第1の習慣主体的である
パーソナル・ビジョンの原則
意識的に努力すれば必ず人生を高められるという事実ほど、人を勇気づけるものが他にあるだろうか。──ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
この本を読んでいる自分の姿を想像してみてほしい。意識を部屋の隅に置いて、そこから自分を眺めてみる。頭の中であなたは、まるで他人であるかのように自分自身を見ているはずだ。
次は、自分の今の気分を考えてみてほしい。あなたは今、どんな気持ちだろうか。何を感じているだろう。その気分をどんな言葉で言い表せるだろうか。さらに、自分の頭の中で起こっていることを考えてみる。
あなたは頭をフル回転させ、今やっていることにどんな意味があるのかと、いぶかしんでいることだろう。
あなたが今行ったことは、人間にしかできないことである。動物にはできない。それは人間だけが持つ能力であって、「自覚」というものだ。
自分自身の思考プロセスを考えることのできる能力である。
この能力があるからこそ、人は世代を追うごとに大きく進歩し、世界のあらゆるものを支配するまでになったのだ。
自覚があれば、人は自分の経験だけでなく他者の経験からも学ぶことができる。
そして、習慣を身につけるのも、絶ち切るのも、自覚という能力のなせるわざなのである。人間を人間たらしめているのは、感情でも、気分でもない。思考ですらない。
自分の感情や気分や思考を切り離して考えられることが、人間と動物の決定的な違いである。この自覚によって、人間は自分自身を見つめることができる。
自分をどう見ているか、自分に対する見方、いわば「セルフ・パラダイム」は、人が効果的に生きるための基盤となるパラダイムだが、私たちは自覚によって、このセルフ・パラダイムさえも客観的に考察できる。
セルフ・パラダイムはあなたの態度や行動を左右し、他者に対する見方にも影響を与えている。セルフ・パラダイムは、人の基本的な性質を表す地図となるのだ。
そもそも、自分が自分自身をどう見ているか、他者をどう見ているかを自覚していなければ、他者が自分自身をどう見ているか、他者は世界をどう見ているかわからないだろう。
私たちは無意識に自分なりの見方で他者の行動を眺め、自分は客観的だと思い込んでいるにすぎない。こうした思い込みは私たちが持つ可能性を制限し、他者と関係を築く能力も弱めてしまう。
しかし人間だけが持つ自覚という能力を働かせれば、私たちは自分のパラダイムを客観的に見つめ、それらが原則に基づいたパラダイムなのか、それとも自分が置かれた状況や条件づけの結果なのかを判断できるのである。
社会通念の鏡
現代の社会通念や世論、あるいは周りの人たちが持っているパラダイム、それらはいわば社会通念の鏡である。
もし人が自分自身を社会通念の鏡だけを通して見てしまうと、たとえるなら遊園地にあるような鏡の部屋に入り、歪んだ自分を見ているようなものである。
「君はいつも時間に遅れる」「おまえはどうして部屋の片づけができないんだ」「あなたって芸術家肌ね」「よく食べる人だね」「あなたが勝ったなんてありえない」「君はこんな簡単なことも理解できないのか」
人はよく他者をこんなふうに評するが、その人の本当の姿を言い当てているとは限らない。ほとんどの場合は、相手がどういう人間なのかを客観的に述べているのではなく、自分の関心事や人格的な弱さを通して相手を見ている。自分自身を相手に投影しているのである。
人は状況や条件づけによって決定されると現代社会では考えられている。
日々の生活における条件づけが大きな影響力を持つことは認めるにしても、だからといって、条件づけによってどのような人間になるかが決まるわけではないし、条件づけの影響力に人はまったくなすすべを持たないなどということはありえない。
ところが実際には、三つの社会的な地図──決定論──が広く受け入れられている。これらの地図を個別に使って、ときには組み合わせて、人間の本質を説明している。
一つ目の地図は、遺伝子的決定論である。
たとえば、「おまえがそんなふうなのはおじいさん譲りだ。短気の家系だからおまえも短気なんだよ。そのうえアイルランド人だ。アイルランド人っていうのは短気だからね」などと言ったりする。短気のDNAが何世代にもわたって受け継がれているというわけである。
二つ目は心理的決定論である。
育ちや子ども時代の体験があなたの性格や人格をつくっているという理論だ。「人前に出るとあがってしまうのは、親の育て方のせいだ」というわけである。
大勢の人の前に出るとミスをするのではないかと強い恐怖心を持つのは、大人に依存しなければ生きられない幼児期に親からひどく叱られた体験を覚えているからだという理屈だ。
親の期待に応えられなかったとき、他の子どもと比較され親から突き放されたりした体験が心のどこかに残っていて、それが今のあなたをつくっているというのである。
三つ目は環境的決定論である。
ここでは、上司のせい、あるいは配偶者、子どものせい、あるいはまた経済情勢、国の政策のせい、となる。あなたを取り巻く環境の中にいる誰かが、何かが、あなたの今の状態をつくっていることになる。これら三つの地図はどれも、刺激/反応理論に基づいている。
パブロフの犬の実験で知られるように、特定の刺激に対して特定の反応を示すように条件づけられているというものだ。
しかしこれらの決定論的地図は、現実の場所を正確に、わかりやすく言い表しているだろうか。これらの鏡は、人間の本質をそのまま映し出しているだろうか。これらの決定論は、単なる自己達成予言ではないだろうか。自分自身の中にある原則と一致しているだろうか。
刺激と反応の間
これらの質問に答える前に、ヴィクトール・フランクル(訳注:オーストリアの精神科医・心理学者)という人物の衝撃的な体験を紹介したい。
心理学者のフランクルは、フロイト学派の伝統を受け継ぐ決定論者だった。
平たく言えば、幼児期の体験が人格と性格を形成し、その後の人生をほぼ決定づけるという学説である。人生の限界も範囲も決まっているから、それに対して個人が自らできることはほとんどない、というものだ。
フランクルはまた精神科医でもありユダヤ人でもあった。
第二次世界大戦時にナチスドイツの強制収容所に送られ、筆舌に尽くし難い体験をした。彼の両親、兄、妻は収容所で病死し、あるいはガス室に送られた。妹以外の家族全員が亡くなった。フランクル自身も拷問され、数知れない屈辱を受けた。
自分もガス室に送られるのか、それともガス室送りとなった人々の遺体を焼却炉に運び、灰を掃き出す運のよい役割に回るのか、それさえもわからない日々の連続だった。
ある日のこと、フランクルは裸にされ、小さな独房に入れられた。
ここで彼は、ナチスの兵士たちも決して奪うことのできない自由、後に「人間の最後の自由」と自ら名づける自由を発見する。
たしかに収容所の看守たちはフランクルが身を置く環境を支配し、彼の身体をどうにでもできた。
しかしフランクル自身は、どのような目にあっても、自分の状況を観察者として見ることができたのだ。彼のアイデンティティは少しも傷ついていなかった。
何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。
自分の身に起こること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった。収容所の中で、フランクルは他の状況を思い描いていた。
たとえば、収容所から解放され大学で講義している場面だ。
拷問を受けている最中に学んだ教訓を学生たちに話している自分の姿を想像した。知性、感情、道徳観、記憶と想像力を生かすことで、彼は小さな自由の芽を伸ばしていき、それはやがて、ナチスの看守たちが持っていた自由よりも大きな自由に成長する。看守たちには行動の自由があったし、自由に選べる選択肢もはるかに多かった。
しかしフランクルが持つに至った自由は彼らの自由よりも大きかったのだ。それは彼の内面にある能力、すなわち反応を選択する自由である。彼は他の収容者たちに希望を与えた。
看守の中にさえ、彼に感化された者もいた。彼がいたから、人々は苦難の中で生きる意味を見出し、収容所という過酷な環境にあっても尊厳を保つことができたのである。
想像を絶する過酷な状況の中で、フランクルは人間だけが授かった自覚という能力を働かせ、人間の本質を支える基本的な原則を発見した。
それは、刺激と反応の間には選択の自由がある、という原則である。
選択の自由の中にこそ、人間だけが授かり、人間を人間たらしめる四つの能力(自覚・想像・良心・意志)がある。
自覚は、自分自身を客観的に見つめる能力だ。
想像は、現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力である。
良心は、心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識し、自分の考えと行動がその原則と一致しているかどうかを判断する能力である。
そして意志は、他のさまざまな影響に縛られずに、自覚に基づいて行動する能力である。
動物は、たとえ知力の高い動物でも、これら四つの能力のどれ一つとして持っていない。コンピューターにたとえて言うなら、動物は本能や調教でプログラムされているにすぎない。
何かの行動をとるように動物を調教することはできるが、教えられる行動を自分で選ぶことはできない。
動物自身がプログラミングを書き換えることはできないのだ。そもそもプログラミングという概念を意識すらしていない。
しかし人間は、人間だけが授かっている四つの能力を使えば、本能や調教とは関係なく自分で新しいプログラムを書くことができる。だから動物にできることには限界があり、人間の可能性は無限なのだ。
しかし私たち人間が動物のように本能や条件づけ、置かれた状況だけに反応して生きていたら、無限の可能性は眠ったままである。
決定論のパラダイムは主に、ネズミ、サル、ハト、イヌなどの動物、ノイローゼ患者や精神障害者の研究を根拠としている。
測定しやすく、結果を予測できそうだという点では、決定論は一部の研究者の基準を満たしているかもしれないが、人間の歴史を見れば、また私たち人間の自覚という能力を考えれば、この地図は現実の場所をまったく描写していないことがわかるはずだ。
人間だけに授けられた四つの能力が、人間を動物の世界よりも高い次元へ引き上げている。これらの能力を使い、開発していくことができれば、すべての人間に内在する可能性を引き出せる。
その最大の可能性とは、刺激と反応の間に存在する選択の自由なのである。
「主体性」の定義
人間の本質の基本的な原則である選択の自由を発見したフランクルは、自分自身の正確な地図を描き、その地図に従って、効果的な人生を営むための第1の習慣「主体的である」ことを身につけ始めた。
昨今は、組織経営に関する本にも主体性(proactivity)という言葉がよく出てくるが、その多くは定義を曖昧にしたまま使われている。
主体性とは、自発的に率先して行動することだけを意味するのではない。人間として、自分の人生の責任を引き受けることも意味する。
私たちの行動は、周りの状況ではなく、自分自身の決定と選択の結果である。私たち人間は、感情を抑えて自らの価値観を優先させることができる。人間は誰しも、自発的に、かつ責任を持って行動しているのである。
責任は英語でレスポンシビリティ(responsibility)という。
レスポンス(response=反応)とアビリティ(ability=能力)という二つの言葉でできていることがわかるだろう。主体性のある人は、このレスポンシビリティを認識している。
自分の行動に責任を持ち、状況や条件づけのせいにしない。
自分の行動は、状況から生まれる一時的な感情の結果ではなく、価値観に基づいた自分自身の選択の結果であることを知っている。
人間は本来、主体的な存在である。だから、人生が条件づけや状況に支配されているとしたら、それは意識的にせよ無意識にせよ、支配されることを自分で選択したからに他ならない。
そのような選択をすると、人は反応的(reactive)になる。反応的な人は、周りの物理的な環境に影響を受ける。天気が良ければ、気分も良くなる。ところが天気が悪いと気持ちがふさぎ、行動も鈍くなる。
主体的(proactive)な人は自分の中に自分の天気を持っている。雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。自分の価値観に基づいて行動している。
質の高い仕事をするという価値観を持っていれば、天気がどうであろうと仕事に集中できるのだ。
反応的な人は、社会的な環境にも左右される。彼らは「社会的な天気」も気になってしまうのだ。人にちやほやされると気分がいい。そうでないと、殻をつくって身構える。
反応的な人の精神状態は他者の出方次第でころころ変わるのである。自分をコントロールする力を他者に与えてしまっているのだ。
衝動を抑え、価値観に従って行動する能力こそが主体的な人の本質である。反応的な人は、その時どきの感情や状況、条件づけ、自分を取り巻く環境に影響を受ける。
主体的な人は、深く考えて選択し、自分の内面にある価値観で自分をコントロールできるのである。
だからといって、主体的な人が、外から受ける物理的、社会的あるいは心理的な刺激に影響を受けないかというと、そんなことはない。
しかし、そうした刺激に対する彼らの反応は、意識的にせよ無意識にせよ、価値観に基づいた選択なのである。
エレノア・ルーズベルト(訳注:フランクリン・ルーズベルト大統領の夫人)は「あなたの許可なくして、誰もあなたを傷つけることはできない」という言葉を残している。
ガンジーは「自分から投げ捨てさえしなければ、誰も私たちの自尊心を奪うことはできない」と言っている。
私たちは、自分の身に起こったことで傷ついていると思っている。
しかし実際には、その出来事を受け入れ、容認する選択をしたことによって傷ついているのだ。
これがそう簡単に納得できる考え方でないことは百も承知している。
特に私たちがこれまで何年にもわたって、自分の不幸を状況や他者の行動のせいにしてきたのであればなおのことだ。
しかし、深く正直に「今日の私があるのは、過去の選択の結果だ」と言えなければ、「私は他の道を選択する」と言うことはできないのだ。
以前、サクラメントで主体性について講演したときのことである。
話の途中で聴衆の中から一人の女性が突然立ち上がり、興奮気味に話し始めた。
会場には大勢の聴衆がいて、全員がその女性に視線を向けると、彼女は自分がしていることにはたと気づき、恥ずかしそうに座り込んだ。
それでも自分を抑えきれないらしく、周りの人としゃべり続けた。とてもうれしそうだった。彼女に何があったのか尋ねたくて、私は休憩時間が待ち遠しかった。
休憩時間になると、すぐさま彼女の席に行き、彼女の体験を話してもらった。「信じられないようなことを経験したんです!」と彼女は勢い込んで話した。
「私は看護師なのですが、それはそれはわがままな患者さんを担当しているんです。何をしてあげても満足しないんです。感謝の言葉なんかもらったことはありません。ありがたいなんて、これっぽっちも思ってやしないんです。いつも文句ばかり。この患者さんのせいで、さんざんな思いをしていました。ストレスがたまり、家族に八つ当たりしていたくらいです。他の看護師も同じ目にあっていました。皆、早く死んでほしいと祈るくらいだったんです」
彼女は続けた。
「そうしたら、あなたがそこでこう話したのです。私の同意なくして誰も私を傷つけることはできない、自分自身がみじめになることを選んだのだと。私は絶対に納得できませんでした。でも、その言葉が頭から離れません。自分の心に問いかけてみたんです。本当に自分の反応を選択する力なんてあるんだろうかと。そして突然、自分にはその力があるってひらめいたんです。このみじめな気持ちは自分で選んだことなのだと、気づかされたのです。みじめにならないことも自分で選べるのだと知った瞬間、立ち上がっていました。まるで刑務所から出てきたみたいです。全世界に叫びたいくらいです。私は自由だ、牢獄から解放された、これからは他人に自分の気持ちを左右されることはないのだと」
私たちは自分の身に起こったことで傷つくのではない。その出来事に対する自分の反応によって傷つくのである。
もちろん、肉体的に傷ついたり、経済的な損害を被ったりして、つらい思いをすることもあるだろう。
しかしその出来事が、私たちの人格、私たちの基礎をなすアイデンティティまでも傷つけるのを許してはいけない。
むしろ、つらい体験によって人格を鍛え、内面の力を強くし、将来厳しい状況に直面してもしっかりと対応する自由を得られる。そのような態度は他の人たちの手本となり、励ましを与えるだろう。
苦難の中にあって自らの自由を育み、周りの人々に希望と勇気を与えたヴィクトール・フランクルのような人は大勢いる。
ベトナム戦争で捕らわれの身となったアメリカ兵の自叙伝からも、個人の内面にある自由という力の大きさがひしひしと伝わってくる。
自ら選択してその自由を使うことによって、収容所の環境にも、他の捕虜たちにも影響を与えることができた。そして彼らの影響力は今なお息づいている。
不治の病や重度の身体障害など、この上ない困難に苦しみながらも精神的な強さを失わずにいる人に接した体験はあなたにもあるだろう。
彼らの誠実さと勇気に大きな感動を覚え、励まされたはずだ。苦しみや過酷な身の上を克服した人の生き方ほど、心の琴線に触れるものはない。
彼らは、人に勇気を与え、人生を崇高なものにする価値観を体現しているのである。妻のサンドラと私も、二五年来の友人キャロルが四年間がんと闘った姿から大きな感動をもらった。
病がいよいよ末期に入ったとき、サンドラは彼女が自叙伝を書くのを枕元で手伝った。
長時間に及ぶ困難な作業だったが、妻は、子どもたちに自分の人生体験を何としてでも伝えたいというキャロルの強い決意と勇気に感動していた。
キャロルは思考力と精神状態に支障をきたさないように、痛み止めの薬を最小限に抑えていた。彼女は、テープレコーダーにささやくように語り、あるいはサンドラに直接話して書きとらせた。
キャロルは主体的な人だった。勇気にあふれ、他者を思いやっていた。その姿は、周りの人々を強く励ました。
キャロルが亡くなる前日のことを、私は一生忘れないだろう。耐え難い苦しみの中にある彼女の目の奥に、人としての大きな価値を感じとったからだ。
彼女の目には、人格、貢献、奉仕の精神、愛、思いやり、感謝に満ちた人生が宿っていた。
私はこれまでに何度も、講演会などで次のような質問をしてきた──「死の床にありながら毅然とし、愛と思いやりを人に伝え、命が尽きる瞬間まで他者を励まし続けた人と接した経験はありますか?」すると聴衆の四分の一ほどが手を挙げる。
私は続けて尋ねる。
「その経験を一生忘れないと思う人は?その人の勇気に心を打たれ、励まされ、もっと人の役に立ちたい、思いやりを持って人と接しようという気持ちになりましたか?」
手を挙げていた人は全員、同意を示す。ヴィクトール・フランクルによれば、人生には三つの中心となる価値観があると言う。
一つは「経験」、自分の身に起こることである。
二つ目は「創造」であり、自分でつくり出すものの価値だ。
そして三つ目は、「姿勢」である。
不治の病というような過酷な現実に直面したときの反応の仕方だ。
私の経験からも言えるが、フランクルはパラダイムの再構築において、この三つの価値のうちで一番大切なのは「姿勢」だと言っている。
つまり、人生で体験することにどう反応するかがもっとも大切なのである。パラダイムシフトは、困難に直面したときにこそ起こる。
厳しい状況に置かれると、人はまったく新しい視点から世界を眺めるようになる。その世界にいる自分自身と他者を意識し、人生が自分に何を求めているのか見えてくる。
視野が広がることによって価値観が変化し、それが態度にも表れて周囲の人々を鼓舞し、励ますのである。
率先力を発揮する
私たち人間に本来備わっている性質は、周りの状況に自ら影響を与えることであって、ただ漫然と影響を受けることではない。
自分が置かれた状況に対する反応を選べるだけでなく、状況そのものを創造することもできるのだ。
率先力を発揮するというのは、押しつけがましい態度をとるとか、自己中心的になるとか、強引に進めたりすることではない。
進んで行動を起こす責任を自覚することである。私のところには、もっと良い仕事に就きたいという人が大勢相談に来る。私は彼らに必ず、率先力を発揮しなさいとアドバイスする。
関心のある職業の適性試験を受け、その業界の動向を調べ、さらには入りたい会社の問題点を探って解決策を考え、その問題を解決する能力が自分にあることを効果的なプレゼンテーションで売り込む。
これはソリューション・セリングといい、ビジネスで成功するための重要なパラダイムである。こうアドバイスすると、ほとんどの人は賛同する。
このようなアプローチをすれば採用や昇進の機会を手にできると、彼らは確信する。ところが、それを実行に移す率先力を発揮できない人が多いのである。
「どこで適性テストを受ければよいかわからないんですけど……」「業界や会社の問題点というのは、どうやって調べればいいんですか?誰に聞けばいいんでしょうか?」「効果的なプレゼンテーションと言われても、どうすればいいのか……さっぱり見当がつきません」
こんな具合に、多くの人は自分からは動かずに誰かが手を差し伸べてくれるのを待っている。
しかし良い仕事に就けるのは、自分から主体的に動く人だ。その人自身が問題の解決策となる。正しい原則に従って、望む仕事を得るために必要なものは端から実行する人だ。
わが家では、子どもたちが問題にぶつかったとき、自分からは何もせず、無責任にも誰かが解決してくれるのを待っているようなら、「RとIを使いなさい」(Rはresourcefulness=知恵、Iはinitiative=率先力)と言ってきた。
最近では、私に言われる前に「わかってる。RとIを使えばいいんでしょ」とぶつぶつ言う。人に責任を持たせるのは、その人を突き放すことにはならない。
逆にその人の主体性を認めることである。主体性は人間の本質の一部である。主体性という筋肉は、たとえ使われずに眠っていても、必ず存在する。多くの人は社会通念で歪んだ鏡に映る自分を見ている。
しかし私たちがその人の主体性を尊重すれば、少なくとも一つの本当の姿、歪んでいない姿をその人自身に見せてあげることができるのである。
もちろん、精神的な成熟の度合いは人それぞれであり、精神的に他者にどっぷりと頼っている人に創造的な協力を期待することはできない。
しかし、相手の成熟度に関わらず、人間の基本的な性質である主体性だけは認めることができる。
その人が自分で機会をつかみ、自信を持って問題を解決できる環境を整えることはできるのである。
自分から動くのか、動かされるのか
率先力を発揮する人としない人の違いは、天と地ほどの開きがある。効果性において二五%とか五〇%どころの違いではない。
率先力を発揮でき、そのうえ賢く感受性豊かで、周りを気遣える人なら、そうでない人との効果性の差はそれこそ天文学的な数字になる。
人生の中で効果性の原則であるP/PCバランスを生み出すには率先力が必要だ。「7つの習慣」を身につけるにも率先力が要る。
第1の習慣「主体的である」の後に続く六つの習慣を勉強していくと、主体性という筋肉が他の六つの習慣の土台となることがわかるはずだ。どの習慣でも、行動を起こすのはあなたの責任である。
周りが動くのを待っていたら、あなたは周りから動かされるだけの人間になってしまう。
自ら責任を引き受けて行動を起こすのか、それとも周りから動かされるのか、どちらの道を選ぶかによって、成長や成功の機会も大きく変わるのである。
以前、住宅改修業界の団体にコンサルティングをしたことがある。その会合では、約二一〇社の代表が四半期ごとに集まり、業績や問題点を忌憚なく話し合った。
当時は市場全体が深刻な不況だったが、この業界はことさら打撃を受けていた。会合は重苦しい空気の中で始まった。
初日は、「業界では今何が起こっているのか、業界が受けている刺激は何か?」というテーマで話し合った。
業界では多くのことが起こっていた。業界を取り巻く環境の圧力はすさまじいものだった。失業者は増える一方だった。
会合に参加していた企業の多くも、生き残るために大幅な人員削減を余儀なくされていた。その日の話し合いが終了する頃には、朝よりも参加者の落胆は大きくなっていた。
二日目のテーマは「この先はどうなるか?」だった。業界の動向を予測しながら、おそらく予測どおりの結果になるだろうという悲観論が広まった。
二日目の終わりには、全員がさらに意気消沈した。誰もが景気の底はまだ打っていないと予測していた。
さて、三日目である。このままではいけないと、「我々はどう反応するのか?我々は何をするのか?この状況で我々はどのように率先力を発揮するのか?」と主体的なテーマに集中することにした。
午前中は経営の合理化とコスト削減をテーマに議論し、午後はマーケットシェア拡大の方策を考えた。
午前も午後も活発にディスカッションし、現実に即し、実行可能なアイデアに議論の的を絞った。
そうしているうちに活気が生まれ、希望が見え、主体的なムードで会合を締めくくることができた。
協議の結果は、「業界の景気はどうか」という問いに対する三つの答えとしてまとめられた。
一.業界の現状は厳しく、景気はさらに悪化するものと予想される。
二.しかし我々がこれから取り組む対策には期待できる。経営を合理化し、コストを削減し、マーケットシェアを伸ばすからだ。
三.よって我々の業界はかつてないほど良い状況だ。
反応的な人がこれを読んだら、「おいおい、現実を直視しろよ。ポジティブ・シンキングにもほどがある。自己暗示をかけているだけじゃないか。いずれ現実を思い知らされるよ」とでも言うだろう。
しかし、それこそが単なるポジティブ・シンキングと主体性の違いなのである。会合で私たちは現実を直視した。業界の現状、今後の見通しの厳しさも認識した。
だがそれと同時に、現状や将来の予測に対して前向きな反応を選択できるという現実も認識したのだ。
この現実を認識していなかったら、業界を取り巻く環境の中で起こることが業界の将来を決めるという考え方を受け入れていただろう。
企業、自治体、家庭も含めてあらゆる組織が、主体的であることができる。どんな組織も、主体的な個人の創造力と知恵を結集し、主体的な組織文化を築ける。
組織だからといって、環境の変化に翻弄される必要はない。組織としての率先力を発揮すれば、組織を構成する全員が価値観と目的を共有できるのだ。
言葉に耳を傾ける
私たちの態度と行動は、自分が持っているパラダイムから生み出される。
自覚を持って自分のパラダイムを見つめれば、自分の行動を導いている地図がどのようなものかが見えてくる。
たとえば、私たちが普段話している言葉一つとっても、主体性の度合いを測ることができる。
反応的な人の言葉は、自分の責任を否定している。
「僕はそういう人間なんだよ。生まれつきなんだ」(人はすでに決定づけられ、変わりようがない。だから自分の力ではどうにもできない)「本当に頭にくる人だわ」(人の感情は自分ではコントロールできない)「それはできません。時間がないんです」(時間が限られているという外的要因に支配されている)「妻がもっと我慢強かったらいいのに」(他者の行動が自分の能力を抑えつけている)「これをやらなければならないのか」(状況や他者から行動を強要されている。自分の行動を選択する自由がない)
反応的な人の言葉は、決定論のパラダイムから生まれる。彼らの言葉の裏にあるのは、責任の転嫁である。
自分には責任がない、自分の反応を選ぶことはできないと言っているのである。
大学で教えていた頃のことである。
一人の学生が「授業を休んでもかまいませんか?テニスの合宿があるので」と言ってきた。
「行かなければならないのか、それとも行くことを選ぶのか、どちらだね?」私は聞いた。
「実は、行かなくちゃいけないんです」「行かないとどうなるんだい?」「チームから外されます」「そうなることについて、どう思う?」「いやです」「つまり、チームから外されないという結果が欲しいから、行くことを選ぶわけだ。では、授業に出なかったらどうなる?」「わかりません」「よく考えてみなさい。授業に出なかった場合の自然な結果は何だと思うかね?」「先生は落第点をつけたりはしませんよね?」「それは社会的な結果だ。他人がもたらすものだ。テニスのチームに参加しなければ、プレーができない。それは自然な結果だ。授業に出なかった場合の自然な結果は?」「学ぶ機会を失うことでしょうか」
「そうだ。だからその結果と他の結果を比べて、選択しなさい。私だったらテニスの合宿に行くほうを選択するだろうね。しかし、何かをしなければならない、などという言い方はしないでほしい」
「では、テニスの合宿に行くことを選びます」と彼はもじもじしながら答えた。「私の授業を休んでまで?」と冗談半分でからかいながら言い返した。
反応的な言葉の厄介なところは、それが自己達成予言になってしまうことだ。
決定論のパラダイムに縛られている人は、自分はこういう人間だという思い込みを強くし、その思い込みを裏づける証拠を自分でつくり上げてしまう。
こうして被害者意識が増していき、感情をコントロールできず、自分の人生や運命を自分で切り開くことができなくなる。自分の不幸を他者や状況のせいにする。星のせいだとまで言い出しかねない。
あるセミナーで主体性について講義していたとき、一人の男性が前に出てきてこう言った。
「先生のおっしゃっていることはよくわかるんですが、人によって状況は違うんです。たとえば私たち夫婦のことです。不安でたまりません。妻と私は昔のような気持ちがもう持てないんです。私は妻をもう愛していないと思うし、妻も私を愛していないでしょうね。どうしたらいいでしょう?」「愛する気持ちがもうなくなったというのですね?」私は聞いた。
「そうです」と彼はきっぱり答える。
「子どもが三人もいるので、不安なんです。アドバイスをお願いします」「奥さんを愛してください」と私は答えた。
「ですから、もうそんな気持ちはないんです」「だから、奥さんを愛してください」「先生はわかっていません。私にはもう、愛という気持ちはないんです」「だから、奥さんを愛するのです。そうした気持ちがないのなら、奥さんを愛する理由になるじゃないですか」「でも、愛(Love)を感じないのに、どうやって愛するんです?」「いいですか、愛(Love)は動詞なのです。
愛という気持ちは、愛するという行動から得られる果実です。ですから奥さんを愛する。奥さんに奉仕する。犠牲を払う。奥さんの話を聴いて、共感し、理解する。感謝の気持ちを表す。奥さんを認める。そうしてみてはいかがです?」
古今東西の文学では、「愛」は動詞として使われている。反応的な人は、愛を感情としかとらえない。彼らは感情に流されるからだ。
人はその時どきの感情で動くのであって、その責任はとりようがないというような筋書の映画も少なくない。
しかし映画は現実を描いているわけではない。
もし行動が感情に支配されているとしたら、それは自分の責任を放棄し、行動を支配する力を感情に与えてしまったからなのだ。
主体的な人にとって、愛は動詞である。愛は具体的な行動である。犠牲を払うことである。
母親が新しい命をこの世に送り出すのと同じように、自分自身を捧げることである。
愛を学びたいなら、他者のために、たとえ反抗的な相手でも、何の見返りも期待できない相手であっても、犠牲を払う人たちを見てみればいい。
あなたが親であるなら、子どものためならどんな犠牲も辞さないはずだ。
愛とは、愛するという行為によって実現される価値である。主体的な人は、気分を価値観に従わせる。愛、その気持ちは取り戻せるのである。
関心の輪/影響の輪
自分がどのくらい主体的な人間か自覚するもう一つの素晴らしい方法がある。自分の時間とエネルギーを何にかけているかに目を向けてみるのだ。
誰でも広くさまざまな関心事(懸念することから興味あることまで)を持っている。健康や家族のこと、職場の問題、国家財政、核戦争、等々。
この図のような関心の輪を描いて、関心を持っていることと、知的にも感情的にも特に関心のないこととを分けてみよう。
関心の輪の中に入れたことを見ると、自分がコントロールできるものとできないものとがあることに気づくだろう。
自分でコントロールでき、影響を与えられるものは、図のように小さな円でくくる。この円を影響の輪と呼ぶことにしよう。
この二つの輪のうち、自分の時間と労力を主にかけているのはどちらだろうか。それによって主体性の度合いがわかる。主体的な人は、影響の輪の領域に労力をかけている。自分が影響を及ぼせる物事に働きかける。
主体的な人のエネルギーには、影響の輪を押し広げていくポジティブな作用があるのだ。一方、反応的な人が労力をかけるのは影響の輪の外である。
他者の弱み、周りの環境の問題点、自分にはどうにもできない状況に関心が向く。こうした事柄ばかりに意識を集中していると、人のせいにする態度、反応的な言葉、被害者意識が強くなっていく。
自分が影響を及ぼせる物事をおろそかにしてしまうと、ネガティブなエネルギーが増え、その結果、影響の輪は小さくなっていく。
関心の輪の中にとどまっている限り、私たちはその中にある物事に支配される。ポジティブな変化を起こすために必要な主体的な率先力を発揮することはできない。
第一部で、学校で深刻な問題を抱えた息子の話をした。私と妻は、表面的な息子の短所、他の子たちの息子に対する態度を深く案じていた。
しかし、そうした心配は、私たち夫婦の影響の輪の外のことだった。
影響の輪の外でいくら頑張っても、親としての至らなさを思い知らされ、無力感を覚えるばかりで、逆に息子の依存心を強めるだけだった。
影響の輪に意識を向け、私たち夫婦のパラダイムを見つめることでようやくポジティブなエネルギーを生み出し、自分自身を変え、やがて息子に影響を与えることができた。
状況に気をもむのをやめ、自分自身に働きかけることによって、状況そのものを変えることができたのである。
一方、地位や財力、役割、人脈などによって、影響の輪のほうが関心の輪よりも大きくなる場合がある。
これは近視眼的な精神状態の現れであって、広い視野を持とうとせず、関心の輪だけにしか目を向けない自己中心的で反応的な生き方の結果である。
主体的な人は、影響を及ぼしたい事柄を優先させるにしても、主体的な人の影響の輪は、どんなに広がっても関心の輪より大きくなることはない。それは、自分の影響力を効果的に使う責任を自覚しているからだ。
直接的、間接的にコントロールできること、そしてコントロールできないこと
私たちが直面する問題は、次の三つのどれかである。
- 直接的にコントロールできる問題(自分の行動に関わる問題)
- 間接的にコントロールできる問題(他者の行動に関わる問題)
- コントロールできない問題(過去の出来事や動かせない現実)
主体的なアプローチをとることで、この三種類の問題のどれでも、影響の輪の中で一歩を踏み出して解決することができる。
自分が直接的にコントロールできる問題は、習慣を改めれば解決できる。これは明らかに自分の影響の輪の中にある問題であり、これらの問題を解決できれば、第1、第2、第3の習慣の「私的成功」に関わることができる。
間接的にコントロールできる問題は、影響を及ぼす方法を考えることで解決できる。
こちらのほうは、第4、第5、第6の習慣の「公的成功」に結びつく。私は、影響を及ぼす方法を三〇種類以上は知っているつもりだ。
相手の立場に身を置いて考える、それとは反対に相手とは違う自分の主張をはっきりさせる、あるいは自分が模範となる、説得する。他にもいろいろある。
しかしほとんどの人は、三つか四つのレパートリーしか持ち合わせていない。たいていは自分の行動の理を説き、それがうまくいかないとなると、「逃避」か「対立」かのどちらかになる。
これまでやってきて効果のなかった方法を捨て、影響を与える新しい方法を学び受け入れれば、どれだけ解放的な想いになることができるだろうか。
自分ではコントロールできない問題の場合には、その問題に対する態度を根本的に改める必要がある。
どんなに気に入らなくとも、自分の力ではどうにもできない問題なら、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれらを受け入れて生きるすべを身につける。こうすれば、そのような問題に振り回されることはなくなる。
アルコール依存症の更生団体、アルコホーリクス・アノニマスのメンバーが唱える祈りは、まさに的を射ている──「主よ、私に与えたまえ。変えるべきことを変える勇気を、変えられないことを受け入れる心の平和を、そしてこれら二つを見分ける賢さを」。
直接的にコントロールできる問題、間接的にコントロールできる問題、コントロールできない問題、どんな問題でも、それを解決する第一歩は私たち自身が踏み出さなくてはならない。
自分の習慣を変える。影響を及ぼす方法を変える。コントロールできない問題ならば、自分の態度を変える。解決策はすべて、自分の影響の輪の中にあるのだ。
影響の輪を広げる
どんな状況に対しても自分で自分の反応を選び、その状況に影響を与えられる。それは心強い事実である。化学式の一部分を変えるだけで、まるで違う結果になるのと同じだ。
以前私がコンサルティングをした企業のトップは、創造的で、洞察力に長け、有能で、聡明だった。誰もがこの社長の能力を認めていた。ところが、経営スタイルは独裁的以外の何ものでもなかった。
社員を自分では何も判断できない使い走りのように扱い、「決めるのは私だ」とばかりに、これをしろ、あれをしろと命令するばかりだった。
その結果、経営幹部全員を敵に回す羽目になった。幹部らは廊下に集まって社長の陰口をたたくようになった。
会社の状況を何とかしようと知恵を出し合っているかのような口ぶりだが、実際は自分たちの責任を棚にあげ、社長の欠点を延々とあげつらっているだけだった。
たとえば、「今度という今度は信じられない」と誰かが言い出す。「プロジェクトは順調に進んでいたのに、社長がこの間やってきて、それまでとは違う指示を出した。おかげで何ヵ月もの努力が水の泡だよ。あんな社長の下でどうやって働けっていうんだ。定年まであと何年だろう?」
「社長はまだ五九歳だよ。あと六年も耐えられると思う?」と別の誰かが言う。
「わかるもんか。あの社長は引退なんかしないよ」しかしそんな経営幹部の中に、一人だけ主体的な人物がいた。
彼は感情に流されず、自分の価値観に従って行動していた。率先力を発揮し、常に先を予測し、社長の立場になって考え、状況を読みとっていた。
彼にも社長の欠点はわかっていたが、それを批判したりせず、欠点を補うことに努め、自分の部下たちが社長の短所に影響されることのないように気を配った。
そして、長期的な視野、創造性、鋭い洞察力など、社長の長所を生かすようにした。彼は自分の影響の輪にフォーカスしていたのである。
彼も他の幹部たちと同じように使い走りをさせられていたが、期待される以上のことをやっていた。社長のニーズをくみ取り、社長の考えを理解しようとした。
だから、報告を上げるときも、社長が知りたがっていることを分析し、その分析に基づいた助言も添えた。
ある日、私はコンサルタントとしてその社長と話していた。
社長は「先生、この男はたいしたものですよ。私が出せと言った情報だけでなく、私がまさに必要としている情報も出してくる。そのうえ私が一番気になっている観点から分析までして、提案をまとめてくるんですからね。データに沿って分析し、分析に沿った提案をするんですよ。立派なもんです。あの男が担当する部署については何の心配も要らないくらいですよ」と言った。
次の会議でも、社長はいつもの調子で幹部の面々に「あれをやれ、これをやれ」と細かく指示していた。
しかし彼には違う態度をとり、「君の意見はどうだね?」と聞いた。
彼の影響の輪が大きくなったのだ。社長の態度の変化が社内を騒然とさせた。反応的な幹部たちはまたも井戸端会議を開き、今度はこの主体的な人物をやり玉にあげた。
責任回避は反応的な人に見られる性質である。「自分には責任がない」と言うほうが無難だ。
「自分には責任がある」と言ってしまったら、「自分は無責任だ」ということになりかねない。
今自分が置かれている状況に責任があるのは自分だということになる。
何年も自分の行動の結果を他者のせいにしてきた人ならなおさら、「私には自分の反応を選択することができる」とは言い切れないだろう。
この会社の幹部たちが廊下でつるんでいるのも、自分が選んだ反応の結果なのであり、彼ら自身の責任なのである。しかしそれを認めようとはしないはずだ。
だから彼らは、自分には責任がないことを裏づける証拠や攻撃材料をせっせと探していた。ところが、この主体的な人物は、他の幹部たちに対しても主体的な態度で接していた。
すると少しずつ彼の影響の輪がこの幹部たちにも広がり、やがてこの会社では、重要な決定を下すときには彼の関与と承認を求めるようになった。社長も例外ではない。
だからといって社長はこの人物を脅威と感じる必要はなかった。彼の強みは社長の強みを補強し、弱点を補い、二人の強みを生かし合い、理想的なチームとなっていたからだ。
この人物の成功は、状況によるものではなかった。他の経営幹部も全員が同じ状況に置かれていた。
彼はその状況に対して反応を選択したからこそ、影響の輪に働きかけ、違いを生み出したのである。
「主体的」という言葉から、押しつけがましく、強引で、もしくは無神経な態度をイメージする人もいるだろう。
しかしそれはまったく違う。主体的な人は押しつけがましくはない。主体的な人は、賢く、価値観に従って行動し、現実を直視し、何が必要かを理解する。
ガンジーを例にとろう。
イギリスがインドを支配下に置き、搾取したことに対し、インドの国会議員たちは、自分たちの関心の輪に加わらないことでガンジーを批判していた。
そのときに当のガンジーはどうしていたかというと、田畑を歩き回り、静かに、ゆっくりと、誰も気づかないうちに、農民に対する自分の影響の輪を広げていた。
ガンジーに対する支持、信頼、信用が大きなうねりとなって農村部に広まっていった。
彼は公職に就いておらず、政治的な立場もなかったが、その勇気と思いやりとによって、そして良心に訴える説得や断食によって、ついにイギリスを屈服させ、大きく広がった影響の輪の力で三億人のインド人に独立をもたらしたのである。
「持つ」と「ある」
自分の意識が関心の輪に向いているのか、影響の輪に向いているのかを判断するには、自分の考え方が持つ(have)とある(be)のどちらなのかを考えてみればいい。
関心の輪は、持つという所有の概念であふれている。
「家さえ持てれば幸せになった……」「もっと部下思いの上司を持っていたら……」「もっと忍耐強い夫を持っていたら……」「もっと素直な子どもを持っていたら……」「学歴さえ持っていたら……」「自由になる時間を持っていたら……」これに対して影響の輪は、あることで満ちている。
「私はもっと忍耐強くあるぞ」「もっと賢くある」「もっと愛情深くある」影響の輪にフォーカスすることは、人格を磨くことに他ならない。
問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である。そのような考え方は、自分の外にあるものに支配されるのを許していることだ。だから、変化のパラダイムは「アウトサイド・イン(外から内へ)」になる。自分が変わるためには、まず外にあるものが変わらなければならないと考えるのだ。
それに対して主体的な人の変化のパラダイムは、「インサイド・アウト(内から外へ)」である。自分自身が変わる、自分の内面にあるものを変えることで、外にあるものを良くしていくという考え方だ。
主体的な人は、もっと才能豊かになれる、もっと勤勉になれる、もっとクリエイティブになれる、もっと人に対して協力的になれる、というように考える。
旧約聖書に私の好きな物語がある。この物語が教える価値観は、ユダヤ教とキリスト教の伝統に深く織り込まれている。
一七歳のときに兄弟に奴隷としてエジプトに売られたヨセフという青年の話だ。
ヨセフは、ポテパルというエジプトの有力者の下僕となったわが身を哀れみ、自分を売りとばした兄弟を恨んだに違いないと誰もが思うだろう。
しかしヨセフは主体的な人間だった。彼は自分の内面に働きかけた。そしてたちまち、ポテパルの家を切り盛りするようになる。やがて信頼を得て、ポテパルの財産を管理するまでになった。
ところがある日、ヨセフはまたも窮地に陥る。自分の良心に沿わない行動を拒否したために、一三年間も投獄されることになったのだ。
それでも彼は主体的であり続けた。
自分の影響の輪(持つことよりあること)に働きかけ、その牢獄をも統率する立場になる。
そしてついに、その影響力はエジプト全土に及び、ファラオに次ぐ実力者となったのである。この物語は、多くの人にとって劇的なパラダイムシフトになるはずだ。
自分の身の上を他者や周りの状況のせいにするほうがはるかに簡単である。しかし私たちは自分の行動に責任がある。
前に述べたように、責任(responsibility)とは、反応(response)を選べる能力(ability)である。
自分の人生をコントロールし、「ある」ことに、自分のあり方に意識を向け、働きかけることで、周りの状況に強い影響を与えられるのである。
もし私が結婚生活に問題を抱えているとしたら、妻の欠点をあげつらって何の得があるだろう。自分には何の責任もないのだと言って、無力な被害者となり、身動きできずにいるだけだ。
こちらから妻に働きかけることもできない。妻の短所に腹を立て、なじってばかりいたら、私の批判的な態度は、自分の短所を正当化するだけである。
相手に改めてほしい短所より、それを責めてばかりいる私の態度のほうが問題なのだ。そんな態度でいたら、状況を好転させる力はみるみるしぼんでいく。
私が本当に状況を良くしたいのであれば、自分が直接コントロールできること──自分自身──に働きかけるしかない。
妻を正そうとするのをやめて、自分の欠点を正す。最高の夫になり、無条件に妻を愛し、支えることだけを考える。
妻が私の主体的な力を感じとり、同じような反応を選んでくれればうれしいが、妻がそうしようとしまいと、状況を改善するもっとも効果的な手段は、自分自身に、自分が「ある」ことに働きかけることである。
影響の輪の中でできることはいくらでもある。
より良い聴き手であること、もっと愛情深い配偶者であること、もっとより良い生徒であること、もっと協調性があり献身的なスタッフであること。
場合によっては、心から笑って幸福であることがもっとも主体的な態度になる。
不幸になる選択ができるように、幸福な気持ちであることは主体的な選択である。
影響の輪に絶対に入らないものもある。
たとえば天気がそうだ。
しかし主体的な人は心身の両面において自分の天気を持っている。
自分の天気には自分で影響を及ぼすことができる。
私たちは幸せであることができる。
そして、自分にはコントロールできないことは受け入れ、直接的か間接的にコントロールできることに努力を傾けるのだ。
棒の反対側
人生の焦点を影響の輪にすべて移す前に、関心の輪の中にある二つのことについて考える必要がある。それは結果と過ちである。私たちには行動を選択する自由がある。しかしその行動の結果を選択する自由はない。結果は自然の法則に支配されている。結果は影響の輪の外にある。
たとえば、走ってくる電車の前に飛び込むのを選択することはできるが、電車にはねられてどういう結果になるかは、自分で決めることはできない。
それと同じように、商取引で不正を働くのを選択することはできる。この場合、発覚するかどうかで社会的な結果は違ってくるだろうが、この選択が人格に及ぼす自然の結果はすでに決まっている。
私たちの行動は、原則に支配されている。原則に沿って生きればポジティブな結果につながり、原則に反すればネガティブな結果になる。
私たちはどんな状況においても自分の反応を選択できるが、反応を選択することで、その結果も選択しているのである。
「棒の端を持ち上げれば、反対側の端も持ち上がる」のである。
誰でもそれぞれの人生の中で、後になって後悔するような棒を拾ったことがあるはずだ。その選択は、経験したくなかった結果をもたらしたに違いない。やり直せるものならば、別の選択をするだろう。
これは「過ち」と呼んでいるが、一方では深い気づきを与えてくれる。過去の出来事を悔いてばかりいる人にとって、主体的であるために必要なのは、過去の間違いは影響の輪の外にあることに気づくことだ。
過ぎてしまったことを呼び戻すことはできないし、やり直すこともできない。また、生じた結果をコントロールすることなどできない。
私の息子の一人は、大学でアメリカンフットボールの選手をしていたとき、ミスがあったら必ずリストバンドを引っ張り、気合を入れ直して次のプレーに影響しないようにしていた。
主体的なアプローチは、間違いをすぐに認めて正し、そこから教訓を学ぶ。だから失敗が成功につながる。
IBMの創立者T・J・ワトソンはかつて、「成功は失敗の彼方にある」と語った。
しかし過ちを認めず、行動を正さず、そこから何も学ぼうとしなければ、失敗はまったく異なる様相を帯びてくる。過ちをごまかし、正当化し、もっともらしい言い訳をして自分にも他者にも嘘をつくことになる。
一度目の過ちを取り繕うという二度目の過ちは、さらに、一度目の失敗を増幅させ、必要以上に重大なものになり、自分自身にさらに深い傷を負わせることになる。
私たちを深く傷つけるのは他者の行動ではないし、自分の過ちでもない。重要なのは、過ちを犯したときにどういう反応を選択するかである。
自分を咬んだ毒蛇を追いかけたら、毒を身体中に回してしまうようなものだ。すぐに毒を取り除くほうがよほど大切なのだ。過ちを犯したときにどう反応するかが、次の機会に影響する。
過ちをすぐに認めて正すことはとても大切なことであり、悪影響を残さず、より一層の力を得ることができるのである。
決意を守る
影響の輪のもっとも中心にあるのは、決意し、約束をしてそれを守る能力である。
自分自身や他者に約束をし、その約束に対して誠実な態度をとることが、私たちの主体性の本質であり、そこにもっとも明確に現れるのである。それは私たちの成長の本質でもある。
人間だけに授けられた自覚と良心という能力を使えば、自分の弱点、改善すべき点、伸ばすことのできる才能、変えるべき行動、やめなければならないことを意識することができる。
そして、これらの自覚に実際に取り組むためには、やはり想像と意志を働かせ、自分に約束し、目標を立て、それを必ず守る。
こうして強い人格や人としての強さを築き、人生のすべてをポジティブにするのだ。ここで、あなたが今すぐにでも自分の人生の主導権を握るための方法を二つ提案しよう。
一つは何かを約束して、それを守ること。もう一つは、目標を立て、それを達成するために努力することだ。
どんなに小さな約束や目標であっても、それを実行することで、自分の内面に誠実さが芽生え、育ち、自制心を自覚できるようになる。
そして自分自身の人生に対する責任を引き受ける勇気と強さを得られる。
自分に、あるいは他者に約束をし、それを守ることによって、少しずつ、その場の気分よりも自尊心のほうが重みを増していく。
自分自身に約束し、それを守る能力は、人の効果性を高める基本の習慣を身につけるために不可欠である。
知識・スキル・意欲は、私たち自身が直接コントロールできるものである。バランスをとるために、三つのうちどこからでも取り組むことができる。
そしてこの三つが重なる部分が大きくなっていけば、習慣の土台となっている原則を自分の内面に深く根づかせ、バランスのとれた効果的な生き方ができるような強い人格を築くことができる。
主体性:三〇日間テスト
自分の主体性を認識し、育てるために、なにもヴィクトール・フランクルのように過酷な体験をする必要はない。
日常の平凡な出来事の中でも、人生の大きなプレッシャーに主体的に取り組む力をつけることはできる。
どのような約束をして、どのようにそれを守るか、交通渋滞にどう対処するか、怒っている顧客や言うことを聞かない子どもにどのような反応を選択するか、問題をどうとらえるか、何に自分の努力を傾けるか、どのような言葉遣いをするか。
三〇日間、自分の主体性を試すテストに挑戦してみてほしい。実際にやってみて、どういう結果になるか見るだけでいい。
三〇日間毎日、影響の輪の中のことだけに取り組むのである。小さな約束をして、それを守る。裁く人ではなく、光を照らす人になる。批判するのではなく、模範になる。問題をつくり出すのではなく、自らが問題を解決する一助となる。
これを夫婦関係において、家庭で、職場でやってみる。他者の欠点を責めない。自分の欠点を正当化しない。間違いを犯したら、すぐに認め、正し、そこから教訓を得る。間違いを他者のせいにしない。
自分がコントロールできることに取り組む。自分自身に働きかけ、「ある(be)」ことに取り組む。
他者の弱点や欠点を批判的な目で見るのをやめ、慈しみ深い目で見る。
問題はその人の弱点や欠点ではなく、それに対してあなた自身がどんな反応を選択し、何をすべきかである。
問題は「外」にある、そんな考えが芽生えたら、すぐに摘み取ってほしい。そう考えることこそが問題なのである。
自分の自由の芽を日々伸ばす努力を続けていると、少しずつ自由が広がっていく。逆にそうしないと、自由の範囲がだんだんと狭まっていき、自分の人生を主体的に生きるのではなく、「生かされている」だけの人生になる。
親や同僚、社会に押しつけられた脚本に従って生きることになるのだ。自分の効果性に責任を持つのは自分以外にはいない。幸せになるのも自分の責任である。
突き詰めて言えば、自分がどういう状況に置かれるかは、自分自身の責任なのである。サミュエル・ジョンソン(訳注:英国の文学者)の言葉を借りよう。
「満足は心の中に湧き出るものでなければならない。人間の本質を知らない者は、自分自身の人格以外の何かを変えて幸福を求めようとするが、そのような努力が実を結ぶはずはなく、逃れたいと思う悲しみを大きくするだけである」
自分は責任ある(反応を選択する能力)人間であると自覚することが、自分自身の効果性の土台となる。そして、これから取り上げる習慣の土台となるのだ。
第1の習慣:主体的である実践編
1丸一日、自分が話す言葉に注意し、周りの人々の言葉も注意して聴いてみる。
「……でさえあったらなあ」「できない」「しなければならない」というような反応的な言葉を何回使ったり聞いたりしただろうか?
2近い将来にありそうなことで、過去の経験からみて反応的な態度をとるだろうと思うものを一つ選ぶ。
自分の影響の輪の中で、その状況を考え直してみる。どのような反応を選択すれば主体的であるだろうか?その状況を頭の中でありありと想像してみる。
主体的に反応している自分を思い描いてみる。刺激と反応の間にあるスペースを思い出そう。そこには選択の自由がある。その自由を生かすことを自分に約束する。
3仕事や私生活で抱えている問題を一つ選ぶ。
それはあなたが直接的にコントロールできる問題だろうか、間接的にコントロールできる問題だろうか、それとも自分にはコントロールできない問題だろうか。
それを判断したうえで、問題を解決するために影響の輪の中でできることを一つ決め、実行する。
4主体性の三〇日間テスト(一一一ページ)にトライする。
影響の輪がどのように変化するか見てみよう。
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