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第八章みなみは真摯さとは何かを考えた

29二時間後、みなみは市立病院の玄関を入ったところにあるロビーにいた。

また、みなみの周りにはほとんどの野球部員たちが集まっていた。

そのためそこは、ほとんどが野球部員たちで埋め尽くされる格好となっていた。

そこへ、柏木次郎が飛び込むようにして入ってきた。

次郎は、みなみの姿を見つけると駆け寄ってきた。

「どうしたんだって?」と次郎は、問い詰めるようにみなみに尋ねた。

すると、ソファに座ってうつむいていたみなみは、ゆるゆると顔をあげると、ちょっと苦笑いのような表情を浮かべてから言った。

「遅かったじゃない」「……ごめん。

電話に気づくの、遅れたんだ。

それより、どうしたんだって?夕紀の状態、どうなんだ?」それでみなみは、一つため息をつくと言った。

「今夜が、ヤマなんだって」「ヤマ?ヤマってどういう意味だよ?」「知らないよ。

私だって、そう聞いただけだから……」「じゃあ、今はまた手術をしてるのか?」「ううん」とみなみは、首を横に振った。

「今は、夕紀の親戚とかが集まって、彼女を励ましてる」「励ましてる?どういう意味だよ」「おばさんがそう言ったんだよ。

夕紀を元気づけるために、みんなが集まってくれたって。

それが終わったら、私たちにも励ましてもらうから、ロビーで待っててくれって、そう言われたんだ」それで、次郎はいぶかしげな顔になった。

「『ヤマ』って、今夜助かるかどうかってことだろ?そんな人間に、励ますっていうのはおかしくねえか?そんな場合じゃねえだろ」するとみなみは、苛立たしげな顔になって言った。

「私に言われても知らないよ。

文句があるならおばさんに言いなよ」その時ちょうど、夕紀の母親の宮田靖代がロビーに入ってきた。

「おばさん」とみなみは立ちあがって駆け寄った。

「みなみちゃん」と靖代は、弱々しげに微笑むと言った。

「ごめんね、お待たせして。

準備ができたから、会ってやってくれる?」それで部員たちは、全員一度には病室に入りきらないため、五人ずつに分かれて、順番に夕紀を見舞うことになった。

最初は、みなみ、次郎、文乃、正義、それに加地が入ることになった。

病室に入ると、留守番をしていた親戚の人らしき女性が、一礼して出ていった。

それ以外に人影はなく、医師も看護師もいなかった。

先導してきた靖代が、後ろを振り返ると言った。

「それじゃ、みなさん一言ずつ、お別れの言葉をかけてやってもらえますか?もう意識はないんだけど、耳だけは最後まで聞こえるらしいから、声をかけてくれれば、きっと届くはずだと思います」「えっ?」とみなみは声をあげた。

「おばさん、何を言ってるの?今夜がヤマじゃないの?」靖代は、そう言ったみなみの目をじっと見つめ、こう言った。

「夕紀は、もうダメらしいのよ。

今夜か、明日にはって、お医者さんに言われたわ。

だから、親しい人たちに集まってもらうようにって、言われたの。

それで、みんなにも来てもらったのよ」「え?」とみなみは言った。

「おばさん、何を言ってるか全然分からないよ。

だっておかしいでしょ?ヤマっていうのは助かるか助からないかっていう意味でしょ」みなみは、ほとんど詰め寄るように靖代に言った。

それで、次郎が「おい」と言って、みなみの肩に手をかけた。

しかしみなみは、それを振りほどくと言った。

「嘘でしょ、おばさん。

嘘だよね?変なこと言わないでよ。

だって、そんなのおかしいよ。

この前まで、普通に元気だったじゃん。

この前まで……だって昨日もメールしたし。

ねえ、夕紀」それでみなみは、初めてベッドで寝ている夕紀の顔を見た。

しかし、そこで戦慄させられた。

そこに、みなみの知っている夕紀はいなかった。

そこには、見たこともない夕紀がいた。

夕紀は、顔が紙のように白かった。

そして、存在感が物のように希薄だった。

彼女は、死人以上に生気がなかった。

みなみはこれまで、一度だけ父方の祖父の死に立ち会ったことがあったけれど、これほど生気のない人間の顔を見るのは生まれて初めてだった。

「夕紀、ちょっとやだ、嘘だよね?」とみなみは、その紙のように白くなった、呼吸をしているかどうかさえも分からない、ほとんど動かない夕紀を見つめて言った。

「冗談だよね。

だって……だって、なんとかって数値が下がったら退院するって。

だから、甲子園ではベンチに入ろうって、話してたじゃん。

ねえ、夕紀」みなみは、夕紀に取りすがって声をかけた。

「まだだよね?まだ諦めてないよね?だって、夕紀は病気なんかに負けるような子じゃないじゃん。

夕紀は、だって、私よりずっと強い人間じゃん。

これまでだって、ずっと病気と戦ってきたじゃん。

そして勝ってきたじゃん。

だから、今度も負けないよね。

勝てるよね」

その時、夕紀の瞼がかすかに震えた。

「夕紀!」みなみは、勢い込んで声をかけた。

「夕紀。

ああ、やっぱり聞こえるんだ。

まだ諦めてないんだ。

まだ戦うって言ってるんだ。

そうだよ夕紀。

まだ諦める時じゃない。

もう少し頑張ろう。

勝つ。

勝つよ。

私たちも勝つから、夕紀も勝とうよ。

決勝まで来たんだよ。

都立の無名の弱小校が、周りからは奇跡だ奇跡だって言われてるけど、奇跡なんかじゃない。

私たちは、やるべきことをやって、ここまで来たんだ。

それは夕紀が一番分かってるじゃない。

だから、夕紀も、ここで諦めずに、私たちと一緒に、頑張ろう。

大丈夫。

勝てるよ。

試合はまだまだ、始まったば――」「みなみちゃん、お願い」そう声をかけたのは、靖代だった。

みなみは驚いて靖代を振り返った。

すると靖代は、みなみの肩を両手で抱え込むようにして言った。

「みなみちゃん、お願い、もう許してあげて」。

靖代は、泣きながら、みなみの目を真っ直ぐに見つめると言った。

「お願い、もう、夕紀を許してあげて。

ごめんね、みなみちゃん。

おばさん、ずっとみなみちゃんのことを騙してたの。

本当は、もう助からなかったの。

去年の、入院した時に、もう助からないって、お医者さんに言われていたの。

余命三ヶ月だって、お医者さんに告げられていたの」「え……」とみなみは、気の抜けたような表情になって靖代を見た。

靖代はなおも言った。

「だけどね、そこから頑張ったの。

夕紀は、生きたの。

懸命に生きたの。

懸命に戦ってきたのよ。

病気と戦ってきたの。

それで、勝ってきたの。

生きてきたの。

病気と戦って、一年間も生きてきたの。

余命三ヶ月のところを、一年も生きてきたの」靖代は、激しく嗚咽しながら言った。

「それをね、生かしてくれたのは、みなみちゃん、あなたなのよ。

みなみちゃん、あなたが、夕紀を生かしてくれたの。

みなみちゃん、あなたが、夕紀の最後の人生を、光り輝かせてくれたの。

みなみちゃん、あなたが、夕紀の人生を、意義のあるものにしてくれたの」みなみは、呆然とした顔で靖代を見つめていた。

靖代は、ほとんどみなみを抱きしめるようにしながら言った。

「みなみちゃん、あなたのおかげで、この一年、夕紀は本当に生き生きとしてた!この一年は、人の一生分くらい生き生きと輝いていた。

だけどね、みなみちゃん、もう限界なの。

もうここまでだったのよ。

夕紀はね、頑張ったの。

本当に頑張ったわ。

だけどね、苦しかったの。

本当に苦しい戦いだったの。

大変な戦いだったの。

だから、夕紀のこと、許してあげて。

もうここで、戦いをやめちゃうかもしれないけど、そのこと、許してあげて。

本当に、夕紀はここまでよく戦ったの。

そのこと、分かってあげて」「あ……」とみなみは、凄惨な顔つきになった靖代を見つめた。

「おばさん、私……」そんなみなみを、靖代は抱きしめながら言った。

「みなみちゃん、ごめんなさい!私、一番感謝しなきゃいけない人に、こんなことを言って。

ごめんなさい。

ごめんなさい」靖代は泣きながら、いつまでも謝り続けていた。

30全員の挨拶が終わっても、部員たちはしばらくロビーにとどまっていた。

しかし、閉院時間に伴って、ほとんどの部員が帰っていった。

また、夜の九時を回った頃合いで、残った者も、一旦帰宅しようということになった。

それでも、みなみだけは、頑なにそこを動こうとしなかった。

それで、次郎もそこにとどまると言い出し、結局、二人が病院に残ることになった。

二人は、玄関脇のロビーから病棟のロビーへ移り、そこのソファで、ちょっと離れて腰かけていた。

みなみは、ずっと無言で、うつむいたまま何かを考えているようだった。

次郎も、やっぱり無言で腕組みをしていたが、時折、歩き回ったり、みなみの様子を確認したりしていた。

夜中の三時を回った頃、みなみが不意に、「あ」と言った。

それで、次郎が声をかけた。

「どうした?」するとみなみは、長い長い沈黙の後、絞り出すような、震える声音で言った。

「……私、とんでもないことを言った」「え?」。

次郎は、やや間を置いてから尋ねた。

「何を?」「……夕紀に、だいじなのはプロセスではなく、結果だって」「え?」「夏の大会が始まる前にね、夕紀が、結果ではなく、プロセスをだいじにしたいって言ったの」「うん」「その夕紀に、私は、結果を求めずに、プロセスを重視するのは、マネジメントとして真摯さに欠けるって言ったんだ」「……」「私は……なんてことを言ったんだろう?」それから、みなみは再びうつむいて何も言わなくなった。

それで、次郎もずっと黙っていた。

夕紀が亡くなったのは、朝の六時過ぎだった。

最後は、蝋燭の火が燃え尽きるように、そっと息を引き取った。

みなみと次郎は、その場には立ち会わなかった。

亡くなったのをお医者さんが確認してから、病室に入って、その顔を見た。

その時、みなみは気づかされた。

夕紀の顔が、昨日よりも穏やかになっていることに。

昨日よりも、幾分か生気が蘇っていることに。

それで、みなみはあらためて、夕紀がこれまで戦ってきたということを知らされた。

そしてそれが、つらく苦しい戦いであったということを知った。

彼女は今、ようやくそこから解放されたのだ。

九時になって、部員全員が病院に集まってきた。

この日は、学校にではなく、急遽この病院へ集合となり、そこから決勝戦の球場へ向かうことが決められた。

夕紀は、亡くなって早々にお寺へ運ばれていった。

そのため、みなみと次郎以外は、お別れの挨拶をすることができなかった。

集まってきた部員たちは、みんな無言だった。

お互い、なんと声をかけていいのか、どう気持ちを持てばいいのか、分からずに戸惑っていた。

加地は、そんな部員たちを、ロビーから屋外の駐車場へと連れ出した。

この日は、朝からうだるような暑さだった。

駐車場脇の雑木林からは、蝉の鳴き声がけたたましく鳴り響いていた。

駐車場には、照りつける太陽と、アスファルトの照り返しとが相まって、立っているだけで汗が噴き出してきた。

その暑さの中で、部員たちは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

加地は、そんな部員たちを見回すと言った。

「宮田は、もうお寺さんに運ばれた。

今日がお通夜で、お葬式は明日になるそうだ」それから、続けて何かを言おうとしたが、しかし結局言葉が出てこず、隣にいた正義に声をかけた。

「それじゃ、キャプテン」「分かりました」そう言って、みんなの前に立った正義は、部員たちを見回すと、こう話し始めた。

「ええ、今日は決勝戦です。

ぼくたちが最大の目標として、この一年間、それを目指して頑張ってきた、甲子園出場を懸けた、とても大切な試合です」。

それから、少し間を空けて、こう続けた。

「その日に、ぼくたちにとって最も大切な人が、亡くなりました。

ぼくたちマネジメントチームにとってはもちろん、野球部にとっても、欠かすことのできない、大切な人でした」そして、部員たちを見回すとこう続けた。

「その人が、亡くなったということの意味を、よく考えてください。

そして、その人が、最も望んでいたことは何かというのを、よく考えてください。

幸い、ぼくらは、彼女の生前に、彼女からたくさんの言葉をもらいました。

だから、それを考えることは、けっして難しくはないはずです。

だから、今日、皆さんが何をするべきか、何をしなければならないかは、皆さんが一番よく分かっているはずです。

皆さんが、一番強く感じているはずです。

今日は、それをやりましょう。

それをすることに、全力を傾けましょう。

そうして、彼女の思いに応えましょう。

彼女のために、今日の試合を戦いましょう。

そして、彼女のために、今日の試合を、ぜひとも――」「意味ないよ」と、突然それに割って入るように、声があがった。

それで、全員が驚いてその声のあがった方を見た。

そして、その声をあげた者を、驚きの目で見つめた。

声をあげたのはみなみだった。

みなみが、正義をバカにしたような顔で見つめながら、続けてこう言った。

「夕紀はもう死んだんだ。

彼女のために戦ったって、意味がない」「黙れ」と声をあげたのは次郎だった。

次郎はみなみの脇に進み出ると、彼女をにらみつけるようにした。

しかしみなみは、そんな次郎をにらみ返すと、「あなたこそ黙って」と言い、こう続けた。

「ムダだった。

全てはムダだったのよ。

この一年は、何もかもがムダだった。

目的も、目標も、もう何もかもありはしない。

全ては意味がなかった。

私は彼女のためにマネジメントをしてきたんだ。

彼女のためにマネージャーになったんだ。

だけど、それは独りよがりなありがた迷惑だった。

全ては、彼女を苦しめていたんだ。

私が、彼女にムリな期待を押しつけたから、彼女は……彼女は……彼女は三ヶ月で楽に死ねたところを、一年間もムリに戦わされたんだ」「それは違う」と言ったのは正義だった。

しかしみなみは、そんな正義をにらみつけると、鋭く言った。

「違わないよ!全然違わない。

私が……私が余計なことをしなければ、夕紀は苦しまずに済んだんだ。

全ては、全てはムダだった。

私は、思いあがっていた。

それが夕紀のためになると、勝手に決めつけていたんだ。

なんのことはない、マーケティングできてないのは、私だったんだ。

私は、マネジャー失格だ」「そんなことはない」と正義は言った。

「川島は、マネジャーだよ」しかしみなみは、そんな正義を再びにらみつけると、今度は自嘲するような笑みを浮かべて言った。

「あなたは、全くなんにも分かってないようね。

だけど、これを聞いても、そう言ってられるかしら?」

それを聞いて、次郎が言った。

「おい、やめろ」しかしみなみは、それには耳を貸さず、続けて言った。

「私はね……私は、本当は野球が大嫌いなのよ」「やめろ」「このくだらないスポーツが、世界で一番嫌いなの。

この面白くないスポーツを、心の底から憎んでいるの。

大嫌いなのよ。

反吐が出るの」「やめろって」「どう?驚いたでしょ?呆れたみたいね。

そんな人間が、マネジャーをやっていたのよ。

真摯さもへったくれもないわ。

私はね、嘘をついてたの。

みんなを騙していたのよ。

私は、本当に野球が大大大……」その時だった、次郎がいきなりみなみに平手打ちを食らわせた。

それをまともに受け、みなみは二、三歩後ろによろめくと、しりもちをついた。

次郎が怒鳴った。

「やめないか!」ところが、それに慶一郎が飛びかかった。

慶一郎は、いきなり次郎に殴りかかると、そのまま駐車場に押し倒し、二人は揉み合いになった。

それで、他の部員たちが慌ててそれを止めに入った。

その揉み合っている二人に、みなみが声をかけた。

「いいのよ」みなみは、駆け寄ってきた文乃に抱き起こされると、叩かれた左の頬を押さえながら言った。

「私は、ぶたれて当然なの。

聞いたでしょ、私は、みんなに嘘をつきながらやってたんだから。

私は、みんなを騙してたのよ」すると、正義が再びこう言った。

「違うよ」「違う?あなたは何を言ってるの?」。

みなみは、苛立たしげに正義をにらみつけると言った。

「本人がそう言ってるんだから、違うわけないでしょ?」しかし、正義はこう言った。

「いや、違うんだ。

そういう意味じゃなくて、その……それは、知ってたんだ」「え?」「それはその、みんな知ってたんだよ。

川島が、野球が嫌いだっていうのも、それでも、宮田のためにマネジャーをやってたというのも、みんな、知ってたんだ」それで、みなみは次郎の方を見た。

しかし次郎も、なんのことか分からないという表情で、いぶかしげに首を振った。

「おれたち、聞かされてたんだよ」と正義は言った。

「四月になってからの、お見舞い面談の時に、その、今度は川島が同席してなかっただろ。

だから、その席で、宮田から、聞かされてたんだ」「え?」それで、みなみは部員たちを見回した。

すると彼らは、次郎を除き、一様に申し訳なさそうな顔でみなみを見ていた。

「……え?」「おれたち、宮田から聞かされてたんだ」と、正義は続けた。

「みなみは、本当は野球があまり好きじゃないんだって。

だけど、私の病気のために、わざわざ野球部のマネージャーになってくれたんだって。

だから、もし私に何かあったら、もうマネージャーをやらないって言い出すかもしれないって。

だけど、その時は、引き留めてほしいって。

みなみは、確かに野球が嫌いかもしれないけれど、野球部には絶対に必要な存在だからって。

野球部には欠かすことのできないマネジャーだからって。

おれたち、みんな、宮田にそう言われてたんだ」「……」「だから、知ってたんだよ。

おれたち、みんな、知ってたんだ」みなみは、そう言った正義の顔をまじまじと見た。

それから、周囲を見回して、最後に、隣にいた文乃と目が合った。

文乃は、ただ悲しそうな顔つきで、みなみを真っ直ぐに見つめていた。

それで、みなみは再び気の抜けたような顔になると、こう言った。

「今度も、私だけが知らなかったんだ」と、その時だった。

みなみはいきなり、駐車場の出口へ向かって駆け出した。

それはあっという間のできごとだった。

誰も、声をかけるいとまもないくらいだった。

ところが、それをすぐに追いかけた人物がいた。

文乃だった。

文乃だけが、咄嗟にみなみを追いかけた。

そうして二人は、あっという間に駐車場を後にすると、すぐに姿が見えなくなってしまった。

「みなみ!」それで、慌てて次郎もその後を追いかけようとした。

しかしそれを、正義が止めた。

「待って。

ここは文乃に任せよう。

おれたちは、もう球場に行かないと」それから正義は、部員たちの方を振り返るとこう言った。

「さあ、おれたちは球場へ行こう。

おれたちには、決勝戦が待っているんだ」

31決勝戦は、午後の一時に始まった。

しかし、この時までにみなみと文乃の二人は、球場には着かなかった。

対戦相手は、今年の春の甲子園にも出場した、優勝候補の最右翼だった。

攻撃も守備も死角がなく、これまでの対戦校と比べても格段に手強かった。

程高の唯一のアドバンテージは、これまでの試合を投手陣が少ない球数で乗りきってきたことだった。

慶一郎の累積投球数は、相手投手のほとんど半分だった。

ただ、昨日から今日にかけてのことで、部員たちは疲れきっていた。

みんなほとんど眠ることができずに、キャッチャーの次郎に至っては一睡もしていなかった。

それでも、部員たちはよく戦った。

選手たちは、一瞬たりとも集中力を切らすことなく、よくプレーした。

心配されたような、浮き足立ったり緊張で硬くなったりすることもなく、試合は均衡を保ったまま、0対0で中盤五回までを終わった。

ところが、六回表に来て慶一郎は連打を許す。

この回一気にヒットを連ねられ、合計3点を失ってしまった。

さらに七回、再び連打を浴びると1点を失って、これで0対4となり、なおも二死満塁のピンチが続いた。

慶一郎は、ここでもノーボール作戦を貫いていたが、ファールで粘られるうちにカウントを悪くし、ついにツースリーまで追い込まれた。

ところが、その時だった。

急にタイムをかけたベンチの正義が、マウンドまでやって来た。

「どうした?」と聞いたのは慶一郎だった。

「タイムをかけるタイミングじゃねえだろ?」「いや……」と言って正義は、ちらとベンチを振り返りながら言った。

「到着したから、知らせようと思ってさ」

「え?」それで、マウンドに集まった選手たちがベンチを見ると、そこにみなみと文乃が座っていた。

よく見ると、みなみはなぜかいつもはかぶらない帽子を目深にかぶり、口にはマスクをしていた。

それで、慶一郎が聞いた。

「あいつ、なんでマスクしてるの?」「いや、寝不足と泣いたのとぶたれたので、顔がひどいことになってるから、見せたくないんだって」「ああ、そうなんだ」それで、マウンドに集まった選手たちには、ちょっとホッとしたような笑顔がもれた。

「おまえがぶつからだぞ」慶一郎が、次郎に対してからかうように言うと、次郎は、憮然としながら言った。

「おれだって、寝てないし、泣いたし、そのうえ殴られたけどな」それから、プレーが再開された。

ベンチのみなみは、そのプレーを見つめながら戸惑っていた。

今朝、病院の駐車場から逃げ出したみなみは、そのまま駆け続けた。

とにかく、もうそこにいることはできなかった。

この世の全てから逃げ出したかった。

どこか、これまでとは関係のない世界へ行きたかった。

少なくとも、知り合いの一人もいないところへ行きたかった。

ところが、そんなみなみを執拗に追いかけてきた人物がいた。

文乃だった。

文乃は、どこまでもどこまでも追いかけてきた。

みなみがいくら逃げようと、けっして諦めることはなかった。

そうして、たっぷり三十分は走ったところで、とうとう捕まってしまった。

みなみは、文乃がこんなにしつこいとは思いもしなかったから、くたくたに疲れたのと同時に、驚き、戸惑ってもいた。

おかげで、それ以上抵抗する気力を失い、そのまま球場まで引きずられてきたのである。

しかし、そうやって来てはみたものの、どういう気持ちで試合に臨めばいいのか、全く分からなかった。

みなみは、夕紀の死によって、目的も目標も、何もかも失ってしまった。

だから、決勝のこの試合も、とてもじゃないが、打ったりとか、守ったりとか、そんなことに心を動かされるような状態ではなかった。

それでもみなみは、投げ続ける慶一郎の姿を見ながら、あることを思い出していた。

それは、去年の秋の大会で、慶一郎がなす術もなくフォアボールを連発し、コールド負けを喫した時のことだった。

その慶一郎が、今はツーアウト満塁フルカウントという土壇場に追い込まれながらも、動じることなくストライクを投げ込んでいた。

粘られても粘られても、その気力を途切れさせることなく、淡々とストライクを投げ続けていた。

そのことに、みなみは心を動かされないわけにはいかなかった。

それは複雑な気持ちだった。

一方には、喜んでなどいられないという気持ちがありながら、もう一方では、湧きあがるそれを抑えることができなかった。

そうして最後、慶一郎がとうとうバッターを三振に打ち取った時には、思わず拍手をしている自分がいるのだった。

しかしそれを、隣に座っていた文乃がじっと見ていることに気づき、慌てて手を叩くのをやめた。

試合は、0対4で七回の裏に進んだ。

この回の程高は、先頭バッターが塁に出ると、すかさず盗塁を決め、ノーアウト二塁のチャンスを作った。

しかし、続く二人の打者が凡退し、ツーアウトとなった。

ここで迎えるバッターは、四番の星出純だった。

純は、ここまで一人だけ二安打と気を吐いていたが、しかし相手の作戦は敬遠だった。

五番以降のバッターが、ここまでいずれもノーヒットだったからだ。

純が歩くと、ツーアウト一、二塁となった。

次のバッターは、キャッチャーの柏木次郎だった。

次郎は、昨晩は一睡もしていなかったけれど、それは彼にとって生まれて初めての経験だった。

そうして今朝は、自分にとっても幼なじみで、また最も大切な友人の一人を亡くした。

だから、身も心もくたくたに疲れきっているはずだったが、次郎は、不思議と疲れを感じていなかった。

むしろ、身体の奥から無限に力があふれてくるような、不思議な気力の充実を感じていた。

これまでの二打席は凡退が続いたが、それは打球がたまたま野手の正面に飛んだだけで、タイミングは合っていると思っていた。

何より、球がよく見えるのだ。

こんな感覚は、これまで経験したことがなかった。

バッターボックスに送り出される前、次郎は、監督の加地から「敬遠したことを後悔させてやれ」と発破をかけられていた。

しかし彼は、そういう敵意をピッチャーに抱くことはなかった。

むしろ、自分と対戦してくれることに感謝の気持ちを覚えていた。

このチャンスに自分をバッターボックスに立たせてくれたことに、お礼を言いたいような気持ちだった。

それ以外、次郎は何も考えていなかった。

というより、何かを考えようとしても頭が回らなかった。

だから、とにかく来た球を打とうとしたのだ。

その初球は、低めに落ちる変化球だった。

ところが次郎には、そのボールがよく見えた。

投げる前から、なぜか変化球が来るというのが分かったし、投げた瞬間には、それがどのコースに来るのかということも分かった。

だから、そこを目がけてバットをスイングした。

身体の奥からあふれてくる力のためか、バットは驚くほど軽かった。

そうして、手応えというのはほとんどなかった。

ボールはほぼ真芯で弾き返されると、そのままレフト上空を襲った。

それに対し、レフトは一歩も動かなかった。

それは1点差に詰め寄る、次郎のスリーランであった。

32試合は、3対4の1点差で、そのまま最終回、九回裏の程久保高校の攻撃を迎えた。

二番バッターから始まったこの回、最初の二人は簡単に倒れ、四番の星出純を迎えた。

この試合、純には特別な思いがあった。

対戦する相手投手が、中学校の時のチームメイトだったからだ。

それは、自分の実力を証明するには絶好の機会のように思えた。

相手投手が、私立に進んでいた場合の自分のように思えたからだ。

だから、ここで打つことができれば、彼以上のことができたと、自分自身に証明できるような気がしたのだ。

ところがこの時、純の中からは、不思議とそういう気持ちが消え失せていた。

彼にあったのは、とにかく次につなぐという気持ちだけだった。

――今日はなぜか次郎の調子がいい。

そのことは、純にも分かっていた。

だから、彼につなげばなんとかしてくれる――そんな思いがあった。

純は、相手の守備位置を見てみた。

すると、三塁手が少し深めに守っているのが目に入った。

どうやら、ここまで全打席出塁している四番の純を警戒しているようだった。

そこで純は、初球を三塁線にセーフティバントした。

それは、ここまでノーバント作戦を貫いてきた程高が、この大会、初めて見せたバントだった。

するとそれは、見事に相手の裏をかき、三塁手を慌てさせた。

処理を焦った三塁手は、捕った球を一塁へ悪送球してしまい、おかげで純は二塁へと進むことができた。

そのため、場面はツーアウト二塁と、一打同点のチャンスとなった。

ここで迎えるバッターは、前の打席でホームランを打った次郎だった。

それに対し、タイムを取ってマウンドに集まった相手ナインは、何かを協議しているようだった。

それからプレーが再開されたが、ホームに戻ったキャッチャーは立ったままだった。

つまり、敬遠だった。

ここは次郎を歩かせて、次の六番バッターと対戦するという作戦だった。

六番の、この日もショートの先発に入っていた、桜井祐之助と対戦するということだった。

やがて次郎が一塁へ歩き、ツーアウト一、二塁となった。

ネクストバッターズサークルに控えていた祐之助は、おもむろに立ち上がると、ゆっくりとした足取りでバッターボックスへと向かった。

その背中を見つめながら、ベンチのみなみにはさまざまな思いが去来した。

――よりにもよって、ここで祐之助に回ってくるとは。

それから不意に、祐之助が夕紀の病室にいた時のことを思い出した。

三月の初め、夕紀のお見舞いに行った時、病室のドアを開けると、たまたま彼がいたのだ。

――あの時は、おじゃまだったかしらなんて言ってからかったけど、彼は、夕紀のことをどう思っていたのだろう?そのことを、まだ確かめたことがないことに、みなみは気づいた。

その時、加地が正義を呼び寄せると、何ごとかを告げた。

それを聞いた正義は、主審に何かを伝えるため、ベンチを飛び出していった。

それで、みなみは驚いて加地に尋ねた。

「監督、代えるんですか?」しかし加地は、みなみのことをジロリとにらむと、こう言った。

「安心しろ。

祐之助を代えるわけじゃない。

あいつは、監督をクビにすると言われたって代えやしないよ」それから、やがて交代のアナウンスが場内に告げられた。

交代は、一塁ランナーの次郎だった。

今敬遠で歩かされた次郎に代わって、ピンチランナーに朽木文明を起用したのだ。

「監督!」みなみは、思わず目を見開いて加地を見た。

そんなみなみに、加地はニヤリと笑うとこう言った。

「見ていろ。

敬遠したことを、心の底から後悔させてやるから。

敬遠のフォアボールは、いかなる場合も使うべきではないというイノベーションを、おれは今ここで起こすんだ」そう言うと、ベンチから出ていく文明に何ごとかを指示し、戻ってきた次郎には労いの声をかけた。

次郎は、戻ってくるとみなみの隣に座った。

みなみは、そんな次郎になんと声をかけていいのか分からなかったが、ともかく、声をかけたいと思った。

だから、自分からこう言った。

「おつかれさま」すると、次郎はちょっとびっくりした顔でみなみを見たが、すぐに前を向くと、「まだ試合は終わってない」と言った。

「うん」それから、二人はしばらく無言でグラウンドを見つめていたが、やがて次郎がぽつりと言った。

「おまえ、よく戻ってきたな」「え?」「よく、試合まで来てくれたよ」「うん……文乃がね」「え?」「文乃に、言われたんだ」「何を?」「うん……それについては、後で話すよ。

だけど、それを聞いたら、私、力が抜けちゃって」「そうか……ま、なんにせよ、来てくれてよかったよ」やがて試合が再開された。

すると、すぐに異様な雰囲気が球場全体を包み込んだ。

文明がリードを始めたのである。

いつものように、一歩一歩、まるで歩測をするように、大またに歩き始めた。

それに伴って、スタンドに陣取った程高の大応援団も、「イーチ!ニーイ!サーン!」と唱和を始めた。

スタンドには、陸上部の小島沙也香をはじめ、多くの人々が詰めかけていた。

そうして、沙也香はもちろん、全ての人々が、声を限りに、その数を唱和した。

それだけではなかった。

都立高校である程高野球部の活躍を知り、ファンになって観戦に来た一般の観客も、これに倣った。

おかげでそれは、地鳴りのような響きとなって、球場全体を覆い尽くした。

また、文明のパフォーマンスが、これに拍車をかけた。

この日、いつもなら七歩しかリードしないところを、今回は八歩リードを取ったのである。

そのため、八までを数えた観衆からは、おおというどよめきとともに、大きな拍手が湧きあがった。

すると、それがまた異様な雰囲気に拍車をかけた。

おかげで、相手ピッチャーはたまらずプレートを外したのだけれど、それはかえって自らを追い込む結果となった。

一旦帰塁した文明は、ピッチャーがセットし直すと、再びリードを始めたのだ。

それでまた、あの地鳴りのような唱和が始まり、今度は、相手校の監督がやむなくタイムを取るまでに至った。

そこでマウンドに伝令を送った相手校の監督は、文明に気を取られないようにと、一塁手をあえてベースから離れさせた。

この場面、二塁にもランナーがいたから盗塁の心配はなかったが、それでも、リードが大きくなればそれだけホームに帰ってくる危険性は高くなった。

だから、一塁手を離れさせるのはリスクも大きかったのだが、まだ1点差で勝っているここは、バッターに集中させようとしたのである。

文明がかけるプレッシャーには、それほど大きな威力があったのだ。

やがてタイムが解け、試合が再開された。

そうしてピッチャーは、いよいよその一球目を投じたのだった。

すると、それは変化球だった。

それに対し、祐之助は思いっきりスイングしていった。

しかし、結果はあえなく空振りに終わった。

カウントはワンストライクになった。

それを見ながら、みなみは少し安心していた。

この場面、プレッシャーに弱い祐之助は、緊張からスイングできないのではないかと心配したのだ。

しかし、それはどうやら杞憂に終わったようだ。

彼には、一球目からスイングする気力があった。

――これなら、期待できるかもしれない。

と、みなみが思った時だった。

隣に座っていた次郎が、こんなふうに言った。

「ああ、ダメだよ、あれじゃあ」。

それから、隣のみなみを見ると、こう言った。

「あんなに大振りしてちゃ、打てないよ。

もっと、狙い球を絞っていかなきゃ」それを聞いて、みなみは、相変わらず間の抜けたことを言うやつだと思った。

――ここは、素直にその積極性を評価してやれないのか。

そんなふうに、うんざりしかけた、その時だった。

不意に、心にコツンと、小石の当たるような感覚を覚えた。

それで、思わず次郎に言った。

「今、なんて言った?」「え?」と次郎は、みなみのその勢いに面食らったような顔をした。

「何って?」「今言った言葉よ」――あ。

とみなみは、しかし次郎が答える前に、それに気がついた。

そうして、慌てて視線をグラウンドに戻した。

その時だった。

鋭い金属音が鳴り響いたかと思うと、勢いよく弾き返されたボールは、右方向へライナーで飛んでいった。

すると、相手二塁手は、タイミングを見計らって、ジャンプしてそのボールを捕ろうとした。

ところが、ボールはそのグローブの上を通過すると、そのまま右中間を破っていった。

祐之助が打った瞬間、一塁ランナーの文明は、打球の行方ではなく二塁ランナーの純の位置を確認した。

この場面はツーアウトだったから、打球が飛べばその行方にかかわらず走り始めることは決まっていたが、文明の場合、走塁を焦りすぎると、前のランナーを抜かしてしまう危険性があった。

文明の走力なら、それは十分ありえることだった。

だから、まずは純の位置を確認したのだ。

すると、純は早くも走り始めていた。

文明との距離も十分開いており、これなら追い抜かす危険性はなさそうだった。

それを確認した文明は、ホッとしてこう思った。

――よし、これなら全力で行ける!それから、文明は走り始めた。

足の運びを一気に速めると、これまで何度となく練習してきた、そのベースランニングに集中した。

すると、あっという間に二塁ベースを通過した彼は、そのまま三塁ベースへと迫った。

そこで初めて三塁コーチを確認すると、彼は大きく手を回していた。

しかし文明は、その三塁コーチよりも、彼の後ろにいる三塁ベンチの程高部員たちに目が行った。

彼らが、一斉に大きく手を回していたからだ。

加地が手を回していたし、正義が回していた。

次郎が手を回していたし、文乃までが回していた。

そこで文明は、さらにその速度を高め、三塁ベースを駆け抜けると、怒濤のようにホームに迫った。

それから、純が先にホームインしたのを確認した文明は、キャッチャーの動きを見ながら、どこへ滑り込もうかと、素早く算段を巡らせた。

それは、これまで何度も練習してきたことだった。

ピンチランナーに専念するようになって以来、こうした場面が来ることを想定して、際どいタイミングでのホームへのスライディングを、何度となく練習してきたのである。

ところが、その時だった。

不意に足をもつれさせた文明は、バランスを崩してしまった。

それで、スライディングに移ることができず、よろめきながらホームに迫った。

しかし、そんな文明をはばむものは何もなかった。

ボールはまだ、内野まで返ってきていなかったのだ。

そうして文明は、倒れ込むようにしてホームインした。

それが、都立程久保高校が初優勝を成し遂げ、甲子園への出場を決めた瞬間だった。

打った祐之助は、二塁ベースに達したところで、文明がホームに倒れ込む、その瞬間を目撃した。

その時、彼の頭の中には夕紀の言葉が蘇ってきていた。

その話は、先週、お見舞い面談をした折に、夕紀から聞かされたものだった。

夕紀は、それを誰とは言わなかったが、自分が野球を好きになったきっかけとして、忘れられないシーンだと語った。

そのことを、バッターボックスに入る直前に、不意に思い出したのだ。

そうして、初球はわざと、それも大振りで空振りしたのである。

それは演技だったのだ。

そうして、二球目を右方向に狙いすまして打った。

祐之助は、その球種が何であったか、コースがどこだったかを、全く覚えていなかった。

ただ、二球目のそれを、胸元まで引きつけて、右方向に打ち返すということしか考えていなかった。

その通り、右方向に弾き返された打球は、二塁手の頭上を越えると、右中間を真っ二つに破っていった。

その打球が外野を転々とする間に、二塁ランナーの純に続き、一塁ランナーの文明までもが生還した。

それで試合は終了だった。

5対4のサヨナラ勝ちで、程久保高校の逆転勝ちだった。

その勝利を見届けた瞬間、祐之助はバンザイをすると、その場に崩れ落ちるようにひざまずいた。

すると、ベンチから飛び出してきた部員たちが、次々とその上に覆い被さっていった。

文明がホームインするのを、みなみは呆然と見ていた。

それから、ベンチの部員たちが次々と飛び出していくのをぼんやりと見送った。

次郎もあっという間に飛び出していき、祐之助に抱きついていた。

目の前では、選手の中ではただ一人ベンチにとどまった正義が、加地と抱き合っていた。

それらを見ながら、みなみは複雑な思いに悩まされていた。

自分が、嬉しいのか、悲しいのか、喜んでいいのか、泣けばいいのか、どうしたらいいのか、全く分からなかったからだ。

だから、呆然としたまましばらくその場に固まっていた。

その場に石のように固まって、しばらく身動きできずにいた。

そんなみなみに、横から文乃が抱きついてきた。

文乃は、すでに泣きじゃくりながら、みなみに向かってこう言った。

「みなみさん。

やっぱり逃げなくてよかったですね!」それを聞いて、みなみは不意に、おかしさが込みあげてくるのを感じた。

そうなのだ。

みなみを追いかけてきた文乃は、病院を出てから三十分も追いかけてきたところでようやく捕まえると、こう言ったのだ。

「みなみさん。

逃げてはダメです。

逃げてはダメです」それで、みなみは唖然とさせられた。

そのセリフを、まさか文乃から聞かされるとは思ってもみなかったからだ。

しかし、それで力が抜けてしまって、逃げる気力が失せてしまった。

そうしてそのまま、引きずられるように、この球場まで来たのだった。

そのことを、みなみは不意に思い出した。

そうして、自分のことを棚にあげた文乃の言葉に、おかしさが込みあげてきたのだった。

だからみなみは、不謹慎かもしれないと思ったが、この場は笑おうとしたのだった。

それで、頬の筋肉を緩めたのだけれど、ところがそこで出てきたのは、激しい嗚咽だった。

みなみは、笑おうとしたにもかかわらず、なぜだか泣き始めていた。

そうしてやがて、激しい泣き声をあげると、文乃と一緒にいつまでも泣きじゃくっていた。

エピローグそれから一週間後、程高野球部は、甲子園の開会式本番に臨もうとしていた。

ライトスタンドの外にある、蔦が絡まった外壁の下の入場口で、他の出場校の選手たちと一緒に、入場行進の時が来るのを待っていた。

みなみと文乃は、そのすぐ脇にいて選手たちを見守っていた。

するとそこへ、テレビ局のカメラクルーがやって来て、入場直前の選手たちを取材し始めた。

そこで女性のインタビュアーは、程高キャプテンである二階正義にインタビューを始めた。

正義にあれこれと質問していた彼女は、最後にこんなふうに尋ねた。

「甲子園では、どんな野球をしたいですか?」それを見ていたみなみは、正義がなんと答えるのか、興味を持って見守った。

この場は、当たり障りのないことを答えるのか、それとも「顧客に感動を与える」という野球部の定義を言うのか、あるいは、ノーバント・ノーボール作戦に代表される、イノベーションのことを話すのだろうか?すると正義は、しばらく考えた後、こう言った。

「あなたは、どんな野球をしてもらいたいですか?」正義は、インタビュアーに向かってそう言った。

それで、「え?」と面食らったような顔になった彼女に対し、正義は続けて言った。

「ぼくたちは、それを聞きたいのです。

ぼくたちは、それをマーケティングしたいのです。

なぜなら、ぼくたちは、みんながしてもらいたいと思うような野球をしたいからです。

ぼくたちは、顧客からスタートしたいのです。

顧客が価値ありとし、必要とし、求めているものから、野球をスタートしたいのです」そう言うと、みなみの方を振り返り、ニヤッと微笑んでみせたのだった。

あとがきあなたは、ドラッカーの『マネジメント』をご存じだろうか?『マネジメント』は、一九〇九年(今からちょうど百年前!)にオーストリアで生まれた二十世紀最高の知性の一人といわれるピーター・F・ドラッカーが、一九七三年、彼が六十三歳の時に著した「組織経営」についての本である。

これによって、いわゆる「経営学」が始まったといわれ、それゆえ、彼は「経営学の父」とも呼ばれている。

……と、知ったようなことを書いているけれど、ぼく自身がこの本を知ったのは、実はほんの数年前のことだった。

今から四年前の二〇〇五年のこと、偶然知ったその本に興味を持ち、買い求めて読んだのだ。

しかし、一読して驚かされた。

そこには、当時のぼくが何より求めていたもの――組織とは何か、ということ――や、またそれを円滑に運営するためにはどうすればいいかということが、分かりやすく、しかも具体的に書かれていたからだ。

そればかりか、それを超える人間への深い洞察というか、真理といっては大袈裟かも知れないが、しかし人間とは、あるいは社会とは何かを知るうえでとても重要だと思われるいくつかのことがらも、そこには書かれていた。

それに、ぼくは心を揺すぶられた。

そうして、涙さえ流れた。

感動したのだ。

その本に書かれていたとある一節を読んで、涙があふれて止まらなかった。

それと同時に、ぼくは複雑な思いも味わっていた。

それは、その本に書かれていた「マネジャー」という言葉の重要性が、ますます認識されるようになったからだ。

それ以前から、ぼくは「マネジャー(あるいはマネージャー)」という言葉については、とても気になるところがあった。

というのも、日本と欧米とでは、その意味するところに大きな違いがあったからだ。

例えば、アメリカ大リーグで「マネジャー」といえば、それは「監督」のことを指す。

しかし日本では、真っ先に思い浮かぶのは「高校野球の女子マネージャー」だ。

しかもそこには、「スコアをつけたり後片づけをする」といった、下働き的なニュアンスさえ含まれている。

つまり、英語圏のそれとは、責任や役割において、指し示すものに大きな違いがあるのだ。

その違いが、『マネジメント』を読むことによって、ますます広がったように感じられたのである。

――と、その時だった。

ふいに一つのアイデアが閃いた。

それは、「もし高校野球の女子マネージャーが、ドラッカーの『マネジメント』を読んだら(どうなるか?)」というものだった。

そしてまた、「そこに書かれている『マネジャー』という存在を自分のことだと勘違いし、本の通りにマネジメントを進めたらどうなるか?」。

さらには、「それによって、みるみるうちに野球部が強くなっていったら、一体どうなるのか?」――そんなことを考えたのである。

それが、この本のアイデアを思いついた最初の瞬間であった。

このアイデアは、それから四年という歳月を経て、こうして「小説」という形で実を結ぶこととなった。

その間には色んなできごとがあったのだけれど、ここでは特に、印象深かった二つのことがらについて記したい。

一つは、このアイデアを初めて公にしたのはぼくのブログでだったということ。

この本は、そのブログを見てくださった出版社の編集者の方が、「小説にしませんか?」と声をかけてくれたことによって生まれた。

もう一つは、この小説に出てくる登場人物の何人かは、AKB48という女性アイドルグループのメンバーがモデルになっているということ。

今から数年前、ぼくは彼女たちのプロデュースに携わり、間近に接する機会に恵まれた。

そこで見聞きした人物やできごとが、この小説のキャラクターやストーリーを作るうえで、大きな影響を及ぼした。

またこの本は、ぼくにとって初めての著作となる。

この本作りを通して、実にさまざまな方々のご協力を頂いた。

その方々に、お礼の言葉を述べたい。

まずは、最初に本を作らないかと声をかけてくれたダイヤモンド社の加藤貞顕さん。

また書籍編集局の方々。

『週刊ダイヤモンド』編集部の方々。

営業局の方々。

その他多くの方々。

次に、校正をしてくださった山中幸子さん。

カバーのキャラクターや挿絵を描いてくれたゆきうさぎさん。

カバーの背景を描いてくれた株式会社バンブーの益城貴昌さんと代表の竹田悠介さん。

それから、この本が出ることになるきっかけを作ってくれた『まなめはうす』というニュースサイトの管理人であるまなめさんと、はてなというインターネットサービスと、ぼくのブログの読者のみなさん。

そして何より、『マネジメント』を書いたドラッカーと、それを翻訳した上田惇生先生。

特に上田先生には、この本の出版が決まった際に、ぼくにとっては終生忘れることのできない暖かいお言葉を頂いた。

本当にありがとうございました。

最後に、この本を、ぼくにとっての三人の師に贈るということを書き記し、あとがきを終わりにしたい。

一人は、ぼくにエンターテインメントとは何かを教えてくれた秋元康さん。

もう一人は、ぼくに仕事とは何かを教えてくれた吉田正樹さん。

そして三人目は、ぼくに人生とは何かを教えてくれた吉野晃章さん。

お三方に、この作品を謹んでお贈りします。

二〇〇九年十一月岩崎夏海

[著者]岩崎夏海(いわさき・なつみ)1968年7月生まれ。

東京都日野市出身。

東京藝術大学美術学部建築学科卒。

大学卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。

放送作家として「とんねるずのみなさんのおかげです」「ダウンタウンのごっつええ感じ」等のテレビ番組の制作に参加。

アイドルグループ「AKB48」のプロデュース等にも携わる。

その後、ゲームやウェブコンテンツの開発会社を経て、現在はマネジャーとして株式会社吉田正樹事務所に勤務。

本書の印税のうち10%は、著者からドラッカーに関連する機関・団体に寄附されます。

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