第9章問題化した場合のリカバリーどう見ても黒なら部下から「それはパワハラです」と言われるときにはいろいろな場合がある。ひとつは、例えば管理職がストレスのはけ口として理由もなく部下を怒鳴るというような、どう見ても黒の場合である。もうひとつは、それとは逆に、部下にふだん通りの指示をしただけなのにパワハラと言われるというような、どう見ても白の場合である。その間にグレーゾーンの場合があるが、この場合の対応方法は第8章でまとめた。まずどう見ても黒の場合である。ケースで考えてみよう。●A部長は、近ごろどんなことにでもすぐにカッとなってしまうように感じている。この間も、駅のホームで向こうからくる若者が歩きスマホをしていたので、ムカッとしてわざとぶつかって行ったことがあった。あるとき、部下のBが持ってきた営業報告書がひどい内容だったので、カッとなって、「何だこれは。ばかやろう!」と怒鳴り、報告書をBに向かって投げつけてしまった。Bから「部長、投げることはないんじゃないですか。パワハラでしょう!」と言われた。Aはしまったと思った。このケースは、どう見ても黒である。必要なことは、謝罪と修復である。鬼コーチ型やオレが一番型は、自分のやり方は間違っていないという考えなので、謝罪することに抵抗があるかもしれない。しかし、初期対応としては謝罪から始めなければならない。次は修復である。これはBとの話し合いから始める。いったん途切れたコミュニケーションを自分の方から修復することが必要である。●A課長は、いつもどうやって部下を育てようかと考えている。あるとき部下のBが仕事で大きなミスをしたことがわかった。そのミスはAが前から注意するように言っていたことである。Aは課長席にBを呼んで叱責した。ところが、Bが根拠のない言い訳をした。Aは思わず、「ばかやろう!自分がミスしておいて、よくそんなくだらない言い訳が言えたもんだ!」と大声で怒鳴ってしまった。Aは、しまった言い過ぎたと思い、すぐにBに「済まなかった。ついカッとなって怒鳴ってしまった」と言った。そしてBに、「もう怒鳴ったりしないから、今度の君のミスを一緒に考えてもよいか」と言
った。Bは、「私の方こそ申し訳ありませんでした。ミスの原因を一緒に考えさせてください」と答えた。これが修復の例である。部下とこのような会話ができれば、A課長はこれからは怒鳴らないだろうし、Bもミスから学ぶことができるだろう。さらに進めたのが次のケースである。●A課長が部下のBのした大きなミスについて怒鳴ったことを、その課の全員が聞いていた。AはBに謝罪したあと、課のメンバーに、Bへの叱責を聞いて不安にさせたことを謝罪した。そしてパワハラ防止のためにどうしたらよいかを課全体で話し合った。その話し合いでは、課長以外の上司からパワハラを受けて不快に感じたことや、仕事上のさまざまな不満や不安がいろいろと出てきた。言うだけ言ったあと最後は和気あいあいとなって、これからは不快とか不安に思ったら相手に伝えるようにしようということになった。このようになるかどうかは、管理職のリーダーシップによる。ふだんから風通しのよい職場でないと、なかなかこうはならないかもしれない。どう見ても白ならある言動はあったが、どう見ても白の場合はどうだろうか。つまり、客観的に白であることがはっきりしているのに、黒だと言われたときである。これもケースで考えよう。●A課長は、部下Bからあすの取引先でのプレゼンテーションのために作った資料を受け取った。しかし、その資料は重要なポイントが抜けていたり、間違っていたりしたので、Aは「これじゃ使えないよ。よく調べて、もういっぺん一から書き直してくれ」と言って、Bに資料をそのまま返した。決して大声で怒鳴ったわけではない。ところがBは、「その資料は一生懸命作ったんですよ。それなのに一から書き直しなんてパワハラじゃないですか」と言った。使えない報告書を、部下自身に一から書き直すように指示することは通常の業務として問題はないから、パワハラにはあたらない。このようなグレーとも言えない白のケースでも黒と言われたときどうするか。この場合に最もまずいのは、A課長がカッとなって、Bに「何がパワハラだ!」と怒鳴ってしまうことである。そうなると白が一挙に黒になる。手間はかかるが、A課長としては、B自身が調べて一から書き直すことはパワハラにはならないことを伝えて、Bの誤解を指摘するのがよい。このように上司からの指示や指導がパワハラにならないのに、それに不快感を持っただけで部下がパワハラだと指摘することがある。その防止策としては、どういう場合にパワハラにならないかを研修等で周知しておくのがよいだろう。
全く身に覚えがないときはケースによってはパワハラと指摘された言動自体をしたことがない場合がある。全く身に覚えのない場合である。●A課長は、部下のBとの人事面談で、「ふだんの仕事振りに緊張感が足りないので、よい評価は付けられない」と言った。Bは「そんなことないですよ。一生懸命やってるのに」と不満気だった。数日後、Aは人事部から呼ばれた。Bからパワハラ相談があったというのだ。その内容は、会議室でのBとの人事面談のとき、人事評価で口論になり、Aが怒ってBを押したためBが椅子から転げ落ちたというのである。Aは全く身に覚えがなかった。これに近いケースが実際にあった。Bがこのように主張している以上は、人事部はAとBから詳しいヒアリングを行うだろう。もちろんAは事実無根であると強く主張すべきである。ヒアリングでは、他の社員にも、口論を聞いたかどうか、椅子から転げ落ちる音を聞いているかなどが聞かれるだろう。AとBのその前後の勤務状況も聞かれる。実際のケースでは、他の社員は口論も椅子の音も聞いておらず、何よりも会議室から出てきたBはそのあとも普通に仕事をしていたということが決め手になり、Bが虚偽を述べたことが明らかとなった。虚偽の申し立てをしたBは懲戒処分を受けた。ヒアリングと事実調査はどうなる最後のケースのように、ハラスメント相談があったとき、ヒアリングが行われることがある。誰がヒアリングするかは会社の大小による。大きな会社では人事部などが担当することが多いが、役員や部長などの管理職が当たることも多い。小さい会社だと社長自らがヒアリングすることもある。ヒアリングでは事実があったかどうかが聞かれる。ただ、このヒアリングは白黒を付ける裁判とは違う。あくまでも相談案件を解決することが目的である。また裁判の証人尋問ではないので、証拠調べには限界がある。そのため、ヒアリングなどで白黒の判断ができないときはグレーのままで解決が試みられる。しかし、ケースによっては白黒を付けなければならない場合がある。その場合は事実の確定のための事実調査に入ることがある。会社によっては弁護士を入れた事実調査委員会を設置したり、もっと大がかりなときは委員すべてを第三者にして、いわゆる第三者委員会を設置するところまである。特に懲戒事案になる可能性のある場合は、懲戒処分のあとで懲戒処分無効確認訴訟になる可能性があるので、会社としては懲戒処分が裁判で無効とならないように慎重に手続を進めるため、調査委員に弁護士を加えることが多い。調査委員会での調査では、当事者に弁護士が付くこともある。どちらかと言えば、被害申立者側よりも相手方に弁護士が付くことが多い。弁護士が付かない側が証拠集めや事実の争い方でどうしても不利になることは否定できない。そのような場合には、調査委員会
が弁護士が付かない側に、弁護士に相談するよう勧めることもある。ただそのように勧めても、本人にとって弁護士費用が壁になる。法テラスという組織があり、弁護士費用の立替えをしてくれるが、資力要件があるので、それをクリアしなければならないのがネックである。言った言わないの世界ハラスメントは当事者だけしかいないところで起こることが多いので、双方の証言が真っ向から対立し、いわゆる言った言わないの水掛け論になることが避けられない。言った言わないという対立する事実について事実認定をするときに、ハラスメントの事実調査と裁判とは大きな違いがある。テレビドラマの裁判のシーンを思い浮かべてほしい。テレビドラマで描かれる裁判の多くは刑事裁判であるが、主人公の被告人の側の弁護士が検察側の証人に対して厳しく尋問をして、目撃証言をひっくり返すというシーンがよくある。これは反対尋問と言って、相手側から出た証人に対して問いただして、その証言の証拠力をつぶそうとするものである。裁判では証人がこの反対尋問に耐えることで、その証言の信憑性が強まる。しかし、事実調査のヒアリングは裁判ではないのでこの反対尋問がない。そのため証言の信憑性の判断には限界がある。例えば、パワハラの裁判では、「私は部下を無理やり飲み会に誘っていません」と言う上司に対して、被害者側の弁護士は前もっていろいろと事実を調べておいて、反対尋問として「あなたは部下の奥さんが病気であるのを知っていましたね」「それなのに誘うのが無理やりでないと言うんですか」というような尋問を次々として、その上司を徹底的に追い込んでいく。しかし、ヒアリング担当者はこの弁護士のように厳しく追い込むようなことはしないだろう。もうひとつの違いは、裁判で証人が虚偽の証言をすると偽証罪という処罰規定があるが、ヒアリングではそのような刑事罰はないことである。真実の証言を得られるかどうかについては、この違いも考えておかなくてはいけない。メールとICレコーダーは強力な証拠事実認定で重要になるのは証拠である。パワハラで決定的な証拠になるのはメールやLINEなどのネット上のやりとりである。そこに相手の人格を否定するようなことが書いてあれば動かぬ証拠になる。多くの事実調査をしていると感じるのは、メールやLINEはつくづくこわいということである。相手が目の前にいないので、つい過激な言葉を使ってしまう。この点は本当に注意しなければいけない。メールやLINEが証拠として出されると、それが仮に一時的な感情で書いたとしても、相手に届いている以上はその記載のとおりに事実認定される。それを防ぐには、とにかく送信前に文章をいったん頭の冷蔵庫に入れて、しばらく冷ましてから送信することである。また、もうひとつの動かぬ証拠は録音である。ケースによってはビデオ画像が出てくる
こともある。録音データに暴言が記録されていると、これも反論できずそのまま事実認定される。会社での研修では、「ICレコーダーやスマホで秘密録音したときにそれを証拠に使えるか」という質問がよく出る。証拠になるというのが答えである。ほとんど笑い話だが、人事面談で上司は部下が自分の悪口を言うと思い、部下は上司が自分を非難して怒鳴ると思い、それぞれがICレコーダーで録音をしていたということがある。また、実際にあったケースだが、部下が上司をパワハラで訴えようと考えて、上司と二人だけのときにわざと上司を怒らせるようなことを言って上司を怒鳴らせ、それをこっそりICレコーダーに録音してハラスメント被害の申し立てをした。この部下は上司が怒鳴ったところだけの録音データを出したが、ハラスメント調査でその前後も出すように言われて部下の挑発がわかった。その上司のパワハラは不問に付され、部下が懲戒処分を受けた。他にも、「日記やメモはどうか」という質問を受けることがある。日記やメモもその内容に迫真性があり、ほかの事実との矛盾もないときは証拠としての価値が認められる。特に日記は継続して書かれていると証拠力が強まるので、自分の部下への日々の対応を書いておくことを勧める。巻末の判決例2‐⑨は上司が人事面談の際に無断録音したことは違法ではないとしている。1‐③は手帳のメモの証拠価値を認めたものである。懲戒処分はどうなるヒアリング調査が行われてパワハラと認定されたときには、その内容によって会社から懲戒処分を受けることがある。懲戒処分には、会社によっていくらかの違いがあるが、軽い順に、戒告・譴責・減給・出勤停止・降格・諭旨解雇・懲戒解雇が一般的である。就業規則に規定がないと懲戒処分ができないので、自分の会社の懲戒規定は見ておいた方がよい。懲戒処分は、懲戒理由があることと、懲戒処分に相当性があることが、有効となるための条件である。懲戒理由の重要なポイントは事実認定に誤りのないことである。そのため懲戒審査に当たっては、場合によって弁護士を賞罰委員会の委員に入れて事実を審査する。この事実認定に誤りがあると懲戒処分が無効となることがあるので、非常に詳細な事実調査をすることがある。懲戒処分の相当性というのは、①処分が重すぎないか、②処分が公平か、③必要な手続がなされているかである。①の処分が重すぎないかというのが最も難しい。その行為による被害内容、行為の目的、手段、頻度などの行為の態様、本人の勤務態度、懲戒歴、反省の程度、被害者の意向などの情状によって総合的に判断する。会社によっては懲戒処分の量定基準を決めている。まだ決めていない会社には決めておくことを勧める。第5章で紹介した人事院の懲戒処分の量定は会社でも参考にできるだろう。
行為内容が悪質で被害の程度が大きい場合は懲戒解雇もありうる。量定については、裁判所の判決例等からある程度の「相場」が形成されているので、弁護士に相談した方がよい。②の処分が公平かというのは、同程度の行為には同程度の懲戒処分がなされるべきであるということである。この点については、その会社のそれまでの処分例を検討することになる。③の必要な手続というのは、就業規則で懲戒処分手続が決まっているときはその規定に基づいた手続が行われたかということである。また手続としては、処分対象者に処分対象事実を示して、それに対して弁明の機会を与える必要がある。懲戒処分について賞罰委員会がある会社とない会社があるが、賞罰委員会がない会社でも、少なくとも本人に弁明の機会は与えた方が無難である。なお普通解雇という処分があるが、これは社員としての適格性や能力がないと判断された場合の問題なので懲戒処分ではない。ただハラスメントを繰り返すような管理職は、適性や能力を欠くとして普通解雇もありうるだろう。刑事事件になると刑事事件と一言でいうが、それには、警察による捜査、検察官による起訴不起訴の判断、裁判という段階がある。警察による捜査の端緒はパワハラでは被害届や告訴が多いだろう。被害者から被害届や告訴があったとき、警察はまずどれだけの証拠があるかを確認する。傷害の診断書があり、目撃者もいるなどの場合は捜査が開始されることが多い。ただ、テレビで見るような家宅捜索とか、ましてや逮捕ということはよほど悪質でなければ考えられない。警察の捜査のあとは検察官への送致(送検と呼ばれている)になる。検察官は起訴不起訴を決めるが、そのときまでには加害者にとっては、示談を成立させた方がよい。示談の成立が起訴不起訴を決める大きな要素だからである。ただ相手に重傷を負わせたような場合は、示談が成立しても起訴されて裁判になることが多い。裁判になるともし懲戒処分になったときにそれを争う場合、ひとつには会社に異議を申立てて懲戒処分を撤回するよう求める方法がある。ただ会社は、いったん発令した懲戒処分はよほどのことがない限り撤回しないのが普通だ。しかし前提事実の誤りなどがあれば撤回されることもある。会社が処分を撤回することがなければ、さらに争う方法は裁判になる。裁判には通常の懲戒処分無効確認訴訟のほか、労働審判や仮処分という手続がある。労働審判や仮処分は迅速に結論が出るが、そこで解決しなければ訴訟で結論を出すしかない。どの方法がよいかは弁護士と相談して決めた方がよい。懲戒処分を争う方法は、処分の前提事実が違うという主張と、処分の量定が重いという主張が主なものであるが、それ以外には手続が適正ではなかったという主張もある。
裁判で争うときはこの分野を専門にする弁護士を見つけることを考えたほうがよい。といっても、弁護士の探し方はなかなか難しい。ネットにはいろいろと弁護士が専門分野を掲げているが、なかなかその情報だけではわからないだろう。弁護士会には、弁護士が自分の専門分野を登録して法律相談に応じているところがある。東京の弁護士会などがそうだ。地方の弁護士会でもパワハラに強い弁護士の紹介をしてくれるところがあるかもしれないので、問い合わせてみるのがよいだろう。弁護士費用はわかりにくい。かつては日本弁護士連合会が基準(旧基準と言っている)を作っていたが、今は弁護士ごとに報酬基準が異なる。ただ弁護士の多くは日弁連の旧基準を使っている。いずれにしても、依頼時に費用のことはきちんと確認しておかないと、弁護士との間でトラブルになる。巻末に弁護士などの専門家による相談窓口をまとめたので参照してほしい。
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