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第2章省みて自らの道を正す

内省とは、深く自己をかえりみること。────『広辞苑』より

目次

理想と現実の差を明らかにする

僕は省みることで自分の甘さを見つけてきた。自分で自分を見つめることが必要だった。甘やかせばどこまでも甘やかすことができてしまったから。

「厳しい目」を持って、自らを省みることを意識してきた。「厳しい目」とは、ネガティブに捉えることではない。

こうなりたいという理想の姿と、いまの自分のあるがままの姿を見て、そのギャップをハッキリとさせることだ。そのギャップを自分に突きつけることだ。

自分の心に隙があると、ギャップに甘くなったり、逆に悲観的になったりする。省みることで、自分のなかから生まれてくる言い訳をつかまえていく。それは自分のなかにある甘えの証拠だから。

言い訳を乗り越えることで、毎日は変わってきた。さまざまな歴史書を紐解けば、「甘えや欲が身を滅ぼす」と記されていた。

僕は他人事に思えず、ゾッとする。甘えで身を滅ぼしかねない。僕の人生の至るところへ侵蝕している甘さに足下をすくわれかねない。

僕にとって省みることは、自分の隠れた甘さを見つけることだ。そうすることで、先々の不安や、失敗を予防することができた。落ち着かない気持ちのまま、日々を過ごしていたくない。そんなことでは生活を雑にしてしまうからだ。

心のなかがざわざわと波立っていると、目の前のことがおろそかになる。小さなミスをしやすくなる。目立たないようなミスが、やがて大きなトラブルへとつながる。

夜の池が、月をあるがままに照らし出すように、現実の自分の姿をハッキリと浮かび上がらせたい。目指しているのはここだ。忙しくなったり、心が乱れたときは、心の整理整頓のために省みる。

とにかく、思い浮かぶ言葉を単語でも、絵でも何でもいいので、吐き出す。書き出す。すると、とってもスッキリして、これから取り組むことに集中できる。

ただ心のなかを書き出すだけでも効果的だが、振り返るテーマを決めておくと、振り返ることがスムーズになる。

失敗は予防できる

立ちどまり、省みて、変えようと腹をくくる。それができれば終わったも同然だった。立ちどまって、自分について考えてみる。それは僕にとって欠かすことができない小さな習慣だ。

  • 「いま何が起きているのか」
  • 「いま自分は何を経験しているのか」
  • 「いま自分は何を感じているのか」
  • 「自分はどうしたいと思っているのか」
  • 「何が気に入らないのか」
  • 「何が納得していないのか」

そうしたことを振り返らずに、ただ目の前のことを行っていると、僕はどんどん不安になる。どれだけ順調でも、現在のことだけに反応していると、未来がないからだ。

これまでも目の前のことに追われていて、肝心な未来のための準備や種まきができていなかったということが何度もあった。

やっている気になっていても、振り返ってみたら、何もしていなかった。無難に過ごしてしまうと、気づかぬうちに徐々に悪化する。そのたび、僕は軌道修正することに、とても苦労をした。

種を撒いていなかったことを、収穫期に後悔しても遅かった。冬には寒さと飢えに苦しむことになる。

だから、苦境に陥ることを避けるため、そして、新しいチャンスに敏感になるために、コツコツと点検をし、未来につながる種を撒く。

正しいと思っていることを疑ってみる

偶然の成功を実力だと思い込んだとき、必ず失敗した。自分が「よい」「正しい」と思っていることをやっているのに、うまくいかず壁にぶつかる。

これまで何度も起きたことだ。以前は正しいと思ったことが、これからは正しくなくなったのだ。

僕がもっとも気をつけてきたことがある。

何かがうまくいったとき、本当は「ただの偶然」だったにもかかわらず、「これが正しいやり方・考え方だ」と思ってしまうことだ。

偶然を自分の実力だと思い、偶然の成功に、浮かれてしまうことは恐ろしい。ただ、前に進むためには疑ってばかりだと何もできない。

「これが正しいことだ」というわずかな確信を頼るしかない。しかし、間違っていることも多い。間違うと壁にぶつかる。

「成長するためには、壁にぶつかる」とさまざまな本や人に教えてもらったから、頭ではわかっていた。

一方で、なるべくなら、壁にはぶつからないまま進んでいきたいなとまだ淡い希望を持っている自分は弱かった。

正しいことをやっているのに、うまくいかないときは、正しいと思っていることにこそ間違いがある。失敗がやってくる。うまくいかず悩む。

僕は、うまくいかないときは、あえて悩まないようにした。うまくいっていないことを見ないようにしたというのが正しいかもしれない。

自分は正しいことをやっていると思っているのに、うまくいかないとき、思い通りにならないとき、苦しくなった。

思っていることと現実が違っているからだ。「正しい」と、自分が思っていたことを変えるのは時間がかかる。自分を支えている数少ない「正しさ」が間違っているかもしれないと認めるのはつらい。

でも、それを変えられないうちは、間違いがずっと続く。正しさを手離し、空っぽの自分を受け入れられるか。これは一つの試練だ、といつも感じていた。

なんとなく行動を起こしているうちは、壁にぶつかり続ける。これを僕は起業1年目で学んだ。

なんとなく行動をして、反省も、改善も得られないまま、行き詰まってしまったのだ。この態度を絶対に改めなければならないと思った。

なんとなくやると、うまくいっても、うまくいかなくても、何も残らない。ビクビクしながらやっても、やっただけで終わってしまう。だから、必ずどうしたいのかという狙いを持った。

自分は何が正しいと思うのか、という仮説を持って行動を起こすようにした。もっともこれは、会社員の人には、普通のことなのかもしれない。

何かの仕事をするときに、「なぜ、それをするのか」を確認してくれる上司や仲間がいるのではないだろうか。

会社勤めをしたことがない僕は独りだったから、自分で自分に問うしかなかった。自分の思考を、自分で批判するしかなかった。自分が自分の上司になるしかなかった。

「何をやろうとしているのか?なぜうまくいくと思っているのか?うまくいかない理由があるとしたら何か?」こうしたことを考えなければ、取り組む前に不安や心配がやってくる。

ぼーっと行動してもダメだった。

「自分が正しいと思っていることは、ここでは正しくないのかもしれない」と自分で認める。

自分のなかの「正しさ」を壊し、いま目の前で起きていることに必要な思考へ変えていった。それができなければ、現実から取り残されるだけだった。

そういう状況になって自分のこだわりを手放すことができた。

正しさにこだわるのは、一種の甘えにすぎなかった。

「あなたが正しいと思っていることは間違っている」と直接的には、どれだけ親しい友人も指摘してくれない。

日々起きる出来事も、「あなたが自分を正しいと思っているうちは、この問題はなくなりません」と語ってくれるわけではない。

どんな書物を読んでも、具体的に自分の考え方の間違いを指摘してくれるものはない。自分が格闘していくなかで、見つけていくしかない。僕はそういうふうに自分を高めていく上で、それがもっとも早いし、力もつくと思っている。

飢え渇くほどの渇望

自分を甘やかしながら成功しようとした。大失敗だった。僕が求めているのは力だった。それは、人を支配する力とか、人を言い負かす力とか、権力とか、お金とかではない。

自分の甘さを常に乗り越えられる力だし、自分の奥底に秘めている可能性を発揮する力だ。自分の弱さと甘えに勝つ力が欲しかった。

僕の頭の記憶のなかには、いくつもの自分を甘やかしてはならない、という教えが入っている。

お手本としての教えもあれば、教訓としての失敗談もある。僕の両親は自分に厳しくすることを教えてくれた。祖父母は優しさを教えてくれた。

うまくいかなかったときにヘラヘラしていたり、中途半端に投げ出すと、母は泣いて僕を叱った。

素直になれず祖父母の部屋へ行くと、二人は黙って一緒にテレビを見てくれた。心が落ち着くと、母親のもとへ行き、「もうしません」と頭を下げて謝った。

父は、僕が少年野球の試合に負けて言い訳をしたとき、「言い訳をするな!」と怒鳴ってくれた。両親には敵わないと子ども心に強く思った。僕の一つの原点だと思う。

また、アメリカに渡ったときは、「成功者の共通点はハングリーなところだ」と教わった。

満たされることばかりを望んでいた僕にとって、逆に飢える、渇望することが成功している人たちの共通点と聞いて衝撃を受けた。

日本の歴史の人物を勉強しているときには、「自分を成長させようと思ったら最大の敵は自分を甘やかす心」と書かれていた。

これもまた痛いところを突かれた。なるべく自分を甘やかしながら生きていけないかと考えていたからだ。

そして、そんな自分を甘やかして、そこそこで満たされようとしていたから、ずっと悶々と苦しんでいたんだと気づいたのだ。

僕は失敗しなければ、勘違いをしたままだった。怒られなければ、気づけなかった。教えてもらわなければ、考えもしなかった。書を読まなければ、省みることもしなかった。

何もなければ甘えたままの人間だった。だから、書を読み、人の話を聴き、失敗をし、それらをヒントに自分の至らないところを直そうと取り組んだ。

自問自答が覚悟と勇気を生む

僕は何かを目指すプロセスのなかで、成長した。置かれている状況を変えようとするときに、敵になるのは、自分のなかの慢心と飽きの心が生まれることだ。

慢心は、「もういいんじゃないか、そんなに僕は悪くないよ」と、現状を肯定することにとつながる。

現状に満足してしまえば、途端に自分を突き動かすドライブ(原動力)が弱くなる。それでは挑戦する力が下がってしまうのだ。

また、現状に甘んじて、長時間、同じレベルの仕事を続けていると、そこに飽きが生まれやすかった。

新鮮な気持ちを失うと、周りのことに鈍感になっていく。飽きることも慢心も、自分に課している基準の低さが問題だった。自分自身に高いレベルを求めなくなっていることが原因だった。

今よりも高い基準を目指すと、手探り状態になることも多い。

「これ、どうやったらいいんだろう?」「どうしたら、この問題を越えられる?」「どうしたら、もっと喜んでもらえる?」一見停滞しているように見える期間こそ、あとから振り返れば、もっとも成長につながった。

あがいて、もがいて、這いつくばって、とにかくやり切ることだ。

最後までやればうまくいこうがうまくいくまいが、いくつもの成長課題を持って帰ることができる。

僕が途中でやめてしまったときは、言い訳をしたり、やめたことを正当化した。それで成長できるわけがない。

自分を変えたくて何かを目指すとき、自分の力が100だとしたら、120、150の目標を目指すようにしてきた。実力以上のものだ。常に難しいものを目指した。

難しいことにぶつかれば、「はたして、うまくいくのだろうか?」と不安が頭をよぎる。

しかし、そこに目的や理由がしっかりとあれば、「うまくいくかどうかじゃない。うまくいかせるんだ!」と決意をすることができた。

方法よりも理由の強さが僕を突き動かした。

ダラダラしてしまいそうな時は、「すぐに取り組まないと間に合わないものを目指す」そうすることで、僕はすぐに行動に移すようになった。

それでも間に合わないことが何度もあった。情けない気持ちになるけれど、そうするなかで自分の現在地を正しく知ることができた。

僕は何かを目指すなかで、いつも成長させてもらった。

実力よりも高いレベルを目指すから、うまくいかないことがすぐに起きる。

現状のレールから外れるから、フラストレーションがたまる。全力のスピードより、早いスピードで走ろうとするから、足がもつれて転ぶ。

難しい問題を解こうとするから、時間が多くかかる。そんなことは、目標を立てたときからわかっていた。

でも自分のハードルを上げて、それらを乗り越えるために、あえて「失敗をする覚悟」を持って、目標を立てるのだ。

やり切ったときは、大げさでなく何年分もの成長を得られた。こうしたことを意識することで、僕は壁にぶつかっても諦めにくくなった。

でも同時に、「失敗する覚悟」だなんて言っているから僕は遅いんだ、とも思う。

僕の何倍ものスピードで走っている人たちは、失敗することさえ気にしていないように見える。もっともっとスピードを上げられるはずだ。

静かな心の状態を取り戻す

目の前のことに取り組む真剣さと、全体を見ることの2つを両立させようとした。振り返りは僕の状態を測るバロメーターだ。

精神的にいっぱいいっぱいだと、立ちどまる余裕がない。振り返ろうとしても、自分の心がざわざわしてしまっていると、何も思い浮かばない。

こういうときは、どれだけ短期的には大丈夫に見えても、早く手を打たなければならない、というサインだ。

静かな心の状態を失っているのだから、中長期的に見れば必ず行き詰まる。目の前のことに真剣に取り組むのは、絶対に大事にしたい。

しかし、全体を見失ってしまっているのでは、危うい。真剣勝負の世界は、絶対に相手に負けまいとする。そのため、何手でも先を読む。

目の前の一つひとつの動き以上に、お互いの想像のなかでは、何百何千ものやりとりが行われている。それがプロだと思う。

何も考えずに、気分と雰囲気で、動いていたら、プロの土俵にすら上がれない。僕は自分が本気で勝負したいと思っている領域のなかでは、徹底的に考え抜きたかった。

だから、立ちどまり、振り返り、よかったこと、できなかったことを反省してきた。そして、見通しを改めて立てる。

ふと心を静めてみれば、なんと余分なことをやっていることか!なんとやるべきことをやっていないことか!これが見えたとき、余分なことをやめて、新しいなすべきことに取り組むことができた。

僕は焦ると、すぐに手っ取り早く手がつけられそうなところに向かってしまう。目につくものばかりに気がとられる。そんなときは、必ずうまくいかなかった。

だから、焦ったときは思いっきり自分にブレーキをかけて、何かに手をつけたい衝動を抑えた。

そして、自分が考えていることを書き出してみる。安易な発想だと気づく。誰でも考えそうな平凡なアイデアに飛びつきそうになっていたと反省する。

立ちどまったあと、どう考えるかが大事だ。僕はそのために、いつも見えるところに「こういうふうに考えたい」という書籍を置いてきたし、「これを大事にして行動したい」という言葉・フレーズを書き出してきた。

それが考えるときの拠りどころになった。自分の思考の一部分になった。

借りものの言葉で語らない

見聞きした言葉を自分の言葉だと思っているうちは、何も変わらなかった。省みて、振り返りをするときは、紙に書き出す。すると、よりハッキリと自分の考えていることがわかった。

ただ、僕はすごく注意してきたことがある。紙に出てくる言葉が、自分の見聞きしたものになってしまうことだった。

どこかで読んだり聞いたりした言葉を使ってしまうと、省みることはただの作業になってしまった。

本音から出てくる言葉ではないからだった。言葉を扱う僕が、もっとも気をつけていることがこれだ。

以前、一日を振り返るとき、「今日はベストを尽くせなかった」と書いた。ベストを尽くす……というフレーズはよくある。

だから、この言いまわしをなんとなく使うと、それは僕の言葉ではなくなる。どこかで聞いたフレーズを使っているだけだ。

借りてきたフレーズではなく、本音の言葉に気づかないかぎり、僕は変わることができない。

何度も問う。

「ベストを尽くせなかったというとき、僕は本当は何を言いたいのか?本当は僕はどう思っているのか?」自分の思いを外に出す訓練をしなければ、腹のなかにある本音に到達しない。

自分がどう思っているかを、感覚を気にせず言葉にしては、振り返りにならない。僕は自分を振り返っているうちに、自分の心のなかに、ある抑えがたい獣のような狂気がいることを知った。

自分のなかにある衝動は、何かに全力でぶつかろうとしていた。僕はその飢え渇いた何かに突き動かされ、自らを前進させていった。自分のその衝動を封じ込めようとして苦しんだ日々もあった。

衝動を抑えようと、いい子になろうとすると、自分のなかの本能的な何かがなくなってしまう。動けなくなる。

逆に、衝動に走ると、自分のなかの暗い闇に飲み込まれていく。そこでは自分がコントロールできなくなり、暴走してしまいそうだった。

狂気の中には、闇と同時に情熱もあった。自分の奥底へ入るほど、熱いマグマに出会えた。むき出しの熱意を手に入れることができた。そこに言葉があった。

感情むき出しの言葉があった。どこかで聞いた言葉を使うとき、僕はその奥底の思いを表現することはできなかった。

本音ではないものになってしまった。誰かが考えた言いまわしは、美しく飾られている。それは僕の心の声から僕を遠ざけてしまう。

だいぶ手をつけてこなかった僕の本音のなかにある言葉は、ひどく散らかっていた。醜さも感じた。

それでも、自分が自分の持っている力を出すため、強く求めることのためには、自分の言葉で振り返りをしなければならない。

本当に自分の言いたいことはこれなのか?と、感覚に敏感になっていかなければならない。自分の言葉に出会ったとき、僕はとてつもないパワーがあふれてきた。

ただ単に自分のなかの狂気をむき出しにしては、野獣と同じになってしまう。僕は20歳の頃、そのことにとても怯えていた。振り返ることを知らなかった。

自分の欲や衝動を抑えることで、不安定になっていた。解き放つわけにはいかない。だけど、押さえ込んでおくこともできない。

エネルギーがうまく使えなかった。

その状態でどれだけ、夢を描いて、目標を立てても、そこにいくまでに、エネルギーがどんどん漏れていってしまったし、すぐに関係のないことに行動が反れてしまっていた。

成功する方法を学んでも、ヨガの瞑想を学んでも、この熱いものをどこにぶつけたらいいのかわからなかった。

そんなとき、僕より遥かに強力な狂気を内に抱えていた何人もの偉人たちを知った。彼らは狂気を、何かを生み出すエネルギーに変えていた。

そうした人たちの言葉を学ぶことで、自分の全力をどこに向けて発したらいいのかを知った。救いを見つけたと思った。

本気の言葉を発見する

本気:‥いいかげんでなく、真剣でひたむきな気持ち─『角川必携国語辞典』より

『覚悟の磨き方』は、吉田松陰のなかにある狂気が、僕のなかにある狂気をひっぱりだしてくれたからできた本だった。

その後さまざまな超訳のお話をいただいた。

仏教、偉人の言葉、アドラー、佐藤一斎、そして西郷隆盛。どれだけやりたいと思っても、ペンが途中で止まってしまった。なぜできないのかがわからなかった。

お話をいただいたときは、好きな人や好きな本だし、自分が大切にしている言葉もあったから、ぜひやりたいと思った。

けれども、思うように書くことができなかった。僕の書く力が不足していたのだろう。

それは、僕が、偉人の内面にある狂気にまで深く到達していなかったからだとも思う。

僕はいろいろなものに影響を受けやすかった。人や本や出来事。それは素直とも言えるし、自分がないとも言える。

だから、影響を受けた人の言葉や本の引用をすぐに使おうとしてしまった。

読んだばかり、聞いたばかりのときは、それも楽しいのだけれど、仮の言葉であることを忘れると、言葉ばかりが一人歩きして、呼応した自分の本音がなんだかわからなくなってしまった。

だからいまは、「いい言葉」は仮の言葉であると強く戒めている。

とくに、書いたり、話したりすることを続けていると、気づかないうちに人の言葉が多くなる。

なるべくそれを使わないように心がけているが、それが難しい……。誰かの言葉を使いたくなったり、本音ではない言葉を使いたくなる。

着飾る自分自身に抵抗し、格闘していくなかで、本当の自分に近づくことができる。

自分の言葉をさらけ出すこと。

それはいつも行うことは難しいが、一人で日記に向かってでもいいから、毎日それをやらなければならない。

自分で書き、話してわかったのは、自分の言葉は、使うとパワーが上がるということだった。

何か一つのよい言葉を百遍唱えるより、たった一つの自分の言葉を発見するほうが、強い力を呼び覚ました。

でもそのためには、自分に誠実でなければならなかった。自分の思いに対して誠実でなければならなかった。

思っていることと言葉にされたもののあいだに、どうしてもギャップを感じてしまう。そのもどかしさが、飢えを生み、発見につながるのだ。

ある人の言葉が心を打つのは、その言葉の使い方が美しいからではなく、その人の誠実な思いが表れているからだと思う。

僕は自分のなかにあるものが何なのかをハッキリと外に出していきたいし、自分の思っていることに誠実でありたい。

これまでいくつもの不誠実さと怠惰のせいで、迷惑をかけ、人を傷つけ、自分のことも嫌いになってきた。後悔もたくさんした。だからといって無難に過ごすという道はなかった。

後悔をしたくないから、自分の奥底にある後悔しない思い・言葉へ手探りで近づいていきたい。

僕の人生に力をくれたのは、心の奥底から本音を発してくれた人たちだから。

誠を尽くせ

誠:‥いつわりのない、ほんとうのこと──『角川必携国語辞典』より

僕の机の上には吉田松陰の像がある。それを見ていると、自然と自分のなかの自問自答が始まっていく。

「僕は本気で生きているだろうか」「松陰先生だったらどうするだろうか」「僕は覚悟を持って生きているだろうか」

松陰先生は自らの命を捨て、日本を変えるために、自分の信じる生き方を貫いた人。尊敬する人を心に描くと、自分の内面が明るみにさらされる。

東京・世田谷には松陰先生が祀られている松陰神社がある。松陰神社へ行くときは、向かおうと思うときから、自分への問いが始まる。

「自分はどれだけやっているのか?本当に正しいことをしているのか?」そして、松陰神社の前に来る頃には、自分自身が松陰先生の生き方と自分の生き方を比較しつづけた結果から、とてつもなく疲れてしまっている。

恥ずかしくなり、鳥居をくぐることがためらわれる。

「見たからいいじゃないか。もう帰ろう」という声が出てくる。

それと同時に、「自分の生き方をもっと明るみにさらけ出さなければならない」という決意が出てくる。

松陰先生は終始「至誠」というものを大事にした。

「私心をなくして、誠を尽くせば、道が開ける」自分自身は誠、誠意を持って生きてきたのかと問うていくと、どんどん足取りが重くなる。

僕にとっての憧れの人に近づくことは、楽しいことではない。日常を忘れるためではなく、日常を省みるために行く。自分の心のなかで、師と仰いでいる人の前に出ていくというのは、本当に大変なことだ。

自分の生き方が猛烈に恥ずかしくなってくる。汚く醜くしたまま放置していた部分に直面させられる。一歩一歩、踏みしみて鳥居をくぐり、反省する。

そして、一つひとつ、今日からはどうしていくかの対処を決めていく。

松陰先生のお墓の前へ着く頃には、自分のなかで、ただただ未来への決意にあふれるようになる。勇気と覚悟を持って生きていこう、という気持ちになれる。

5分、10分と手を合わせ、目を閉じ、松陰先生の前で一つひとつを決意していく。それが僕の心の奥底を省みさせる。

松陰先生の生き様を知ったとき、僕はこの人についていきたいと思った。この人がかなえられなかった想いを、引き継いでいきたいと思った。それが僕の志になった。

松陰先生が26歳のとき、下田に来航していたペリーの黒船に乗り込み、海外へ密航しようとした。列強の侵略から日本を守る。

そのためにはたとえ死罪になろうとも、海外に渡り、文明の技術を学ばなければならない。死の覚悟で行動を起こしたが、企ては失敗した。捕まったとき次の言葉をのこした。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

僕のなかで絶え間なくこだましている言葉だ。その思いの強さと覚悟を思い出す。松陰先生は、自分は私心ではなく、誠の心で動いていると言っていた。

それこそ、僕に足りないものだと痛烈に反省させられた。憧れという気持ちは、それが真剣であればあるほど、その人自身になりたいという欲求になる。

憧れが強まるほど、思考も好みも、その人に支配されるようになっていく。

松陰先生になりたいという憧れはあっても、誰かからそう言われたい、認められたいという欲は一切ない。

ただ、松陰先生の志を継いでいきたいと思うだけだ。すると、自分自身の姿もハッキリと見えてくる。

欲を持つと目はくらむ。思考は鈍る。僕は欲深くなりやすいから、そこに気をつけなければならない。

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