克己
少しも威張ったところがなく、 常に謙虚でいられる人。 同時に、自分のことは横に置いて、 いつでも世のため人のためを考え、行動できる人。 そのような自らの欲望や虚栄を抑えることができる 克己心の持ち主こそが、人格者だと私は考えています。
試練への対処によって成功と没落が決まる
中国の古典に「謙のみ福を受く」という言葉があります。傲慢な人間は幸福を得ら れない、謙虚な心の持ち主しかそれを得ることはできない、という意味です。 謙虚、つまり謙ると言えば、何かみつともないような感じを抱く人もいるかもしれ ませんが、それは誤りです。人は、自分に誇るものが何もないからこそ威張り、ふん ぞり返って自己顕示欲を満たそうとするものです。 どれほど社会的な名声を得ようとも、あるいは大きな会社や組織の長として多くの 人を率いていようとも、少しも威張つたところがなく、常に謙虚でいられる人。同時 に、自分のことは横に置いて、いつでも世のため人のためを考え、行動できる人。そ のような自らの欲望や虚栄を抑えることができる克己心の持ち主こそが、人格者だと 私は考えています。 たとえば何か成し遂げるべき仕事、あるいは事業に取り組んでいるとき、八割くらいまではうまくいくのに、残りの二割でつまずいてしまう人がいます。途中まではう まくいくのに、最後までやりきることができないという人です。 取り組み始めたばかりの頃は、慎み深く、謙虚さも失わず、 一生懸命に努力します。 そのために成功し、新聞雑誌に書き立てられるほど有名にもなります。そうなってい くに従って、いつしか自分を抑える気持ちが緩んで、自らを愛する心、つまり利己心 が肥大化してしまいます。そして、だんだんと自分自身を褒め称えるようになります。 自分自身で、「オレはあの苦しいなかを頑張り、よくやったではないか」と思うよ うになり、だんだんと傲慢になってしまうわけです。成功するに従って、有名になる に従って、そうした騎り、慢心の心が湧き起こってきます。 私は、試練というのは、 一般的に言われる苦難のことだけをいうのではないと考え ています。人間にとつて、輝かしい成功さえも試練なのです。 仕事で成功を収め、地位も名声も財産も獲得した人を見て、私たちは「あの人は幸 せだ」と羨望のまなざしを向けます。しかし、それさえも天が与えた厳しい試練です。 人生で成功を収め、お金持ちになって贅沢に走る。また名声を得たばかりに慢心し、人を人とも思わないような行動をとるようになってしまい、ついには道を誤り、奈落 の底へと落ちていくこともあります。 たとえば、世界の檜舞台で活躍するようなプロのサッカー選手のなかには、二十代 の若さで数千万円、なかには一億円を超える年棒をもらう人もいます。日本では上場 企業の社長と同じか、それ以上の報酬です。普通、大学を卒業したばかりの二十二、 三歳の新入社員であれば、せいぜい年間で三百万円くらいの給料しかもらえません。 そうした同世代の十倍以上もの年俸をもらえるというのは、確かに人生における大き な成功だと言えるでしょう。 ところが、若い頃のこうした短期的な成功、名声は決してその将来を約束するもの ではありません。むしろ類まれな才能によって、若くして多額の金銭を手に入れ、周 囲からちやほやされるがゆえに、将来のことをあまり考えもせずに刹那的に日々を過 ごしてしまい、後悔するということが往々にしてあります。 サツカー選手の選手生命は通常、三十歳くらいまでです。八十歳までの人生だとす れば、あと五十年という長い道のりがその後に待っています。監督やコーチとして サッカー界に残れるのはごく一部であり、多くの選手はサツカーを離れて他の分野で第二の人生を歩むことになります。 そういう意味では、現役の選手として活躍しているときにどのように過ごしてきた かということが、その後の人生を決めるといっても過言ではありません。「自分のオ 能でもらつた報酬なのだから、好きに使えばいいのだ」とばかりに、自由気ままに遊 びに興じて、やがて身を減ぼしてしまう人もいるでしょうし、現役時代から何事にも 真面目に取り組み、引退して普通の会社に勤めるようになってからも立派な社会人と して歩んでいかれる方もいるはずです。 そのような事例を見るにつけ、先にもお話ししましたが、神様は恵まれた条件を与 えることによって、人がどういうふうに変化していくかを試しておられるのではない かと思うほどです。その試練に対する処し方が良ければ、善い結果が生まれ、悪けれ ば、悪い結果が生まれます。 人生は変転極まりないもので、「あの人はあのとき成功しなかったほうが、その後 かえっていい人生を送っただろう」という話はいくらでもあります。また逆に、苦難に 遭遇しても、それに打ち勝ち、素晴らしい人生を送るという例もいくらでもあります。幸運に恵まれようとも、災難に遭おうとも、どんな状況でも謙虚に、自分というも のを失わずに生きていくことが大切です。 ぜひ、このことを理解し、謙虚さを忘れず、常に反省をしながら、真面目に、誠実 に人生を生きるようにしてください。そういう生き方をすれば、必ず、自分でも想像 できないほど人生が順調にいくようになります。
精進
誰しも持って生まれた「性格」が 完全なわけではありません。 だからこそ、後天的に 素晴らしい「哲学」を身につけ、 「人格」を高めようと 努力する必要があります。
人格を高め、維持する
私はリーダーの資質として「人格」が最も重要であり、それも高い次元の「人格」 を維持し続けることが、リーダーにとって最も大切なことであると考えています。 ところが一般には、リーダーの資質としては、「オ覚」と「努力」のほうが重要だ と考えられています。 実際に、現在のビジネス界を見ると、ベンチャーを起こし大成功を収める創業者型 の経営者も、また大企業のCEOに就任し、その企業をさらに飛躍させる中興の祖と なる経営者も、いずれにしても成功したリーダーは、まさにオ気炊発、「才覚」にあ ふれ、また「努力」を惜しまない人ばかりです。 彼らは、ビジネスでの「オ覚」を駆使するだけでなく、燃えるような情熱を持って、 果てしのない「努力」を重ね、事業を成長発展へと導いていきます。 しかし私は、近年、彗星のように登場しながらも、その後我々の前から去っていった、多くの新進気鋭の企業や経営者を見るにつけ、「オ覚」や「努力」だけでリーダー を評価してはならないと強く思います。つまり、人並みはずれた「オ覚」や「努力」 の持ち主であればあるほど、その強大な力をコントロールするものが必要となります。 私は、それが「人格」であると考えています。「人格」こそが、その人の「オ覚」 を発揮する方向と、「努力」を重ねる方向をコントロールすることができます。この 「人格」に歪みがあると、「才覚」や「努力」を正しい方向へと発揮させることができず、結果として人生を誤らせてしまいます。 多くのリーダーは、「人格」が大切だということを知ってはいます。しかし、その 「人格」とはどのようなものであり、どうすればそれを高め、維持できるのかは知り ません。そのために、いったん成功を収めながらも、それを維持できないリーダーが 後を絶ちません。 では「人格」とはどのようなものなのでしょうか。私は、「人格」とは、人間が生 まれながらに持っている「性格」と、その後人生を歩む過程で学び、身につけていっ た「哲学」から成り立っていると考えています。つまり、先天的な性格に、後天的に加えられた哲学によつて形成されていると思います。 先天的な「性格」とは人によつてさまざまです。強気であったり弱気であったり、 強引であったり慎重であったり、さらにはエゴイステイツクであつたり思いやりにあ ふれていたりと、まさに千差万別です。もし、人生の途上で、素晴らしい「哲学」を 身につけることができないとすれば、この持って生まれたままの「性格」が、そのま まその人の「人格」となります。そして、その「人格」が、「才覚」や「努力」の進 む方向を決めてしまうことになります。 そうすれば、どういうことが起こるのでしょうか。もし、生まれながらの「性格」 がエゴイスティックなリーダーであっても、素晴らしい「才覚」を持ち、誰にも負け ないような「努力」を重ねるなら、成功することは可能でしょう。しかし、「人格」 に問題があるため、いつか私利私欲のために不正を働くかもしれません。そのため、 その成功を永続することはできなくなります。 残念ながら、誰しも持って生まれた「性格」が完全なわけではありません。だから こそ、後天的に素晴らしい「哲学」を身につけ、「人格」を高めようと努力する必要 があります。特に、多くの部下を持ち、責任も大きなリーダーは、できるだけ「人格」を高め、それを維持しようと努力することが求められます。 その身につけるべき素晴らしい「哲学」とは、歴史という風雪に耐え、人類が長く 継承してきたものであるべきです。つまり、人間のあるべき姿、持つべき考え方を明 らかにし、われわれに善い影響を与えてくれる、素晴らしい聖人や賢人の教えのこと です。 そのとき留意すべきは、「知ちていることと、できることは違う」ということで す。たとえば、キリストの教え、釈迦の教え、孔子や孟子の教えをみんな教科書で習 い、知識としては理解しています。しかし、知識として持っているだけでは価値はあ りません。自分を戒め、「人格」を高めるために役立つものでなければならないのです。 リーダーにとって必要なことは、そのような人間のあるべき姿を示した素晴らしい 「哲学」を繰り返し学び、それを理性で理解するだけでなく、常に理性のなかに押し とどめておけるように努力することです。そうすることで、自分がもともと持ってい る「性格」の歪みや欠点を修正し、新しい「人格」、言うならば「第二の人格」をつ くりあげることができます。つまり、素晴らしい「哲学」を繰り返し学び、自らの血肉としていくことにより初めて、「人格」を高め、それを維持することができます。 一般には、人間のあるべき姿などは一度学べばそれで十分だと思い、なかなか繰り 返し学ぼうとはしないものです。しかし、スポーツマンが毎日肉体を鍛錬しなければ、 その素晴らしい肉体を維持できないように、心の手入れを怠ると、あっという間に元 の木阿弥になってしまいます。「人格」も、常に高めようと努力し続けなければ、す ぐに元に戻ってしまいます。ですから、あるべき人間の姿を示した、素晴らしい「哲 学」を常に自分の理性に注入し、「人格」のレベルを高く維持するように努力し続け なければなりません。 そのためには、繰り返しお話ししますが、自分の行いを日々振り返り、反省するこ とが大切です。学んできた人間のあるべき姿に反したことを行っていないかどうか。 このことを厳しく自分に問い、日々反省をしていく。そうすることによって、素晴ら しい「人格」を維持することができるようになります。
無私
自己犠牲を払う勇気がなければ、 絶対にリーダーになってはならない。 リーダーとは、自分というものを横に置いて 物事を判断できる、 無私の人でなければなりません。
自分を無にした行動が「大きな愛」につながる
立派な仕事をしようと思えば思うほど、それに比例して大きな自己犠牲を伴います。 自己犠牲を払う勇気がなければ、絶対にリーダーになってはならないとさえ、私は 思っています。リーダーとは、自分というものを横に置いて物事を判断できる、無私 の人でなければなりません。 ジェームズ。アレンは自己犠牲について、次のように言っています。 「もし成功を願うならば、それ相当の自己犠牲を払わなくてはなりません。大きな成 功を願うならば、大きな自己犠牲を、この上なく大きな成功を願うならば、この上な く大きな自己犠牲を払わなくてはならないのです」 立派な仕事をして成功しようと思えば、それにふさわしい自己犠牲を払う勇気を持 たねばなりません。
そのことで、思い出すことがあります。私はボランテイアで中小中堅企業の経営者 に経営を教える経営塾「盛和塾」を主宰しています。かつてその盛和塾のある塾生が 私に対し、次のような質問を投げかけてきました。 「『経営者は自己犠牲を払わなければならない』と教えていただいていますが、会社 を経営していくなかで、実は仕事と家庭の両立に悩んでいます。塾長はおそらく、家 庭を顧みる間もないほど、京セラの経営に打ち込んでこられたと思うのですが、仕事 と家庭の両立はどうされたのですか」 別の塾生の方からは、「私は仕事に打ち込むあまり、家内との関係に亀裂が入って しまい、家庭が今にも崩壊しそうです。そのようなご経験はないのですか」という質 問も寄せられました。私は、はたと困りました。なぜならば、そのように家庭が壊れ るという経験は、私には一度もないからです。 私は家に帰るのが夜遅くなっても、家内に「今日はこんなことがあつた、あんなこ とがあった」と話をしていました。仕事をせずに家を守っているだけでは、夫が何を やっているかわからず、張り合いもないだろう。会社に行っていなくても、夫と一緒 に仕事をしているという一体感、連帯感のようなものがあれば、不満も出ないだろう。私はそう考えて、帰りがいくら遅かったとしても、その日に起きたことを家内に毎日 伝えていたわけです。短い時間であっても、必ず話をするように努めていました。 ただ、やり過ぎて問題を起こしたこともあります。まだ子供たちが小学校低学年 だつた頃のことです。夜中に帰った私は子供たちを起こし、「会社経営というのはと ても難しいものだ。お父さんも一生懸命頑張っているが、いつ何時、会社が潰れるか もしれない。会社が潰れれば、お父さんは銀行に個人保証をさせられているので、全 財産を取り上げられてしまう。鍋と釜、箸に茶碗ぐらいは残してもらえると思うが、 あとは全部銀行に取られてしまう。だからそうならないように、お父さんは必死で頑 張つているんだ」と伝えました。 父親が授業参観にも運動会にも来てくれず、どこにも遊びに連れていつてくれない ふびん のでは、子供たちが不憫だと思い、会社の全責任を担つて頑張っているのだというこ と、またそれは家族のためなのだということを伝える意味で、私は話をしたつもりで した。 それに対して、大きくなった子供たちから、「あのときはなんとひどい父親かと思つた」と言われたのです。まだ幼い自分の子供に、会社が潰れれば家の財産は全部 なくなってしまい、箸と茶碗くらいしか残らないと私が言ったものだから、子供たち は震えが来るほど、怖くて怖くて仕方がなかったそうです。私は「家族のために一生 懸命働いているので、おまえたちと遊んでやれなくてすまない、という意味で話した んだ」と言ったのですが、「とんでもない。誰もそんなことは思いもしません。なん とまあひどい父親だと思った」と言われてしまいました。 そうした誤解もありましたが、やはり一体感を持たせなければならないと思い、会 社で起こつたことは常に家族に知らせてきた私の気持ちが通じたのか、家庭が崩壊す るようなことにはなりませんでした。 私は塾生の質問に対し、そのように答えました。 一方で、大人になった子供たちから、「なんとひどい父親かと思った」と言われて しまったことは、内心では性促たるものがありました。近所の子供はみな、授業参観 や運動会、その他の学校行事でも両親が来てくれるのに、自分の父親だけは幼稚園か ら大学まで、ただの一度も学校に来てくれなかった。そんなことも、子供たちはさびしく思っていたのでしょう。 その後、私は先ほどご紹介した、「大きな成功を願うならば、大きな自己犠牲を払 わなければならない」というジェームズ・アレンの言葉に出会いました。これを読ん で、救われた思いがしました。会社と社員を守るため、身内にも犠牲を強いてしまっ たが、それは間違っていなかったのだと感じました。 むしろ、自己犠牲を払い、必死の努力を重ねて従業員を守り、会社を守り、ひいて は社会の発展にさえ貢献できることは、他の何にも代えがたい人生の勲章ではないか、 それはきつと家族もわかつてくれると思えるようになりました。 それは、自分個人だけを守る、あるいは自分の家族だけを守ればいいという「小さ な愛」ではなく、多くの従業員を守り、幸福にする、ひいては社会の進歩発展にも貢 献するという「大きな愛」です。 その「大きな愛」に身を捧げる人生とは、やりがいのある幸福な人生だと私は思い ます。
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