1.趣味に没頭しよう
「好きこそものの上手なれ」という諺があります。何でも上達・進歩するためには、「好き」であることが一番の条件なのです。嫌々やっても、なかなか上達しません。
また、人にはそれぞれ、向き、不向きというものもあります。
例えば、休日の過ごし方にしても、家の中で一人静かに本を読むことを好む人もいれば、大勢の仲間たちと、アウトドアのスポーツをすることを好む人もいます。
また、本を読むにしても、ミステリーが好きな人もいれば、詩や小説が好きだという人もいます。
アウトドアスポーツにしても、サッカーや野球などのチームで行う球技が好きな人もいれば、ただ一人黙々と走る長距離走が好きな人もいます。
まさに、人それぞれです。
しかし、人は本当に好きなことは、他人に何といわれようとも、そんなことはお構いなしに、「やる」のではないでしょうか。そして、好きだからこそ、「続けられる」のではないでしょうか。
あなたの趣味は何でしょうか?たいていの人は、読書とか、音楽鑑賞、散歩、料理、お茶やお花の習い事、ピアノやギターなどの楽器演奏など、自分の好きなこと、夢中になれることがあると思います。
仕事で忙しい現代人は、なかなか趣味に時間をさくことも難しいかもしれませんが、日常の時間とは異質な、しがらみのない時間・空間に身を置き、自分の好きなことに夢中になることは、人生の質を高め、人間としての魅力を深め、脳の働きも活性化させてくれます。
人生にうるおいや奥行きを与えてくれるにちがいありません。それは、日常の仕事にも、きっとよい影響を与えてくれることでしょう。
趣味には、いわゆる打算や駆け引きのようなものはありません。ただ好きだから、ただやりたいから、という単純な理由があるだけです。だから続けることもできるのです。
私は、日常の仕事の中で、「知性脳」をフル回転させている現代の人たちにこそ、「感性脳」に切り替えて、一心不乱に打ち込む、あるいは没我の境地にひたる趣味の時間を持ってもらいたいと考えています。
日ごろは株価の変動を分単位で追いながら、証券の売買に携わるような仕事をしている人が、週末にはただ一人、郊外の池や湖に出かけて、静かに釣糸を垂らすというようなこともいいでしょう。
あるいは、普段は活字の世界で締切に追われながら記事となる文章を書く仕事をしている人が、休日に、好きな楽器を演奏し、音符と音の世界にひたるのもいいでしょう。
そうした時間は、仕事への新たな活力を生むにちがいありません。
2.還暦を過ぎてから始めたピアノのレッスン
音楽学校に進みたかった母の影響で、子どものころ、ピアノの手ほどきを受けて、五年ぐらい習っていました。
しかしその後は定年を迎えるころまで、ピアノを演奏することはありませんでした。そんな私が、還暦のころから始めたのが、ピアノのレッスンでした。やるからにはひとつ、ちゃんとやってみようと、一念発起したのです。
ピアノを弾くならばモーツァルトのソナタ、それもピアノとバイオリンとのデュエット(K四五四)の第二楽章がよいと決めました。
モーツァルトの曲はどれを取ってきても天来の響きを持っていて、それが練習曲にもなるという不思議なところがあります。
一見易しそうで自分でもできそうに思いますが、実際にやってみるとなかなか難しい。しかも人前で弾くと、指が動かなくなります。
九〇歳を超したころから、この経験の連続で、年齢の限界に来たのだと思ってピアノのレッスンを止めようと思い始めました。
そんなある日、ある知人のピアニストに出会って、私のピアノを見てもらって愕然としたのでした。それは「桁外れのゆっくりの練習」でした。
第二楽章なのでアンダンテのようにゆっくりした曲なのですが、「まだ速い、もっと遅く、もっと遅く」といわれます。
遅くすると音と音の間が不安定になって、音はバラバラになってしまうのです。ここで今まである速度で何とか弾いていたのは、間を誤魔化していたことがわかったのです。音楽のリズムなんかの段ではありません。
音をバラバラにして音と音との相互関係を認識し直して、今までの曖昧な癖をたたき出して、新しい正確な感覚を入れ直すという、運指のオーバーホールのレッスンを受けるようになりました。
先日、K四五四のソナタの第二楽章を人前で弾いたとき、相手のプロのバイオリニストから「今日は今までとは別の気持ちで弾くことができてよかった!弾きながら涙ぐみましたよ」といわれ、初めてレッスンの醍醐味らしいものを感じました。
そして先生に対する感謝の気持ちがあふれてきました。稽古はただ稽古に励めばよいというものではありません。よい先生を選ぶことです。
先生の前でバラバラになって、意気阻喪して家に帰ってピアノを弾いてみると、何とか弾けるではないですか。
気持ちを取り直して、今度は大丈夫だろうと先生のところにレッスンに行くと、大分よくはなっているが、まだまだだめ。これの繰り返しです。
レッスンは一人でできるものではありません。卒寿を過ぎて、やっと少しはレッスンの本質がわかったようです。なんと私は歩みが遅いのか。
でもレッスンとは自分と向き合って向上心をかき立ててくれるありがたいものです。
還暦を過ぎてから始めたレッスンで、九五歳の今、モーツァルトのピアノソナタを弾くことができ、周りの人にもたいへん喜んでもらえるのは、私の人生の無上の喜びでもあります。
3.なぜプロ野球の一流選手は、ボールが止まっているように見えるのか
練習を重ねたプロ野球のバッターは、高速で飛んでくるボールが目の前で静止しているように見える、といいました(『5.視床の「外側膝状体」』)。
高速のボールを、何とかして打ち返したいという目的意識を持った「稽古三昧」は、ついには、ボールを静止状態に感覚化させるのです。
ボールを打ち返したいという意識が、感覚の次元に転位させられたのです。つまり、稽古が意識を感覚化させたのです。
「稽古三昧」の境地にいると、個々の動作を意識せずとも、一連の動きを瞬時にして無意識のうちに表現できるようになるのです。意識が感覚化されるのです。
これが「無の境地」というものなのです。
生きていく上で重要なことは、まずは意識に上らせて、知性・理性で充分に検討され仕上げられ、反復実践しているうちに、いつの間にか習い性となって意識下に入って、「無の境地」になり、「心の欲するところに従って矩を越えず」の孔子の心境になるのです。
大脳はそのように仕組まれているのです。意識は稽古によって「無の境地」に昇華するのです。
人間はこのようにして「自我」から脱却することができるのです。
網膜に映った像は、脳の前面の眼球から交差しながら後頭部の視覚野に伝えられます。これが視神経なのですが、「外側膝状体」があります。
ひたすらに稽古していれば、ここが鍛えられ、大脳はバーチャル化します。高速で飛んでくるボールが止まったように見えるようになります。
人間がこうありたいとひたすらに願うと、大脳はそれが現実になるように人間の心にうまく協力してくれるのです。
大脳は、実に不思議な仕組みを持っているのです。これが「稽古の生物学」です。
4.空手の型稽古
ここで、具体的に空手道の稽古について考えてみることにします。
以下は「ヒトの教育の会」夏期合宿において、福岡空手実践塾代表の沼田憲吾氏からうかがったお話です。
武術の本質は、古くから綿々と受け継がれてきた「型」を繰り返すことにあります。
型はこうきたらこう返すという攻防の練習のためにやるものではありません。
型は鋳型であり、不変(普遍)であるからこそ、自分をその型に当てはめ、動こうとしたとき、型どおりには自分の体が自由にならないことに気づくのです。
そこからその要因を求めて、内面への気づきが始まります。
内面への気づきとは、部分ではなく、全身を使った統一体としての動きの感覚であり、動きの本質が呼吸にあるということへの気づきなのです。
型は一人で稽古しますが、分解組手は、型を構成している一連の技を二人組の約束組み手というスタイルで検証していきます。
組み手で技がうまくかからないときは、その要因がどこにあるのか、今一度、型に戻って分析し、ふたたび分解組手で検証し、繰り返して検証するという作業を繰り返して稽古します。
技がかかるとは、相手が投げられまいと踏ん張っていても、その踏ん張る力を無力化して、自然に投げを成立させてしまうレベルをいいます。
そのためには筋力に耐えるパワーや技術とはまったく別次元の、脱力と呼吸の調和が大切になります。
正しく継承されている型には、それらを感じ取るための極意というべきエキスが内在しているため、一人での型稽古と、相手と組んでの分解組手を必死になって繰り返すことにより、ある日突然、体が目覚め、体で感じ、体で対応できるようになります。
稽古を重ね、無心の状態をつくり出すために大切な要素は、正しい姿勢をとること、一つ一つの行動に心を込めることです。
また、日常生活において正しい姿勢で心を込めて礼をすることなどは、力を満たす大切な要素です。
子どもが心を込めた礼をすると、男性の集団を押し倒すこともできます。不思議なことに、大人ではなかなかこれができません。
大人はできないだろう、倒してやろうという我欲や意識のあることがその原因のようです。
意識は体の一部分を動かすことができるけれど、全体として対応すること、すなわち、統一体としての力は発揮できません。
咄嗟に、体全体として、自然に対応するためには、意識を抜き、型の練習一筋となることで、無の境地に達することが必要なのです。
これこそが稽古ということなのでしょう。
5.「稽古」とは
ところで、そもそも「稽古」とは、どういう意味を持った言葉なのでしょうか。
「稽」は「考える」という意味で、「稽古」には元々、「古を考える」「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」という意味があります。
『広辞苑』を引くと、
- ①昔の物事を考え調べること。古書を読んで昔の物事を参考にし理義を明らかにすること、
- ②学んだことを練習すること、
- ③武術・遊芸などを習うこと、
- ④高い学識を有すること、
となっています。
結論を先にいえば、私は、自意識に縛られた現代人が、自我から脱却するために有効な手段が、この「稽古」なのではないかと考えるのです。
しかも、ただの「稽古」ではなく、一心不乱に「稽古」する「稽古三昧」です。
自分が信奉する伝統をひたすら学び、繰り返しの修練をする「稽古三昧」によって、人間は、知性脳の神経回路に異次元の転位を起こさせていると見られます。
武道や芸道は「体の仕草の営み」です。それは言い換えれば「自然をいかにして体現するか」の営みです。それには、知性の次元を超えた感性の心境にならなければなりません。
「意識」は「自然体」の邪魔になります。繰り返しの「稽古三昧」によって、無意識での体の動きが「自然体」として現れるのです。それに到達するまでの道程が「稽古」なのです。
6.「稽古三昧」と無の境地
ここで、「稽古三昧」ということに関連して、今ではあまり語られなくなった「西田哲学」の話をしてみたいと思います。
西田哲学とは、日本を代表する哲学者で京都大学哲学科の教授だった西田幾多郎(一八七〇~一九四五)によって体系づけられた哲学のことです。
私は理科系の者なので、哲学についてはあまり詳しくありませんが、旧制高校に入学したとき、上級生から「机の上の勉強をするな!哲学を読め」と脅されて、古本屋で買ってきたのが西田幾多郎の『善の研究』という本でした。
正直、非常に難解で、何が書いてあるのかまったくわかりませんでした。
その後、定年を迎えたころ、『善の研究』を読み直すと、依然、難解でしたが、大事なことが書いてあるということがわかったのです。
それは「主客合一」あるいは「純粋経験」という言葉で表されていることでした。
世界は「見る主体に対して見られる客体」というように思われているけれど、本当はそうではなくて、主観と客観が合一しているのが本物であり、それを「純粋経験」というというのです。
その例として、ピアノを弾いている人のことが述べられています。
夢中でピアノを弾いている人にとって主観と客観の区別はなく、そうした状態が、人間が最も充実した時を送っているときの経験だというのです。
「稽古」とは、まさにこの「純粋経験」へのアプローチのことではないかと思うのです。
私も時折、一人でピアノ演奏を楽しみますが、自分の指が鍵盤に落ちて、ピアノが曲を奏で始めると、自意識はなくなり主体客体の区別のない境地へと誘われます。
「我思う、故に我あり」とは、近代合理哲学の祖と呼ばれるフランスの哲学者デカルト(一五九六~一六五〇)の有名な言葉ですが、人間の「自意識」がその出発点になっていることがわかります。
しかし、西田幾多郎は、そうした考え方に対し、「自意識」から脱却した状態こそ、人間本来のあり方だととらえていたのではないでしょうか。
私は「稽古」という日常生活の営みの中に、人間の生き方として非常に重要なものが含まれているように思うのです。
7.「稽古三昧」のすすめ
独創とされるものは、知性の論理から導き出されるものではなく、ひらめきによって生み出されます。
それは、いつも脳裏にあったものが、ある時、偶然にひらめきを生み、それが独創につながっているように思われます。その独創のもとこそ、いわば「稽古」であり、それは日常の修練の積み重ねです。
「稽古」は機が熟すると、ひらめきを生み、独創を生むのです。
また「稽古」は、本来それによってこんな成果をつくろうというような目的を持つものではありません。
「稽古」は、それに取り組み、続けること自体に喜びがあり、意味があります。
稽古三昧に徹していれば、自然と生き方に自信がつくというのが私の考えです。
稽古三昧は自我のない、無の境地に自分を導いてくれます。
稽古は古人が残してくれた営みを反復練習するために、無意識でその行為ができる境地になり、自我の無い、目的を持たない、自然の中に組み込まれている、不思議な自分を発見するもののようです。
「稽古三昧」の意味はよくわかりませんが、ここに人間本来の心の原点が隠されているような気がします。
最後に、不登校、いじめ、ネグレクトなどによって心を痛めている現代人(とりわけ若者たち)の問題は、つまるところ、生きる力に対する自信のなさに関係していると思われます。
「稽古三昧」を通して、自分と向き合い、自分自身を見つめる習慣を通して、自信が生まれてくるものと信じます。
おわりに
九五歳の私が目指していること
アントロポセン(anthropocene)──人類の時代
生物とは何とすばらしいものでしょうか。
地球の表面にある比較的軽い元素(炭素、水素、窒素、酸素、リン、硫黄等)が永い永い歴史の経過の中で離合集散を重ねているうちに成長と繁殖を行う化合物(これを生物という)が現れました。
この生物が現れると、生物は少しでも「よく生きようとする執念にも似た趨性」を示して、黙々と進化街道を歩み、実に一五〇万種以上の膨大な数の種となりました。
岩だらけの不毛の大地は緑の樹木で覆われ、昆虫や鳥は空を飛び交い、魚類は海中を群れをなして泳ぎ、動物は山野を駆けめぐり、地球は生気漲る雰囲気に生まれ変わりました。
この生物の進化は環境淘汰と遺伝子の突然変異という生物学的要因に基づいて進められたので、地球上の生物は自然との調和を本性として身につけていました。
ところが類人猿からヒトに進化した人間は、脳の巨大化によって「自意識」を獲得して、これまでとはまったく異なる特異な生物となりました。
これまでの生物を「体で生きる生物」とすれば、人間は「心で生きる生物」となったのです。
自意識を持った人間は、これまでの生物とは異なり、自分の価値判断で意思決定をして行動をする初めての生物となりました。
生きるための利便性を考え、瞬時にして生活環境を改変しました。
人間が化石燃料を燃やすことによって起こる大気中の二酸化炭素の増加がオゾンホールをつくり、地球規模の環境変化を引き起こしたことは由々しきことと指摘してノーベル賞を受賞したパウル・クルッツェンは《アントロポセン(anthropocene)──人類の時代》という新しい造語を提案しました。
この外部環境破壊は人間そのものの内部環境(心)の歪みを起こすことに注目しなければなりません。
二酸化炭素排出によって起こる地球温暖化現象の世界をあげての動き、特に日本の「京都議定書」の役割が注目されています。
それはそれとして、私が指摘したいのは、外部環境に破壊を及ぼすような物質文明、知性偏重の価値観は、同時に人間の内部環境(心)も汚染してしまうということで、現に「道徳軽視の時代」に入っていることの警告が聞かれないことはどうしたことでしょうか。
生物学的世界観の時代へ
地球上の他の動物は「自然との調和」を満たす条件で進化を続けて、繁栄してきました。
その進化の最右翼にある人類が自意識を持ったために自我に迷い、自然との調和を失うどころか、自然を征服することが人間の使命であるかのような錯覚を起こしています。
コンラート・ローレンツはこのような警句をいっています。
「科学的発達が招来したさまざまな危機について自覚している人々が多いことは知っているが、いかなる発達も新しい価値を生み出すものと確信しているようだ。技術主義的世界秩序においては、発達という過程は価値生産の権化と化した。我々の文明は必然的に価値増大に向けて前進しているのだとの信仰にふけっている」
これは「物質文明的世界観」で、この観念の線上に人類の繁栄があろうとは思えません。現代人は「生物学的世界観」の立場から「人間の繁栄のための叡智」をさぐるべきです。
メタ・ルネッサンスへ
漱石は明治末年に「できるだけ労力を節約しようとの願望からの機械力とできるだけ気儘にしたいとの娯楽面とが経緯となって今日の混乱を招いた」との言葉を遺しましたが、それから百年経った今、大きな社会問題になってきています。
人間は教育によってわがままを抑える「道徳」という生活規範を身につけなければなりません。
アントロポセン(人類の時代)という造語に対して、イギリスの大博物学者トーマス・ハクスリーの孫のジュリアン・ハクスリーは、これからの人間の時代は「自制できる人間の時代」にならなければならないと予言しました。
アントロポセン(人類の時代)は「自制できる人間の時代」でなければならないのです。現在の物質文明の風潮は一三世紀ごろに西ヨーロッパで興ったルネッサンスに端を発しています。
ルネッサンスが現代に遺した功績は自明ですが、これを受け継ぐ後世の人々に反省すべきところがあったのです。
それは物質文明の延長線上に人類の未来の繁栄はあるのかという問題です。
ルネッサンスは今や、「メタ・ルネッサンス」としてその概念を転換しなければならない時機にきているのではないでしょうか。
主な参考文献『ファースト・ジャパニーズジョン万次郎』中濱武彦著講談社二〇〇七年『ゆとり教育から我が子を救う方法』和田秀樹著東京書籍二〇〇二年『三つの脳の進化──反射脳・情動脳・理性脳と「人生らしさ」の起源』ポール・D・マクリーン著法橋登訳工作舎一九九四年『一〇〇歳先生の「生きる力」を伝える幼児教育』地三郎著NHK出版二〇〇六年『母さん父さん、楽になろう幼老共生のススメ』碇浩一著三五館二〇〇〇年『武士の娘』杉本鉞子著大岩美代訳ちくま文庫一九九四年『奇跡の学力土堂小メソッド』陰山英男著文藝春秋二〇〇四年『メリトクラシー』マイケル・ヤング著窪田鎮夫・山元卯一郎訳至誠堂選書一九八二年『ヒト、この不思議な生き物はどこから来たのか』長谷川眞理子著ウェッジ選書二〇〇二年『人間この未知なるもの』アレキシス・カレル著渡部昇一訳三笠書房一九八〇年『一三七億年の物語──宇宙が始まってから今日までの全歴史』クリストファー・ロイド著野中香方子訳文藝春秋二〇一二年『生命の意味論』多田富雄著新潮社一九九七年『春宵十話』岡潔著毎日新聞社一九六三年『岡潔とその時代〈1〉正法眼藏──評傳岡潔虹の章』高瀬正仁著みみずく舎二〇一三年『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル著稲富栄次郎・上田武訳福村出版一九八一年『人生の考察』アレキシス・カレル著渡部昇一訳三笠書房一九八一年『狼に育てられた子』J・A・L・シング著中野善達・清水知子訳福村出版一九七七年『文明化した人間の八つの大罪』K・ローレンツ著日高敏隆・大村更明訳新思索社一九九五年『人間性の解体』K・ローレンツ著谷口茂訳思索社一九八五年『ヒトの教育』井口潔編著小学館二〇〇六年『生物学的視点からの教育の見直し』井口潔著花書院二〇一〇年『人類が向かうべき進化の方向は『無の境地』だった!』井口潔著花書院二〇一〇年『李陵・山月記』中島敦著新潮文庫二〇〇三年『ユーザーイリュージヨン──意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ著柴田裕之訳紀伊國屋書店二〇〇二年『一筋の道』瀬戸内寂聴著集英社文庫一九九七年『道徳を問いなおす──リベラリズムと教育のゆくえ』河野哲也著ちくま新書二〇一一年『心の脳科学──「わたし」は脳から生まれる』坂井克之著中公新書二〇〇八年「なぜ現代の教育は江戸の人間教育を学ぼうとしないのか」田口佳史著『ヒトの教育』(第六号)二〇〇九年「潜在能力を発掘し育てる人間教育を(特別対談)」井口潔・宇城憲治著『道』(通巻一一九号)二〇一四年「細井平洲講釈聞書」久里茂三著『ヒトの教育』(第一号)二〇〇六年『君たち、どうする?』小野田寛郎著新潮社二〇〇四年『スポック博士の育児書』ベンジャミン・スポック著暮らしの手帳翻訳グループ訳暮らしの手帳社一九六六年『窓際のトットちゃん』黒柳哲子著講談社一九八一年『進化とはなにか──二〇億年の謎を探る』ジュリアン・ハクスリー著長野敬・鈴木善次訳講談社一九六八年『ネオテニー』A・モンターギュ著尾本恵市・越智典子訳どうぶつ社一九八六年『生命は学習なり』K・ローレンツ著三島憲一訳思索社一九九〇年『その子育ては科学的に間違っています』國米欣明三一書房二〇〇七年『シティズンシップの教育思想』小玉重夫著白澤社二〇〇三年ThreeEssaysonHumanismandSurvivalinthe21stCentury,KiyoshiInokuchi(withanintroductionbyStaceyBDay),KyushuUniversityPress,1991(以上、順不同)
【著者略歴】井口潔(いのくち・きよし)大正10(1921)年福岡県久留米市生まれ。
旧制福岡高校から九州帝国大学医学部に進学。
在学中に明治神宮国体(現在の国体)射撃競技で2年連続優勝。
昭和20(1945)年9月同大学卒業。
大学院特別研究生、お茶の水女子大学理学部化学科講師等を経て九州大学第2外科教授(現在は名誉教授)。
日本外科学会名誉会長、日本癌治療学会名誉会長、フランス・アカデミー会員、日本学術振興会井口記念人間科学振興基金運営委員(1986-2006)等を務める。
大学での医学専門教育は戦時中のため寸断されたが卒業後は基礎物理化学の素養を身につけ臨床外科教授として活躍。
21世紀のパラダイムとして人間科学の開拓こそ必要と主張。
「ヒトの教育の会」を立ち上げ、特に子育て・人間教育のあり方を生物学的視点から説き、「生物学的教育論」を提唱する。
医学博士・理学博士。
勲二等瑞宝章受章。
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