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第六章科学的にすぐれていた日本の道徳教育

目次

1.近世のヒトの道徳教育の歴史

二〇世紀の前半の短い期間に二度の世界大戦がありました。先にも述べたように、この百年の間に人間が殺した人間の数は一億を下らないといわれています。

この恐るべき人間の情に心を痛めた聖賢が紀元前五〇〇年ごろに世界各地で期せずして現れて、人間が守るべき道を教えてくれました。

ソクラテス、孔子、釈迦、旧約聖書に出てくる第二イザヤらです。

日本では六世紀ごろから、中国から入れた仏教を熱心に研究して、我が国に馴染む宗派をつくりました。空海、最澄、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らで、一三世紀にまで及びます。

実に六百年余の間、我が国の人々は上下の別なく仏教に傾注しました。

室町・戦国時代を経て江戸時代になり、戦乱のない平和の世になると、今こそ教育だと、今まで培った仏教、日本古来の神道、儒教を融合した「武士道」という世界に誇る人間教育体系をつくり上げました。

2.江戸期教育のテキストとその内容

江戸時代の幼年期教育のテキストは『小学』でした。

『小学』は約八百年前に南宋の朱熹が弟子に命じて『四書五経』(儒教の教典である『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書と、『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五経)を幼年教育向きに抜き出して編纂させたものです。

ここにどのような内容が書かれているかについては、田口佳史氏の解説文があります。

(「ヒトの教育」第六号p一七─三二)そこにはまず、実生活の基本的な要領として「清掃、応対、進退」という心構えを示しています。

  • 清掃とは整理整頓能力をつけることによって、すがすがしさを体得し、当事者意識を持たせます。
  • 「応対と進退」は社会人として人間関係をつくるときの心構えの基本です。

そして個々の仕事のやり方は「往来物」という手紙形式のマニュアルを普及させました。

そのような実際面の立場からの教育だけかというとそうではなくて、生きるための精神の持ち方についての項目があります。

まず、『小学』を開くと「天命之謂性」(天の命これを性という)という言葉が出てきます。

これは、人間には天の配剤によって「天性」が授けられていること、天性に従って生きていくように人間は創られていることを教えています。

現在は「生命」という字を使いますが、中国古典では「性命」です。次は「規範の形成」です。人生とは「判断の連続」であり、判断の基準が「規範」です。

「正しい」とは何のことか。

「正」という文字は「一」と「止」が組み合わさっています。つまり「一線に止まる」ということです。

「正しい」ということは「規範」と表裏を成しているのです。そして母性と父性の愛について述べます。母性は慈愛、惻隠の心、仁であり、人間性に通じるものです。

父性は義愛であり、羞恥心を教え、義の心であり、社会道徳の根幹になります。

このように人間が社会で生きていくことについての基本を、実際面と精神面の両面から、幼年期の子どもに正面から教えようとしたのです。

まだ言葉も論理的思考も幼稚な幼年期に真正面から教えようとしたのはなぜかということです。これについては後で述べます。

3.江戸期幼年教育の手法、「素読」とは?

そのような教育をどのような手法を使って行ったのでしょうか?それは「素読」です。

素読とは『小学』の古典の文章を、意味がわからなくてもよいから、リズムをつけて、声を出して何回も反復して読ませる教育法です。

『武士の娘』(杉本鉞子著・ちくま文庫)という本の中に面白い記述があります。

鉞子は明治六年、長岡藩の城代家老の娘として生まれ、兄の親友のアメリカ東部で貿易商を営んでいる杉本氏に嫁ぎました。

本書は英語で書かれたものの訳文です。鉞子は六歳のころ、長岡の菩提寺の住職から素読の教育を受けました。最初に学んだのは四書(大学・中庸・論語・孟子)でした。

その様子をこう記しています。

「当時僅か六歳の私がこの難しい書物を理解できなかったことはいうまでもないことでございます。私の頭の中には、唯たくさんの言葉が一杯になっているばかりでした。

もちろんこの言葉の蔭には立派な思想が秘められていたのでしょうが、当時の私には何の意味もありませんでした。

時に、なまなか判ったような気がして、お師匠さまに意味をお尋ねいたしますと、先生はきまって、『よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります』とか『百読自ら其の意を解す』とかお答えになりました。

ある時『まだまだ幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分を越えます』とおっしゃいました」師匠は「意味は今にわかる!」との一点張りで、説明しようとするそぶりもなかったといいます。

素読という教育法に全幅の自信を持っていたことがうかがわれます。では、素読という教育法が一体何なのか、次に説明してみましょう。

4.子どもの心の成長生理から見た素読の絵解き

幼年期の子どもの青年期と異なる特徴は、①あどけない好奇心、②模倣、③パターン認識、④生涯にわたって忘れない記憶です。

子どもの好奇心は説明の必要はないでしょう。

子どもは愛してくれる人、尊敬する人を模倣します。コンラート・ローレンツは、「子どもは愛してくれる人、尊敬する人からのみ伝統を受け継ぐようにプログラムされている」といっています。

子どもは日ごろから武士道精神の漲る大人を「パターン認識」で尊敬していて、そのようになろうと模倣します。その大人が一番大切にしている古典は大切なものと信じ込み、素読の訓練に熱中します。

「意味はわからなくてもよい、今にわかる!」といわれれば、素直にそれを受け入れます。

リズムで暗誦すれば意味を考える必要はなく、ひたすら模倣という生物学的趨性にまかせればよいので、子ども本人には努力感はありません。

無努力で徳を身につける訓練です。

さて、幼年期の子どもの記憶は生涯にわたって忘れないという生物学的特長があります。幼年期に口ずさんだ歌は一生忘れません。リズムで覚えるのであって、意味で覚えるのではないのです。

「パターン認識」という子どもに特有の能力なのです。百人一首の「かるた取り」もそうです。幼年は無努力で記憶可能な時期なのです。

簡潔な漢字に含められた深い意味の漢文を、韻を踏んでリズムをつけて記憶させるのです。親鳥が小鳥にさえずりを教えるのと同じ仕組みです。こうして素読した文章は韻を踏んで記憶に残ります。

そのうちに青年期になり、物事の関係がわかるようになると、記憶に残った素読の文の意味がわかるようになるのです。

ここで「幼年期教育は青年期に完結する」のです。江戸期のこの教育理念は現代のものよりはるかに高次元のものだったことに驚きます。

子はその著書の中で「あけぼのの空が白むにも似て、次第にその意味がのみこめるようになりました。

時折り、よく憶えている句がふと心に浮び雲間をもれた日光の閃きにも似て、その意味がうなずけることもございました」と述懐しています。

5.なぜ、幼年期からの本格的道徳教育か?

では青年期になってから、つまり物事の意味がわかるようになってから教育を始めたらなぜいけないのでしょうか?人間の脳は「古い脳(大脳辺縁系)」と「新しい脳(大脳新皮質系)」から成り立っています。

「古い脳」は感性脳で幼年期から動いており、「新しい脳」は知性脳で青年期から機能し始めます。

幼年期教育は生涯にわたって必要な人生の基本を教えることですから、幼年期に働いている感性脳が素読の内容を人格に取り込みます。

それは処世訓として生涯の生きる指針となります。それを青年期になって教えると、知性脳に入るので、論理的に理解はしても、人格の中には入りません。せいぜい処世術に留まるのです。

物事の理屈がわかるようになった青年期になって人間教育を始めることこそ、合理的と思うでしょうが、それでは教えられたことを知性で受け取り、人格の中には入らないので、人間形成という本来の目的が達成されず、無意味なことになってしまうのです。

ここに幼年期教育の本質があるのです。

現在の小学校教育指導要領を見ると、「課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力を育む……」と記載されていますが、このような能力は青年期になってから「新しい脳」で機能するものであって、幼年学童期ではまだその時期に達していないのです。

これでは「子どもの心の成長生理」に無知な指導が行われているといわざるをえません。ところが「幼年期教育は青年期において完結する」という教育原理があるのです。この基本原理に基づいて人間教育はなされるのです。

このことを江戸期の先達はしっかり把握していたのです。何とすばらしいことでしょうか。

6.武士道精神の道徳教育は国難を救った!

道徳は所詮、個人の人格のことであって、国を救うというような次元のものにはならないというのが一般の考えでしょう。

ところが、江戸期の武士道精神で裏打ちされた道徳は、日本を救ったのです。それは一九〇〇年、中国北京で起こった義和団事件のときのことです。

柴五郎中佐は会津若松の生まれ、戊辰戦争を少年時代に経験して軍人となり、一九〇〇年、清国公使館付き武官となり、義和団による公使館包囲襲撃に際して八か国連合軍の指揮を執ることになったのです。

初めは目立たない存在だった柴でしたが、北京の事情に通じており、中国語にも通じ、英・仏語もできて列国指揮官との意見交換も巧みだったため、間もなく全体の指揮を任せられました。

柴の指揮能力は抜群で、日本軍の軍律は厳正にして勇敢極まりないものでした。負傷者は公使館内の仮救護所で手当てを受けましたが、絶望のあまり発狂する者も出ました。

日本の外交官夫人らは看護に穏やかでまめまめしく立ち働き、努めて明るくして気分を引き立てる気丈さで、それは発狂寸前になる欧米婦人の眼には信じられない光景に映りました。

農民や職人あがりの日本兵もみな勇敢で沈着で、しかも明るさを失いませんでした。深傷を負っても呻き声ひとつ立てません。

救護所に運ばれた負傷者はもの静かで、沈うつな表情ひとつなく、むしろ陽気におどけて、他人を笑わせようとしました。

そして何より、日本軍の将兵は実によく戦いました。我慢強さ、明朗闊達の気性は連合軍の舌を巻かせました。

そして遂に籠城二か月の末、福島安正少将の救援部隊の到着によって全滅寸前のところを救われました。

この情報に強い関心を抱いたのがイギリスのエリザベス女王で、このような高度の徳義を持つ日本民族に手を差し伸べたいと、日英同盟の締結に向けて話が進み、異例の速さで一九〇二年一月末には日英同盟が締結されたのです。

これによって、後にロシアからの脅威の前に進退窮まった我が国は、国運をかけた日露戦争での生き筋が開けたのです。

武士道の心とは運命に対する安らかな信頼感、不可避なものへの静かな服従です。

江戸時代の武士道精神をしつけられ、「義」に生きるための道徳を身につけた婦人を含めた日本人は、義和団事件の籠城では当たり前の生き方をしただけのこと、日常の躾の結果の当然の姿を示しただけのことだったのでしょうが、そのような訓練を受けていない西欧人には、日本人は、人間離れした特別の人種のように感じられたことでしょう。

ともあれ、死を目前にした列国の人々が見守る中で、日本人の道徳心が高い評価を受けたことは誇るべきことでした。百年前のこの史実を思い起こして、日本の道徳が昔に帰ることを祈念するばかりです。

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