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第4章 清潔

目次

1「清潔」とは維持することである

「どうなっているんだ!」スーツを着た男性が、手に1枚の紙を持ちながらレジの前で怒鳴り声をあげた。

「申し訳ございません」どうやら検索機で在庫があると表示されていた書籍が実際の棚に存在しなかったようで、猛烈に頭に血が上ったようだった。

担当の小谷野剛は慣れた素振りで機械的に頭を下げながら、その場を凌いでいた。

「もう他の店に行くよ!」そう言って階段を下りる男性を見送ると、舌打ちをしてからバックヤードに向けて歩き出した。

すると、今度は勝手に棚下のストッカーを引き出して探している女性に遭遇してしまう。

「あ、あのー、お客様、こちら勝手に開けられるのは困ります」見かねて思わず声を掛けると、女性はキッと小谷野を睨みつけ「在庫がないかどうか自分で調べたっていいじゃないの!」とヒステリックな声をあげた。

小谷野は再び謝罪を繰り返し何とかその場を丸く収めてから、バックヤードに戻ってきて大きなため息をついた。

「はぁ。なんなんだよ、まったく」「なんなんだ、じゃないでしょ」背後からエリカの冷たい声が小谷野の背中を刺した。

小谷野は振り返ると「ああ、上条さんですか。今度はオレが付きまとわれる番なんですか」と苦笑いを浮かべながら言い放つ。

「付きまとうですって?アナタに用があるから来てるのよ」エリカは人差し指を前に掲げて小谷野に向けた。

「なんなんですか?オレはアナタに何も用が無いんですけど」「はあ?用が無いじゃないわよ。整理整頓もできていない。清掃もできていない。なぜやらないのかしら」

「やってましたよ。以前は。でも最近、ちょっと風邪気味でダルいんすよ。続けられなくて」「清潔が足りない」「え、オレそんなに不潔ですか?お風呂は毎日入ってますけど」

「バカね。アナタは5Sの〝清潔〟が足りないってことよ」「5Sの清潔?」「5Sにおける清潔ってのは、まず維持することよ。整理した状態を維持すること。整頓活動を維持すること。清掃活動を維持すること」

「あーはいはい、維持できてないってことですよね」「他にもあるけど、アナタの頭じゃ理解できないでしょうからこのぐらいにしておくわ。ビジネス書担当なのにビジネスの基本もわかってないのね」

「ぐっ……」小谷野は唇を噛みしめたが、すぐに「フン」と言ってから反論する。「そもそも整理整頓とか清掃なんて続かないものなんじゃないですか?ウチの店でも整理術の本をまとめ買いする客って多いですけど、要は片づけられない客なんですよね。だからいくら話を聞いたところで片づけができるようになるわけじゃなくって」

途中まで話したところでエリカが突然、小谷野の胸倉を掴んだ。「〝客〟とか言ってんじゃないわよ。〝お客様〟でしょうが。アナタ、マジで竹刀で突いてやろうかしら」その気迫に圧倒された小谷野は、言葉が出なくなってしまった。

しかし、エリカは胸倉を掴んだまま容赦なく続ける。

「アナタ、誰からお給料もらっているか考えたことあるの?毎日出勤してれば勝手にアナタの口座にお金が振り込まれるってわけじゃないのよ。

お客様に本を買ってもらって初めて給料の元ができるの。分かる?だから、アナタがやるべきことは、お客様にいかに本を買ってもらえるかを考えること。

そして自分でできることを精一杯やることなのよ!」エリカは掴んでいた胸倉から手を放し、小谷野の全身を見渡してから言葉を吐き捨てる。

「清潔を理解していないアナタみたいなやつはキモいのよ」そう言ってすぐに、その場を立ち去って行った。

エリカに吐き捨てられた言葉が耳の中で響いている。小谷野は1人残ったバックヤードで考えていた。辺りを見渡してみると、モノが散らかっていて、汚れている。

自分は毎日運ばれてくる本を単にひたすら並べるのが仕事だと思っていた。本は好きだったけれど、本屋の仕事は思っていたものと違った。線の細い自分にとっては重労働だった。

ただ、この辛さを仕方なく耐えるからこそ、お金がもらえるのだと思っていた。それが仕事というものだと思っていた。

しかし、エリカの言葉によって自分が間違っている気がしてきた。ただ、何をしていいのか分からない。とりあえず、この汚い空間を何とかしなければいけないという思いだけが残った。翌朝。

何ごともなかったようにエリカは小谷野に対して捲し立てる。

「おはよう。昨日私が言った意味、分かったかしら。アナタには仕事をして欲しいんだけど、まずは整理整頓や清掃よね。もう既に皆から教わっているはずだけど、それを維持していくつもりはあるのかしら?」

小谷野は目を逸らしながらも「あ、はい。やる気はあるんです。でも、やらなきゃいけないとは思いつつも続かなくて……」と答えた。

「例えば、清掃にしても〝やらなければいけない〟と考えるから続かないのよ」「え?じゃあどう考えたらいいんですか」「〝汚さない〟って考えなさい」「汚さない?」「そう、やらないといけないという義務感でネガティブに仕事をしても上手くいかないわ。

何をやってもね。

そうではなくて、『気をつけよう』と前向きに考えていれば清掃は継続できるわ」「考え方を変えるってことか」「それと、使ったら必ず元に戻しなさい」「え?」「アナタの動きを見ていると、使ったものをすぐに戻さないのがネックだわ」「ああ、言われてみればそうかも……」「戻さないから散らかっていく。

散らかっていくと片づけるのが面倒になる。その積み重ねでどんどん汚くなっていくのよ」「はい、すぐ戻すようにします。

それにしても、整理整頓とか清掃とか、なんか重い腰を上げる感じがするんですよね、どうしても」「整理整頓や清掃なんて、突き詰めれば10秒でできることばかりよ」「10秒で?」

「そう。そういう項目をリストアップしておいて、少し時間が空いた時にその中でできることを探してみればいいの」「え、例えばどんな項目ですか?」

「テーブルを拭く、窓をあけて換気する、トイレットペーパーを三角に折る、ゴミを拾う、って他にも幾らでもあるじゃない。自分で考えてリストアップしておきなさい」「10秒でできることのリストアップ、ですか。なんだかできそうな気がしてきました」と言ってから、小谷野はフロアに出て行った。

●整理・整頓・清掃を維持する

今まで教えた整理整頓や清掃も、一時的に取り組んだとしても続かないようでは全く意味が無いわ。清潔では、これらがいかに維持できるかを考えていくのよ。

そのためには、「やらないといけない」なんていう義務感で仕事に向き合っていてはダメよ。どうしたらいいかを常に頭で考えていかなきゃ。

整理整頓や清掃に限らず、どんな仕事であっても分解すれば10秒でできるようなことの集合体よ。目の前の動きの積み重ねなの。

10秒でできることを常に意識して周囲を見渡してみるといいわ。次のページに「10秒でできることリスト」を紹介しているわ。参考にしなさい。

【10秒でできることリスト一覧】

  • □身の回りの埃を拭き取る
  • □もらった名刺をスキャンする
  • □ゴミを拾う
  • □資料をクリアファイルにまとめる
  • □ラベルシールを貼る
  • □書類ファイルにタイトルを入れる
  • □用済みの書類を捨てる
  • □使った備品を元に戻す
  • □PCのディスプレイを拭く
  • □PC上の要らないファイルを消す
  • □書類ファイルの向きを揃える
  • □キーボードを拭いておく
  • □机上の配置を整える
  • □机の上に空きスペースを確保する
  • □要らないメールを削除する……など

2身だしなみは「お店の顔」「会社の顔」

その日の夜、シフトの終わる時間が迫って片づけをしている小谷野に、エリカが声を掛けた。

「そうそう、アナタにもう1つ言っておくことがあるわ」小谷野は運んでいた本をテーブルに置き、腰に手を当てて返してくる。

「え、まだあるんですか?」エリカは上から下まで小谷野を舐めまわすように眺めた後、ポツリと漏らした。

「身なりが汚い」「は?」小谷野は目を丸くしながら高い声を発した。

「アナタ、ずっと身なりが汚いのよ」「でも、書店ってそもそも重労働ですから、いちいち身なりに気を遣うものじゃないと思うんですけど」「別にオシャレな服を着こなしなさいって言ってるわけじゃないわ。最低限の身だしなみは理解しないといけないのよ」

「最低限の身だしなみ……」「5Sの清潔には〝身なりを整える〟という意味も含まれるのよ」「身なりを整える、ですか」「そうよ。人間の第一印象というのは潜在化して評価されてしまうのよ」

「……えっと、どういうことですか?」「お客様は店員の身だしなみも見ていて、それによって安心感を抱いたり好印象を抱いたりするの。そして、第一印象というのは潜在化するもの。

わざわざ口に出して『わあ、この人、身だしなみが悪いなあ』なんて言わないけれど、潜在的に悪いイメージを持ってしまったりするものなの。

そして、それがお店の善し悪しを決めることに繋がるのよ」「身だしなみでお店の善し悪しが判断されちゃうんですか……」

「そう。だから、極端に言えばアナタの身なりが悪いことで『あのお店は何だか汚らしいし、行くのが嫌だからネットで買うか』ということにも繋がりかねないってことよ」

「いやでも、それって極端じゃないですかね?」「じゃあアナタ、レストランに入って泥まみれの店員さんが注文を取りに来たらどう思うかしら」

「そ、それは、さすがに嫌ですけど……」「そうでしょ?それに、『あんな汚れた服で本を取り扱っているのか』と思われると、お店に置いてある商品も汚く見えてしまうのよ」

「まあ、確かに……」「身だしなみは『お店の顔』や『会社の顔』と同じよ。アナタの身だしなみが悪ければ、このお店の顔は汚いまま。お客様を不快にさせるわ。だから、身だしなみを整えるということは、お客様に安心感を与える大事な仕事なのよ。これもビジネスの基本中の基本。またアナタには難しすぎたかしら?」

小谷野は強く唇を噛みしめてから、黙り込んだまま入り口の鏡が置いてある場所まで歩いて行った。自分の姿を見直してみると、エプロンはところどころが黒く汚れている。

その下のシャツはシワだらけ。さらにズボンにインしていたはずが、裾が全て飛び出てしまっている。チノパンの膝から下の部分も、やたら黒ずんでいる。お世辞にも、キレイとは言えなかった。

「身だしなみは『お店の顔』か……」と言葉を漏らしてから、片づけを再開していった。「お先に失礼します」小谷野は業務を終えて家に帰る途中、弁当を買おうとコンビニに入っていく。カゴを手に取ると、ふと、レジにいる店員に目がいった。

金髪の頭をボリボリ掻きむしりながら、退屈そうに天井を見つめている店員。制服の下に着ているシャツも、裾が全てズボンの外に飛び出していた。小谷野はすぐカゴを置いて、店を出てしまった。そして、家とは違う方角に向かって歩き出した。

小谷野が行ったのは、閉店間際のアパレルショップだった。翌朝、エリカは小谷野の姿を見てすぐに気がついた。

「あら、新しい服を買ったのね」「あ、分かりますか?昨日、服屋さんに行って、店員さんに相談しながら買ってみました。安い服ですけどね」エリカは腕を組んだまま小谷野のまわりをぐるりと1周歩く。

マジマジと小谷野の服装を眺めながら「まあまあ似合うじゃない」と言った。真新しいシャツとチノパンに身を包んだ小谷野は「ありがとうございます」と言いながら、頬を赤らめた。

照れていることを悟られないように、すぐにまた口を開く。「でも、選ぶ時にエプロン前提で服の色を考えてしまいました。これは書店員の性ですかね」そう言いながら、自虐的に笑った。

続けて、「まあ、お店の顔が汚れていなければいいんですけど」と小さく呟いたのを、エリカは聞き逃していなかった。

「身だしなみには他にも効果があるわ。キレイな服を着ることの良さは、気持ちもキレイになることよ」「気持ちもキレイに……」「そう、服装1つでやる気が出たり、気持ちが切り替わることって誰しも体験したことがあるはずなのよ。

疲れていても、仕事用のスーツを着た途端に背筋が伸びて、一気に気持ちが仕事モードになったり。寝るときにパジャマを着たら気持ち的にもリラックスモードに入ったり。高級な服を着た途端に、ドヤ顔で堂々とした歩き方になったり」

「あー、なんか分かる気がします。今朝からちょっと気分がスッキリしていますから」「そうでしょう。服装1つで気分というのは大きく変わるものなの。気分が変われば仕事にも影響が出る。

汚れた服装で仕事をしていると、〝その服装なりの仕事〟になるのよ。汚いカッコで一流の仕事をこなす人なんて見たことが無いわ」

「そういうものなんですね」「服装なりの行動になる、といえば『スタンフォード監獄実験』って知ってるでしょ?」「え、なんですか、それ?」

「ったく、ビジネス書担当なのにそんなことも知らないの?学生を使った有名な実験なんだけど、学生を二手に分けて、片方が看守役で、もう片方が囚人役になるの」

「看守と囚人、ですか」「どちらも学生で、看守をやったことも囚人になったこともない人たちなんだけど、それぞれに肩書きと服装を与えて演じさせたのよ」「へえ。壮大な〝ごっこ遊び〟ですね」「初めのうちは両方とも指示されたように行動する程度だったけど、段々と自発的にそれぞれの役割が持つ行動をとるようになっていって、しまいには歯止めが利かなくなったのよ。看守役が囚人役に対してものすごく凶暴になって」

「怖い話ですね、それ」「そして実験は途中で中断。それくらいその役にふさわしい人物像になっていたの。まあ、服装1つで気分や行動が左右されてしまうほど、人間は単純にできているということね。それだけ人間は思い込みの強い動物でもあるというわけ」

「思い込みかぁ。身だしなみを整えると良い思い込みに繋がるってことですね」「そうよ。良い思い込みをするためにも、着ている服が汚れたらすぐに着替えなさい。そうして常にキレイにすることを心がけるといいわ」

小谷野は頷いてから、鏡の前に立って自分の姿をあらためて確認した。頬はもう赤くなっていなかった。

●整った身だしなみは安心感を与える

清潔には〝身なりを整える〟という意味も含まれるわ。小谷野くんにも言ったけど、お客様は店員の身だしなみも見て安心感を抱いたり好印象を抱いたりするの。

これは心理学の世界で「初頭効果」と呼ばれているけど、出会い頭の1秒から6秒で人は相手の印象を決めてしまうのよ。そして、その印象は長く持ち続けられてしまうから、最初の印象はとても大事。

薄汚い恰好をして仕事をするなんて、アナタだけじゃなく会社のイメージも下げてしまうことになるから、清潔を保たないとダメよ。

3体調管理は身に付けるべき「能力」である

数日が経つと、小谷野の動きは少しずつ変わってきていた。新しい服に身を包むようになったせいなのか動きも軽快になり、整理整頓や清掃も少しの空き時間にできるようになってきた。

しかし、順調に進むことばかりではなかった。「申し訳ありません!」2Fのレジで謝罪の声が響く。スーツ姿の男性が小谷野に向かって「〝前株〟ってのは株式会社を前に付けろってことだよ。なんで宛名を『まえかぶ様』にするのかな。俺はそんな名前じゃないんだけど」と言っている。

どうやら領収書の宛名を間違えてしまったようだ。小谷野は頭を下げ、すぐに新しい領収書を用意した。小谷野は完全に集中力を切らしていた。ガックリと肩を落としながらバックヤードに入って来るなり、エリカが話しかける。

「アナタ、今みたいなミスが多いわよね。これまでに何度もやっているでしょ」椅子に座った小谷野は「仕事中にどうしても力が入らないことが多いんですよ。あと、ちょっとしたことでカッとなったりもしてしまうし」と嘆いた。

「そういえば昨日も何度か大声で怒っていたわよね」「ああ、主婦の人が自費出版の持ち込みで来たんですよ。『詩集を作ったのでこれをどこかに置いてもらえませんか?』って。忙しかったし『はあ?』って返事しちゃいました」

「いやいや、スーツの男性にも怒鳴ってたじゃない」「スーツ……ああ、新刊の品出しの時に版元の営業さんが来たんですよ。営業さんって超忙しい時に限ってよく来るんですよね。営業に来たのか営業妨害に来たのか分からないな、と思ってつい『なんですか?!』って、カッとなって」

「そういえばこの間、ちょっと風邪気味だとか言ってたわよね」「ええ、実は慢性的に風邪をひいているんですよね。なかなか治らなくて」「フン」「鼻で笑わないでくださいよ。ちょっとは心配してくれてもいいのに。気分悪いなあ」

「アナタ、どこが剛なのよ。全然名前と合ってないじゃない」「風邪なんだから仕方ないじゃないですか!なんなんですか、人の名前まで否定してくるなんて。いくら上条さんでも酷過ぎますよ!」

小谷野は声を大きくしたと思ったら、そのままバックヤードを出ていってしまった。エリカは小さく舌打ちをして後を追っていった。ちょうど昼を過ぎていたこともあって、小谷野はコンビニに寄ってから近くの公園に入っていった。

ベンチに腰かけて、袋から弁当を取りだす。小さな「のり弁」の蓋を開けると、ゆっくりと食べ始めた。すると、目の前に腕を組んだエリカがあらわれた。

「まだ話は終わってないんだけど」小谷野は眉間に皺を寄せて「休憩時間までなんなんですか」と、口をモゴモゴさせながら返す。

エリカは人差し指を小谷野に向け、「やっぱりアナタには『清潔』が足りない」と言葉を投げた。

「いやいや、服装だってキレイになったじゃないですか」「清潔には、〝衛生管理を徹底して体調を整える〟ことも含まれるのよ」「衛生管理、って何だか大げさですね」「大げさなんかじゃないわ。

例えばアナタが今食べているお弁当。これを作った工場の従業員が皆風邪気味だとしたらどう思う?」「ちょっと、変なこと言わないでくださいよ。食欲なくなるじゃないですか」

「変なこと?そう思うってことは、お弁当を作る工場の人には風邪をひいて欲しくないってことよね」「そりゃ誰だってそうでしょ」「じゃあ書店員のアナタは風邪をひいても許されるわけ?なぜ書店員なら許されるの?説明してごらんなさいよ」

「うぐ……」「食品を扱っているわけじゃないから良い、とかそういう問題でも無いわよね。ウダウダといつまでも風邪なんかひいてるんじゃないわよ」

「すいません。寝不足が原因だってのは大体分かっているんですけど」「社会人にもなって体調管理の重要性に気づいていないなんてクソよ」「クソって……」「体調管理は、能力が試されるものでもあるの。

意志の強さも必要だし、自己分析能力も求められる。そして客観的な視線も持っていなければならない。情報収集能力や情報を整理する能力も重要よ

「そ、そう言われると体調管理って確かに重要な仕事だって気もしてきますね」「清潔さが保たれていない人は体調を崩しやすいし、病気になることもあるでしょう。

意識的に清潔さを保たなければ、カビやホコリなどによって身体を壊してしまうことは珍しくないわ。それから、うがいや手洗いはもちろん、睡眠はしっかりとること。体調が悪くなりそうだと思ったら早めに帰って寝ること。

そうやってベストな状態を維持しているからこそ、仕事で十分な力を発揮して結果を出すことができるのよ」「はい、仰る通りです。何も言えないです」「体調管理を怠れば、誰かに迷惑を掛けることにもなるでしょう。そうやって足を引っ張るのも組織にとってはマイナスだわ。ちょっとは清潔の重要性が分かったかしら」

「ええ、もうお腹いっぱいです……」そして2週間が経った。小谷野は手洗い・うがいの徹底と、早寝早起きを意識していた。慢性的にひいていた風邪も、少し和らいできているようだった。以前よりも集中力が高く、ミスも減ってきていたからだ。

今までに感じたことのない高さのモチベーションを感じながら、小谷野は動き回るようになった。しかし、動きが良くなったと思ったのも束の間だった。

今までに持ったことのない大きさの段ボールを持ち上げた瞬間、腰の辺りからグキッという鈍い音がした。「はうっ!!!!」小谷野の叫び声が2Fのバックヤードに響き渡る。

小谷野はそのまま相撲の立ち合いのような姿勢で四つん這いのまま固まってしまった。

通りかかったアルバイトスタッフが書籍運搬用の台車をガラガラと持ってきて、小谷野は四つん這いの状態で乗せられた。

そして、そのままエレベーターまで運ばれていき、1Fのバックヤード奥にあるソファーで横にさせられたのだ。腰を悪くするスタッフが多いせいなのか、周囲の対応も鮮やかなほど迅速だった。

ソファーに横たわる小谷野のそばに、エリカがやってきた。

「風邪が良くなってきたかと思ったら、腰をやったのね。まったく、いつまで名前に負けてんのよ、アナタは」小谷野は痛そうな顔をしながら「ちょっと張り切っちゃいましたね」と言って苦笑いをする。

エリカは髪をかきあげてから「アナタは普段から姿勢が良くないわ。私がやっている剣道では姿勢をものすごく重要視しているのよ」と言ってくる。

「姿勢ですか。あまり意識したことないかも」「書店員の場合、重いものを持つから腹筋や背筋を鍛えるのも大事。ただ、モノを持つときの姿勢も意識しないといけないわ」

「モノを持つときって、どんな姿勢がいいんですか?」「重いものを持たないといけないときは、とにかく中腰にならないことよ」「中腰にならない。ああ、そういえば働き始めた頃に誰かにアドバイスされたような」

腰を中途半端に曲げないために、膝をしっかり曲げて一度しゃがみこみ、体全体を使って持ち上げるのよ。

そして、そのときはできるだけ持ち上げるものに体を近づけて、それをお腹に抱えるようにして足の力で立ち上がるのが正しい姿勢」エリカは説明をしながら、実際に腰を曲げてしゃがみこんで、荷物を持ち上げる仕草をする。

エリカのスラッとした長い足が目に飛び込んできて、小谷野は思わず唾を飲みこんだ。そんなことにはお構いなしに、エリカは説明を続ける。

「あと、運んでいる最中は、荷物を体から離さないことが大切ね。体に密着させて運べば、うっかり中腰になるのを防げるから」小谷野は、「上条さんって何でも知ってるんですね」と横たわりながら口にした。

頬は少し、赤らんでいた。エリカは「フン」と言ってから踵を返し、2Fに戻っていった。

●自分の体調管理には敏感に

自分の身なりを整えるだけでなく、体調を整えるというのも同じく重要だわ。この国には自分の体調管理を仕事の1つとして捉えているビジネスパーソンが少なすぎるの。

体調管理には意志の強さや、自己分析、客観的な視点など能力が試されるものなのよ。だから、自身の管理のせいで体調を崩して休んでばかりの人は、自分の無能さを少しは嘆きなさいよ。

優秀な経営者はもれなく自身の健康管理に敏感になっているものよ。少しは見習ったほうがいいわね。

4清潔は、「見える化」と「見せる化」も重要だ

しばらくすると、小谷野が腰を痛めてしまうようなことも減っていった。風呂上がりにストレッチをするようになり、ギックリ腰対策にもぬかりが無いようだった。

体調も安定してきた小谷野の周辺は、だいぶキレイに整ってきた。しかし、それでもまだ汚れているところがあることを、エリカは見逃していなかった。

「アナタ、ここ汚れているの分かる?」エリカはレジの前の荷物置き場を指さして小谷野に問いかける。

レジの前にはお客様が荷物を置けるように小さな荷物置きスペースが設けられている。グレーのテーブルを見ながら、小谷野は「え、そこ汚れてます?」と返した。

咄嗟に台拭き用のタオルを手に取って、エリカの指すテーブルを拭いてみると、黒い汚れが付いた。

「うわあ……、汚れてますね」言いながら小谷野は目を細めた。エリカはテーブルを指さしたまま続ける。

「このテーブルの色は埃や汚れが目立たないわ。そうすると汚れを見落とすことになる。お客様が荷物を置いたり、子供が手を置いたりすると汚れが移ってしまうわよね。どう思われるかしら」「これはマズいですね。清掃の頻度を上げないと」

「清掃の頻度を上げるのもそうなんだけど、それ以前に見せる化をしないとダメね。

清潔っていうのは見せる化の取り組みでもあるのよ」「見せる化?」「汚れを分かりやすくするために、この荷物置き場の色を変えるのよ。

そうすれば、少し汚れただけですぐに分かるから対応できるわ」「でも、汚れを分かりやすくすると、汚れた時に目立っちゃいますね」「そうね。でも、分かりやすくすることで『汚したくない』と思う気持ちが醸成されていくの」

「確かに、白い服とか着ると『汚したくない』って意識が強くなりますもんね」「そうすると、常にキレイな状態を維持しようとする心が職場で育っていくのよ」「なるほど、奥が深いんですね。清潔って」

「それから、見える化も大事ね」「見せる化の次は見える化、ですか」「見える化というのは『正しい状態を一目で分かるようにする』ことね」「正しい状態を分かるようにする……」「例えば、どのスイッチがどの機械のものなのか、どのスイッチがどの照明のものなのか、とか迷うことって無い?」

「あ、ありますね。この2Fのフロアの照明も、よくアルバイトの子が間違えて消しちゃいます。停電かと思っちゃうんですよね

」「そういった普段触れるものを迷わないように識別しやすくする、というのも清潔の活動になるのよ」「見せる化と見える化ですかあ」小谷野は頷きながらそう言って、小さなメモ帳を取り出して何かを書き込んでいった。

その様子を見ながらエリカが口角を持ち上げていると、メモを書き終えた小谷野に向かってアルバイトの男の子が駆け寄ってくる。

「小谷野さん、すいません。トイレに閉じこもって出てこないお客様がいるんですけど」「はあ?」小谷野は裏返った声を発した。

「いや、男子トイレの個室がずっと閉まったままで、もう3時間ぐらい経ってるんですよ」アルバイトの男の子は、困り果てた顔をしている。

ただでさえ小さいトイレなので、お客様からもクレームが来ているようだ。「本屋ってトイレに行きたくなるお客様も多いものね」「え、なんでですか?」「新しい本の匂いをかぐとトイレに行きたくなるのを『青木まりこ現象』って呼んだりもするじゃない」

「誰ですか、その女」「はあ?アナタ、書店員のくせにそんなことも知らないの?」「すいません。それにしても、男子トイレの個室に閉じこもりかぁ。おそらく本を持ち込んで読みまくっているだけだと思うんですけどね」

「いやいや、本を持ち込んだらダメでしょ。万引きしてても分からないんだし。それに、他のお客様もトイレに並ぶんだし、完全にアウトよね」「じゃあちょっと行ってみます。あ、上条さんも一緒に来てくださいよ」「何言ってんのよ、私は女性よ。アナタ喧嘩売ってんの?」

小谷野は慌てて「違います違います」と言ってから、「あ、そうだ。大丈夫です。来てください」と言ってエリカを引き連れてトイレに向かった。

中に他のお客様がいないことを確認してから、入り口脇にある棚から看板を取りだして男子トイレの入り口に立てかける。そこには『清掃中です』という文字が書かれていた。

「『見える化』でしたよね」小谷野はそう言って、エリカに笑顔を向けた。エリカは「フン」と息を漏らして渋々ながら小谷野についていく。言われた通り1つしかない個室の扉が閉まっていた。

ここにずっと閉じこもっているようだ。小谷野がコンコンとノックをするが反応が無い。

間をおいてからエリカが「すみません、清掃の時間なので出ていただけますか」と呼びかけてみるが、やはり反応が無い。

少し考えた後、小谷野がエリカにウインクをしてから「困りましたね、警官を呼びましょうか」と言った。

エリカも咄嗟に「そうね。小谷野くん、じゃあ警察に電話」と言い、小谷野も「はい」と返事をした。

すると、途端にガチャガチャと音がして鍵が開いた。厚めのビジネス書を手にした初老の男性が「す、すいません。なかなか出なくて。いや、もう出ます出ます」と言いながらそそくさと店内に戻っていった。

「やっぱり本を持っていたわね」「ですね。トイレで読書とかホント困るよなあ」小谷野が腕を組みながら答えた。

エリカは出口に向かいながら「何か対策をしないとマズイでしょ、これは」と言う。すると、看板を片づけながら小谷野が「それにしてもいい連携でしたよね。オレたち、いいカップルになれるかも知れませんよ」と嬉しそうに口を動かした。

エリカは聞いていないフリをして歩いて行った。小谷野が小走りで後を追い、「上条さん、そういえば彼氏とかいないんですか?」と質問した。

エリカは振り返ると「そんなもん興味ないわよ。うるっさいわね」と声を荒げる。小谷野は一歩も引かずに「じゃあ、オレにもチャンスがあるってことですよね?」と目を大きくする。

するとエリカは再び前を向いて歩き出しながら、「一生無いわよ。バーカ」と言って去っていった。翌週、小谷野は1枚のポスターを作っていた。

本を持った手が描かれた絵に、大きく×印が書いてある。その下に「本の持ち込みはご遠慮ください。万引きになる恐れがあります」と書いてあった。

トイレの入り口に貼りつけようとするそのポスターを、エリカが見つめている。

「これも見える化ですよね」と投げかけた小谷野に、エリカは腕を組んだまま「まあ、悪くないわね」と返した。

ポスターを貼り終えた小谷野に、エリカが話し始める。

「小谷野くん、『清潔』の責任者だけど、アナタにやってもらうわ。今まで教えたことを皆に広めていってちょうだい」小谷野は笑顔になりながら「分かりました。じゃあ明日の朝に全体朝礼がありますから、まずそこでガツンとやっちゃっていいですか?」と言った。

エリカは「あら、いいじゃない」と言うと、笑顔になった。

そして翌朝。朝礼で様々な確認事項が共有された後に、エリカが声を上げた。

「皆に現在取り組んでいただいている5S活動ですが、『清潔』について小谷野くんから連絡事項があります。よく聞いてください」その場にいた皆が小谷野に注目すると、小谷野はゆっくりと話し始めた。

「皆、日々5Sに取り組んでいると思いますが、本日より僕から各フロアへ『清潔』をレクチャーしていきますのでよろしくお願いします。

清潔というのは、整理・整頓・清掃の3つの状態を〝保つ〟という意味もあるんです。

整理・整頓・清掃がルールに則って行われているのに対して、清潔では瞬間的な反応が求められます。

使ったものをすぐに元に戻せていますか?汚した場所をすぐにキレイにできていますか?そこまでしっかりできることが清潔では求められます。

それだけでなく、自らを整えることも求められます。そしてそれらは〝お客様〟のためでもあります。これからじっくりと教えていきますので、一緒に頑張りましょう」話し終えると、周囲からは自然と拍手が起きた。小谷野のスピーチは完璧だった。

しかし、エリカはニコリともしなかった。ただ1人、話をちゃんと聞いていない人間がいることを見逃さなかったからだ。そして、それが店長だったからだ。

●見える化と見せる化も意識する

単純に汚れたからキレイにするだけでなく、汚れを目立たせるために色を変えてみる「見せる化」も考えてみなさい。

あえて分かりやすくすることで『汚したくない』と思う気持ちが醸成されていって清掃への意識も高まっていくはずよ。

それから、正しい状態を一目で分かるようにする「見える化」もあらゆるところで使える考え方ね。

整理整頓する、とか清掃してキレイにする、だけでなく、こういったことまで考えることも「清潔」の1つなのよ。

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