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第6章試練は終わらない

第6章試練は終わらない

初の家具専用自動倉庫を導入1970年代後半は年に最低1店は作り、スクラップ&ビルドも始めた。

80年代は会社が飛躍する重要な時期となった。

将来的に大きな道路が完成する札幌市手稲区新発寒の農地5000坪を安く購入した。

坪5万円ぐらいだったと思う。

そんなとき、関東にある日産自動車の工場を見学した。

高層の構造物の中を部品が上から下へ、下から上へ流れる倉庫を見て、ひらめいた。

「これを家具の倉庫に利用できないものか」平屋の倉庫だと従業員が行き来するだけで時間がかかり、人件費もかかる。

自動倉庫にすると電気代だけで済む。

初期投資はかかるが、これは貴重な時間と労働力を買うことにひとしい。

「我ながらいいアイデアじゃないか」とほくそ笑んだ。

もっとも社内の反応は「そんなもの、札幌の田舎に作ってどうするんだろう」と不思議がっていた。

機械メーカーのダイフクに相談したところ、流通企業は初めて。

相手も乗ってきて、こちらの設計図通りに開発してくれた。

「うちがモデルになりますから、安くあげてください」などと相変わらず虫のいいことを言いながら、実現にこぎ着けた。

80年、手稲区に6階建ての日本初の家具専用の自動倉庫が完成。

横に家具以外の商品を保管する2階建ての倉庫も設けた。

自動倉庫が稼働すると、メーカーからまとめ買いができるようになり、低価格化と出店拡大に大きな力を発揮した。

82年に年商50億円を突破。

「ようやくペガサスクラブでダイエーやイトーヨーカ堂と同じく、Aクラス入りした」と、喜んだのもつかの間、同クラブはAクラスの条件を100億円に引き上げてしまった。

結局、中内さんや伊藤さんと席を同じくすることはなかった。

ねたまれて、悪い噂も成長に伴い、家具の同業はつぶれ、取引先も替えていく。

業界からはねたまれ、悪い噂話もたくさん流される。

おかげでちょっとした事件に巻き込まれてしまった。

ある日、刑事が電話してきて「ちょっと外で話ができないか。

あなたも困るだろうから」と言う。

「やましいことは何一つありませんよ」と返答すると、札幌の本社にやってきた。

刑事は「あなたは女性問題で男から恐喝され、数千万円を脅し取られているのですか。

正直に話してほしい」と聞いてくる。

「この店へ行ったね」「あそこにも行ったね」。

驚いたことに刑事は私が通った飲み屋をほぼ把握している。

遊びに夢中の私は全然気づかなかったが、2人の刑事が半年も尾行していたというのだ。

確かにこの頃は調子に乗り、毎晩のようにクラブをはしごし、遅くまで飲んだり、歌ったり、大騒ぎ。

そこに顔を出していた女性の交際中の男性に問題があったようで、変な噂が流れたのだろう。

刑事は「こういう噂は8、9割は当たっている」と話し、銀行口座まで丹念に調べ上げていた。

後で聞くと恐喝の噂は同業では知らない人間がいないくらいだったようだ。

いくら釈明しても刑事はなかなか信用しない。

口座まで調べたのだから「じゃあ、分かったでしょう」と言うと、どこかに脅迫犯とつながる「隠し口座」があるのではないかと疑いは消えない。

「地方の信用金庫にあるのではないか」とか、とにかく執拗に調べ上げられた。

「脅されているのなら、ちゃんと守るから」とまで言う。

1カ月ほど過ぎ、刑事も「シロ」であることをようやく認めた。

捜査終了後、「ああいう噂はだいたい当たっているのだが、珍しいことだ」と首をかしげていた。

事業が軌道に乗り、度を過ぎた夜遊びが招いた疑惑だった。

当時「夜中3時前に帰るのは男じゃない」と放言し、飲み歩くことを自粛することは全くなかった。

道内中、どこでも遊びに行った。

ブランデー1本を氷入れに入れて、みんなで空になるまで飲み回す。

すると誰かがぶっ倒れたりして元気いっぱいの日々だった。

今で言う働き盛りの「アラフォー」。

80年代は出店が続き、気分も高揚していたのだろう。

函館店成功で成長力1981年には北海道地方店の第1号店を苫小牧市にオープンした。

もっとも苫小牧店は店内の漏電で店内が焼け落ちてしまった。

うまく行き始めると何かが起こる。

ニトリのパターンだ。

道内出店でも函館は大きな転換点だった。

函館の店舗候補地は、イトーヨーカ堂や長崎屋など量販店が集まっている国道沿いの絶好の場所だ。

交渉は難航する。

交渉役は私とエアドーム店の出店でお世話になった多田康郎さん、ニトリの店舗開発部の社員。

何度も押しかけたが、造園業を営む女性地主の近江小波さんは拒否。

「大して利益が出ている会社じゃない。

イチトリ、ニトリ、命取り。

ワケの分からないところには貸せん」と息子さんに話していたようだ。

きっぱりと断られ、多田さんらは湯の川温泉に一泊し、残念会を開いた。

それでもあきらめなかった。

残念会の翌朝、多田さんが1人で近江さんを訪ねると「まだ帰ってなかったのか」と驚き、家に上げてくれた。

そして「ニトリではなく、多田さん。

あんたに貸すよ」と了承してくれた。

最終契約の段階で私も函館に出向き、近江さんと面会した。

交渉中、近江さんは「取引銀行はどこですか」と聞く。

私が「北洋相互銀行(現・北洋銀行)です」と答えると「拓銀(北海道拓殖銀行)と取引がないのか。

そんなところに貸せない」と白紙に戻ってしまった。

当時、北海道での拓銀の地位は絶大。

新興企業のニトリ家具が急に拓銀と取引できるツテもない。

むなしく札幌へ帰ってまもなく、神風が吹いた。

偶然にも多田さんの実兄がニトリの本社近くにある拓銀の支店長になる。

本部に掛け合ってくれると融資はOK。

拓銀からも説得してもらった。

83年、函館店がオープンした。

ちょうど11店目で、チェーン店として目鼻がついた。

それまで1店舗当たりの年間売上高は5億円程度で、函館は6億円を目標に置いた。

ところがふたを開けると12億円とその2倍。

これまで担保不足で資金調達に苦しんでいた。

函館の成功で資金繰りは好転し、一気に楽になった。

経常利益率も5%を初めて超え、「やっていける」と自信を深めた。

家具の構成比率も70%以下に低下し、家具と家庭用品を足し合わせたホームファッションの店に変貌していった。

店名は「ホームファニシング・ニトリ」で、今の原型が形作られた。

社名から家具を取り、ニトリになった。

札幌だけでなく、旭川市、函館市、岩見沢市と道内全域にニトリは広がった。

ようやく出店のコツも分かってきた。

店数が増えることによって仕入れも増え、価格もさらに下げられるようになる。

もちろん経費にもシビアだ。

86年の岩見沢店オープンの時は20人ぐらいの従業員が旅館のワンフロアを借りて、雑魚寝していた。

1人1室なんてぜいたく。

社長の私も一緒だ。

食事もおにぎりだけだ。

この年は4店開業しており、そんなことの繰り返しだった。

出店規制で四苦八苦資金繰りは安定してきたが、出店拡大への悩みも残っている。

大規模小売店舗法(大店法)による規制で、当時大型店の出店は地元経済界の了承を得ないと、思うような規模の店舗を作ることができなかった。

特に札幌の企業が北海道の地方都市へ行くと「攻めてきた」ということで敵意をむき出しにされる。

規制の厳しさは地域差があるのだが、難しかったのが帯広だ。

というのも帯広には長谷川家具など御三家と言われる家具店がひしめき、経済界の顔でもあったからだ。

このため地元の経済界に挨拶しようと名刺を配ると、破られたこともあった。

お菓子を持って行くと「毒が入っているのか」とぶん投げられる。

散々罵倒されて、交渉のテーブルにさえつけない。

それで何回も何回も挨拶に行った。

業20周年の記念式を開催した88年、帯広店は無事オープンした。

仕入れ先開拓のため単身海外へニトリの店舗が広がるとともに「他社よりもう一歩先に行く価格競争力はつけられないか」考えていた。

ニトリの生命線は「安さ」だ。

分かりにくい接客をするより、「安い」を前面に出せば売りやすい。

85年に先進5カ国によるプラザ合意で、為替市場への協調介入が進められ、急速に円高が進行した。

1ドル=250円台だったが、一気に120円台に突入したのだ。

輸入を本格化させたのはプラザ合意以降だが、実は80年前後から輸入に取り組んでいた。

このときは主に台湾だった。

当時は展示会もなく、自力で仕入れ先を探すしかない。

現地で電話帳を見ると「あいうえお」順で家具会社が書いてある。

これを頼りに観光ガイドを通訳に仕立て、家具工場を回っていった。

東西南北に分けて各方面の工場をしらみつぶしに回っていった。

もっとも貿易のイロハも知らない。

アジアの家具工場の経営者に「お金をどのように支払えばいいでしょうか」と聞くと、「LCだ」という。

貿易をする際、海外のメーカーにお金を支払う買い手が取引銀行に発行してもらう信用状のことだが、よく分からなかった。

商品をどのように輸送するのかも決めていない。

手探りで海外調達の方法を模索し、実践で学んでいった。

地元の銀行も貿易業務について経験がないという。

そこで東京の都市銀行(今のメガバンク)に貿易業務をやってもらった。

行き当たりばったりで、失敗ばかり。

だがこうした試行錯誤が自前でビジネスを作り上げるニトリの社風を形作っていった。

もっとも所詮は素人。

輸入を始めると、トラブル続きだった。

台湾で仕入れた椅子を販売すると、顧客から「座ったとたん、椅子がばらばらになって頭をぶつけた」などクレームが多く寄せられた。

調べると含水率が問題だった。

湿度が高い台湾では壊れない椅子でも湿度が低い北海道では水分が抜け、脚が細くなり、隙間ができてしまう。

だから座ると壊れる。

テーブルでも台湾製の米国仕様はテーブルクロスを掛けて使うので、通常はから拭きだ。

だが日本はテーブルクロスを使わない。

台湾製テーブルを水拭きすると、加工に対する考え方が違うため、表面塗装がはがれてしまう。

海外メーカーは乾燥室を備えていなかった。

他にもテーブル、ソファなど日本仕様でない商品は不具合が多かった。

テーブルも米国仕様で、日本人には高い。

低くしようと思い、脚を切ってみるとなかなかバランスがとれない。

この結果、切りすぎてしまい、使用不能だ。

当時は店数も少なく、こちらのお願いする仕様に変えてもらうことはできない。

それでも海外仕入れに余念がない私を見て、社員は「現地に女性がいるんじゃないか」「メーカーから女性を紹介されている」など、ひどい噂を立てる。

当初は1人で買い付けに行っていたが、途中から展示会へ出向いても余計な商品を買わせまいと「お目付け役」を同行させる。

実際に苦情は数知れず、社員の気持ちが分からないわけではないが、あまりに保守的だ。

ホームファニシングへの道トップは長期的な視点で考える。

オーナー経営であっても、社長業とは社員という「抵抗勢力」との闘いでもあると痛感している。

考えてみると、この40年間はメーカー仕入れ、自前の自動立体倉庫の設立、家具以外の商品を柱にする「ホームファニシング」の確立など反対の連続だった。

ペガサスクラブ加入後、79年にホームファニシングをニトリの新業態に掲げたとき、社員から「家具屋でいいじゃないですか。

なぜそんなわけの分からないことをやるのですか」と追及される。

そこで「家をコーディネートして楽しくするんだ」と答えても、社員たちは首をかしげる。

「具体的なことはやっていくうちに、いずれ分かってくるから。

富士山も遠くから見るときれいだろ。

でも細かく聞かれてもなぜかは分からないよ。

見ても分からないけど、近づくと実像が見えてくるもんだよ」とそれこそ「わけの分からないこと」を話し、説得に努めた。

それで辞めた社員もいた。

いればきっと役員にもなっていただろうに。

確かにホームファニシング業態の確立は手探りの連続だった。

例えばカーテン。

店数が増え、繊維関連の輸入を増やすことにした。

欧米の家庭では必ず無地が入っている。

「ニトリでも無地をやろう」としたが、当時の日本は100%柄物。

センスも何もない。

実際に無地を発売したところ、売れずに在庫の山を築いた。

失敗の原因を調べると数字のマジックが分かった。

最初は柄物に対して20%分を無地としたが、この比率では買い物客は気づかない。

ところが30%にまで増やすと、売れるようになることが分かった。

20%程度では80%の柄物が売れるため、販売員は売らなくても済んでしまう。

逆に35%を超えるような水準になると無地を売らないと部署の目標数字を上げられない。

このため自然と無地商品が広がっていった。

数字のマジックが分かり、今度は「ニトリカラー」を作ろうと決めた。

外国のチェーンはストアカラーがある。

どんな部屋でも色が統一されている。

日本はばらばらで、トータルコーディネートができない。

だが最初は在庫の山だらけで、たたき売りの憂き目を見た。

最初は思い切りやらないと売れないという商売の鉄則が見えた。

数年後に手厚くしたら、売れるようになった。

今は無地の商品構成比率は40%だが、売上高は60%が無地だ。

そんなことを繰り返しながら、ホームファニシングが根付いていった。

ワレサ大統領に招かれる初期の海外調達ではポーランドも思い出深い。

80年代初め、ポーランドは社会主義国だったが、欧州の見本市で安くて、品質の良い家具を探していると、ポーランドの家具が目に留まった。

パイン材の産地で素材が優れており、工場も発達していた。

何とか輸入を始めたいと考えた。

相変わらず緻密な計算はしていない。

ポーランドの日本大使館に駆け込み、「家具を輸入したい」と突然申し出た。

職員も協力的で、家具工場などに同行してくれた。

一時は食器棚や整理ダンスなどを億単位で輸入したこともあった。

10年ぐらい続いた。

あるときポーランドのワレサ大統領が訪日したとき、日本で有数の「大口取引先」として迎賓館に招かれることになった。

これには驚いた。

初めて入ったが、皇族が顔をそろえていた。

もちろんニトリは無名で海外関係の公的機関の方と名刺を交換したら「聞いたことがないな」と言われた。

ポーランド家具も輸送途中で不具合が生じ、クレームも多かった。

でもパイン材は色がきれいで20~30代の顧客には人気があった。

現在、ニトリでは扱っていないが、札幌市にある社員の保養所(かもめ荘)では今でもポーランド家具を使っている。

本州進出で挫折1980年代後半、北海道全域にニトリの店舗は広がり、道内での知名度は定着した。

「いよいよ本州進出」と行きたいところだが、どうも足がすくんでしまう。

ある日、社員の前で「北海道のためにがんばりましょう」とあいさつすると、現在のニトリ社長の白井俊之ら79年入社組の4期生らが反発した。

「日本に米国並みの豊かな生活をもたらすのがニトリの目的だったのではないですか。

このまま北海道にとどまっているつもりですか。

全国展開しないのなら私たちは辞めます」これには反省した。

社長の意思を超え、4期生を中心に「会社を発展させよう」という自主性が芽生えていたのだ。

まだニトリの年間売上高は100億円にも満たず、利益率も5%程度。

出店を加速するにはまだまだ経営の体力が乏しい。

だがこのときばかりは社員に背中を押され、進出を決めた。

決断したら早い。

店舗の開発部隊を派遣し、まず千葉県松戸市、同流山市、同旭市、茨城県土浦市の4カ所の土地を押さえた。

手付金も2億円近く支払った。

ところが本州進出を決めた80年代後半はバブル期。

建設費を見積もると工事費や材料費はぐんぐん上昇していった。

1店舗当たりの建設費が坪40万円と、それまでの2倍以上かかる。

これではいつまでたっても赤字が続く。

ペガサスクラブの渥美俊一先生に相談すると「状況が悪いときに撤退する勇気を持たないから、会社はダメになる。

一時的な損失を出しても退く勇気は必要だ」と諭してくれた。

迷いに迷ったあげく、4カ所の地主に出店中止を申し入れた。

実際に違約金は高かった。

地主の元へ出向き、「半額にしてもらえませんか」と頼むと、「ふざけるな。

裁判で訴えるぞ。

契約通り中止したなら2倍支払え」と怒られる。

何度頭を下げても聞き入れられない。

北海道ではしぶとくお願いすれば、聞き入れてもらえることもあったが、関東は厳しい。

松戸はすでに基礎工事が始まっていた。

中止を告げたら建設会社も怒りまくっていた。

設計図もパー。

結局、経常利益が6億円の時期に4億円の違約金を支払う羽目になった。

これがなければ増収増益の記録は37年に及んでいた。

札証に上場本州への進出が失敗し、再び北海道シフトで店舗網を広げた。

88年に札幌証券取引所への上場を決断した。

やはりまだまだ出店資金が足りない。

とにかく市場から金を集め、これを投資しよう。

翌年、札証に上場を果たし、50億円を調達した。

資本金は19億8000万円だ。

新株予約権付社債(転換社債・CB)を発行する説明会に出席するため、スイスへ向かった。

すると証券会社がついでに欧州旅行に招待してくれた。

ヘリコプターをチャーターし、モンブランへ行ったのは感動した。

草原があり、がけがある。

ヘリの音を聞いたカモシカのような動物が集団でがけをぽんぽんと跳ねる。

そして氷河の上に降りるという。

結局、風が強くて降りられなかったが、きれいだった。

後はライン川を下っていると、城が見える。

もともと戦国時代の話が好きで、中世のヨーロッパへの関心も深かった。

せっかくだから騎士の気分を味わいたい。

そこで城を直接訪ねて「泊めて下さい」と頼み込んだ。

「城主」もいい人で料金を払って、泊めてもらった。

城から見える都市の街並みを眺めながら、歴史を堪能できた。

その後もCBを発行するたびに欧州旅行をした。

スカウト組に実権握られる80年代に出店ペースが上がり、商品仕入れも海外にまで広がってきた。

今度は人材が不足してきた。

チェーン経営の師匠の渥美俊一先生は「スカウトしないで急成長した会社はない」が持論。

そこで外部から即戦力を集めるようになった。

だがこのことが裏目に出る。

大手量販店の出身者を常務に据えたところ、「古巣にいい人材がいる」と言われ、どんどん増やした。

すると8人のニトリ取締役のうち、量販店出身者が5人を占めるようになった。

彼らは次第に社内で発言権を増していく。

私は脇の甘さから再び追い出される危機を迎えた。

当時、物流費が高騰したこともあって、彼らはニトリの低価格路線を否定し、次第に商品価格を引き上げるようになった。

私にも「余計な口を出さないように」「方針がぶれると困るから店にも行かないように」と言ってくる。

中途組の役員たちに権限を奪われた私は、鬱状態に陥った。

ある日、私と量販店出身の常務が締めているネクタイが同じバーゲン品だった。

笑顔で「おんなじネクタイだね」と話しかけると、常務はいきなり自分のネクタイを外し、踏みつけた上でゴミ箱に放り投げた。

怒りが爆発した。

「こんな人たちに会社は任せられない」。

社長派と目された人もずいぶんいじめられていた。

一人ひとりの問題点を見つけ出し、大半の量販店出身者は辞めてもらった。

本州に再度挑戦本州進出を再度決めたのは1993年。

90年代初めにバブルがはじけ、土地代や建設費が低下してきたからだ。

88年に札幌証券取引所への上場を果たし、労働組合も結成。

会社としての体裁も整いつつあった。

1号店の場所は茨城県勝田市(現・ひたちなか市)。

地主は幼稚園の経営をしている方で、ニトリのことなど一切知らない。

いつものように「日本を豊かにしたい。

ここを起点に店をたくさん出します」と持論をぶつと、最初から共鳴してくれ、好印象を持ってくれた。

ただ真向かいにニトリの3倍となる2000坪の家具店がある。

やはりためらったが、「ここで逃げたら、いつになるか分からない」と思い直し、出店を決めた。

心配し、対策も立てた。

オープン後、大繁盛とは行かなかったが、目標通りの売り上げと利益を確保。

同年10月にオープンした本州2号店は市原八幡店(千葉県市原市)。

立地としては郊外過ぎたが、新しい幹線道路ができるというので、出店を決めた。

あれから20年。

まだ道路はできていない。

それでも、黒字は確保できた。

94年には仙台に出店を果たす。

ダイエーが近くにある好立地。

ここもどかんと売れ、全国区への足がかりができた。

「人口が密集していれば、確実に成功する」。

さらに自信が湧いてきた。

この頃に新聞社などから取材されるようになった。

記者と飲みながら議論し、世間にニトリの「ロマンとビジョン」を伝え始めた。

ニトリが出店を加速できたのは地主さんのおかげだ。

函館店の地主の近江さんなどは本州の地主を自ら車で店に案内してくれる。

そして車の中で説得してくれるなど、協力的だった。

本州1号店の地主さんも「人柄がいい」「業績もいい」「約束も守る」など太鼓判を押してくれた。

実際に契約を終える前に土地を返すことはない。

古くなったらスクラップ&ビルドを進めるが、仮に契約期間より早く移転したい場合、損失はこちらで負担する。

既存店と隣接している土地を取得し、大きくすることもある。

土地の賃借で訴訟はない。

オーナーには株主になっていただくと同時に、毎年オーナー会を開いている。

年に1回、今は200~300人を招き、ニトリの負担で北海道の知床や大沼、京都などに招待している。

そこで1年間の業績報告や事業方針の発表もする。

その後は宴会で、二次会には私の歌が付いてくるが。

旭川で家具メーカーを買収少し時計の針を戻し、製造小売業につながる話をしたい。

仕入れで試行錯誤しているうち、旭川市近郊の家具メーカー、マルミツ木工の松倉重仁さんと86年に出会った。

ものづくりの考え方など、気も合い、海外などにも一緒に出かける仲になった。

そんな松倉さんがある日、駆け込んできた。

「いとこの会社に買収されてしまう。

私も解雇されてしまうので助けてほしい」という。

新聞発表は3日後で、時間はない。

一肌脱ごうと思い、ゴルフ中の北洋相互銀行(現・北洋銀行)の常務の元へ押しかけ、支援を願い出た。

だが常務は「役員会にかけないとダメなので、私の一存では無理」と断る。

私は執念深い。

ゴルフカートにくっつき「今までの付き合いもある。

返事を今すぐ欲しい」と粘った。

根負けした常務は「あなたが責任を持つならお任せする」と自らの進退をかけてくれた。

87年にマルミツに出資した。

マルミツは親会社にずいぶん吸い取られ、赤字体質だった。

ニトリの傘下に入ると合理化を進め、一気に黒字化した。

少し先だが、マルミツ買収で海外調達先が広がり、ニトリの成長に多大な貢献をした。

だが一つ心配があった。

ペガサスクラブの渥美俊一先生だ。

先生は小売りが工場を所有することを禁じていた。

怖いのでしばらく先生には報告しなかった。

マルミツが旭川工場を運営している頃、素材を米国やロシア、カナダから買い付けていた。

商社は通さない主義なので、英語もできないのに通訳もつけずに現地で商談する。

「カード1枚あれば、何とかなる」と豪語する松倉さんは大した人だ。

一緒にアラスカまで行ったとき、休日に水上飛行機で氷河を飛び越えて、ルアー釣りをした。

大きなサケが密集しており、入れ食いだ。

ところが引きが強くて、海まで引きずられそうになった。

間一髪のところで現地ガイドに助けられた。

でも面白い。

ヤブ蚊もすごくて、隙間があるとあっという間に刺される。

そういえば、カナダでは渥美先生とサーモン釣りをしたのも懐かしい。

ロシアでは現地の電力会社などと提携し、丸太の製材もした。

場所は父が強制労働をさせられたハバロフスク。

もちろん感傷に浸ったわけではなく、ロシア人とウオツカを飲んだり、踊ったり、楽しかった。

インドネシアに進出1993年にニトリが本州に進出した翌年、買収したマルミツを通じてインドネシアに現地生産法人を作った。

だが進出までには曲折があった。

87年にマルミツに出資すると、社長の松倉重仁さんは、いとこが経営する家具メーカーを買収しようと持ちかけてきた。

私が「国内は限界がある。

海外へ出よう」と反対しても耳を貸さない。

買収先はかつてマルミツを吸収しようとした会社だ。

1年間ほど論争した。

「個人的な遺恨じゃないか。

ビジネスとは関係ないな」と思いながらも、松倉さんの説得に根負けしてしまった。

了承したのはいいが、買収先の会社の社長は逃げ出して、納入先で、北海道で2番目の規模の問屋と新会社を作ってしまった。

ニトリは取引が少なく、発言権もない。

残ったのは工場と半分の従業員と負債だけ。

以降、毎年1億円の最終赤字を計上することになる。

それにしても松倉さんは頑固だった。

当時、北海道の家具は旭川周辺を中心に産地として人気があった。

マルミツはニトリの傘下に入った後も、道外の百貨店向けに高い素材でサイズの大きな家具を作る。

「ニトリ向けに安くて小型の家具を作ってくれ」と伝えても、なかなか言うことを聞かない。

「メーカーと小売りは違うから」と言うので「何を言っているんだ。

お客様は同じだろう」と本当に言い合いばかりしていた。

結局、業績は好転しない。

89年にシンガポールに現地法人を設立し、タイや中国で扉など家具部品を作ることにした。

最初は現地も大歓迎で、飲んで食べて歌っての会も開いてくれた。

松倉さんも何とか立て直そうとシンガポールやタイから家具の部品を輸入し、旭川近郊で組み立てる仕組みを作った。

職人ではなく、パートを活用した画期的なモデルだったが、なかなか業績は改善しない。

クレームは多いし、仕入れコストも上昇した。

提携先の企業の幹部はあまり仕事もしない。

当初、松倉さんの月給は120万円だったが、赤字なので毎年減らすうちに40万円まで下がってしまった。

8人家族で暮らしていけない。

さすがに松倉さんは音を上げた。

「やはり経営権をしっかり握って工場を運営しないと。

相手の工場任せではだめだ」と痛感した。

私は改めて海外での現地生産を提案し、松倉さんら15人を選抜してインドネシアに派遣した。

国内工場閉鎖で退路断つ銀行の勧めもあって候補地はスマトラ島にあるメダン。

港近くで工業団地もある。

横浜からも船が出ている。

平均月給は3000円でジャカルタより2000円は安い。

いいことばかりだ。

ちょうどインドネシアでは外資規制も緩和されたので、現地法人をスマトラ島のメダンに設立。

9000坪の敷地に工場を作り、95年から出荷を始めた。

96年に本格稼働し旭川近郊の工場は閉鎖。

松倉さんには「もう退路はないよ」と伝えた。

もっとも当初は知らなかったが、メダンは大変な町だった。

社員がトイレに入ったまま出てこなかったり、部品や電線を盗んだり、トラブルだらけ。

驚くことに重量1トンの重機までなくなったので金属探知機を取り付けた。

社員だけでなく、外からも窃盗犯がやってくる。

このため2メートルだった塀を4メートルに高くした。

すると今度は塀に穴を開けて入ってくるので、厚さを2倍にする。

それでも懲りない窃盗犯は地下に穴を掘って、侵入してくる。

私はインドネシアに工場を作ったとき、パパイアやヤシ、マンゴーの木を植え、食べるのが夢だった。

その数は400本に及んだが、どうもこの木に登って姿を隠す犯人がいるようだった。

犯罪の温床にするわけにもいかず、泣く泣く木を切ることにした。

犯罪はなかなか減らない。

実はガードマンにも原因があったのだから当たり前だ。

8時間勤務の3交代制で、交代直前に大量に何かが盗まれる。

誰が犯人か分からないのでガードマンをすべて解雇したら、マシンガンを構えて「皆殺しにするぞ」と脅してくる。

青竜刀を振り回す荒くれもいて、指や腕を切り落とされた現地社員もいた。

もはや警察では手に負えない。

慌ててインドネシア海軍の関係会社に警備を頼んだら、犯罪は沈静化していった。

取り締まりの強化だけでは犯罪防止につながらない。

インドネシアは華僑の影響力が大きく、現地人は差別されていた。

「ニトリは世界中で差別はしない」と宣言。

数年で工場長や役員はすべてインドネシア人だけになった。

信賞必罰も徹底。

テレビやラジオ、カメラなどの皆勤賞を出す一方で、「3回問題を起こしたら解雇」というイエローカード方式を採用した。

それでも政情は安定しないので、暴動は頻発する。

松倉さんは数日間、監禁されたこともあった。

だが現地社員を公平に扱い、待遇を改善した結果、暴動での被害は比較的少なかった。

危険を避けるため、逃げるルートを3つほど確保し、船も用意していた。

だが信頼関係のできた現地社員が団結し、日本人を守ってくれた。

稼働率も維持していた。

山一証券と拓銀が破綻赤字は続いたが、97年にタイを震源として起こったアジア通貨危機で業績は一変した。

インドネシアの現地通貨ルピアも3分の1になり、賃金の支払いコストも3分の1に下がった。

ここで年間の利益が2億円出るようになり、営業利益率も30%を超えた。

何が奏功するか分からない。

人員数も1400人に膨らみ、土地も7000坪と広大だ。

ところで小売業が工場を持つことに反対していた渥美先生。

インドネシア工場の稼働がばれ、「一度見せてくれ」という。

渥美先生の見学に相変わらず私は直立不動。

先生はこちらが思った以上に感銘を受けたようで、熱心に勉強を始めていた。

97年秋、インドネシア工場を視察していると日本で重大な問題が起きた。

メーンバンクの北海道拓殖銀行と主幹事の山一証券の破綻だ。

80年代からメーンバンクになった北海道拓殖銀行が97年11月に破綻した。

インドネシアの工場を視察中のことだ。

拓銀取引先の若手経営者の会で会長をしており、首脳陣ともゴルフや食事会を通じた付き合いがあった。

経営が厳しいとは感じていたが、まさか拓銀が破綻するとは。

青天のへきれきだった。

視察後、オーストラリアで開く大学時代の同窓会に家内とともに参加する予定だった。

「スイス銀行は何か言ってこないか」と経理部に聞くと「主幹事の山一証券が控えているので大丈夫です。

経営への影響はありません」と言うので、そのままオーストラリアへ。

ところが程なく、その山一証券が破綻する。

今度は経理から「スイス銀行が3日以内に50億円を返済するように伝えてきました。

そうしないとデフォルトとなり、会社は倒産します」との連絡が入る。

慌てて私だけ日本に戻った。

ニトリの業期は北洋銀行がメーンバンクだったが、審査に慎重で時間がかかる。

拓銀に次第にシフトしていった。

拓銀は協力的で、貸し出しのスピードが速い。

融資も1カ月で審査が下りる。

「こんな便利な銀行はない」ということで拓銀がメーンになった。

96年に50億円分の新株予約権付社債(転換社債・CB)を発行し、スイス銀に引き受けてもらった際、保証をしたのが拓銀と山一だった。

帰国後、残り2日しかない。

だが手元に入る現金は大半を出店費用に回しているし、資産も乏しい。

すぐに50億円を用立ててくれる金融機関は見つからなかった。

住友信託にすがる最後のとりでが住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)。

取引は少ないが、もうここしかない。

2号店の融資依頼の時のように身なりを整えた。

スーパーでスーツを買い、ピンクとブルーのネクタイをしめる。

眉毛を描き、顔には頰紅。

にっこりと笑い、初対面の札幌支店長に面会し、こう切り出した。

「今回拓銀がつぶれ、スイス銀に50億円を返済しないといけない。

三菱も三井も貸してくれますけど、以前から住友信託は親切で、大好きでした。

この融資を機会に窓口を広げ、当社のメーンバンクになりませんか」そして「ただし今すぐ返事が欲しいのです」と畳みかけた。

「株も持つし、支払いも任せますよ」と銀行が喜ぶ好条件を提示する。

支店長は即座に本店の専務に掛け合うと「分かった。

その代わり、ダメなときは支店長の責任だからな」との回答を得た。

初対面ながら支店長は「似鳥さんは熱心だし、私も進退をかけましょう」と言ってくれた。

交渉は成立。

爆発しそうな喜びを抑えて、店を出た。

早速、スイス銀に新たな返済の意向を伝えると、新たな保証が付いたことから「期限まで50億円は返してもらう必要はありません」という。

その後、住友信託の支店長に「50億円は不要になりました」と連絡すると、「それでは私の立場はどうなるのか」と抗議してくる。

それももっともなことなので20億円程度を借り、そのまま預金した。

以来、三井住友信託銀は「ニトリを救った」ということで、歴代の支店長には「困ったらニトリへ行け」が引き継がれた。

確かに恩人だ。

本社のトップと親しくなり、関係も深まった。

拓銀の破綻時、貸してくれないばかりか、決まっていた融資を大手都市銀行から断られたこともあった。

金融危機後、頭にきてこの銀行とは縁を切った。

だが数年後、当時の担当者がメガバンクの頭取になり、わざわざ札幌に出向いてくれた。

めったにマイクを握らない頭取がカラオケを歌い、大いに盛り上がった。

もちろん今は遺恨もなく、取引を再開している。

南町田店が大繁盛拓銀・山一ショックから1年。

98年の南町田店(東京都町田市)オープンはニトリにとってターニングポイントとなった。

関東では千葉や茨城県への出店も進んだが、利益率がいま一つ伸びない。

かといって東京や神奈川は怖い。

そんなとき、町田市に東京急行電鉄が所有している余地を開発部隊が見つけてきた。

「東京に中心となる店を作り、これを起爆剤として日本中に店を広げたいのです」。

東京急行電鉄に対して長期的な成長ビジョンを語り、出店のプレゼンテーションを担当役員の前で披露した。

東急電鉄の役員は「面白い。

土地をお貸ししましょう」と受け入れてくれた。

プレゼンは成功し、600坪の土地と隣の駐車場スペース400坪を借りることにした。

1000坪の敷地に6階建ての大型店が念願の東京に誕生する。

不安と期待が交錯していたとき、大変な問題が起きた。

「チェーンストアは2階建てまで。

高い施設で消費者を見上げさせてはいけない」というのが渥美俊一先生の持論だ。

黙って店舗建設を進めていたが、先生の耳に入ると「今すぐ中止しなさい」と叱られた。

確かに地代も高く、不利な条件は多い。

それでも「全国区になるには東京に旗艦店が欠かせない」と反対を押し切り、出店にこぎ着けた。

ふたを開けると年間売上高は20億円超と函館店などこれまでの成功店の2倍。

ニトリが羽ばたく瞬間だった。

 

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