、そして奉仕と慈悲にもとづく生き方、この3つが人間性を新たにするうえで必要なのだ、と。
──ブッダ(宗教家)NVCの精神性は、人を神聖なるものとつなげるためにあるというより、わたしたちを形づくる源となっている神聖なエネルギー、すなわち、人間に本来備わっているいのちに貢献するエネルギーから生まれているものです。
それは、自分の内なるいのちと他者の中で息づくいのちにつながり続ける、生きたプロセスなのです。
ミシガン州立大学の社会心理学者ミルトン・ロキーチは、世界の主要な宗教から8つを選んで熱心な信奉者を調査し、他の宗教よりもとりわけ思いやりが深い宗教があるかどうかを見出そうとしました。
その結果、どの宗教の信奉者たちも思いやりの度合いは同じであることが判明しました。
ところが、その後、ロキーチが信仰を持たない人たちと彼らを比較したところ、なんと、無宗教の人々のほうが、はるかに思いやりがあるという結果が出たのです!ただし、ロキーチは、こうした所見を解釈する際には注意が必要だとも述べています。
なぜなら、いずれの宗教にも2つの明らかに異なる集団が存在し、少数派を抽出してみると(たしか12%だったと思います)、無宗教の人々よりもはるかに思いやりが深かったからです。
たとえば、わたしがパレスチナのある村で仕事をしていたとき、セッションの最後に、1人の若者がこんなことを言いました。
「マーシャル、ぼくはあなたのトレーニングがとても気に入りました。
でも、これって別に新しいものではありませんよね。
批判しているわけじゃありません。
でも、まさにイスラムの教えの応用だなと思って」わたしが微笑んでいるのを見て、彼はこう尋ねてきました。
「なぜ微笑んでいるの?」「昨日、エルサレムにいたんですが、正統派ユダヤ教のラビが、わたしのやっているトレーニングはユダヤ教の実生活での実践だ、と言ってましたよ。
スリランカでは、イエズス会の神父がわたしたちのプログラムのリーダーをしています。
彼は、これをキリストの教えそのものだと考えているんです」つまり、宗教の種類は違っても、こうした少数派の人々の精神性は、NVCがめざしているものに非常に近いのです。
NVCは、考え方と言語を組み合わせたものであり、特定の意図に向けて力を行使するための手段でもあります。
その意図とは、他者や自分自身と、思いやりのある与え合いが可能になるようなつながりを生み出すことです。
その意味でNVCは、精神的な実践にほかなりません。
なぜなら、すべての行動は、他者と自分自身の幸福に自らの意思で貢献するという、たったひとつの目的のために行われるからです。
NVCの第1の目的は、思いやりのある与え合いが可能になるような方法で、他者とつながることです。
ここでの思いやりとは、与えるという行為を自らの意思で心から行うということです。
わたしたちが自分と他者に奉仕するのは、義務感、罰への恐れ、報酬への期待、罪悪感や羞恥心からではありません。
わたしの考える人間本来の性質として、与え合うことに喜びを見出すのです。
NVCは、他者に与える(そして他者から与えられる)という行為の中で、そうした人間本来の性質が前面に現れるようなつながりをつくるのに役立つものです。
与えることへの喜びが人間の本来の姿だ、などと言われると、きっと、首をかしげたくなる人もいるでしょう。
わたしのことを、何て世間知らずな男なんだ、世界中に暴力が蔓延しているのを知らないのか、などと思うはずです。
世界の現状を考えれば、思いやりをもって与えることを喜ぶのが人間本来の姿だとは、とうてい思えないかもしれません。
もちろん、わたしだって現実は承知しています。
ルワンダ、イスラエル、パレスチナ、スリランカで仕事をしているのですから。
そういう暴力の現状を十分承知したうえで、わたしは暴力が人間本来の性質ではないと考えています。
どこでワークショップを行っても、わたしは参加者にこんなふうに問いかけます。
「過去24時間を振り返って、あなたのとった何らかの行為が、誰かの人生をよりすばらしいものにするうえで役に立った、ということはありませんか?」相手が1分くらい考えたところで、わたしはさらに尋ねます。
「誰かの人生をすばらしくすることに、ご自身の行為が役立ったと気づいた方は、今どんなお気持ちですか?」その瞬間、誰もが笑顔になります。
どこへ行っても同じことが起きます。
たいていの人間にとって、他者に与えることは喜びなのです。
自分には人生を豊かにする力があり、いのちに貢献できる、と気づくのは気持ちがいいものです。
先ほどの問いのあとに、わたしはよくこんな質問を投げかけ
ます。
「先ほど思い浮かべたような行為に力を注ぐよりも、人生がもっと豊かになる方法を思いつく方はいらっしゃいますか?」わたしは地球上のあらゆる場所でこの質問を投げかけていますが、どの人も意見は同じようです。
つまり、互いの幸福に貢献し、いのちに貢献するために力を注ぐことほど、すばらしく、気分よく感じることができて、喜ばしいものはない、というのです。
でも、ほんとうにそうだとすれば、なぜ暴力が蔓延しているのでしょうか。
わたしは、「暴力が蔓延している原因は、わたしたちの本質ではなく、わたしたちの受けた教育にある」と考えています。
神学者ウォルター・ウィンクは、文明の幕開け以来(少なくとも8000年前から)人々は暴力を楽しむように教育されてきた、と言います。
わたしも同感です。
そうした教育が、思いやりに満ちているはずの本来の性質から、わたしたちを切り離しているのです。
では、なぜわたしたちはそのように教育されてきたのでしょうか。
理由は単純ではありません。
ここでは詳しく論じませんが、ただ、はるか昔から神話とともに始まった、とだけ言っておきましょう。
その神話は、人間を基本的に邪悪で身勝手な存在と見なし、悪の勢力を粉砕する英雄的な勢力のあり方が善い生き方である、と見なしています。
わたしたちは長い間、そうした破壊的な神話のもとで生きてきたのです。
その物語に不可欠なのが、人間から人間性を奪い、モノとして扱ってしまう言語なのです。
わたしたちは、他者を道徳的な判断・決めつけで捉えるように教育を受けています。
意識のなかに、「正しい」「間違っている」「よい」「悪い」「利己的」「利他的」「テロリスト」「正義の味方」といった言葉が染みついているのです。
しかも、そうした決めつけは、自分が何に「値するか」という正義の概念とつながっています。
悪いことをした人は罰を受けるのに値する、よいことをした人は報酬を得るのに値する、という具合に。
残念ながら、あまりにも長い間、わたしたちはこうした意識のもとに、つまり不完全な教育の支配下に置かれてきました。
それが、この星に蔓延する暴力の核心だとわたしは考えています。
それとは対照的に、NVCは、わたしたちを人間本来の姿に近づけるための思考、言語、コミュニケーションを1つに統合したものです。
NVCは、互いの幸福のために貢献するという、本当に楽しい生き方へとわたしたちが回帰できるように、互いにつながりをつくるための手助けをしてくれます。
本書では、そのプロセスを自分の内面、人間関係、社会の変化を目指す活動に応用する方法をお伝えしていきますが、読者の学びを深め、さらには読みながら実践していけるように、随所にエクササイズを用意しました。
手始めに、あなたが今、実際に直面している状況を1つ思い浮かべてください。
あなたの人生をすばらしいものにしない行動を誰かがとっている、という状況です。
小さな苛立ち程度から、その人の振る舞いをひどく悩ましく思っている場合まで幅広くあるでしょう。
ともかく、現実にあなたの身に起きていることに、注目してください。
そのうえでこの本を読み進めれば、あなたの今の状況下で相手とのつながりをつくり出すうえで、NVCがいかに役立つかがわかるでしょう。
そのつながりとは、関係者全員のニーズが最終的に満たされ、当事者すべてが、互いの人生を豊かにすることだけを目的に行動するようなつながりです。
もちろん、あなた自身のニーズを満たすことも含まれます。
したがって、具体的な人物を思い浮かべたうえで、NVCがどんなふうに役立つかを見ていきましょう。
わたしは世界各地でワークショップを開いていますが、どこへ行っても、2~3歳の子どもに手を焼いているという親が1人は参加しているようです。
では、子どものどんな振る舞いで、親が逆上してしまうのでしょうか?それは、親が子どもに何かをさせようとすると、子どもが「やだ」のような恐ろしい言葉をぶつけることです。
「おもちゃをおもちゃ箱に戻してちょうだい」「やだ」別の例では、「あなたがそういうことをすると、わたしは傷つく」というような恐ろしい言葉を同居するパートナーが投げかけてくる、という人もいます。
そうかと思えば、はるかに深刻な問題を抱えた参加者もいて、そういう人たちはNVCの実践方法を切実に知りたがっています。
たとえば、ルワンダのような場所では、人々はこんなことを尋ねてきます。
「隣人とどう付き合えばいいんですか。
わたしの家族を殺した人間ですよ?」
エクササイズNVCプロセスを実践的に理解したい人は、本書のあちこちに用意されたエクササイズをやってみましょう。
各エクササイズは、その1つ前のエクササイズを発展させた内容になっています。
エクササイズの効果を引き出すために、まず、特定の誰かとのやりとりを思い浮かべることから始めてください。
その人との会話は、あなたの期待どおりには進んでおらず、その状況に対処するためにあなたは平和のことばを学びたいと思っています。
ぱっと頭に浮かんできた状況が、重要なことでも、ささいなことでもかまいません。
紙に書き出すか、心にしっかり留めておきましょう。
相手のどんな行動があなたの人生をすばらしいものにしていないのか、具体的なことを1つ挙げましょう。
それは、相手が何かをすることかもしれないし、何かをしないことかもしれません。
何かを言うことかもしれないし、何かを言わないことかもしれません。
自分が気に入らない相手の振る舞いを書き留めたら、それを念頭に置きながら、相手とのコミュニケーションにNVCをどう応用するかについて、最後まで読み進めてみてください。
2つの問い世のなかが何を必要としているかを自分に問うてはいけない。
自分を生き生きとさせるものは何かを問おう。
そして、そのことをひたすら追求するのだ。
世界は生き生きとした人を求めているのだから。
──ハワード・サーマン(公民権活動家)NVC(非暴力コミュニケーション)は、つねに、2つの重要な問いにわたしたちの注意を向けさせます。
第1の問いは、「今この瞬間に、わたしたちの内面で何が息づいている・生き生きしているか(What’saliveinus?)」(関連する問いは「自分の内面で何が息づいているか[What’saliveinme?]」「あなたの内面で何が息づいているか[What’saliveinyou?]」)です。
世界のどこであれ、人と人が出会うとき、誰もがこの問いを発します。
そっくり同じ言い方とはかぎりません。
たとえば英語では、よく「Howareyou?(お元気ですか?)(§)」などと表現します。
もちろん、言語によって言い方は異なるでしょうが、これはきわめて重要な問いかけです。
それは社交辞令と言うかもしれませんが、それでも重要な問いかけです。
なぜなら、もしわたしたちが、平和と調和のうちに生きようとし、互いの幸福(wellbeing)に貢献することに喜びを感じようとするなら、今この瞬間に、お互いのなかで何が息づいているかを知る必要があるからです。
悲しいことに、たいていの人はこの問いかけ自体はできるものの、うまく答えるすべを知っている人は多くはいません。
いのちの言葉(languageoflife)を習っていないからです。
わたしたちは、このような問いに答える方法を教わっていないのです。
問いかけることはできても、答え方を知らないのです。
これから本書で見ていくように、NVCが提案するのは、自分の内面で何が息づいているかを相手に知らせる方法です。
たとえ、本人がそれを表現できる言葉を持っていなかったとしても、相手の中で息づいているものとつながる方法をお伝えします。
だから、NVCでは、この第1の問いに注意を向けるように促しているのです。
第2の問いは、第1の問いとつながっていますが、「人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?(Whatcanwedotomakelifemorewonderful?)」(関連する問いは「わたしにとって人生をよりすばらしいものにするために、あなたに何ができるのか?[Whatcanyoudotomakelifemorewonderfulforme?]」「あなたにとって人生をよりすばらしいものにするために、わたしに何ができるのか?[WhatcanIdotomakelifemorewonderfulforyou?]」)です。
というわけで、以下の2つの問いがNVCの基本となります。
「今この瞬間に、わたしたちの内面で何が息づいている・生き生きしているか?」「人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?」さて、NVCを学ぶほとんどの人が、NVCに対する2つの印象を述べます。
1つ目は、NVCは何て簡単でシンプルなのか、ということです。
実践すべきことは、コミュニケーションの重点や、注意の焦点や、意識を向ける方向を、「わたしたちの内面で何が息づいているか」と「人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?」に置き続けることだけなのです。
なんてシンプルなんでしょう。
そして彼らが2番目に言うのは、これがいかに難しいか、ということです。
はたして、とてもシンプルでとても難しいことが同時に存在しうるでしょうか?その答えのヒントを、わたしはすでに示しています。
つまり、NVCが難しいのは、わたしたちがまったく違う思考法とコミュニケーション方法をプログラムされてきたからです。
わたしたちは、自分の内側で何が息づいているかを考えるように教わっていないのです。
少数の人間が大多数を支配する構造に適応するための教育を受けてきたということは、すなわちわたしたちは、他者──とくに権力を持っている人たち──にどう思われるかを優先的に考えるように教育を受けてきた、ということです。
なぜなら、もし彼らが「悪い」「間違っている」「能力がない」「愚かだ」「怠けている」「わがまま」と決めつければ、わたしたちは罰せられるし、もし彼らが「いい子」「いい生徒」「いい社員」というレッテルを貼れば、わたしたちは報酬がもらえるかもしれないからです。
わたしたちは「自分の内面で何が息づいているか」や「何が人生をよりすばらしくするか」を考えるのではなく、報酬と罰という観点から考えるように教育されてきたのです。
さて、ここで「はじめに」のエクササイズで考えた状況を思い出してください。
誰かがあなたの気に入らない行動をとった状況です。
そういう状況で、NVCでは、相手の行動に対して自分の内面で何が息づいているかを、どのように相手に知らせるのでしょうか。
NVCでは、正直であることを大切にしています。
ただし、間違い、批判、中傷、決めつけ、心理学的な診断をほのめかすような言葉を使わずに、正直でありたいのです。
§ Howareyou?:字義通りに訳せば「あなたはどうですか?」。
「自分の内面で何が息づいているか」を表現する観察ただ見るだけで、たくさん観察できるものだよ。
──ヨギ・ベラ(野球選手)「自分の内面で何が息づいているか(What’saliveinus?)」を伝えるには、そのためのリテラシー、つまり自分の内面を把握して言語化する力が必要です。
その第一歩は、「はじめに」のエクササイズで投げかけた問いに、いかなる評価も交えずに答えることです。
そこでは「誰かの行動で、あなたにとって気に入らない体験だったこと」を具体的に思い浮かべていただきました。
わたしはそれを「観察」と呼んでいます。
相手の行動の何を好ましく思い、何を好ましく思わないのでしょうか。
この情報を相手に伝えることはとても重要です。
つまり、「自分の内側で何が息づいているか」を相手に伝えるためには、相手の行動の何が自分のいのちに役立ち、何が役立っていないのかを伝える能力が必要なのです。
ただし、いっさいの評価を交えない伝え方を学ぶことが必要です。
そこがきわめて重要なのです。
たとえば、先日わたしが相談にのった女性は、10代の娘のことで悩んでいました。
わたしはこう尋ねました。
「あなたがおっしゃっている、お嬢さんがしなかったことは何ですか?」すると彼女はこう答えました。
「あの子は怠け者なんですよ」わたしの問いと彼女の答えが離れていることが、わかるでしょうか?わたしは彼女の娘さんが何を「する(しない)」か、と尋ねました。
それに対して、彼女は、自分の娘が何者で「ある」と思ったか、を答えたのです。
わたしは彼女にこう伝えました。
人にレッテルを貼る、つまり「怠け者」と診断すると、まさにそのせいで診断が現実になってしまいますよ、と。
相手が間違っていることを示唆するような言葉づかいは、「何が息づいているか」の表現としては、悲劇的な自殺行為です。
なぜなら、そのような言葉づかいをすると、相手はこちらの幸福によろこんで貢献しようとは思わないからです。
むしろ、相手から自己防衛や反撃のような反応を引き出しやすくなるのです。
この教訓をはじめて学んだとき、わたしは愕然としました。
なぜなら、自分の頭のなかが道徳的な判断や決めつけであふれかえっていることに気づいたからです。
長年わたしが受けてきた教育は、道徳的な判断で考えることを要求するものでした。
すでに述べたとおり、そのような教育の背景には、わたしたちが背負わされてきた人間観があります。
つまり、人間は基本的に利己的で邪悪であるとする理論です。
だから、人が自分のした行為について自分を嫌悪するように仕向ける教育プロセスが主流を占めているわけです。
つまり考え方としては、「自分がどれほどひどい人間であるか」を本人に知らしめなければならない。
そうすれば、その人は悔い改めて間違いを正すだろう、というのです!わたしが子どもの頃からずっとデトロイトで教わってきた言葉づかいは、まさにそれでした。
車の運転中に、こちらの気に食わない運転をしている人を見かけると、わたしは、その人を教育してやろうという気持ちになって、車の窓を開けて「ばかやろう!」などと怒鳴りつけていたことでしょう。
そういう表現の裏側にはこんな理論があります。
つまり、こちらが怒鳴れば、当然のように相手は悔い改めて、「申し訳ありません。
わたしが悪かったんです。
わたしのやり方は間違っていました」と言うであろう、と。
立派な理論ですが、そのとおりになったためしがありません。
わたしは、そのような言語はデトロイト育ちのせいで身につけた特有の方言なのだろうと思っていました。
ところがその後、心理学の博士号を取得する頃には、もっとインテリらしい侮蔑表現を身につけていました。
気に食わない運転をする人を見つけるなり、窓を開けてこう怒鳴るのです。
「社会病質者め!」もちろん、そんなことをしても、問題はやはり解決されません。
「あなたのここが間違っている」と相手に伝えることは悲劇的な自殺行為であるばかりでなく、効果的でもありません。
わたしは、相手の行動の何が気に入らないのかを伝えたいなら、こういった決めつけを入り込ませないようにしたいと考えています。
決めつけを挟まずに、その人の行動そのものを直接伝えられるようにしたいのです。
あるときわたしは、校長と対立していると訴えてきた教師たちに尋ねました。
「校長の行動の何が気に入らないのでしょうか?」1人がこう答えました。
「あの人は口がでかいんですよ(§)」「いえ、わたしは、校長先生の口のサイズを尋ねているんじゃありません。
校長が何をしているかを聞いているんです」すると別の1人が答えました。
「要するに、おしゃべりがすぎるんですよ」「『すぎる』というのも、1つの診断です」とわたし。
また別の教師が答えました。
「校長は自分だけが知性を備えた人間だと思っているんです」「校長がどう思っているのかに関するあなたの考えも、評価の1つなのです。
わたしは彼が何をするのか、と尋ねているんです」わたしの手助けで、最終的に教師たちは、診断を交えずに行動を定義するとはどういうことかを明確に理解してくれたのですが、そこに至るまではずっと、「ああ、難しい。
頭に浮かんでくるのは、どれも診断だったり、決めつけだったりする」と言い続けていました。
わたしはこう伝えました。
「そうなんです。
意識のなかからそれらを一掃するのは、簡単なことではありません」実際、インドの哲学者、ジッドゥ・クリシュナムルティの言葉を借りるなら、評価を交えずに観察する能力は、人間の知性の最高のあり方なのです。
教師たちは最終的にいくつかの行動をリストアップしました。
リストの1番目は、「職員会議で、どんな議題のときでも、校長が自分の経験や子ども時代に結びつけて話をする」と書かれていました。
その結果、職員会議はたいてい予定よりも長引くのだと言います。
なるほど、それなら、「校長は何をするのか」というわたしの問いへの答えになります。
つまり、評価を交えない、明確な観察にもとづいた情報です。
わたしは教師たちに尋ねました。
「皆さんを悩ませているという、その具体的な行動を校長本人に伝えた方はいますか?」すると教師の1人が答えました。
「まあ、今から思えば、わたしたちのコミュニケーションのとり方はある種の決めつけでしたね。
それに、具体的な行動を指摘したわけでもありません。
校長が身構えるのも当然です」つまり、自分の内面で何が息づいているかを相手に伝えるための第1のステップとは、自分が快く思っている、もしくは思っていない言動を、その本人に対して、明確かつ具体的に伝えることなのです。
§ 口がでかい:英語の慣用句「Hehasabigmouth」で、「よくしゃべる」という意味を含んでいる。
エクササイズ「はじめに」のエクササイズで書いたものに注目してください。
そこには何らかの評価が混在していないでしょうか。
もし混在しているなら、表現し直すことはできますか?あなたが直接伝えたいと思っている、相手の行動そのものについて、できるだけ具体的に言い表してみましょう。
相手の行動の観察内容を頭に描くことができたあと、NVCを実践するときに大切なのは、相手に正直に伝えることです。
ただし、その正直さとは、相手のどこが間違っているかを伝えることではありません。
求められるのは、相手の間違いをほのめかすような正直さではなく、心からの正直さなのです。
感情わたしたちの感情は、知へと至る最も誠実な道である。
──オードリー・ロード(公民権運動家)NVCでは、自分の心の中に目を向け、「相手の振る舞いを見たときに、自分の内面で何が息づいているか」を話したいのです。
そのためには、さらに2種類の情報を表現するためのリテラシーが必要になります。
「感情のリテラシー」と「ニーズのリテラシー」です。
ある瞬間に自分の内面で何が息づいているかをはっきり言葉にするためには、自分の感情とニーズ(大切なこと・必要・欲求)を明確にする必要があるのです。
まずは、感情から見ていきましょう。
想像してください。
あなたは相手のところへ行って、正直に話すことにしました。
その際、あなたが何を感じているかを伝えることからはじめましょう。
(先ほどのエクササイズで)あなたが思い浮かべている行動を相手がとるとき、自分がどんな感情を抱くかを書き出してみてください。
相手がその行動をとると、どんな気持ちになりますか?あるとき、わたしが教えに行っていた大学で、1人の学生がルームメイトの行動に悩んでいました。
わたしは彼にこう尋ねました。
「そのルームメイトのどんな行動が気に入らないのかい?」「こっちが寝ようとしているのに、あいつは夜遅くにラジオを聞くんですよ」「なるほど。
きみが感じていることを、彼に伝えてみよう。
彼がその行動をとったときに君はどう感じているんだろう?」「そんな行動は間違っていると感じています」「なるほど。
『感じる』という言葉の意味を、わたしは明確にしていなかったようだ。
『間違っている』という表現は、相手への決めつけだとわたしは考えている。
わたしが尋ねているのは、きみがどう感じているかなんだ」「えっと、『感じています』と言いましたよ」「たしかに、きみは『感じる』という動詞を使ったけど、そのあとに続く言葉は、必ずしも感情を表してはいない。
きみはどんな感情を抱いているんだろうか。
どんなふうに感じているんだろう」学生はしばらく考えたあと、口を開いた。
「えーと、人が他人に対して無神経なことをする場合、それはパーソナリティ障害の証拠だと思います」「いやいや、ちょっと待ってくれ。
きみはまだ頭の中で、相手の間違いを分析しようとしている。
自分のハートの内側に注意を向けて、彼がその行為をするとき、きみがどう感じているか教えてくれないか?」彼は一生懸命、自分の感情と向き合おうとしていましたが、やがて、こう言いました。
「あの、とくに何も感じていません」「そうじゃないことを願っているよ」「どうしてですか?」「何も感じなければ、きみは死んでいるってことだから」人間なら、どんな瞬間でも何かを感じています。
問題は、わたしたちが「自分の内面で何が息づいているか」を意識するように教育されていないことです。
内面よりも外界に意識を向け、自分が権力者にどう思われるかを気にするように訓練されてきたのです。
そこでわたしは、学生にこう尋ねてみました。
「ちょっと自分の身体に耳を傾けてごらん。
夜中にルームメイトがラジオを聞いていると、きみは何を感じるだろうか」自分の内面を真剣に見つめていた学生は、やがて、顔をぱっと輝かせました。
「ああ、やっとわかった」「どんな感じ?」「マジでムカつく」「オーケー、それでいい。
ほかの言い方はあるけど、まあ、いいだろう」学生の隣にはある大学教職員の妻が座っていたのですが、そのときわたしは、彼女が少々困惑しているのに気がつきました。
学生の顔を見ると、彼女は言いました。
「鬱憤が溜まる、ってことですか?」感情を表現する方法はさまざまで、その人が育った文化によっても異なりますが、感情表現の語彙を身につけることは重要です。
その語彙とは、自分のなかで息づいているものを端的に示すような言葉であって、決して他者を解釈する言葉ではありません。
そういうわけで「わたしは誤解されているように感じる」というような表現は避けたいのです。
これは感情の表現というよりも、相手が自分を理解しているかどうかを分析した結果を表現したものです。
もし自分が誰かに誤解されていると思えば、「怒る」とか「失望する」とか、いろいろな感情が湧くでしょう。
先ほどの表現と同様に避けたいのが、「わたしは操られているように感じる」や「わたしは批判されているように感じる」のようなフレーズです(§)。
NVCでは、その種のフレーズを感情とは呼びません。
残念ながら、多くの人は感情表現の語彙が豊かではありません。
そして、そうした語彙不足の代償を、わたしはたびたび目の当たりにしてきました。
感情表現の語彙一覧に興味がある方は、拙著『NVC──人と人との関係にいのちを吹き込む法(§)』の第4章「感情を見極め、表現する」をご覧ください。
わたしはつぎのような話をしょっちゅう聞きます。
あるワークショップでは、1人の女性参加者が近寄ってきて、こんなことを言いました。
「マーシャルさん、誤解のないように言っておきますけど、わたしの主人はとてもすばらしい人なんですよ……」このあとどんな言葉が続くかは、容易に想像できるでしょう。
「でもね、あの人の気持ちがさっぱりわからないんです」そして、こんな話もあります。
「長年、自分の親と暮らしているのに、親の気持ちがわかったためしがない」なんと悲しいことでしょう。
誰かと暮らしていながら、その人の胸の内を知りえないとは。
では、自分の書いたものをもう一度見てみましょう。
あなたの内側で息づいていることや、あなたの感情が、ほんとうに表現されているでしょうか。
他者に対する診断や、他者を「こうだと思う」という思考にならないように気をつけましょう。
自分の心で感じてください。
他者の行動に対して、あなたはどんな気持ちになりますか。
自分の気持ちの原因が相手の行動にあると示唆すると、その感情表現は破壊的なものになりえます。
しかし、わたしたちの感情の原因は他者の行動にあるのではなく、わたしたち自身のニーズにあるのです。
あなたが書いた他者の行動の観察は、あなたの感情を引き出す「刺激」であって、「原因」ではないのです。
たいていの人が、子どものときはそれを知っていたはずなのに、忘れてしまったようです。
わたしが6歳の頃、誰かに悪口を言われた子どもは、こう口ずさんだものです。
「棒や石なら骨も折れるけど、言葉じゃ僕は傷つかない」。
あの頃は誰もが知っていました。
人は他人の行為によって傷つくのではなく、自分の受け取り方によって傷つくのだ、ということを。
残念ながら、わたしたちは権威者──教師や親など──によって、罪悪感を引き起こすような教育を受けてきました。
そういう人たちは、思いどおりにわたしたちを動かすために罪悪感を利用しました。
たとえばこんなふうに感情を表現して。
「あなたが自分の部屋を片付けないから、わたしは傷つくの」「弟を殴って、わたしを怒らせるな」自分の感情の責任をこちらに押しつけて、罪悪感を抱かせようという人々に、わたしたちは教育されてきました。
たしかに感情は重要なものです。
しかし、わたしたちは前述のような使い方をしたくありません。
つまり、罪悪感を植えつけるような形で感情を使いたくないのです。
自分の感情を表現するときは、その感情の原因が自分のニーズにあることを明確にするような言葉を添えることが、きわめて重要なのです。
§ 感情の表現:「~~のように感じる」という表現には、感情が含まれていることもあれば、他者の行動に対する解釈が含まれていることもある。
NVCで感情を扱うとき、「自分自身の純粋な体験や感覚」を大切にしたいという考え方のもと、他者の行動に対する解釈がなるべく入ってこないような表現を探っていくと役に立つ。
こちらのリストや前著『NVC──人と人との関係にいのちを吹き込む法』(日本経済新聞出版社)などを参照。
§『──』、、
エクササイズ他者がとった行動に関して、こんなエクササイズをやってみましょう。
その出来事をめぐる自分の感情を見きわめたら、文章にします。
「あなたがそういう行動をとるとき、わたしはと感じる」相手がその行動をとったときの自分の感情を言葉にして、空欄に入れてください。
ニーズ人間のニーズを理解すれば、それを満たす仕事は半分終わったようなものだ。
──アドライ・スティーヴンソン(政治家)自分の内面で何が息づいているかを表現するために必要となる、第3の要素を見てみましょう。
それはニーズ(§)です。
多くの人は、決めつけを交えずに観察や感情を表現するリテラシーの獲得に苦労しますが、同じく、ニーズのリテラシーを身につけることにも苦心します。
なぜなら、ニーズをネガティブなものに結びつけがちだからです。
たとえば、ニーズを表明する行為を、「求めすぎている」「依存している」「わがままである」のように捉えるのです。
わたしが思うに、これもまた、支配構造にわたしたちをうまく適応させるために教育されてきた歴史によるものです。
そうした教育のもとでは、権威に対しておとなしくて従順な人間ができあがります。
支配構造についてはのちほど詳しく見ていきますが、ここでは「他者に対する組織的なコントロール」と考えておいてください。
ほとんどの政府、学校、企業──多くの家庭でさえも──支配構造として動いています。
支配構造では、自分のニーズを自覚している人は、都合が悪い存在です。
従順な奴隷にならないからです。
わたしは学校に21年間も通いましたが、自分のニーズが何かを問われたことは一度もありません。
わたしが受けた教育は、わたしがもっと生き生きとなることや、自分自身や他者とつながれるようになることは、重視していませんでした。
権威者が正しいと見なすような答えを返したら褒美を与える、ということに焦点を当てた教育だったのです。
今まで、自分のニーズをどんな言葉で表現していたか、振り返ってみてください。
大事なことは、ニーズとその次の要素を混同しないことです。
最近、わたしのワークショップに来た1人の女性は、娘が部屋を片付けないことに腹を立てていました。
そこでわたしは尋ねました。
「今のその状況で、あなたのどんなニーズが満たされていないんでしょうか?」女性の答えはこうでした。
「それは明らかでしょう。
わたしはあの子に部屋をきれいにしてほしいニーズがあるんです」「ちょっと待った。
それはニーズの次の要素、『リクエスト(お願い)』です。
わたしが尋ねているのは、あなたにどんなニーズがあるかなんです」彼女はそれに答えられませんでした。
自分の内面に目を向けてニーズを見る方法を知らなかったのです。
この母親も、娘がいかに間違っているかを診断するための言葉は持ち合わせていました。
「あの子は怠け者だ」です。
娘にこうしてほしいということはわかっていても、自分自身のニーズとなると、見つけ方がわからないのです。
これは残念なことです。
なぜなら、人は誰かのニーズが見えたときにこそ、「相手に与える喜び」が湧き上がるからです。
わたしたちはみな、ニーズに共鳴できます。
基本的なニーズは、すべての人に共通しているのです。
ニーズのレベルで人と人がつながるとき、それまで解決不能に思われた対立でさえも、驚くほど解決可能なものに変わり始めます。
ニーズのレベルでは、互いの人間性を見ることができるのです。
わたしは対立関係にある多くの人々と関わってきました。
夫婦であれ、親子であれ、集団と集団であれ、多くの人が、自分たちの対立は解決できないと思っています。
わたしは長年にわたって紛争解決やミディエーション(調停・仲裁)の仕事に取り組んできました。
人々がお互いを診断し合う状況を乗り越えて、ニーズのレベルで互いの内面につながるような支援ができたとき、いつも驚くべき変化が起こるのです。
それが始まれば、対立はほとんど自ずから解決するかのように動き出すのです。
本章をまとめると「自分の内面で何が息づいているか」を表現するためには、次の3つの要素が必要なのです(詳しくは、巻末の「私たちが持つ基本的な感情とニーズ」をご覧ください)。
自分が観察していること 自分がいだいている感情 その感情とつながっているニーズ§ ニーズ:マーシャルはNVCにおけるニーズについて、自分のいのちが続くために必要なものと述べている。
体が食べ物や水を必要とするように、内面の幸福にとっても「理解」「サポート」「正直さ」などが大切であり、ニーズと呼んでいる。
こうした根源的なニーズは、国や宗教や文化を超えて普遍的なものである。
また、次のエクササイズのように「~~を必要としている/大切にしている」とニーズを表現するが、ここにはニーズを実現するための「手段」も入りやすいので、ニーズと手段を区別すると役に立つ。
エクササイズ次の空白を埋めるような表現を書いてみてください。
これは、これまでのエクササイズで明らかにしてきた、相手の言動とそれについて自分がどう感じるかと関連しています。
自分のどんなニーズがその感情を生じさせているのかを見つけたら、こんなふうに書きます。
「わたしが今のように感じているのは、を必要としている/大切にしているから」相手の行動によって満たされていない、あなたのニーズを言葉にしてください。
人生をよりすばらしいものにするには?リクエスト(要求・お願い)受け取りたかったら、「お願い」しなきゃ始まらない。
ティースプーンを片手に、海に行かないように。
子どもたちに笑われないよう、少なくともバケツくらいは持って行こう。
──ジム・ローン(起業家)さて、もう1つの基本的な問い「人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?」に移りましょう。
第2章のエクササイズでは、特定の人物の行動に関して、自分が何を感じ、どんなニーズが満たされていないかを書き出してもらいました。
第2の基本的な問い「人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?」への答えは、次のステップである「具体的で明確なリクエスト」から浮かび上がってきます。
人生をよりよいものにするために、相手に何をしてほしいのかをリクエストするのです。
NVCでは、「行動を促す肯定形の言葉」でリクエストすることを提案します。
つまり、相手に伝える際は、「してほしくないこと」「するのをやめてほしいこと」ではなくて、「してほしいこと」として肯定形の言葉を使う、という意味です。
相手に何か行動を「する」ことをリクエストするのです。
「何を求めていないか」を伝える代わりに、「何を求めているか」を明確に伝えると、相手とたどりつく場所が違ってきます。
最近ワークショップに参加した、1人の教師がその好例でしょう。
彼女はこんなことを話してくれました。
「マーシャル、あなたのおかげで、昨日わたしに何が起こったのか、理解できました」「それはなんですか?」「授業中、教科書を指先で叩いている男子生徒がいて、わたしが『教科書をコツコツ叩くの、やめてくれない?』と言うと、今度は机を叩き始めたんですよ」もう、おわかりでしょう。
相手にしてほしくないことを告げるのと、相手にしてほしいことを告げるのとでは、大きな違いがあるのです。
相手に何かをやめさせるのを目的とした場合、懲罰は効果的な手段に思えるかもしれません。
けれども、これから述べる2つの問いについて、自分自身で考えてみれば、二度と懲罰を使おうとはしなくなるでしょう。
子どもに罰を与えるのをやめるでしょうし、犯罪者をその行為について罰しない司法制度(更生システム)をつくろうとするでしょう。
また、自分たちの国に何かをしたからといって相手国家を罰するようなこともなくなります。
懲罰というのは勝ち目のないゲームです。
そのことは、次の2つの問いを投げかければ、わかるでしょう。
1つ目の問いは「自分は相手に何をしてほしいのか」。
そう、相手に何をしてほしくないかを聞いているのではありません。
相手に何をしてほしいかです。
でも、この問いだけでは、まだ、懲罰が有効に思えるかもしれません。
懲罰を使って相手に思いどおりのことをさせた経験に覚えのある人もいるでしょう。
でも、そこにもう1つの問いを追加すれば、懲罰は決して有効な手段ではなくなってくるのです。
では、2つ目の問いとは何でしょう?それは「自分の望むことを相手がするなら、その理由はどのようなものであってほしいのか」です。
すでに述べたとおり、NVCの目的は、思いやりの心をもってお互いに与え合えるような質のつながりを生むことです。
つまり、懲罰を恐れるからでもなく、報酬を期待するからでもなく、互いの幸福に貢献したときに感じる自然な喜びから、与え合うことができるのです。
ですから、リクエストをするときは、相手に何をしてほしいかという肯定形の言葉でお願いをします。
第2章で取り上げた、娘に部屋をきれいにしてほしいと思っている母親の例を思い出してください。
わたしはその女性にこう伝えました。
「それはニーズでもなければ、明確なリクエストでもありません。
まずニーズをはっきりさせましょう。
その次に、どうしたらリクエストをより明確にできるかを探っていきましょう。
お嬢さんが自分の部屋を今のような状態にしていると、あなたのどんなニーズが満たされないのでしょうか?」女性は言いました。
「わたしは、家族が家族であるためには、それぞれが貢献しなければならないと思うんですよ」「ちょっと待って。
ストップ、ストップ。
『こうしなければならない』などの自分の考えを話すのは、ニーズをゆがめた表現です。
お嬢さんにあなたのリクエストの中にある美しさを感じてほしければ、まずは彼女に『お願いされたことをすれば、こんなふうに人生はもっとすばらしくなりそうだ』と感じてもらう必要があります。
では、あなたのニーズは何ですか?あなたが必要としている何が満たされていないのでしょうか?」「わかりません」彼女の答えに、わたしは驚きませんでした。
わたしがやりとりした女性たちの多くは、「愛情深い女ならニーズを抱くなどもってのほか」と子どもの頃から教え込まれています。
彼女たちは家族のために自分のニーズを犠牲にしているのです。
それと同様に、男性たちも「勇敢な男子たるものニーズなど持ってはならぬ」と教わってきました。
ともすれば、相手が国王だろうと、政府だろうと、誰だろうと自分の命を喜んで捧げようとするでしょう。
だからわたしたちは、ニーズを表現する語彙に乏しいのです。
自分のニーズがわからずに、どうして明確なリクエストができるでしょう。
わたしの手助けで、ようやくその母親は自分のニーズをはっきりさせることができました。
しかも、ニーズは1つだけではありませんでした。
まず明らかになったのは、「秩序(整っていること)」と「美(きれいになっていること)」へのニーズです。
なるほど、それだけなら、彼女が自分で満たすこともできるでしょう。
ところが、彼女にはもう1つ「何かしらのサポートがほしい」というニーズがありました。
彼女が望むような秩序と美をつくり出すには、他者の協力が必要でした。
そういうわけで彼女は、この問題には自分の中にある2つのニーズが関わっていることに気づいたのです。
「秩序」と「美」に対するニーズと、そのニーズを満たすための「サポート」というニーズです。
そこでわたしは彼女にこう促しました。
「なるほど。
ではつぎに、あなたのリクエストについて考えてみましょう。
そして、行動を促す肯定形の言葉で表現するんです。
お嬢さんにどう行動してほしいかを言葉にしてみましょう」母親はこう答えました。
「ええ、さっきお話ししましたよね。
わたしはあの子に自分の部屋をきれいにしてほしいって」
「惜しい、もう一息。
行動を促す言葉を使う必要があります。
『きれいに』はあいまいすぎます。
こちらのリクエストを伝えるためには、具体的な行動を示しましょう」そこで、この母親が最終的にたどりついたのは、「ベッドメイキングをしてほしい」「洗濯物は(床に放置しないで)洗濯機に入れてほしい」「自室に持ちこんだ食器はキッチンに戻してほしい」という表現でした。
これなら明確なリクエストになります。
さて、このように明確なリクエストを提示したあとには、それが強要と受け取られないように気を配る必要があります。
すでに述べたとおり、「批判」という、相手の誤りをほのめかすようなやりとりは、こちら側のニーズを満たさないコミュニケーションになってしまうでしょう。
そして「強要」は、人間関係に破壊的な結果をもたらすもう1つのコミュニケーションなのです。
エクササイズここまでのエクササイズで行った、以下の3つの事柄を相手に伝える状況を想像してみましょう。
最初に、その人との間に起きたことの観察を、評価を交えずに伝える。
次に、起きたことに関して自分が何を感じているかを、非難や批判抜きで表現する。
そして、その状況での自分のニーズを、相手や具体的な手段には触れずに表現する。
その後に、相手に何をリクエストしたいかを文章にしてみましょう。
「をしてもらえませんか」あなたの人生をよりすばらしいものにするために、相手に何をしてほしいでしょうか。
リクエストVS強要「お願い」しよう!わたしが思うに、人生に成功と幸福をもたらす秘訣のなかで、「お願い」は最も効果的でありながら、最も見過ごされているものだ。
──パーシー・ロス(資産家)リクエストは、「自分が望むこと」を明確に伝えるようなものにしましょう。
その際、相手には、それが「お願い」であって「強要」ではないことをわかってもらうのが望ましいでしょう。
でも、この2つはどう違うのでしょうか。
まず、口調の丁寧さだけでは区別がつきません。
たとえば、一緒に暮らしている人に「脱いだ服はハンガーに掛けておいてほしい」と言うとしたら、それはリクエストでしょうか、強要でしょうか?これだけではまだわかりません。
口調の優しさや内容の明確さだけでは、リクエストと強要の区別はつきません。
決め手になるのは、相手がこちらのリクエストに応じてくれないときに、その人とどう接するかということです。
その接し方次第で、こちらの示したものは、リクエストにも強要にもなるのです。
では、人が強要されていると解釈してしまったとき、どんなことが起きるでしょうか?リクエストを強要として受け止めたとき、ものすごくわかりやすい反応を示す人たちがいます。
あるとき、わたしは末の息子にこんなふうにリクエストしました。
「脱いだコートはクローゼットに掛けてくれるかい?」すると息子の答えは「ぼくが生まれる前は誰を奴隷にしてたの?」でした。
なるほど、こういうタイプの人は相手にしやすいと言えばしやすいでしょう。
こちらのリクエストを強要と受け取ったことが、すぐにわかりますから。
一方、リクエストを強要と受け取りながら、まったく異なる反応を示す人がいます。
そういう人は「わかりました」と言って、実際にはやらないかもしれません。
いや、最悪なのは、「わかりました」と言って、実際にやる場合です。
言われたことを強要として解釈し、そのとおりにやらなかったらどうなるかを恐れて、しかたなく応じるのです。
もうひとつ、この強要の問題に関する事例を見てみましょう。
わたしがニューヨーク市のある病院にコンサルタントとして迎えられたときのことです。
その病院は看護師たちに重要な消毒手順を徹底してほしいと望んでいました。
その手順を守らなければ、患者の命が失われる可能性があるとさえ、看護師長は訴えます。
「ところが、わたしたちの調査では、一定の割合で徹底されていないという数字が出ています。
看護師たちには、もう何度も何度も守ってくれと言ってきたんですよ。
守らないのはプロ意識に欠けることだ、って伝えてはいるんですが」なぜ徹底されないのか、わたしには察しがつきましたし、それが当たっていることはすぐに確認できました。
翌日、当の看護師たちと顔を合わせたからです。
「昨日うかがったんですが、所定の消毒手順が守られていないときがあるそうですね。
ご自分たちでもお気づきですか?」看護師の1人が答えました。
「気づいているかですって?毎週、言われてますよ」「なるほど、皆さん、よくわかっていると……」「はい」「この消毒手順の目的はご存じですね?」「もちろん。
消毒手順を守らないと、人が亡くなる場合がありますから」やはり、看護師たちは何を求められているかを知っていたのです。
そして、守らないとどうなるのかも。
だから、わたしが次に何を尋ねるべきかも明らかでした。
「何が消毒手順の徹底を妨げているのか教えていただけますか?」わたしにとってお馴染みの反応が返ってきました。
沈黙です。
しばらくすると、ようやく1人の看護師が勇気を出して口を開きました。
「えっと、つい忘れてしまうんですよね」このように、人は押しつけられていると感じること、強要されていることは、つい忘れがちです。
そして、やらなければ批判される。
というわけで、わたしが「忘れる?」と返したところ、看護師たちは、看護師長の伝え方に自分たちがどれだけ怒りを感じているか話し始めました。
求められる結果が重要なほど、強要しないことが大切です。
たとえば、「特定の生産基準の達成」や、今回のケースでは「人命の尊重」がそれに当たります。
相手に「これはリクエストである」と信用してもらえるような、明確なリクエストを伝える必要があります。
相手に「これはお願いなんだ」と信用してもらうためには、まずは相手が「そのリクエストに対して異議を唱えたとしても理解してもらえる」と確信する必要があるのです。
だから、組織のマネージャーや看護師長には、明確にリクエストする方法に加えて、相手が安心して異議を唱えられるように、その反対意見に共感する方法も教える必要があるのです。
それができたとき、誰もが尊重できる合意に達することができるでしょう。
このことは、企業でも学校でも、もちろん親たちに対しても、わたしたちが伝えている大切なポイントです。
こちらが頼んだことに対して、相手が罪悪感・恥の意識・義務感・懲罰への恐れなどの理由で取り組む場合、頼んだこちら側にツケが回ってきます。
望ましいのは、相手が自身の神聖なエネルギーとつながっているときにだけ、こちらのリクエストに応じて行動してくれるようになることです。
神聖なエネルギーは、誰もが持っているものであり、人と人が与え合うときに感じる喜びとなって現れてくるものです。
だから人がリクエストに応じるのは、ネガティブな結果を避けるためではないのです。
ところが、「○○せよと強要、強制しないかぎり、家庭、企業、組織、政府では秩序を保つことができない」と考える人たちがいます。
たとえば、わたしのワークショップでこんなことを言った母親がいます。
「でも、マーシャル、神聖なエネルギーに従ってこちらのリクエストに応じてくれることを相手に期待するのは素敵だけど、子どもはどうでしょう?子どもは、まず、『しなければならないこと』や『するべきこと』を学ぶ必要がありますよね」この善意に満ちた母親は、わたしが最も破壊的と思う2つの考え方を使っていました。
それは「~しなければならない」と「~するべきだ」です。
子どもにも大人と同様に神聖なエネルギーがあるということを、彼女は信じていませんでした。
人は、懲罰の恐れからではなく、互いの幸福に貢献するという喜びから行動を取りうるということを、信じていなかったのです。
そこでわたしはこう言いました。
「今日は、お子さんに何かを提示するときに、もっとリクエストらしく伝わるような別の方法をご案内しようと思います。
あなたのニーズをお子さんが理解できるようになるでしょう。
また、お子さんが『しなければならない』という思いから行動するのではなく、選択肢があることを意識して、自分の内側の神聖なエネルギーにつながったうえで、あなたのリクエストに応じることができるようになる、そんな方法です」「わたしは、毎日、やりたくもないことをあれこれやっています。
だって、しなければならないことってあるでしょう?」「たとえば、どんなことですか?」「そう、たとえば今晩、家に帰ったら、わたしは料理をしなきゃいけない。
わたし、料理が大嫌いなんです。
心の底から嫌い。
でも、やらなきゃならないことなんですよ。
20年間、料理しなかった日はありません。
大嫌いだけど、人にはしなくちゃならないことがあるんです」
どう見ても、彼女は神聖なエネルギーに動かされて料理しているのではありませんでした。
「しなければならない」の意識でやっていたのです。
そこでわたしは言いました。
「それでは、もうひとつの考え方とコミュニケーションの方法をお伝えしようと思います。
ご自身の神聖なエネルギーに立ち返って、確実にそのエネルギーに従って行動できるような方法です。
そうすれば、あなたの伝え方は、相手も神聖なエネルギーで応えてくれるような表現になるでしょう」その女性はのみこみの早い人でした。
ワークショップから帰宅するなり、家族に「もう料理はしたくない」と宣言したのです。
その後、わたしは家族の方々から報告を受ける機会に恵まれました。
3週間ほどして、なんと彼女の息子たちがNVCのトレーニングにやってきたのです。
セッションが始まる前に、こんな話をしました。
「母があなたのワークショップに参加してから、うちの家族がどれくらい変わったかを伝えたいんです」「ほう、そうですか?ずっと、気になっていたんです。
お母さんからは話を聞いています。
あの日以来、生き方を大きく変えたそうですね。
『しなければならない』という意識で行動を選択するのではなくて、神聖なエネルギーを持って行動することを学んでから大きく変わったと。
それが家族にどのような影響を与えるのか、日頃からわたしは関心があります。
だから、あなたたちが来てくれてうれしいです。
たとえばあの晩、お母さんが家に帰って『もう料理はしたくない』と言ったとき、どんな感じでしたか?」年長の息子が答えました。
「思わず、心のなかで呟きましたよ。
『ああ、やっとだ』って」「どういうことですか?」「内心、こう思ったんです。
『これでもう母さんは食事のたびに文句を言わなくなるぞ』って」わたしたちの行動が、それぞれの中にある神聖なエネルギーによるものでない場合、つまり、思いやりのある与え合いへとわたしたちを自然に向かわせるエネルギーを出発点とせず、報酬を得るためであったり、罪悪感や恥の意識や義務感を動機として「こうするべきだ/こうしなければならない」という社会文化的に身につけたパターンから行動を起こした場合、そのツケは全員に回ってきます。
例外なく、すべての人に。
NVCでは、「神聖なエネルギーから出発するものでないかぎり、行動しないようにしよう」と提案しています。
自分の行動が神聖なエネルギーによるものかどうかは、自発的にやりたいかどうかでわかります。
たとえ重労働であっても、人生をよりすばらしいものにすることが主な動機であるなら、喜んでやっているでしょう。
相手がリクエストを強要と受け取ったとき、どんなことが起きるかという話をしましょう。
わたしがNVCを学び始めた頃、つまりこれらの考え方を理解し始めていた頃のことです。
わたしはすでに子どもが生まれて親になっていましたが、古い思考から抜け出せずにいました。
それで、しばらくは今までの失敗の埋め合わせに追われました。
自分ではリクエストをリクエストとして受け取ってもらえるように努力しているつもりでも、子どもたちはそれを強要と受け取りがちでした。
先ほど述べた末の息子との一件もそうです。
わたしが何かをしてほしいとお願いしたときに、息子は実質的に自分を奴隷のように感じたのです。
NVCを活用するようになる以前、息子とわたしの間では、週に2回「ごみ出し戦争」が勃発していました。
ごみ出し戦争というのは、わたしが息子に課した作業をめぐる争いです。
わたしは「ごみを出す仕事をおまえに引き受けてほしい」と言ったのですが、それは(リクエストではなく)強要でした。
なぜなら、わたしは、子どもなら家事を手伝うのが当然だと考えていたのです。
だから、「ごみを出してもらうことで、こちらのどんなニーズが満たされるのか」を伝えてはいませんでした。
わたしが言っていたのは、息子が何をしなければならないのか、ということでした。
「これはおまえの仕事だよ。
パパはおまえにごみを出してほしい」とやわらげた表現を使ってはいましたが。
でも、息子にはそれが強要と聞こえるものだから、週に2回はごみ出し戦争になったのです。
では、戦いの火ぶたはどんなふうに切られたのでしょうか?わたしが息子の名前を呼ぶだけで十分でした。
「ブレット!」息子はどんなふうに応戦するかといえば、隣の部屋にいるのに聞こえないふり。
それを受けてこちらは、戦いをさらにエスカレートさせます。
息子が聞こえないふりをできないくらい声を張り上げるのです。
「ブレット!!」「何だよ?」「ごみが出ていないぞ」「よくわかっているね、パパ」「早く出すんだ」「あとでやるよ」「この前もそう言って、やらなかったじゃないか」「だからって、今度もやらないわけじゃないよ」週に2回ごみを出すという、たったそれだけのことをめぐって、どれだけのエネルギーが費やされたか想像がつきますか?そんなことが毎週毎週、2回ずつ繰り返されたのです。
なぜなら、わたしは自覚がないまま「強要」をしていたからです。
当時のわたしには、リクエストと強要の違いがわかっていませんでした。
やがてNVCを学び始め、ある晩、わたしは息子と向き合いました。
そしてごみ出しが行われない理由に耳を傾けました。
すると息子は、自分には強要だと聞こえていたからだ、ということを明らかにしたのです。
おかげで、わたしはリクエストと強要の違いをはっきり理解することになりました。
この息子は、雪の日は、通りの角にある重度障害の女性の家に駆けつけるような子でした。
彼女は歩けないものの、車の運転はできます。
ところが、雪で敷地内の私道が埋もれてしまうと、車が出せません。
すると、わたしの息子は出かけていって雪かきをするのです。
しかも、その作業はゆうに1時間はかかるのですが、息子は誰がやったかを女性に話さないし、お金を要求することもありませんでした。
わが家にも雪かきの必要なちょっとした私道がありました。
わたしは息子に雪かきさせることができませんでした。
それなのに、なぜ、隣人のためにはやってあげるのでしょう。
答えは明らかでした。
隣人のための雪かきは、他者に与える喜びという神聖なエネルギーから行動することができたのです。
一方、わたしが息子にやっていたのは、支配構造のなかで仕事を押しつけることでした。
「わたしはおまえの父親だ。
おまえが何をしなければならないかは、わたしが知っている」と言わんばかりに。
最後にもう1つ、違いを明確にしておくべきコンセプトがあります。
「パワー・オーバー(PowerOver)」VS「パワー・ウィズ(PowerWith)」です。
パワー・オーバーとは、相手を服従させて何かをさせること。
そのために懲罰や報酬を用います。
つまり「上から(オーバー)」の力を加えるわけです。
パワー・オーバーは代償をともなうため、力としてはきわめて脆弱なものです。
ある研究によれば、会社であれ、家庭であれ、学校であれ、この支配的な戦術を使う組織は、意欲の低下、暴力、システムに対する見えない反発といった形で間接的に代償を払っています。
一方、パワー・ウィズは、相手に進んで行動を起こしてもらうことです。
なぜ進んで行動したいかというと、それをすることが全員の人生を豊かにすることだと相手にはわかっているからです。
それがNVCです。
パワー・ウィズを実現するための最も効果的な方法は、自分自身のニーズと同じくらい、相手のニーズに
も関心を持っていると示すことです。
批判を交えずに正直かつ無防備に伝えれば伝えるほど、パワー・ウィズは実現します。
こちらから相手のどこが間違っていると指摘するよりも、相手とともに力を持つほうが、相手もこちらの幸福に対して、はるかに関心を寄せるのです。
エクササイズすでにあなたは、自分が相手に何をリクエストしたいか、そして今どんな状況にあるかを書き出したはずです。
書いたものに改めて目を向けてみてください。
あなたのリクエストは、相手に「パワー・オーバー」と受け取られる可能性はあるでしょうか?パワー・ウィズの関係を確立し、相手が喜んでリクエストに応じてくれやすくするためには、何ができるでしょうか?行動を促す肯定形の言葉を使って、その要求を表現し直すことはできますか?
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