まえがきマーティ・ケイガンシリコンバレー・プロダクト・グループ創業者(www.svpg.com)パフォーマンスは結果で測る。ヒューレット・パッカード(HP)の黄金期に同社のエンジニアとしてキャリアをスタートできたのは、私にとってきわめて幸運だった。HP社が、「業界で最も長きにわたり、イノベーションを起こし、実行力を発揮しつづけている例」として、その名をとどろかせていた時代だ。そこで私は、当時HP社が社内で実施していたエンジニア管理の研修プログラム「HPWay」の一環として、MBO(ManagementbyObjectives、目標による管理)という手法を教わった。MBOのコンセプトはシンプルで、2つの基本原則に基づいている。ひとつめは、ジョージ・パットン将軍の名言を借りると簡潔に表現できる。「伝えるべきは、〝どうやるか〟ではない。〝何を求めているか〟だ。そうすれば、思いがけない成果を得られるだろう」2つめは、当時のHP社の標語そのものだ。「パフォーマンスは結果で測る(WhenPerformanceIsMeasuredByResults)」つまり、どんな機能を盛り込んだところで、その背後にあるビジネス上の問題を解決できないのなら、なにひとつ解決していないのと同じ、ということだ。第一の原則は、みんなのモチベーションを高めて最高の仕事をしてもらう方法、第二の原則は、有意義な形で進捗を測る方法と言える。私がHP社にいた頃とはさまざまなことが変わった。テクノロジーは劇的に進歩し、エンジニアが構築するシステムのスケールと適用範囲はケタ違いに大きくなった。チームが動くスピードは大幅にアップし、品質とパフォーマンスも劇的に向上した。そして、なにもかも、はるかに低コストで実現できるようになった。しかし、先ほど挙げた2つのパフォーマンス管理の原則は、今でも優れた企業やチームの運営基盤として利用されている。これまでの長い年月をかけて、さまざまな企業がMBOシステムに改良を加えてきた。特にめざましい役割を果たしたのがインテルだ。そういった過程をへて、今私たちが使っているパフォーマンス管理システムを、OKR(ObjectivesandKeyResults、目標と主な結果)という。ただ残念なことに、昔も今も、ほとんどのチームがこの原則にきちんと従っていない。経営幹部もその他の利害関係者も、四半期ごとに機能やプロジェクトの〝ロードマップ〟を考え出しては、トップダウン方式でプロダクト・チームに伝えるばかり。背後にあるビジネス上の問題の解決方法を教えてしまう。チームはただ詳細を詰め、コーディングとテストしかしない。つまり、背景をほとんど理解しないまま、それが本当に正しい解決策なのかどうかもよくわからないままに仕事をすることになる。現代のチームのほとんどは〝機能の工場〟になっていて、その機能が実際に根本的な問題を解決するのかどうかを考えていない。進捗は、結果ではなく生産量で評価される。本書のねらいは、すべての人や組織がトップクラスと同じような運営をできるよう、手助けすることだ。ここで紹介するOKRという手法は、6万人の従業員を抱える大企業から、社員わずか3人のスタートアップまで、さまざまな企業で採用され、見事に結果を出してきている。規模にかかわらず、優秀な人材の採用に心血を注いでいる組織なら、このシステムが社員のポテンシャルを解き放つのに大いに役立つだろう。
目次まえがきイントロダクション第1部実行家の物語創業の半年前……CEOのハンナ、上客をもう1社見つけてくるハンナ、ピボットを提案するエンジェルのジムに相談するOKRを知るチームにピボットを宣言ハンナ、テイスティングに参加してキレる大事なのは品質か、売り上げか数字について話すCEOへの不信感悪い知らせ再度エンジェルにアドバイスをもらうエンジニアをクビにする?契約打ち切りを伝える時間切れさんたんたる結果ハンナとジャック、CTO候補に会うOKRをやり直す目標に近づいた1カ月後の金曜日めでたし、めでたし?6カ月後、重要項目を達成1年後第2部OKRのフレームワークなぜ、やり遂げることができないのかプロダクト・チームのOKROKRの実行を習慣にするOKR設定ミーティングを開催する方法会社の目標をサービス部門のOKRと結びつけるOKRのスケジュールMVPのためのOKROKRで毎週の状況報告メールを改善するよくあるOKRの失敗例OKRと年間レビューOKR活用のヒントあとがきと謝辞解説及川卓也付録デザイン思考を使ったOKR設定ミーティングの進め方
イントロダクション本を出した経験のある作家なら、誰もがうんざりしていることだろう。つかつかと歩み寄ってきて、「アイデアがある」と言ってくる人たちに。なんでも、ものすごいアイデアだという。本当にすばらしいから、あなたも実現にひと役買っていただけませんか、というわけだ。提案はいつも同じ。その人がアイデアを伝授し(難しい部分)、あなたがアイデアを文字に起こして小説にし(やさしい部分)、あがりは折半でどうでしょう、と。──ニール・ゲイマン(作家・漫画原作者)のエッセイ『アイデアはどこから来るのか』(WhereDoYouGetYourIdeas?)よりシリコンバレーで長年過ごす中で、私も作家のニール・ゲイマンと似たような経験をしてきた。打ち合わせで、初対面の起業家が〝すごいアイデア〟があると言って、NDA(秘密保持契約書)にサインを求めてくる。こういう人は、〝貴重で驚くべきアイデア〟を出した時点で難しい仕事はもう終わったと信じ切っている。あとはプログラムを書くだけだ、と。ここでたいていはお断りする。ほとんどのアイデアは、秘密保持契約書と同じく、それが印刷されている紙ほどの価値もない。新しいアイデアなんてめったにない。実際、よく知らない業界でもないかぎり、思いもよらないアイデアに出合うのは稀だ。それは、私が天才だからではない(事実、天才ではない)。アイデアを考えつくのは、あなたが思っているよりもずっとやさしいからだ。難しいのは──本当に難しいのは──アイデアを現実に落とし込むことだ。アイデアの適切な形、つまり消費者が価値を認め、使い方を理解し、胸を躍らせて金を払うような形にするのは、実に難しい。あまりに難しいので、たいていはチームが要る。ここで、難しさのレベルがさらに上がる。なにしろ、その仕事にふさわしい人を採用する方法を見つけ、採用された人がひとり残らず正しい目標に集中するように仕向けなければならないのだ。しかも、おもしろい(そして、儲かる)ことがほかにいくらでもあるこの世の中で、そもそもどうしてそのチームに加わったのかを忘れる人が出ないようにしなければならない。作家、ミュージシャンなどは、たしかに彼らも苦労は多いだろうが、しょせん自分だけを管理すればいい。一方、映画監督や起業家にはもっと大きな課題がある。それでも、圧倒的に分の悪い戦いをどうにか制し、アイデアを形にしている人たちもいる。ほとんどの人が〝アイデアがある〟だけの段階を越えられない中で、どうやっているのだろう。アイデアを保護するのは重要ではない。アイデアを現実に落とし込む時間を確保するのが重要だ。世界中が気を散らそうとしているかのような状況下で、あなたと、あなたのチームが常にゴールを目指せるようなシステムが必要になる。私が用いるシステムは、3つのシンプルな部分でできている。第一に、人を鼓舞し、効果を測定できるようなゴールを設定すること。第二に、やることがほかにどれだけあっても、自分とチームが常に望ましい最終形態に向けて進むようにすること。第三に、チームのメンバーが目標を忘れず、かつ各メンバーが責任を自覚できるような習慣をつくりだすこと……である。人を鼓舞し、効果を測定できるゴール私はゴール設定にOKRを使っている。本書では、このOKRについて詳しく説明する。簡単に紹介すると、OKRはインテルで始まったシステムで、これまでにグーグル、ジンガ[ソーシャルゲーム]、リンクトイン[SNS]、ジェネラル・アッセンブリー[プログラミングスクール]などが導入して、迅速かつ継続的な成長を実現している。OはObjective(目標)、KRはKeyResults(主な結果)の略だ。Oは成し遂げたいこと(「大ヒットゲームを発売する」など)、KRはそれを実現できたかどうかを判断する指標だ(「1日2万5000ダウンロード」「1日5万円の売り上げ」など)。年単位や四半期単位でOKRを設定することによって、ビジョンに基づき会社をひとつにまとめる。数字にこだわらない人を鼓舞して動かすのがO。数字にこだわる人に対してOの現実味を示してくれるのがKRだ。朝ベッドから飛び起きてやる気が湧いてくれば、いいOを設定できているということだ。もしかしたら達成できないのではないか、と少し心配になれば、適切なKRだと言える。アクションをゴールに結びつける生産性システムを学びはじめてすぐ教わったのが、「アイゼンハワーのマトリックス」(重要・緊急性マトリックス)だ。4つの四角形と2つの軸からなるシンプルな図で、ひとつめの軸に「重要か、重要でないか」、2つめの軸に「緊急か、緊急でないか」をとる。緊急かつ重要なタスクはもちろん時間を割いて実行すべきだ。そして、「緊急だが重要でない」タスクよりも、「緊急ではないが重要なタスク」に時間を割くべきだという。とはいえ、緊急なことは……やはり緊急だ。それを重要ではないからといって切り捨てるのは、心理的にきわめて難しい(誰かにせっつかれているとなると、なおさらだ)。そんなときには、「緊急ではないが重要なタスク」に期限を設定し、緊急にしてしまえばいい。個人的な例から始めよう。あなたはジムに行くのが面倒なので、パーソナル・トレーナーと契約しようと思いたったとする。ところが、何週間たってもいっこうに契約できない。そこで、「健康維持」を四半期のO(目標)、「筋肉量の増加」「体重の増加」「情緒面の健康」をKR(主な結果)に定め、毎週月曜日に、ゴールに向けた3つのタスクを設定することにした。そのうちのひとつは「パーソナル・トレーナーに電話する」とでもなるだろう。次に、あなたがやり遂げられるよう見張ってくれる人を選ぶ。友達、コーチ、配偶者あたりがいい。彼らの手前、やり遂げないわけにはいかない、と思えるようになるからだ。仕事でも、あらゆるタスクをゴールに結びつけられる。データベースの最適化、サイトの高速化、顧客満足度の向上、あるいは安っぽく見えないようにするためのブランドイメージの刷新など、いくつでも構わない。OKRはゴールを設定する。そして、毎週設定する優先事項は、ゴールを達成すべきだと思い出させてくれるのだ。また、優先事項を毎週振り返れば、「どういう状況だと達成できるのか」がわかってくる。そして、さらに重要な、「どういう状況だと達成できないのか」も
わかる。私の経験によれば、見通しを誤る人は、2つのグループに分かれる。一方は、自分は何でもできると思っていて、「ここまでできる」と過剰に見積もってしまうタイプ。もう一方は、低すぎる目標(サンドバッグと呼ぶ)を設定するタイプだ。マネジャーは、部下の人となりを理解すれば、誰をせかすべきか誰を疑うべきかがわかってくる。また、こうして進捗を振り返ると、従業員自身も自分をもっとよく理解できるようになる。それだけでもすばらしい成果だ。OKRの習慣毎週、週の初めに優先事項を設定して公表するのも効果的だ。O(目標)を実現できるよう、チームとほかの社員に対してコミットする。毎週金曜日に、その週に達成したことを讃えて1週間を締めくくるのが、パフォーマンスの高いチームだ。この〝コミット〟と〝お祝い〟のペースによって、〝実行〟の習慣がつくられる。金のリンゴに注意せよ私は子どもの頃、ギリシャ神話のアタランテーの逸話が好きだった。アタランテーは女性ながらスパルタで一番の俊足だったが、結婚にはまるで興味がなかった。でも、時は中世よりさらに昔の古代ギリシャ。ただ「結婚しません」と言っても父親が許してくれない。そこでアタランテーは父親に頼んだ。徒競走で優勝した人と結婚する、ただし自分もその徒競走に参加させてほしい、と。アタランテーは自由がほしかった。父親は娘を満足させてやりたかったし、そもそも娘が優勝するとは思わなかったので、願いを聞き入れた。競走の日、アタランテーは優勝争いに食い込むほどの速さを発揮した。しかし、ヒッポメネスという賢い男が金のリンゴを3個用意し、アタランテーに追い抜かされそうになるたびに、彼女の目の前にリンゴを投げた。アタランテーは毎回そのリンゴを拾っていたので、ヒッポメネスにわずかな差で負ける羽目になった。もし明確なゴールを設定してぶれずにそれを守ることができていたら、アタランテーは自由なまま、スパルタの指導者にだってなれたかもしれない。スタートアップ企業はみんな金のリンゴでつまずく。重要な会議で講演をするチャンスが舞い込むかもしれない。大口の顧客が自社のためだけにソフトウェアを改良してほしいと依頼してくるかもしれない。あるいは、毒リンゴのような不良従業員がいて、経営者の足を引っ張るかもしれない。スタートアップのライバルは時間だ。そして、時宣を得た実行のライバルは〝脱線〟だ。適切なゴールを設定して、毎週ゴールを目指して仕事をし、目標達成するたびに祝えば、企業は一直線に成長する。リンゴがどれだけ道に転がってこようと、問題にならない。実行家の物語本書では、OKRの重要性を理解しやすくするため前半は、あやうく失敗しかけた小さなスタートアップ企業の物語を話そう。夢想家としてスタートした、ハンナとジャックの話だ。ふたりはよいアイデアを思いつき、すべてがうまくいくよう願っていた。しかし、ほどなく思い知る。よいアイデアだけでは足りない。夢をかなえるためのシステムが必要なのだ、と。物語の終わりには、ふたりはただの夢想家ではなく、実行家に成長する。
第1部「実行家の物語」の登場人物ハンナ──高品質のお茶を生産者から仕入れ、高級レストランやカフェに販売するスタートアップ「ティービー」のCEO(最高経営責任者)。お茶が好きな中国系アメリカ人。ジャック──ティービーの社長。紅茶が好きなイギリス人。ハンナとは、スタンフォード大学のカフェで出会い、ティービーを共同創業した。ジム・フロスト──シリコンバレーのエンジェル投資家。ティービーに初めて投資してくれた。ハンナとジャックにアドバイスをする心強いメンター。エリック──ティービーの主任プログラマー。お茶の生産農家を手助けするティービーに共感して入社した。アーニャ──ティービーのデザイナー。ラファエル──のちにティービーに入社するCTO(最高技術責任者)候補。
ハンナはデスクの前に座り、背中を丸めてキーボードに向かっていた。つややかなボブの黒髪で顔が隠れている。社員には、若きCEOが目の前のモニターに集中しているように映ったかもしれない。前の四半期の数字が目標から程遠かったので見直しているのだろう、と。しかし、ハンナは自分で開いたエクセルの数字をまったく見ていなかった。両手はキーボードの端に載ったまま動かない。ハンナはただ、そこに突っ伏してしまわないよう必死に耐えているだけだった。どうしてこうなってしまったのだろう。成功できそうな市場は目の前にある。しかし、従来のやり方から抜け出し、市場をつかみ取る方法を見つけだせずにいる。パートナーは泣き言ばかりのへたれだ。新たに加わったCTO(最高技術責任者)は、なにやらあやしげな方法論を崇拝している。そんな中、ハンナはその短すぎるキャリアの中で初めて、解雇を言い渡さなければならないのだ。本当に、なんで起業なんかしたのだろう。
創業の半年前……むかしむかし、あるところに、スタートアップ企業があった。小規模な生産者が職人芸で育てた茶葉を、高級レストランやこだわりのあるカフェに届けたい、というビジョンを持っていた。創業者はハンナとジャックのふたり。ハンナは中国系アメリカ人一世で、実家で飲んでいたお茶が大好き。母はアリゾナ州フェニックスのダウンタウンで小さなレストランを経営していて、家族はみんなおいしい食べ物とお茶にこだわりがある。スタンフォード大学経営大学院で経営学を専攻したが、残念ながら、パロアルトではおいしいお茶を見つけられていない。おいしい食事のあとには香り高い龍井茶を一杯いただきたいが、あきらめている。一方、ジャックはイギリス人だ。ポーチドエッグは完璧につくれるのに、アールグレイが紅茶の種類だということも知らないカフェにうんざりしている。ハンナと同じスタンフォード大学の卒業生で、ヒューマン・コンピューター・インタラクション[入出力装置やバーチャル・リアリティなど、人間とコンピューターのやりとりを研究する学問]を専攻。鞄の中の本を減らしてくれたり、スペルミスを拾ってくれたりするようなテクノロジーの進化が好きだった。しかし、茶葉を小さな袋に入れたティーバッグという代物は気に入らなかった。ジャックにしてみれば、あんなものは進化ではない、というわけだ。ある日、ハンナとジャックは大学の書店に併設されたカフェで出会った。ジャックは列に並びながら、ティーバッグを見てぼやいていた。後ろに並んでいたハンナが吹き出して、ハンドバッグから緑茶の缶を取り出して見せた。ふたりはすぐ友達になった。ハンナは小さい頃から起業すると決めていた。家族はみんな起業家だ。母親はレストラン、父親は会計事務所、叔母は法律事務所をそれぞれ経営している。遺伝子には〝起業〟の二文字が刻み込まれている。でも、どんな会社にするかまでは考えていなかった……ジャックと会うまでは。その春、ふたりはスタンフォードの起業コースを一緒に受講し、卒業してすぐに会社を興した。ふたりには、優れた生産者がたくさんいるのはわかっていた。そこで、上質な茶葉の生産者と、コーヒーにはこだわっていてもお茶には自信がない高級レストランやカフェとをつなぐことにした。社名は「ティービー」に決定。スタンフォード大学卒の肩書きと人脈のおかげで、それなりの資金も調達できた。ハンナはCEO(最高経営責任者)、ジャックは社長を名乗ったが、実際にはハンナがビジネス、ジャックが製品を担当した。オフィスは、家賃が手頃な国道101号線沿いで見つけた。そこでの最初の6カ月は幸せだった。オフィスの備品を揃え、ミーティングのたびにお茶を振る舞い、エンジニアを何人か採用した。ジャックは、生産者を検索しておいしいお茶を注文できる、美しいウェブサイトを立ち上げた。ハンナは地元のレストラン数軒の契約をとってきた。ジャックはハンナを説得して、魅力のあるロゴをつくるビジュアル・デザイナーを採用。さらに、財務の健全性を確保するために、パートタイムのCFO(最高財務責任者)まで雇った。オフィスには、キーボードを叩く音と従業員の声が小さくこだまするようになった。
ところが、ここでふたりは少し不安になってきた。とりあえずあと1年分の資金はあるものの、市場を確立するのに時間がかかりすぎている気がしたのだ。多くの小規模生産者と契約できたのに、買い手とはほとんど契約できていない。市場が偏っていては利益が上がらない。優れた創業者がよくやるように、ふたりは買い手の心理について理解を深めるため、自ら営業することにした。ある日、ハンナは外食産業向けの食品納入業者から超大口の契約をとってきた。この納入業者は大小さまざまなレストランに紅茶、緑茶、缶詰、穀物や乾物、コーヒーなどを卸している。ジャックは喜んだが、同時に警戒もした。これは当初の計画になかったからだ。僕たちは、おいしいレストランとおいしいお茶を結びつけるために起業したはず。納入業者はお茶のことを考えているのだろうか。品質へのこだわりはあるのだろうか。「あのね、ジャック」ハンナは溜息をついた。「レストランはうちと取引したがらないの。私たちみたいな新参者は、信用されないわけ。納入業者なら試してくれるし、レストランにお茶を届けてくれる。生産者の売り上げも上がる。うまくいくか、とにかくやってみましょうよ」
CEOのハンナ、上客をもう1社見つけてくる数日後、ハンナは母の名刺を利用して食品納入業者との契約をもう1社とってきた。オフィスの外にある駐車場に車を止め、生暖かい車内で手をキーに載せたまま、しばし考えた。ティービーのミッションは「お茶を愛する人に、よいお茶をお届けする」。派手とは言えないが、明確だ。レストランに売ろうが、納入業者に売ろうが、違いがあるだろうか。いや、あってはいけない。そう判断し、車のキーをポケットにしまってオフィスへ向かった。さっきまで車内の居心地を悪くしていた日ざしによって、オフィスも暖まっていた。ハンナはハーマン・ミラーのチェアの背にブレザーを放り投げた。高級チェアと何枚かのホワイトボードは、資金が尽きたスタートアップのセールで買ったものだ。スタートアップはみな、過去の屍の上に成り立っている。グーグルのオフィスはかつてはネットスケープで、その前はシリコングラフィックスだった。起業が成功する確率は、宝くじに当たるよりわずかにマシでしかない。この事実を無視できる人は、恐ろしく楽観的か、イカレているかのどちらかだ。ジャックと私は、この両方なのかもしれない。ジャックはオフィスの奥にいた。そこには細長いテーブルが据え付けられていて、チームがランチを一緒に食べたり、ひとつしかない会議室が埋まっているときに臨時の会議室になったりする。隣にいるのは、採用したばかりのデザイナー。アンだっけ?いや、アーニャだ。ジャックはアーニャと話しやすいように少しかがんでいた。身長187センチのジャックが、165センチのアーニャを見おろすような格好になっている。ハンナが加わると、ジャックは溜息をついて体を起こした。目の前のテーブルには段ボール箱が並び、さまざまな色のラベルが貼ってある。「ハンナ、ちょっと見てくれないか。この青は素敵だけれど、棚で目立たないような気がするんだ。こっちのオレンジはもう少し強いけれど、おいしくなさそうかな?青はとても信頼できそうなイメージを与えるね」ジャックは色の話となると何時間でも止まらない。そこにフォントも加われば半日はつぶれる。ハンナには、そもそもなぜグラフィックデザイナーを採用する必要があるのかさっぱりわからない。ジャックだけでもどうにかなりそうな気がする。でも、ジャックが僕の専門ではないと言うので妥協したのだ。アーニャがダークレッドの箱を前に押し出した。「うーん、まあ、ダークレッドがいいんじゃない?」ハンナは言った。「ふたりに任せておけば大丈夫ね。ジャック、報告があるの。ブライトウォーター・サプライの契約をとってきた。モデストからフレズノまで納入してる業者よ」ジャックの眉間にしわが寄る。「フレズノって……北だっけ」ハンナは吹き出した。「南だってば!次に営業に行くときは一緒に来てよね」。そして、パッケージの見本を脇に押しやり、契約書をジャックの前に置いて、大切そうにしわを伸ばした。ジャックは契約書を見た。……すばらしい数字だ。これまで結んだどの契約よりも大きい。「あれ、ここなんだけど」ジャックが契約書を指した。契約書の文言が二重線で消され、新しく何か書き込まれている。「〈ウェブサイトを使用しない〉って何?」「入力が面倒なんだって」「そんなバカな。ユーザビリティ・テストだってやったのに」「ウェブサイトを見てもらったんだけど、気に入らないって言うのよ。怒らないで。近いうちに一緒に訪問しましょう。どこをどう修正すればいいのかわかるまでは、私が注文を入力するから。あるいは、エリックに頼んでお客様のシステムとうちのシステムを統合するためのAPIを書いてもらう?ブライトウォーターからは大量の注文を定期的にもらえるそうだし」ジャックは納得していないようだ。「大金が入るんだよ。で、作業は私がやるから」ハンナは深呼吸した。「くよくよしないで作業に戻って」ハンナは大股でキッチンに向かい、お茶をいれた。がっかりだ。ジャックは目を輝かせて契約を喜んでくれると思っていたのに。お金が、それも定期的に大金が入るというのに。まるで、買い物をしてきたのに、牛乳を忘れているじゃないか、と責められたような気分だ。でも、キッチンに入ると少し気が晴れた。生産者から送られたお茶のサンプルが大量に届いていて、選びたい放題だ。先週訪問したワシントン州の農場からもらった緑茶のサンプルを物色する。目を閉じ、鼻を袋につけてお茶の香りを吸い込む。ハイキングのときに踏む干し草のような、甘い香り。そこで、人の気配に気づいた。「やだ、恥ずかしい」ジャックを見てハンナは言った。ジャックは、いいよいいよ、と手を振った。「みんなやることだし。テンゾー・ファームのお茶は最高だからね」。そして電気ケトルのコンセントを差し込むと、棚からマグカップを取り、カウンターに寄りかかって胸の前で腕を組んだ。「僕は不安なんだ。ああいう人たちとうまくやっていけるのか」「ああいう人たちって?」「食品納入業者だよ。三つ星レストランにリプトンを納入するような連中。品質なんか気にしちゃいない」「それはそれでしょ。食品納入業者はレストランが必要なものを提供するだけ。高級なレストランには高級なお茶がいるって説得するのは私。これも、単なる顧客開発よ」「ものごとを正しい方法で進めるのがスタートアップの意義じゃないのか。とびきりの商品を、とびきりのパッケージに詰めて、とびきりのお客様に売る。大切なのは、みんなと同じようにやることじゃないだろう」「スタートアップの意義は、プロダクト・マーケット・フィット[製品と市場の最適な組み合わせ]を見つけて会社を成長させ、会社を頼りにする人たちに利益をもたらすことだと思うけど」ケトルのランプがついた。ジャックがお湯を注ぐ。「ああ、そうだとも。教科書にはそう書いてあるね。売れるならゴミでもいいって」と、ジャックは茶こしを振り回して語気を強めた。「差別化のチャンスじゃないか。素敵な経験をもっと素敵にできる。採算が心配なのはわかるよ。でも、なんのために起業したのか忘れないでくれないか」ハンナが返事をする前に、ジャックは出て行ってしまった。契約を増やさないとあと10カ月で資金が切れるのよ、とハンナは思った。おいしいお茶でおいしいお金がもらえるのに、何が問題なのだろう。
ハンナ、ピボットを提案する数週間後、ハンナはジャックを会議室に連れ込んだ。なんの変哲もない会議室だ。靴箱のように細長い部屋で、壁はいかにも大家が好みそうな落ちついた白に塗られている。四方の壁のうち三方には古びたホワイトボードがかかり、前のテナントが書いた跡で汚れている。ハンナは蛍光灯の光が少し苦手だったが、少なくともチカチカはしていない。大学を出てから大学院に入るまでに2年間コンサルティングをしていたとき、こういう部屋はいくつも見た。蛍光灯がチカチカしている部屋に行くと猛烈に腹が立った。単に不愉快というだけではなく、持ち主があまりにだらしないか、さもなければほかのことに気をとられているしるしだからだ。点滅する蛍光灯は破滅の前ぶれ、ハンナはそう考えていた。明るい会議室に入ろうとすると、先客がいた。主任プログラマーのエリックだ。窓のない部屋に座ってコーディングするのがお気に入りのようだ。「ごめんなさい、エリック。ここを使いたいの」「待ってください……」エリックはそう言いながらも、明るいブロンドの頭をノートPCから上げようとしない。ジャックより背が高く瘦せているので、細い体が銀色に光るPC上でクエスチョンマークの形になっている。「出て行ってくれ、エリック」冷たくはないが断固とした声で、ジャックが言った。「行きますよ……今立って……行きますんで」エリックは立ち上がり、PCを片手に載せ、ときどきキーを打ちながら、画面から目を離さずに出て行った。「あの人はなんでここに隠れてるの」ハンナはいらいらしていた。自分がこれからジャックに話す内容をジャックがあらかじめわかっていてくれれば、と思ったが、たぶんわかっていないだろうという気がした。わかっていたらわかっていたで、話を気に入るとは思えない。ジャックは肩をすくめた。「集中したいんだろう。ともあれ腕はいいし、うちにはまだCTO(最高技術責任者)はいないし……」ここでハンナはまた別の問題を思い出した。CTOを見つけてくるのはジャックの仕事だったはず。でも、ジャックはビジネスの中でデザインに関係ないことにはいっさい関心がなさそうだ。私の仕事に加えないといけないかな。そう思って、下唇を嚙む。ふたりは会議用の細長いテーブルの端に椅子を運んで座った。このテーブルはジャックとエリック、そしてフロントエンド開発を担当するキャメロンが、ある週末にイケアで買ってきた2台の木製キッチンカウンターを並べたものだ。かっこよくて価格も手頃だが、残念ながらニスを塗っていなかったので、何かをこぼすたびにシミがつく。ハンナはコーヒーのシミをこすりながら、自分の考えをどう説明しようか思い悩んでいた。シミは消えない。ジャックは待つ。静かにしているのは得意だ。「ジャック、数社の食品納入業者と契約してきた」ハンナがひと呼吸おくと、ジャックは腕を組んだ。そうよね、簡単にはいかない。「1社契約するごとに、10軒から20軒のレストランと契約するのと同じくらいの売り上げになるの。納入業者がレストランに売ってくれるから。アラマックス社との契約は、生産者にとって大きなビジネスになっている。ジェファーソン・サプライズ社の注文は倍増した。あまりの好調ぶりに、テンゾー・ファームでは人を増やすかもしれないって」ジャックの表情は固くなるばかりだ。いいかげんに結論を察してくれないかな。もしかして、察しているけど気に入らないのかも。それなら、先に進むしかない。「ビジネスとしては、レストランを相手にするよりはるかにいいのよ。販売サイクルは一緒だけど、納入業者は私たちとの取引を積極的に試してくれる。レストランやカフェみたいに、5回も10回も打ち合わせを重ねてから、もっと経験を積んだらまた来い、なんて言わない。もう必要な材料は揃ってる。私たち、ピボットしなければいけないと思う」起業のクラスで、ピボット(方向転換)とは戦略を変更せずに戦術を変更することだと学んだ。ハンナは、ピボットこそまさに必要だと確信していた。ティービーはこれからも良質なお茶を消費者に届ける。食品納入業者がすでに築いている関係を利用して。ジャックは不安をあらわにした。「販売サイクルについてはわかったよ」。ビジネス用語を使えて満足そうだ。「でも、いまいち信用できないんだ。食品納入業者って、生産者が慣れてきてから値下げを迫ったりするんじゃないのか?品質を低くするよう言ってきたらどうする?ゴミみたいなものをつくることになったら?」ハンナはジャックをたしなめた。「ありもしない問題についてくよくよ考えるより、現実の問題に対処してよ」母から100回くらい聞いたセリフだ。自分の口から出たので、思わず笑ってしまった。「ジャック、このやり方はうまくいっているのよ。生産者の利益になるし、うちの利益にもなってきている。今後は食品納入業者からも頼りにされるようになる。お互いの得になる関係なら、こちらの信念に反することを無理にやらされたりしない」ジャックはひと呼吸おいて、しばらく目を閉じた。夢でも見ているかのように、まぶたの奥で目玉が動いている。デザインに取り組んでいると、たまにそうなることがある。問題を徹底的に考えているときの癖だ。その目が開いた。「箱には誰のラベルを貼るんだい」ハンナは目を丸くした。「ええっ?そんなことが心配なの?」「僕たちにはブランドとしての存在感が必要なんだよ。〈インテル入ってる〉みたいな。ブランドはインテルの礎だ。君はまさか、〝秘伝のソース〟でいることに満足するわけじゃないだろうね」「パッケージについて向こうがどう考えているかは知らない。変えろという要望はなかったし」ハンナは肩をすくめた。「うん、まあ、言いたいことはわかったよ」声の調子を聞くかぎり、とてもわかっているようには思えない。ハンナはジャックが歯を食いしばっているのに気がついた。「食品納入業者に焦点を合わせるのも、筋が通っているかもしれないね」いかにも気乗りしない様子だ。次はどうせ「でも」だろう。「でも、ほら、君も僕も、ああいう連中と仕事をしたらどうなるかわからないじゃないか」事実を述べてきたハンナは行き詰まってしまった。事実では、漠然とした恐怖やあいまいな不安に対抗することはできない。そのとき、ふと思いついた。「ねえ、ジムに相談してみない?」ジム・フロストはティービーに初めて投資してくれたエンジェル投資家だ。シリコンバレーのベテランで、たくさんの会社の失敗と、わずかな成功を見てきて
いる。賢く、洞察力がある。この問題を解決するのに手を貸してくれる人がいるとすれば、ジムかもしれない。ジャックとハンナはジムを信頼するようになっていた。主任プログラマーを紹介してくれたうえに、今はCTOも探してくれている。ジャックは少し考えてからうなずいた。「新しい目で見てもらって悪いことはないね」
エンジェルのジムに相談するジム・フロストはスターバックスで打ち合わせをするのが好きだった。スターバックスを愛していると言ってもいい。投資家なら誰もが好む、裸一貫からの立身出世物語。それはシアトルのパイク・プレイスにあった1軒の小さなカフェで始まった。ヨーロピアン・スタイルの高級なコーヒーを仕入れて、1杯あたり市価の3倍の値段をつける。かつて、コーヒーは1ドル飲み放題だった。今では、品種・生産地・生産者を限定したシングルオリジンのコーヒーに、1杯で3ドルの値がついている。スターバックスは市場を生み出し、独占した。いまや、ありとあらゆる街角にスターバックスがあり、飛行機の中でも飲める。ジムは、自分にもスターバックスに投資するチャンスがあったら、と思いつつ、次のスターバックスになる起業家との出会いを夢見ている。次の約束相手がスターバックスのコンディメントバーからエスプレッソを持ってやってきたので、立ち上がって手招きした。目の前にふたりの創業者が座る。ダンは若くて瘦せたインド人。フレッドはドリトスとコーラだけでできていそうな腹をした赤みがかったブロンド髪のそばかす顔だ。ジムは最新の路線変更についての説明に耳を傾けた。18カ月で4回めだ。出資したときにふたりは、食生活記録アプリをつくっていた。次に、グルメな健康メニュー。今は健康レシピがメインらしい。新しい路線についてもっともらしく語る創業者を前に、ジムは溜息を押し殺す。「ベータユーザーはサイトを気に入ってくれてます」と、ダンはよどみなく話す。しかし、声に本物の躍動感がない。フレッドは、自分たちの運命でも映っているかのようにエスプレッソの表面を見つめていて、ジムと目を合わせようともしない。ふたりが最初のアイデアに注ぎ込んだ情熱は、市場の無関心にぶつかってしぼんでしまった。ことにフレッドは、食生活記録アプリのテクノロジーに入れ込んでいた。しかし今、その線は消え、興味もないウェブサイトのコーディングをする羽目に陥っている。フレッドは疲れている。体重も何キロか増えたようだ。一方のダンはあまりに猪突猛進で、いったん立ち止まって問題と真剣に向き合うタイミングがわかっていない。資金が切れる創業者と、気持ちが切れる創業者がいる。この子たちは両方だな。ジムはふたりと握手してさよならをした。投資もさよならだ。気持ちが切れたチームに注ぎ込む金はない。そのとき、ハンナのシビックが駐車場に入ってきた。ジムはふたりの創業者を思い浮かべた。あといくつかの四半期で、ハンナとジャックもダンとフレッドのようになってしまうだろうか。あるいはスターバックスへの道を歩むのだろうか。
OKRを知るエンジェルのジムとの打ち合わせはいつもジムのオフィスの隣にあるスターバックスで、そのたびにジャックの心は少しずつ静かにむしばまれていた。スターバックスのあるショッピングセンターには、スーパー、ガソリンスタンド、タコスレストラン、そしてびっくりするほどおいしい懐石料理店が入っている。ジャックにとってスターバックスは、シリコンバレーのあらゆる異質さと不可解さの象徴だった。なぜベンチャーキャピタリストはみんなスターバックスで会いたがるのだろう。もっとおいしいコーヒー、はるかにおいしい紅茶がいくらでもあるのに。なぜミシュランで星を獲得しているレストランがわざわざショッピングモールに入っているのだろう。ここまで広い駐車場がなぜ必要なのだろう。半分以上埋まっているのを見たためしがないのに。ハンナは中古のシビックをスターバックスの前に止め、エンジンの振動が完全に止まる間もなくキーをポケットに突っ込んで車を出た。ジャックはおとなしくついていった。ジムの姿が見えると、ジャックは少しだけ元気になった。ジムはいつも裏のテラスに座って打ち合わせをする。50代後半で、インテルの取締役としてスタートアップ2社の創業を成功させたのち、エンジェル投資家に転じた。ジムの人生は徹夜の連続だったはずだが、しわのある顔は連日の徹夜のストレスよりも晴天のゴルフコースを彷彿とさせる。ジムはちょうど立ち上がってふたりの若い男と握手するところだった。若者はふたりとも青いシャツを着て、カーキ色のパンツを履いている。プレゼンが終わったところかな、とジャックは思った。ハンナがジャックの腕に軽く触れて制止した。「鉢合わせする気分じゃないから」。ふたりが足取りをゆるめると、もうひと組の起業家は去っていった。ハンナとジャックは一緒にジムに挨拶して、席につく。椅子がまだ温かい。ふたりはジムに、販売先をレストランから食品納入業者へとピボットすることの懸念をまとめて話した。ジムは椅子の背にもたれ、ダブルエスプレッソの入ったカップのふちに指を滑らせた。この人は、打ち合わせをするたびにコーヒーを飲んでいる。そして、ヨガのクラスから抜け出してきたかのように落ちついている。「インテルで働いていたときの話をしよう。インテルでは、難しい決断のたびに必ず振り返る話がある。80年代に、日本企業がメモリーの市場シェアを拡大した。メモリー事業の赤字が拡大する中で、我々は今後の方針について議論を重ねた。実に激しい議論だったよ。ある日のこと、アンディ・グローブは会長兼CEOのゴードン・ムーアとまたもやこの議論をしていたんだが、ふと窓の外を見ると、遠くで遊園地の観覧車が回っているのが目にとまってね。アンディはゴードンに向き直って聞いた。『もし、我々が取締役会で追い出されることになり、次のCEOが入ってきたら、何をすると思う』ゴードンは即答した。『メモリー事業から撤退するだろうね』アンディは、その単純なひと言が伝える明確なメッセージに心を打たれた。『じゃ、我々がいったんドアを出てから入り直して、自分たちでそうすればいいじゃないか』あとは知っているね。メモリー事業から撤退してインテルは大きく躍進した。それ以来、本当に厳しい判断が求められると、インテルではこの〈回転ドアテスト〉を必ず行うようになった。つまり、歴史と思い入れに束縛されない人間なら何をやるかと考える、ということだね」そこでジムはひと息ついてエスプレッソをすすった。「で、君たちが新しいCEOに採用されたらどうするかい?」ジャックはハンナのほうを見たが、ハンナは黙っていた。何を考えているかは一目瞭然だ。ジャックは言った。「この方向性をまじめに検討しなければいけないと思います。いい収入になります。でも、品質を下げる方向に追い込まれるのではないかと心配です」「もしそうなったら?」とジムが問う。ジャックは答えた。「受け入れられません。僕は会社を去ります」3人はそのまま沈黙した。ハンナが言った。「私も受け入れません」ジャックは口をつけていない紅茶から顔を上げた。「品質の悪い製品を売る会社をつくりたいわけではありません。そんなやり方では、長い目で見たら絶対にうまくいきませんから。まずいお茶を売りたいなら、別の会社に行きます。私たちは世界を変えるためにやっているのであって、世界を再生産するためではありません」ジャックは再びカップに目を落とし、心の中でつぶやいた。「わかってるよ。ちきしょう、わかってる」ハンナは前にもそう言っていた。100回くらいは話し合っている。でも、いざお金の話になったときに、ハンナはその考えを捨てずにいてくれるだろうか。ハンナが微笑んだ。「ね、私たちはお茶を飲みたい人に届けるためにやってきたんでしょ。倉庫でひからびさせて、まずくするためじゃない。あなたが今やっているみたいにね」と、ジャックのカップを指さす。ジャックはカップからハンナに視線を移して、軽く微笑み返す。こういう風に喋るときのハンナは、まるで姉のようだ。なのに、ハンナはMBAを持っている。ジャックの学科ではMBA取得者と、その世界で使われる特殊な用語を笑いものにしていた。〝イグジット〟や〝価値の最大化〟の類だ。彼らの言う〝価値〟はいつだって〝カネ〟の隠語のように聞こえる。でも、僕の考える〝価値〟はそういう意味ではない。ジャックはついに口を開いた。「僕たちは、気がつかないうちに、なかなか行き着けないプロダクト・マーケット・フィットにたどりついたのかもしれない。もし僕が新しいCEOになったら、ピボットへのコミットに賛成するだろうね」ハンナの肩から力が抜けたようだった。ここで、ジムが言った。「ふむ。ただ、チームからの抵抗があっても驚かないように。よくあることだからね。目標から外れないように、OKRを使ってみてはどうだい」ふたりの起業家はきょとんとしている。「OはObjective、つまり目標。KRはKeyResults、つまり主な結果。私が出資している会社の多くでも、フォーカスを定め、成果を拡大するために取り入れて
いるよ。四半期ごとに、明確で定性的な目標をひとつと、目標の達成度合いを判定するための定量的な指標を3つ設定するんだ。定性的とは数字で表せない性質、定量的とは数字で表せる性質だ。さて、君たちのグループに適した目標は何だと思う?難しいけれど、3カ月で実現可能な内容だ」「外食産業向け食品納入業者に対して、私たちの価値を証明する」ハンナが即答した。ジャックが割り込む。「君の言う価値ってどういうこと?」「お客様のビジネスに役立つ、優れた商品をお届けできるってこと」ジャックはひと呼吸おいてうなずいた。優れた商品。それならよさそうだ。ジムが聞く。「成功したかどうかは、どうやってわかるんだい?」ハンナとジャックはしばらく話し合ったが、なかなか結論が出なかった。売り上げベースのKR(KeyResults、主な結果)を見つけるのは難しくない。でも、「ティービーの価値を認めてくれる食品納入業者」を表す指標を見つけるのは難題だった。「価格交渉をしなくても買ってもらえる、とか?ほら、商品が良ければ、相手も値切ってこないからさ」とジャックがいう。これにはハンナが目を白黒させた。「あのね、ジャック、価格交渉はビジネスそのものよ。最適な価格を引き出すことに生活がかかってるんだから。うちの母が価格交渉をしていなかったら、私、脈を測るわよ。リテンション指標を考えてみましょう」ジャックはぽかんとしている。ハンナは続けた。「たとえば、再注文率30パーセントとか」ジムが割り込む。「OKRでは難しいゴールを設定しないといけないよ。達成できるかできないか半々くらいのものがいい。チームが自らを押し上げるようにするのが君たちの仕事だろう?投資家としては、たったの30パーセントが目標では心配になるね」これは目の覚める指摘だった。そう、ジムはただの友達ではなく、一枚かんでいる投資家なのだ。「再注文率100パーセントにしよう!」とジャックが答える。ジムが笑った。「おいおい、それは本当に可能かい?できないとわかっているゴールを設定されたら、チームはストレスが溜まるかもしれないよ」ハンナが間に入る。「それなら、再注文率70パーセントならどうでしょう。いまのところすべてのお客様から再注文をいただいていますが、私がいちいちお願いしてのことですから」ジャックが言う。「できればそれ以下にはしたくないね。なんだかんだ言って、うちにはウェブサイトがあるから、そこから注文してもらえるよね?」ハンナが答える。「サイトは使えないわよ。お客様のニーズに合っていないんだから」ジャックが返す。「それなら、サイトの修正にもOKRを設定しようか」ここで新たな相談者がやってきたので、ジムは打ち合わせ中のハンナとジャックを残してほかのテーブルへ移っていった。ハンナとジャックはそのままゴールと指標について議論していたが、ふと身震いをした。夕方になり、日が落ちてきたのだ。夕日がスターバックスの裏に沈む。紅茶は冷めてしまったが、ふたりが互いに納得して目指せる、本当のゴールができた。ふたりは家に帰り、ゴールについてあれこれ考えながら眠りについた。
チームにピボットを宣言翌朝、ふたりはキームン紅茶を飲みながら昨日設定したOKRをもう一度検討した。達成は難しそうだが、方向性は正しいように思えた。ふたりはチームを会議室に呼んだ。ハンナが前に出る。起業家クラスで毎週のようにやらされていたにもかかわらず、グループに向かって喋るのはいまだに気まずい。3人のプログラマーは、ノートPCを開いて並んで座っている。デザイナーのアーニャはうつむいたまま、スケッチブックに激しく筆を滑らせている。臨時に採用したCFOのナオコは静かに座り、最新の売り上げをプリントアウトした紙束の上に手を軽く載せている。ハンナの不安が募る。この人たちは自分の未来をジャックと私に預けてくれている。とんでもないプレッシャーだ。ハンナは深呼吸して、ヨガの先生から教わったように〝気〟をつま先に送り込もうとした。「みなさん」場を活気づけるために、全員の顔を見た。とはいっても、見える顔だけだ。主任プログラマーのエリックはハンナが立つとPCから一瞬だけ顔を上げたが、あとふたりのプログラマー、キャメロンとシェリルの視線は画面のコードに釘付けになっている。隣に座るジャックがハンナに微笑みかけてうなずき、話を始めるように促した。「今日は発表があります。私たちは、小さいけれど明確なピボットを実施することにしました。販売先を外食産業向け食品納入業者に特化します」ハンナはチームに対して、最新の状況と、ナオコがまとめてくれた数字について説明した。ジャックが補足する。「零細生産者がつくるおいしいお茶を高級レストランに届ける、という方針は変わらない。ただ、より効率的で収益性の高いアプローチを発見したんだ」メンバーの何人かは不満そうだった。エリックは特に憤慨しているようで、やっとPCからしっかりと顔を上げた。「めちゃくちゃじゃないですか。農家と零細企業の手助けをするために起業したんでしょう。だから俺は入ったんですよ」エリックは中西部出身だ。カリフォルニア大学バークレー校に通うために越してきたが、カンザス州の厳しい冬を嫌ってそのままカリフォルニアにとどまっている。「食品納入業者って業務用のお茶を売るんですよね。お茶をつくる農家のことなんて考えない。金儲けにしか興味ないじゃないですか」ジャックが答えた。「生産者の権利を守るためにも、間にティービーがいたほうがいいんだ。生産者から高く買い上げながら、新しいお客様を開拓できる」ハンナが補足した。「それに、ほとんどの生産者は規模が小さかったり、一定の生産量を確保できなかったりして、食品納入業者に関心を持ってもらうのが難しいの。私もいろいろなレストランと話したけれど、まず安定した納品が必要だと言うのね。零細生産者は小規模すぎて取引に見合わないと。そこでティービーが生産を取りまとめるわけ。そうすれば、常に緑茶と紅茶の最小納品量を確保できるでしょう」ジャックがまとめた。「これからは、お茶の生産者はもっとお茶を売れる。さらにいいことに、どれだけ売れるかのめどがたち、新規採用や業務拡大のタイミングを計れるようになる。みんなにとっていいことずくめだ」こうしてチームはようやく変化を受け入れたが、エリックは口を手で覆って、言いたいことを飲み込んでいるようだった。何を考えているのだろう、とハンナはいぶかった。「この変更がどういう意味を持つか話し合いましょう」ハンナはホワイトボードにビジネス・モデル・キャンバス[ビジネス全体を図にまとめたもの。一般的にはパートナー、リソース、チャネル、コスト構造など9つの要素に分割する]を描いた。「私たちは食品納入業者を新たなお客様として検討します。そのためには、いくつかの変化が必要です。営業担当者を何人か採用しなければならないし、しっかりしたカスタマー・サービス部門もつくらないといけない。今まで、うちの売り上げはジャックの魅力と私のフットワークでもってきたから」何人かが笑う。誰もがジャックの営業嫌いを知っていた。雑談は好きで、新しい顧客をよく見つけてもきたが、取引をまとめ、価格交渉をして、契約書にサインさせるのは、いつもハンナだった。「この分野の専門家が必要です。売り上げは1件ごとに数百ドルじゃなくて数千ドル。法人への直接営業を専門にしましょう」次にOKRの概要について説明し、項目を検討した。ハンナがまず立ち上がり、ホワイトボードに初めてのOKRを書き込んだ。次にもう1組のOKRを書き込んだ。そしてさらに「O:効果的な営業チームを構築する」と書いてKRを付け加え、「O:反応のよい顧客サービスアプローチを構築する」にも3つのKRを追加した。
チームはゴールが達成可能かどうか議論し、再注文率を60パーセントに引き下げた。「どのみち、次の四半期にはまたこの数字を引き上げればいいですよね」とエリックが言った。会議が終わる直前に、キャメロンが手を挙げた。「でも、既存のお客様であるレストランはどうするんですか?」「そのまま取引を続ければいいよ」とジャック。ハンナは思わずジャックのほうを向いた。え、続けるの?口を開いて反論しようとしたが、やめた。すでにチームにたくさんの変更を導入している。しかも、今すぐ出かけて新しいレストランを開拓したい、という話でもなさそうだ。ジャックとはあとで話し合って、徐々にレストランとの取引を打ち切る計画を立てればいい。争いを避けているわけじゃない。ただ、戦う場を選んでいるだけ。そうじゃない?
ハンナ、テイスティングに参加してキレるハンナが納入業者の注文を入力していると、デスクの横に人の気配を感じた。見上げるとコートを着たジャックが紅茶のパッケージをいくつか抱えている。「準備はできた?」と、ジャック。「なんの?」「テイスティングだよ。エクスフライト・コワーキング・スペースの。今すぐ出ないと渋滞に引っかかるよ」ハンナはジャックをにらみつけ、思考を数字から言語に切り替えた。「この数字を全部入力しないと、シストボア社のお茶の注文作業が終わらないんだけど」「なんでウェブサイトを使わないんだ」「もう話したでしょう。サイトは最大で10までしか数字を入れられないの。納入業者の規模だったら、80回注文しなければならないわ。サイトを直すか、入力するまでそこで待っているかのどちらかにして」「車で待つよ」「外は30度よ。車の中はオーブンになっちゃう」「じゃあ、僕が焼け死ぬ前に来るんだね」ジャックは箱を抱え、ぶつくさ言いながら出て行った。「遅刻は嫌なんだ」ハンナはうなったが、入力中のファイルを閉じてあとを追った。会場には早めに着いたので、お茶のサンプルをセッティングする余裕が十分にあった。エクスフライトは典型的なコワーキング・スペースだった。ロフト型の空間に、社員数3~4名のスタートアップ企業が6社入っている。デスクはイケアのようだったが、椅子は高級品のハーマン・ミラーだ。共同のキッチンには電子レンジが数台と水道がある。食器棚にはブランド物のコーヒーマグとガラス瓶。「自分たちのケトルとカップを持ってきてよかった」ジャックは楽しそうだ。「品質のことなんて誰ひとり気にしてない。この共同スペースでどれだけおしゃれに見えるかしか考えてなさそうだ」ハンナは少し気が晴れ、集中力も高まっていた。運転中はずっと大音量でディスコ・ミュージックをかけていた。母親がセールで買ってきた小さなガラスのティーカップを並べながらも、〈カー・ウォッシュ〉を口ずさんでいる。これが終わったらテイスティングはやめにしよう、とジャックに話すつもりでいた。ジャックはハンナに代わって、コワーキング・スペースのゼネラル・マネジャーとにぎやかに交流している。ハンナはもともと内向的なタイプで、生きていくのに最低限必要なぶん以上の雑談はしないことにしていた。夜はいつもと同じように過ぎていった。これまでにコーヒーショップやベーカリーで開いてきたテイスティングと変わりない。ジャックはその場にいるみんなと話して、お茶を試してもらえるよう説得した。ハンナはトラベルアプリ開発会社のCEOと、エンジェル向けのプレゼンのメモを見せ合った。コワーキング・スペースのテナントは8時までに、それぞれコーディングをしにデスクに戻るか、夕食を買いに出て行った。ハンナは荷物をまとめた。交流に疲れ、運転して帰るだけでも気が重い。そのうえ、戻ったらまた1社分の注文を入力しなければならない。深く溜息をつき、カップの箱を下ろした。「ジャック?」「ん?」「私たち、なんでこんなことしてるの?」「ほら、オフィスのマネジャーの注文を取ったよ!1週間に7キログラムだ。しかもパッケージにうちのブランドを出してもらえる。これで認知度も高まるよ」「誰の認知度よ。食品納入業者がコワーキング・スペースのキッチンをうろつくとでもいうの?私たちのお客様は納入業者なのよ」「うーん、じゃ、ベンチャーキャピタリストは?とにかく、売り上げは上がったんだ」「コワーキング・スペースの、でしょう?重点顧客じゃないのに」「ウェブサイトで注文してくれるよ。なにか問題ある?」「私のデータ入力は毎日増えてるのよ!あなたは製品の担当でしょう!さっさと製品の仕様を固めなさいよ!」「バックログに入ってるよ!」「それってエンジニア用語で『黙れ』ってこと?」「違うよ、クソッ、なんだよ」ジャックが一歩引いた。ハンナが怒りをあらわにしたのに戸惑っているようだ。戸惑いもするだろう。ふたりはこれまで一度も喧嘩をしたことがなかった。ふたりはどちらも争いを好まない。ハンナはどんなときでも争いを好まない。まして今は。ジャックが言った。「僕はもうタクシーで帰るよ。そのほうが君も早く家に帰れるだろう」停戦の申し入れだ。ハンナは争いたくない気持ちを飲み込んだ。言わなければいけないことがある。「待って、ジャック。タクシーを呼ぶ前に約束して。もうテイスティングはやらない。私たちはお互いに承知して、OKRを設定したでしょう。テイスティングはそのどれにも役立たない。時間の無駄よ」ジャックはためらった。両手をポケットに突っ込んでから、誰かにたしなめられたかのようにもう一度外に出した。「テイステンィグは有用だよ。縁ができるじゃないか」ジャックは少し穏やかになった声で、不安げに言った。「いいえ、私はそう思わない」突然、ジャックの雰囲気が明るくなった。「あ、もしかしてモントレーの連中の営業電話にいらいらしてるのかい?気にするなよ、僕が取るから。みんなとうまくやっていこう。落ちついて。もう寝よう」そして、ハンナが抱えていたカップの箱をもぎとり、部屋を出て行った。ハンナはショックで震えていた。自分の懸案は完全に無視された。落ちつけですって?落ちつけるわけがない。まして、眠れるわけがない。これから20種類のお茶の注文を入力しなければならないのに。
大事なのは品質か、売り上げか翌日、ジャックは昼前にオフィスに着くと、自転車を裏口のラックにゆっくり止めた。ハンナはいつも朝早く出社する。ジャックは昨夜のけんかを蒸し返したくなかった。向こうが謝ってきたら嫌な気分になる。こちらが謝ったとして、向こうが許さなかったら?どちらにしても気分が悪くなる。自分は良い製品をつくる良い会社を経営したいだけだ。ジャックは、ありとあらゆる製品デザインが時間を経て劣化するのを見てきた。お気に入りのスマートフォンですら、昔は手にしっくりなじんだのに、いまや大きく不格好になってポケットを膨らませている。ずっと尊敬していた企業で夏期インターンとして働いたときには、プロダクト・マネジャーや経営畑の人たちが、品質を捨てて短期的な売り上げを取るのを見てしまった。そのとき、どうしてなにもかもが悪くなるのかがわかった。金のせいだ。経営畑の人たちは、自分のボーナスを増やすため、四半期ごとに株価が上昇するようにせきたてる。顧客の満足や会社の評判など、いっさい気にしない。だから、品質を保証し、ビジョンに忠実でいるためには、自分で会社を立ち上げるしかない、と決意した。それなのに、今ジャックは、自分が軽蔑した類の経営幹部の立場に追い込まれ、ティービーを続けるために自分の理念を返上しなければならなくなるのではないかと心配していた。もしかしたら、ハンナに説明すればいいだけなのかもしれない。テイスティングで製品の品質を見せることがどれほど重要か。影響力のある口コミを得るためには、揺るぎないブランドが必要だ。強力な口コミを得られれば、みんながお茶を飲んでくれる。そうすれば、ティービーの良さがわかってもらえて、お金はあとからついてくる。そう、ただ説明すればいい。ハンナだってお茶が好きなのだからわかってくれる。オフィスに入ると、ハンナの椅子は空っぽだった。営業に出ているのだろう。肩の力が抜けた。肩に力が入っていたのにも気づいていなかった。議論は持ち越しだ。自分のデスクに着こうとすると、エリックが手招きしてきた。「ちょっといいことを思いついて、徹夜でプロトタイプをつくったんですが、見てもらえますか?」エリックは椅子に深く腰かけて、デスクの下に足を投げ出していた。黄ばんだ細い指で、モニターを指さす。1日に何本くらいタバコを吸っているんだろう、とジャックはしばらく考えた。エリックはサイトの最初のページを下までスクロールした。ナビゲーションが固定されたまま、残りが動く。次に注文フォームを見せた。前のフィールドが正しく入力されると、次のフィールドが出てくる。「よくできてるね」ジャックはそのエフェクトに感心して言った。エリックは肩をすくめた。「一括注文の仕様がまだ来てないんで、暇つぶしです」ジャックの胃が強ばった。「それは僕の役目だ。半分くらいできているんだけど、テイスティングの準備でしばらく中断してたんだ」「気にしないでください。食品納入業者がぐだぐだ言わないで注文を入力すればいいんですから。農家から搾取してお金は十分あるんだから、そのお金を使ってデータ入力くらい向こうがすればいいんだ」データ入力。そう聞いてジャックはさらに気分が悪くなった。「食品納入業者じゃなくて、ハンナが自分で入力してるんだよ」。ハンナがその仕事をしているのは、ジャックの技術仕様が書き上がっておらず、エリックが新機能をコーディングできないからだ。エリックはジャックのストレスにさっぱり関心がなさそうだった。「ていうか俺、さっぱりわからないんですよ。なんで俺たちが中間業者を太らせてるんですか?農家とかレストランみたいなインディーズの人たちの力になるんじゃなかったんですか?」ジャックはレストランと打ち合わせるのが好きだった。コワーキング・スペースやインキュベーターと仕事をするのも。食品納入業者のような、いかにも企業といったオフィスにはいまひとつ関心が湧かない。「俺、たまに思うんですけど、ハンナさんってこの会社を次代のスターバックスにでもしたいんじゃないんですかね」「さあ、どうだろう」ジャックは少し間をおいてから答えた。「なんか、投資家とはいつもスターバックスで会うような気はするね。彼らの理想なんじゃないかな。巨大なイグジットに、莫大なリターン」エリックはうなずいた。「俺たちがお茶の生産者と関われるのはいいことです。誰かがやるべきことですから」「そうだね。大量生産のゴミは世界に十分あふれてる。本当に質の良いものを、僕たちが示さないといけないね」「まったくですよ」ジャックは気をよくして席に戻った。いいお茶がある。パッケージ・デザインもすばらしい。ウェブサイトは安定している。もうすぐハンナも来るだろう。
数字について話すハンナがようやくオフィスに戻れたのは夕方だった。窓に貼られたグラフ越しに太陽光が注ぐ。エンジニアが日よけがわりに貼ったらしい。ハンナは鞄も置かずにジャックの席に近づいた。「話があるの」ふたりはそのまま会議室に向かった。「部屋を空けて、エリック」会議室に入りざまに、ハンナは有無を言わさず言い放った。エリックは椅子から体を起こし、ノートPCを持って自席に戻っていった。ハンナとジャックは大きなテーブルを挟んで向かい合わせに座った。ジャックが壁のポスターをぼんやり眺めている。四半期の初めにつくったOKRのポスターだ。現時点でいくつ達成したんだろう、とでも思っているのだろうか。ハンナは身を乗り出した。「ジャック、あなたアーニャの契約を延長したでしょう」ジャックが目をしばたたいた。「うん。仕事が終わってないからね」「そんな予算はないわ。自分たちの給料の分すらないのよ!この四半期が始まってもう6週間。あと数カ月でまた資金調達をしなければならない。でも、数字はろくに動いてない。こんな状態で、誰が投資するの?」ジャックは呆然としたままこちらを見ている。どうやら、まったく心構えができていなかったらしい。ハンナはジャックをにらみつけた。「私が送っているダッシュボードは見てないの?ジャック!」「ん、ちょっと数字は得意じゃないんで。でもエクスフライトとは契約できたじゃないか。あと、先週のレストランと」「その前の週に別のレストランを失ったけどね。倒産したのよ。そういうものなの。だから、売り上げからいったらプラマイゼロ。ねえ、もう話したでしょう。私たちには食品納入業者との契約が必要なの。この四半期はあと2社、次の四半期は5社。で、資金調達ができるくらいに堅調な数字を出さないといけない」「レストランとの契約をたくさんとるんじゃダメなのか?」ハンナは言葉を失ってジャックを見つめた。ジャックも気がついているだろう。こんな話は2カ月前に済ませておくべきだったのだ。でも、もう遅い。ハンナは爆発した。「レストランとの契約では間に合わないの。営業担当者をたくさん雇わなければね。で、そうしたら経費がかさむわけ。レストランは行動が遅くて、慎重で、契約までにとんでもなく時間がかかるでしょう。しかも、実際に契約したところで、週に1キロも頼まない。1社の納入業者は100社のレストランくらいの価値があるわ」ハンナの怒りの炎はますます燃え上がる。「ジャック、あなたが経済の基本に関心を持とうとしないのには、もう耐えられない。どこかの大企業のデザイナーだったら、ミーティングで数字の話をしているときに寝ていてもいいんでしょうけど。勘弁してよ、あなたの会社なのよ!」そして、赤字になれば、遠からずジャックの会社ではなくなる。ハンナはテーブルに手を叩きつけた。テーブルが震える。ジャックが後ずさりした。ハンナは自分で自分の怒りが怖くなり、首を振って腰かけた。深呼吸をして低い声で話す。だが、その落ちつきがかえってジャックの不安をかきたてたようだった。「ジャック、お金を稼がなければ、誰かを解雇しないといけないのよ。うちの母のレストランは知ってる?あれは母にとって初めてのお店じゃないの。祖父と祖母もレストランをやってた。母はそこで経営を覚えて、あの業界に惚れ込んだの。でも、70年代の不況下では誰も外食しなかった。祖父母は店を閉めたくなかったし、人を辞めさせたくもなかった。きつい状況のときに、失業者を出したくなかったのね。でも、状況は改善しなかった。結局、レストランは倒産したわ。もし誰かを早く解雇して、経費を節減していれば……」ハンナはぐらぐらするイケアの椅子に寄りかかった。ジャックを見るが、ハンナが痛烈に感じていることはいっこうに通じていないようだ。「同じ失敗は繰り返せない」「何が言いたいんだい?」ジャックはそっと尋ねた。心配そうだ。少し怖がっているのかもしれない。「あなたにもっと真剣に関わってほしいの。ジャック、こういうもので何がしたいわけ?」ハンナは壁を指さしながら言った。OKRのポスター、微笑んでいる顧客の写真、ウェブサイトのモックアップなどが部屋中に貼ってある。ジャックの仕事の産物だ。「たぶん、僕はものごとを正しく実行できる場所がほしかったんだと思う。すばらしいものを見つけて、自分が好きになるのと同じように人にも好きになってもらう方法を見つけたかった。そうしたらおもしろいだろうな、と思ったんだ」ジャックはひと息ついて身を乗り出し、ひじをテーブルに載せて顔の前で指を組んだ。「それに、充実するだろうな、とも。テクノロジー分野のニュースを読むと、世界を変えるようなものをつくっている人が毎日のように出ている。僕もそうなりたい」「おもしろいときもある。でも、おもしろいことだけやって、難題はいつもほかの人に押しつけてばかりじゃいられないでしょう。私たちが道を誤ったら倒産するの。みんな失業。お茶がどんなにいいものかも、誰にも伝えられなくなる」ハンナは微笑もうとしたが、顔がひきつっている。ジャックが返事をした。「ダッシュボードを確認してみるよ」ハンナはうなずいた。ジャックが深く溜息をつく。ジャックは早く会話を終わらせたかっただけなのだろうか、それとも本当に変わろうとしているのだろうか。
CEOへの不信感ジャックはヘッドホンを着けて、コンピューターの前に座った。聴いていた音楽はしばらく前に終わっていた。ハンナのダッシュボードを眺める。この数字はどういう意味なんだろう?OKRはハンナが管理しているはずだけれど、数字はどう変化しているのだろう。どのくらい達成したのか。できなかったのか。なじみのある数値がひとつもないが、聞くのは恥ずかしかった。ともあれ、ハンナは4時まで営業に出ている。つべこべ言わないで理解に努め、もし帰ってくるまでにわからなかったら説明してもらおう。しばらく見ていれば、自然にわかってくるかもしれない。ヘッドホンの向こうで、シェリルとエリックのささやき声がした。バグの処理順でも決めているのだろうと思っていたが、なにやら妙な言葉が聞こえてくる。「ハンナ」……「売却」……ジャックはつい、ふたりの言葉に耳を傾けた。「ああ、典型的なMBAのはったり野郎って感じだな」とエリック。「金儲けにしか興味がない」「そうかもね」とシェリル。彼女はお喋りなタイプではない。「なあ、あいつは俺たちを大企業のポケットに押し込んだんだ。会社を売り飛ばす準備でもしているんだろう。だいたい〝ビジネススクール〟ってのは、そういう方法を教えるところなんだ」エリックは「ビジネススクール」を強調するような身振りをした。ジャックは気づかれないよう目の端で見ていた。おいおい、MBAがなんでも教えてくれるわけじゃないよ。「ああいう連中は利益を上げるだけ上げてから全員をクビにして、数字をよくするんだ。で、一番高く売る。な?」ここまで来ると、もっともらしい話にはとうてい聞こえなかった。ハンナはそういう人ではない。次にエリックが言ったことで、ジャックは骨の髄までぞっとした。「俺はやつらに〝コストカット〟なんかさせない。いまだに仕様が来ないから、暇を見てコードを修正しているんだ。やつらが雇いたがってるCTOにはせいぜい頑張ってもらおう。なにひとつ調べられないようにしてやる」クビにされないようにわざと難しいコードを書くエンジニアがいる、という噂はジャックも聞いたことがある。でも、そういうものはシリコンバレーの都市伝説、エンジニアの世界に出るお化けの類かと思っていた。それは間違っていた。ジャックはダッシュボードを閉じて仕様書を開いた。それから、2台めのモニターでダッシュボードを開く。そして、ダッシュボードと仕様書の間で何度も視線を行き来させながら、何をすべきかを考えた。
悪い知らせオフィスの電話が鳴った。めったに鳴らないので、ジャックは飛び上がった。ハンナが電話を取り、冷静に応答する。「はい、ティービーのハンナです……フィリップ様、はい、お世話になっております」食品納入業者だ。ジャックは椅子に浅く腰かけた。サイトの売り上げアップのために、ハンナに頼んで納入業者から推薦文をもらえないだろうか。会話に割って入れないかと、腰を浮かせた。「申し訳ございません」ハンナが答えた。眉間にしわがよっている。こりゃ推薦文の話は無理だな、とジャックは思った。「あの、埋め合わせさせていただけませんか。お茶を持って車で伺います」長い沈黙。ハンナはじっと耳を傾けている。「承知いたしました。重ね重ね申し訳ございません。失礼いたします」ハンナが電話を切り、ジャックが歩み寄った。ハンナはキーボードに顔をうずめてしまった。ジャックはじっと立っていた。放っておいてほしいときもあるのはわかっている。ハンナが顔を上げた。「ジェファーソンに切られちゃった」「え?」「注文の間違いが多すぎるって」ハンナは何度も両手を握り、指を何度もからめてはほどいている。「一括注文のフローはいつできるの?私、いつまでも注文の入力をやってられない」「昨日エリックに渡したよ。やってくれるはずだ」「そうよね、やってくれるはず」ハンナは冷たく、うつろな目でジャックを見る。手はひざの上で組んだままだ。「ジャック、テンゾー・ファームに電話してちょうだい」「え?」「御社の注文はすべてキャンセルになりましたって。抹茶を注文していたのはジェファーソンだけだったの。ジャパンタウンに幅広く卸してるから。テンゾーに、最大の顧客を失いましたと伝えて。で、注文の増加に伴って人をとってないことを祈って」ジャックは青ざめた。ハンナはそっぽを向いた。「早く。早くやりなさいよ、社長さま」
再度エンジェルにアドバイスをもらうハンナはためらいがちにスターバックスの外に立っていた。エンジェル投資家のジムが相談相手にふさわしいかどうか、自信がなかった。でも、ほかに誰と話せばいいかわからなかった。ジェファーソン社を失ったことでハンナは動揺し、自分自身への信頼が揺らいでいた。でも、ジャックは相談相手として役に立たない。彼自身が問題だからだ。エスプレッソを2杯買って、裏のテラスでジムと合流した。ジムは立ち上がり、ハンナからカップを受け取って微笑んだ。「おや、ジャックはどうしたんだ?」ハンナは口ごもった。「個人的なご相談があるんです」ジムの微笑みが消えた。口調はやさしかったが、視線はあたかもハンナを見極めるかのように動いた。「何を悩んでいるのかな?」ハンナは不安そうに続けた。「いろいろ難しいことがありまして、アドバイスをいただこうと」ジムが手で先を促す。「ジャックのことなんです」ハンナはジムに山のような不満をぶちまけた。「そういうわけで、彼が技術的な問題処理をそっちのけにして、テイスティングやらパッケージやらで油を売っているので、私たちはジェファーソン社を失ってしまったんです」ハンナはジムの答えを待った。ジムの目尻の笑いじわは消えてしまったようだった。ジムはわずかに口をすぼめ、テーブルの上に両手を載せた。「ジャックは自分の役割を果たさなければいけないね。それは説明した?」「ええ」そこで少し考える。「たぶん……。そんなことをしていても時間の無駄だ、とは言いました」でも、〝社長さま〟というのは馬鹿にしただけであって、社長としての自覚を促したとはいえない。「彼もわかっていると思います」「ハンナ、難しい話じゃないんだ。ちゃんと言いなさい。それから何度も言いなさい。言うのに疲れた頃になって、人はようやく聞いてくれるものだからね。そして、OKRに集中すること。OKRを達成するための役割をジャックがわかっているかどうか、君が確認しなければいけない」ジムはエスプレッソの最後の一滴をすすった。「君も自分の役割を自覚しないといけないよ。CEOの仕事は、ゴールを定めることと、言いにくい話をすることだ。本物のCEOになりなさい」「あの、次の資金調達が心配なんです」ハンナはジムに何をすべきか教えてもらいたくてたまらなかった。ジムは肩をすくめた。「いざとなったら、もっと経験豊富な取締役を入れればいい」ハンナは凍りついた。胃液が逆流し、エスプレッソが喉元を焦がす。一瞬、いつものまずい紅茶にしておけばよかった、と思った。「私は君たちふたりが好きだから、はっきり言おう。さっき、君たちはばらばらになりそうだと話してくれたね。私は投資家であって、母親じゃない。ジャックと仲直りするか、ジャックをクビにするかの2つにひとつだ。君は収益の改善に専念する。それができなければ、私は誰かを入れて、会社を次のレベルに引き上げる道を探す。難しい話じゃない。君たちはきっかけをつかんではいる。でも、シリコンバレーは良いもののきっかけであふれているんだ」珍しい話ではない。投資家の指示によって創業者が経験豊富な取締役にすげ替えられる事例はいくつも聞いたことがある。「わかりました。ええと、なんとかジャックと話してみます」エスプレッソのせいで、心臓の鼓動が激しくなっている。「よかった。次に会うのを楽しみにしているよ」
エンジニアをクビにする?ハンナがオフィスに戻ったときには、夜も遅くなっていた。ジャックはまだコンピューターの前に座っている。ほかには誰もいない。エリックが会議室に潜んでさえいなければ、みんな帰ったようだ。コートを置いて座ろうとすると、ジャックが部屋を横切ってやってきた。「どうしたの?」とハンナは聞いた。まだ〝重要な話〟の準備はできていない。まずは戦略を練りたかった。「話があるんだ」ハンナは話を後回しにしたいので、下を向いた。「今?まだ注文の入力があるんだけど」「どうもエリックが仕事を妨害しているようなんだ」「えっ」ハンナは会議室に目をやる。「彼はいないよ」「噓でしょう。どうして?」「たまたま聞いたんだ。自分の仕事を守るためにコードをわざと難しく書き直してると、シェリルに言ってた」ハンナは自分の鞄の上に崩れるように座った。それからいったん立ち上がって鞄をどかし、座り直した。ジャックはデスクの脇でおとなしく待っている。「ジャック……」「わかるよ」この人はわかっていない。半分も。「すぐにCTOを採用しましょう。今すぐに。あなたも私も、エリックの話が本当かどうかわかるほどコードについて知らないもの」自分の会社が目の前で崩壊していく。「コードの話じゃなくて、エリックの話をしているんだ。ピボットに不満なのはわかっていたけれど、これはやりすぎだ。しかもデマを広めてる」ジャックはぐっと唾液を飲み込んだ。「君の悪口を言ってる」「クビにしないと。私たちでクビにできる?」「どうだろう」ハンナはノートPCを開いた。手が少し震えている。カフェインのとりすぎだ。「で、テンゾー・ファームには電話したの?」「今はエリックのことを考えないと」つまり、ジャックは電話していない、と。「私……考えないと。明日ゆっくり話させて。ちょっと状況を消化したいの」ハンナはどうしようもない孤独感にさいなまれた。
契約打ち切りを伝えるジャックはテンゾー・ファームに電話できないまま午前中を過ごした。今まで、悪い知らせを伝えたことなどなかった。人を解雇したことも。顧客に文句を言ったことすらなかった。言いたかったことは何度もあったけれど。午後も電話できなかった。退社時間の6時までに電話するか、明日の朝には電話しなければいけないのはわかっていた。翌朝にはハンナに問い詰められるだろう。ジャックはデスクを離れ、海岸沿いの道に向かった。ティービーの小さなオフィスは、国道101号線の側道とベイショア公園に挟まれた細長い敷地にある。ここには数々のスタートアップ企業、コンサルティング企業、それに動物病院から教育サービスまでさまざまな零細企業が軒を並べており、両端には大手会計事務所と、新興の大金持ちが使う小さな空港がある。難しい問題に突き当たると、誰もが海岸沿いを散歩した。機密事項でなければ、ハンナは遊歩道を歩きながら1対1(ワン・オン・ワン)のミーティングをするのが好きだった。ジャックはハンナとの散歩が恋しかった。ここ最近話すことは全部機密事項に該当するかのようだ。ここには自然があり、うなりをあげるコンピューターの前で過ごす日々を癒してくれる。起業するのを名案だと思っていた頃もあった。デザイナーはあまり起業しない。お金に関わるのが怖いからだ。本当は責任を持つのが怖いのではないか、と今になってジャックは思う。大学を出てから大学院に入るまでに1年間の休暇をとり、たくさんのコンサルティングを行った。顧客を幸せにするだけの簡単な仕事だった。今は混乱している。客とは誰だろう。幸せになりそうな人は誰ひとりいない。ジェファーソン社に電話してもう一度チャンスをもらおうとしたが、大失敗だった。同社との関係は終わっており、ハンナに言ったのにもう一度同じことを言わなければならないのかと怒られてしまった。ハンナにばれたら、再契約のチャンスをぶちこわしたと罵られるかもしれない。ようやく携帯電話からテンゾーに電話する決心がついた。ベンチに腰かけて浅瀬を眺めながら、番号を押した。「お世話になっております、ティービーのジャックです。アツシさんはいらっしゃいますか?」「はい、私です。お変わりありませんか?お仕事の様子はいかがですか」「あの、実はよくないことが……」「どうしました」「実は、残念なお知らせがあります。ジェファーソン社との契約が打ち切りになりました。17日以降、抹茶のオーダーがなくなります」電話の向こうが沈黙に包まれた。「もしもし?」「はい。あの、何と申し上げてよいか……我々のほうで改善できることはありますか?品質の問題でしょうか」ジャックの胃液が喉元までせりあがった。「いえ……私たちがオーダーを間違えて、契約を切られてしまいました。大変申し訳ありません」「わかりました。すると、来月の生産量を調整しないといけませんね。いいスタッフがパートで来てくれていて、社員として採用するつもりだったんですが……いえ、こちらの話です。すぐにお知らせいただき、ありがとうございます」アツシの声がしっかりした調子に戻った。怒ってはいない。しかし、どことなく痛々しい響きがある。小さなビジネスはいつも先行き不安定なものだ、とジャックはかつて学んだ。今日、テンゾーをあらぬ方向に押してしまったのは自分だ。「すみません」ほかに言葉が見つからなかった。会話が明るくなりそうな言葉を探したが、浮かんでこない。「残念です」アツシの溜息が聞こえた。「私も残念です。失礼いたします」ジャックが返事をする前に、電話は切れた。ジャックはそのまましばらく座っていた。小川に鷺がとまった。青い水面に、白い羽がぱっと広がる。それでも気は休まらなかった。そう、僕は製品のことだけ考えているわけにはいかない。ビジネス全体をデザインしなければならない。全体像を理解して、あらゆる判断が正しいかどうか確認しなければならない。このとき初めてジャックは悟った。ティービーとは、おいしいものを美しい箱に詰めただけの存在ではない。ティービーとは、一緒に働く従業員たちであり、彼らと交わす会話である。彼らと立てる計画でもある。大嫌いな数字ですらある。会社はひとつのエコシステムであり、ジャックはただのデザイナーというよりは庭師のような立場だ。仕事をもっとうまくやらなければならない。ジャックは立ち上がって握りしめた両手をパーカーのポケットに突っ込み、オフィスに戻った。
時間切れテンゾー・ファームとの電話はジャックの心に1週間ほど火をつけた。ハンナは引き続き注文を入力していたが、フロントエンド開発担当者のキャメロンに頼んで、送信前にダブルチェックしてもらうようにした。プロセスは前より遅くなったが、これ以上納入業者を失うわけにはいかない。しかしキャメロンは仕事の重要性を理解していないようで、数字のチェックをしながら気軽に話しかけてくる。ハンナはなんともいえない気持ちになったが、これこそが今抱えている最大の問題だ、とはとても言えないと判断して、無視することにした。モニターを指でなぞりながら1行ずつゆっくりと注文をダブルチェックするキャメロンをその場に残して、ハンナはジャックに近づいた。「一括注文のフローは今週から稼働するのよね?」「うん、うん。ユーザビリティ・テストをして、何カ所か変更するつもりだけど」「〈最良は良の敵〉、ね」ハンナはつぶやいた。「は?」ジャックは顔も上げない。「なんでもない。とにかく稼働させて。お祝いにニューカッスル・ブラウン・エールを買っておくから」ニューカッスルはジャックの好物だ。高くつくけれどご機嫌はとれる。稼働させてくれるならなんでもいい。「今夜、デイリー・ブレッドでテイスティングがあるんだけど」ジャックはおずおずと言った。「冗談でしょう?」「ごめん、何カ月も前からの約束なんだ」ハンナの視線がOKRポスターをさまよった。何週間も掲示している間に、色あせて読みづらくなってしまった。次のステップがこちらをにらんでいるようだ。「3人の営業担当者を採用する」ハンナはそっぽを向いた。「あなたはテイスティングへどうぞ。私は目標があるんで。せいぜい頑張って」求人を出すために、急いでデスクに戻った。一瞬立ち止まって、ジムから学んだことをジャックにいつ話すかを考えようとした。でも、ひょっとして、ジャックも自分なりに改善に取り組んでいるのかもしれない。そうこうしているうちに、四半期の終わりがついにやってきた。
さんたんたる結果ハンナはOKRを確認するためにジャックを会議室に引きずり込み、またしてもエリックを追い出した。エリックは「ホームページの読み込み時間を0・5秒短縮しました」などと自慢している。ジャックは前より敵意のこもった声で「出て行ってくれ」と言い渡した。ハンナはOKRのプリントアウトをテーブルに並べ、赤ペンを取り出して達成できなかった項目を囲みはじめた。紙はみるみる赤くなっていった。「営業チームは?」とジャック。「フランクはよくやっているけど、採用できたのは彼ひとりだけよ。四半期が半分過ぎるまで私が広告を出さなかったから。これは?」そう言ってハンナは、「再注文のうち50パーセントはお客様自ら実行」を指さす。「わかってるだろう。一括注文システムは先週稼働したばかりなんだから」「どこかに稼働率があるはずだけど」と、ハンナは紙の束をばらばらとめくって探す。「あった。ええと、いまのところ15パーセントね」「新しいシステムだからね。お客様をいらいらさせたくなかったんだ。だから、まだレストラン数軒と納入業者1社にしか話してない」ハンナは長い、震えるような溜息をついた。「まあ、そうよね。もっと早く稼働すればよかったとは思うけど」ハンナはいったん間をおいて考えをまとめた。「先週やった満足度調査はある?結果を分析できるくらいたくさん返ってきた?」ジャックは親指の爪のささくれを嚙みながら、もう一方の手でカラーのプリントアウトを取り出した。「うん、そうだね。十分な数の回答があった。結果は……良かったり悪かったり、といったところかな」「じゃ、KRは未達成ね」「そうだね」ジャックは落胆した。顧客満足度はジャックの最大の関心事だ。次にハンナが営業成績を取り出した。「売り上げを見ると……惜しいけれど、実に惜しいってほどじゃない。2カ月めの終わり頃に少し上向きになって、達成できるかと思ったんだけど……ジェファーソンが……」ジェファーソン社を失った痛みが、毒ガエルのようにふたりの間に立ちはだかった。ふたりはチャートを見つめた。「つまり、ゼロ?」とジャック。「ゼロよ。達成できたOKRはゼロ」赤インクの重みが、疲れと怒りを呼び覚ました。「ありえない。OKRをひとつも達成できてないってなんなの。みんなOKRを達成するために一生懸命努力するはずだったのに、やろうともしなかったみたいじゃない!」私がやろうとしなかったみたい。と、頭の中の声が言った。ジャックがやろうとしなかったみたい。と、別の声が言った。「あのさ、新しいブランディング・システムは稼働したじゃないか。レストランのウェブサイト操作の手伝いもやった。精算のフローも改善した。でも……」ジャックの声がかすれる。「どれもこれも、合意した重点目標ではなかったね」ジャックはパーカーのポケットに両手を突っ込み、目の前の紙を眺めた。ふたりともわかっていた。ジャックのしたことは、なにひとつ目標に関わっていない。ハンナは唇を固く閉じたままジャックを見た。そして、くるっと後ろを向き、大股で会議室から出て行った。部屋を出ないと。この部屋では悪いことしか起こらない。ジャックが追いかけた。「出て行ってすむことじゃないよ。話を終わらせないと」と小さな声で言った。オフィスにはまだたくさん人がいる。「なんで?はっきりしてるじゃない。私たちは失敗したのよ」ハンナの目に涙が溜まる。このまま怒っていないと、恥ずかしさがこみあげてくる。「母はいつも言っていたわ。〈不況のときは、成功したときの行動に戻りがちだ。たとえそれが正しい行動でなかったとしても〉って」わかっている。自分もジャックも会社を率いるのが初めてなので、怖くなっているのだ。「あなたは既存顧客のためのデザインとユーザビリティに集中するばかり。私は営業チームをつくるかわりに自分で営業してしまった」声がうわずって感情的になる。「で、今、投資してもらえるだけの結果が出ていない。立ち直れるとは思えない」ハンナはにわかにオフィスが静まり返っているのに気がついた。恥をさらした嫌悪感がこみあげ、玄関に向かう。もう海岸に逃げてしまいたい。そのとき、ジャックのポケットで携帯電話が鳴った。画面に〈ジム〉と表示されている。「ハンナ、ちょっと待って!」怒鳴ってから電話に出た。電話を指さして、ジムだよ、とハンナに伝える。「ジャックかい?ジムだ。ちょっとスターバックスに寄ってくれないか。今、打ち合わせしている人がいるんだが、君たちも会うといいかもしれないと思ってね」「今すぐ行きます!15分です!」ジャックは明るく言った。ハンナは顔をしかめた。「ちょっと、ちょっと、まだ話をする準備ができてないじゃない。数字を達成できなかったのに」また声がうわずる。ジャックが恥ずかしさで真っ赤になっているが、ハンナはあまりの怒りに声を落ちつけることもできない。「ジムといったい何を話すつもりなの」「だから、OKRが機能しなかったことだよ。僕たちのせいじゃない。ジムのシステムを実践したけど、何も起きなかった。あんなの、よくあるシリコンバレーの流行にすぎなかったんだよ」「ジャック、あなたこれが本当にOKRのせいだと思ってるの?」「なんとも言えないよ。僕たちのお尻を叩いてくれるはずのシステムだったけど、なにもしてくれなかった」ハンナの声が低くなる。怒りが限界を超え、落ちつきに変わる。
「なにかが機能しなかったのはたしかね」ハンナはジャケットと車のキーをつかんで、ずかずかと出て行った。ジャックがあとに続く。ふたりの創業者がドアも閉めずに飛び出していくのを、オフィスの全員が見つめていた。
ハンナとジャック、CTO候補に会うスターバックスへの道のりはあまりに短かった。途中まで来て、ハンナは車内が静まり返っているのに気がついた。そういえば音楽をかけようとも思わなかった。ジャックは離れて窓の外を見つめている。ハンナは、駐車場に止まるミニバン2台の間の狭いスペースにシビックをすべり込ませた。ジャックが息を大きく吸い込んで助手席から降りてきたが、いつものようにアメ車の図体が大きいのなんのと愚痴ろうともしない。奥のテラスに行くと、ジムの向かいに20代後半くらいの黒髪の男がいた。まるでここのオーナーでもあるかのように、ゆったりと椅子にもたれかかっている。短く刈った髪に、レイバンの濃いサングラス。黒いTシャツからはタトゥーがのぞいている。よくよく見るとTシャツは〈マイ・リトル・ポニー〉の絵を〈ドクター・フー〉風にしたパロディ柄で、タトゥーはPerlで書かれたRSA暗号化スクリプト。どこからどう見てもギークそのものだ。誰だろう、とハンナは思った。また投資家だろうか。私たちが失敗のことを正直に言ったら最後、投資してくれるわけがない。空いた席を指してジムが手招きした。「やあ、君たちのCTOが見つかったかもしれないよ」「プレッシャーは勘弁してください」と、ギーク代表が微笑んだ。じゃ、営業成績の確認じゃないのね、とハンナは腰かけながら思った。緊張しきっていた胃がわずかにほぐれる。ジムが男を紹介した。「彼はラファエル。SOS社を退職してきたところだ」「ゲーム会社のですか?」とジャック。「うん」とラファエル。「新規上場おめでとうございます」とジャックは挨拶した。「まあね」ラファエルの表情がほころんだ。首尾は上々といったところだろう。ラファエルがあまり語ろうとしないので、ジムが補足した。「その前はスタートアップをやっていてね、グーグルに買収されたんだ」「買収雇用だな。そのあとはオーカットにいて……」ラファエルは肩をすくめた。たとえ会社を畳んだとしても、才能を見込まれて会社ごと買収されたのなら立派なイグジットだ。次のオーカットはグーグルが取り組んだ最初のSNSで、そこで働いていた経歴は誇っていいものだ。「そんなにすごい経歴をお持ちなのに、なぜどこかのビーチでゆっくりしていないんですか」とジャック。「まだ仕事をやりきっていないんだ。ゲームはおもしろい。興味をそそられる課題もある。でも、もっとやりたいことがある」ハンナはジャックを見た。ジャックは背筋を伸ばして懸命に聞いている。ラファエルが続けた。「最近、高級コーヒーショップで売られている単一産地のコーヒーについて読んでいてね。このやり方なら、生産者が豆を焙煎業者にずっと高い単価で直接販売できる。だから、コーヒー生産国の人々の生活も改善される。同じことがほかの市場でなぜできないのかわからない」ラファエルはひと息ついて、カップからコーヒーを飲んだ。「君たちの実績についてはジムから聞いているよ。きっとたくさんの人の生活を変えられる」ジャックから気持ちの重さが徐々に消えていったようだった。「そうなんです!お茶を買いたたいたり、良い茶葉と悪い茶葉を混ぜて月並みな商品をつくったりするのではなくて、よいお茶をすべての人に届けたいんです」ラファエルがうなずく。「それは君たちにとってどういう意味があるんだい」「僕が大切にしているのは品質です。粗悪品は許せません。母はバーゲンが大好きで、セールという名前さえ付けばなんでも買ってくる人でした。僕はジーンズを20本持っていましたが、とても家の外では履けないようなものばかり。で、1本の〈リーバイズ501〉を毎日履いていました。よくできたもの、よくデザインされたものを体験すれば、違いはわかるものです。弊社はそのお手伝いができると思っています」ハンナはジャックがなぜこれほどまでに完璧主義なのか考えてみたことがなかった。デザイナーによくある奇妙な癖として片付けていた。今わかった。ジャックも使命感を抱いている。ただ、私の使命感と同じではないだけだ。ラファエルが加わってくれれば、地に足のついた経営ができるかもしれない。ここで私の熱意も披露すれば、ラファエルとの〝契約〟に至ることができるだろうか。ハンナは割り込んだ。「それに、生産者の生活も変わります。たとえば、ワカマツ・ファームはカリフォルニア州に最初に移住してきた日本人が創業しました。今は文化遺産になっているんですが、近年お茶の生産を再開しました。このお茶をレストランに納品すれば、土地を改善するための資金を調達できます。今朝チャットしたハワイの家族農園も、もっと多くの人にお茶を届けたがっていました。私たちがうまくやれば、それが叶います」「そういう話が聞きたかった!」ラファエルが拳を打ちつけたので、紙コップが揺れた。「水準を上げる仕事。起業家が大企業と競争できるようにして、世界を良くする仕事だよ!」ハンナは胸を躍らせたが、噓を売り込んでいるようで気まずかった。OKRの話をしないで、ラファエルに加わってもらうわけにはいかない。ジムにも知らせる必要がある。聞かれる前にこちらから話したほうがいい。テーブルの下に両手を隠し、こっそり指輪をいじる。「あの、お話を進める前に、お伝えしなければならないことがあるんです。私たちは前の四半期に重要なゴールをいくつか定めたんですが、ひとつも達成できませんでした」ジャックが裏切り者を見るかのような目をしている。たしかに裏切りかもしれないが、噓を言って来てもらうわけにはいかない。「私たちは5つのOKRを設定しました。Oは、価値を生む、プラットフォームを提供する、売り上げを上げる……」ここでハンナは黙り込んでしまった。残り2つの目標を思い出せない。ジャックのほうを見たが、肩をすくめただけだった。まあ、今となってはどうでもいい。「それでですね、すべてのKRを明確な数値目標にしたんですが、なにひとつ達成できなかったんです」ハンナは深呼吸をして、テーブルの全員を見回してから、もう一度ラファエルを見た。「そのことで、あなたがうちに入ることをためらわれたとしても仕方ないと思っています」すると驚いたことに、ラファエルはこれまで以上に明るく話に乗ってきた。「そりゃ君、やり方がおかしいよ。グーグルでもSOSでもOKRを使ったけど、ちゃんとうまくいったよ。5つのOKRだって?君も全部覚えてなかったじゃないか。社員がどうやって覚えるんだい?
クリントンの選挙参謀だったジェームズ・カービルは、政策通のクリントンが重箱の隅をつつかないように、ずいぶん苦労したらしいよ。なんせ、登壇するたびに教育から外交からエネルギーから、あらゆることを盛り込みたがる。そこでカービルは言った。『3つ言ったら、何も言っていないのと同じです。単純にするんです。経済、以上。ひとつの中心メッセージに絞るんです』ってね。OKRも同じだよ。だいたい、目標がそんなにあったら毎週のチェックイン・ミーティングだって永遠に終わらないじゃないか」「毎週のチェックインですか?」とジャックが聞いた。「ティービーではできるだけ会議を少なくしてるんですが」ラファエルが首を振った。「気持ちはわかるけど、ゴールを設定したら、実現するようにお祈りしているだけじゃダメだ。ゴールに向き合って、チームとして実現しなければいけない。つまり、会議は必要。アジャイル開発で毎朝のスタンドアップ・ミーティングと毎週のプランニング・ミーティングが要るのと同じだな。毎週の方向性を決めるフレームワークさえしっかりしていれば、意義のある、優れたミーティングになるんだ」そう言って、ラファエルはナプキンを1枚取ってテーブルに広げた。折り目によって4つの四角形ができている。ラファエルはパソコンバッグからマジックを取り出して、ひとつの四角の中に「O」(Objective)と書いた。次に「KR」を3つ。そして、それぞれのKRの横に「5/10」と書き込んだ。
「いいか、Oはこの四半期にみんなを鼓舞するものだというのはわかってるな。KRは、正しくやったら達成できる結果だ。でも、OKRを忘れるのはたやすい。おもしろいことは毎日起きるからね。だから、毎週月曜日にOKRを確認する。我々は目標に近づいているのか、目標から遠ざかっているのかと問いかける。そのためにSOSで使ったのが、自信度の評価だ。四半期の初めに、各KRの自信度を10分の5に設定する」「50パーセントしか自信がないんですか?できるかできないか半々ってことですよね」「そうだ。ゴールを通常のゴールとストレッチ・ゴール[通常のゴールより強気に設定する、思い切ったゴール]に分けてはいけない。すべてストレッチ・ゴールとする。どれも難しくなければならない。でも、不可能とは違う。不可能なゴールは人を憂鬱にするけれど、難しいゴールは人を鼓舞するんだ」ラファエルはテーブルを見回した。ハンナが前のめりになっていて、ジャックは少し引いている。さっきの逆だ。「で、毎週話し合う。我々は前進したのか、後退したのか。もし、自信度を10分の8から10分の2に落とすなら、なぜ落とすのか知りたいよな。何が変わったのか。状況を把握するだけではなく、理解するのにも役立つ」ジャックがきっぱり言った。「無理です。追跡する内容はごまんとあります。ほかの指標をただ無視するわけにはいかないでしょう」ハンナも同意する。「ジャックの言うとおりです。注意を払わなくてよいことなどありません」ラファエルが首を振って、右下のマスに「健康・健全性」と書き込んだ。
「よく聞いて。この右下に、健康・健全性指標を書き込む。上のマスで〝ムーンショット〟ほど高いOKRを掲げたときに、守らなければいけないのがこの項目だ」と、右上のマスを指さす。ハンナとジャックは、よくわかっていないことを確かめ合うように、互いの顔をちらっと見た。ラファエルが深呼吸する。「よし、説明しよう。パイプラインの急成長を目標に据えたとする。そうしたら、できるだけ多くの納入業者やディストリビューターと提携するよな」ふたりの創業者がうなずく。「でも、顧客開拓を急ぐあまり、既存の顧客を忘れてはいけない。ということで、たとえばこのように決める」そして、右下に「顧客満足度:青」と書き込んだ。「こうすれば、お客様が引き続き満足しているかどうか毎週議論できるね。いろいろなやりとりができる」ラファエルは「チームの健康、コードの健全性、注文、売り上げ」と箇条書きにした。「でも、OKRと同様にフォーカスが必要だろう?だから、毎週いくつかのトピックを取り上げて全社で話し合い、残りはもう少し間をあけて、我々だけで確認すればいい」ジャックが言った。「顧客満足度は絶対です。あと、コードの健全性でしょうか。ダメなコードは要りませんよね」「たしかに、ダメなコードは問題の温床だな」ラファエルが同意した。「ちょっと待って」ハンナが割り込んだ。「コードはともかく、弊社のビジネスは技術じゃないんです。現実的な内容にしませんか。私は売り上げを目標にするのがいいと思うんですが、チームの健康と健全性、それに採算性こそが重要じゃないでしょうか」ラファエルが答えた。「OKRは自分が推し進めたいことであり、フォーカスして向上させたいただひとつの領域だ。健康・健全性指標は、監視しつづけるべき重要な点だ。両方同じにしたらあまり意味がないよ」「顧客満足度とチームの健康はどうするんですか?社員が燃え尽きないようにしないと」とジャックが聞く。「あら、私はもう少しみんなが働いてくれても構わないわ」とハンナ。「仕事量を増やす必要はない。適切な仕事をさせればいいのさ」とラファエルは答える。「よし、まずはそれを目指そう。顧客満足とチームの健康を書き込んで、現時点ではこれでやっていく。これで、推進すべきゴールと維持すべきゴールが定まったな」続いてラファエルは、ナプキンの左側に「P1」を3つ、「P2」を2つ書き込んだ。
「ここには、君たちがOKRに影響を与えるためにやる大きなことを、3つから5つ書き込む。これは共有するので、君が」とハンナに向かってうなずく。「結果を出すための仕事にみんながちゃんと時間を使っているかどうかを確認できる」「えっ、毎週の仕事は3つじゃ足りませんよ」ジャックが愚痴った。ラファエルが答えた。「一番忙しい人を決めるコンテストじゃないんだから、自分がやることを全部書かなくてもいいんだ。やらないとOKRを達成できないようなことを書こう。人生はいつもやることでいっぱいだ。重要なことを忘れないようにするのが秘訣だよ」「ええ、ええ、わかります。最後のマスには何が入るんですか?」ハンナは左下のマスを指さした。気持ちが新たになり、やる気も出てきた。「俺は予告と呼んでる。君が来月に起こってほしいと思う重要事項のパイプラインだ。そうやって使えば、手伝いが必要なときに、マーケティング部門、エンジニアリング部門、セールス部門などがのんびりして誰も動けなかったということがなくなる」
「つまり、これを毎週やるんですか」とハンナが聞く。「そうだ」「で、それぞれのポイントについて話し合うんでしょうか。ゴールの達成と関係ないことをやっている人は呼び出すようにして」「それはCEOである君の仕事だね」「できるかもしれません」ハンナは考えをめぐらせながら下唇を嚙んだ。「本当にできるかもしれません」ハンナとジャックは月曜日からラファエルを暫定CTOに迎えることにした。双方にとってのお試し期間だ。でもハンナにとっては、もう問題は解決したも同然だった。ラファエルは完璧な共同創業者だ。孤独がほんの少しやわらいだ。
OKRをやり直すラファエルを迎える前の日曜日、3人でパロアルト・カフェに集まった。朝早いので、小さなコーヒーショップにはほとんど人がいない。スターバックスとフィルズ・コーヒーは日曜なのに出勤前のビジネスパーソンで外まで列ができていたが、パロアルト・カフェの開店時の客はティービーの一行と親子が一組だけ。小さな男の子が古い木のテーブルの下にもぐり込むのを父親が眺めている。ハンナとジャックはパロアルト・カフェの熱狂的なファンだった。紅茶のことを本当に考えている数少ないコーヒーショップで、ティービーの初めての顧客でもある。だいたい10時までは静かで、その時間になると、家族連れ、ダイスで遊ぶ老紳士たち、それにライターたちが、のんびり時間を過ごしにくる。起業家とベンチャー・キャピタルが互いにプレゼンし合う光景がないカフェは、シリコンバレーでは絶滅危惧種と言っていい。新しく結成された経営チームは、ここで計画を始めた。「ラフをチームミーティングで紹介しようか」ジャックはラファエルの名前を親しげに縮めて言った。「サプライズは歓迎されないわよ。ミーティングの前に、一人ひとりに紹介しましょう」とハンナが提案する。「うん、前の会社でもそうだったよ。あと、今夜のうちにメールでお知らせを送っておくといい」とラファエルが同意する。そこでジャックは眉をひそめた。ハンナを見て言う。「エリックのことは?」ハンナがあごで合図する。「続けて」ジャックは奥歯にぐっと力をこめて、胸のうちを話した。「ラファエル、うちのチームのやつが……コードをいじってたんだ。わざとややこしくして、ほかの人が作業できないように」「クビだ」とラファエルが即答する。「で、ラファエルはCTOになったので、実際に見てもらって、クビにできるならしてもらおうと」「ダメだ。君たちが採用したんだから、君たちがクビにするんだ。そのあとのことは俺がやる」「でも、困りませんか?」「難しいシステムじゃない。必要があれば俺が書き直す。ただ、腐ったリンゴはそのままにできない。ことわざどおり、やつらは何でも腐らせるからな。明日の退社までに彼をクビにする。そして外まで送り出す。君たちの言ったようなことをしていたなら、もうコンピューターに近づかせてはいけない」ハンナはジャックを見る。「あなたが品質管理責任者よね」ジャックはハンナを見る。「君がCEOだよね」ハンナはひと息ついて、紅茶を口に含んだ。絶品だ。母親のこと、祖父母のことを考える。テンゾー・ファームやほかの生産者を思い浮かべる。そして言った。「そのとおりね。彼はクビ」もうひと呼吸おいてジャックを見つめる。「状況が変わらなかったら、次はあなたよ」冗談なのかどうか、ジャックにはよくわからなかった。ラファエルは初日、8時に出社した。ハンナはデスクに向かっていたが、あいまいに手で挨拶だけしてまた入力に戻った。しばらくしてコーヒーの香りが漂ってきた。あら、とハンナは微笑んだ。キャメロンが冷凍庫に隠していたとっておきを発見したみたいね。10時になって会社が人でいっぱいになったところで、エリックが大股で入ってきた。ハンナは入力をやめた。ショータイムだ。隣の机にいるラファエルに向かってうなずく。ハンナはラファエルを連れてエンジニアリング部門の島に向かい、新たに率いることになるチームに紹介した。「なんかコーヒーの匂いがするんですけど」エリックがとがめるように言った。「みんながみんな紅茶で一日をスタートするわけじゃないよ」とラファエルが笑った。「もちろん!」とキャメロン。エリックは顔をしかめた。しょっぱなからジャブをかわされてしまった。「ラファエルさん、あなたは有名なゲームをつくっているんですってね。でも、言っときますけどお茶は単純なようで難しいんですよ。うちでは注文管理に独自のシステムを導入しています。供給の大きな波は処理するのが難しいんですが、それを予測するアルゴリズムも開発しました」「それはよかった」とラファエルが答える。エリックがさらに聞く。「アルゴリズム設計には詳しいですか」「まあまあかな。前の2社では検索を担当していたよ」ハンナが会話に割り込んだ。「エリック、ミーティングの前に会議室で話があるんだけど、いい?」「えーと、まだやることがいくつかあって」「今すぐよ」エリックは肩をすくめて、ノートPCに手を伸ばそうとした。ハンナはマシンの上に手をそっと載せた。「それは要らないわ」エリックは目を白黒させてから、どうとでもなれという表情で会議室に入った。ハンナは座って、エリックにも座るように手で促した。エリックは立ったままだった。「エリック、あなたがコードに何をしているのか、私たちはわかってる。うちではそういうことは認められないの」エリックはジーンズのポケットに手を突っ込んだ。ハンナは待った。何か言いたくなるのを必死でこらえながら、頭の中で数をかぞえた。やがてエリックが口を開き、無限とも思える長い時間ののちに、ようやく声を出した。しっくりくる言葉が見つかるまで、舌の上で言葉を転がしていたかのようだった。「お前らがやっていることこそ認められねえよ!俺が入ったのはこんな会社じゃねえ!」エリックは吐き捨てた。ハンナは次の言葉を準備しはじめた。しかし、口を開く前にエリックが言葉を続けた。
「ゲーマー野郎と何をするつもりだ。IPOの準備でも始めるのか?まだカネを引っ張ってこようとしているのか?農家のことを考えてるのか?人間のことを考えてるのかよ!」ハンナは愕然とした。彼は何を言っているのだろう。会社がまともなイグジットに達するのは何年も先だ。ましてやIPOなんて。「エリック、あのね。しばらく前からCTOを探しているって言ってたでしょう……」「どうなるんだよ、この会社!レストランとの取引に戻らないなら、もう辞めてやる!」エリックはそのまま立っていた。ハンナが説き伏せてくれるように。残ってほしいと頭を下げてくれるように。ハンナはエリックを見返した。2メートル近い身長でタバコ臭い、コードをいじくり回した、信用ならないアナーキスト。エリックが少しだけ肩を落としたのを見てから答えた。「私の話を勘違いしているようね。あなたはクビよ」ハンナとエリックが会議室を出ると、ジャックとラファエルが待ち構えていた。ラファエルは、ミーティングの間に箱詰めしておいた私物をエリックに渡した。エリックは驚いた。「え、仕事用のPCにある俺のデータは持って帰れないんですか?」ラファエルがジャックに向かって軽くうなずく。ジャックは恐怖心を振り払うように咳払いをしてから、エリックに言い渡した。「悪いが、退職の事情からそれは許可できない」エリックは華奢で浅黒いラファエルに向かって身を乗り出した。「あんた、だまされてるよ」「そうかもな。スタートアップだから」とラファエルは肩をすくめた。エリックはもう一度なごり惜しげにPCを眺めてから、とぼとぼとドアを出て行った。ハンナが付き添った。「セキュリティ・コードを変えよう」ラファエルがジャックに言った。ジャックはじっと立って、現実をゆっくりと飲み込んだ。「やった。ハンナがやったんだ」「ハンナはCEOだ。そして、エリックは会社を危険にさらしていた。そういう事態を野放しにしておくには、俺らはあまりに不安定で、あまりに新参者だ」ラファエルがそう答えた。「それはわかります。ただ、僕は……」ラファエルが振り向いてジャックの目を見た。「僕は社長を辞任しようと思います。この会社に社長は要りません。でも、製品品質管理者は要る。僕にとって本当に大切なのは、質の高い商品をつくることです」ここまで話したところで口ごもる。「でも、それはティービーに必要なんでしょうか。僕は現実の問題に向き合わないで、不必要なことをずいぶんやってきました。僕は本当の意味での最高製品責任者になれる自信がありません。呼び名は製品担当副社長でもなんでもいいんですが」ラファエルがデスクの端に軽く腰かけた。「うまくいくかなんて、誰にもわからない。だから、成功まではふりをしろ、といわれているんだ。俺が引きこもってコーディングだけやっていたい気分にならないとでも?そんなわけがない」一瞬足下を見てから、もう一度ジャックを見つめる。「自信満々なふりをして、目標にフォーカスしろ。もとの習慣に戻らないようにOKRが引き留めてくれると信じろ。だから俺はOKRが大好きなんだ。安全地帯に戻りたい気分になっても、OKRが約束に縛りつけてくれる。な、俺らはみんなふりをしてるんだ」ジャックは長い溜息をついた。詐欺師のような気分になっていたのが自分だけではないとわかってほっとした。ラファエルはデスクからホチキスを取り上げ、くるっと回した。「俺らは互いに、会社に、ゴールに対してコミットしなければならない。あとはがむしゃらに実行するだけさ」ラファエルは笑った。カチッ、カチッ、カチッ。空に向かってホチキスを空押しする。ジャックも笑った。ハンナが戻ってきた。「どう?」とジャックは聞いた。「エリックは行ったわ。さあ、仕事しましょう。いろいろ進めたい気分なの」3人は会議室に向かった。残りの社員はすでに集合している。会議の冒頭で、ジャックがラファエルを紹介した。「おはよう。昨日の晩のメールを見てない人がいたら……彼はラファエル。暫定CTOとして来てくれているけど、うまくいけば正社員になってくれるかもしれない」ナオコやキャメロンなど何人かは礼儀正しく笑みを浮かべていたが、ほかの人は視線を下に向けてノートPCを見ている。まるでロボットに話しかけているようだ。
ハンナが立ち上がった。「みなさん、これから変わるのは、ラファエルが入ることだけではありません。まず、PCを閉じて。全員注目して」そして待った。シェリルを除いて、みんながPCを閉じた。シェリルが指を立てて言った。「ちょっとバグを直してるんですけど……」「そのバグは、ミーティングが終わってもあるんじゃない?」部屋が静まり返った。やがて、シェリルがPCを閉じた。ハンナは前四半期のOKRから説明を始めた。「ほとんどのみなさんは前四半期のOKRを達成しませんでした……」全員が一斉に言い訳を並べはじめた。「サイトのパフォーマンスに問題があって」とシェリル。「ロス・ガトス社の注文ミスと納品遅れの対策があったんで」とキャメロン。「マーケティングの方法も不適切では」とアーニャが提案する。「ふたりめの営業も採用してません」とナオコが付け加える。ハンナは割り込んだ。「でも、それでいいの」全員が黙った。「ううん、いいとはいえない。でも、予想どおりよ。あちこちで聞いて回ったんだけど」とラファエルに向かってうなずいた。「初めてOKRを導入すると、たいていのチームが失敗するんですって。だから、もう1四半期やってみたらきっとうまくいく」シェリルが聞いた。「でも、そんな暇あるんですか?大企業みたいなことをするには、当社は小さすぎませんか?」ハンナはこの疑問への答えを用意していた。「グーグルは創業1年でOKRを導入してうまくいった。OKRは小さな企業を大きくするためにも有効なの。それに、目標達成こそできなかったけれど、ありがたいことに、フォーカスに問題があるということがわかった」沈黙。ハンナは続ける。「ということで、この四半期は少しやり方を変えます。まず、会社のOKRはひとつだけ。成功と失敗を分けるたったひとつの点にフォーカスするの。それは、納入業者との関係です」ハンナはみんなを見回す。ほとんどの顔はうつろだったが、ラファエルのきらめくような微笑みが目に入って、先に進む勇気が湧いた。「2番めに、会社のゴールに結びついたOKRをグループごとに設定します。3番めに、それぞれのKRに自信度レベルを設定します。成功する自信度が50パーセントの目標にしなければなりません。ゴールは全部ストレッチ・ゴールです。そして一番重要な点として、OKRの確認と、週ごとにやるべきことを、毎週ミーティングでチェックします」チームはまだ暗い雰囲気だった。でも、シェリルとキャメロンが少し前傾姿勢になっている。この人たちは、私の気持ちを共有してくれている。「毎週の進捗確認ミーティングで使いたい形式があります。これを使って優先順位と自信度の変化を共有しましょう。これは業務評価ではありません。脇道にそれずにゴールを達成するための方法なの」ハンナはホワイトボードに4つの四角形を書いた。「以降、この形式を使います。毎週モデルを更新するのに10分以上はかからないはず。最初はもう少しかかるかもしれないけれど、あとは修正するだけだから。右上にはOKRを書きます。ここにも、成功できる自信を表す自信度レベルを書き添えます。たとえば、前四半期の当社のOKRはこんな感じ」ハンナは、ホワイトボードに次のように書いた。
「自信度レベルが全部5になっているでしょう?これは、大胆だけれど不可能ではない目標にしたいから。3つのうち2つを達成できれば胸を張っていい。会社の自信度は、私が毎週更新します。ラファエルがエンジニアリング部門、ジャックがデザインを含む製品部門、フランクが営業部門、ナオコが財務部門の自信度を同じように更新してください。自信度を上げたり下げたりしたときは、遠慮なく理由を聞いてくださいね。これがディスカッション用の書類」ジャックがホワイトボードの左側で説明に加わる。「ここ、左上には、目標を達成するために今週やるべき最重要事項を書き込むんだ。優先順位をつける。P1はやらなければならないこと、P2はやるべきことだ。それ以下のことはもう書かない。そして、5つ以上は書かないようにする。フォーカスするんだ」ジャックはホワイトボードにこう書いた。
「P2を足して自分の仕事をほかのメンバーに認識してもらいたくなることもあるだろうけれど、ここでは、細かいことをいちいち知らせるのが目的じゃない。重要なこと、メンバーが手伝えること、あるいは少なくとも認識しておくべきことだけを書くんだ。みんながどれだけ一生懸命やってるかはわかっている。ただ、正しいことを確実にやれるようにしたいんだ」続いて、ジャックは左下を埋めた。「ここには、今後進める予定になっている最重要事項を並べる。みんなで認識を合わせて、サーバーを買ったりマーケティングの準備をしたりというときにわかるようにする。これから4週間くらいの主な予定を書く」最後にハンナは右下を指さした。「ここは健康・健全性の指標。チームを強く前に進めるからこそ、みんなが大丈夫かどうか確かめたい。燃え尽きていたり、取り残された気持ちになっていたりしないようにしたいの。もうひとつの健康・健全性指標は何にするといいと思う?」各自が追跡すべき項目をどんどん提案し、活発に話し合った。最終的には、「食品納入業者の幸せ」にコミットすることに決定した。そうすれば、みんなが新しい顧客にフォーカスできる。「健康・健全性は赤、黄色、青のどれかにします。ちょっと大ざっぱなのはわかってるけど、現状についての感触を得て、それをどう直していくかを話し合いたいの。たとえば、顧客満足度については、お客様を失っていれば赤、失いそうであれば黄色」言葉を切ると、やや不安になった。このあと会話がどう進展していくか見当もつかない。「今日は、これをどこに設定したらいいと思う?」「黄色です」キャメロンが言った。ジャックとハンナは、いつもは楽観的なエンジニアのほうを見た。「ええとですね、おふたりが営業に出られてると電話をとるのはいつも俺なんですよ。シェリルはあまり電話をとりたがらないし、エリックはいつもヘッドホンを着けてます……あっ、着けてました。電話に出ると、納入業者がしょっちゅうウェブサイトの機能について聞いてくるんですね。やっぱりサイトを気に入っていないんだと思います」ジャックは落胆して顔をゆがめた。ユーザーに気を配らなければならなかったのは自分だ。「わかってる。この四半期に修正しよう」続いてジャックが持ちかけた。「チームの健康は赤かな?いろいろ変わったからね」シェリルが答えた。「黄色じゃないですか?エリックは自分で思っているほど重要じゃなかったわけで。新しくいらした方次第ですね」そしてにっこりした。シェリルが冗談を言っているのに気がついて、みんなが笑った。ハンナはようやく気が楽になった。無口なシェリルが冗談を言うくらいなら、この方法はうまくいくかもしれない。「それじゃ、みんな、この四半期のOKRを設定しましょう」キャメロンが顔をしかめた。「えっ、前の四半期のようにハンナさんが設定するんじゃないんですか」「ううん。ちょっと聞きたいんだけど、この会議テーブルは取り替えたほうがいいと思う?」「とんでもない」「なぜ?ガタついてるし、営業があとふたり来れば、全員がテーブルのまわりに収まらないけど」「捨てられるわけないじゃないですか!俺、このオフィスに来たときのことをよく覚えてます。ジャックとふたりで説明書を理解して組み立てるのに3時間もかかったんですよ」「でしょう?私たちは、みんなでつくり上げたものに価値を感じるの。みんなで目標を考える。チームとしてKRを選ぶ。そして、チームとして成功するの。ここはみんなの会社。成功するのも、失敗するのも一緒よ」そしてチームは新しいOKRと優先順位の検討に移った。
目標に近づいた1カ月後の金曜日「デモだよ!」ラファエルが大声で呼びかけた。エンジニアたちが席を立ち、大画面テレビにノートPCを接続して、まわりに椅子を並べる。「全員参加だ!営業のみんなも集まって!」ラファエルはまだ全員の名前をちゃんと覚えていない。「ハンナ、エクセルを閉じてこっちに来い。ビールも用意したぞ!」ハンナはデモデー(デモの日)のことをすっかり忘れていた。そういえば、ラファエルに金曜日の4時頃からオフィスを使うと言われていたっけ。エンジニアがこの週に達成した実績のデモを行う計画だった。ハンナは伸びをし、できなくなった仕事を思って溜息をつき、ゆっくりと大画面テレビのほうに向かった。いつもの金曜日は、創業者たちが遅くまで働く中で、社員が気まずそうにひとりまたひとりと帰っていく。気持ちが高揚することもなく、弱音とともに終わるのがいつもの金曜日だった。今日は違うだろうか。エンジニアたちはコードを紹介し、新しく開発した納入業者向けサポート・インターフェースの一部を見せた。口下手なシェリルも、納入業者の再注文システムにAPIで接続できるようにデータベースを修正したと発表した。ハンナはほっとした。ようやく本当の目標に向かって作業が進みはじめている。それで終わりかと思ったら、ジャックが立ち上がった。アーニャを促して、ノートPCをテレビに接続させる。「食品納入業者向けの情報ページに関して、新たな方向性がいくつか決まったので、発表させてください」モックを見て、ハンナの胸は躍った。共通の目標に向かってほかにも進んでいることがあるなんて!今まで、ジャックとアーニャが一日中何をしているのか、ややいぶかしく思っていたけれど、デザインが完成するまでのさまざまな過程を見たので、ハンナにも高度な仕事だと理解でき、チームへの心証がよくなった。そうすると、ほかの人たちの業務も気になってくる。デザインの発表が終わったところで、ハンナは前に進み出た。「すばらしい発表だったわ。ほかのチームの活躍も教えて。フランク、営業部門はどう?」「ええと、小さい会社ですけど、テイストコ社と契約しました」ハンナがめずらしく大声で笑った。「えー!私がずっと追いかけてたのに!これで中西部にも進出できるわね。すばらしいわ!」そこにジャックが割り込んだ。「ところで、ハンナは何をしてたの?」こんな質問を振ってくるのはジャックだけだ。「パートタイムのカスタマー・サービス担当者を見つけたわ。名前はキャロル・ランドグレン。前はイーペン社のカスタマー・サービス・チームでリーダーを務めていたの。お子さんが小さいので、勤務時間の融通が利く職場を探してた。で、うちが採用できたってわけ」自然に拍手が沸き起こった。こうしてティービーの面々は、ビールを飲みながらその週のできごとを共有した。ハンナは自分たちが遂げためざましい進歩にめまいがしそうだった。でも、それ以上に重要なのは、オフィスの雰囲気が変わったことだ。ほんの1カ月前には、全員が役立たずの気分でしょげていたのを考えると信じられない。デスクの端に座っていたハンナの横に、ジャックが歩み寄った。ほかの人に聞かれないように声を落とす。「アーニャの契約を早期で打ち切ったよ。今日が最終日だ」「え?モックは素敵だったじゃない」「うん、でも更新作業は僕でもやれる。アーニャの仕事はP1じゃなかった。OKRの役に立ってなかったんだ」ハンナは手に持っていたカップの烏龍茶の茶葉に目を落とした。一瞬、小さな首つりロープのように見えて、眉をひそめる。「くよくよするなよ。デザイナーはシリコンバレーで引く手あまたなんだから。アーニャも次の仕事を見つけたって。この会社がやっていけるように集中しなければ、僕たちみんなが失業しちゃうからね」ハンナは静かに微笑んだ。「私みたいなことを言うわね」金曜日は毎週のリズムの一部になった。毎週月曜日に、全員でその週の計画を練り、互いに対してコミットする。若い会社に必要な、厳しい話し合いだ。そして毎週金曜日に、お祝いをする。OKRの達成は無理ではないか、と思ってしまうような厳しい週でも、金曜日の〝ウィン・セッション〟(と名づけられた)が、チャレンジを続ける希望になる。士気を上げる効果は絶大だった。誰もが金曜日に発表できる成果を求め、1週間がんばって働く。まるで、会社全体が魔法に包まれたかのようだった。
めでたし、めでたし?四半期が終わり、ティービーの面々は前期とはまったく違うチェックイン・ミーティングに臨んだ。会社のKR(KeyResults)をすべて達成したのだ。一同は喜びのあまり、興奮して誰彼かまわず語り合った。盛り上がっているところに、ラファエルが冷や水を浴びせた。「みんな、これは良いことじゃないぞ。俺らはサンドバッグを相手にしているんじゃないか?」「サンドバッグって何ですか」とジャック。「自分たちがいい気分になるために、本物のストレッチ・ゴールではなく確実に達成できるゴールを設定することだ」部屋は一気に静かになり、ハンナは歯を食いしばった。士気が下がってしまう。どうやって乗り越えようかとひそかに心の準備をした。そこにジャックが発言した。「じゃあ、今期は適切な厳しいゴールを立てればいいじゃない。僕は金曜日のみんなを見ているからわかる。きっとやれるさ!」堅物のイギリス人が一生懸命シリコンバレー風に喋るので、みんな笑った。チームは腰を据えて、今期を超える厳しいゴールの設定にとりかかった。
6カ月後、重要項目を達成次の四半期に、チームは再び集まって四半期のゴールを確認した。ハンナが以前言ったとおり、社員は会議室のテーブルには収まらなかった。キャロルとカスタマー・サービス・チームは壁際に椅子を並べて座り、少し前に営業チームが陣取っている。カスタマー・サービスに新しく入ったミンディは、フランクと親しげに談笑している。でも、ハンナはあまり気にならなかった。会社のKR(KeyResults)は2つしか達成できなかったけれど、達成できたのは重要な項目で、どちらもハンナは内心無理ではないかと思っていたものだったからだ。次の四半期のゴール設定に関する議論をまとめながら、ジャックはタップダンスを始めそうだった。すべての食品納入業者がサイトを経由して再注文してくれただけでなく、大口の取引先を初めてサイト経由で獲得できたのだ。その間にラファエルはアルゼンチンに飛んで、現地の農家とコネクションをつくってくれた。これでティービーはイェルバ・マテの生産者と取引し、マテ茶を納入業者に販売できる。マーケティング部長として採用したサラは、マテ茶ブームを仕掛ける作戦を立案した。朗報ばかりではない。シェリルは難題が解決したところで仕事に飽きて退職した。ただし、円満退職ではあった。毎週金曜日のお祝いでラファエルが会社の目標を何度も伝えたので、エンジニアチームは大きく成長した。ティービーは良い職場になり、世界中の茶葉生産者にとっても良い会社になりつつあった。
1年後ハンナはデスクに座り、メールを見つめていた。やった。初めての増資サイクル、シリーズAが終了した。そして、追加の出資を獲得できた!少なくともあと1年の猶予を得られたことになる。椅子を回して男性陣を見た。ジャックとラファエルが前のめりになってジャックのPC画面を見ている。ラファエルが画面の何かを指さした。「汚すなよ!」とジャックが小言を言い、ふたりは笑った。ハンナはほっと息をついた。今では何もかもが楽になった。毎週、ゴールを共有する。毎週、社員同士が互いを後押しし、支えあう。毎週、数字が伸びていく。ハンナはふたりが新しいバイヤー向けダッシュボードについてあれこれ議論し、アイデアを出すのを眺めた。口論さえも、前よりはずっと楽にできる。ハンナは椅子に深く腰かけ、淹れたての龍井茶の器を両手で持ち上げた。朗報はとっておこう。金曜のウィン・セッションは明日だ。とっておきの自慢があるのも悪くない。
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