第二部九五歳の医学者が明かす生き方の極意
1.私の幼少年時代
私は大正一〇(一九二一)年一〇月二一日に、福岡県久留米市に生まれました。
父の淡は、九州帝国大学医学部がまだ京都帝国大学福岡医科大学という名前だったころ、その第三回の卒業生でした。
父が卒業した翌年に、九州帝国大学と名前が変わり、その医学部で第一外科の医局員でした。ですから、私は父のあとを継ぐかたちで、医学の道に入ったことになります。母の照子は専業主婦でした。
音楽の好きな人で、音楽大学に進みたかったようですが、四姉妹の長女だったので、祖父からは父と結婚して家庭に入ることをすすめられたようです。
祖父は、東京高等師範学校を卒業し、福岡高等女学校の校長を務めた人で、柔道の講道館を創設した嘉納治五郎の弟子の一人でした。
ですので、母方の祖父ではありますが、私には教育者の血も流れています。私は三人兄弟の三男で、子どものころは体も弱く、よく風邪をひいていました。
家の近くを筑後川が流れていたので、そこで溺れては大変だということで、小さなころは、川では遊ばせてもらえず、家の中で遊んでいることが多かったように思います。
両親は、特に厳しく私をしつけたということはありませんでした。三兄弟の末っ子でしたので、兄たちが父や母から怒られているのを見て、「こういうことをすると怒られるのだな」ということを、自然に学びながら成長していきました。
ある時、父から、「お前は何があっても腐らずに、楽天的なところがよいところだ」とほめられたことがありました。
後年、私が学生だったころ、父が、「あの時、こうしておけばよかった」と、悔やんでいる言葉を、しばしば耳にすることがありました。私は、「自分は何があっても絶対に後悔はしないぞ」と、腹の中で決めました。
2.外科医学者になろう──一五歳【志学】
父が外科医だったので、それを継ぐことには何のためらいもなかったのですが、開業医でなく医学者になりたいとの思いは強く、内外の医学者の伝記を読み漁りました。
パスツール(フランスの細菌学者)、キュリー夫人(ポーランドの物理・化学者)、コッホ(ドイツの細菌学者)、野口英世(細菌学者)、北里柴三郎(医学・細菌学者)、志賀潔(医学・細菌学者)らです。
アンリ・ポアンカレ(フランスの数学者)の「科学者は実益のためではなくて、宇宙の美を賛美するために、永い苦しい研究生活を続けるのだ」という言葉を知って、そのストイックな考えに共鳴し、胸の高鳴りをおぼえたものでした。
旧制福岡高校から昭和一七(一九四二)年、開戦直後に九州帝国大学医学部に進みました。父は明治四三(一九一〇)年の第三回卒業生でしたので、息子としても誇らしく感じられました。
大学四年生になった昭和二〇(一九四五)年四月、沖縄陥落目前のとき、陸軍軍医候補生として学徒出陣し、軍務に服して終戦を迎えました。
同年九月に大学を卒業し、九州大学医学部第二外科に入局し(父は第一外科)、父のあとを継いで外科医になりました。
学生の間、開業医の父の手術の助手をしていたため、手術の雰囲気にも慣れ、応急の判断等の勘も身についていたので、それから長い研究生活の後で臨床に復帰したときも、困るようなことはありませんでした。
父は、「外科手術は山登りと同じだ。予想外のことが起こったとき、進むか、止まるか、降りるかの咄嗟の判断で切り抜けなければならん」とよくいっていました。そうした手術の勘は、父から教わりました。
3.医学者になるために理学研究の作法を学ぼう──三〇歳【而立】
当時の臨床教室は、人間教育の徒弟制度のようなところで、医学研究の指導というアカデミズムには縁遠い雰囲気でしたが、研究テーマは「高分子による代用血液の研究」だったので、実際の研究は理学部の研究室で理学部教授から指導をいただくことになり、初めて医学ならざる、科学研究の作法の洗礼を受けました。
そして三〇歳のころ、医学博士の学位をいただき、恩師から外科臨床を始めるようにといわれたときに、もう少し理学研究のマナーが勉強したくなり、東京大学の理学部に内地留学の許可をお願いしました。
しかし、恩師には同意していただけませんでした。その当時の臨床医学の研究の基礎になるものは、せいぜい顕微鏡的病理形態学だったので、今後の臨床医学を開発するには、医学以外の基礎学問の空気を吸っておく必要があるという思いがあったのです。
私の心の中には何かそうした本質的なものがありました。
しかし、それを筋道立てて、恩師にいうことができず、ただただ、「お願いできませんでしょうか」と粘っていたら、「そんなに行きたいなら、行けばいいでしょう!」と大喝を食らいました。
要するに破門されたということです。これが私の「三〇にしての立ち方」だったのです。
上京してからの生活は、東京女子高等師範学校が昇格した新制お茶の水女子大学の理学部に新設された物理化学教室で送ることになりました。
それは、東京大学で師事することになっていた先生が、お茶の水女子大学に異動されることになったからでした。
私はここで物理化学の法則を学び、生物学、人生百般との意味づけを考えながら、「生物物理化学」、「物理化学実験法」を受け持つ講師を務めました。
ここでは「エントロピーの法則」に強い興味を持ちました。
これは「秩序あるものは必ず無秩序になり、エントロピー(乱雑さ)は必ず増大する」という法則のことです。
「エネルギーは不変だが、エネルギーすべてを仕事にかえることはできない」という物の法則の理解の仕方です。
エントロピーは高校の物理に出てくるもので、一八四〇年ごろドイツの物理学者クラウジウスが提唱した閉鎖系(エネルギーの授受のない)の法則です。
ところが最近、ベルギーの化学者プリゴジンが非平衡系の熱力学で、「混沌から秩序は生まれる」という正反対のことを唱えてノーベル賞を受賞しました。
私たちの世界は、非平衡・開放系であるので、平衡が破れて混沌状態になるとき、その混沌には一種の秩序があり、「エントロピーの減少は起こり得る」というのです。
いずれにしても私は、このような実利とはまったく関係のない、目的を持たない議論で、充分満ち足りた理学研修の一時期を過ごしていました。
一方、破門になった医学部に帰れない場合の背水の陣で、理学博士の学位論文作成に抜け目なく準備をしていました。
そんな折、昭和二八(一九五三)年の秋ごろ、恩師から二・二六事件のような速達が届きました。「イマカラデモオソクナイ、カエレ」です。
理学畑でない者が、専門の者と伍してやっていけるわけがないことを思い知った私は、ホッとして、同期生から一〇年遅れて、外科臨床をやることになりました。
ですが、その内心は「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」でした。昭和三一(一九五六)年四月に、九州大学第二外科に助手として復帰しました。
講師から助手への降格は人事院規則でできないということで、降任承認書(格下げに同意するという書面)を提出しました。
その後、昭和三一年八月に九州大学から理学博士の学位をもらいました。
4.「伝統は正しい!」──大学紛争と私──四〇歳【不惑】
その後、恩師の突然の逝去によって、恩師の衣鉢を継ぎ四二歳で教授になりました。
未熟ながら、外科学に物理学・化学を導入する指導原理は何とかなるとの気概があり、実際それなりに自負する業績を遺すことができたと思っています。
教授に就任して間もなく、大学紛争が起こり、一時は研究棟が閉鎖され、研究は完全に停止しましたが、先ほど述べたエントロピーの法則のとおり「混沌から秩序が生まれる」ことの機会をつかみました。
伝統を破ることが進歩だと主張する紛争学生に対し、「伝統は正しいことを発見した!伝統の中にこそ真理はある!この精神に共鳴するものは集まれ!」と号令して第二外科はびくともしませんでした。
そのころ、全国的に見ると、時折、紛争に思いあまった教授の自殺が報じられていましたが、私の家内は、私が朝出勤するときに、「軍艦マーチ」をかけてくれていました。
私は勇気凛々でした。外科学研究のほうでは、物理化学の原理の外科領域への応用に勝算がありました。当時の臨床医学は、ほとんどが経験学で、論理で研究方針を立てることは稀でした。
刑事事件にたとえるなら、聞き込み情報の積み重ねで犯人をあぶり出すのが常法ですが、犯人の手口の特徴の方程式を立て、それを解くというやり方があってもよいのではないかと常々考えていたところ、その論理的研究法で問題を解決したことがありました。
その内容は専門的になるので説明は割愛しますが、その一つは、「食道静脈瘤に対する選択的シャント手術」とその病因の「局所的循環亢進説」の提唱、もう一つは、「移植血管の予後推測のための血流波形の解析」の研究でした。これは物理化学の基礎を身につけておいたおかげと思っています。これが私の四〇歳(不惑)でした。
5.外科学から人間科学へ──五〇歳【知命】
昭和五三(一九七八)年、日本外科学会会長を済ませたころ、アレキシス・カレルの『人間この未知なるもの』と、その姉妹編の『人生の考察』を熟読しました。
そこに人類が繁栄を続けるために必要な三原則として、①個体の保存、②種の繁殖、③精神の発達──が挙げられています。
初めの二つは自明のことですが、最後の「精神の発達」について、カレルは、「現代人は精神を創造主が計画されているようには発達させようとしていない。
測定できて再現性のある精神(知性)のみを価値あるものとして、測定できず、再現困難な精神(感性)を価値なきものとしている。
学校は上級学校進学のための予備校となっているではないか。ルネッサンスは偉大な人類の功績だったが、それを継承する人間に過ちがあった。これを改めなければ人類は早晩絶滅するであろう」という趣旨のことを述べています。
現代人は「精神を恣意的に発達させようとしており、これを改めなければ人類は早晩ほろびるであろう」との警告に強い衝撃を受けました。
それと同時に、岡潔の随筆『春宵十話』の冒頭の言葉、「人を生理学的にみればどんなものか、これがすべての学問の中心になるべきではないか」にも深い共鳴を覚えました。
この二書が私の恩書です。
「大学教授としての務めは大体済んだ。本来私がやらなければならないと思っていたのは、人間という生物の正体を学んで、カレルの指摘する『正しい精神の発達の道』を明らかにすることだ」と思い当たり、それが、天が私に与えた命題ではないか、とさえ思うようになりました。
六三歳で定年を迎えるころに、日ごろから研究で連絡のある会社の重役が私を訪れて、「日ごろお世話になったお礼に二百万円を差し上げたいのですが、どんな形で持ってきましょうか」というので、「それはありがたいことです。
実は人間科学という分野を開拓する基金が欲しいので、もう少し弾んでいただけませんか」といったら、驚いて帰りました。
それが話題になって一社百万円、五十社で五千万円の寄付をいただくことができたので、文部省と相談して、昭和六一(一九八六)年に日本学術振興会に井口記念人間科学振興基金をつくってもらいました。
しばらくは利子で、年一回一泊二日のセミナーを開いて勉強会をしていましたところ、一〇年経ったころにバブル経済が起こり、ほとんど無利子になったので、元金を食いつぶすことにして、二〇年目の平成一八(二〇〇六)年に同基金は閉じることになりました。
今思えば私の不明によることなのですが、最初から事業の計画を具体的に明確にしておかないと、人間科学という理念の勉強会はやっても実りはありません。
これに気がついたのは後半のころで、人間科学の焦点は「人間教育を生物学的視点から見直すこと」に絞るべきと考え、基金閉鎖で無一物になったとき、「ヒトの教育の会」を立ち上げた次第です。
6.教育・道徳の生物学へ──七〇歳【従心】・八〇歳【傘寿】・九〇歳【卒寿】
地球上の夥しい生物は環境との調和を本能的に行っています。
ところが類人猿の脳が巨大化したヒト(ホモ・サピエンス)では、新たに保有した「自意識」によって価値判断をして環境との調和を行うようになったのだと考えました。
人間は自分の価値判断で、他の動物が本能的に環境と調和してやっているように、うまくやれということです。
そんな難しいことができるわけがないではないかとぼやいても、人間は自意識で環境との調和を図らなくてはならなくなったのです。
人間の親は子どもに「自分でわがままを抑えるスベを会得するように」との躾をして「ヒトを人間にまで育てる」のです。
先祖はそれを伝統として代々受け継がせて「幼年期までの人間的ニューロン回路」をつくり上げるのです。
道徳・教育はこの人間的ニューロン回路の調整に不可欠な環境刺激です。人間教育・道徳はその意味で生物学的な意義を持つものです。
道徳は戦闘を促した悪であるとして放棄するというのですが、理由は何であれ、「自己抑制」を促す道徳教育を放棄すれば、人間は環境との調和がとれない生物になり、人間から失格するだけです。
その実例は日常茶飯事のように起こっています。これが私の道徳・教育の生物学です。体は食物が与えられないと栄養失調で死にます。
道徳規範、教育による適正な養育環境刺激がないと「人間的ニューロン回路」がつくれないので、心は育たず人間は失格します。ただ、それだけのことです。
私の高齢期は、このようなのっぴきならない認識論の展開の時期でした。
人間以外の哺乳動物の頭部は、成熟期では幼児期と形が違って口部が突出するのですが、人間だけは幼児期と大人で変わりません。
幼い形のまま成長する過程をネオテニー(幼形成熟)と呼びます。
人間は一般に成熟するにつれて子どもらしさを捨てて大人びますが、たまにはそうではなくて、子どもの特徴を持ち続けることがあります。
好奇心、遊び好き、偏見のなさ、柔軟性、想像力に富むこと、何でも試してみること等で、年を取ってもこれらの子どもの特徴を続けることは望ましいこととモンターギュは述べています。
私は智慧の付き方が人並みより遅く、ネオテニー的だと常々自分で思っていました。
道徳は自意識の持つわがままを抑える生活規範です。その道理を放棄するとは何たることかと激して青年の気持ちになるのは当然でないでしょうか。
ネオテニー現象が起こるのは当たり前でしょう。
伝統という格式を重んずる座敷に土足で入り込んで、道徳という宝物を持ち去ろうとする賊を目前にして、ネオテニーの本能が目を覚ましたというところです。
私には行いすました傘寿もなければ卒寿もない気持ちです。
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