誠実とは、他人や仕事に対して、まじめで真心がこもっていること。────『広辞苑』より
好きなことで傷つく覚悟
僕にとって仕事とは大切な人を幸せにすること。そのために傷つき、涙し、這いつくばってきた。
経営者や起業家の事業支援という仕事は僕に最高の気分を味わわせてくれた。それをしている自分がとても誇らしいし、そのなかで自分の成長を感じられた。かけがえのない人たちとのつながりを感じた。
自分が誰かの役に立っている、人の生き方に触れているという実感があった。僕は自分の仕事は、これしかないと思ってきた。何より自分を成長させ、僕を鍛えてくれる天職だ。自分の思ったことを、仕事はかなえてくれた。
僕は自分の仕事を最高のものだと思ってきたが、同時に、この上なく打ちのめされる気持ちにもなる。その日じゅう、敗北感をひきずることにもなった。
取り組んでいることへの情熱があるからこそ、好きだからこそ、うまくいかず思い通りにならないと、悔しさがこみ上げてくることも多かった。
この仕事を好きであると同時に、それを好きであることに責任を持ってきた。
学生の頃に読んだ自己啓発本の影響で、「好きなことをして食べていけたらいいな」と思って起業した。
責任感を持って行わなければうまくいかない、という基本的なことに気づくまでは大変だった。
仕事になれば相手がいる。
関わる何人、何社もの人たちがいる。
大学を出て、そのまま起業することで社会に出て学んだことは、仕事をするというのは責任を持つことで、「好きなことをやってもうまくいかない」ということだった。
好きなことを仕事にしようとすすめる人も多いし、好きなことだけやっていればうまくいくという人もいる。
それに反対するわけではないが、好きか、好きじゃないかではなく、僕にとっては、責任を取れるかどうかのほうが遥かに大事だった。
人生のなかで好きなことを貫ける人は幸せだと思って、観察してきた。
そうした幸せな人たちは、期待され、求められているレベルにきちんと100%応えていくという責任感を持っていた。
好きなことをするだけなら趣味と同じだ。仕事なら期待されなくてはいけない。その期待に応えていかなければならない。僕はそう決めて挑戦してきた。
そして尊敬する人たちがお客様になってきてくれたし、尊敬する人たちが共に仕事をしてきてくれた。共に仕事をする人たちは、みな高い基準を自分自身に要求していた。
だから、そうした人たちから期待されるもの、求められるハードルも高かった。それはプレッシャーにもなるし、メリハリにもなった。
一生懸命やっているつもりなのに、これまで何度も一緒に仕事をしている人に、「忙しいから、遊びならつき合うつもりはない」「そんなつもりなら、やめればいい」「いい加減にかっこつけるなら、意味がない」と言われ、愕然としたこともある。
そういうときは腸が煮えくり返った。
言われたことに対して腹が立っている気もしたし、そんなことを言わせてしまった自分自身を許せない、という怒りもあった。
尊敬している人だからこそ、一緒に仕事をしていてよかったと言われたい。でも、僕が変わり続けるにはそれでは弱かった。
尊敬する人たちのそばにいるにふさわしい実力を身につけたい──自分を高めたいという強烈な欲求に素直でなければならなかった。
期待されることは有り難い。期待されずに好きなことをしているだけでは寂しい。24時間、自分の好きなことが頭から離れない。
だから好きなことを仕事として選んだ。趣味として留めておくことができなかった。選ばざるを得なかった。
ただそれは、24時間、期待されていることに応える責任が頭から離れないことでもあった。
有り難いと同時に、プレッシャーにもなる。僕は人から与えられるプレッシャーに弱い。ただ期待に応えるだけに終始していたら、きっと苦しくて耐えられなかっただろう。
僕は“〝期待を超える何かをつくりたい”〟という欲求に従ってきた。
そのために自らが課した基準に向かってきた。それができるようになって、やっと、やり抜けるようになった。
自らが求めるものには情熱がある。こだわりがある。だから責任を持つことができた。この「情熱」と「責任」が僕を成長させてくれた、僕を磨いてくれた。
それがあったから、大変なときでも、やらなきゃいけないことがあるときでも、最低限のことで良しとできなかったし、その場しのぎができなかった。
何か決めたことを成すというのは、簡単なことでも苦労する。「こんな簡単な約束も守れないなんて!」と自分にがっかりすることもある。
そして、決めるときは、本当に僕にできるのだろうかと不安に襲われる。取り組んでいてうまくいかなくなると、ますます不安という雲に覆われる。
いつまでも晴れない雲に行く手をさえぎられながら、僕は自分に問いつづけてきた。
「それでも、やりたいことは何か?それでも諦められないものは何か?」真の情熱に僕が気づくのは、いつも暗闇のなかにいるときだ。
暗いからこそ、本当に求めているものでなければ前に進むことができなかった。
前途多難に思えるときに、それでも前に進みたいから、求めるものの姿をありありと描く必要があった。そのたびに、僕は本当は何を目指しているのかを知ることができた。
好きなことを仕事にできるかどうか
責任感:‥自分がしなければならないことだと強く感じる気持ち──『角川必携国語辞典』より
好きなことに責任を持つこと、そして、待っている人の期待をさらに超えることに責任を持つこと、それは苦しいが幸せな苦しさだと思う。
僕はいままで、何段階もの苦しさを経てきた。最初の苦しさは、やりたいことがわからないという苦しさだった。将来、何をしたいのだろうという見えない不安が、僕を学ぶことへと駆り立てた。そして僕は学ぶことが好きなんだと気づけた。
次の苦しさは、やりたいことをしても、社会から求められていないという苦しさだった。学んだことを人に伝えたくても、聴きたいと思ってくれる人がいなかった(これはお金にならないみじめさでもあった)。
その次は、求めるものに応える苦しさ。
何度資料をつくり直しても、お客さんが求めているであろうものへ到達しないときは、とても苦しかった。苛立たしかった。
そして、いまぶつかっている苦しさは、求められているものを超えて、まったく新しい別の何かをつくり出す大変さだ。
次に行ったら楽になるはずだと、ずっと思ってきたけれど、先へ行くほど、苦しさはより重くなる。
山のてっぺんへ登ったと思ったら、またそこから新しい山がそびえ立っていた。それぞれの苦しさはニュアンスが違うし、その苦しさのなかにも、やりがいはある。僕はずっと「やりがい」を求めてきた。
どれだけその仕事をしなければならないと思っても、義務感でしかないとき、全く力が出せなかった。
目的や情熱を見出せたとき、僕は夢中になり、力が沸き上がり自分に厳しい基準を課すことができた。
情熱や意義を見出せなければ、やり遂げられないような状況でこそ、僕は本当の情熱、本当にやりたいことに気づいてきた。
どれだけ難しくても、やってやりたい、と駆り立てられる熱い思いがあふれる。それを毎日の中心にしたかった。大切なお客さんたちの笑顔を見たい。その人たちの力になりたい。熱い思いと、力になれる手段が僕の手のなかにある。
いつもチャンスは突然訪れた。でも、そのチャンスは、毎回が一発勝負だった。大切な人を満足させることができなければ負け、相手は去っていく。
もしかしたら悪評を広めるかもしれない。負ければ、どれだけ前向きに捉えようと思っても、心にはずっしりと重い敗北感が残る。
感動させ、びっくりさせ、喜ばれれば勝ちだ。相手はきっとまた来てくれるし、人に広めてくれるかもしれない。勝てばどれだけ謙遜をしても、心に自信が積み重なっていく。
その毎日だ。僕にとって仕事は、そうした真剣勝負の場だ。自分に勝つ責任。自分との約束を果たす責任。
その責任感が伴わなければ、勝ち負けの緊張感がなくなれば、それは趣味に墜ちていく。僕の趣味で誰かの人生を振りまわすわけにはいかなかった。
勝ち負けがハッキリする勝負は心に負荷がかかる。好きなことをするのに、負荷がかかるとか、責任を背負うとか、プレッシャーを感じるのが嫌だという人もいる。
以前の僕もそうだった。
だからずっと勝負を避けてきたし、勝負を避けているから勝つための努力をしてこなかった。勝負を避けて、気づいたらいつも土俵際のはるか外まで逃げていた。
そして、土俵のなかで勝負している人たちのようになりたいと思っていた。仕事は有り難い。勝負へ促してくれる。
勝つためにできることをすべてやるのか、それとも、勝ち負けのない土俵の外で、評論家を気取るのか。
仕事は何度も決断を迫ってきた。僕は勝つために全力を尽くす道を選んだ。
自分の弱さ、甘え、怠慢、惰性、怖れ、そうしたものと真っ正面から向き合い、乗り越えていくことを選択した。
好きなことに喜び、好きなことに傷つく道を選んだ。ほどほどに幸せというのは僕が受け入れられないものだ。一喜一憂してもいいから、真剣に仕事がしたい。真剣に毎日を送りたい。感情的になってもいいから、がむしゃらに働きたい。
これまでもたくさん落ち込んできたし、これからもたくさんつらさを味わい悲しむだろうけど、それは真剣であることの裏返しだと思っている。
負けて悔しくならなかったときは、終わりだ。僕はここまでだったのだと自分を諦めるだろう。決してそんなことは許せないから、僕は突き進む。悔しさを抱えて、怖さを抱えて。
大好きなことに日々取り組みながら舞い上がり、自分との勝負に負けて傷つき、好きなことでのたうちまわる未来を選ぶ。
そんなことを馬鹿だと思う人もいると思う。でも僕は、ほかの人が、馬鹿だと思うことに本気になれる人生を選びたい。
張りぼての自分に気づく
空っぽだと気づいたとき、僕は覚悟するか逃げるかを決めなければならなかった。気持ちがいくら盛り上がっても、すぐに実力がついてくるわけではない。
だから、失敗ばかりだった。
「なんだ、俺は空っぽじゃないか。何もないじゃないか。あるのは、集めてきた知識だけじゃないか。大事そうに、すごそうに飾っていても、俺の中身になっていないじゃないか」
外壁ばかり知識で塗り固めてしまって、中身がまったくない張りぼてのような自分に気づき、これから上がりたいステージには何も持っていないんだと気づく。
そうして、そこで「覚悟」が求められる。「俺は空っぽだけど、それでも前にいくのか?」それでもいく、という決意をするとき、人生への覚悟が磨かれる。
その後も、何度も空っぽな自分に気づくたびに、覚悟を磨いていく。何度も何度も失敗ばかり、恥ずかしい思いばかりのとき、覚悟がまた求められる。
「なぜ、その見栄を手放さない?なぜ、かっこをつける?もともと空っぽなのに、なぜ、中身があるように装う?」その問いの答えに窮しながらも、それだからこそ、僕は突き動かされて進んでいく。
僕にとっての覚悟は、自分が空っぽだと気づいたときに訪れる。僕が理想を持って、ワクワクに胸がいっぱいなときは、覚悟が求められる場面はやってこない。
「空っぽで、何もないじゃん」そう思ってなお、前を向いて、一歩踏み出す。それを続けているのが僕の覚悟だ。自分に課している生き方のルールだ。何もないけれど、歩みだす。
すると、本当に不思議だけれど、その空っぽの部分にいろいろなものが入ってきてくれる。すき間を埋めてくれる。
仲間がやってきてくれたり、素晴らしい学びに出会えたり、師となる人にめぐり会えたりする。なんでもない小さなことに感動し、人の優しさに感激を覚える。
空っぽだからこそ、いろいろなものが入り込んでくる。空っぽだから豊かな瞬間を経験できる。
それがまた、みじめで空っぽな自分を前に進ませる力になる。
求めるレベルに対して、自分は不十分だとわかっていても、さらに高いレベルを課して一歩を踏み出す覚悟ができた時、僕は自分の中でまだまだ眠っている力に気づくことができた。
100%の力を発揮する
発揮しない力はただ鈍っていくだけだった。もっと早く気づくべきだった。僕は自分によく問うてきた。
「最近、全力を出したのはいつだったか?」それがこの二・三日でないのであれば、それはもう大変。何をやっているんだ俺は!このままでは危ない!と叱咤した。
気づかないうちに甘える方向へ走っている自分に喝を入れた。
ただ、喝を入れたところで全力が出るわけもなく、そこから自分のなかにある、悶々とした気持ちや心配ごとと闘うことになる。
全力を出さないと、全力スイッチがどこだったかを忘れてしまう。
100%の力を出しているか?100%の力はいい加減では決して出なかった。98%でも、99%でもなく、100%の力は、振り絞らなければならない。
そして、それは、長時間、精一杯やりつづけて、やっと出る。100%の力を出していないときは、心のどこかで手抜きをしている自分がいた。
手抜きをしているとき、僕はどれだけうまく立ちまわれていたとしても、成長をしている実感を得ることができなかった。
僕は子どもの頃、中途半端でもどうにかうまくやっていける方法はないかを、ずっと考えていた。
中学生時代は、校内でもとても要領がよかった。でも、高校へ行き、大学に進むと、僕よりも要領のよい人はたくさんいた。起業したら、要領のよい人たちの戦場だった。
要領のよさで言ったら、とてもじゃないけれど敵わない。それ以外の武器を見つけなければならなかった。
僕が不器用だったのは、「中途半端でも要領よくやれば、うまくいくだろう」という淡い期待を捨てるまでに、起業してから10年近くかかってしまったことだ。
中途半端なとき、怠慢を正当化することで、自分を守った。
「まだ本気を出していないから」と言えば、いくら目の前の現実が悪くても、自分の責任から逃げることができた。
簡単に妥協しようとする自分がいるとわかっているから、僕は自分に100%の力を出すことを課しつづけていく。
来る日も来る日も。
「中途半端にやっているうちは、うまくいかない」「100%の力を振り絞る」そうでなければ、真剣勝負で僕は勝てなかった。
土俵に立ちつづけることができなかった。どれだけ逃げずに決断したか?そう問いつづけてきた。
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