神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。岡田能正
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はじめに「パワースポットブーム」なる現象が耳目を集めるようになって、ずいぶんと経ちます。その影響もあるのでしょうか、琵琶湖の東、近江八幡市にある神社、私がお仕えする賀茂神社にも日本全国からお詣りに来ていただけるようになりました。神社が人々から顧みられなくなった時代があったことを考えると、大変ありがたいことと思います。でも、そうは思いながらも、首を傾げざるを得ないことがちらほらと見えてくるようにもなりました。あるとき、熱心にお詣りくださっていた方がこんなふうにおっしゃいました。「ちゃんと住所・氏名も言いましたから。神様はわかってくださいますよね」聞けば、お願い事を神様に言う前に「住所、氏名を言わないと、神様はどこの誰かわからず、願い事も叶えてくれない」と言われているのだとか。私はこう答えました。「神様は今のような住所ができるずっと前から、この国にいらっしゃるのですよ。神様には、住所なんていう概念はありません。そんなことをわざわざ言わなくても、神様はきちんとあなたのことを見てくださっていますよ」そうなのです。神様、そして私たちのご先祖様はいついかなるときも私たちを見守り、導いてくださっているのです。賀茂神社の宮司家に生まれ、幼い頃から神様に仕える道を歩んできた私は、そのことを自分自身についてはもちろん、賀茂神社にお詣りいただく、たくさんの方々の姿や人生を通じて、深く感じてまいりました。災いを封じ込め、人々を正しい道へと導く私どもの神社、賀茂神社の由緒について少しお話ししましょう。時は奈良時代、天平八年(七三六)のことです。数々の天変地異やそれによる飢饉、天然痘など疫病の流行が続き、国内は疲弊していました。聖武天皇は国をなんとか立て直したい、大御宝(国民)を守りたいと願い、吉備真備にそれらの災いを封じ込めるための神社を建てるにふさわしい場所を探すよう命じました。陰陽道の祖としても語られる吉備真備は、遣唐使として唐へ渡り、さまざまなことを学ぶ中、陰陽道についても体得してきたといわれています。日本へ帰ってきたのは天平七年。聖武天皇はそんな彼に、存亡の機を迎えている国の未来を託したのでしょう。そして、吉備真備が選んだのが「天上から光が柱のごとく降り注ぎ、大地の気を発する場所」として、いにしえより人々の信仰を集めていたこの地だったのです。災いを封じるには、結界を張る、巨石を置くなどの方法もありますが、ここでは社殿を南西に向かって建てました。南西、すなわち裏鬼門です。災いや魔がやってくる裏鬼門を睨みつけ、その侵入を防ぐ。社殿は今も変わらず、南西に向かって建っています。その姿は源義経のため、敵前に立ちはだかり、体中に矢を浴びて果てた弁慶のように、私には見えます。そして、ご鎮座された賀茂大神様は、この国の初代天皇である神武天皇を熊野の山中で助け、道案内をした神様と伝えられています。災いを封じ込め、人々を正しい道へと導く。その願いを込めて創建された賀茂神社は一二〇〇年以上も変わらず、お役目を果たしてきました。賀茂神社に初めてお詣りに来られた方には「ここは魔除けの神社。国の乱れ、災いを封じるため選ばれた場所で、人々の進むべき道を案内してくれる神様がいらっしゃいます。神様の声は聞こえないかもしれませんが、それを感じたいな、お導きをいただきたいなという気持ちでお詣りしてくださいね」と、お話しします。感じる方、感じられない方、お導きをいただける方、いただけない方はそれぞれいらっしゃるようですが。余命数ヶ月と宣告された女性あるとき、「がんを患っている友人がいる。その人がよくなるように祈祷してほしい」という女性がいらっしゃいました。聞けば、ご友人は三十代の若さで、余命数ヶ月を宣告されてしまったとのことでした。本来なら、ご本人にもいらしてほしいところですが、県外に住んでいるうえ、そういう事情ならば仕方ありません。ご祈祷を終え、絵馬に願い事を書いているその方に「お友達に『このお神札をいただいた神社へ行きたい』と毎日強く思うようにと、伝えてくださいね。あなたがご祈祷の際に感じたこと、この場所の空気がどんなものだったかも詳しく伝えてください。そうしたら、きっと元気になって、ご本人がここに来られるようになりますよ」と、お話ししました。ご本人がお詣りにいらしてくれたのは、それから一年後のことです。入院中はずっと「元気になって、この神社へ行くんだ」と使命のような思いで祈ってくれていたそうで、それが叶い、とても嬉しそうでした。それから何度か、ご主人やお子さんと一緒にお詣りに来られていましたが、あるときを境に、ぱったりと姿を見せなくなりました。「元気にしていらっしゃるのだろうか?」と思いつつ、さらに二年ほどが経過した頃、ご主人とお子さんだけがお詣りに来られ、残念ながら亡くなられたことを知りました。でも、ご家族は「余命数ヶ月と言われていたのが、三年生きられた」「まったく歩けなかったのに自分で歩けるようになった」「毎日、料理も作ってくれた」「妻が行きたいところへ家族みんなで行けた」「五年後、十年後の子どもたちへ手紙を書き、ビデオレターを作った」などなど、妻、母としての彼女との思い出を語ってくれました。「退院してから亡くなるまでの三年間は短いようですけれど、私たちにとっては一生分の時間でした。妻はたくさんの思い出を残してくれました。だから、私たちは喜びの中で今日も生きていられる。ありがたい時間を賀茂神社さんにいただきました」ご主人のこの言葉に、私は強く心を打たれました。言葉の端々から神様の思いと、それをきちんと感じ、受け止め、日々を真摯に生きているご家族の姿が見えてきました。神社に来ても、運気は上がらない神社に関心が集まり、神社に関する書籍やテレビ番組なども人気のようです。けれど、そこで語られていることには「一番大事なもの」が抜けている。そのように感じられてなりません。
「神社に行けば御利益がある」「神社に行けば運気が上がる」などと思われているようですが、私はそんなことはあり得ないと考えています。神社に来るだけですべての人の運気が上がり、仕事で成功し、宝くじに当たり、素敵な人と結婚できたら、世の中、どうなってしまうのでしょうか。「苦しいときの神頼み」と言いますが、今、私たちがこの言葉に感じる意味と本来の意味は違います。私たち日本人は昔から神様を身近に感じ、感謝し、手を合わせてきました。日々の暮らしが常に神様とともにあったため、苦しいときにはより一層、その大いなる力におすがりしたのです。後に詳しくお話ししますが、「二礼二拍手一礼」というお詣りの作法は明治になって統一された、いわゆる「形式」です。冒頭の「住所・氏名を神様に伝える」という摩訶不思議なルールも同様、なぜかそうした「形式」ばかりが語られているように思えます。神社にお詣りに来る人は増えたけれど、神様のことは知らない。どんな神様が祀られているかも、どんな思いでその神社が守られ、こうして今も存在しているかも知ろうとしない。私たちの祖先と神様が大切に大切につないできたもの、その心が日に日に忘れ去られようとしているように思えてならず、拙いながらも筆をとることにいたしました。本書では、私たち日本人が日々の生活の中で、どのように神様を感じ、つながりを築いてきたのかをお伝えしたいと思います。お読みいただく中で、タイトルの『神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人』がどういう人なのか、両者の違いは何なのかをそれぞれに感じ取っていただければ幸いです。
目次はじめに第1章暮らしの中での神様とのつながり方朝日を浴びて、一日が始まる夜の間に身は穢れる自分のための神棚をつくる身支度を「整える」ということ「いただきます」は「祓い」の言葉誰も見送ってくれなくても「行ってきます」と言うネガティブな気持ちを浄化する方法穢れは溜め込まないこと立ち止まり、心を整えるかばんを床に置かない家に着いても、すぐ中に入ってはいけない脱いだ靴はきちんと揃えるトイレにも神様はいらっしゃるお風呂から上がった後は自分の体をじっくりと見る感謝で一日を終える月の神様を感じる
第2章神社との正しい付き合い方
神社とは、どんな場所?パワースポットとは何か?「いい神社」の見つけ方遠くの神様より、近くの産土の神様神社にはいつ行けばいい?お賽銭は四十五円がいい祈祷のすすめ有効な誓いの立て方とは?成功者の共通点神様の声を受け取るには神社にはひとりで行こう
第3章神道は「宗教」ではありません。
神道を支える精神日本だからできた『国譲り』そこに「いらっしゃる神様」仏教伝来による変化国家神道となる祈りのカタチ神道が祓いを大事にする理由日本古来の行事には「祈りと知恵」がある記念日は再生の日祭りは神事日本人は無宗教なのか?おわりに
第1章暮らしの中での神様とのつながり方
朝日を浴びて、一日が始まる朝一番には窓を開け放ち、まず朝日を浴びましょう。私は「太陽は私たちを包んでくれる母」という感覚で「今日一日を何事もなく、皆様が喜びの中で過ごされますように」「今日一日、世の中をよくするために働かせてください。神様の手足として、私の体をお使いください」と、祈ります。私たち日本人はいにしえより、朝がくることを心から待ち望み、その到来を喜んでいました。電気や火さえもない昔、夜は漆黒の闇の世界でした。闇は神秘的ではありますが、おそろしくもあります。何も見えない分、感覚が研ぎすまされ、闇の中で魑魅魍魎がうごめいていることも感じられたかもしれません。有名な『天岩戸』神話は、天照大御神が弟神である須佐之男命の乱暴狼藉を恐れ、岩戸にお隠れになってしまった話を伝えるものです。太陽神である天照大御神が出ていらっしゃらない世は闇に閉ざされ、そこでは「萬の妖が起こった」と記されています。闇に包まれる夜は何が起きるかわからない。自分の命も奪われてしまうかもしれない。その恐怖から、人は祈るような気持ちで朝日の到来を待ったのだと思います。闇を祓い、あたたかい光で自分を包んでくれる太陽が今日も変わらず昇ってきてくれたことに、人は心から安堵し、喜んだ。その感謝と敬意が「御来光」という言葉に詰まっています。一年の始まりの朝、凍えるような空気の中で初日の出を待つ。じわじわと、しかし確実に顔を出していき、世の中すべてを光で覆い尽くす太陽。誰もがありがたい気持ちになることでしょう。思わず手を合わせてしまうこともあるでしょう。でも御来光はこうした元日や富士山の山頂でだけ見られるものではありません。明日の朝、あなたの部屋に差す朝日も等しく御来光です。夜、人は眠りにつきます。闇に包まれて横になる。それは仮の「死」でもあります。一転して、光に包まれる朝。これは再生の象徴です。学生さんであれば、四月になると新しい学年、新しい教科書など、強制的にリセットする機会がありますが、社会に出るとそうはいきません。年度始めという言葉はあるにせよ、学生のときのような新鮮な気持ちはなかなかもてなくなるものと思います。でも実は、神様はこうして毎朝、私たちに「再生のチャンス」を与えてくれているのです。全国各地の神社にある「胎内くぐり」をご存知ですか?中が空洞になっている木の幹を子宮に見立て、そこをくぐり抜けることでもう一度、新たに生まれ変わる、というものです。私どもの神社にも、落雷により中は焼けてしまい、残った外側だけで元気に生き続けている大櫧があります。焼けたのは江戸時代末期の話といいますから、その生命力には驚くばかりです。この間をくぐり抜けることで、それまでの人生でついた穢れが祓われ、浄化され、まっさらな状態に生まれ変わることができます。まっさらな状態、それは「新しいエネルギーに溢れている」ということです。伊勢神宮が二十年に一度、社殿を一から建て直すことをご存知の方も多いでしょう。「式年遷宮」と呼ばれる、その壮大なる神事によって、新しくなった社殿に神様がお遷りになります。なぜ、そうしたことが行なわれ続けているかについては諸説ありますが、新しい社殿にお遷りいただくことにより、神様のエネルギーもまた新しく満ち溢れるという意味もあるのではないかと思います。平成二十五年十月に、神様が新しい社殿にお遷りになった後、伊勢神宮にご参拝された方も多いと思います。そのとき、神々しいばかりに社殿が輝いては見えませんでしたか?あの輝きはただ単に「新しい」からだけのものではないと、私は思います。朝日にもそれと同じ力があります。明日の朝は起きたら、東の窓を開け、朝の光をたっぷりと浴びてください。「今日も生きている」「新しい生をいただいた」その素晴らしい奇跡をかみしめて、感謝とともに一日を始めてみてください。神様とつながる言葉朝は再生のチャンス。今日も生きている、喜びと感謝を捧げよう。
夜の間に身は穢れる神道では「死」は穢れとされます。愛する妻、伊邪那美命の死後、伊邪那岐命は寂しさのあまり黄泉の国まで追いかけていきます。その後、二人は喧嘩別れをしてしまうのですが、黄泉の国から戻った伊邪那岐命は穢れを祓うため海に入って禊をするのです。「穢れを祓う」というと、神事のように感じられるかもしれませんが、そんなことはありません。「浄と不浄の間にしっかりと線を引く」「不浄は持ち込まない」という感覚を私たち日本人はもっていました。江戸時代の終わり、日本にやってきた外国人が江戸庶民を見て、皆こざっぱりと清潔であることに驚いたそうです。江戸っ子は多い人は日に四度も風呂に入ったという話もあるそうですが、これは単に「日本人は風呂好き」ということではなく、その奥に「不浄は好ましくないもの」という日本人ならではの感覚があるように思います。夜、眠りにつくことは仮の「死」。そして、眠っているあなたを包む闇には魑魅魍魎がうごめいている。就寝前、お風呂に入ったとしても、夜の間に、あなたの体は穢れてしまっているのです。朝、顔を洗い、歯を磨くことには夜の間に身にまとわりついた「穢れを祓う」という意味合いが含まれています。禊とは「身を削ぐ」という意味からきているともいわれます。身を削ぐように穢れを祓うのです。私は毎朝、家の神棚に手を合わせる前に、水をいただき、身を清めます。とはいえ、冬の寒い時期、風邪など体調のすぐれないときは、水で清めたタオルで体を拭くなど、適度に自分に優しくもしています。それでも「いやだな……」と思ってしまう朝もあるのです。でも、そこでさっと顔を洗うだけで済ましてしまうか、「いやいや、神主としてそれではいけない」と自分を律するか、毎朝、自分との小さな戦いが繰り広げられ、水行というゴールに辿りついています。自分に勝てた日は清々しく、胸を張って、神様に手を合わせられます。身に受ける朝日もより神々しく感じられます。できれば、あなたも朝にシャワーを取り入れてみてください。水でも大丈夫ならば水で、寒い時期は温水でも構いません。そうして清められた身に朝日を受け、感謝とともに今日一日の無事を祈る。ゆっくりと大きく深呼吸をして、朝日のエネルギーを体の隅々にまでいただきましょう。私は大自然の気をいただく気持ちで数回、深呼吸をします。伸ばした左右の手の平に気を集め、それを丹田(おへその下のあたり)へ持って来て、深く息を吐き出す。そして、また大きく息を吸い込みます。夜の間、体の中に溜まってしまった古い気を吐き出し、新たな気を取り入れるイメージです。丹田は「エネルギーポイント」「チャクラ」などとも言われますが、日本人にとっても大切なもの。「魂が宿る場所」とも考えられています。「腑に落ちる」という言葉がありますね。何かの物事を「心から納得した」ときに使われる言葉です。この「腑」は「内臓・はらわた」と辞書には説明されていますが、もっと深い腹の奥底のような感じがしませんか?これもまさしく丹田なのだと思います。神主の所作には安座(両足の裏を合わせる座り方)など、きつい姿勢がたくさんあって、丹田に力を入れていないと背中が曲がるなど、美しい姿勢にならないものが多くあります。私は神主としてこの丹田を意識していますが、日常で意識することもおすすめです。常時は厳しいかもしれませんが、大事なときや気づいたときに丹田に力を込める。それだけで、姿勢が美しくなるだけでなく、精神もしゃっきりと引き締まることを感じていただけると思います。シャワーを浴びることで外側を清め、朝日に向かって深呼吸をすることで内側も清める。夜の不浄としっかり線引きされる、新しい一日の始まりの儀式です。遅刻ギリギリの時間まで寝ていて、慌てて飛び出していく一日とはまったく違う一日になることを感じていただけるはずです。神様とつながる言葉夜の不浄と線引きをして、新しい一日を始める。
自分のための神棚をつくる神社などでいただいてきたお神札をあなたはどうしていますか?神棚をつくってください、とまではいいませんができる範囲できちんとお祀りしていただきたいと思います。お守りは持ち歩くためのものです。私はお守りをお求めになられた方にはこう言います。「お守りは神様の魂が込められたもの、神様と一緒なんですよ。手の平でそっと包むことは、神様を抱きしめさせていただいていることと同じことなんです」一方、お神札は神棚に祀り、家族を守ってもらうためのものです。神棚も今は簡易的なものが数千円から売っていますので、それを用意してもいいですし、棚の上に白い布や紙を敷いて、その上に立たせる形で祀ってもいいでしょう。柱に両面テープなどで直にお神札を貼っている方もいらっしゃいますが、これはおすすめできません。お神札もお守り同様、神様の魂が込められたもの。あなただって背中に直接テープを貼られて、柱に貼り付けられたらいやでしょう。それと同じことです。中央には天照大御神、向かって右には地元の神社や氏神様、向かって左には好きな神社というのが正式とされていますが、「お祀りし、手を合わせる」ということが大事なので、その通りにならなくても問題ないと思います。同様に、祀る方角も正式には「東か南に向ける」とされていますが、建築事情などもあると思いますので、そうならなくても気にする必要はありません。ちなみに、私の家の神棚は全国各地のお神札で溢れています。数えたことはありませんが、おそらく百社近くはあるでしょうか。朝起きて、水行で体を清めたら、神棚に新しい水をお供えします。そして、祝詞を上げさせていただきます。皆様には、こんなふうにお唱えくださることをおすすめします。「祓い給い清め給え神ながら守り給い幸え給え」訳すと、「お祓いいただき、清めてください。神様のお力でお守りくださり、幸せを与えてください」という意味です。祝詞とは感謝と奉仕の心を神様に伝えるものです。神様の前で朝、声を出して祈りを捧げることを習慣にしてみてください。この言葉に続けて、あなた自身の言葉で何か伝えてみるのもいいでしょう。神棚は神様方が集う場所であり、あなた自身が誓いを立てる場所でもあります。また、朝、祝詞で清らかな声を出しておけば、通勤途中であった人、会社の同僚への挨拶も清々しい、いい声でできることと思います。神様とつながる言葉神棚は神様が集う場所であり、誓いを立てる場所。
身支度を「整える」ということ身支度をきちんと整える、ということも「祓い」になります。服装はその日の自分の魂を映すもの、心の状態を映すものです。「何でもいいや」と、くしゃくしゃのものを着ていると、生き方も自然と「何でもいい」ものになっていってしまいます。高価なものを身に着ければいいというわけではなく、「きちんと手入れされているか」「整えられているか」が重要なのです。長く着古していても、大切に手入れして着ていることが感じられればいい。反対に、雑に扱われているものはすぐにわかってしまう。それはそのまま、あなたの印象に直結します。洋服だとそれほど支障はないかもしれませんが、着物は慌ててたたむと変なシワがついてしまいます。変なシワがついている着物ほど、みっともないものはありません。一度着たら、一日、影干しをして、汚れがついていたら落とす。たたむときもシワがつかないよう、丁寧にたたみます。私も装束を着けるときは、折り目がまっすぐ下まで通っていることにこだわります。変なシワができないよう所作にも気遣い、脱いだ後もきちんとたたんで収納します。ここまでが一連の作業です。切実な思いを抱えていらっしゃる方のために祈祷する神主がシワシワの装束で出てきて、神様の前で奉仕していたら、どうでしょう。いくら「私は誠実に務めている。外見で判断するな」と言っても、それは無理というものです。なぜなら、きちんとした清潔な身なりをすることによって、魂も整うからです。自然と、姿勢や顔つきにもそれが表れます。すると、周りにも同じようにきちんとした人が集まってきます。反対に、いくら外で着飾っていても、家で脱いだら脱ぎっぱなし、たたみもせず、次にまたそれを着て出ていく、というのはいただけません。それは、まるで穢れをまとって歩いているようなものだからです。そういう人の周りに集まってくるのは「見えないところはどうでもいいや」という人です。「見えないところ」とはどこでしょう?本当にそういうところがあるのでしょうか?ひと昔前の日本人は「お天道さんに顔向けできないことはしない」という気構えをもっていました。お天道さんは太陽。太陽は神様です。今のように「監視カメラがあるから悪いことができない」のではなく、カメラも誰も見ていなくても、太陽、神様が見ていると信じ、自分を律していたのです。外見を気にする前に、まずは服と、その服を着る自分自身が清められているかどうか。そこを大切にしてはいかがでしょうか。神様とつながる言葉きちんとした清潔な身なりをすることによって、魂も整う。
「いただきます」は「祓い」の言葉「いただきます」と言うのは、ご存知の通り、「尊い命をいただきます」という意味が含まれています。肉や魚、卵、野菜、米粒ひとつひとつにも命が宿っています。調理する前は皆、生きていて、私たちと同じようにこの世の土の上にいたのです。「いただきます」はその尊い命を私たちの糧とすることへの感謝の気持ちを表す言葉です。最近では「ベジタリアン」「ヴィーガン」という食事のポリシーをもつ方々が「命を奪うのはかわいそう。お肉やお魚、動物性食品は食べません」とおっしゃいますが、お米や豆、野菜も同じく「命あるもの」。すべての食べものが私たちのため、尊い命を捧げてくれているのです。ナイフやフォークは縦に並べられますが、お箸は横に置きます。なぜだかわかりますか?これは、食べものとあなたとの間に線を引くもの。「命を捧げたもの」(食べもの)と「生きているもの」(人間)の間の結界を表しているのです。中国や韓国でもお箸は使いますが、縦に置きます。お箸=結界という考え方は日本ならではのものです。感謝の心の作法として、日本人として、正しいお箸の扱い方をぜひ身につけていただきたいものです。また、私は夏休みなど長期の休みのとき、地域のお子さんを預かって合宿をさせることがありますが、お箸をきちんと持てていないばかりか、テーブルにひじをついて、背中が曲がった姿勢で食べている子が非常に多いのです。背中が曲がっていると、心臓や内臓を圧迫して消化にも悪い。医学的によくないこともありますが、何より「尊い命をいただいている」という思いがないことに心が痛みます。食事の作法はただ単に「きれいに食べる」ためのものではなく、すべての命に対する敬意を表したものでもあるのです。神道には、「神人共食」という言葉があり、祭りの後など神様にお供えしていたものを氏子たちで大事にいただきます。お正月に使う「祝い箸」は両端が同じように細くなっていますよね。これは片方の端は自分が食べるため、反対の端は神様が召し上がるためのもの。神様とともに食事をすることは、神道にとっては欠かせないこと、神事なのです。もちろん、祭りやお正月だけでなく、日常の食事も同じことです。お寺さんだと精進料理、他の宗教でも食事に制限を設けていることが多いようですが、神道には食事のタブーはありません。お肉もお酒も大丈夫です。私は大切な祭りの前は「潔斎」として、お肉やお酒を断ちますが、普段は自分が食べたいもの、心身が欲しているものを食べるようにしています。その代わり、出されたものは米粒ひとつ残しません。「命を捧げていただいた」と深く感謝することを大切にしています。残念ながら、私たちの生活は命を奪い続けることと切り離せません。誰でも、歩いていて蟻を踏んでしまうことはあるでしょう。蚊を叩いたり、ゴキブリが出たら殺虫剤を使うこともあるかもしれません。もちろん、殺生は「穢れ」です。だから「いただきます」と声に出し、「命を捧げてくださってありがとう」と感謝することで、穢れを祓い、浄化するのです。今では食糧の大量廃棄などが問題になっていますが、昔の人は食べ物を残すことをしませんでした。「食べ過ぎは罪となり、寿命を削る」という言葉もあります。縄文時代は一日一食だったといいます。命を保つための適量、それが本能でわかっていたのでしょう。反対に、その適量を忘れて贅沢をすれば、簡単にしっぺ返しがやってくる。食べ過ぎた分だけ、食べられない日がくる。自分だけでなく、周囲の仲間、子どもたち、二十年先、百年先の子孫にシワ寄せがいくことを魂で理解していたのだと思います。今のあなたはどうでしょう?百年先のことを考えて、尊い命に手を合わせていますか?神様とつながる言葉たくさんの尊い命をいただき、今日がある。
誰も見送ってくれなくても「行ってきます」と言う朝ごはんをありがたくいただき、身支度を整えたら、出社です。玄関を出るとき、あなたは「行ってきます」と毎日、口に出していますか?家族が「行ってらっしゃい」と言ってくれる場合は言うかもしれませんが、そういう人がいない場合はどうでしょう。誰も「行ってらっしゃい」と言ってくれなくても、見送ってくれる人がいなくても、神様、ご先祖様はあなたのそばにいて、「行ってらっしゃい」と言ってくれているのです。なので、一人暮らしの方でも「行ってきます」はぜひ口に出して、言ってください。「行ってきます」は「今日も頑張って、世の中のために働いてきます」「一日無事で、またこの家に帰ってこられますように」という意味の言霊でもあります。「今日一日お守りください」と、あなたを見守る神様との会話であるのです。だから、同様に、無事に帰ってこられたら、感謝を込めて「ただいま帰りました」と言いましょう。一人で住んでいても、神様もご先祖様も、いつもあなたのそばにいて、あなたを見守ってくださっています。ご先祖様も神様です。日本では、死んだ家族は神様になって自分たちを見守ってくれるものと考えられてきました。どんなに今、寂しくても、「味方がいない」という状況にあったとしても、私たちは誰一人、「一人きり」ということはありません。あなたの耳には聞こえなくても、「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」「今日も無事でよかったね」と言ってくれている存在がいるのです。「声にする」ということに意味があるので、大きな声でなくても構いません。それでも、ちゃんと神様は受け取ってくださいます。いつもそばにいて、声も聞いてくれていると考えると心強い反面、変なことは言えなくなりませんか?それでいいのです。ネガティブな言葉は向けられる誰かのことばかりか、あなた自身のことも傷つけ、穢れを引き寄せ、大切なエネルギーを奪います。反対に、前向きな、美しい言葉はあなたを浄化し、いいエネルギーであなたを満たしてくれるのです。神様とつながる言葉「行ってきます」は、あなたを見守る神様との会話。
ネガティブな気持ちを浄化する方法そうやって、清々しい気持ちで出かけても、道を歩いていて人にぶつかられる。その人は謝りもせず行ってしまう。電車はぎゅうぎゅうの満員……ということが続くと、気持ちはたちまちブルーになりますよね。会社に着いても、苦手な上司がいたり、仕事がうまくいかなくてモヤモヤすることもあるでしょう。そんなネガティブな気持ちに支配されたとき、その状態がまさに「穢れ」「不浄」なのです。「あ、穢れた」と思ったら、すぐさま自分で祓いましょう。私の場合は「祈りの庭」である森に入ります。賀茂神社が創建される前から祈りを捧げられていた古代祭祀場がある森で、周辺をぐるりと堀で囲まれています。南側一カ所だけ通れるようになっていて、それが本殿のある場所へ通じる道となっています。堀は結界。周囲から隔絶された聖なる地です。その中に入り、木々を見つめて、深呼吸をする。それだけで浄化された気持ちになります。都会にも神社はありますから、ぜひ近所の神社へ深呼吸しに行ってください。神社には緑があります。緑とは五行説でいうと青。青は「清」「晴」「精」のように、澄んだ、浄化された状態を表す字です。また、「東」「始まり」を意味する字でもあります。緑のそばで人は、太陽が昇る、あの朝の浄化された空気を感じ、再生の感覚を取り戻すことができるのです。あなた自身のお気に入りの場所、落ち着く場所を「祓いの場」にするのもいいでしょう。モヤモヤして、穢れにとらわれそうになったときに駆け込める場所をつくっておくといいですね。ビルの中でも、空を見上げられたり、地上の木々を眺められたりする場所はあるはずです。まずは、そこで深呼吸して、心を整えてください。水で手を洗い、清めるのも有効です。お手洗いなら鏡がありますね。その鏡を見て、ぜひ笑顔をつくってみてください。鏡、「かがみ」から「が(我)」を抜くと「神」になるとも言われます。「が」とは「闇」も意味します。「我が出る」「我が強い」など、自分勝手な主張が強いと、人から敬遠されるばかりか、神様からも敬遠されることを覚えておいてください。自分の都合のいいときばかり神社に行き、自分勝手なお願いばかりしていませんか?そのときのあなたの顔はまさに「が」が出てしまっているのです。神社で、参拝する方が手を合わせる先に鏡が置かれているのは、そうして自分自身を「鑑みる」ためではないかと私は考えています。自身の顔を見ることによって、己に向き合う。鏡に映った姿のその奥の魂に向き合うよう諭されているのではないでしょうか。お手洗いの鏡も同じ。あなたは今、どんな顔をしていますか?暗い顔、不機嫌な顔をしていては、穢れが近寄ってきます。自分のデスクにも小さな鏡を置き、いつもチェックするのもおすすめです。女性なら、お化粧直しをすることも浄化につながります。ここで大切なのは「自分を浄化するんだ」という意識をもつこと。人間なので、常にポジティブな清い気持ちでいることは不可能です。でも、こうして小まめに自分で祓うことで、心を整えられることを覚えておいてください。「手ぬぐい」という名称はそもそも「穢れを拭う」という言霊からきています。顔や手を拭って、清める。物理的な汚れだけではなく、気持ちの穢れをも拭い去れるから「手ぬぐい」なのです。古来、日本人は手ぬぐいを使うたび、「これで浄化された」と思ってきました。自己暗示、自己満足かもしれませんが、それでいいのです。「穢れを祓う」というと難しく思えてしまうようなら、「自分が楽になる方法」と思ってみてください。自分の中で、それをするとモヤモヤが祓われスッキリすることを見つけてみましょう。それがあなたなりの「祓い」になります。神様とつながる言葉「穢れた」と思ったら、自分なりの方法で祓うことができる。
穢れは溜め込まないこと神主の仕事は「掃除に始まり、掃除に終わる」と言われています。「掃除は神事を始める前の神事であり、掃除をしない者は祭りに出る資格はない」とも、私は思っています。掃除をするのは、「神様は清らかな場所を好むから」と言われますが、私は私たち人間のためにそう伝えられているのだろうと考えています。自分のためだと、掃除にもそれほど力が入らないかもしれませんが、神様のためと思うと、心がけが変わります。そうして心を込めて掃除をした結果、一番気持ちよく、その日一日清々しく仕事ができるのは、まぎれもなく私たち人間。周りが清められると、自分の心も清められる思いがします。私はよく「会社の業績が悪い。どうしたらいいでしょうか?」と社長さんから相談を持ちかけられます。そんなとき、私は「会社の掃除をしていますか?業績のいい会社は社長自ら社員の使うトイレまで率先して掃除をしていますよ」と言います。社長が掃除をしていたら、社員も掃除をしないわけにはいきません。全員がするようになると、社内だけでは「掃除するところがない」となり、会社の周りのゴミ拾いや草むしりなども始めていきます。そういう会社は地域の人から信用され、愛されます。そうして業績も上がっていくのです。頼まれて、会社にお祓いをしに行くのですが、掃除を始めた会社は営業所もどんどん増えていきます。「また新しい営業所ができたのですね?」と驚きながら、お祓いをさせていただけるのは私としてもうれしいことです。その様子を見ていた他社が「我が社も」と真似をして、掃除の輪はどんどん広がっていきます。身の回りをきれいにしておくことは自分自身を清めるだけでなく、周囲の人も幸せにするのです。さて、あなたのデスクはきれいに整えられているでしょうか?仕事中、いい顔でいるためには正しい姿勢でいることも大切。それには、できるだけスペースを広く保ちましょう。書類が積み上がり、ペンや消しゴムが散乱しているような中で、ごそごそ仕事しているのとでは気持ちが変わるばかりか、周囲からの見られ方も変わります。デスクの上には余計な物を出しておかない。ペン1本でも、使ったら、その都度、引出しにしまう、ペン立てに立てるなど、きれいな状態を保てるような習慣をつくりましょう。最初は面倒でも、使命感をもってきれいにするうち、「ペンが転がっている」という状態に違和感を覚えるようになります。そうして、身の回りをきれいにしても、どうにも部内の空気がどんよりとしていることもありますね。そのときも、とっておきの祓いがあります。たとえば、小さく手を叩く、指を鳴らす、輪ゴムを弾く、など。そのときも「これで浄化された」と思ってください。大相撲で最後の取り組みが終わった後、弓をもったお相撲さんが土俵に上がってきて、「弓取り式」という儀式を行いますね。あれはまさに土俵上にいる魔を祓う行為。弓は弦を引くことで、空気を振動させます。それが魔除けになると考えられているのです。輪ゴムなどはまさにそれと同じ。自分一人、浄化されたままの状態ではいられないのが社会ですが、受けた穢れをずっと自分の内に溜め込んでいるのと、その都度、祓い、リセットするのでは状態はまったく違ってきます。穢れは「魔」でもあります。「魔が差す」というのはそうした穢れが積もり積もって、思いもしない災いを引き起こしてしまうこと。自分自身、身の回り、そして周囲の空気を浄化する。そんな自分の顔をデスクの上の鏡で見てみてください。きっと、すっきりと清々しい表情になっているはずです。神様とつながる言葉穢れを溜め込んだままでいると、「魔が差す」状態を作り出す。
立ち止まり、心を整える禅の精神に基づく瞑想が今、「マインドフルネス」と呼ばれ、世界中で親しまれていると聞きます。「今、この瞬間の自分に意識を集中する」ということだそうで、タイの寺院でこのマインドフルネスを体験した人によると、自由に過ごしていて構わないのだが、鐘の音が鳴ると、何をしていてもそれをやめ、じっと目を閉じて呼吸に集中する。鐘はいつ鳴るかわからない。それを繰り返すのだそうです。これは神道で言うところの「心を整える」ための鍛錬なのだなと思いました。「穢れたと思ったら祓いなさい」と、ここまで申し上げてきましたが、自分の心に意識が向いていないと穢れたかどうかなど、気がつかないでしょう。仕事などで慌ただしく過ごす中、自分の心が穢れたことに気づける、それだけで素晴らしいことです。自分の心、「魂」と言い換えてもいいですね。それが今、どんな状態でいるのか。エネルギーに溢れているか、穢れて弱ってはいないか。日常、思い出したときだけでも胸に手を当てて、語りかけてみましょう。今、あなたが自分のものだと思っている体も命も大切な預かり物です。折に触れ、気遣ってあげましょう。自分の魂と対話できるようになると、不思議と神様の声も受け取りやすくなります。賀茂神社に熱心にお越しになられる方々の中には「神様に教えをいただいた」と言われる方もいらっしゃいます。お詣りしているときに「そのままでいい」「言葉を大切にしろ」「風を感じろ」などなどの声が聞こえてきたと……。私もかつて悩んでいたときに「そのままでいい!」と聞こえたことがありました。それが誰の声であったのかはわかりませんが、とてもありがたく感じました。思うに、自分を大切にする人、自分を常に清らかに保とうと努力する人を神様も大切にするのです。「なんだか疲れたなあ」というとき。体の疲れだけならマッサージやエステ、温泉などでリフレッシュできるかもしれませんが、一筋縄ではいかないのが、魂の疲れです。多くの人は魂の疲れを体の疲れと混同してしまっています。そんなときも胸に手を置き、自分の魂に語りかけてみる。「穢れが溜まってきちゃったね。苦しいね。今すぐ祓ってあげるからね」小さな子どもに話しかけるように優しく接してみましょう。言霊は神様だけでなく、あなた自身の魂にも響くのです。神様とつながる言葉心を整えることは、自分の魂を大切にすること。
かばんを床に置かない喫茶店などに入ると、ビジネスマンがかばんをそのまま床に置いて、熱心に商談をしている光景を目にすることがあります。同様に、電車内などでこれから訪問される先に持っていくのであろう手土産が入った紙袋を床に置いている光景もよく見かけます。ひと昔前なら、風呂敷に包んで、大事に胸に抱えたものでした。風呂敷は「包む」もの。「包む」は「慎む」からきた言葉です。そこには「慎んで差し上げる」という真心が込められています。私たちは祖先が大切にしてきた、こうした精神をいったいどれくらい失おうとしているのでしょうか。冒頭のシーンはその精神のひとつ、「浄不浄の線引き」ができていない典型的な例。果たして、床はきれいなのでしょうか?対して、かばんには仕事のための大切なものが入っている。かばんそのものも大切なものに違いありません。幼い頃、学校から帰ってきて、ランドセルを床に投げ出していたら、親に叱られたものです。家の床は、母が隅々まで拭き掃除をして磨き上げていましたが、それでも「大切なランドセルを床に置いてはいけない」と言われました。「面倒くさい」と思われますか?では、あなたがかばんだったら、どうでしょう?やはり、床に置かれたら「いやだ」と思うのではないでしょうか。言ったことは言われること、やったことはやられること。自分の行ないは必ず自分に返ってきます。それは人と人との間で起きることではなく、物でも一緒です。古来、日本人は万物に神様の存在を見出してきました。山や海や木々、花や石。そうした自然界のものだけでなく、身の回りのもの、台所用具や仕事用具。すべてを敬い、大切にしてきたのです。物の扱いに、人柄が出ます。物を丁寧に扱えない人は、人に対してもそうでしょう。たとえば、贈り物をもらったとき。受け取ったときはうれしそうに丁寧に対応していても、家に帰ってきたら、平気で床に転がしておく……。そんな姿が見えてしまうのです。繰り返します。物にも神様が宿っています。愛する妻である伊邪那美命を亡くした伊邪那岐命は涙を流します。その涙は「泣澤女神」という女神になりました。流す涙ひとつにも神様を見出した私たち日本人。そこに流れていた血と同じものが今、あなたにも間違いなく流れているのです。神様とつながる言葉物にも神様が宿っている。
家に着いても、すぐ中に入ってはいけない仕事を終え、帰路につきます。家の玄関の前に立ったとき。ホッとして、一刻も早くドアを開けて、中に入りたくなりますね。その気持ちはわかりますが、ひと呼吸置きましょう。外の世界は穢れに満ちています。それを家の中に持ち込むことは賢明ではありません。玄関のドアを開ける前に、さっとコートやかばんを祓うこと。花粉症の方はすでに実践しているかもしれませんが、穢れも花粉のように私たちの体にまとわりついてくるのです。穢れを祓うときは、「さっさっ」と口に出して言うのもいいでしょう。日本語の音には、実はそれぞれ意味があります。たとえば「サ」という音には「神様」という意味があります。「クラ」には「尊いものが宿る場所」という意味があります。そう、「サクラ」は「神様が宿る尊い場所」という意味なのです。春の到来を告げる桜、人々はその咲き誇る姿を見て、「神様が山からやってきた」と考えました。神様がやってくるのは、田植えを始める時期。秋になって収穫を終えると、その恵みを神様に感謝し、ともに祭りを楽しむ。神様は冬の間、山へと帰っていき、また春になるとやってくる。そんなふうに、神様とともに生活していたのです。少々脱線しましたが、「神様」という意味があると思うと「さっさっ」という言葉がなんだかとても清らかな響きに聞こえてきませんか?そうして家の中に入ったら。大事なことは、一人暮らしであっても、「ただいま帰りました」と声に出して言うことです。暗い部屋であったとしても、そこでは必ず神様が「よく帰ってきました」とあたたかく迎えてくれているのです。玄関は、外の世界と安全なあなたの聖域との境目の場所。結界といえます。そして、あなたの家の顔でもあります。顔が乱雑であったら嫌でしょう。できるだけきれいに、靴は靴箱に収納し、余計な物は置かないことです。風水などでは玄関は「運気を呼び込む場所」とされているようですが、いいものだけでなく、悪いものも入ってきてしまうのが玄関です。神社の入り口、鳥居の横を見ると、祓戸神社という小さな祠があるところが少なくありません。これは祓戸大神という祓いの神様を祀る神社。入り口にそうした神様をお祀りし、穢れが入ってこないよう祓い、清浄な地を守っていただいているのです。神様とつながる言葉玄関は、外の世界と安全なあなたの聖域との境目であり、結界。
脱いだ靴はきちんと揃える帰宅したとき、「あー、疲れた」とばかり、パパッと靴を脱いだまま、家の中に入ってはいませんか?靴は常にあなたの足下にあり、あなたを支えてくれているものです。決して粗末に扱ったり、汚いままにはしておかないでください。若いとき、日頃から憧れている素晴らしい先輩と食事に行きました。その先輩は履いている革靴の紐をゆっくりとほどき脱がれると、玄関の端にきちんと揃えて、店に上がっていかれました。帰るときも同様で、紐の左右が均等になるよう丁寧に結び、履かれていました。美しい光景でした。こういう人を「本物の日本人」というのだと思いました。それ以来、同じように実践している私です。物の扱いもそうですが、靴は特に、見るだけでその人の人柄がわかると言われます。上場企業の社長には、相手の靴を見て、「汚い相手とは取引をしない」という人もいます。靴も服同様、高級である必要はありません。きちんと手入れをしているか、大切にしているかどうかが問題なのです。家に帰って、靴を脱いだら、まずはきちんと揃えましょう。なぜ、靴を揃えるといいのか?そこには「立ち止まる」「振り返る」「靴を揃える」という三挙動が生まれるからです。靴を脱ぎ、玄関を上がり、いったん立ち止まって振り返る。そして、靴を揃えるために、頭を下げる。そこに、神社で自分を鏡に映す行為と同じ、「自分を鑑みる」という動作が無意識に発生しているのです。靴を揃えるということは、自分の心を整えることと同じこと。そして、「今日もきちんと靴を揃えた」という小さいながらも、ひとつの成功体験をすることで、靴を揃えられた自分への自信にもつながります。不良少年を更生させるとき、一番最初に教育するのが「靴を揃える」ということだそうです。靴を揃えるのは単に動作ではなく、人の心を真っ直ぐ育むことにつながるのです。靴を揃えながら、靴の汚れに気づいたら、さっとひと拭きする。雨で濡れていたら、湿気がとれるよう新聞紙などを入れておく。「疲れた」と思っていても、そういうことができたあなたを神様はきちんと見ています。靴の神様もそっと「ありがとう」と言ってくれているのです。神様とつながる言葉靴を揃えることは、自分の心を整えること。
トイレにも神様はいらっしゃるトイレはかつて「御不浄」「厠」とも呼ばれていました。「御不浄」はもちろん、不浄な場、不浄なもの(排泄物)を流す場所としての名称。一方、厠は「川家」と、私は捉えています。川のような溝を掘り、そこへ排泄物を流していたのです。大物主神という神様が「丹塗り矢となって溝を流れ下り、厠にいる姫の陰部を突いた」という神話があります。この姫は身ごもり、女児を出産します。トイレには自分の体から出る不浄を流して浄化してくれる神様がいらっしゃる場所。また、この神話のように、よそからも神様がいらっしゃる。そうした神様のために、少しでもきれいに、清潔にして、神様がお過ごしやすいようにしておく。「トイレをきれいにするといい」というのは、そういう考えのもとに言われてきたことだと思います。私が子どもの頃、学校のトイレは古く汚いものでした。学校のトイレは「なるべく行きたくない」と思っていたのを覚えています。神様もお越しいただけるようなきれいなトイレであれば、そんな思いを抱くことはありません。行きたいと思えば行ける。いる間も快適に過ごせる。そんなトイレは健康にいいだけでなく、精神もスッキリと浄化してくれる場所といえます。トイレの神様は不浄を流し、私たちの健康も司る神様なのです。「健康でいる」ということは、借り物である自分の体、命を慈しむこと。神様の思いに応えていることでもあるのです。「素手でトイレ掃除をすると運気が上がる」という話があるそうですが、素手で掃除をしたからといって、神様が特別にお喜びになるとは私には思えません。排泄物ももとは、私たちの生きる糧となっていただいた尊い自然界の命。そこへの感謝の気持ちも合わせ、清潔に保つよう努めればいいのです。ひと昔前まで、トイレは家の中ではなく、外に作られるものでした。臭いや構造上の問題もあったと思いますが、これも、かつての日本人が大事にしていた「浄不浄の線引き」のひとつ。「素手で掃除」の前に、日本人としての精神を見直してみてはいかがでしょうか。神様とつながる言葉「浄不浄の線引き」を大切に、トイレを清潔に保とう。
お風呂から上がった後は自分の体をじっくりと見る一日の間で「穢れを祓う」ことがどれだけ大切かということをここまで繰り返しお話ししてきました。入浴は一日の祓いの集大成ともいえる大事な時間です。シャワーだけで済ませるという人も多いようですが、お湯をはった浴槽にゆったりと浸かり、疲れとともに一日の穢れも流し去ることをおすすめします。この国をつくった神様として、大国主神と少毘古那神という二柱がいらっしゃいます。この二柱はこの国をいい国にするためにたくさんのことを行なわれましたが、その中のひとつに温泉をつくったことがありました。体を健康に保つための知恵として、日本人は遠く神話の時代から温泉に親しんでいたのです。また、日本人にとって「湯に浸かる」という行為はこの世に出てくる前、お母さんのお腹の中にいた頃に帰ること。あたたかく、安心できる母のお腹の中で身も心も委ね、癒やされ、清められる。胎内くぐりと同様の生まれ直し、魂の浄化につながっているのではないかと私は考えています。安産祈願をするとき、私はいつもお母さんのお腹の中の命に向かい、「無事、この世に姿を現してください」とお願いします。お腹の中で、私たちは誕生しています。命があるのです。今ではピンとこない人も多いかもしれませんが、ひと昔前の日本人が「数え年」といって一年多く歳を数えていたのはお腹の中にいた時期も年齢に入れていたからです。日本人はそれほど命に敏感で、命を大切にしていたのです。産道を通り抜け、産声を上げた瞬間は、人が生まれた瞬間ではなく、この世に姿を現した瞬間です。そうしてこの世に出てきてからずっと、頑張って働いてくれた自分の体を感謝を込めて癒やし、清潔にしてあげる。そこには、日本人ならではの大きな意味があります。命があり、体が自分の思うままに動いてくれることは当たり前のことではありません。神様、ご先祖様があって、今のあなたがあり、今日一日を無事に過ごせたのです。私は特に女性には「できたら、お風呂から出たところに全身が映る鏡を置いて、ご自分の体をじっくり見てあげてください」というお話をします。皆さん一様に「えー」「嫌ですよ」という反応をなさいますが、一日の終わりにありのままの自分の姿を見て、「今日一日、頑張ってくれてありがとう」「今日もきれいよ」「明日もよろしくね」など、言葉をかけてあげてほしいのです。繰り返しますが、体はあなた自身のものではなく、今生を生きるうえでの「借り物」です。この世に命を授かり、使命を全うする間、どんなことがあっても離れることのない体。決して取り替えることのできない体。心を込めて、丁寧に扱ってください。少々シワができようが、たるんでこようが、「いつまでもきれいね」とほめてあげてください。すると、細胞は日々活性化していきます。「きれい」と言われたら、「きれいで居続けよう」と細胞たちは反応してくれるのです。今ではエステやアンチエイジング化粧品もありますが、まずは自分で今の自分を肯定し、愛してあげること。心と体を清らかに整え、日々を過ごしている人。そんな人が本物の「きれいな人」のように思えるのです。神様とつながる言葉ありのままの自分を肯定することで本物の「きれい」がつくられる。
感謝で一日を終える一日を締めくくる言葉はなんでしょう?「おやすみなさい」でしょうか?はたまた「あー、疲れた」でしょうか?私は「ありがとう」をおすすめします。ふとんに入る前、神棚の前で言ってもいいですし、ふとんの上に正座をして、または横になってからでも構いません。神様、ご先祖様、家族それぞれの名前を心の中で唱えて「今日も一日ありがとうございました」と言いましょう。これは神道というよりは、私が自分自身との約束で行なっていることです。妻と喧嘩をした夜であっても、妻の名前を唱え、「ありがとう」と言います。「喧嘩したから」と、妻だけ外すことは、その魂を除外してしまうような気がするのです。まだ仲直りできていず、ムカムカしているような状態であっても「ありがとう」と言うと、なんだかありがたい気持ちになってきます。喧嘩できるのも、妻がいてくれるからこそ。私の悪いところに気づかせてくれたのかな。言いたいことが言えるのも、夫婦であればこそだ。そんな気持ちにもなってきます。喧嘩したときこそ、「ありがとう」は効き目があるのかもしれません。喧嘩だけでなく、嫌味を言ってきた上司、約束を破った友達、無愛想な対応をした近所のコンビニの店員さん。この期に及んで、心に引っかかっているネガティブな要素すべてに、ここで「ありがとう」と言ってしまいましょう。感謝の言葉で一日を締めくくることによって、自分自身が浄化されます。神社では、年に二度、「大祓神事」という浄化のための神事が行われています。ひとつは六月三十日の「夏越」、もうひとつは十二月三十一日の「年越」です。どちらも、紙の人形に氏名、生年月日、年齢を書き、そこに息を三度、吐きかけます。息を吐きかけることで、半年の間に犯してしまった罪や穢れが人形に託され、それを焚き上げたり、川や海に流すことによって祓うのです。この神事で重要なのは「息を吐き出す」ことです。一日の終わりにも「いやなこと」「つらかったこと」「悲しかったこと」を吐き出してください。ネガティブな感情を抱えたままにしないでください。「ありがとう」は浄化の言葉でもあり、心を軽くしてくれる呪文でもあります。お風呂に入って体を浄化し、「ありがとう」ということで心を浄化して一日を終えてください。神様とつながる言葉ネガティブな感情は「ありがとう」で浄化しよう。
月の神様を感じる夜は魑魅魍魎が跋扈する……とネガティブな表現もしてしまいましたが、夜空には月が輝きます。太陽が天照大御神という神様であるように、月は月読命という神様です。その存在を感じたことはありますか?二柱の神様は、伊邪那岐命から産まれた兄弟神ですが、あることで喧嘩をしてしまい、「それ以来、顔を合わせることがなくなった」と神話は伝えています。太陽が沈むと月が昇り、月が沈むと太陽が昇るのにはそんないきさつがあるのです。太陽が陽なら、月は陰です。世の中のすべての物事には陰と陽があり、そこに優劣はなく、どちらが欠けても成り立ちません。太陽の光はあまねくエネルギーですが、まぶしすぎて直視することができません。対して月の光は、日々形を変えるのがはっきりとわかる。満月の日は出産が多いなど、その満ち欠けは人間の生死や心の状態にも深く影響を与えています。人間の体の部位を表す文字に「内臓」「五臓六腑」「肘」「膝」「腰」など「にくづき」という偏が用いられるのも、古来から「月と人間の心身は関係が深い」と考えられてきたからだと思います。「明」という字がありますが、この漢字はもともと「朙」でした。偏の「囧」は窓のことで、「窓から差し込む月明かり」を意味しています。昔の家は壁に窓のない代わりに、天窓がありました。闇に包まれる夜、天窓からの月の明かりが人々の心の拠り所。その一筋の光こそが「明るさ」だったのです。太陽の光ではなく、闇に包まれた月の光に「明るさ」を見出す、そんな祖先の感性に私は心惹かれます。陽に比べると、災いや負のイメージの強い陰ですが、陰と陽はふたつでひとつ。陰は陽になるための準備、前段階でもあるのです。「夜明け前が一番暗い」という言葉があります。もし今、あなたがつらい境遇にあるときには、月の光に優しく包まれてみてください。月だけでなく、あなたのそばにはたくさんの神様がいます。後は陽がやってくるタイミングを待つのみと考えてください。神様とつながる言葉陰陽はふたつでひとつ。陰の次には必ず陽がくる。
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