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第5章師匠の教えを指針に

第5章師匠の教えを指針に

人生の師、渥美先生との出会い話は少し戻るが、1973年に旭川市のメーカーの元へ仕入れ交渉に行ったときの話だ。

応接室でチェーンストア経営についての書籍を見つけた。

そこには私が悩み、苦しんだことへの解答が科学的かつ論理的に書いてあり、とても驚き、感動した。

多店舗化も始めたが、勘と度胸だけが頼りだった。

失敗ばかりだと時間もお金も労力もかかる。

「学んだとおりやれば、もう失敗しない。

無駄なことをしなくてもいい」と素直に信じた。

著者は渥美俊一氏。

東京大学法学部を卒業した後、読売新聞記者を経て経営コンサルタントになった人物だ。

記者時代、休みの日は全国の企業を訪問し、その数は2000社に上った。

そして同志となる有力企業を集めたようだ。

チェーンストア研究団体のペガサスクラブを設立し、ダイエー業者の中内㓛氏やイトーヨーカ堂業者の伊藤雅俊氏、ジャスコ業者の岡田卓也氏らに大きな影響を与えた。

100店、200店を運営することでバイイングパワーを獲得。

メーカーではなく、流通業が価格の決定権を握ると同時に、消費者がコーディネートできる商品を作らせることをイメージしていた。

「商業においては日本はまだ統制国家だ。

流通革命を起こし、日本に経済民主主義を植え付ける」というのが渥美先生の夢だった。

何とかペガサスクラブに入れないか考えていたところ、勉強会で知り合った札幌市郊外でカー用品店を営む社長がクラブに加入していた。

入会方法を聞いて78年に正式に加盟した。

社名も「ニトリ家具」に変更した時期だ。

毎月東京へ行き、社員にもチェーンストア研究のシリーズ本を読ませた。

毎月試験があり、講習終了後に居酒屋などで侃々諤々の議論をした。

チェーン経営導入へ猛勉強この頃は、厚別店や川沿店など札幌市内で着々と店を増やした時期でもある。

だが経営は教科書通りにはいかない。

理論上はきっちりした作業計画に従ってローコストで店舗を運営しなければいけないのに、うちの会社は非科学的で、行き当たりばったりの人海戦術だ。

作業手順もばらばら。

当時の私は長時間労働の「がんばれ主義」だったが、チェーン経営はがんばらなくてもできるようにする手法。

全く逆だった。

年に2回、春と秋に泊まりがけの政策セミナーが箱根で開かれる。

異業種の社長や幹部と話すのはとても刺激的だった。

500人ほど参加していたが、壇上に立つ渥美先生は「この中でものになるのは100人に1人だな。

これは人類の経験法則だ」と厳しく言い放つ。

渥美先生の講義は現場経験がないのに壇上で上司と部下のやりとりする姿を実演する。

話術の天才で、落語や漫才のようにユーモアがあり、聞きほれた。

一方で先生は「聞きほれるな。

聞いているだけではすぐに忘れるのだから書け」と指導する。

だから書きっぱなし。

ノートがたまり、それを再びまとめる。

成功している中内さんたちもどんどんメモし、寝る暇もなく勉強していたようだ。

そういえば先生はこんなことも話していた。

「1社だけでがんばっても仕方がない。

みんな同志なのだから合併した方がいい」当初は年に3、4回、セミナー後の講義を聞きに行ったが、後に月に1回と増えていった。

ペガサスクラブは中内さんなど年商50億円以上がAクラス、それ以下がBクラスに分けられていた。

もちろん私はBクラス。

早くAクラスの仲間入りをして、一緒に講義を受けたいという思いが強かった。

講義終了後、玄関でAクラスの人が出てくるのを待ったものだ。

もう姿を見るだけで幸せ。

「どの人が中内さんなの」「あれが伊藤さんで、岡田さんだよ」。

中内さんは釣り用のベストを着て、胸にはたくさんの鉛筆が入っている。

「成功している人は違うなー」と勝手な想像もする。

まるでミーハーが大スターを仰ぎ見るように、どきどきしていた。

もっとも渥美先生の経営理論は実践が難しい。

商圏分析もきめ細かい。

単純な距離だけで分析することは禁じられた。

「自動車で何分かかるのか。

ただし店と住宅地の間に鉄道や川があれば、商圏の性格は変わってくる」などだ。

人口構成や特徴、地理的条件などに応じて分類し、5年後、10年後、15年後、20年後と人口動態を予測する。

そして競合店はどうなるのかも加味する。

その上で20年後までの経営計画を立てる。

計画を作っても方向感を誤り、過剰な設備投資でつぶれる会社もあった。

成功するか、倒産するか。

「ペガサスクラブ加盟社に中間はない」とも言われた。

当時は理解できなかったが、店舗網が広がってからは忠実に実践した。

現在のニトリの店舗の平均年齢は6歳以下に保っている。

一度オープンした店でも出店先の町は5年、10年もたてば、人口や社会インフラなども変わってくる。

このため顧客が集まりやすい場所に移転するなど、リセットする。

ニトリが成長しているのは店舗の若さを保っているためだ。

通常のチェーン店は利益が出ていると、移転や拡張投資は後回しにしてしまう。

先手を打って、時代の変化に対応しておくことが成長を続ける条件と言っていい。

店舗年齢論は渥美先生から学んだことだが、これを私なりに味付けした。

店舗年齢を4倍すると人間の年齢のようなイメージになる。

店舗年齢が6歳なら24歳、10歳なら40歳、15歳なら60歳。

だいたいこれで定年だ。

店舗年齢が20歳ぐらいの店を運営するチェーン店もある。

もう80歳だから本来は死を迎える。

企業も人も常に若返る努力が欠かせない。

もっとも入会して間もない頃、私は学生時代同様、ペガサスクラブでも成績は悪い。

それでも先生は「うさぎより亀が勝つ」というのが口癖だった。

「賢いやつは慢心するし、できると怠けたりする。

素直に柔軟にこつこつとやるのが大事だ。

鈍重たれ」と話していた。

確かに経験からいっても小才があり、早めに店長になる人間は、次に店長になるとき、飽きてやめてしまうこともある。

だが鈍重なタイプは現場で訓練され、5年後、10年後に力を発揮する。

父から「のろまで頭が悪い」と言われていただけに、この言葉は勇気を与えてくれた。

札幌視察で先生に叱られる渥美先生が主宰するペガサスクラブに入会して2年後の80年のこと。

渥美先生が北海道へ講演に来るというので「一度店を見ていただきたい」とお願いし、了解を得た。

私が運転し、後部座席で常務が応対していた。

だが常務は渥美先生の質問に答えられないことも多く、運転席から私が代わりに答えた。

渥美先生は勘違いし、横に座る常務に「君、社長なんだろう。

なぜ質問に答えられないんだ」と言う。

そこで運転席から「社長は私です」というと先生は激怒した。

「なんで社長が運転しているんだ。

移動中からもう問答は始まっているんだ。

ふざけた会社だ。

俺は帰る」車を止めたら本当に帰ってしまう。

私はまずいと思いながらもこのまま帰すわけにはいかない。

先生は「貴様、止めろ」とドアを開けようとするが、そうさせないように無理やり車を走らせた。

ようやく目的地の厚別店に到着。

入店してからも渥美先生はすこぶる機嫌が悪い。

「すいませんでした」と謝っても返事をしてくれない。

店舗を歩きながら「何だ、この緑色のカーペットは」と指摘する。

私は「芝生のイメージでありまして、歩きやすいかと思ったのですが」と答えると、先生は「何を言っているんだ。

薄い色でないと商品が目立たなくなるだろう」と厳しく指導される。

視察中は「あれもなっていない」「これもなっていない」と言われ続け、こちらも頭は真っ白。

先生の質問には何一つ答えられなかった。

怒り疲れた先生は「休む」と言って、コーヒーを注文した。

社長が罵倒されて、静まりかえる店内。

女性販売員が緊張で震え、運んできたコーヒーはトレーの上で揺れながら「ガチャガチャ」と大きな音を立てていた。

「静かに」と言っても女性の震えは止まらない。

それを受け取り、先生に渡そうとしたらこっちも震え、やたらと大きな音が鳴り響く。

その光景は今も鮮明に記憶している。

先生は「とにかくどうしようもない。

教える価値がない。

時間の無駄だ」と言い放ち、帰ってしまった。

実際にその頃は経営も行き当たりばったりで、討論できる材料も出せなかった。

ペガサスクラブから逃げ出す罵倒された私は先生が怖くなり、ペガサスクラブから2年ほど足が遠のいてしまった。

改めて米国にも行ったり、海外の専門書を輸入したり、自力で経営プランを作ろうと模索した。

別のコンサルタントにも師事した。

だがしっくりしない。

新たなコンサルタントは渥美先生のように怒ることはなく、やたらと褒めてくれるが、肝心の質問にはクリアに答えてくれない。

経営もうまくできない。

結局5人ほどコンサルタントを替えた。

出店はともかく商品作り、組織、教育、ローコスト運営ができない。

殴られるわけでもないし、罵倒は耐えればいい。

やはり「渥美先生しかいない」と思い、再び門をたたいた。

後日、先生の誕生パーティーがあった。

誰かが挨拶しろというので、辞めた経緯、再入門へのためらいなど、ありのままに伝えると普段物静かな先生が大笑いしていた。

再入門してからは毎月通った。

相変わらず遅刻したら教室には入れてもらえないし、わび状も書かされる。

講義中、無駄口を話していたらチョークが飛んできて「出て行け」と言われる。

私語禁止で、緊張が続く。

ダイエーなど年商50億円を超えるAクラスの経営者は自分に厳しく、周囲への配慮を欠かさない人物が多い。

例えばトイレを見ても、Aクラスの人は手洗い後に拭くペーパーを1枚ずつ使い、ゴミ箱にきちんと捨てられている。

一方で、Bクラスの人は使い方が雑。

ペーパーも自分のモノではないので、何枚も使って、ゴミ箱はあふれている。

トイレも汚い。

全般的にだらしないBクラスは自分に甘い人が多いということだろう。

私は先生に叱られてばかりだったが、一つだけ褒められたのが店舗の立地だ。

先生もよく言っていたが、出店地選びはトップの持って生まれた勘という。

勘の悪い人間はどれだけ勉強しても立地が悪い。

先生は「似鳥君は他のことは良くないが、立地だけは見事だ。

出店はニトリを手本にすると良い」と仰っていた。

渥美先生の至言怖くても、渥美先生の教えにはやる気を起こさせる「ロマンとビジョン」があった。

豊かさを育む経済民主主義の実現というロマンチシズムがあってこそ、経営ビジョンが生きる。

成功した起業家はみんなロマンチストだ。

私もそうありたい。

そんな先生の言葉は今も通用する至言だ。

「成功体験など現状を永久に否定して再構築せよ。

守ろうと思ったら、衰退が始まる」「ばくちを打つな」「上座に座るような宴席には行くな。

常に下座で自らついで回り、先人から学べ」「誰よりも早く新聞を読み、頭に入れて、その情報を誰よりも早く発信しろ。

経済新聞はもちろんのこと、地元紙、全国紙まで目を通せ。

専門誌、週刊誌、月刊誌も暇さえあれば読み、良い記事は切り抜け」。

経営者はハードワークだ。

ビジョン達成へ向けて、「酒を飲んでも、何をしてでも365日24時間考えろ」と口を酸っぱくして語っていた。

人事への考え方も渥美流だ。

「新入社員は10分早く来させて、10分早く帰宅させろ」「年功序列賃金で若いときは差をつけるな。

40歳以上になったらスペシャリスト資格試験をさせ、数値責任だけで評価しろ。

部長以上は今までのやり方と違う方法を提案して、再構築できる人間に任せろ」という。

先制主義という言葉も印象深い。

「乗り物は他社より先に運転できるようにしろ。

歩きから自転車、バイク、自動車、飛行機、ロケット。

同じことをやったら先行者には勝てない」。

先生に心酔した私はできるだけ実践した。

業界初の試みには率先して取り組んだと思う。

80年代には、在庫管理システムを大型コンピューターからパソコンに替えた。

自分はパソコンは苦手でほとんどやったことはないが、導入例を見て「これはパソコンの時代が来るな」とひらめいた。

反対者も多いので、社長直轄の組織を立ち上げ、1年ぐらいかけて導入した。

情報システムの変更で辞める社員も出たが、常に経営は革新だ。

95年に広告制作も先んじて変えた。

代理店の社員が何人も出入りしているので、無駄なことばかりやっている。

そこでデジタルカメラを使用した広告作りができるシステムを凸版印刷と共同開発した。

画面ですべてチラシを作れるようにした。

専門のスタジオも社内に設置した。

これも日本で初めてではないか。

だが「ゴルフはするな、趣味は持つな」は守れていない。

幻の1期生企業として成長する上で中途社員だけでは限界がある。

中小企業にはなかなか優秀な人材は来ない。

やはり大卒の定期採用が必要だ。

白いキャンバスに自由に絵を描くように、人材を育ててみたい。

今でこそ、年間500人近くの大卒を採用する当社だが、業期は本当に苦しんだ。

75年に第1期生として7人採用した。

「甘やかすと、経営が安定しない」と思い、厳しいスパルタ教育を施した。

週に1回の休みも工場見学、しかも重労働に低賃金。

会社もごたごたしていた。

当たり前だが7人全員が辞めてしまった。

このため75年入社組は「幻の第1期生」と呼んでいる。

このため今で言う「ブラック企業」のようなレッテルを貼られてしまった。

これはまずい。

さすがに週に1回は休みにして、100時間あった残業時間を半分ぐらいにした。

賃金も少し上げた。

実質的な1期生は76年入社組だ。

その前年に母校の北海学園大学に募集の貼り紙を出し、見に行ったところ、誰も見ていない。

そこで学生の集まる場所へ行き、「どんぶり2杯を食わせるから、話を聞いてくれないか」と声を掛けて回った。

食べている10~15分間に会社の説明をし、入社を促す。

ちょうど米国視察して間もない頃であり、米国の流通事情も説明した。

関心を示した学生は「では今は何店舗ですか」と聞いてくるが、このときはまだ4店で売上高も4億円程度だ。

それでも「いずれ100店を作り、売上高を100億円にする」と大風呂敷を広げ、ロマンとビジョンを熱く語った。

すると触発された学生が15人入社した。

成長を支えた79年組ニトリを大きく変えるきっかけとなったのは79年入社組だ。

現在の事業会社ニトリの白井俊之社長や池田匡紀専務などグループの中核をなし、社内では「花の4期生」とも呼ばれている。

彼らの採用を決めた78年は景気低迷により、大手企業は軒並み採用を抑制。

出身地での就職を希望するUターン現象が注目された。

「人材確保のチャンスだ」。

役員とともに東京へ乗り込み、採用活動を始めた。

都内のホテルで面接し、内定はその場で出した。

内定を出した学生は私や役員らが銀座のおでん屋「お多幸」へ連れて行く。

宿を確保していない学生は役員がダブルベッドの横に寝かせていた。

ニトリ社長の白井は札幌南高校卒業後、宇都宮大学工学部で化学を学んでいた。

家具とは無縁だったが、就職雑誌に載せたニトリの紹介コーナーの「完成されたものほど、つまらないものはない」という一文に引かれたそうだ。

地元で流していたゴリラを起用したテレビコマーシャルも奇抜で、印象に残っていたとか。

ただし将来への保証もなく、親からは反対され、化学専攻だけに友人から「ニトロカガクという会社へ行くのか」と言われたらしい。

結局、男性30人、女性6人が79年に入社することになった。

大きな宴会場のある札幌市内の居酒屋を予約し、全社員参加の入社歓迎会を開いた。

そこで司会者が「新入社員の皆さん、前に出てください」と舞台に上がるように指示したら、座敷はがら空きとなってしまった。

とても滑稽な風景だった。

実は社員数はまだ60人。

新入社員が全社員の3分の1以上の規模に膨らんだからだ。

本当に何の計算もしていない。

結局、新入社員を大量に採用した結果、その年の利益を大きく落としてしまう。

人事担当者からいさめられ、数年は新卒の採用を抑制する羽目になった。

相変わらず行き当たりばったりの経営だが、4期生のエネルギーは想定以上に旺盛で、とても勉強熱心。

彼らがニトリを大きく成長させる原動力になった。

企業はやはり「人」だ。

まだ北海道以外に店がない頃から東京、名古屋、大阪で新卒の採用活動を始め、90年代半ばには海外でも採用に動いている。

米国・ボストン、中国・上海、ドイツ・ベルリンで留学生や日本に関心のある外国人を募集した。

採用当時、何も決まっていないし、始まっていないが、将来はそこで事業をやるのが前提だった。

これもゴールから物事を考える先制主義だ。

「おまえは頭が悪いから、優秀な人材を使うしかない」という父の教えはずっと生きている。

30年計画を立案将来の幹部候補生が大量に入社した79年は大きな転換期だった。

その前年、チェーンストア経営を普及するための経営・研究団体のペガサスクラブに加盟した私は長期計画を立てることにした。

当時の店舗数は7店で年商は30億円にも満たない。

分相応に100億円ぐらいの計画を立案したが、クラブを主宰する渥美俊一先生は「もっと大きな計画にしろ」という。

そこで100店・1000億円という途方もない計画を立てた。

立案したのは79年だが、多店舗化をしようと決めた72年にさかのぼり、そこから30年後の2002年を達成の時期に定めた。

実際には1年遅れの03年に達成することになる。

もっとも79年は会社としてはまだまだ未成熟。

新入社員を含めてチェーンストア理論を学んでもらうために、一緒に徹底的に勉強した。

会社も小さく、私も現場へ出向いては社員と飲んだり、食べたり、会社の将来について議論を交わした。

店舗や商品、売り場のレイアウトなどチェーンストア理論を社員が理解していくうちに「理論とうちの会社のやっていることは、ずれているのではないか」という声が強まってきた。

どんどん社員が本気になり、社長の私もその熱意にのみ込まれていく。

79年入社の4期生は本州進出時にも私の背中を押すことになる。

 

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