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第3章クリエイティブを支えるもの

第3章クリエイティブを支えるもの

リベラルアーツと教養と一般的に「教養」という言葉の英訳が「リベラルアーツ(LiberalArts)」ということになっているが、僕は別ものだと考えている。「リベラルアーツ」は文字通り「自由になるための技術」であり、自由になるためには知識が必要なんだ。すでに別の本で書いたことだけれど、これを読んだ編集者から連絡があった。「恒太郎さん。『リベラルアーツに教養という訳語は相応しくない。リベラルアーツとは生きるための技術だ』って素晴らしい言葉ですね。ところで、これの元ネタは誰ですか?」「失礼な言い方するなよ、それは俺が考えたんだよ」いまだに彼と会うたびに彼をイジリ大笑いしている。辞書ではリベラルアーツを「教養」と訳しているけど、結局それってオプションをいくつか身につけることだと思う。つまり、教養とは生きる技術。もしかしたらイニエスタは、無数の足技とフェイントを持ってるかもしれない。ひとつのかわし方しかしらないと、けがしやすくなるでしょう。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P113、一部改変)

ルーツのないものは弱いもの――歴史に学ぶ前述のように、僕は吉田秀雄の広告電通賞を真似て、「東京インタラクティブ・アド・アワード(TIAA)」を立ち上げた。歴史に学んだわけだ。トップに立っている人、革新的なことを先頭を切ってやった人は、皆ほぼ同じことをいっている。それは、真に新しいものは歴史の中からしか生まれないということだ。だからクリエイティブをやっていた時代も含め、後輩や部下には、とにかく歴史に学べと口を酸っぱくしていってきた。電通には資料室があって、過去の広告に関する資料が膨大にある。当時、八〇〇人ぐらいの部下がいて、皆に均等に「歴史に学べ」といってきたのに、結局、資料をよく見ていたのは、佐藤雅彦とか故・岡康道とかトップクリエイターなんだ。やはり世に出る人間は、しっかり歴史に学んでいる。「ピッカピカの一年生」のヒントになったのは、その後有名になっていった、鳥取の植田正治というカメラマンの『童暦』(中央公論社、一九七一年)という写真集だった。常に何かルーツは存在する。やはりルーツを持って、それを自分なりに新解釈するというのが一番成功する秘訣だと思う。ルーツのないものは弱い。何かをやるときは、そのルーツを徹底的に探るというのがものすごく重要になる。企業のブランディングでも、表面的なかっこよさを求めると、脆弱なクリエイティブになってしまう。その企業を知るために、まず社史を読むところから始める。そして、その会社のルーツを探る。なぜこういう会社になったのか?創立者はどういう人で、何を考えてこの会社を創立したのか?歴史の原点に立ち戻って考えないと、糸が切れた凧のような表現になるんだ。だいたい歴史を学ばないと怖くないのかなと、臆病な僕なんかは思う。昔から「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」といいますが、つくり手も学ぶなら歴史に学ぶべきでしょうね。広告の世界でいえば、電通の資料室で過去の広告作品の閲覧者リストを見てみるとわかるのだけど、佐藤雅彦くんにしても、いまはタグボートにいる岡康道くん(編集部注:2020年7月に逝去)にしても、いいものづくりをしている人たちは、すごくたくさんの作品を見ています。歴史に学んでいるからこそ、成功体験に安住することなく、どんどん新しいものをつくっていけるんです。(杉山恒太郎著『クリエイティブマインド』インプレスジャパン、P150~151)

反省力僕が人よりすぐれているところがあるとすれば、それは「反省力」だろう。反省するスピードだけは、唯一誰よりも早いと思う(周りを見ていると、意外に皆さん、反省が遅い〈笑〉)。先ほど人のせいにしないと決めたと書いたけれど、そうすると、すぐに自分自身で反省せざるを得ない。反省が早いのは、自分に自信がないから。才能とは、どれだけ怖がることができるかだ。恐怖する心が才能である。僕は自分に才能があるとはまったく思っていないけれど、ものすごく怖がりなのは間違いない。夜寝ていてミシッと音がしただけでも飛び起きてしまう。猜疑心や警戒心とは違うけれど、すごく動物的な、必要な能力だと思っている。自信がないから反省するというのは事実だが、それと同時にスルスルスルッとある企画が通った奇跡も知っている。そうした体験もあるので、それに比べればまだまだ足りないという反省ができるんだ。その頃、電通には出版営業局という部署があったんですけど、そこの営業担当の人が、「杉山くん、『小学一年生』のあの仕事、コンペになったよ」って言いながらも、彼は獲れっこないと思っていたようです。それはライバル社の大牙城だし、僕にはラジオ以外実績がないわけですから。(中略)でも僕は、いい企画アイデアさえ出せば勝てるとひそかに思っていました。(中略)そのときのクリエーティブの部長も、まさか僕が勝てるとは思っていない。まだ入社4年目でしたから。でも勝っちゃったものだから驚いて、「君、どこかプロダクションは知っているのか?」と。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P85~86)

クリエイティブを支えるスクラップブッククリエイティブを支えるにはストックが必要だ。そのために僕はこれまでスクラップブックを作り続けてきた。これはある意味、僕の企業秘密だ。週刊誌の気になった言葉、ファッション誌の気になった記事などをビリビリと破って取っておく。今はなかなかないけれどバーのマッチなんかも、とにかく気になったものを必ず集めておく。他人が見たらゴミのようなそれらを、年に数回、スクラップブックに編集するんだ。その作業が愉しくて仕方ない。今は年に二~三回、五日間、ファスティング(断食)に行っている。主にそのとき、スクラップブックの編集作業を行う(他に積読本やため込んだDVDを消化したりする)。すぐに何の役に立つかわからないものばかりだが、ハサミやカッターナイフで切って読み直しながら作業する。一回のファスティングで、六~七冊のスクラップブックができあがることもある。いわばファスティングがインプットの時間になっているわけだ。全然違う物事が一冊のスクラップブックの中に同居する。たとえば、『日刊ゲンダイ』の書評からどこの醬油ラーメンが一番うまいかという記事まで、どんどんクリアファイルに入れていく。表紙には、それぞれのファイルの中の主要な物事、気になった概念、気に入った言葉を書いていく。自分だけの密かな愉しみで、誰にも見せたことがない。もちろん妻や娘たちにも。講演を頼まれたときに、何冊かパラパラめくって、ネタを探すこともある。「この言葉、今いいかもしれない」とか「このカメラマン、今キテる!よね」とか。まあ、努力しているというよりは愉しんでいる。ファーブル的というか、野山で虫を集めているのに近い。これこそレヴィ=ストロースのいうブリコラージュだろうか。何の役に立つかわからないが、拾っておくというような。それを整理していくことで、スクラップブックの中で全然関係ないものが組み合わさり、何かのアイデアに昇華されることもある。あとは、見たり聞いたりして気になったこと、思い出せなかった言葉、誰と会って何を食べたかといったことを、まめにiPhoneや手帳に記入している。全部は覚えきれないが、耳にとめておくのが大事だと考えている。脳にとめるというよりも〝耳にとめる〟。それを書いておくことで、どこかでフッと思い出したりできる。iPhoneと手帳、スクラップブックの三つが僕なりのアーカイブになる。

何がわかっていないかわからないと物事は理解できないこれらを駆使して、僕は知識のアップデートを図っている。インターネット時代になり、わからないことはすぐに検索できるから知識は必要ないという人もいるが、僕はそうは思わない。部下を含め、いろんな人と接するとき、知識があれば自信を持って知らないといえるからだ。自分がある程度知っているという自信があれば、知らないことについて「知らない」といえる。何も知らないと、「知らない」ともいえない。だから若い人に対しても知らないことは「知らない」といえるし、平気で「教えて」ともいえる。物事を理解するというのは、何がわかっていないかを理解することだ。わかっていないことがわかることで、初めて理解したことになる。自分が時代からずれてきたことに気づかないと、本当に遅れていってしまう。自分自身が形骸化していく。それを置いても、ブリコラージュ作業は楽しい。この作業によって、身体に様々な物事の記憶を残しているのだと思う。身体の中に記憶を入れることで熟成させる。それが新たなアイデアにつながる。「メモリーを身体の外に置くな」。ぼくは何度もこの言葉をチームの人たちにいってきました。というのも、よく、アイディアが降ってきた、といいますよね。降りてくる、ともいう。いずれも、なんにもない空中に突如としてなにかが現れて、それが自分のなかに入り込んでくるイメージですが、じつはアイディアは、そんなふうに外からやってくるものじゃない。アイディアとは、自分のなかから浮かび上がってくるものなんです。気づいていないだけで、発想の源はすべて自分のなかにある。(中略)ぼくらは日々経験することのすべてをはっきりと覚えていられるわけじゃないけど、アタマのなかのメモリーにはちゃんと入っています。しかも、ニューロサイエンスの研究者たちがいっているように、その記憶が無意識のうちにアタマのなかで編集されたり分類されたりもする。「記憶は進化」するんです。(中略)要するに、思いつけるかどうかじゃなくて、思い出せるかどうかが重要。ということは、思い出せる材料が自分のなかにストックされていなくてはいけない。(杉山恒太郎著『クリエイティブマインド』インプレスジャパン、P83~8

毎日の地道な勉強が「勘」を養うスクラップブックを作ることで、ショーロー(初老)になった今でも脳と手(身体)を動かし続けている。そうしないと勘が鈍る。ノーベル物理学賞を受賞した今は亡き小柴昌俊さんが、いいことをいっていた。とにかく毎日、毎日、毎日勉強している、何のために勉強しているかというと、勘を養っているのだと。ノーベル賞を受賞する人ですら、最終的には勘なんだと驚いた。でも勘を良くするには祈ったりするのではなく、地道に毎日、毎日勉強することが必要なんだ。アイデアとは思い出すことだから。ぼくらが出そうとするアイディアには、かならず課題があります。最初はそれをとにかくロジカルに追い詰めていく。そこから、さらに追い詰めて、追い詰めて、追いつめ抜くと、その先にロジックを超えて生まれてくるもの、それこそが本物のアイディアなんです。ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんは、若い人たちに「毎日、コツコツと、とにかく勉強しなさい」といっています。それは、「直感力を磨くため」だというんです。小柴さんが伝えたいのは、学説や理論という論理の部分を読み解き、自分のものにしていくと、やがてその向こう側にある「非論理的な〝なにか〟」が感じられるようになるということでしょうが、ぼくらが求めるようなアイディアもまた、そうやって近づいていって感じ取るもの。(杉山恒太郎著『クリエイティブマインド』インプレスジャパン、P91)

時間の使い方はあまり意識しない仕事術の一つに時間の使い方があると思うけれど、実は僕はあまり意識していない。当然のことだけれど、ある歳を迎えると睡眠時間が短くなる。夜中にパッと目が覚めたときにガックリくるか、「時間ができた」と思うかでずいぶん心持ちは変わる。僕は目が覚めてしまったら、仕事の企画書を書き直したり、本を読んだり、音楽を聴いたりして、その時間を有意義に使う。寝ないで済むなら寝なくていいやぐらいの気持ちになれば、夜中に起きることが、ある種自分のペースになる。今は自分の時間をコントロールしやすい立場なので、短時間、仮眠してバランスを取ったりする。コロナ禍以前は、毎日のように夜の会食が入っていた。でも、電通時代のように立場的に会わなくてはならないというのはなくなり、基本的に会いたい人にしか会っていない。そして、プライベートは存在しない。日本語で「公私混同」というと、すごく悪い意味になるけれど、現実的にオンとオフの境目はないし、どこまでが遊び・学びで、どこまでが労働・仕事なのか分けることがなくなった。分けるとむしろ効率が悪いんだ。遊びの延長に仕事があり、仕事の延長に遊びがあると考えるようになってから余計なストレスを感じなくなった。ただ、「仕事が趣味です」なんていうのもちょっと嫌らしいので、ジョージ秋山さんの名作『浮浪雲』の中の名言「趣味は生きてることでんす」の精神とでもいおうか。仕事では、いろんな案件が重なることがままある。その場合、大事な仕事、大きな仕事を優先するかというとそんなことはなく、特に分けたりしない。大きな仕事も小さな仕事も普通の仕事も同時に進行している。そのほうが頭は冴えるように思う。ビッグビジネスの仕事のことばかり考えると頭が鈍る。逆にマイナーな仕事ほど頭が冴える。だから常に同時進行で取り組む。もっというと、仕事も遊びも学びも同時進行だ。便宜上、遊びと学びを分けたけれど、僕にとっては学びも遊びに含まれる。「好奇心強いね」とよくいわれるけれど、頭をグルグル巡らすのが面白くて好きなんだろう。何か「宝探し」をしているような感覚だ。

自分の仕事から自由になる話は突然相撲に飛ぶけれど、千代の富士は小さな大横綱だった。小さいのになぜあんなに強かったかというと、毎日、毎日、しっかり稽古を積んでいたから。とにかく稽古の虫だったという。毎日、毎日地道に勉強をしたり、稽古をしたりすることで、新しい自分に出会うことができる。さらに自分の仕事から自由になることができる。千代の富士が、手がつけられないほど強かったときは、おそらく相撲から自由になっていたはずだ。相撲から自由になっている人と相撲を取ったら絶対に勝てない。川上哲治が「ボールが止まって見えた」という逸話も、その瞬間、野球やバッティングから自由になっていたのだと思う。これを仕事に置き換えると、仕事から自由になるというのは、オプションがものすごく増えるということ。そうすると行き詰まらなくなる。いろいろなところから発想できるようになる。いつもうまくいくわけではないけれど、フッと自由になった瞬間にいいアイデアが生まれる。分散的に集中するとでもいうか。それはきっとブリコラージュをやっているときの自分とちょっと似ているかもしれない。アインシュタインが「人間の最高の価値ってなんだ?」と聞かれたときに、「自分からどれだけ自由になれるかだ」と答えていて、それに尽きると思います。人生にはいくつか選択のときがあるものだけれど、そのとき僕は必ず「自由なほう」を選んでやってきました。損得ではなくて。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P114~115)

『広告批評』という雑誌僕はそれほど『広告批評』マニアではなかった。むしろ距離を置いているほうだった。でも、広告少年、広告少女は、みんな『広告批評』に感化されて広告の世界に入ってきている。だから、功罪はもちろんあるけれど、どんなカテゴリーのものでも批評というものがなくなった瞬間に堕落する。批評家のいない時代はすごく不幸だ。実は天野祐吉さんが亡くなる一年前に、一番会っていたのは僕だった。天野さんはもう一回『広告批評』をやりたいと。そして、君なら全部渡すといわれた。重い言葉だった。だけど、自分は本業があるからとても無理だし、紙の雑誌を出し続けるのはビジネス的にも無理だと思った。加えて、天野さんのお弟子さんたちから嫉妬されるのもいやだった。そもそも僕は、天野さんを神様だと思っているような人間ではなかったし。だから実をいうと「何で僕にパスするのよ」という感じだった。広告は、大衆文化のなかのすぐれて前衛的な表現です。〝いま〟と切実な関係を保ちつづけることによって、広告は人びとの暮らしに対する想像力を切りひらき、しなやかに生きるための目を鍛えてきました。が、このところ、広告は本来の〝言葉〟を失ってしまったように思われます。人びとの関心や期待とは別のところで、空騒ぎや見せかけの前衛に走っているという声を、げんにあちこちで耳にするようになりました。年間一兆八千億円のお金が広告に使われていることを思うと、これはどう考えても、もったいない話です。広告が、大衆表現としての新しい〝言葉〟を獲得するには、何を、どうすればいいのか。そのことをいま、みんなが知恵を出し合って考えることが必要なのではないでしょうか。(『広告批評』0号〈1979年4月号〉創刊準備号巻頭言)

「ピッカピカの一年生」の失敗「ピッカピカの一年生」のCMは、素朴なかわいらしい方言をしゃべるかわいい子たちが出てくるCMということで世の中に定着し、ある時期から小学校入学時期のちょっと前に風物詩のように放送された。ただ、このCMの本質は、素朴なカボチャみたいな子どもたちのかわいらしさにあるのではない。当時二六、七歳だった僕は、フィルムを使って映画のように撮られていたCM作品に対し、この作品で初めて、当時、最新のテクノロジーであるビデオを使った。当時何人かいた先輩のスタークリエイターたちに挑戦したわけだ。シュンペーターの言葉でいえばクリエイティブディストラクション――創造的破壊である。実はこれが「ピッカピカの一年生」の本質なんだ。このCMが大ヒットし、いろいろなところから仕事が来るようになり、僕はこのCMの仕事を早めに後輩に渡した。われわれの世界でいうと、表現の「フレーム」ができあがっているので、誰がやっても同じような形のものになる。でも、後輩たちにこのCMの本質――創造的破壊――をきちんと伝えていなかったので、どんどん、子供たちがただかわいらしいだけのCMになってしまった。僕は子供が撮りたかったわけではなく、新しいテクノロジーであるビデオを使って世の中を驚かせたかった。さらに、すでにできあがっている先輩たちの美意識に対するアンチ美意識という思いをこの作品に込めていた。当時のCMはストーリーボードを作り、物語で伝えるものが中心。僕はビデオという新しいテクノロジーを存分に見せて、ニュースのような――ノンストーリーのニュース速報のようなCMにしたかった。二〇一八年にクリエイターズ殿堂入りしたのだけれど、選考理由に「CMを『ジャーナリズム』と言いきる無二の人でもある」と書かれている。「ピッカピカの一年生」はすごくジャーナリスティックな作品なんだ。昔から「困ったら3Bを使え」という格言がある。ベイビー=赤ちゃん、子供、ビューティー=美人、それからビースト=動物の頭文字を取って3B。かわいいもの、美しいものを使えば手堅い反応がある。僕にいわせれば、「ピッカピカの一年生」はそういうCMになってしまった。青年の、できあがっているものに対する怒りというと大げさだけれど、企画の根っこにあったアンチロマン、アンチストーリーは意識されず、ただかわいいものを撮ればいいんでしょ、となった。CM表現としてはパワーダウンしているし、平凡なものになったことは否めない。そのことにあるとき気がついたんだ。CMの意図や本質を伝えず、後輩たちにも悪いことをしたし、何より自分の企画に対しても悪いことをしたなと。代々受け継がれていくうちに、後輩たちは、あの作品が日本で初めてのビデオCMであることすら、知らないかもしれない。これは大きな失敗だった。ビデオを使った理由として、お金がなくても日本中を回っていけるというのもあるんだけど、先端テクノロジーはつくり方を変えてくれます。ありえないことをやらせてくれるんです。カメラマンも、ある程度意識的に、ニュース映像のカメラマンにお願いしました。だから最初、アート好きの人からはイヤなサイズ(フレーム切り)だと言われた。でも僕はニュース速報みたいにしたかったわけで全部ロジックがあるんです。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P91~9

「セブンイレブンいい気分」の失敗「セブンイレブンいい気分」は最初はラジオCMだった。当時の店舗数はまだ一〇店舗。のちに日本の経済界のスターになっていく鈴木敏文さんに呼ばれて「一〇店舗できたからラジオCMを作りたい」といわれたのがきっかけだ。そして、アメリカのラジオCMをテープで聞かせてもらった。そのジングルは「オー・サンキュー・ヘブン・フォー・セブンイレブン」と韻を踏んでいる。なので、日本のCMでも韻を踏もうと思い「セブンイレブンいい気分」となった。メロディーは「ピッカピカの一年生」同様、作曲家と二人で一晩で作った。話を戻すと、その後、指数関数的に店が増えていく中で、テレビCMも始まった。ジングルは同じ。実はテレビCMも最初の何本か作って、後輩に引き継いでいる。そのことを知った川崎徹というCMディレクターから「杉山さん、ああいう仕事は簡単に人に渡しちゃダメだよ。これからバンバン作って面白くなっていくんだから」といわれた。当時、他の仕事がガンガン来ていて、やりたい仕事もたくさんあったので、手放したんだけれど、彼がいうように「セブンイレブンいい気分」の世界を作り上げるという絶好のチャンスを自分から捨てたというのは確かだった。これも今から思えば失敗の一つだ。ただ、自分でいうのもなんだが、当時は仕事が追いつかないぐらいの売れっ子になっていた。テレビCMだけでなく、大瀧詠一さんの「NIAGARASONGBOOK」の映像ディレクターやテレビ東京の「サウンドブレイク」という音楽番組のディレクターをやったりもしていた。とにかくいろんな仕事を愉しみたかったんだ。当時、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」には六〇秒CMの枠があった。普通のテレビCMは一五秒なのでかなりの長編だ。六〇秒もあれば、相当面白いことができる。クライアントも限られていて、サントリー、資生堂、当時バリバリだったレナウン、パナソニックの前身の松下電器産業という大手ばかりだった。やはりクリエイターとして、花形のCMを手掛けたいという思いも強くあった。だから「セブンイレブンいい気分」を早々と手放したのだけれど、やはりもったいないことをしたなと思う。名声が欲しいというより、とにかくやりたいことがたくさんあった。特に自分が学生のときに見た、サントリーや資生堂のかっこいいCMを作ってみたかった。「ピッカピカ」の後は、テレビCMの仕事がどんどん来るようになり、その頃の大ヒットでいうと、アサヒビールのミニ樽ですかね。(中略)片方でそういうものをやりながら、『ゆく年くる年』の長もの(SEIKO)をずっとつくっていました。1年の最後のテレビCMと次の年の最初のテレビCMをつくっていて、全部1分ものだから、それは幸せな仕事だった。(中略)ミニ樽などのあとが「ランボー」(サントリーローヤル/1983年)。当時、サントリーローヤルは五千円台の特別に高いウイスキーで、酒屋さんでは売れないからいつも奥にしまわれていたんです。それで、刺激的なモノをつくって、とにかく店頭に出してほしいというのが、サントリーからの依頼でした。(杉山恒太郎著『僕と広告』グーテンベルクオーケストラ、P92~93、一部改変)

匿名の仕事一九八五年に大ヒットした小林旭の「熱き心に」は、AGF「マキシム」インスタントコーヒーのCMソングだ。歌は大ヒットしたけれど、商品があまり売れなかったという意味で失敗だった。今でもクライアントには申し訳ないと思っている。当時、インスタントコーヒー市場はネスカフェが圧倒的に強かった。「違いがわかる男」というコピーも人口に膾炙していた。小林旭は小さい頃から憧れていた人で、作曲してくれた大瀧詠一さんも、何かの対談で小林旭が好きだといっていた。大瀧さんはめったにCMソングは受けないけれど、「NIAGARASONGBOOK」で僕と信頼関係ができていたし、小林旭なら喜んで受けてもらえると思っていた。作詞は大瀧さんの希望で阿久悠さんにお願いした。で、あの曲ができて大いに話題になって、シングルレコードもよく売れたのだけれど、肝心の商品は思うように動かなかった。今だったらもっと売れる仕組みを考えたのだけれど、CMを当てたいというクライアントの希望もあり、そこで満足してしまったのかもしれない。しかも、このCMは、僕が匿名で受けた仕事だった。営業に依頼されたのだけれど、競合他社のCMも担当していたので、名前を隠して受けたのだと思う。前にも書いたけれど、自分の名前が出るより、とにかく面白い仕事をやりたいという気持ちがあった。また、とにかく当時は仕事の依頼が引っ切りなしだったこともある。だからいくつも匿名で仕事をしていた。パルコの広告は’80年代に一世を風靡したじゃないですか。僕は大きい会社にいたから、なかなかそういう仕事がまわってこなかったんですよ。「やってくれ」って話が間接的に来ても、会社としては受けられないでしょう。だからといってアルバイトでやるわけにもいかない。それで、お金がもらえなくても参加してたいって気持ちがあったから、無償でペンネームを使って引き受けた。パルコの広告の歴史を見ると、すごい変な名前の人間がいる。それは大体僕なんです。(『週刊SPA!』2016年8月30日号、P126)ただ、匿名の仕事はどこかダメなんだ。精神的に調子が悪くなったり、結果もあまり良くなかったりする。何かスッキリしないというか、その時期からスランプに陥った気がする。これは失敗であり、苦い思い出でもある。もちろん商品が売れなかったことも含めてだ。広告は元々が匿名の仕事で、それが広告の良さだと僕は思っていた。表現者でありながら匿名でいられる。それでいて、影響力が強いことができる。ただ、当時はCMディレクターに注目が集まり、コピーライターブームもあった。業界紙なんかでも自分の名前がだんだん出るようになった。それなのに自分の名前を出さずに仕事をすることが、精神衛生上、良くなかったのかもしれない。名前を出して仕事をしていたら、一〇〇%自分で責任を持つが、匿名であることで中途半端になっていたのだろう。責任感がないから自分の仕事という感じもしなかった。結果的にその3年間はスランプが続いた。そんなふうになるとは思ってもいなかったので、自分でも不思議だった。

テクニックはあるけどスキルが足りない「日本人はテクニックはあるけど、スキルが足りない」元ラグビー日本代表監督のエディー・ジョーンズがいっていた。ビジネスに置き換えると、テクニックとはマニュアル化できるものだろう。営業のマニュアルやマーケティングのマニュアルなど、正解があるものだ。正解がきちんとあるから、練習すれば基本的に誰でもできるようになる。一方、スキルというのは状況判断なので教えられない。でも、間違いなくスキルがある人とない人がいる。それはかなり全人格的なものだ。ビジネスでいえば、資料を集めて分析を行い、一番可能性が高いもので「これでいけ!」というのがデシジョンになる。一方、状況に応じて、自分の責任で「これでいこう!」「これをやってみよう!」というのはジャッジメントだ。テクニックにはデシジョンがあるけれど、スキルにはデシジョンがなく、その場その場のジャッジメントの積み重ねとなる。ジャッジメントには、判断力や勘が欠かせない。また、勘を裏付ける日々の努力も必要だ。スキルとテクニックは別ものではなく、スキルを身につけるためには、繰り返しのテクニックの練習が不可欠だ。これは教養を身につけることにもつながるだろう。また、全体を俯瞰する目も求められる。別の言い方をすると、ゲームの流れを読む目となるだろうか。スキルがあると。思いもかけないところ、あり得ないところにパスを出すこともできる。しかし、相手にスキルがないと、うまく受け取ることができない。エディーが「日本人はテクニックはあるけど、スキルが足りない」といったのは、日本人の多くが、答えのないことに対してすごく戸惑い、ときにパニックに陥ることを指しているのだろう。僕自身に仕事のスキルがあるとするなら、やや牽強付会だが、高校までやっていたサッカーの影響が大きい。10番を付けて司令塔の役割を担っていた。それによって、全体を俯瞰する目を持てたのだろう。今でも一つの仕事をサッカーの試合に置き換えて考えることが多い。広告の仕事はチームで取り組むから、今調子がいいのは誰かということを見分ける必要がある。誰でも好不調の波はあるから、好調な人間にボールを集めたい。よく「短期決戦はラッキーボーイを見つけろ」というが、とても大事なスキルだと思う。広告の仕事に寄せていうなら、あいつの書いているコピーは今、時代に合っている、といったことになるだろうか。僕が仕事を受けるときは、ゴールのイメージはだいたい見えている。そこから逆算して、誰と誰というようにメンバーを決めていく。そこが楽しい。ラグビー絡みでいうと、故・平尾誠二は「日本人は実はチームプレーが苦手だ」といっていて、僕もその通りだと思う。一般的には、日本人はチームプレーが得意だと思われているけれど、それは単に監督のいうことを守ってプレーしているだけだったり、自分を殺してチームのために尽くしたりしているだけで、それはチームプレーとはいわない。先ほどのスキルの話にもつながるけれど、味方がびっくりするような動きをしたときに、どれだけ早くチームメートがそれに対応できるか、良しとして受け止めて次のプレーに移れるかどうかなんだ。それを「ルール違反するな」とか「打ち合わせと違うじゃないか」といった瞬間にチームプレーは崩壊する。ビジネスにおいても、思いもかけないことが起きてほしいと常に思っている。予定調和だと面白くないし、それはクライアントも同じはずだ。

若い人に口出ししたくなることもあるあまりこういうことをいうのはよろしくないのだが、若い人を見ていると口を出したくなることが多々ある。実際にそれをやると、よくいるいやな先輩になるのでぐっと堪えている。こう思うこと自体が老化の証なのかもしれないが……。たとえば映像の編集に関して、下手くそだな、細部の詰めが甘いなと思うことがある。われわれの先輩が、フィルムの一コマ、一コマを見ながら、どれだけ命懸けで編集していたか。ただ、素人っぽくていやだなと思っても、もしかするとそれは新しい人たちの新しいセンスであり、僕が口出しすると、また八〇年代に戻っちゃうのかもしれない。だから、言葉が口から出かけても、相手に聞かれるまで待つようにしている。「これ、どうですかね?」と質問されて、かつ話しても大丈夫そうだったら、「そこのカットはもうちょっとこうしたほうがいいと思うけどな」くらいのことはいう。本音では「おまえらダメだ!おまえら素人だ!」といいたくなるときもある(笑)。ノスタルジーかもしれないけれど、昔は確かにレベルが高かった。ただ、当時、広告代理店に来るような尖った人たちは、今だともっと注目度の高い、お金も稼げる別の業界に行っているのだろう。昔は皆、時代を動かすという夢を持って広告の世界に飛び込んできていた。いつもキリキリしていて緊張感があった。クライアントも超プロだった。広告をすごく大切にしていて、宣伝部長から現場の担当者まで一家言持っていた。本を読み、映画を観て、音楽もよく聴いていた。それに太刀打ちできるくらい自分の感性を磨く必要もある(感性という言葉は好きではないが)。そうしないと、トップレベルの人たちに相手にされない。お互いそれだけプライドを持っていた。「そんなのおまえ、普通、学生のときに読んでるぞ」みたいな恐ろしい世界だった(笑)。いかにも昭和のおじさんぽいことを書いてしまったが、若い人たちには大いに期待している。というのも、ここまで再三申し上げてきたように、広告は変わらなくては生き残れないからだ。僕は基本、大量生産・大量消費のエンジンとしての広告の世界で闘ってきた人間だ。右肩上がりの競争社会の中でいかに生き抜くかばかりを考えてきた。それは確かに一定の成果を上げたが、前時代の考え方であり、仕事のやり方だ。広告が公告になる世界で、それは通用しない。社会に貢献したいというマインドをアプリオリに持つ若い世代こそ、この仕事は相応しい。彼らをサポートするために、僕は自分の持つノウハウや人脈を、隠すことなく注ぎ込むつもりだ。

 

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