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第3章 清掃

目次

1なぜ、何のために「清掃」をするのか

「またやられたわ!今日出たばかりの雑誌と本ばかり狙われてる……」海保は大きな声をあげてから、軽くパーマをあてている前髪を掻きむしった。

「海保さん、どうしたんですか」バックヤードに入ってきたエリカが淡々と聞いた。「あら、上条さん。また万引きよ。在庫の数と売上が合っていないの。そうか、お昼過ぎに入り口近くの平台に本が無造作に積まれていたけど、あれが万引きの準備だったんだわ。どうせ転売が目的なんでしょうけど」

海保はそう言ってからまた何かを思い出して眉間に皺を寄せた。「そういえば上条さん。この前、万引きが私のせいでもあるって言ったわね。あれどういう意味か説明しなさいよ!」エリカは表情を変えずに口だけを動かす。

「アナタがやったなんて一言も言っていません」「同じようなものよ!万引きってのは本を持っていくだけじゃないの。雑誌の付録だけを盗む主婦もいるし、懸賞が当たる応募券だけちぎって持っていく人もいるのよ。そうなるとその雑誌はもう売り物にならないの。書店員じゃないアナタに私たちの苦しみが分かる?」

エリカは1歩だけ海保に近づいてから淡々と答える。「私だって何にも知らないわけじゃないわ。書店での万引き被害額は年間でおよそ200億円。1日では5千万円強も被害が出ている計算よ」思わず海保が声をあげる。

「1日でそんなに?!ホント許せないわね、万引き犯ってば」エリカはさらに1歩、海保に近づいてから声を発した。

「もちろん盗むヤツは最悪よ。厳しく罰せられるべき。けどね、そもそも盗まれてしまうような環境を作っているのはアナタだって言いたいの」すると海保が机をバン!と叩いた。

「盗まれてしまうような環境を私が作っている?どういうこと?」「アナタが清掃をしていないせいだって言ってるの」「清掃をしていない?清掃ってあのお掃除のことでしょ。お掃除と万引きとどういう関係があるのよ?」

「そもそもこのお店、入り口周辺が薄汚いのよ。アナタが清掃をしている姿を見たこともないけれど、清掃していないわよね?」「ああ、清掃は苦手なのよねぇ。店長にもたまにやれって言われるけど、とりあえず見られてる時だけやってるフリしとけばいいかなって」

「ふん。清掃の重要性を分かってないなんて、使えないわね、アナタ。戦闘力ゼロ?」「ちょ、戦闘力ゼロって……」「それから、入り口前の駐輪場。お客様の数に比べて明らかに自転車の数が多いわよね。これは不法駐輪されているはずだわ。それに、カゴにはお店の袋やブックカバーも捨てられている。それも清掃されていないわ」「それも万引きに繋がるって言うの?」「そうよ」エリカは椅子に腰をかけてから、腕を組んだ。

海保は目を大きくしてエリカを見つめている。「海保さん、汚いレストランって行ったことある?」「汚いレストラン?……ああ、ダンナの実家の近くにある地元の食堂が汚かったわ」「どんな気分だった?」「ああ、確か……ダンナに対して『食欲が湧かない店ね』って愚痴をこぼしたっけ」

「じゃあ、1人3万円のフルコースのフレンチレストランに入ったらどんな気分かしら」「親戚にご馳走してもらって一度だけ入ったことがあるけどね、もう背筋が伸びて目が輝いちゃって、ワクワクしたわ~」「そうでしょう。今の話は書店でも同じことよ。汚い店舗とピカピカのキレイな店舗では、入ってくるお客様の気分は違うものなの」「そうか、ウチが汚いお店だから……」「そう、だから犯罪も起こりやすいのよ。

これは環境犯罪学で言うところのブロークンウィンドウ理論と同じよ」「ブロークン……ウィンドウ?」エリカは、壁に貼り付けてあるホワイトボードに、ペンで車の絵を描いた。

「例えば道に車が放置されているとするじゃない。でも、ただ放置されているだけでは何も起こらないの。そこで……」ペンを持ち上げたエリカは、車の窓ガラス部分にひび割れを描いていった。

「こうして窓ガラスにひび割れを入れたらどうなるか。このまま放置していると途端に、車に傷をつけられたり、周囲にゴミが散乱したり、タイヤをパンクさせられたりするようになって、どんどん環境が悪化していくの。

これがブロークンウィンドウ理論。

こうなった環境では最終的に殺人事件が起きたりもするの」「殺人事件!」海保が裏返ったような声を出す。

「この国だって、地域によって犯罪の発生率というのが異なるはずよ。それは、周りの環境と関係があるんじゃないかしら」「確かに……」「食品工場は清掃にこだわっているわよね。職場が汚れていれば製品に異物が入ったりしてしまい、あっという間に顧客の信用を失って倒産するからよ」

「以前にそんな事件もあったわよね。私もスーパーで買う商品をよく確認したわ」「じゃあ、清掃をするのは食品工場だけでいいのかしら?」「ぐ……」「それ以外の会社でも、仕事が終わった後や仕事の前に清掃をするところは多いわ。

それは、清掃を通して『職場を汚さないようにしよう』という気持ちのあらわれよね。つまり、その会社の行動と結果が清掃にあらわれるの。

だから、汚れている職場っていうのはね……」エリカが海保に近づいてから人差し指を向け、声を発した。

「お客様を舐めてるのよ!」海保は目を丸くしたまま動かない。エリカは続けて口を開いた。

「誰がそんな会社に仕事を頼もうと思うかしら?誰がそんなお店の商品を買おうと思うかしら?アナタの行動のせいで、お客様に舐められてるのよ!」「私のせいで……でも、私だけじゃないはずよ。

だって、パートの人だってアルバイトの子だって」海保は口を尖らせながら応戦した。閉店した店内には誰も残っていないようで、海保の声がバックヤードに響いた。

「あとアナタの欠点がまだあるわ。モノを探していることよ。整理整頓は教わったはずよね」「ええ、神木くんと松井さんから。ちゃんとやったわよ」「でも、できてないのよ。海保さん。それはなぜかというと、清掃をしていないから。清掃にはもう1つ重要な役割があって、整理整頓ができているかを点検する役割もあるの。清掃をしながら、表示されている場所以外にモノが置かれていたら元に戻していく」

「点検をする役割ねえ」「整理整頓ができれば雰囲気は随分変わってくるはずだけれど、さらにそこで清掃を行ってその状態を維持し続けることが大事なのよ」「役割は分かるけど、それをやるのは私だけじゃないはずよ」「海保さん、あそこにゴミが落ちてるんだけど、さっきからアナタ拾わないわよね」エリカが指したのは、バックヤードの入り口にあるゴミだ。

紙が丸まった状態で床に転がっている。海保は苦笑いをしながら「ああ、チラッと見えていたけど、あとで拾おうかなって」と答えた。するとエリカが目を見開いて一喝する。

「気がついたらすぐ拾いなさいよ!」「そんな大きな声出さなくても……。うちの姑より声が大きいわね……」「海保さん。私が以前に所属していたコンサルティング会社の社長が、気がつくとすぐゴミを拾っていたの。何億ももらっている社長がよ」

「へえ、社長さんがねえ。秘書とかが拾えばいいのにねえ」「そう。私も当時はそう思って聞いたのよ。誰かに任せればいいじゃないですかって。そうしたら、こんな風に答えたのよ」「なんて?」

「『私がこのゴミを拾わなければ、1日中ここを通る人の目に触れるだろ。私がこのゴミを拾えば、通る人たちが汚いゴミを見ないで済むじゃないか。だったら拾ったほうがいい』ってね」

「ああ、なんだか胸が痛いわね……」「自分が清掃をすることで、他の人が気持ち良くなる。そういう意識を持つことが大事なのよ」

海保はその日、うなだれたまま家路についた。

●清掃する理由を理解する

清掃っていろんな企業で取り組みをしていたりもするけれど、「何のために清掃をするのか」を理解せずに取り組んでいるところが多すぎるのよ。それだと全く力が入らないし、続かないし、何もいいことが無いわ。

まずは何のために清掃をするのかという理由をしっかり理解してから清掃に向き合うことね。海保さんに言ったことをまとめると「良い環境を作ることで良い仕事に繋がり、お客様にも喜んでいただける」ってことかしらね。

2清掃の手順を叩き込んでおきなさい

翌日も海保の心は晴れていなかった。今まで好き勝手に仕事をしてきたせいか、誰かに注意をされることはなかった。自分を否定されたような気分を引きずったままだったのだ。仕事も気分が乗らず、悶々としたまま日は暮れていった。

空気を察したのか、さすがにアルバイトの女の子が「海保さん、なんだか機嫌が悪そうですね」と気を遣って話しかけたところ、海保の愚痴が爆発した。

「そりゃ機嫌も悪くなるわよ。考えてみたら、ひどいお客様ばっかりよね、このお店。よく見かけるけど、雑誌の袋とじを破くのなんて犯罪よね、アレ。若い男の子はまだ隙間から必死に覗きこもうとしてて可愛いけど、オジさんなんかタチが悪いわ、ホント。

最近は悪質なオバさんがレシピ本をスマホで撮影しちゃったりもするじゃない?お年寄りともなると旅行本を見ながらその場で旅館を予約したり、地図本を『コピーさせろ』って言ってきたり。

本はタダじゃないんだからねぇ、まったくもう」矢継ぎ早に飛び出す海保の言葉に、アルバイトの女の子は圧倒されるだけだった。

女の子が「そ、そうですね」と言いながらバックヤードを出ていこうとするのと入れ違いでエリカが入ってきた。

「やけに愚痴が多いわね」海保はエリカを一瞥すると、「アナタのせいで何だかカリカリしちゃってるのよ」と吐き捨てた。

エリカは海保の様子を気にすることもなく、淡々と続ける。

「それはアナタが今まで仕事と向き合っていなかったからでしょう」「昨日から清掃のことを考えはじめたわよ。

だけど、実際どうやって進めていけばいいか分からないのよ。だって、ただ清掃するだけじゃダメなんでしょ?」「ふん、ようやくその気になったようね。

じゃあ教えるけど、5Sの『清掃』を導入していく手順は大きく3つよ」「3つ……」

「まず1つ目は、清掃方法を決める。2つ目は、清掃道具を整備する。3つ目は、清掃を全員で実施する。この3つよ。簡単でしょ」

「方法を決めて、道具を揃えて、全員で進める……ってことよね」「そう、まずは1つ目の清掃方法ね。

清掃方法の基本は、掃く、拭く、磨くの3つ。そしてポイントは少ない労力で一番キレイになる方法で行うことよ。

例えば、ガラスを拭こうと思ったらティッシュじゃダメよね。専用のガラスクリーナーがあればいいけど、無ければ新聞紙でも代用できる。

例えば、セロハンテープの跡が残ってしまっている部分は、爪で一生懸命はがそうとしても時間のムダ。中性洗剤を使えばキレイになるわ」

「なるほど」「他にも、給湯室周りの水アカや茶渋は歯ブラシで磨いたり、どの場所に何を使ってどうキレイにするかを考えて、それに合わせて清掃道具を整備していくの」「そういう流れなのね」

「それから、使用する清掃道具は職場全員の人数分を用意すること。清掃道具がない、という理由で清掃しない人が1人でも出てはダメなのよ」「確かに、清掃道具が無いから清掃しないって、私も言い訳したことあるわ……。

でも、絶対に全員でやらないとダメなものかしら。誰か1人くらいは休んでも」「ダメよ。全員でやらないと意味がない。

Appleの社訓にこんなものがあるの。“Everyone sweeps thef loor”」「ど、どういう意味かしら。英語分かんなくて……」「〝床清掃は全員で〟ってことよ。成功のためのルールとしてApple社内で言われているの。それぐらい大事だってことよ」「まあ、よく分からないけど、分かったわ」海保はそう言いながら、持っていた手帳にメモを記し、「ちょっと清掃方法を考えてみるわ」と言いながら意気揚々と帰っていった。

数日後の朝。海保が出勤すると、バックヤードにはすでにエリカの姿があった。

「おはよう、海保さん」「おはようございます、上条さん」挨拶を返す海保の姿を見ながら、エリカが言った。

「海保さん、毎日いろんなバッグを使ってるみたいだけど、なんでそんなにたくさんバッグを持ってるのよ」

海保はニヤリとして「これ全部、雑誌の付録よ。最近の女性誌は付録がすごいんだから。手帳とかポーチとか化粧品とか」と得意げに喋りはじめる。

しかし、エリカは表情を変えずに「そうなのね。私は興味ないからいいわ」と答えた。「そうそう、この間言っていた清掃方法を決めてまとめたの。ちょっと見てちょうだい」海保はそう言って付録のバッグから付録の手帳を取り出して見せた。

「フン。悪くないわね」エリカは手帳を一通り見ながら、そう呟いた。

海保は目を輝かせて「これでガンガン清掃していけばいいのよね」と口にしたが、エリカがすぐに海保を制した。

「気が早いわね。実施する前に、まず『ルール表』を作るのよ」「ルール表?」「そうよ。決めた清掃方法や、清掃をする場所、時間を書いた清掃ルール表を作るの」「そうか。皆でそれを見ながら進めていくわけね」

「それだけじゃない。点検表も作るのよ。点検表は、清掃ルール表にもとづいて確実に実施したかどうかを記録するためのものよ」「何だか面倒くさいわね。やった後も書かなきゃいけないの?」「やりっぱなしじゃなくて、実施したかどうかの確認をしないと。

それは記録を見れば明らかでしょ。もしやっていない人がいたら、注意していけばいい」「誰がやってないかも分かるわけね」「それから、清掃は全員参加だと言ったけれども、場所ごとに担当者を決めなさい。その担当者が点検表を付けていくこと」「その日にやりたい場所をやるっていうのじゃダメなのかしら?」

清掃で担当者を決めるのはメリットが3つあるからよ。1つ目は、担当の場所を持つことで自覚と責任感が芽生えるわ」「自覚と責任感。なるほどね」

2つ目は、担当した場所をキレイにすることで『この場所を大事に使って欲しい』って愛着がわくことよ。

そして3つ目が、その場所を使う人も『担当者がキレイにしているんだから大事にしなきゃ』って思いやりが芽生えるの」「あら、なんだか素敵なメリットなのね」

「そう、清掃って本来素敵なものなのよ。でも、この書店には自覚も責任感も無ければ、愛着も思いやりも感じられない」海保は口角を上げながら「さすが、一流コンサルタントさんは鋭いところを突くわねぇ」と高い声を出した。

続けてエリカに質問を投げる。

「そういえば上条さんって、なんでコンサルティング会社から書店に来たの?」エリカは何かを感じ取ったのか、竹刀袋から竹刀を取り出しながら「私のことはいいじゃない。うるさいわね」と答えた。

しかし、海保の質問は止まらない。

「書店にコンサルが入るなんてあまり聞いたことないから普通は気になるもんでしょう。そんなに大きな書店っていうわけでもないんだし。うちの社長と何か深い関係でもあったりして?」すると竹刀を海保の顔の前に向け、鋭く睨みつけた。

「これ以上詮索すると、突くわよ」

●清掃を進めていく3つの手順

清掃を進めていく時に、とにかく目の前の清掃道具でガシガシやるのは、ただのバカよ。まずは少ない労力で一番キレイになる清掃方法を決めること。

次に、どの場所に何を使ってどうキレイにするかを考えながら清掃道具を整備すること。今あるもので何とかするのではなくて、最適な清掃道具を用意するのよ。

そして最後に清掃を全員で実施していくこと。「全員で」というのがポイントで、そのためには清掃道具も全員分を用意する必要があるわ。

3清掃道具も〝定置〟がキモ

すっかり底冷えする季節になってきたものの、呉越書店1Fのバックヤードは休憩中、温かい空気に包まれていた。

スタッフ同士の会話も活発になり、明るい雰囲気になってきたのだ。今日も海保を中心に、アルバイトスタッフたちがひと時の会話を楽しんでいた。

「さっき真面目そうな男子学生がエロ本買ってましたよね」「あれ?参考書じゃなかった?」「いやいや、参考書と参考書の間にエロ本を挟み込んでたんですよ」「出た出た、エロ本サンドイッチ」

「まあ、微笑ましいもんじゃない。私なんてさっき爆笑しそうになったことがあったわ」「どうしたんですか?」「本を探しているおばあちゃんがいたんだけど、タイトルを聞いたら『人生が片づく魔法のなんとか』って言われちゃって。咄嗟に『魔法で人生を片づけちゃダメよ、おばあちゃん!』ってツッコんだの。

それで『人生をきらめかせる片づけの魔法』をすぐに持っていったのよ」「あははは。人生を片づけちゃダメですよね」楽しい会話が繰り広げられているバックヤードは、以前と違ってキレイな空間になっていた。

海保が主導者となり、1Fフロアでの清掃が進んでいったからだ。夜になって、ひと段落ついた海保がエリカを見かけて話しかける。

「上条さん、だいぶキレイになってきたでしょ。これでもう清掃も完璧よね」しかしエリカは表情を変えずに「何を言ってるの。まだできていないわ」と返した。

「なんでよ。皆意識してくれて、汚れたらすぐ清掃するようになったのよ」と海保が口を尖らせながら言う。

エリカは「フン。確かに清掃は短時間ですませることに意味があるから、汚れたらその時に清掃する、というのが基本よ。それができているのは良いことだわ」そう言いながらバックヤードの奥に歩いていき、清掃道具入れのドアをガチャリと開けた。

「けどね。使った清掃道具が元に戻っていないのよ」エリカが指摘した通り、確かにそこに入っているべき清掃道具がほとんど存在しなかったのだ。

海保は慌てて「まあ、よく使うから皆いろんなところに置いたんじゃないかしら」と弁明する。「海保さん、整頓は教えてもらったわよね」「ええ、松井さんから」「清掃道具も『定置』が必要なのよ」「ああ、置き場所を固定するってことね」「清掃をし始めたのはいいけれど、清掃道具が散乱しているのはダメね。全然ダメ」「はい。ちゃんと元に戻させますって」

「それから、置き場所も少し変えたほうがいいわね」「そこの清掃道具入れじゃダメってこと?」「そう、清掃をしようと思っても清掃道具が近くになければキレイにすることが面倒になるでしょ。

清掃道具入れがあそこにあるからって、必ずしもあの場所じゃなきゃいけない理由は無いの。

清掃をすべき場所の近くに、その場所に適した清掃道具があるべきよ」「ああ、昔からあの場所だったから、いわゆる固定観念ってヤツよね」

「それと、見る限りモップの数が多くてホウキの数が少ないように感じるわ」「は?モップの数とホウキの数?そんなのも気にしなきゃいけないのかしら」「何言ってんの、もちろんよ。いつでもすぐに清掃ができるように必要なものを必要なだけ揃えておくの。多すぎても少なすぎてもダメ。それが定置よ」

海保は「清掃道具も定置ね、分かったわよ」といってホウキやモップを元の場所に戻していった。そして、何をどこに置くべきかを考えながら歩き回り、メモに書き留めていった。それから数日後、海保は清掃道具の置き場所を変更していった。必要な場所に必要な道具を置くことで、変化が起きたようだった。

「すぐに清掃に取り掛かれるのはいいわね。キレイにしたい時にすぐできるからストレスもないし」と嬉しそうにエリカに言っていたからだ。

海保だけでなくアルバイトスタッフも清掃がスムーズにできるようになったようで、1Fのフロア全体がキレイになってきているのは誰の目にも明らかだった。

しかし、そのキレイな状態も長くは続かなかった。「キレイになったと思ったら最近また汚れてきたわよね」エリカが海保に指摘をする。

しかし、海保はあまり認めたくないのか、「そうかしら。清掃はいつも通りやっているんだけど」と反抗的な口調をみせた。

するとエリカは「ちょっと来なさいよ」と言って海保の腕を掴み、1Fフロアの端まで引っ張っていった。

「ちょっと、何するのよ」「いいから来なさい」エリカは強引に海保を連れていくと、床を指さして言った。

「ほら、見てみなさい。汚れのスジができているし、ゴミも取り切れていないわ」確かにエリカが指摘した通り、よく見ると床には汚れが残っている。

海保は苦笑いを浮かべながら「ちゃんと清掃したのに、なんでかしら……」と答えるだけだった。

「理由は分かっているわ。これを見なさい」エリカが長い指で示したのは、先日場所を移させた清掃道具だ。

よく見ると、モップの先端が汚れていたり、ホウキの先が曲がっていたり、だいぶくたびれているように見える。

「え、道具が悪いってこと?」「そうよ。道具の手入れができていないせいよ」「あらぁ、道具の手入れまでしなきゃならないのね」「当たり前じゃない。

道具が近くにあったとしても、こんなボロボロのホウキやモップで清掃し続けているのでは意味がないわ。清掃はキレイな状態を維持することが目的なのよ」

「でも、私たちは書店員なんだから本のことだけ考えていればいいんじゃないのかしら……」「違うわ。一流のアスリートは道具にもこだわるし、道具の手入れもしっかりとしている。

私だって剣道の道具はいつもキレイに手入れをしているし、古くなったらすぐに買い替えているわ。同じ様に、きちんと管理している会社は清掃道具にまで神経を行きわたらせていて、モノを大切にする心も育っている。そうなって初めて、5Sが機能するのよ」

「そんなに深いものだとは……」「分かった?キレイな清掃道具がキレイな職場を作るの。清掃道具も良いものを大事に使いなさい。清掃道具の管理レベルがその会社の5Sレベルともいえるんだから」

「分かったけど、買い替えるとしてもうちの書店にはそんなに予算がないわよ」「店長に言っても?」「あの人、ケチだからちょっとした経費も渋るのよ」「じゃあ私から言うわ」海保は眉間に皺を寄せながら、「上条さんが言っても聞くかしら。本当にケチなのよ、あの人」とボヤいた。

すると、エリカの目つきが鋭くなったかと思ったら、冷たい声を発した。「は?私を誰だと思ってるの?」エリカに睨まれた海保は、ただ黙って背筋を伸ばすだけだった。

●清掃道具の質も意識する

さっきは清掃道具を人数分用意しろって言ったけど、数だけでなくて質も大事。良い清掃道具でなければ良い清掃はできないわ。それから、その清掃道具が置いてある場所も重要よ。

整頓のところで「3定」の話をしたけれども覚えているかしら?「定置・定品・定量」の3つ。

決められた置き場に決められた品を、決められた量だけ置く、ということね。これは清掃道具にも当てはまることよ。清掃の時間なのに清掃道具を探し回っているヤツがいたら竹刀で突いてやるから、覚悟してなさい。

4汚れの発生源を見つけて対策しなさい

「いやあ、今日はマフラーが要らないほど暖かい日ね」海保がアルバイトの男の子と談笑しながらエプロンを着けていると、いつの間にかエリカが背後に立っていることに気づく。

「あら、上条さん。おはようございます」「おはよう、海保さん。すぐフロアに出て床を見て欲しいんだけど」エリカはフロアの方向を指さして淡々と言った。

海保は訝しげな顔をしながらも、そそくさとフロアに向かうと、汚れた床が一面に広がって見えた。「あら、えらい汚れているわね!」靴の跡や水滴の跡が泥に交じって床に幾つも存在している。

「おそらく、昨日の雨が強かったせいじゃないかしら」エリカは腕を組みながら呟いた。「清掃をしたところなのに、またひどい汚れねえ、これは」海保はため息交じりに言葉を吐き出したものの、すぐに顔色を変えた。

「でも、もう新しい清掃道具になったし、パッと清掃すれば大丈夫よね」「違うわ。ただ清掃すればいいというのではダメ」「え?清掃すればいいんじゃないの?」

汚れの発生源の対策をしないとダメなのよ」「汚れの発生源?」「そう、つまり、汚れの原因を探り、元の部分をなくすこと」「これだけ汚れた原因って、雨が降ったからでしょ?雨を止めろって言うの?」「違うわよ、アナタおバカ?雨が降ったことが原因だけれども、汚れたのは濡れた靴や濡れた傘に起因するものでしょ」

「(おバカって……)じゃ、じゃあ濡れた靴や傘が発生源ってことよね」「そうよ、その対策を考えなさいよ」「えっと、濡れた靴は、入り口の足マットで拭いてもらっているわね。

それから傘も入り口でビニールを付けてもらっているわ。対策はもうしてあるじゃない」海保はそう言いながら小走りで入り口へ向かう。

足マットと傘入れ用の袋スタンドに目を向けると、眉間に皺が寄った。「足マットはもう古くなって繊維が剥げているわ」「これじゃあ水分を吸収できないわね」「傘入れ用の袋スタンドにも、ビニール袋が付いてない。補充していないじゃない」

「在庫が切れたタイミングから、お客様は濡れた傘のまま店内に入るしかなかった、と」「そりゃこれだけ汚れるわけよね」「そもそも傘のビニール袋って皆ちゃんと使うのかしら」「ああ、面倒くさがって使わない人もいるわ」

「じゃあ確実に店の中が濡れないようにするためにはどうしたらいいのかしら。それを考えなさいよ」「え……ああ、昨日行ったショッピングモールでは傘を穴の中に入れるだけで自動的にビニールが付く機械があったわね。あとは鍵付の傘置き場があるお店もあるし……」

「じゃあ実現できそうな案があったら後で教えてちょうだい。そういったことを考えて実現させていくのも清掃の1つよ」エリカはそう言うと、バックヤードに向かってスタスタと歩いて行ってしまった。

海保は難しい顔をしながらも、〝考える〟ということを続けていった。

翌朝、早くから呉越書店には多くの店員が出勤してきていた。今日は、小説『ハリーボッテー』」の新シリーズが発売される日だ。多くのお客様が開店前から並ぶので、準備のために店員は早朝出勤を余儀なくされる。

海保も朝から張り切って出勤し、エプロンを着けたかと思うと「さあ、気合いを入れてまずは大掃除よ!」と息巻いた。

しかし、背後にいたエリカがすぐに割り込んで声を出してくる。

「海保さん、そこまでやらなくていいわよ」「は?」海保は驚いて固まってしまう。

すぐさま「こういう時こそ大々的に清掃をすべきでしょう!」と力説するものの、エリカは顔の前に出した手をブンブンと左右に振るばかりだった。

「どういうこと?上条さん」不思議そうな顔で海保が聞いた。

「特別なやり方で清掃をして疲れてしまってはダメ。『つらいイベント』になってしまうわ」「つらいイベント……」「清掃はあくまで決めた通りの時間、決めた通りの範囲で習慣として行うもの。そのルールは変えないほうがいいの」

「習慣ねえ。まあ確かにイベントにすると、やり方も人それぞれになりそうだしね」「習慣にする際は時間で区切るのがベストね。

場所で決めてしまうと全部終わるまで次のことができなくなる恐れがあるから。それに、仕事が忙しくて清掃の時間が取れなかったりすると続かなくなるわ。だから、強制的に時間を決めてしまうのがいいの」

「なるほどねえ。でも、清掃道具を変えたり、根本的な原因を探したり、時間を決めたり……正直なところ、そこまでやるものだと思ってなかったわ。そこまでやるからには、万引きされないだけじゃなくて、よほどのメリットがあるってことよね。効果がないことはやりたくないもの」

「フッ。主婦らしい発想ね。もちろん効果は山ほどあるわ。ちょっと来て」そう言ってエリカは、バックヤードの壁に貼られているホワイトボードの前まで海保を連れてきた。

不意にペンのキャップを外すと、「清掃を習慣化することで得られるメリット」と題して、さらさらと文字を書き始めた。

  • ①清掃をすることで、自身の心身を磨くことにもなる
  • ②どんな仕事でも通用する普遍的なスキルを身に付けることにもなる
  • ③汚れの原因について考えることで、根本原因を考える癖がつく
  • ④朝イチで清掃をすると1日の準備運動にもなる
  • ⑤清掃で体を動かすことで脳が活性化しアイデアが生まれやすくなる
  • ⑥全員で清掃することでコミュニケーションが生まれやすくなる
  • ⑦働く環境がキレイになることで職場にやる気が生まれる

海保はホワイトボードを見ながら「こんなにあるのね……」と呟き、すぐにメモを取っていった。メモを書いているとエリカが「それ、書き終わったらお店の入り口に来て」と言って、姿を消した。海保はメモを書き終わると、慌てて入り口へ向かう。すると入り口にはキレイな段ボール箱が幾つか置かれていた。

「上条さん、これは……」海保が聞くと、エリカはニヤリとしてから「傘を穴の中に上から入れるだけで自動的にビニールが付く機械と、新しい足マットよ」と答えた。

「昨日の対策!」海保はそう言いながら段ボール箱に飛びついた。喜々としてアルバイトスタッフを呼び、すぐに開梱して設置していった。

「これでキレイな環境を維持できるわね」海保はそう言いながら満面の笑みを浮かべた。その顔を見ながら、エリカが「じゃあ清掃担当者は海保さん、アナタね」と言った。

海保は親指を立てながら「任せといてちょうだい。しっかり皆に伝えていくわ」と笑顔のまま答えた。

すると、そこに同じフロアの松井愛奈が顔を出した。

「エリカさん、ちょっと相談なんですけど」「あら松井さん、どうしたの?」松井は弱々しい声で「責任者として各フロアに整頓をレクチャーしてるんですけど、どうしてもやってくれない人がいて……」とこぼした。

するとエリカはすかさず「2Fの小谷野くんでしょ」と言う。松井は「はい」と言いながら軽く頷いた。「分かったわ」そう言ってから、エリカは小さく舌打ちをした。

●根本原因を潰すことを習慣化させる

ただ単に清掃をするだけではなくて、清掃活動で大事なのは汚れの元を見つけ出して対策をとることよ。これをやらないと、ただ労働力を使うことになって、いずれはロボットに置き換えられて終わり。

そうではなくて、頭を使ってやるのが私たち人間のやるべき清掃よ。そしてその活動を習慣化すること。清掃は掛け声ばかりで続かない企業が多すぎるわ。

一時的なものにするのではなく歯を磨くのと同じくらい習慣化すること。そうすれば多くのメリットを享受することができるのよ。

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