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第7章ロマンとビジョン、愛嬌と度胸

第7章ロマンとビジョン、愛嬌と度胸

関西の合弁事業で失敗1998年開業の南町田店の成功はニトリの成長に弾みをつけた。

それまでの収益力では年間に2、3店程度しか出店できない。

だが南町田店は稼ぐ力をぐっと押し上げた。

これにはびっくりした。

同時期に出店した新座店(埼玉県新座市)、御経塚店(金沢市)も、ものすごく売れた。

かつてはお金もなく、出店は地代の安いところが多かった。

南町田店以降は、「多少地代が高くても人口が多く、商品が支持されれば成功する」と社員たちも自信を深めた。

99年以降は10店超のペースに上がった。

金融危機で日本経済の低迷は深まる。

低価格チェーンとして知名度も上がり、デフレ時代の「勝ち組」としてじわりと台頭してきた。

出店は好調だったが、関西では一つ失敗の教訓がある。

関東では足場を築きつつある一方、西日本は実績ゼロ。

そこで地元の有力家具店と組み、合弁会社方式での出店拡大をもくろんだ。

相手は大阪に本社を置く地場の家具会社。

折半出資の合弁会社を作り、98年に奈良県大和高田市に出店した。

このことが裏目に出た。

大阪の家具会社は業界の先輩企業でもあるし、関西には詳しい。

このため品ぞろえを任せたところ、やや高めの家具が中心となり、ニトリ色は3分の1ぐらいだ。

こちらから役員や商品部長も派遣したが、意見は通らない。

結果的に毎年1億円の赤字。

苦しい船出となった。

「やはり関西は難しい。

単独でなくて良かった」とも思った。

数年たっても赤字続きで、出店も進まない。

このままだと苦しい。

相手先に合弁解消を申し入れ、会社を解散。

店舗もニトリが引き受け、商品もがらりと変えた。

店名はもちろんニトリだ。

この頃には食器のセットなど日本には少なかった家庭用品を品ぞろえに加え始めていた。

家具屋が食器を扱うこと自体が珍しく、顧客も「いったい何の店だろう」と首をかしげただろう。

79年に「ホームファッション」と「ホームファニチュア」を足した新業態「ホームファニシング」を掲げた。

それがようやく形を見せ始めていた。

米国型の商品構成が現実に70年代に米国視察をしたとき、タンスや食器棚など家具の存在感が低下していることに気づいた。

その頃、ニトリも箱物が3分の2を占めていたが、徐々にカーテン、寝装具などを増やし、ついに食器をだめ元で輸入したら大ヒットになった。

間違いなく、米国で夢見た世界が日本に押し寄せてきたわけだ。

食器の場合、16点で1490円と破格の安さだ。

新座店では入ってすぐの壁面の棚に食器をそろえた。

当時は私が商品部長も兼務。

米国での経験から「食器をやる」と言ったら、社内は引き気味。

これまでにない商品を取り入れると、既存商品を減らすことになり、売り場効率は一時的に悪くなる。

だが認知度が上がり、客数と売り上げが増えると好循環を生む。

こうした成功事例を導入し、合弁解消後、大和高田店を再オープンしたら売り上げはこれまでの倍増。

一気に黒字になった。

出店時は自信がなかったが、「何だ、関西でも通用するじゃないか」と強気になった。

失敗したからこそ、逆にニトリの競争力が証明されたわけで、結果オーライだ。

関西での失敗は教訓も残った。

折半出資では経営の意思決定が曖昧になり、しくじる。

合弁するなら70%以上の出資が必要だ。

輸入しても店数が少ないと、コンテナでまとめて調達できない。

店舗が30店、50店と増えるとともに、低価格に拍車がかかっていった。

問屋任せではできない品ぞろえ、そして安さ。

2000年に50店を大きく超え、売る努力をしなくても商品力で自然と売れていく状態に変わっていった。

80年代初めの不良品と苦情に見舞われ、苦労に苦労を重ねた商品輸入はようやく実を結んだ。

東証1部上場、100店を達成2002年に東証2部上場をすっ飛ばし、札証上場から一気に東証1部に上場した。

本来は2部からだが、証券会社の担当者が「数字上は問題ありません。

行けると思いますよ」というので挑戦した結果だ。

大半の役員を引き連れ、東証で記念に鐘を鳴らしたが、同行した家内は「あの札幌の1号店から東京。

夢みたいね」としみじみと話していた。

何度もつぶれそうになった業期を思うと、さすがに感激した。

そして03年、宇都宮市に100号店がオープン。

寝ても覚めても夢見た100店。

当初の30年計画より1年遅れの実現だった。

100号店はたまたまだった。

宇都宮の土地は4000坪ぐらいある。

しかも周囲は規制で出店できないので、好立地だった。

多くの企業から出店要請が来ており、現場は「なかなか交渉が難しい」という。

そこで「せっかく来たのだから、地主さんの家へ寄ろうじゃないか。

だめ元だよ」と訪問した。

たまたま地主は在宅中。

ここが農業なので「私も農家の出です。

田植えもやりましたし」と話すと関心を示してくれた。

実際にヤミ米も手伝っていたので、稲作に詳しく、話は盛り上がる。

地主は「なんで農業から、今の仕事をしているのか」と聞くので、「サラリーマンもダメで、土木もダメで、仕方なくやった家具がうまくいっただけです。

それもすべて地主さんたちのおかげですから」と半生を語った。

もう「私が担保です」というぐらいに説得を重ねたのだ。

ローカルチェーンからリージョナルチェーン、そしてナショナルチェーンへ脱皮した。

だが渥美俊一先生は「欧米の経験則から言うと、画期的な経営への効果は200店から」と言う。

私も満足はしていない。

100店達成のイベントは開かず、次の目標だけを見据えた。

ホンダの杉山さんと運命の出会いもっと会社を強くしなければならない。

スカウト失敗で会社の危機にも直面したが、商品力のアップのため90年代初めは大手メーカーの技術者を探し求めていた。

そんなとき運命の出会いがあった。

2002年6月、中国・広州から成田へ向かう飛行機の中で、お酒を飲みながら隣席の乗客と骨董品の話で盛り上がった。

そのうち、名刺を交換すると、隣の方はホンダの中国の現地法人「東風ホンダ」社長の杉山清さんだった。

杉山さんは「ニトリの社長ですか。

行ったことがありますよ。

イケアみたいなヨーロッパの会社ですよね」と聞いてくる。

どうもカタカナなので、スウェーデンの家具チェーン「イケア」などと同じと勘違いしたようだ。

これはチャンスだ。

杉山さんは中国で工場を立ち上げ、軌道に乗せた本物のエンジニア。

何としてでも招きたい。

「一度工場を見学させてもらえませんか」と切り出すと、快く応じてくれた。

以来、年2回は広州で工場を見学し、食事などをともにした。

杉山さんは定年を迎えていたが、62歳までホンダで勤務する契約になっている。

その後にニトリに招きたいと考えたが、杉山さんは引く手あまただ。

そこで杉山さんの奥さんにも面会した。

銀座で「カニ」など北海道料理を振る舞い、こちらの熱意を見せた。

杉山さんは未知の流通業より勝手知った製造業に傾いていた。

迷いに迷ったようだが、奥さんが「生活には困らないのだから、第二の人生、知らない世界へ飛び込めば」と背中を押してくれた。

杉山さんは勇気を出して、ニトリ入りを決断した。

04年に顧問で迎え、05年には専務になっていただいた。

まだ知名度も低かったし、周囲から「なんであんな会社へ行ったのか」とずいぶん言われたらしい。

その後本人は「まさかここまで大きくなるとは」と笑っていたが。

社内公募で決めた「お、ねだん以上。

ニトリ」のCM放映開始もこの頃だ。

会社を一言で表現するわかりやすいキャッチコピーが必要だと感じた。

コンクールを実施したところ、100ほど集まった。

その中でピンときたのがこれだった。

初めは「お、ねだん以上、それ以上。

ニトリ」だったが、顧客の頭に入るのは15文字以内という。

これではオーバーしてしまうし、「それ以上」の文言は外した。

入れていたら、恐らくここまで浸透しなかっただろう。

杉山さんの手腕は本物だった。

07年に中国製の土鍋から鉛が溶け出していたことが分かった。

新潟県の陶器業者から仕入れた商品で、焼き方が不十分だった。

米国出張中だった私はすぐに飛んで帰ってきた。

人体に影響するレベルではなかったが、約9000個を回収した。

杉山さんはホンダOBを新たに招き、品質解析のレベルを一気に上げた。

今では商品に工場レベルで異物が入ったのか、故意に混入したものかどうかまで分かる。

お客様相談室を含めた安全・安心に関係する社員は国内だけで300人いる。

過去4年、大規模リコールは発生していない。

数々の失敗はニトリを大きくしたが、土鍋事件は「お、ねだん以上。

」実現への教訓になった。

本部を東京へ移転100店から200店、300店へ。

今は年50店のペースで出店しており、会社は規模に応じて「器」を変える必要がある。

北海道の会社だが、海外との取引が増え、店舗も全国にちらばる。

登記上の本社は札幌に置き、本部を首都圏に移すことを決めた。

場所は大型物流センターのある埼玉県白岡町(現・白岡市)。

「即断、即決、即行」を信条としていただけに、2000年に開設したとき移転を見据え、「社長室」も置いた。

「東京の隣だし、ちょうどいい」と北海道人ゆえの大ざっぱな地理感覚で本部を移転しようと思ったら、社員が猛反対。

海外と国内各地へ向かう上で羽田空港がニトリの重要な拠点になるが、白岡だと時間がかかり過ぎる。

「それなら札幌で十分」というのが理由だった。

程なく北区赤羽にワンフロア約1500坪以上確保できる土地を見つけ、06年に7階建ての店舗兼本部を開設した。

だが本部移転後、ちょっとしたスキャンダルがあった。

それは船をチャーターする仲介業者とニトリ社員との癒着だ。

社内に通報があったが、証拠はない。

ただ船の利用料金がなかなか下がらないことはおかしいと思っていた。

ニトリは社内ルールを厳しくしている。

本来、怠け者でだらしない私のような性格の社員が増えると会社はダメになるからだ。

縁故採用は禁止だし、接待も一切受けてはいけない。

食事をごちそうになると、酒になり、そしていつのまにか相手の言いなりになる。

20年以上前から公正取引宣言という文書を作り、取引先にも配っている。

ちなみに社長だけは接待を受けても良い。

社長は買収されないからだ。

疑惑を解明するため、仲介会社との窓口を務める社員に関係を問いただした。

するとやはり社内ルールに反する接待を受けていて、半ば脅迫されていたようだ。

船のコストは当時、年間30億~40億円に達する大きな利権だ。

この仲介会社は通関業務まで請け負い、税関のOBも入れているし、ニトリの物流部門にも社員を出向させている。

ニトリの役員ともつながっている。

だから情報も筒抜けだ。

船の仲介業者と社員が癒着そこで私と今のニトリ社長の白井俊之ら3人で極秘のプロジェクトチームを作った。

香港など海外各地を回り、船会社を内密で調査した。

情報漏れがないように社内に行き先も告げず、ホテルも個人で予約した。

3カ月間で集中的に状況を洗い出し、不正発覚から6カ月後。

仲介会社抜きで船会社を緊急招集し、「新たな窓口を作り、直接契約します」と宣言した。

以降、すべてコンペ方式に切り替え、年間5億~6億円の経費削減にもつながった。

外部に任せすぎると癒着が生まれ、改革の妨げになる。

今では通関士20人、1級建築士23人、公認会計士5人を社員として抱えている。

手間のかかることは社内でやり、簡単なことは外に出す。

仕事のプロを多くそろえる「多数精鋭主義」こそ、成長の源泉だ。

3年前にはタイの現地法人で会社のお金を横領する不正が発覚。

メーカーからの通報で分かったのだが、調査すると社員の半数が関与しているというから仰天だ。

ただ社内犯罪は複雑に絡んでおり、半分解雇して半分残すわけにもいかない。

全員に退職金を支払い、会社を解散してしまった。

トラブルは尽きない。

台湾へ進出2006年に東京に本部を構えたころ、国内は盤石になっていた。

この頃から海外からも出店要請が出始めていた。

最初は韓国からのオファー。

韓国の財閥グループから「韓国にはニトリのような業態はない。

合弁会社を作り、ぜひチェーン化したい」と打診してきた。

ただ韓国からの仕入れは少ない。

どうせやるならパイプの太い台湾の方がいい。

特に現地の輸入代理店の「総記」とは30年近い付き合い。

将来を見据えて、台湾での出店を決めた。

だが渥美俊一先生からは「待った」がかかった。

「海外は国内500店を達成してから。

時期尚早」と断言した。

正論だが、スリルとサスペンスがないと会社は衰退する。

南町田店の出店時もそうだが、反対されてもやってしまえば勝ち。

しかも家賃は安く、「黒字化も早いだろう」と強行した。

台湾で出店を始めたのは07年。

高雄市にあるアジア最大級という触れ込みのショッピングセンター「夢時代」が1号店の出店先だ。

この施設をプロデュースしたイオンの紹介。

店は地下2階で、ワンフロア1500坪と日本の店と比べてもそん色ない。

地下なので立地は良くないが、やってみないと分からない。

ワンフロア1500坪は台湾では大きなスペースだ。

ふたを開けてみると、先生の指摘通り、散々な目に遭った。

売上高は予算の半分にも満たず、2億円の大赤字。

原因は数え切れない。

そもそも相手の要請から半年での出店で、準備不足も甚だしい。

真上の地下1階の食品スーパーとエスカレーターで結び、横にはカー用品店がオープンする予定だったが、両方とも出店できなかった。

ニトリは施設内で完全に孤立していた。

しかも台湾では輸入規制もあり、いったん日本を経由しないと入れられない品種も多く、このため粗利も30%台と日本より20%も低い。

それでも店数が必要と思い、台南、中壢に急いで2号店、3号店も作った。

やはり1500坪と身の丈より大きいスペースを確保したが、売り上げは目標の3分の1ぐらいに止まる。

苦しいので高級家具をテナントに入れるという日本ではあり得ない対策もしたが、いっこうに改善しない。

カーペットもカーテンも売れない。

台湾のサイズは欧米志向で、日本より大きい。

知名度を上げようにもチラシの効果もないし、視聴率がとれるテレビ番組がないので、効果的CMも打てない。

結局1号店はどうしようもないので、4年目で撤退した。

国内では成功パターンができあがっていたが、海外での出店は昔のニトリのように行き当たりばったりだ。

出店5年で累積赤字も20億円ぐらいたまっただろうか。

本当に打ちのめされ、完全撤退案も頭に浮かんだ。

だが店舗網拡大に伴い、中国やベトナム、インドネシアなどからの直接輸入が可能になり、低価格化が進んだ。

台湾仕様の商品も増やした。

そして300坪ぐらいのホームファッション中心の店を拡大。

そして12年にようやく黒字化した。

今は台湾で21店を展開し、営業利益率も8%。

18年には累損も一掃されるだろう。

次は夢の原点である米国だ。

台湾も黒字化したし、自ら2年間調査し、計画した。

だが攻略は台湾以上に難しいだろう。

そこで10年に、かつてニトリに在籍し、商品政策に通じた古宮小進を専務に招いた。

中国出身で日本に帰化した古宮は東京大学大学院で航空宇宙工学を学んでいたが、93年に「札幌に住みたい」という希望から応募してきた。

面接で「日本で20万人に1店舗作りたい」と話すと、古宮は「中国なら5000店作れますね」という。

発想の大きさが気に入り、意気投合。

その日にカニ料理の店へ連れて行った。

古宮によると「初対面なのに毛ガニを全部むいて、山盛りにして出してくれた。

これは尋常の人ではない」と思ったらしい。

その場で採用を決めた。

中国出身社員が活躍東大の院卒でもニトリではまず現場。

当時日本語が不慣れだった古宮だが、「外国人の珍しさ」を逆手に取り、熱心に接客。

ファンを増やし、短期間でトップセールスマンになった。

「よく1位になったな」。

店に出向き、すぐに寿司をごちそうしたことを覚えている。

2年後に商品部の敷物バイヤーに登用すると、めざましい働きぶりを見せる。

当時は国内問屋頼みだったが、「君は日本の常識にとらわれず、好き勝手にやっていいから、数字を上げてほしい」と話した。

欧州の展示会へ買い付けに行ったが、売れ筋のベルギー製ラグは高い。

古宮は展示会の片隅に出展していたレバノンの工場に関心を寄せた。

安いが、風合いも品質もベルギー並みという。

紛争の火種も残る現地へ行きたいと言い出した。

私は古宮に単身で海外の工場へ飛び込み、仕入れを始めた経験をよく語っていた。

出張を認めると古宮は、レバノンだけでなく、シリアを経由してトルコにまで足を延ばした。

危険を恐れた商社は同行を断ったらしい。

今では信じられないルートだ。

レバノンとトルコのラグは「安くて高品質」と評判になり、ヒット商品になった。

危険を顧みない「ニトリイズム」に満ちた古宮の武勇伝は面白い。

2000年代初め、オーガニックコットンが流行したが、ニトリで扱うには高価すぎた。

古宮は綿の原料仕入れに中国の新疆地区にまで足を踏み入れた。

夕食は羊を焼いて食べるが、そのにおいをかぎつけ、青い目のオオカミが取り囲んだという。

リスク覚悟で仕入れた新疆のオーガニックコットンの布団や敷物、タオルも飛ぶように売れた。

03年1月、中国で鳥インフルエンザが流行し、中国国内では鳥と羽根の運搬が禁止となった。

日本の新入学・入社時期に羽毛布団を出荷するには何とか原料を工場に運びたいが、トラックで運ぶと没収される。

蒸気で脂を落とし、高温消毒を施せば、安全面で全く問題はない。

そこで古宮とバイヤーはバスをレンタル。

座席に羽根を積載し、検問を通過させた。

検疫でも問題なく、おかげで3月の商戦は大盛況だった。

ベトナム・ハノイに工場90年代後半に「3年で海外輸入比率を10%から50%にする」と決めると、古宮らは中国の委託工場を育成。

当時の中国は今とは違う。

まともに繊維製品を作れる会社はなかった。

そこで名古屋の会社からミシンを手配し、送り込んだ。

ところが、使おうとしたミシンは電圧が違い、使えなかった。

電圧を変え、現地工場の社員にミシンの使用方法も指導した。

生産拡大のための資金調達を支援。

粗悪品のイメージの強い「メード・イン・チャイナ」だったが、カーテン、ブラインド、タオル、座椅子などニトリの商品を作る工場が数百カ所まで広がった。

2000年初めに新店でバスタオルを399円で販売したら、大行列ができた。

「ここまで人気なら定番商品にしよう」と決め、中国の工場に依頼した。

他社は1000円ぐらいだったから、太刀打ちできなくなったように思う。

現在ニトリの取り扱う商品の約90%が輸入品で、このうち60%が中国製だ。

そして87年に買収したマルミツ(現在の社名はニトリファニチャー)も着実に成長している。

インドネシアが軌道に乗ってから、05年にはベトナムでの工場建設を決めた。

2000年代初めは港や空港が近いホーチミンが生産地の中心で、進出するならここだった。

だが工場も乱立し、ストライキも多い。

人手を確保する見通しも立たず、なかなか新工場を作る余地は少ない。

そこでベトナムの北部に位置するハノイに目をつけた。

当時は発電能力に問題もあり、停電も多かった。

このため日系企業の工場は少ないが、メリットも多かった。

ホーチミンより涼しいし、人も採用しやすく、賃金も安い。

当初、箱物や椅子・テーブルといった脚物を作っていたが、あれから10年。

今はベッド、ソファと広がる。

やはりインドネシアでの苦労が役に立った。

現在のニトリファニチャーの生産量の内訳を見ると、インドネシア30%、ハノイが70%と逆転している。

インドネシアは男性が70%だったが、ハノイは95%が女性という構成だ。

なぜか。

女性を活用するには安全面、衛生面を徹底する必要があり、この結果、工場の生産性も高まる。

労務管理もきめ細かくした。

帽子の色や背番号で従業員の職歴、役職がはっきり分かるような管理にした。

インドネシアの手法をがらりと変えたのだ。

当初は非人間的とも言われたが、きっちり運営でき、業績も良くなる。

先生は草葉の陰で泣いている古宮を投入した米国だが、やはり大赤字。

米国人の消費スタイルは成熟し、日本よりはるかに進んだコーディネートも欠かせない。

商品も店舗数が少なく、現地仕入れだ。

時期尚早と言われればそのとおり。

本当は店名を「ニトリ」にしたかったのだが、スペルが米国にある寝具会社の「ナトリ」に近いという。

2回申請したが、却下された。

仕方なく仮の(自分の名前を使った)「アキホーム」でスタートすることにした。

タイミングを見てかつての日本のようにまた変えようと思う。

将来を見据えての投資なので仕方ないが、14年に出店した中国とともに「双子の赤字」と呼んでいる。

10年に亡くなられた渥美先生は草葉の陰で泣いているだろう。

米国には5店がある。

日本のやり方では遅れているので土台無理。

原点に戻り、米国で学んできた手法でやり直そうと思う。

レイアウト、品ぞろえも変える。

家具もすべてやめて、700坪まではホームファッションだけの店にして、作り直す考えだ。

まずは100店、300店、そして将来的に1000店は作りたい。

そのモデルを今後3年で作り上げるしかない。

中国も14年に出店した。

実は、あるところで飲みながら新聞記者の前で口を滑らせて「14年中に出店したい」と言ってしまい、マスコミに出てしまった。

願望が正式な経営目標になってしまった。

社内では誰も知らない。

「言った以上はやるしかないな」と決め、中国・武漢への出店を決めた。

地元のデベロッパーとニトリの開発部隊が探してきたのだが、自分は武漢には行ったこともない。

人口も1200万人いると聞いて驚いたぐらい。

行き当たりばったりだけど、それも縁だと思う。

そして今年(15年)は上海に進出した。

これもやってみないと分からない。

中国の売上高は目標の7割で、最近は調子が良くなってきた。

順調すぎると社員も安心してしまう。

本体が傾くような赤字でなければいい。

そこで学んで、軌道に乗せる過程を共有すれば、次のビジョン達成への足がかりになる。

組織を緊張させ、その始末をつける。

社員には「試練」というプレゼントだ。

現時点ではアメリカに5店舗、中国に4店舗。

中国は今年、あと3店舗をオープンする予定。

しばらくは、両地域ともに様子を見ながら数店舗ずつ増やしていくつもりだ。

合計で20店を超えるとアジアから独自商品を輸入でき、経営も安定する。

早ければ17年には赤字を解消できるかもしれない。

評価は死後に定まる東南アジアの自社工場の熟練度も上がり、ニトリはユニクロのような価格と品質をコントロールできるSPA(製造小売り)企業に転身できた。

海外へ雄飛する基盤作りもできた。

父の教え通り、優秀な人材が集まり、会社を支えてくれたからだ。

後継者づくりはずいぶん前から考えていた。

自分が失敗したり、自分の身に何かが起きたりしたら、いつでも辞めようとは思っている。

今の後継者は白井社長だが、決める前までは家内だけに「俺が死んだら誰々」と意思を伝えていた。

渥美先生の教えでは「トップは人生経験が必要だから50代以上。

そして候補を3人持て」と言われた。

だが人選は常に変わってくる。

最初は見所があると思っても続かないものだ。

日の出の勢いがある人物もあるときから守りに入ってしまうなど、リスクをとり続ける人は少ない。

そんな調子で家内にはしょっちゅう「俺が死んだらあいつが社長とか言ったけど、考え方変わった」と話すと「あなたはころころ変わるね」と笑っていた。

業家経営は一代限り。

長男には継がせないことを伝えているし、大株主として「ニトリが会社の立場だけで行動しないようにチェックしてほしい」と頼んでいる。

利益優先になると、そこにとらわれて、顧客側に立つことを忘れてしまう。

とにかくニトリは「日本の暮らしを豊かにするための会社」であるという理念は守らないと、業した意味がない。

ちなみに長男が大株主といっても、私や家内が保有している分は家族でも売買できないようにした。

株式が離散すると経営の安定を脅かす。

「子孫に美田は『余り』残さず」だ。

まだまだ元気だが、自分の身に何が起きても大丈夫なように対策はすべて講じてある。

米ウォルマート・ストアーズは業者の死後もさらに成長している。

世界中どこでも同じスローガンだ。

業者の志を後継者につなげ、そのまま社風になったのだろう。

これには時間がかかる。

経営者の評価はその死から50~100年後に決まるものだと思う。

やはりビジネスは利益を優先するのではなく、社会のためという目的があってこそ、強い動機が生まれ、成功する。

もうけばかりではダメ。

60歳になったとき、「直接的な社会貢献をしよう」と決めた。

その一つが似鳥国際奨学財団だ。

私が保有していた400万株(360億円相当)を使い、05年に設立した。

ニトリ発展を支えてくれたアジアへの恩返しだ。

毎年、日本に来ているアジアの留学生100人を対象に2年間無償で奨学金を支給しているが、15年からは中国・台湾・米国の現地で学ぶ学生への奨学支援も始めた。

ニトリで毎年実施している米国視察にも参加できるのが特徴だ。

財団の支援を受けた学生がニトリに入るわけではなく、商社や金融機関なども多い。

いずれなんらかの形でチェーンストア経営に携わってくれたら嬉しいが、優秀な彼らが、自国の豊かなくらしのために貢献できたら良いと思っている。

このほか、イオンの業者の岡田卓也さんに刺激を受けて始めた植樹、早稲田大学での寄付講座など社会貢献活動は幅広くやらせてもらっている。

ちなみに15年には東京大学でも講座を開く。

勉強が大の苦手だった私が東大で話すというのも何かおかしい気もするが。

大企業病に陥らないために50~100年後でもニトリが成長するためには、会社に理念に沿った経営が続いていく組織を作る必要がある。

最優先なのが人への投資だ。

とりわけ米国研修は81年以来、続いている。

15年も6月に800人以上が参加した。

費用は1人35万円になる。

もちろん、私も一緒に行った。

私は27歳の時に米国視察で大いに刺激を受け、「日本を豊かにする」という大志を掲げた経営に踏み出すきっかけになった。

「鉄は熱いうちに打て」ではないが、若い社員にも是非、大きな志と目標をもってほしい。

13年から2年目の社員を対象とした。

1年目だと学生気分が抜けていないし、5年も過ぎると熱い心も冷えてしまう。

仕事に慣れてきた2年目に米国研修を実施すれば、仕事のモチベーションは高まる。

実際に離職率は低下した。

もちろん20代では完全に働く意味は分からないと思う。

30~40代になって初めて目覚めてくる。

このため米国視察を含め、教育投資だけは惜しまない。

1人当たりの年間教育投資額は約25万円で、上場企業の平均額より5倍は多いと思う。

設備投資よりこちらの方が大事だ。

経営環境が厳しいとき、教育費を削る企業は長期的に停滞する。

だからニトリの生命線である教育費と商品開発費は削らない。

とにかく目先の利益だけを考えていては成長しない。

長期的視点に立たないと会社は大きくならない。

短所を直さず、長所を伸ばせニトリが10店ぐらいの時代は私のエネルギーが社員全員に伝わるが、数百店になると難しい。

トップの指示が正確に伝わり、数字と技術に強い社員が育つ仕組みに会社を変える必要がある。

人材育成も場当たりではダメで、長期的なビジョンが欠かせない。

社員はそれぞれが20年間のキャリアプログラムを作成。

「マネジメント」か「タレント」のコースを決め、40代までに「スペシャリスト」を育てる。

ロマンとビジョン実現には日本でトップクラスの技術が必要だ。

40歳までに技術を段階的に身につけ、スペシャリストの資格を取得できるようにしている。

そうなると報酬もアップする。

人気があるのは商品部。

やはりニトリの心臓部だからだ。

もっとも社員は「自分の適性が何なのか」見極めにくい。

ニトリでは社員の適性検査を実施している。

500以上の質問から「商品開発」「営業(店舗運営・法人事業)」「人事系」「経理系」等、本人に適した業務などが特定されるわけだ。

性格上の長所や短所も出てくる。

それだけでなく、私は社員数人をランチやディナーに誘い、直接カウンセリングをするようにしている。

日々働いていると、社員は「自分が何に向いているのか」「何がやりたいのか」など会社人生の先行きが見定めにくくなるからだ。

社員には「カウンセリングが嫌なら、食事だけでもいいよ」と話すが、たいていは乗ってくる。

適性検査のファイルを参考資料として社員と話をするのだが、本人の希望とは食い違う結果が出てくることがある。

社員にその感想を聞くと「自分では分からなかったけど、当たっている」という声が多い。

社員の大半は短所を気にするし、その点を責める上司が多いように感じる。

だが私は逆で「短所あるを喜び、長所なきを悲しめ」が基本的なスタンスなので、短所を直さないで、長所を伸ばせば良い。

上司がするべきことは部下の欠点を見つけることではない。

長所を見つけて、伸ばしてあげ、それに適した仕事を探すことだ。

部下である社員も「やりたいこととは違う」と思っても、まずは任された仕事をこなせばいい。

少なくとも仕事上の向き不向きの一端が見きわめられ、次につながると思う。

私は机の上の整理整頓等が不得手だが、組織の方向づけや、20~30年先を見据える「戦略」には、自信がある。

5~10年の「経営戦略」や、1年以内の「戦術」は幹部に任せている。

ニトリが成長するなか、年々業績も上がり、待遇も上がっている。

14年からベアも賞与も上げ、流通業界では高水準の待遇だと思う。

かつては残業も多く厳しい職場だったが、今は平均で1カ月当たり7時間ぐらいに減った。

また休みも多いし、夏は11連休、冬は8連休もとれる。

ただそれに慣れてしまうと、闘う集団ではなくなってしまう。

良好な職場環境とハングリー精神をどう両立するのか、近年の課題だ。

大事なのはやはり教育。

残業を大幅に減らすのも社員に自己育成の時間を与えて、ストアコンパリゾン(自店と競合店との比較調査)や語学などの勉強をしてもらいたいためでもある。

「自由にさせたら勉強しない」という声もあったが、自己育成をしない人間はおいてきぼりをくってしまう。

独特の評価方法と「配転教育」長期プログラムに加えて、独特なのが社員の評価制度だ。

かつては5段階評価にしていたが、それだと75%程度の人は3になる。

するとそれで満足してしまう。

しかも4に近い3だと勘違いして。

本当は2に近い3だが。

それでは社員の総合力は上がらない。

そこで評価制度を見直したが、4段階評価だと2以下の人がやる気をなくし、全体の士気にかかわる。

そこで6段階にしたのだ。

その結果、4よりも3の評価の社員が増えることになった。

するとみんなびっくりして、「4と思ったら、3だと。

会社の評価がおかしい」と文句をつける社員もいた。

社員は評価に敏感になる。

みんな中の上が好きなんだ。

もっとも若い社員はモチベーションが見つけられないことが多く、ふらふらしている。

そんな段階で差をつけすぎると、辞めてしまう人もいる。

このため入社してから5年間は5段階評価で、6段階評価は30代からを対象としている。

それから現場への配置転換である「配転教育」はまさにニトリの真骨頂だ。

ニトリには本部に5年いたら役員でも一度は現場担当をさせるという決まりがある。

5年たつと世の中はがらりと変わる。

やはり小売業はお客様の声をじかに聞いていないと、感覚がずれていく。

これを防ぐと同時に、自分の部門だけの利益にとらわれる「セクト主義」にも陥らない。

最近は本部の事情で8年になったり、10年になったり本部在籍期間が延びている社員もいるが、大企業病を克服するためには、配転を早めていかないとだめだ。

現場の仕事を一通り覚えたら、2、3年でどんどん異動させていく。

しかも「店舗から物流」など、仕事が全く違う部門への異動が基本だ。

よその視点から仕事を批評し、刺激を与えられる。

普通の会社は同じ部署に長くいる方が心地よく、配置転換を伝えられると「お払い箱」と受け止めるかもしれない。

少なくともニトリでは逆で平均より長くいると「早く異動させてもらえないか」と不安がる。

スペシャリストを育成する一方で、配転をするのは矛盾しているように見えるだろう。

だが、専門バカではなく、幅広い分野を経験したスペシャリストの方が力を発揮する。

経営とは矛盾の追求で、それが競争力を高めると思う。

社をあげて飲みニケーションコミュニケーションの話に戻るが、組織の風通しを良くするため、年に数回、会社主催の飲み会を開くことにした。

4000人の社員がいて、会社が1人5000円負担するので1回当たり2000万円に達する。

私や白井社長も参加し、ざっくばらんに談笑する。

ある店のオープン時に懇親会を開き、社員が一人ひとりスピーチをしたら、2時間の予定が4時間になってしまった。

だが本部と店舗の関係を良好に保つ上で欠かせない。

これを数回開くと結構な費用になるが、教育投資と同じだ。

今年も6月~9月までは毎月本部の屋上でジンギスカンパーティーを開くことにしている。

肉は「本場」北海道から取り寄せ、食べ放題、飲み放題。

みんな楽しみにしているようだ。

若手から社長まで参加し、中には家族を連れてくる社員もいる。

一体感は強まる。

社内コミュニケーションもそうだが、近年気になっていたのは大企業病だ。

やはり本部に閉じこもっていると、どうしても自分の立場からしか仕事をしなくなるし、現場のことが意識から遠くなる。

社員も本部志向が強まってしまう。

官僚的になってしまうことに危機感はあったが、私自身が妥協していた。

そこで本部社員には週5日のうち、土日は店舗で働いてもらうことにした。

ニトリでは6年たてば、本部から再び現場で働く「配転」をしている。

どうもこれだけでは足りない。

そこでこの仕組みを導入しようと決めた。

もちろん本部の社員が暇なわけではない。

本部での仕事時間が減るので、批判も強まるだろう。

それでも会社の敵は惰性であり、思考停止だ。

まず店舗勤務を増やし、課題はそれから考えれば良い。

あくまで顧客の立場を最優先して考え、行動することが目的なのだから。

社外役員が厳しく指導5年前に下請法違反で摘発を受けた。

そこで、やはり外部から見て批判的な意見を言う人が必要だと思い、公正取引委員会委員長を務めていた竹島一彦さんを社外取締役として招いた。

実際に指導は厳しく、毎月の取締役会と平日の会議には必ず出席し、目を光らせている。

14年の消費増税後も「絶対に下請法に違反する商談をしてはいけない」ということで、すべて内容は録音し、記録を残すようにした。

竹島さん以外にも元警察庁長官の安藤隆春さんを招いている。

北海道の経営者と官界との勉強会を開催していたのがきっかけだが、話も合うし、相性も良かった。

それは飾らないで言いたいことをしっかり言ってくれるということだ。

本当に社外役員は厳しく、おかげで取締役会は引き締まった。

工場進出でも「将来、必要なのか。

採算が合うのか。

根拠を示せ」など原理原則から追及される。

ビジネスに明るいわけではないが、目的と数字を厳格に見ている。

イオンの元専務で顧問をしてもらっていた故阪本美樹さんもそうだった。

社長は業者である私なので、取締役会もしゃんしゃんで終わってしまう。

私の思うとおりになってしまうのではダメだ。

「なぜ、なぜ、なぜ」と納得するまでたたみかけてくる。

これは社員ではできない。

竹島さんは物流センター、店だけでなく、ベトナム工場も回り、米国セミナーにも参加してもらっている。

遺産巡って肉親と裁判2009年に200店を達成し、渥美俊一先生や取引先などお世話になった方々を集めて、都内のホテルで記念パーティーを開催した。

200店以上でお値打ち商品を提供できるというのが先生の持論。

私も達成感を覚えた。

先生は「まだまだ半人前です。

余り褒めないでください。

1人前は500店です。

叱咤激励してあげてください」と愛情あふれる挨拶をしてくれた。

夫婦で泣いてしまった。

目標達成は社員など周囲の助けのおかげで、運が8割だ。

一方、この頃、個人的にはつらいことがあった。

母親、兄弟から遺産相続の件で訴えられていたのだ。

1989年に父・義雄が亡くなり、遺産分割協議書を作成。

今では数百億円の価値がある父の残した株式を、長男にして業者の私が引き継ぐことになった。

だが母らは「協議はしていない。

書類の印鑑も勝手に昭雄が押した」と07年に札幌で裁判を起こした。

裁判は本当に憂鬱だった。

出社しようとして車に乗る瞬間、「バチバチ」と音がする。

写真週刊誌『フライデー』の突撃取材だ。

何のことだか分からず、腰を抜かしそうになった。

『フライデー』では2週にわたり6ページの特集が組まれた。

載った写真もいかにも悪人面だ。

裁判の打ち合わせはきつかった。

弁護士から質問されると、思い出すのも大変。

ストレスで血圧が250まで上がってしまった。

途中で中断し、医者を呼び、降圧剤の注射を打つ始末。

あの頃は生まれ育った札幌へ行くのがおっくうだった。

生涯であれほどつらい記憶はない。

業期は上の妹が高校卒業後、結婚するまで働いていた。

母も1号店で店番など手伝ってくれた。

家族の協力があったのは間違いない。

急成長した80年代から90年代、みんなでアジアの工場にも行った。

札幌証券取引所に上場したときは、みんな感謝していたのに。

裁判中は何をしても面白くない。

考える暇がないように仕事に没頭した。

地獄だった。

こんなことなら、お互いにゼロになる起業前の頃に戻りたかった。

法廷で90歳を超えた母は「昭雄、私の顔と目を見られないのか」と激高する。

休憩時間に弟や妹と出くわすと、乱闘騒ぎになった。

こちらの信義に関わることなので、相手の要求を呑むわけにもいかない。

実は私と兄弟が以前話していた会話が録音されており、証拠として提出されていた。

相手側が出した証拠だが、こちらに有利な材料にもなった。

札幌地裁の第一審は私が勝訴し、二審では母らは要求をすべて放棄するという形で12年に和解となった。

和解以降も、私は実家には入れてもらえないし、父の位牌に手をあわすこともできない。

似鳥家は分裂してしまった。

実は89年に渥美先生に株式の扱いについて相談すると「必ずもめるから、株式公開前に新しい会社を作れ」と指導してくれた。

実際、先生の門下生はそういう形にしている。

だが苦労した親兄弟と利益を分かちたいという思いから先生の教えを守らなかった。

一生の不覚だ。

渥美先生なしでは私の成功はなかった。

15年2月期の連結売上高は4172億円、経常利益は680億円で時価総額も1兆円を超えた。

日本経済に貢献した渥美先生はもっと評価されていいと考えている。

そこで4月に東京・代官山にある渥美先生の欧風の自宅を購入し、「渥美俊一記念館」を開くことにした。

しょっちゅう呼ばれて、今の役員を引き連れて色々な打ち合わせをした。

15年初め、久しぶりに見に行ったら、とても懐かしかった。

先生の仕事をしていた部屋がそのまま残っている。

本や資料、お好きだった絵画など先生の足跡を残し、チェーンストア経営を志す者、関心がある人が利用できるようにしたい。

今後も先生の衣鉢を継ぎ、日本を豊かにすることが人生の目標であることは変わらない。

それはニトリをさらに大きくし、「お、ねだん以上。

」の商品を提供することに尽きる。

「1・3の法則」という言葉がある。

1店、3店、10店、30店、100店、300店、1000店と規模によってチェーンストアにとって必要な人材の質も変わってくる。

「3倍になったときに壁を破れるかどうか」が目安になると、先生も口にしていた。

この3倍の法則を自分なりに分析してみた。

住宅価格がそうだ。

価格が2倍になると危険になり、3倍になると破裂する。

日本のバブルもそうだった記憶がある。

実際にこの法則を試したことがある。

2000年代、米国へ視察に行くたびに住宅価格が上昇している。

2倍、3倍近くと膨れあがっていく。

「これは危ない」と思い、08年初めにニトリ財団が保有していた外国債券などを売却することにした。

ところがなかなかはじけない。

「おかしいな。

見誤ったか」と考えていると、同年秋、リーマン・ショックで株式や債券、土地など世界的に資産価格が暴落した。

おかげで4割もうかった。

そして大不況に備えた。

大がかりな値下げキャンペーンも09年から8回連続で実施した。

苦しいときこそシェア拡大のチャンスで客数増加が狙いだった。

この頃は円高だったし、還元することもできた。

すなわち3倍になると経営のやり方を換えないといけない。

次は22年に3倍の1000店、1兆円が目標。

この準備をしないといけない段階だ。

以前も書いたように成長スピードに合わせて「乗り物」を変えていくという発想だ。

業期は家具中心だったが、年々比率が低下し、今は40%程度。

そこで、カーテンや寝装具などホームファッションという新市場に乗り換えた。

今度はインターネット、リフォーム、法人事業、ロジスティック、小商圏向けのデコホームと新たなフォーマットを作っていった。

そして海外だ。

台湾、米国、中国が1000店達成への乗り物。

工場も同じ。

箱物からソファ、ベッドと主要な生産品目ががらりと変わる。

当面の目標は米ウォルマート・ストアーズのように人口10万人以下の小さい都市でもニトリが行き渡るように、国内で500店を出すことだ。

先生が常々言っておられたのは、とにかく客数は前年実績を超えること。

それが社会貢献のバロメーターだという。

そして32年までの第2期30年計画は世界で3000店・3兆円だ。

人生は冒険だ国内の事業はニトリ社長の白井俊之に任せている。

毒蛇や野生動物が生息するような未開の地を切り開き、新たな道を示していくのが私の仕事だ。

2032年の家具とホームファッションの世界市場は中国、欧州、米国がそれぞれ32兆円という試算がある。

それまでに米国、中国にそれぞれ1000店を持ち、中南米やアフリカにも製造拠点を作るなど、前例のないことをやってみたい。

衛星で世界中の車がどう動いているかなどをチェックし、製造・物流から販売までグローバルに展開するモデルだ。

「企業に必要なのは3C(チェンジ、チャレンジ、コンペティション)だ」というのも先生の遺訓だ。

人生は冒険であり、アドベンチャーだ。

これからも仕事がすべての私だが、家内からは「判断がおかしくなったら、引導を渡すわよ」と言われている。

手足を縛って、強制的に退場させてもらうしかない。

ロマンとビジョン。

そして同時に大切なのは男も女も「愛嬌と度胸」だと思う。

本人の性格にも由来するが、相手を楽しませるサービス精神は忘れてはいけない。

困難な状況の時ほどリーダーにはユーモアが必要だ。

とにかく自分で楽しみ、周りを盛り上げるのは子供の頃からの姿勢だ。

13年に45周年300店記念のパーティーを開き、そのプログラムの一つとして演歌歌手の細川たかしさんのショーを用意した。

三味線の演奏とともに司会者が「歌は『望郷じょんがら』。

」と紹介すると、着物を着た私が登場、まんまと2番まで歌った。

程なく「望郷じょんがら」を歌う細川たかしさん本人が出てきて「何で私の歌を歌っているんですか」と突っ込む。

1人目が本物だと勘違いしていた会場の人々は大受け。

そして私が「一度やってみたかったんです。

負けていないでしょう」と、ぼけるという演出だった。

もちろん細川さんも後で私に負けない(?)すばらしい美声を披露してくれたが。

いつでもバカになれる。

これも私の持ち味だ。

日本経済新聞で「私の履歴書」を15年4月に連載中、反響の大きさに正直驚いた。

一方、品のない過去の行為に批判があったことも承知している。

それもひっくるめて私の半生にお付き合いいただき、感謝するばかりだ。

プロの150訓およびプロフェッショナル心得帳(抜粋50項目)〈プロとは〉❶プロを動かすのは、理論ではなく、思想であり、見果てぬロマンとビジョンである。

❷プロとは、障害を認めない人である。

したがって、どのような障害があっても、求める必要な結果を、必ず、達成する。

❸プロとは、常に現状における、自己否定を繰り返し、自己革新を続ける人である。

したがって、3ヶ月経って、何の変化も無ければ、すでにプロではない。

〈アマとプロのちがい〉❹アマは、これがあるからできないと思う。

プロは、これさえ解決すれば、できると考える。

❺アマは、見逃すことが多いが、プロは、何をやっても、みな、仕事と結びつけて考える。

❻アマは、変化がきた時、ダメだと思う。

プロは、変化がきた時、チャンスだと捉える。

〈プロの信条〉❼プロは、攻めに徹する。

攻撃は、最大の防御であることを知っているからだ。

❽プロとは、謝意(感謝─ありがとう、謝罪─すみません)を、素直に言える人。

〈プロの心掛け〉❾仕事に必要なのは、する力ではなく、それをやりとげようとする、執念である。

❿プロは、もって廻った言い方はしない。

結論から、ずばり、言いにくいことでも、はっきり言う。

⓫アマは、マイナスが来るとそれに輪を掛けて、更にマイナスにしてしまう。

マイナスをプラスに変えることのできる人を、プロと言う。

〈プロとしての商人〉⓬商売の上で迷ったら、お客様という原点に戻って考えれば、すぐ解決する。

⓭目先の利益を追う、小手先のあの手この手では、お客様の支持は、得られない。

お客様の利益を考えること。

〈プロの覚悟〉⓮変化をおそれず、チャレンジするのがプロである。

変化を誰よりも早く、先取りするのが、プロ中のプロである。

⓯プロは、よろず簡単明瞭が好き。

アマは、いろいろ余分な手を加え、複雑怪奇にすることが好きだ。

〈プロのする仕事〉⓰与えられた条件で、必要な数字を確実に出すのを、プロという。

⓱後始末をする必要のない仕事をする人を、プロという。

〈プロの人生〉⓲プロの共通条件は、旺盛なる向上心と、あきれるほどの好奇心。

そして、どんなことにも拒否反応を起こさない柔軟心である。

⓳プロは、どんな難しい仕事でも、辛いと思ってやってはいない。

難しければ難しいほど、楽しんでいる面がある。

⓴逆境は、最高の教育の場。

困難を自ら作り出し、それに挑戦する気力のないものには、チャンスもない。

〈プロの側面〉プロは、普通の人から見れば、何でもないことに「おどろき」「うたがう」

幼児のような素直さ、柔軟性を持っている。

毎朝、新聞をよく読め。

そこには、プロとして必要な99%の知識と話題が、そして、考えるヒントがいっぱいある。

〈プロのプロ〉20歳代で、1年でマスターできることは、30歳代では、4年~5年かかる。

40歳代になると、10年~15年かかる。

50歳代では、何年やっても、マスターできないことが多い。

プロは、若いうちに、どれだけ、全力投球したかで、あとの腕前が決まる。

どんな結果にも、必ずその原因がある。

特に、失敗したとき、プロは、徹底的にその原因を追求し、アマは、がっくりして、何もしない。

男子の本懐は、今の仕事が、楽しくてたまらないことである。

〈ビジネスマンとして〉目標を設定せよ。

年間の大目標、3ヶ月の中目標、週間の小目標、そして今日の目標をはっきり決めて、それに向かってばく進せよ。

〈仕事〉どんなつまらないと思われる仕事でも、全力で正面から取り組め。

会社の仕事は、すべて一見つまらないと思われるような仕事の上に成り立っている。

その基本的な、一見つまらない(本当はとても重要なものだが)仕事すら満足にできないものには、それ以上の仕事をさせるわけにはいかないのだ。

「どうしたらよいのですか」と聞くのは新人社員の間だけ。

「こうしたいのですが」と言えるようになって当たり前。

〈リーダーシップ〉リーダーは目標を明示せよ。

くりかえし、くりかえし明示せよ。

全員が同じ方向に進むとき、最高のチームワークとなる。

部下に無能者はいない。

部下を使いこなせない、無能なリーダーがいるだけだ。

発言する前に、まず、現場で事実を調べよ。

本当はどうなっているかも知らずに、意見を述べたり、命令すれば、部下はついて来ない。

部下の短所を直しても良くならない。

伸ばすべき長所を見いだし、思い切り伸ばす激励とチャンスを与えれば、誰でも成長する。

疲れていても、張り切っているかのごとく振舞え。

悲しいときでも、悲しくないかのごとく振舞え。

かのごとく振舞うことは、困難から脱出する最良の対応である。

何も決定しないことは、誤った決定よりもなお悪い。

〈日常の心構え〉どんなに苦しくても、明日に希望があれば耐えられる。

反対に、現在どんなに恵まれていても、明日に希望がなければ、勇気はわいてこない。

人間は願った以上のことは、実現しない。

人生は思ったとおりになる。

ならないのは、思い方が、まだ足りないからだ。

〈生活態度〉スケジュールを決めてから行動せよ。

そして、たえずスケジュールを修正せよ。

〈自己啓発〉書くのは苦手、話し下手、数字は大嫌い、おまけにグズでは、馬鹿と思われても仕方がない。

〈造性開発〉ビジョンは、現状を否定するための評価尺度である。

最も難しい決定は「捨て去る」ことである。

断固として捨て去ることこそ、革新の第一歩であり、捨てないところに革新はありえない。

〈数字に強くなる〉数字嫌いは脳の退化を促進する。

窓際族になりたかったら、数字から逃げまくることだ。

コントロールの第一歩は、まず現物を現場でひとつひとつ数え、確認することから始まる。

コストを意識しないことを趣味という。

見栄っ張りは最大のムダなコストの原因。

〈話し方、聞き方〉話し上手になりたければ、まず聴き上手になること。

よく聞くことは説得の第一歩。

〈人間関係(上役と下役)〉能力のある人は、他人の能力について非難しない。

能力のない人に限って、上役、部下に対する不平不満が多い。

下役から見たとき、上役は常につまらない存在に見えるものである。

とくに直属の上司のアラは目につきやすい。

〈わが人生と生涯設計〉小成に安んじて、早く家を建てるな。

係長時代に建てた家に社長は住めない。

無理をすれば、借金返済で、やりたいことがやれなくなる。

一生涯の目標が、自前の「うさぎ小屋」を建てることにあるとは情けないではないか。

欠点あるを喜び、長所なきを悲しめ。

欠点を直しても伸びない、長所を伸ばしてこそよくなる。

20代は実力養成時代。

成果はまだ何もない。

30代は全力投球時代。

成果は蓄積されるが、まだ見えない。

40代は格差拡大時代。

成果がようやく現れはじめる。

50代は努力結実時代。

成果がはっきり認められるようになる。

〈セルフコントロール〉「攻め」の人間は、齢はとらぬ。

「守り」の人間は、どんどん老いていく。

初出日本経済新聞朝刊(2015年4月1日~30日)※単行本化にあたり大幅に加筆修正しました。

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