真摯
常に正しい道を踏み、 誠を尽くして 仕事をしていかなければなりません。 げレいヽ」・フ 相手に迎合したり、 「うまく世渡りできるから」といって 妥協するような生き方をしてはならないのです。
いかなる障害があろうとも、自分に正直に生きる
人間というのは、行き詰まると、良心では決してよくないとわかつていても、「こ のくらいはいいだろう」と、つい悪いことをしてしまいます。極端な場合、「結果よ ければすべてよし」などとうそぶき、自分を納得させ、悪事に手を染めてしまいます。 常に正しい道を踏み、誠を尽くしていかなければなりません。相手に迎合したり、 「うまく世渡りできるから」といつて妥協するような生き方をしてはならないのです。 どんなに難しい局面に立っても、正道を貫き通す、つまり人間として正しい考え方 を貫く真摯な生き方をするべきであると、私は考えています。
そのことで思い出すのは、京セラを創業する前に勤めていた会社での出来事です。 私は大学を卒業して入社したわけですが、先にお話ししたように、フオルステライト と呼ばれる、高周波絶縁性に優れた新しいファインセラミック材料の開発に成功し、私の率いる開発部隊は独立し、私は入社二年目で職場を実質的に仕切る立場になりま した。 もともと私は子供の頃から、不正なこと、良心に反すること、不真面目なことが許 せないという強い正義感を持っていました。そのこともあり、自分の部署だけは、少 なくともみんなが正しいことを求め、また生きがいを求められるような職場にしたい と考えていました。 勤めていた会社は、送電線に使われる絶縁体である碍子を製造する老舗メーカーで したが、戦後は業績が低迷し続け、労働争議が頻発していました。 そのため、赤字続きで待遇も悪く、みんな勤務時間中に一生懸命に働かず、必要の ない残業をして、残業代を稼ぐということが常態化していました。しかし、それでは 人件費が高くついて製品コストに跳ね返ってくると考えた私は、残業禁止を打ち出し ました。 そうすると、働く人たちにとってはたいへん不満でした。よその職場ではみんなダ ラダラと残業して残業代がもらえるのに、私の職場だけは日中、 一生懸命に働かされ たうえに残業代は一銭ももらえないというので、みんなから文句が出ました。
そんな職場のメンバーに対し、私は次のように言いました。 「今、皆さんに苦労をかけていますが、残業することなく低コストでつくってもらえ れば競争力がついて、必ず将来は嫌というほど注文がきて、残業したくないと思うく らい残業してもらうようになります。それまで頑張ってください」 そのうちに、心ある人は私に賛成してくれるようになりましたが、「管理職でもな いくせに、経営者以上に厳しい要求で従業員をいじめる」ということで、結局、労働 組合で査問委員会にかけられました。いわゆる「人民裁判」で罪状を列挙されて吊る しあげに遭いました。 会社の玄関を入ると正面に池があり、その脇に碍子を入れる木箱をいくつも積み上 げて、その上に立たされたことを覚えています。 「こんな会社のまわし者みたいなやつが我々のようなか弱い労働者をこき使って、会 社に媚びを売るようなことをしている。こういうやつがいるから、我々労働者は するのだ。こういう男は辞めさせるべきだ」 なんざ 難儀 そのような発言を皮切りに、木箱を取り囲んでいた組合員たちは、私を晒し者にし てやろうと一斉にはやし立てました。
しかし、私は敢然と次のように反論しました。 「私をクビにしようという組合幹部の皆さん、私を問題にした人たちは、私がいくら 現在の会社の苦境を訴え、働いてくれるように言ってもサボタージュをして仕事をし ません。そういう人たちを大事にしていけば、必ずこの会社は潰れます」 「会社が潰れるようなことをして平然としているこの人たちの言い分が正しいのか、 それとも正道を貫く私の言い分が正しいのか、それは皆さんが判断されることです。 それでも皆さんが私に辞めろと言うなら、喜んで辞めましよう」 そのように映呵を切ったことがありますが、どうしても私自身の正義感が私をして そう言わしめ、いかに自分に不利な状況になろうとも正道を貫き通そうとさせるので す。 あるときには、私がたいへん厳しいことを言うものですから、従業員から糾弾され たばかりか、その人たちの差し金で、夜に数人が待ち伏せして、私を襲撃してきたこ とがありました。そのときに怪我をした傷が今でも顔に残っています。 彼らにしてみれば、私を懲らしめれば、明日からもう会社には出てこないだろうと いうことだったと思いますが、翌朝、包帯をグルグル巻きにしたまま会社に出ていっ
たものですから、みんながビックリして、それ以降、そのような脅しをしてこなくな りました。 私は自分が正しいことをしていると信じていました。同時に、「なぜ、正しいこと をしているのに理解してくれないのか。いや、理解してくれないどころか、なぜみん なから嫌われるのだろうか」と、たいへん悩み、孤独も感じていました。 そして、仕事が終わった深夜に、寮の横を流れる小川の岸辺にひとり座り、泣きな がら田舎のことを思って、唱歌「故郷」の一節「兎追いし かの山…」を回ずさんで いました。それがいつの間にか寮のなかにも知れわたり、「また稲盛が小川のほとり で泣いている」と有名になったほどです。歌を歌いながら、孤独に耐えて、自分の志 を貫こうとしていたのです。 また、そのときに次のようによく自問自答していました。 「自分は正しいことを言っているつもりだけれども、そのために職場の人間関係に角 が立ち、部下たちは不満を持つようになった。世の中をうまく渡つていくには、自分 の信念を曲げ、少しくらいみんなに迎合する生き方のほうが正しいのだろうか」 しかし、いくら考えてみても、そうは思えないのです。「部下から嫌われるかもしれないが、やはり正しいことは正しいと主張しなければならないはずだ」という結論 に最後は必ず落ち着き、改めて勇気を奮い起こして、寮に戻っていきました。 私は、自分が正しいと信じる道を、ただひたすら歩んで行こうと努めていました。 そのような私の姿勢にひかれ、多くの上司、先輩、そして部下が私についてきてくれ ました。そして彼らが京セラの創業メンバーとなり、発展の担い手となってくれまし た。 「人間として何が正しいのか」と自分に問い、正しいと信じる道を貫き通す。困難な ことではあると知りながらも、正道を愚直に貫く。そのような真摯な姿勢は、 一時的 には周囲の反発を買い、孤立を招くかもしれません。しかし、人生という長いスパン で見るならば、必ずや報われ、実りある成果をもたらしてくれるはずです。そのこと を信じて、妥協しない生き方を選ぶことが大切です。
意志
高い目標を達成したいならば、 「何としても、まっすぐに頂上を目指して、 登っていく」という強い意志を抱き、 とうはん 垂直登攀の姿勢で挑まなければなりません。
高い目標をあえて定め、真正面から取り組む
京セラという会社は、京都の中京区西ノ京原町というところで、宮本電機という会社の倉庫を借りて始まりました。 当時のことをよく知る京セラの元幹部は、その頃私が従業員に次のようによく話し ていたと言います。 「せっかく京セラという会社ができたのだから、頑張って、まず原町一の会社にしよ う。原町一になったら、今度は中京区で一番の会社にしよう。中京区で一番になった ら京都一に、京都一になったら日本一に、日本一になったら世界一の会社にしようで はないか」 そのようなことを、創業間もないときに、私がことあるごとに話していたというの です。 会社に来る途中に、京都機械工具という会社がありました。スパナやレンチといった自動車の整備用工具などをセットにして自動車メlヵlに納めている会社で、朝か ら晩まで槌音を立てて休まず仕事に励んでいる従業員の姿を私たちは常日頃から垣間 見ていました。 夜中の十一時、十二時ぐらいに私が帰ろうとすると、まだ頑張って働いている。そ して、翌日の早朝に私が出勤してきても、同じように一生懸命作業している。本当に いつ寝るのだろうと思うぐらいでした。 ですから、原町一になろうと言ったけれども、原町一になるにも、この京都機械工 具を超えなければなりません。まして中京区一になろうと思うと、のちにノーベル化 学賞受賞者を出すことになる島津製作所が電車道の向こう側にありました。私も化学 が専門で、大学時代には島津製作所の測定器を使っていましたから、その優れた技術 力はよく知ちていました。 中京区一になるだけでも、その島津製作所を超えなければならないわけですから、 途方もないことだと思いながらも、「中京区一、京都一、日本一、世界一」という夢 を唱え続けました。同時に、世界一になろうと思うなら、それに合うような哲学、考え方がいるはずだ と思いました。そのことを私は山登りに警えて考えていました。 学校のワンダーフォーグル部のように、近所の小高い丘にハイキング気分で登って いくのと、世界最高峰の、それも冬山に登っていくのとでは、装備も違うだろうし、 トレーニングも違うはずです。 では、京セラはどの山を目指すのか。ベンチャー企業を立ち上げ、中小・中堅企業 として上場を果たして、そこそこの会社に発展したら、それを成功と見るのか、それ とも、世界一を目指して誰にも負けない努力を重ねながら、常に向上し続けるのか。 前者であるならば、そこそこの装備、つまり小高い丘という低い目標にふさわしい 程度の哲学、考え方で十分かもしれませんが、後者の世界一を目指すのであれば、そ れにふさわしい生真面日で高邁な哲学、考え方が求められるはずです。 そのことを、私は従業員に次のようにも話していました。 「私が人生で成し遂げたいのは、この上なく峻険な山を登るようなことだ。前の会社 で研究をしているときも、自分の身の程も考えずに、登れそうにもない山に登ろうと していた。今も、垂直にそびえ立つ岩壁にとりついて、ロッククライミングのようにして攀じ登っていこうとしている。みんなもぜひ私の後からついてきてほしい」 ところが、そのような峻険な山に垂直登攀で登っていくわけですから、手を滑らせ たり、足を踏み外したりしたら、千尋の谷へまっさかさまに落ちていきそうだという ので、誰もが手が硬直し、足がすくみ、恐怖心におびえています。「私はもうついて いけません。辞めたいです」と言う人も出てきます。 そういう状況のなかでも、私は敢然と登っていくわけですが、ふと次のように自間 することもありました。 「そういう厳しい生き方にはついていけない、と皆が思っているのではないか。そう であれば、何も垂直登攀で登っていく必要はないのではないか。もつと迂回して、裾 のほうからゆつくり登っていく方法だってあるのではないか」 しかし、私は自分の心に問い、「いや、私はそんな悠長な方法はとらない。それは 悪魔のささやきだ」と思い直すことが常でした。 高い目標である峻険な山をゆつくり迂回しながら登っていくということは、世間や 常識に妥協して、いや、自分自身にも妥協をして生きていくということです。そのよ うな姿勢では、結局は当初描いていた目標にはるかに達しないままに 一生を終えてしまいます。 私は、高い目標に確実に到達するためには、誰もついてこなくても、自分が滑落す るかもしれなくても、岩場にとりついて、危険を冒して垂直に登つていこうと思いま した。 しかし、そうなれば、 一緒に京セラをつくってくれた七人の仲間たちも、 一人もつ いてこないかもしれない。そのような恐怖心もありました。 同じ頃、私は家内に、「皆ついてこなくなっても、お前だけはおれを信じてついて きて、おれの尻だけでも押してくれよ」と言つたことを今でも覚えています。 それは、妻に対する「殺し文句」ではなく、誰もついてきてくれないのではない か、ということが本当に怖くて怖くて、「お前だけはおれを信じてほしい」と真剣に 願っていたことから口にした言葉でした。 「妻一人でも私を信じ、どこまでもついてきてくれるなら、どんな困難があろうとも、 私は絶対に垂直登攀をやめない」と強く心に決めました。 実際には、前の会社を退社するとき、 一緒にセラミック原料の粉にまみれて働いて いた七人の仲間たちが、私を信じ、ついてきてくれました。そして、そのような心と心で結ばれたメンバーとともに京セラを創業し、その後も垂直登攀を貫いてきました。 高い目標を達成したいならば、「何としても、まっすぐに頂上を目指して、登って いく」という強い意志を抱き、垂直登攀の姿勢で挑まなければなりません。峻険な岩 山であろうと、真っすぐに登っていくという思いを持ち続ける。それこそが、人生に おいて事を成すための要諦です。
勇気
勇気とは腕っぷしに自信があるとか、 ケンカに強いといった蛮勇ではない。 もともとはおとなしい性格で、 怖がりで慎重な人間が、 しゆ ら ば 修羅場を何回もくぐり、 場数を踏んで度胸をつけていくなかで 身につくのが真の勇気です。
自分を捨てることができる人は強い
見るからに腕力があり、豪快で大言壮語するような人間には度胸があり、頼りがい があるように思えますが、いざというときには役に立たないことが多いものです。私 はそのような、実際には頼りにならない口先だけの人に何人も出会ってきました。逆 に、どちらかというと普段はビビリでおとなしい、繊細なタイプの人のほうが、いざ というときに勇気を発揮してくれることにも気がつきました。 そのようなこれまでの私の経験を振り返りながら思うのは、勇気とは腕っぷしに自 信があるとか、ケンカに強いといった蛮勇ではない、ということです。もともとはお となしい性格で、怖がりで慎重な人間が、修羅場を何回もくぐり、場数を踏んで度胸 をつけていくなかで身につくのが真の勇気です。 そのように思うようになつたのは、私自身がもともとビビリで小心者であったからかもしれません。子供の頃の私はたいへんな泣き虫でした。小学校低学年の頃には、 家では内弁慶で暴れ回っているにもかかわらず、なかなか一人で学校に行けませんで した。母親がついてきてくれれば学校に行くのですが、母親が私を教室に入れて帰ろ うとすると、ワッと泣き出すというような弱虫でした。 その後、ガキ大将になったとはいえ、生まれつきの性格は変わっておらず、大学を 卒業して鹿児島から京都に出てきたのちも、鹿児島弁しか話せなかったため、標準語 で応答しなければならない電話を恐れていました。そばの電話が鳴ろうものなら、誰 か他の人に出てもらうようにしていたくらいです。そういう頼りない田舎出の青年で しかありませんでした。 そんな私でしたから、京セラ創業当時は、果たして経営者として務まるのかどうか、 たいへん不安でした。自分が経営者やリーダーとして適任なのかどうか、自信などな かったどころか、疑問さえ持っていました。 しかし一方で、二十七歳の青年でしかない私を信頼して、自分の人生をかけてつい てきてくれた七名の仲間たち、また人生に明るい希望を抱く、中学を卒業したばかり の二十名の幼い社員たちを絶対に路頭に迷わせてはならない、という強い思いが湧きあがりました。何としても、この会社を潰してはならない、何としてもこの事業を成 功させなければならないという一念で、私の頭はいっぱいでした。そうした「会社を 守らなければならない」「従業員を守らなければならない」という義務感、責任感が 私に勇気を与えてくれました。 そのことで思い出すエピソードがあります。 京セラ創業時に間借りをしていた倉庫だけでは生産が追いつかなくなり、新しく滋 賀県に工場をつくり、従業員が京都と滋賀を行き来するようになってからのことです。 ある日の深夜、警察から「あなたの会社の従業員が、滋賀県の国道で人をひいて、死 なせてしまった。すぐ来てほしい」との電話を受けました。夜中の二時か三時だった と思いますが、すぐに現場に飛んでいきました。 警察の方に事情を聞いてみますと、その従業員が深夜、車を運転して滋賀工場に資 材を運び、京都に帰ってくる途中で、国道に飛び出してきた男の人を避ける間もなく ひいてしまったといいます。亡くなられたその方は、酒を飲んで居酒屋から出てこら れた後だったようです。車を運転していた従業員は、大学を卒業して勤め出してからまだ一年か二年しか たっていない若い子で、たいへん真面目な青年でした。私が現場に着いたとき、その 従業員は自責の念で正気を失つたように泣き叫んでいました。警察の方も、車が行き 交う国道に今にも彼が飛び込んで、自殺をしてしまうのではないかと心配するほどで した。 ちょうど小さな食堂が、現場の五十メートルぐらい先にありましたので、私は警察 に許可をとって、その従業員を落ちつかせるため、そこへ連れていきました。「タベ から飯も食っていないではないか。とりあえず、食事をしろ」と諭しました。しかし、 その従業員は箸をつけず、泣き続けていました。仕方なく、片隅のいすで少し休むよ うに言い、私は一睡もせず、夜が明けるまで傍らで見守っていました。 朝、警察の取り調べを受けた後、亡くなられた方の家に従業員を連れてお詫びに行 きました。しかし、事故を起こした従業員は足がすくんでしまい、家の玄関にも上が れないくらいでしたから、私が先頭に立つて、かくかくしかじかの者の会社の社長だ と名乗り、お詫びを申し上げました。 「うちの従業員が、取り返しのつかないことをしでかしました。お詫びのしようもありません」と、畳に頭をつけて言いました。しかし、遺族からは、「帰れ― うちの 人を返してくれ―」と罵声を浴びせられました。すでにご遺体も安置され、親戚の 方々も多数集まり、その場は私たちにとっていたたまれないものでした。 従業員は、私の背中に寄り添い、ただただ泣いていました。私は彼をかばいながら、 「申しわけありません。うちの従業員がしでかしたことですので、どんなことがあっ ても、私が責任を取らせていただきます。今日はなんとしてもお線香だけは上げさせ てください」と、お願いしました。誠意が少しは通じたのか、焼香はさせていただき ました。 その家から帰る途中、従業員には、「すべての責任は会社を経営している私にある。 私が全部処理するから、心配するな。元気を出せ」と言い聞かせました。錯乱状態に なっていた従業員も、ようやく正気を取り戻してくれました。 その後、亡くなられた方のご家族には、当時の京セラとしてできる限りのことを償 わせていただきました。不十分であつたかもしれませんが、結果的にはご家族の方か らの理解も得ることができました。この事故のとき、私はまだ三十歳になるかならないかの頃でした。このような対応 は、経験もありませんし、普通の精神状態であれば、私も怖くてビビっていたかもし れません。しかし、なんとしてもこの従業員を守らなければならない。この子の起こ した事故に対して償いをしなければならない。その思いによつて、心のなかから思わ ぬ勇気が湧き起こり、 一歩も逃げることなく、日の前の問題に真正面から取り組むこ とができました。 そうした経験からも、どのような困難に遭過しようとも、勇気を持って事に当たる ことが、たいへん大事だと私は思っています。 この勇気を生み出す源泉が、相手への思いやりです。自分を捨て、自分はどうなっ てもいいと思い、相手のために尽くそうとすれば、真の勇気というのは出るものです。
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