相互依存のパラダイム
信頼なくして友情はない。誠実さなくして信頼はない。──サミュエル・ジョンソン
ここからは公的成功の領域に入っていく。
だがその前に、本当の意味での「自立」という土台があって初めて効果的な「相互依存」が築けるということを、心に留めておいてほしい。
私的成功は、公的成功に先立つ。
代数を学んでからでなければ、微積分は理解できないのと同じである。
ここまでの道を振り返り、最後に到達したい場所に続く道のりのどこまで進んだのか、どのあたりにいるのかを確かめてみれば、今ここに来るまでは、この道しかなかったことがはっきりとわかるだろう。
これ以外の道はないし、近道もない。今のこの地点にパラシュートで舞い降りることもできないのだ。
前方に広がる風景を見れば、近道をしようとして無残にも壊れた人間関係の破片が散乱している。
自分の内面を成熟させる努力をせず、人格を磨かず、手っ取り早く人間関係を築こうとした人たちの失敗の跡である。
実りある人間関係をそんなに安易に築けるわけがない。一歩一歩進んでいく以外に方法はないのだ。
まずは自分に打ち克って成功していなければ、他者との関係において、公的成功を収めることはできない。
数年前、オレゴン州の海沿いにあるホテルでセミナーを行っていたとき、一人の男性参加者が私のところに来て、こう言った。
「先生、私はこういうセミナーに来るのが大嫌いなんですよ」私は彼の言葉に注意を向けざるを得なかった。
彼は話を続けた。
「美しい海岸線、青々とした海。皆さんすべてを楽しんでいますよね。でも私はそうじゃない。今晩も妻から電話がかかってきて、質問攻めにされるのかと思うと、憂鬱ですよ。出張のたびに厳しい取調べを受けるんです。
朝ごはんはどこで食べたの、誰と一緒だったの、午前中はずっと会議だったの、何時に誰と昼食をとったの、午後はどうしてたの、夜はどこに行ったの、誰と一緒だったの、何を話したの……こんな調子ですよ。
私が話したことはどこで裏がとれるのか、妻は本当はそう聞きたいんです。絶対口にはしませんがね。私が出張のときは必ず、そうやって質問攻めにする。せっかく素晴らしいセミナーなのに、気分が台無しです。全然楽しめませんよ」
彼は見るからに憂鬱そうだった。しばらく話を続けていると、彼は実に興味深いことを言った。
「でもまあ、彼女がそんなに疑心暗鬼なのもわかりますよ」少し恥ずかしそうに、彼は続けた。
「今の妻と知り合ったのもこういうセミナーだったんです……前の妻と結婚していたときに!」私は彼の言葉の意味をしばらく考えてから、「あなたは応急処置をしたいんじゃないですか?」と尋ねた。
「は?どういう意味ですか?」「奥さんの頭をドライバーでこじ開けて、配線を変え、奥さんの態度を手っ取り早く変えたい、そう思っているのでしょう?」「もちろん変わってほしいですよ」と声を張り上げた。
「私だって、彼女がいつも質問攻めにすることに辟易していますから」「いいですか、自分の行動で招いた問題を言葉でごまかすことはできないのですよ」と私は言った。
私たちがこれから取り組むのは、これまでの考え方を根底からくつがえすパラダイムシフトである。
自分自身をさておいて個性主義のテクニックやスキルで人間関係を円滑にすることだけに汲々としていたら、もっとも大切な人格という土台を崩してしまいかねない。
根のない木に実はつかない。これは原則であり、ものには順序がある。私的成功は、公的成功に先立つ。自分を律し、自制することが、他者との良好な関係を築く土台になる。
自分を好きにならなくては他者を好きにはなれない、と言う人もいる。たしかに一理あると思う。
しかしまず自分自身を知り、自分を律し、コントロールできなければ、自分を好きになることはとても難しい。
好きになれたとしても、短期間で消えてしまう上辺だけの思い込みにすぎない。自分をコントロールできている人、本当の意味で自立している人だけが、真の自尊心を持つことができる。
それは、第1、第2、第3の習慣の領域である。相互依存は、自立を達成した人間にしかできない選択である。
本当の意味で自立した人間になる努力をせずに、人間関係のスキルだけを磨くのは愚かなことだ。
そういったスキルを使い試してみることはできるだろう。環境や条件が良ければ、ある程度はうまくいくかもしれない。しかし、困難なことは必ず起こる。
そうしたとき、すべての土台が崩れてしまい、保つことができなくなるだろう。人間関係を築くときにもっとも大切なのは、あなたが何を言うか、どう行動するかではない。あなたがどういう人間かということだ。
言葉や行動が、あなたの内面の中心(人格主義)からではなく、表面だけの人間関係のテクニック(個性主義)から生まれていたら、相手はすぐにその二面性を感じとる。
安易なテクニックでは、効果的な相互依存に必要な土台を築き維持することなど絶対にできないのである。
人間関係を深めるテクニックやスキルがあるとすれば、それは真に自立した人間から自然と出てくるものである。だから、どんな人間関係でも、まずは自分の内面に土台を築かなければならない。
影響の輪の中心を揺るぎないものにし、自分の人格を磨かなくてはならない。
人は自立するにつれて、主体的になり、原則を中心に置き、自分の価値観に従って行動し、人生において最優先事項を誠実に計画し実行できる。
自立した人間になって初めて、相互依存の人間関係を選択できる。そして豊かで、永続的な実り多い人間関係を築くことができるのである。これから入っていく相互依存の世界は、まったく新しい次元の領域である。
深く豊かで、意味のある人間関係を築き、私たちの生産性を飛躍的に伸ばす機会に満ち、奉仕し、貢献し、学び、成長する喜びを与えてくれる世界である。
しかし同時に、とてつもなく強い痛みやフラストレーションを感じ、幸福と成功を阻む大きな障害にぶつかる世界でもある。それは急性の痛みであり、誰でもすでに経験している痛みだ。
ビジョンもなく、自分を導くことも律することもなく日々を送っていると、誰でも慢性の痛みを感じる。何となく不安や不満を覚え、少しの間だけでも、そんな痛みを和らげようと何がしかの処置を講じることもあるだろう。
しかし、痛みといっても慢性であるため、知らず知らずのうちに慣れてしまい、その痛みを受け入れて生きていくすべを身につけてしまう。ところが人間関係で問題が生じると、慢性の痛みは急性の痛みに転じる。強烈な痛みだから、一刻も早く鎮めたくなる。
そういうとき、私たちは応急処置で治療しようとする。個性主義という名のテクニックを絆創膏のように患部に貼りつけるのだ。
しかし、急性の痛みの根源は慢性的な問題にあるのだ。表に出てきた症状だけを治療するのではなく病根を取り除かなければ、応急処置はむしろ逆効果になる。慢性の痛みにますます慣れていくだけなのである。
ここでは効果的な人間関係について考えていくが、その前にもう一度、効果性の定義を確認しておこう。
ガチョウと黄金の卵の話を思い出してほしい。
あの物語から引き出せるように、効果性とは、P(黄金の卵=成果)とPC(ガチョウ=成果を生み出す能力)のバランスである。
相互依存の関係で言えば、黄金の卵は、人と人が心を開き、前向きに力を合わせたときに発揮される素晴らしいシナジーのことである。
この黄金の卵を毎日手に入れたいと思うなら、ガチョウの面倒をよくみなければならない。実りある人生を生きようとするなら、人間関係を大切に育てていく努力を惜しんではいけない。
これまでの洞察から離れ、第4、第5、第6の習慣に入る前に、相互依存で成り立つ世の中の人間関係とP/PCバランスを具体的に考えるうえでぴったりのたとえ話を紹介したい。
信頼口座
銀行の預金口座がどのようなものかは、誰でも知っている。お金を入れれば残高が増え、必要なときにお金を引き出せる。
それと同じように、人と人の関係で生まれる信頼を貯えておくことを銀行の口座にたとえて、信頼口座と呼ぶことにしよう。それは、人間関係における安心感でもある。
たとえば私があなたに対して礼儀正しく接し、親切にし、約束を守れば信頼口座の残高が増える。
残高が多くなるほど、あなたは私を信頼してくれるから、私は必要なときにいつでも、あなたの信頼を頼ることができる。
何か失敗をしても、私に対するあなたの信頼のレベルが高ければ、つまり信頼残高が多ければ、それを引き出して補うことができる。
私の言葉に足らないところがあっても、あなたは私の言いたいことを察してくれるだろう。たった一言で仲たがいする心配はない。
信頼口座の貯えが多ければ、コミュニケーションは簡単に、すぐに効果的になる。
しかし、私があなたに日頃から無礼をはたらいたり、見下したり、あなたの話の途中で口を挟んだり、あなたの行動に過剰反応して騒ぎ立てたり、無視したり、気まぐれな態度をとったり、あなたの信頼を裏切ったり、おどしたり、あなたの生活を私の意のままにしようとしたりすれば、信頼のレベルは下がる一方であり、そのうち私の信頼口座は残高不足になってしまう。
そしてあなたとの関係に融通がきかなくなる。信頼口座がからっぽの状態は、まるで地雷原を歩くようなものだ。
言葉一つに気を遣い、相手の顔色をうかがいながら言葉を選ばなければならない。緊張の連続だ。わが身を守るために裏工作に奔走する。
実際、多くの組織が、多くの家族が、多くの夫婦が、こんな状態に陥っているのである。日頃から信頼を預け入れて残高を維持しておかないと、結婚生活はいずれ綻び始める。
お互いのことが自然にわかり合える愛情豊かなコミュニケーションはいつの間にかなくなり、家庭は単に寝泊まりする場所と化し、お互いに干渉せず、それぞれが勝手に自分の生活を営むことになる。
夫婦の関係がさらに悪くなれば、敵意と自己防御に満ち、「対立」か「逃避」の二つしか選択肢はなくなる。
お互いに喧嘩腰になり、ドアをぴしゃりと閉める。あるいは、だんまりを決め込んで殻に閉じこもり、自分をひたすら憐れむ。
しまいには冷戦に発展し、子どもやセックスや社会的圧力、世間体のためだけにかろうじて夫婦を続けている状態になる。
あるいはついに火ぶたが切られ、対立が裁判所に持ち込まれることもある。かつては夫婦だった二人が何年も法廷で罵り合い、相手の罪を延々と並べたて、お互いの心を傷つけ合う。
この世の中でもっとも親密で、豊かで、楽しく、充実し、満ち足りた人間関係になるはずの夫婦でさえ、このような破綻に陥る可能性がある。
P/PCバランスの灯台は、夫婦関係にも存在する。
その灯りを無視して座礁するのも、灯りを頼りにして無事に進んでいくのも、あなた次第なのである。
結婚生活のように長く続く人間関係であればなおさら、継続的な預け入れをしておかなければならない。お互い期待感を持ち続けるため、古い預け入れ残高はどんどん減っていくからだ。
長年会っていなかった学生時代の友人にばったり出会ったりすると、昔と変わりなく話ができる。それは以前の貯えがそっくりそのまま残っているからだ。
しかし、しょっちゅう顔を合わせる人とは、まめに残高をチェックして預け入れをしなければならない。
毎日の生活の中ではしばしば自動引き落としが起きているからだ。自分でも知らないうちに口座の貯えを使っていることがあるのだ。これは特に思春期の子どもがいる家庭に当てはまる。あなたにティーンエイジャーの息子がいるとしよう。
「部屋を片づけなさい。シャツのボタンはきちんとかけなきゃ駄目でしょう。ちょっと、ラジオの音うるさいわよ。床屋に行きなさいって言ったでしょう。ゴミを出すの、忘れないでよ」
息子との会話がいつもこんな調子だったら、引き出しが預け入れを上回ってしまう。この息子が今、一生を左右する重大な決断を迫られているとしよう。
信頼のレベルが低く、これまであなたと機械的で満足する会話をしたことがないのだから、心を開いてあなたに相談しようと思うわけがない。
あなたは大人で知恵も分別もあるのだから、息子の力になれるはずだ。
だが残高がマイナスだったら、息子はあなたに相談せず、自分の感情的な狭い視野で短絡的に決断してしまうだろう。
そして、その決断が息子の人生に影を落とすことにもなりかねない。難しい問題を親子の間で話し合うには、口座にたっぷりと残高がなくてはならない。では、そのためにはどうしたらいいのだろうか。人間関係に預け入れをし始めたら、何が起きるだろう。機会を見つけて息子にちょっとした気遣いをする。
たとえば息子がスケートボードに興味があるなら、その手の雑誌を買って帰るとか、宿題か何かに苦労しているようなら、「手伝ってあげようか」と声をかけてやるとか、映画に誘って、その後で一緒にアイスクリームを食べるのもいいだろう。
しかし一番の預け入れは、口を挟まず黙って話を聴いてやることだ。
説教したり、自分の若い頃の経験を得意がって話して聞かせたりせず、息子の話にひたすら耳を傾け、理解しようとすることだ。
おまえのことを大切に思っている、おまえを一人の人間として認めているのだと、態度で伝えるのである。最初のうちは何の反応もないかもしれない。
あるいは「いったい父さんは何をたくらんでいるんだ?母さんは今度はどんな手を使おうとしているんだ?」と疑り深くなるかもしれない。
しかし、あなたが偽りのない本心からの預け入れを続けていれば、残高が増えていく。人間関係において応急処置は幻想にすぎないことを肝に銘じてほしい。人間関係は、築くにも修復するにも、時間がかかる。
息子がまるで反応をみせず、感謝の気持ちを微塵も示さないからといって忍耐をなくしたりしたら、それまでに積み立てた信頼を一気に取り崩すことになり、せっかくの努力も水の泡になってしまう。
「こんなにしてあげているのに、おまえのためにこんなに犠牲を払ってやっているのに、ありがとうの一言も言えないなんて。親の心子知らずとはこのことね。信じられない」。
辛抱強く待つのは簡単なことではない。主体的になり、自分の影響の輪の中で努力するには高い人格が要る。
根が土中にしっかりついているかどうか見たいからといって花を引っこ抜くようなまねをせず、相手が成長するのをじっと待たなくてはならないのだ。
くどいようだが、人間関係に応急処置は効かない。関係を築くこと、修復することは、長い時間をかけて人間関係に投資することなのだ。
主な六つの預け入れ
ここで、信頼口座の残高を増やす六つの預け入れを紹介しよう。
相手を理解する相手を本当に理解しようとする姿勢は、もっとも重要な預け入れである。また他のすべての預け入れの鍵となる。
相手を理解できなければ、その人にどのような預け入れをすればよいかわからないからだ。
散歩に誘って語り合うとか、一緒にアイスクリームを食べるとか、仕事を手伝ってあげるといったようなことが、あなたにすれば預け入れのつもりでも、相手にとっては預け入れにならないかもしれない。
相手の本当の関心やニーズと合っていなければ、預け入れどころか引き出しになるかもしれない。
ある人にとっては人生をかけた一大事であっても、他の人には取るに足らないこともある。
相手を思って預け入れをするのなら、相手が大切に思っていることをあなたも同じように大切にしなければならないのである。
重要な仕事をしている最中に、どうでもいいようなことで六歳の子どもが邪魔をしたとしよう。
しかし、その子にしてみればとても重要なことかもしれないのだ。
相手が自分に対しどのような価値を持つのかを知り、再認識するには第2の習慣が必要となる。
そして第3の習慣で学んだように、場合によってはスケジュールを曲げてでも、その人のニーズを優先しなければならない。
仕事中に子どもが何か言ってきたら、子どもと同じ立場になってそれを大切に扱えば、子どものほうは「わかってもらえた」と感じる。
するとその瞬間、預け入れが増えるのである。友人の息子は熱烈な野球ファンだった。しかし父親のほうは野球にはまったく興味がない。
ところがある年の夏、この友人は息子を連れて、メジャーリーグの試合を一つずつ見てまわった。
その旅行には六週間という時間と相当なお金を費やした。しかしそれは息子との強い絆をつくる貴重な経験となった。
旅行から帰ってきて、彼はある人から「君はそんなに野球好きだったのか?」と聞かれ、こう答えた。
「いや。でも、それくらい息子のことが好きなんだ」大学教授をしている別の友人は、一〇代の息子との関係がうまくいっていなかった。
彼は研究に明け暮れる日々を送っていたが、息子は頭を使うよりも手仕事のほうが好きなタイプだった。父親にしてみれば、息子は人生を無駄にしているとしか見えなかったのだ。
そのために、しょっちゅう嫌味を言っては後悔することの繰り返しで、何とか信頼を取り戻そうとするものの、空回りするばかりだった。
彼が預け入れをしようとするたび、息子はそんな父親の態度を見て、父親は別のやり方で自分を拒絶し、他の人たちと比較し、評価されたと受け止めるのだった。
こうして息子に対する大きな引き出しになった。親子関係は殺伐としたものになり、私の友人は心を痛めていた。
私はある日、「相手を大切に思うなら、相手が大切に思っていることを自分も同じように大切にしなければならない」という原則を彼に教えた。
この言葉を真剣に受け止めた彼は、息子と一緒に、家の周りに万里の長城に似た塀をつくることにした。
時間も労力もかかる一大プロジェクトである。彼は息子と肩を並べ、一年半以上かけて塀を完成させた。この経験が親子の絆を強くし、彼の息子は人間的に成長した。そのうえ勉強して能力を伸ばしたいという意欲も出てきた。
しかしこのプロジェクトがもたらした本当の価値は、父と子の関係が以前とはまるで違うものとなったことだ。
親子関係に溝をつくっていたお互いの違いが、今は喜びを与え、二人を強く結びつけているのである。
私たちは、自分の体験や考え方から、相手はこういうことを望んでいるのだと勝手に判断する傾向にある。相手の態度から解釈してしまうのだ。
だから、今現在、あるいは相手と同じくらいの年齢だった頃の自分のニーズや欲求に照らし合わせて、相手もこういう預け入れを望むだろうと思い込む。
そうした努力が受け入れられないと、せっかくの善意が拒絶されたと感じて、預け入れをやめてしまうのである。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(『マタイによる福音書』七章一二節)という黄金律がある。
文言をそのまま解釈すれば、自分が他の人からしてもらいたいと思うことを他の人にしてあげる、という意味だが、もっと掘り下げて考えてみると、この黄金律の本質が見えてくる。
自分はこう理解してほしいと思うように相手を一人の人間として深く理解し、その理解に従って相手に接する、ということではないだろうか。
素晴らしい親子関係を築いているある人物が、「一人ひとりの子どもに対してそれぞれ違う接し方をしてこそ、公平に接していることになる」と話していた。
小さなことを気遣う
ちょっとした親切や気配りはとても大切だ。ほんの少し思いやりが足りなかったり礼儀を欠いたりしただけで、大きな引き出しとなってしまう。
人間関係では、小さなことが大きな意味を持つのである。もう何年も前、私は二人の息子を連れて出かけた夜のことを今でも覚えている。前々から計画していた「男たちだけの外出」である。
まずジムで汗をかき、それからレスリングの観戦、ホットドッグとオレンジジュース、映画までそろった盛りだくさんの夜だった。
当時四歳だったショーンは、映画の途中で椅子に座ったまま眠ってしまった。六歳になる兄のスティーブンは起きていたから、私たち二人は映画を最後まで観た。
映画が終わると、私はショーンを抱きかかえて車まで運び、後ろの座席に寝かせた。寒い夜だったので、私のコートを脱いでショーンにかけ、そっとくるんでやった。家に着くと、私はまずショーンをベッドまで運んだ。
スティーブンがパジャマに着替えて歯を磨き終え、ベッドに入ると、私も彼の隣に横になり、その夜のことを話し始めた。
「今夜はどうだった?」「よかったよ」「楽しかったかい?」「うん」「何が一番よかった?」「わかんない。トランポリン、かな」「あれはすごかったなあ。宙返りとかいろいろやっちゃってさ」スティーブンはちっとも話に乗ってこない。
私だけが話していて、まるで会話になっていなかった。スティーブン、いったいどうしたんだろう。
いつもなら、楽しいことがあると自分からどんどん話すのに……私は少しがっかりした。そこで私は気づいた。
そういえば、帰りの車の中でも、寝る支度をしているときも、やけにおとなしかった、おかしいな……すると突然、スティーブンは寝返りを打って壁のほうを向いた。
どうしたのだろうと思い、彼の顔をそっとのぞき込むと、目に涙があふれていた。「どうした?」スティーブンは私のほうに向き直った。涙を浮かべて口をふるわせ、きまり悪そうにしている様子がうかがえた。
「父さん、ぼくが寒いとき、ぼくにも父さんのコートかけてくれる?」三人で出かけたあの特別な夜、たくさんの出来事の中でスティーブンの心に残ったもっとも大切なことは、自分の弟に対して父親が見せたほんの一瞬の小さな思いやり、親の愛情だったのだ。
あの夜の経験は、今も私にとって重要な教訓として残っている。人の内面は脆く傷つきやすい。年齢や経験を重ねても同じだと思う。
外側はどんなに固い殻で覆われていても、内側には痛みを感じやすい柔らかな心があるのだ。
約束を守る約束を守ることは、大きな預け入れになる。逆に約束を破れば、大きな引き出しになる。
相手にとって大切なことを約束しておきながら、それを守らないことほど信頼を裏切る行為はない。次の機会に約束をしても、信じてもらえなくなる。
一つ何かを約束すれば、相手はその約束にいろいろな期待を抱くものである。自分の生活に直接関わる問題の約束となれば、期待はなおさら強くなるだろう。
私は親として、守れない約束はしないという方針を貫いてきた。約束は注意深く慎重にする。
事情が変わって約束を守れないことになっては信頼に関わるから、不測の事態をできる限り想定する。
とはいえ、これほど慎重にしていても、予期していなかったことが起こり、どうしても約束を守れなくなることがある。
状況によっては約束を守るほうが賢明ではない場合もある。それでも、約束は約束である。
だから、事情がどうあれ約束を果たすか、相手によく説明して、約束を撤回させてほしいと頼む。
親と子の意見が食い違い、溝ができているなら、約束を守る習慣を身につけることによって、その溝に信頼という橋を架けられる。
子どもがやろうとしていることが親からすれば好ましくなく、必ず悪い結果になることは大人の目には明らかなのに、子どもには見えていないとき、「それをしたらこういう結果になるんだよ。約束してもいい」とはっきり言える。
子どもが親の言葉と約束に深い信頼を置いているなら、親の忠告に必ず従うはずだ。
期待を明確にするたとえば、あなたとあなたの上司の間で職務記述書をどちらが作成する役割だったか誤解があったという面倒なことになったとしよう。
「私の職務記述はいついただけるのでしょうか」とあなたは尋ねる。「私のほうは君が原案を持ってくるのを待っていた。一緒に検討するつもりだったんだよ」と上司は答える。
「あなたが私の仕事を明確にしてくださるものと思っていました……」「それは私の役目じゃない。どういうふうに仕事を進めるかは君に任せると、最初に話していたはずだ。忘れたのかね?」「仕事の出来不出来は私の努力次第という意味でおっしゃっていたのかと思っていました。
ですが、まだ自分の仕事の内容もわかっておりません……」目標があっても、その目標で期待されることが明確になっていないと、誤解が生まれて信頼を損なう結果になる。
「言われたとおりにやりました。これが報告書です」「報告書?私は問題を解決してくれと言ったのだ。
問題の分析や報告書の作成を頼んだ覚えはない」「私が問題点を整理して、後は別の誰かに任せるものだとばかり……」このようなちぐはぐな会話は誰でも一度ならず経験したことがあるはずだ。
「あなたはそうおっしゃいました」「いや、言ってないよ。私はこう言ったんだ……」「いいえ、そのようなことはおっしゃっていません。それをしろという指示はうかがっておりません…」「いや言ったとも。はっきりと言ったはずだ」「それについては一言も触れていませんでした」「だが、君も私も了解したじゃないか」
役割や目標に対して期待することが曖昧だったり、認識が食い違っていたりすると、たいていは人間関係に支障をきたすものである。
職場で誰が何を担当するのかを決めるときでも、娘に部屋を掃除しなさいと言うときでも、金魚の餌やりやゴミ出しの係を決めるときでも、何を期待するのかを明確にしておかないと、必ず誤解を生み、相手を失望させ、信頼を引き出してしまうことになる。
しかし多くの場合、期待がはっきりと語られることはない。そして、明確な言葉で説明していないにもかかわらず、具体的な期待を胸に抱いているものだ。
たとえば夫婦なら、口には出さなくても、結婚生活における男女それぞれの役割をお互いに期待している。
そのことを二人できちんと話し合うわけでもないし、そもそも自分が相手に何を期待しているのかはっきりと意識していないこともある。
しかし夫であれ妻であれ、相手の期待に応えれば大きな預け入れになり、期待を裏切れば引き出しになる。
だから、新しい状況になったときには、最初に当事者全員の期待を洗いざらい出すことが重要なのだ。
知らない者同士がお互いに相手がどういう人間か判断しようとするときには、まず自分が抱いている期待を判断基準にする。そして、自分の期待が裏切られたと感じた瞬間、引き出しになる。
こちらが期待していることは相手にもよくわかっているはずだ、相手もそれを受け入れているはずだと勝手に思い込んでいることで、多くのネガティブな状況をつくり出している。
だから、最初に期待を明確にすれば、預け入れになる。これができるようになるまでには時間と労力がかかる。
しかし、長い目で見れば時間も労力も大幅に節約できる。
期待の内容をお互いにはっきりと了解していないと、人は感情的になり、ほんの小さな誤解が積もり積もって激しい対立に発展し、コミュニケーションが決裂してしまうこともある。期待の内容をはっきりと伝えるのは、勇気が要ることもある。
意見の違いを目の前に出して、お互いに納得のいく期待事項を話し合って決めるよりも、あたかも意見の違いなどないかのように振る舞い、きっとうまくいくだろうと思っているほうがよっぽど気楽だからである。
誠実さを示す誠実な人は信頼される。誠実さは、さまざまな預け入れの基礎になる。
信頼残高を増やすためにいくら努力しても、誠実さがなければ残高はたちまちゼロになりかねない。
相手を理解しようとし、小さな気配りも怠らず、約束を守り、期待することを明確に伝え、期待に応えたとしても、心に二面性を持っていたら、信頼残高を増やすことはできない。
正直は誠実さの一部であって、誠実であることは正直以上のものである。
正直とは真実を語ることであり、言い換えれば、現実に自分の言葉を合わせることだ。
これに対して誠実さとは、自分の言葉に現実を合わせることである。約束を守ること、相手の期待に応えることが、誠実な態度である。
誠実であるためには、裏表のない統一された人格がなくてはならない。自分自身のあり方にも、自分の生き方にも。
誠実な人間となるもっとも大切なことは、その場にいない人に対して忠実になることである。その場にいない人に誠実な態度をとれば、その場にいる人たちの信頼を得られる。
いない人を擁護して守ろうとするあなたの態度を見れば、居合わせた人たちは、あなたを信頼する。
あなたと私が二人きりで話をしているときに、私が上司の悪口を言ったとしよう。本人がいたらとても面と向かっては言えない調子で批判するのである。
それからしばらくして、あなたと私が仲たがいしたらどうなるだろうか。あなたは、私があなたの欠点を誰かに話しているのではないかと思うはずだ。
以前、私が上司の陰口を言っているのをあなたは知っているからだ。あなたは私という人間の本性を知っている。
本人と面と向かっているときは調子よく話を合わせ、陰で悪口を言う。あなたはそれを実際に目にしているのである。
二面性、裏表があるというのはこういうことである。このような人が信頼口座の残高を増やすことができるだろうか。
反対に、あなたが上司批判を始めたとき、私が「君の批判はもっともだ。これから上司のところに行って、こういうふうに改善してはどうかと提案しよう」と持ちかけたらどうだろう。
誰かが陰であなたの悪口を言うようなことがあっても、その場に私がいたらどうするか、あなたにはわかるはずだ。
あるいはこういう例はどうだろう。私はあなたと良い関係を築きたいと思っている。だからあなたの気を引こうと、誰かの秘密をあなたに漏らすのだ。
「本当は言っちゃいけないんだけど、君とぼくの間だから……」というように、人を裏切る私の行為を見て、あなたは私を信頼するだろうか。
ひょっとしたら、自分がいつか打ち明けた秘密もこんな調子で話してまわっているのではないかと、逆に不信感が生まれるのではないだろうか。
二面性は、相手への預け入れに見えるかもしれない。
しかし、自分の不誠実さをさらけ出しているのだから、実際は引き出しになってしまう。
その場にいない人を見下したり、秘密を漏らしたりして、いっときの楽しみという黄金の卵を手にするのと引き換えに、ガチョウの首を絞めることになる。
信頼関係に傷がつき、長く続く人間関係から得られるはずの喜びを犠牲にすることになるのだ。
現実社会において相互依存をもたらす誠実さとは、一言で言えば誰に対しても同じ原則を基準にして接することである。そうすれば、周りの人たちから信頼されるようになる。
誠実であろうとすれば、相手の考えと相容れないことでも率直に言わなければならない場面がある。
だから最初のうちは誠実な態度が快く受け入れられないかもしれない。面と向かって正直にものを言うのは、相当な勇気の要ることだ。
たいていの人は、なるべくなら摩擦を避けたいから、その場にいない人の噂話になれば自分も加わり一緒になって陰口を言い、秘密を漏らす。
しかし長い目で見れば、裏表なく正直で、親切な人こそが信頼され、尊敬される。相手を大切に思っているからこそ、その人の耳に痛いこともあえて率直に話すのだ。
信頼されるのは愛されるよりも素晴らしいことである。そして信頼されることは、ゆくゆくは愛されることにもつながるのだと、私は思う。
息子のジョシュアがまだ小さい頃、私によく投げかける質問があった。そのたびに私は心を揺さぶられたものだ。
私が誰かの言動に過剰に反応したり、イライラしたり、機嫌が悪くなったりすると、ジョシュアはそんな私の様子を感じとり、不安になるようだった。
そしてすぐに私の目を覗きこんで、「お父さん、ぼくのこと愛してる?」と聞くのである。
息子は、私が誰かに対して人生の基本原則に反する態度をとっていると感じると、自分も同じような態度をとられるのではないかと思ったのである。私は、教師として、また親として確信していることがある。
それは、「九九人の心をつかむ鍵を握っているのは、一人に対する接し方だ」ということだ。
多くのにこやかな人たちの中で、一人忍耐を強いられている場合は特にそうだ。一人の子どもに示す愛情や態度が、他の生徒や子どもたちに対する愛情や態度となる。
あなたが一人の人間にどう接しているかを見れば、他の人たちも一人の人間として、自分に対するあなたの態度を感じとるのである。
誠実さとはまた、人をだましたり、裏をかいたり、人の尊厳を踏みにじるような言動をつつしむことでもある。
ある人の定義に従えば、「嘘とは人をあざむく意図のある言動のすべて」である。誠実な人間であれば、言葉にも行動にも人をあざむく意図は微塵もないのである。
引き出してしまったときには心から謝る信頼口座から引き出してしまったときには、心から謝らなければならない。誠心誠意の謝罪は、大きな預け入れになる。
「ぼくが悪かった」「私の思いやりが足りなかったわ」「失礼をお詫びします」「あなたに対する配慮が欠けていました。本当に申し訳ありません」「みんなの前で恥をかかせてごめん。
あんなふうに言うべきじゃなかった。自分の考えをはっきりしたかっただけだったんだけれど、あんな言い方をして、ぼくが悪かった。許してほしい」相手が気の毒だから謝るのではなく、誠意を持って、すぐに謝る。
よほど強い人格でなければ、そうそうできるものではない。本心から謝るには、自分をしっかりと持ち、基本の原則と自分の価値観からくる深い内的な安定性がなければならない。
自分に自信がなく、内面が安定していない人にはとてもできないことだ。謝るのが怖いのである。謝ったりしたら自分が弱腰に見え、弱みにつけこまれるかもしれないと心配になる。
彼らは周りの人たちの評価が心の安定のよりどころとなっているから、どう思われるかが気になって仕方がないのである。
しかもこういう人たちに限って、自分の過ちを他者のせいにし、自分の言動を正当化する。たとえ謝ったとしても口先だけでしかない。
「こうべを垂れるならば、深く垂れよ」という東洋の格言がある。キリスト教には「最後の一文まで払え」という言葉がある。
失った信頼を埋め合わせる預け入れにするには、本気で謝らなければならないし、相手にもこちらの誠意が伝わらなければならない。
レオ・ロスキンはこう教えた。
「弱き人こそ薄情である。優しさは強き人にしか望めない」ある日の午後、私は自宅の書斎で原稿を書いていた。
こともあろうにテーマは「忍耐」だった。しばらくして、廊下から息子たちの騒ぐ声が聞こえてきた。しだいに私自身の忍耐が限界に近づき、イライラし始めた。
突然、息子のデビッドがバスルームのドアを叩きながら、「入れてよ、入れてよ」と叫びだした。私はとうとう我慢できなくなり、書斎から廊下に走り出て、息子を大声で叱った。
「デビッド、おまえがそうやって騒ぐと、お父さんがどれだけ迷惑するかわからないのか。気が散って原稿が書けないじゃないか。自分の部屋に行きなさい。おとなしくできるまで部屋から出てくるんじゃないぞ」
デビッドはうなだれ、すっかりしょげて部屋に入り、ドアを閉めた。振り返って見ると、別の問題が発生していることに気づいた。
息子たちは狭い廊下でアメリカン・フットボールをしていたらしく、誰かの肘でもぶつかったのか、デビッドの弟が口から血を流して廊下に倒れていた。デビッドは、彼のためにタオルを取りに行こうとしていたのだった。
ところが姉のマリアがちょうどシャワーを浴びていて、ドアを開けてくれなかったのである。私はすっかり勘違いし、過剰反応していたのだった。すぐにデビッドの部屋に謝りに行った。
私が部屋のドアを開けると、デビッドは開口一番、「お父さんをぜったいに許さないからね」と言った。
「どうしてだい?おまえが弟を助けようとしていたことに気づかなかったんだ。どうして許してくれないんだい?」私は尋ねた。
するとデビッドは、「だって、お父さんは先週も同じことしたもん」と答えた。お父さんは残高不足だ、行動でつくった問題を言葉でごまかすことはできないよ、と言いたかったのだ。
心からの謝罪は預け入れになるが、懲りずに同じ過ちを繰り返していたら、いくら謝っても預け入れにはならない。
預け入れは人間関係の質に反映される。間違いを犯すのは問題だが、間違いを認めないのはそれ以上の問題である。間違いは許してもらえる。
たいていの間違いは判断ミスが原因であり、いわば頭で起こした間違いだからだ。
しかし、悪意や不純な動機、最初の間違いをごまかして正当化しようとする傲慢さは心で起こした間違いだ。心の間違いは、簡単には許してもらえない。
愛の法則と人生の法則
私たちは、無条件の愛という預け入れをするとき、人生のもっとも基本的な法則に従って生きることを相手に促している。
別の言い方をすれば、何の見返りも求めず本心から無条件で愛することによって、相手は安心感を得、心が安定する。
自分自身の本質的な価値、アイデンティティ、誠実さが肯定され、認められたと感じるのだ。
無条件の愛を受けることによって自然な成長が促され、人生の法則(協力・貢献・自制・誠実)に従って生き、自分の中に潜在する大きな可能性を発見し、それを発揮できるようになる。
人を無条件で愛するというのは、相手がこちらの状況や制限に反応するのではなく、自分の内面から沸き起こる意欲に従って行動する自由を相手に与えることだ。
しかしここで勘違いしてはいけない。
無条件の愛は、すべきではない行動を大目に見たり、甘やかしたりすることではない。そのような態度はかえって引き出しとなる。
私たちがすべきことは、相談役になり、弁護し、相手を守り、期待値を明確にする。そして何より相手を無条件に愛することである。
あなたが愛の法則にそむき、愛することに条件をつけたら、人生の基本的な法則にそむいて生きることを相手に勧めていることになる。
すると相手は反応的、防衛的な立場に追い込まれ、「自分が自立した価値ある人間であること」を証明しなければならないと感じるのだ。
このようにして証明しようとする「自立」は、自立ではない。「反依存」の状態である。
依存の違った形であり、成長の連続体で言えば一番低いところにある状態であり、他者に反抗する態度そのものが他者に依存している状態に他ならないのである。まるで敵中心の生き方になる。
人の話を主体的に聴き、自分の内面の価値観に従うことよりも、自己主張と自分の「権利」を守ることだけを考えて生きるようになる。反抗は、頭で起こした問題ではなく心で起こした問題である。
心の問題を解決する鍵は、無条件の愛を預け入れ続けることである。私の友人に、名門大学の学部長を務めていた人物がいる。彼は息子がその大学に入れるようにと、長年貯金し、計画も立てていた。
ところが、いよいよ入試というとき、息子は受験を拒んだ。父親はひどく落胆した。その大学を卒業すれば息子にとっては大きなキャリアになるはずだった。
そもそも、その友人の家は三代にわたってその大学を卒業していた。いわば彼の家の伝統だったのである。彼は、何とか息子を受験させようと説得に説得を重ねた。考えを変えることを内心期待しながら、息子の話に耳を傾け、理解しようともした。
しかし、彼の対応の裏側に潜んでいたのは「条件つきの愛」だった。
一人の人間として息子を思う気持ちよりも、その大学に入ってほしいという欲求のほうが大きかった。
息子は、父親のそんなメッセージを感じとり、父親が自分の存在価値を脅かしていると思った。
だから自分のアイデンティティを守ろうとし、父親の態度に反発して大学に行かない決意をいっそう固めた。
父親のせいで自分の存在価値が脅かされているのだから、大学に行かない決断を下すのは正しい、そう思ったのである。
父親は自分の心の奥底を見つめ、反省し、犠牲を払う決心をした。条件つきの愛を捨てることにしたのである。
息子は私が望む道とは違う道を選ぶかもしれないが、それでもかまわないと覚悟を決めたのだ。
彼と奥さんは、息子がどの道に進もうとも、無条件で愛することにした。
彼ら夫婦は、その大学で学ぶことがどれほど価値あることがわかっていたし、息子が生まれたときから計画してきたのだから、苦しい決断だった。
二人は、脚本を書き直すという難しいプロセスに乗り出し、無条件の愛の本当の意味を理解するために努力した。
自分たちが何をしているのか、なぜそれをしているのか、息子にも説明した。そして、「おまえがどんな選択をしようとも、おまえに対する無条件の愛はいささかも揺らがない。そう正直に言えるようになった」と息子に話すことができた。
二人には、息子をうまく操ろうとか、行いを正そうというような意図は微塵もなかった。それは彼ら自身の成長と人格の延長線上にある当然の行動だった。両親の話を聴いても、息子はあまり反応を示さなかった。
しかし二人はそのときにはもう、無条件の愛というパラダイムを深く心に刻んでいたから、息子に対する気持ちは揺らがなかった。
一週間ほど経って、息子は両親に、やはりその大学には行かないと告げた。両親はその答えを受け入れる用意ができていた。だからその後も無条件の愛を息子に与え続けた。
すべてが落ち着き、普段の生活が戻ってきた。それからしばらくして、事態は意外な展開をみせる。自分の立場を守る必要がなくなったと感じた息子は、内面のもっと奥深くを見つめ始めた。
そして自分の中に、その大学で学びたい気持ちがあることを発見した。彼は入学願書を出し、父親にそのことを話した。父親はこのときも無条件の愛で息子の決断を受け止めた。私の友人は喜んだと思う。
しかしその喜びをとりたてて表すことはしなかった。なぜなら彼はもう、真に無条件で愛することを身につけていた。国連事務総長だった故ダグ・ハマーショルドは、とても意味深い言葉を残している。
「大勢の人を救おうと一生懸命に働くよりも、一人の人のために自分のすべてを捧げるほうが尊い」ハマーショルド氏が言わんとしているのは、たとえば私が一日八時間、一〇時間ことによると一二時間、一週間に五日、六日、もしくはまる一週間ろくに休みもとらずに働いたとしても、妻や難しい年頃の息子、あるいは職場の親しい同僚との間に血のかよった関係が築けなければ、何の意味もないということだろう。
仕事に身を入れるあまり、身近な人たちとの関係がぎくしゃくしてしまい、その関係を元に戻そうと思ったら、謙虚さ、勇気、精神力に満ちた高潔な人格が要る。
世の中の人たちや大義のために働くよりもずっと難しいことなのである。
私はコンサルタントとして二五年間働いてきて、多くの組織と関わったが、その間、この言葉の重みを何度かみしめたことだろうか。
組織が抱える問題の多くは、二人の共同経営者、オーナーと社長、社長と副社長の対立など人間関係に端を発している。
人間関係の問題に正面から取り組み、解決するには、まずは自分の内面を見つめなくてはならない。
だから、自分の「外」にあるプロジェクトや人々に労力をかけるよりも、はるかに人格の強さが求められるのである。
初めてハマーショルドの言葉に出会ったころ、私はある組織で働いていたのだが、私の右腕だった人物とどうもうまくいっていなかった。
お互いに相手に何を期待していいのかはっきりせず、経営管理に関して、相手に期待する役割、目標、価値観、どれをとっても食い違っていた。
しかし私は、そうした違いに正面から向き合う勇気がなかった。とげとげしい敵対関係に発展するのを恐れて、自分をだましだまし何ヵ月もそのまま働いていた。その間、私も彼も、気まずい思いを溜め込んでいったのである。
そんなとき、「大勢の人を救おうと一生懸命に働くよりも、一人の人のために自分のすべてを捧げるほうが尊い」という一文を読み、私は深く感動し、同僚との関係を修復する決心をした。
私は、厳しい話し合いの場面を想像して怯みそうになる自分に発破をかけ、意志を強く固める必要があった。
問題点をはっきりさせ、お互いの考えを深く理解し、納得し合うのは、生半可なことでできるわけがないとわかっていたからだ。いよいよ話し合いの日が近づくと、本当に身ぶるいしたことを今でも覚えている。
私はこの同僚を、どんなときもわが道を行くタイプで、自分の考えが正しいと信じて疑わない頑固な人物だと思っていた。
しかしたしかに仕事のできる人物でもあり、私には彼の強みと能力がどうしても必要だった。
だから全面対決となって関係が壊れ、彼の能力を失ってしまうのではないかと恐れていたのである。
来たるべき日に備えて頭の中で最終リハーサルを終えると、原則を中心に据えて話せば、話し方のテクニックなどどうでもよいのだと気づき、安心し落ち着いてきて、話し合う勇気も湧いてきた。
いざ話し合ってみると、驚いたことに彼もまさに私と同じように悩み続け、話し合いの機会を切に望んでいたという。
彼は私が思っていたような頑固な人物ではなく、身構えたところなど少しもなかった。
そうはいっても、私と彼の経営管理のスタイルがまるで異なっていたのは事実であり、組織全体がそれに振り回されていた。
それぞれが勝手なやり方で仕事を進めているために何かと問題が起きていることをお互いに認め、何とかしようということになった。
何度か話し合いを重ねるうちに、もっと根深い問題も直視できるようになり、お互いの立場を尊重して一つずつ解決していった。
このプロセスのおかげで、私たちの間には深い敬愛の情が生まれ、そればかりかお互いの弱点を補える強いチームとなり、仕事の能率が飛躍的に上がったのである。
企業であれ、あるいは家庭や結婚生活であれ、効果的に運営するためには人と人とが結束しなければならない。
そしてその結束を生むためには、一人ひとりの人格の強さと勇気が要る。
大勢の人々のためになる仕事をどれほど効率的にできたとしても、一人の人間との関係を築けるしっかりした人格が育っていなければ、何の意味もない。
個人対個人の関係、人間関係のもっとも基本的なレベルにおいてこそ、愛と人生の法則を実践しなければならないのである。
Pの問題はPCを高める機会
私はこの経験から、相互依存という重要なパラダイムも学んだ。この考え方は、問題が発生したときにそれをどうとらえるか、どう受け止めるかに関係するものである。
私は同僚との問題を何ヵ月も避けて通っていた。
私にとってそれは障害物であり、イライラの原因でしかなく、何とかして消えてくれないものかと思いながら過ごしていた。
だが結果を見れば、その問題がきっかけとなって同僚との間に絆ができ、お互いの弱点を補い長所を高める強力な相互補完チームとなれたのである。
私が自分の経験から学んだのは、相互依存関係で成り立っている社会にあっては、Pに何か問題があるときこそ、PCを高めるチャンスだということである。信頼口座の残高を増やし、相互依存関係の生産力を大きく伸ばすチャンスなのである。
子どもが問題を抱えているとき、重荷に感じたり面倒だと思ったりせずに、親子関係を深めるチャンスととらえれば、親と子の交流はまるで違ってくる。
親は進んで子どもを理解し、子どもの力になれるチャンスを喜ぶようになる。
子どもが問題を持ってきても、「ああ、またか!まったく面倒ばかり増やして!」ではなく、「子どもの力になってやり、親子の絆を強くするチャンスだ」と考えてみる。
すると、親子の交流は単なるやりとりではなく、親も子も変える力を持ってくる。親が子どもの問題を真剣にとらえ、子どもを一人の人間として尊重する態度が子どもに伝わり、愛と信頼で強く結ばれた関係ができていく。
このパラダイムはビジネスでも大きな力を発揮する。ある百貨店では、このパラダイムを取り入れ、買い物客の心をつかんで固定客を大幅に増やした。
顧客がクレームを言ってきたら、どんなに些細な問題でも、店員は客と店の信頼関係を深めるチャンスととらえる。ほがらかに、前向きな態度で接客し、顧客が満足できるように問題を解決しようとする。
店員は礼儀正しく、行き届いたサービスを提供してくれるから、他の百貨店に行ってみようとは思わなくなる。
現実社会において相互依存をもたらす人生を生きるためには、黄金の卵(P)とガチョウ(PC)のバランスが不可欠だということを頭に入れておけば、問題が起きても、もっとPCを増やすチャンスととらえ、むしろ問題を歓迎できるようになるはずだ。
相互依存の習慣
信頼口座のパラダイムを理解すれば、人と人とが力を合わせて結果を出す「公的成功」の領域に入っていくことができる。
これから公的成功のための習慣を一つずつ見ていくが、これらの習慣が身につくと、相互依存の関係を効果的に築いていけることがわかるだろう。
私たちがどれだけ強烈に他のパターンの考えや行動に脚本づけされているかもわかるだろう。
さらに、本当の意味で自立した人間でなければ、他者との効果的な相互依存関係は築けないことを、もっと深いレベルで理解できるようになるはずだ。
世間一般で言う「Win-Winの交渉術」や「傾聴法」「クリエイティブな問題解決テクニック」をいくら学んでも、しっかりした人格の土台がなければ、公的成功はありえないのである。
それでは、公的成功に至る習慣を一つずつ詳しく見ていくことにしよう。
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