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第五章年齢に応じた正しい脳の育て方・鍛え方

目次

1.第0期(妊娠中)──胎教

古来、妊婦は修養に心がけて、胎児によい影響があるように努めることは、胎教といわれてきましたが、まさに当然のことです。

子どもが生まれたら、どのようにして人間に育てるかの勉強をしてください。

賢い家庭だけが、子育て・教育の現在の問題を乗り越えていきます。その心構えともいえるのが胎教です。

妊娠中はもちろんのこと、妊娠の可能性のあるときの日常生活には細心の注意を払い、胎児を脅かす惧れのある物質の摂取・服用は極力避けるように努めます。

受精後二か月で、脳神経細胞は出来始めているので、この時期に妊婦が酩酊すると、胎児に重篤な影響が出るといわれています。

アメリカではFAS(fetalalcoholsyndrome,胎児性アルコール症候群)として妊婦の飲酒が警告されています。

その他、タバコ、薬物等も同じです。妊娠の可能性のあるときには、薬を飲まないで済むように日ごろから健康に注意を払っておくことが大切です。

服用した薬物はすべて胎児を通過して、影響を与えることを考えておかなければなりません。

2.第一期(乳幼児期)──感性の目覚め

躾(はじめに厳しく、後でやさしく)

母親は子育ての基本的ルールの権威者であるべきです。

生後直後から始まる大脳新皮質のニューロン形成は脳の後方の感覚野から始まり、三歳ごろから脳の前方の、意思や行動決定のニューロンの整備にかかります。

従って自分の好みや意思の配線がはっきり決まらない二歳ごろまでに、人間として行うべき日常生活の基本を権威を持って厳しくしつけます。

三歳を超えたころからはむしろやさしくするべきです。

昨今はそうではなくて、子どもの個性を伸ばすためには最初にやさしく、やりたいようにやらせておくのがよいとの考えが多いようですが、これには何の根拠もありません。

出生直後は自律訓練のチャンスです。

そのときに好きなことをやらせたら「無自律・無秩序でよいという観念」を植えつけることになります。

三歳ごろになると自我が出て手のつけられないようなわがままぶりを発揮するようになり、親はここで初めて厳しい躾をとらざるをえない立場になりますが、無自律の癖をつけてしまった後なので、躾の効果はなかなか上がらず、親は悪循環に陥って、育児ノイローゼになりかねません。

感性の目覚めは親子の愛情の相互作用から

たまたま電車で乗り合わせた若いお母さんが赤ちゃんを抱いています。赤ちゃんは好奇心いっぱいの目を見開いてこちらを見つめています。こちらも思わず見つめ返すと、赤ちゃんはニッコリ照れ笑いします。どこでも見られる光景です。

乳幼児は一家の人気者。これほど幸せな時はありません。一挙一動が皆の注目の的、感嘆の的です。

何としてもこの幸せを守ってあげる義務が大人にはあります。

どうしてこんな感情が生まれてくるのでしょうか。造化の妙とでもいうべきでしょうか。

この親子の、家族間の愛情のやりとりが天与の「子育ての仕組み」です。この仕組みの歯車がうまくかみ合えば問題ありません。

このかみ合いの中での親の驚きと喜びが、子どものニューロン回路を発芽させて新しい表現が生まれ、それが親に次の驚きを誘うというようにして、親子の愛情の相互作用を進め、心の成長は始まるのです。

毎日ゆったりした愛情たっぷりの気持ちで見つめ合いながら、美しくやさしいものを見せ、聴かせ、触らせ、感じさせます。

ここで赤ん坊には、「お母さんはいいもの」という感性が生まれます。また母親を取り巻く家族の姿を見て、「仲良くすることはいいもの」という感性が育ちます。

この子が成人したときに、「人間は本来いいものだ」という信頼の基本的人格につながります。

逆に、この時期にもしも不適切な環境(例えば夫婦の不仲、離婚等)が起こったとしたら、それが成人後の「人間への不信」の性格につながるのではないでしょうか。

しっくりいっていない両親のもとで育てられた赤ん坊は、顔を見ただけでわかります。どことなく暗く、陰気な顔つきです。

言葉はわからなくても、夫婦喧嘩の雰囲気は全部わかっているのです。

乳幼児期特有の「パターン認識」

赤ん坊は大人が想像する以上のことを感じとっています。乳幼児は言葉がしゃべれなくても、親の会話を理解します。

看板を見てこれはソニー、これは日立と読み分けますが、文字を理解してのことではなく、「パターン認識」という能力によってです。

六歳ごろの子どもは画数の多い漢字ほどすぐに覚えますが、これも「パターン認識」です。

複雑そのものを覚える子ども特有の能力です。生後半年ほどすると、「人見知り」を始めます。

これは母親の顔と他人の顔の区別を瞬時に行っているわけですが、顔の特徴をいろいろ分析して覚えているのではなく、顔全体のイメージをそのまま「パターン」として認識しているのです。

乳幼児にはこのような能力があります。このパターン認識によって、子どもは言葉がわからなくても、状況は理解できるのです。

乳児の傍での夫婦喧嘩は全部赤ん坊に伝わっています。赤ん坊にはわからないだろうと思って、自分の悩みをくどくど話すことは禁物です。

内容はイメージとして伝わるので、赤ん坊は「うつ」の性格になります。

また、赤ん坊の前で他人の悪口や批判をしないことです。特に子どもが尊敬すべき人物、例えば学校の先生の悪口は禁物。近親の悪口も同様です。

溺愛は悪魔の感情!

「溺愛」はよくありません。子どもが自分の気持ちの慰めの存在だと思ってはいませんか。ペットを可愛がる気持ちを愛情と取り違えてはいないか確認しておくことが大切です。

「この子をよい子に育て上げなければならない」という責任感があれば、溺愛にはならないはずです。過保護も溺愛と隣り合わせのものです。

過保護は子どもを意気地なしにしてしまうだけです。幼児期に厳しくしつけるべきことをしなければ、子どもは「甘え慣れ」になります。

「甘え慣れ」は学校に上がるようになると、親の甘えとなり、子どもが先生から叱られると親が学校に怒鳴り込むようになります。

子どもが体育の時間に怪我をすれば慰謝料を請求してくる親がいるということも聞きますが、これでは子どもが自己中心的に育つのは当然で、自律心は芽生えようもありません。

なぜテレビ・ビデオはいけないのか?

赤ん坊の感性の目覚めは母親と向き合っての目と目の挨拶で始まります。

いつも片時も離れずやさしく抱いて見つめてくれている母親の眼差し、あるとき思わずニコッと頬が緩んで「笑い」が起こります。

「赤ちゃんが笑った!笑った!」と家中が温かい大騒動になります。この母子の愛情の相互作用で感性が目覚めることが、子育て養育の生理です。

物質文明社会は、ビデオ・シッターという〝装置〟をつくりました。

よく編集されたビデオは子育てに慣れない母親には便利なものかもしれませんが、赤ん坊の感性の目覚めとは関係なくビデオの画面は進んでいきます。

感性のやりとりの歯車はかみ合いません。

相互作用ではなくて、一方通行の、あらかじめつくられたシナリオで動いていくテレビなどの映像は、心の成長にとっては百害あって一利なしで、赤ん坊の脳の生理に混乱を起こさせるだけです。

一日八時間以上テレビ等の視覚装置を見ている赤ん坊は、言葉を喋り出す時期が遅れるといわれています。

早期英才教育について

三歳に入ると子どもにも智慧がつき、どのような人間に育てたらよいのかのイメージが気になるころになります。

第一期は先祖から継承されている感性の目覚めの時期で、新しい個体の内部世界がつくられるときです。それを深い愛情で温かく見守りましょう。

知的なことは早くても四歳からにしましょう。充分それで間に合います。

第一期から知性脳の青年期の前倒しのような早期英才教育をすることは脳の生理から見て無理があります。一見よさそうに見えても、後で「燃え尽き現象」が起こらなければと心配です。

親子でつくる愛情玩具教室

好ましい家庭養育の一例をご紹介しましょう。

百歳を超えてから、世界一周講演旅行をした地三郎さん(三才児教育学会元会長・故人)の提唱された「地式手作りおもちゃ・親子愛情教室」はテイッシュペーパーの空箱やペットボトル、空き瓶等を利用して、親子の共同作業で玩具をつくります。

地さんは五〇〇〇個以上の玩具を考案しています。

乳幼児期の子育てにはとても有益です。

とかく子育ては母親の役で、父親の出番はないような雰囲気もありますが、親子で玩具をつくるとなると、父親の出番が自然につくり出されます。

すべて子育て・教育においては、教える側は教育技術を持っていなければなりませんが、それが玩具を共同でつくる仕草の中に自然に表現されます。

そして一、二時間かけてつくったその作品で、「お父さんスゴイ!お母さんエライ!」との尊敬の気持ちがわくので、これが親子の愛情の心温まる絆になります。

脳の育て方の軌道修正

第一期の終わりごろになったら、次の条件に合っているかどうかをそれとなく確かめて、必要と思えば軌道修正をかける配慮を考えましょう。

【軌道修正のポイント】

  1. 感じる心、人の心の痛みがわかるか
  2. 社会性があって人から好かれるか
  3. 辛抱強いか
  4. 集中力があるか、達成感を味わう性格か
  5. 責任感があるか
  6. 道徳観念があるか

【幼児期の危険信号】

  1. 一人でブラブラしていることが多い
  2. たくましい食欲がない
  3. 友達とあまり遊ばない
  4. 保育園、幼稚園に行きたがらない
  5. 「高い高い」をしても、あまり嬉しそうな顔をしない

以上のような面が見られたら、これは発育盛りの子どもの姿ではありません。

幼児期の危険信号かもしれないので、適切なカウンセラーや専門家に相談してみることも必要かもしれません。

無気力で、引きこもりの傾向があれば、家庭に客人を呼ぶなどして、努めて人に接触させるように工夫し、軌道修正を行うことは賢明なことです。

年齢が低いほど柔軟性があります。

特に保育園・幼稚園等の集団生活の状態を注意して見れば、内なる心としては「感じる心」があるか、外を見る心として「好奇心」と「行動的な遊び心」が育っているかどうかがわかります。

3.第二期(四歳~一〇歳ごろ)──人間になるための訓練期

訓練を促すもの:好奇心・遊び・模倣──感性の仕上げ

第一期で感性が覚醒してでき上がった内部世界が、外部世界と対面して人間としての対応を身につけるのが第二期です。

外部世界と対面したときの驚きが「好奇心」であり、好奇心の行動的表現が「遊び」であり、それの得心の行くまでの繰り返しが「模倣」という行為となります。

つまり好奇心・遊び・模倣は第二期の特徴です。

第二期はこれらの心の成長過程において、子どもを人間に育てるための訓練の責任を負う時期ということになります。

好奇心は遊びに連動し、遊びは模倣に徹します。稽古事、訓練に熱中します。幼児が興味を示すのは尊敬する大人の行動や仕草で、これを真似します。

安心して真似させたい者を子どもの周囲においておくことは賢明なことです。孟母三遷の教え(孟子の母が我が子の教育に適した環境を選んで三度住居を変えたという故事)を思い出します。

人間教育(生活規範)と基礎学力(読み・書き・計算)の時期

昨今は「詰め込み教育はダメ」で、「理解させること、学ぶ意欲を出させるように」というのが小学校の指導方針だということを聞きますが、この考えは幼年期教育に関する限りは適当ではないと思われます。

幼年期は古い脳(感性脳・大脳辺縁系)が機能していて、新しい脳(知性脳・大脳新皮質系)はまだ活動していないので、「理解を促そう」としても脳はそのようには働きません。

「ゆとり教育」は幼年期の脳の働きの生理をわきまえないで、青年期の脳の働きを、幼年期に単純に適用したところに誤りがあったのです。

幼年期では簡単なことの繰り返し教育が効果を上げます。漢字の書きとりなどの反復練習です。特に名文の反復音読です(江戸時代の素読)。

教師の後に続けて読む「追い読み」、全員で読む「一斉読み」、ひとりで順々に読む「ひとり読み」などがあります。

古文は韻を踏んでいるので、暗誦しやすいものです。意味がわからなくても、暗記していれば、やがて時期がくればわかるのです。

幼年の素読は、「幼年期の教育は青年期になって完結する」という教育理念に基づいています。模倣という生物学的特徴の一つの活用です。

計算の基盤になる九・九、百人一首のカルタとり、百枡計算などの反復訓練は、素読と同じく、模倣という生物学的特徴に従った行為なので、努力感がなく、遊戯感覚で、自然のうちに身につき一生記憶に残ります。

ソロバンは数字の計算をソロバンの玉の動きという具体的な形に置き換えるので、暗算が強くなります。

この無努力の記憶可能な手法で、基礎学力と人間教育とを同時に並行して行ったところが江戸期の幼年期教育のすばらしいところです。

童話による夢幻の時期

イソップ物語やメルヘン童話で善悪の道徳の基本を教えます。メルヘンは幼児の意識が天上界から地上界へ降りる過程を天・湖・森という夢幻の場で表します。

そこでは悪い継母、魔女、魔法使いが出てきて、善人はいじめられ虐げられますが、最後は、悪人は滅ぼされるという結末のものが多くなっています。

それによって善が栄え、悪が滅びるという、首尾一貫した道徳の原型のようなものが子どもの心にセットされます。

例えば、「白雪姫」では白雪姫に助けを差し伸べる猟師、小人、王子といった人は「勇敢・献身・犠牲・愛・奉仕・誠実・義憤・勤勉」といった徳目を備えています。

子どもはそれらの人々に触れて、これらの道徳感情を身につけます。もともと生得的に持っていた道徳的感情が、メルヘンの境地で目を覚ますのです。一般に児童文学という領域には、この狙いがあるのでしょう。

読書は概念的思考と集中力を促す

幼年期の子どもは読書に夢中になり、感性を育てます。

昔は漢字にルビが振ってあったので、子どもはかなり高度の内容のものでも、意味はわからなくてもついていけるので、感性的に読むことができました。

きれいな日本語の文章を音読させることは文章力をつけるのに役立ち、文意を読み取る勘を養います。

文意に興味を引かれて読書に夢中になることは集中力の養成となり、これは第二期の特徴です。

読書によって得られる得は二つあります。それは「概念的思考(概念をまとめる能力)」と「集中的思考」です。

概念的思考とは物事を全体として把握してしまう能力です。

個々の部分の理解によってではなくて、全体として認識することで、概念的思考は乳幼児期のパターン認識の高次元化です。

これは第三期になると、取り入れた知識の相互関係の把握構築に力を発揮します。

概念的思考によって物事の意味を把握する要領がわかるのは大変によいことですが、概念がわかってしまうと、そこで追求心が止まってしまうという欠点があります。

物事の認識には、全体としての把握の反面、個々の現象の追求を克明に積み上げて、最後の概念に到達するという道もあります。

概念がわかってしまうと興味を失うというのでは、世の中の仕事はできません。私はそのような青年に会ったことがあります。

「あいつは頭はいいかもしれんが、積み重ねの努力ができん」というのでは困ります。積み重ねの中に、初めて自分のものにする宝があるのです。

その積み重ねの能力は「集中力」であり、「模倣」によって得られるものです。

基礎学力は、模倣という幼年期の趨性から培われるものだということを述べましたが、基礎学力は一応できたということでなくて、反復練習の醍醐味を楽しむくらいになるまで、「凝る」ことも望ましいのです。

これらの幼年期の仕草は青年期になって、概念的思考と集中力となって知性的能力を高めることになるのです。

ガ・ギ・グ・ゲ・ゴの時期

数学者の広中平祐氏は、ある講演でこのようなことを述べられました。

「子どもにはガ・ギ・グ・ゲ・ゴがわかればよい」と。「ガ(我慢)、ギ(義憤)、グ(愚鈍)、ゲ(元気)、ゴ(悟性)です。

グ(愚鈍)でよいのか?と不審に思われるでしょうが、幼年期はそれでよいのです。

学力は青年期になって新しい知性脳で機能するものだから、まだその時期になっていない幼年期に、学力を心配する必要はないという意味です。

私はこれの対照として「カ・キ・ク・ケ・コ」をつくってみました。

カ(賢く)、キ(きれいに)、ク(工夫して)、ケ(堅実に)、コ(こぢんまりと)。これは一般の親が望む「よい子」で、秀才型です。

でもこれは幼年期から青年期の前倒しをすることであって、果たして幼年期教育の持ち味を生かした教育なのかをよく考えてみる必要があります。

幼年期につくった感性の太い骨組みの「ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ」の上に、青年期の知性をつくるのが賢明なのです。

善・悪の区別をしつける時期

第二期は善き人になるための基本をしつける時期です。

身体障害の人に冷笑するような素振りをした子を見て、父親が烈火のように叱り、「それが人間として最も恥ずかしいことだ!二度とやったら承知せん」と頭を張ったということを聞きました。

この躾でこの子の「善悪」の価値観が決まったのです。

善悪の区別は論理で説明して理解させるべきものではなく、信頼する大人によってしつけられて、自分の価値観となるものです。

これについていつも思い出すのは、小野田少尉の母親の躾の話です。これは第一章で述べましたので、もう一度『小野田少尉の母の躾のスピリット』を参照してください。

ここで大切なことは「キチッと叱る」こと。幼年期では「いけないことはいけない」という理屈抜きでの躾でよいのです。

なぜと聞いてきたら、「今にわかる!」だけでよいのです。

「人を殺めることは最大の悪である」ことを幼年期にしつけることは、伝統的子育ての最重要事項であったのです。

人間には「潜在的な殺人癖」があります。それを未然に防ぐには「子育ての躾」しかありません。

このことに無関心な家庭において、突然、理解できないような殺人事件が起こるのです。

躾に無関心の家庭で、幼年期の知的教育が順調な子(成績のよい子)には、潜在的殺人癖が目を覚ます可能性が潜んでいるのが人間という生物なのです。

明治時代の親はこのことを生得的に身につけていたので、一見常識を超えた「大仰な躾」で、潜在的殺人癖を徹底的にたたき出したのです。

伝統的教育は、人間が持つ生物的危険性を駆逐する本能を人間に与えていたのでした。

大人の生き方を見せる時期

第二期は大人の勤勉な日常の後ろ姿を見せる時期です。人間が独立して生活するためには、とてもたくさんの慣習を知らなければなりません。

例えば、食物を確保し調理すること、さまざまな道具をつくること、健康管理をすること、社会儀礼に関すること、人間同士の付き合い、葛藤等への対応の仕方、病人の介抱、冠婚葬祭等は大人がやらなければならないことです。

これらの日常社会慣習について大人が行っているありのままの姿を、できるだけ多く幼年期の子どもに見せるのは重要なことです。

これによって、子どもは社会生活のポイントを勘でつかみます。親が子どもを使いに行かせることも、社会で働く大人の姿を見せるよいチャンスでしょう。

基本的生活習慣を身につけさせることは自律の必須条件

《基本的生活習慣》

起床

食事

排泄

清潔

衣類の着脱

片付け

挨拶

読書の習慣

読み書き

・計算の学習将来への夢

・進路についての家族間の会話

就床

《自律困難症の症状》

忘れものが多い

きまりが守れない

大人の話が聴けない

持ち物を大事にしない

履物を整頓しない

掃除を嫌がる

善悪の判断がつかない

《自律困難症のサイン》

家の中で一人遊び

テレビを一日中でも見ている

退屈な表情

学校をよく休む

甘えん坊でわがまま

 

「なぜ学校に行かなければならないの?」

不登校の子への対応の場合、この質問にどのような答えを用意していますか?親はこの質問に、自分はこう答えるという心の準備をしておくべきだと思います。

私はあるとき、このように考えました。

《学校に行かなければならない理由》

人間は社会に出たら公に尽くさなければならない。そのためには堅実な家庭をつくらなければならない。そのためには自分を修養しなければならない。このことは昔から儒教では修身・斉家・治国・平天下といいました。身を修めること(修身)は一人ではできない。

学校で先生から教えられ、友達と切磋琢磨して初めてできるものです。だから学校に行かなければならないのです。

《修身とはどういうこと?》

儒教では「仁・義・礼・知・信」と教えられました。

仁(人の心の痛みを知ること)、義(物事の筋を通すこと)、礼(社会の慣習には敬意を払うこと)、知(よく考えること)、信(人を欺いてはならぬこと)の徳を身につけることです。

これらの徳を身につけた人であるかどうかは直感でわかります。この徳が備わっていることが人に直感でわかるように身につけることが修身というものです。

「ヒトを人間に育てる」とはこういうことです。

親がこのような子育ての理念を持っていることを子どもが知ったら、子どもは親を尊敬します。子どもは自分と向き合うようになるはずです。

「子どもの心に目線を合わせて」に思い違いはないか?

「子どもの目線に合わせて」とよくいわれます。子どもをよりよく理解する知恵を持ったと自己満足のつもりが、ここにもボタンの掛け違いがあったりします。

大人は子どもに接するとき、子どもはまだ幼稚で、そこまで理解できないから、レベルを下げてやらなければならないという大人の観念です。

その結果、大人は複雑なものを処理できるが、子どもには複雑なものは無理で単純なものがよいと思いがちです。

黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』にこんな話が出てきます。

トモエ小学校に転校したトットちゃんは前の洗足小学校では「洗足池は浅けれど、偉人の徳を深く汲み……」という校歌があったのに、トモエにはなかったので、校長先生につくってくれと頼んで、やっとでき上がった校歌は「トモエ、トモエ、トーモエ」というのだったので、がっかりして校長先生に「もっと難しいのがよかったんだ!センゾクイケハアサケレド……というようなの。こんな、簡単なのなら要らない!」といいました。

子どもは大人のような難しいものに憧れるのです。

小学校では一時期、「円周率は円の直径の三倍」と教えること、と文部科学省の学習指導要領にあったそうです。

しかし円に内接する正六角形の辺の総和は丁度直径の三倍であることは視覚でわかるので、辺の上に孤を描いている円周は直径の三倍よりも少し大きいことは明らかです。

それなのに、円周率は三と教えればよいというのは大人の勝手な「子ども観の典型」ではないでしょうか。

子どもは複雑なものそのままを観念として受け入れるのです。複雑なものを単純化する作業は大人の新しい脳の仕事なのです。子どもは単純だと思い込んで、それが「子どもの目線」だと思い違いをしていませんか。

4.第三期(一一~二〇歳ごろ)──社会人になるための知性準備期

高次の知性機能の目覚め

第三期では大脳新皮質系・前頭連合野が機能し始め、第二期の模倣とは異なって独自性を表現し始めます。

大脳新皮質系(知性脳)からの超高度の感覚情報は大脳辺縁系(感性脳)に運ばれて、自分の価値観と照合、内面化されて前頭連合野に転送、統合調整され、外部世界に対して自分の考えとして意思表示され、行動化されます。

自分の思索を論理化して、情報を整理し、さらなる知識を求める内発力を起こします。

第二期の好奇心・遊び・模倣の趨性は第三期において高次のものに変容して知性の仕上げがなされます。

集中力を発揮し達成感を確認します。ねじり鉢巻の受験勉強も一度は経験しておくべきでしょう。

このようにして、伝統的で素朴な感性脳は新しい知性脳の参加を得て高次元の世界を拓くのです。

第二次反抗期は自律に向かっての生理現象

思春期になると、第二次反抗期が訪れます。

これは新しい脳が機能し始めて自我が目覚めて、他者の干渉に敏感になる生理現象ですから、気にしなくてよいのです。

自然に解消して次の次元の問題に進み、それも自然に解決されてさらに高次に向かい、自分なりの人格を形成するのです。

子どもに第二次反抗期も起こらないとすれば、その方が心配です。

第三期では躾は「抑え気味に」

第三期になると新しい脳(大脳新皮質系)が働き始めるので、大人の干渉し過ぎは、子どもの自発性を抑えて勉強への意欲を歪め、登校拒否等の学習拒否反応を起こしかねません。

第二期では大脳新皮質系でなくて大脳辺縁系が機能しているので、大人の指導に素直に従います。

つまり第二期は「躾に適した時期」なのですが、第三期では自主性を求める時期なので、「躾」を嫌います。

反抗期の兆しを見たら、干渉したい気が起こってもそれを抑え気味にしましょう。子どもに不適切と思われることがあっても自分で気づかせ、自分で解決させるように指導する時期なのです。

【実例】

第三期の子どもに対する接し方を体現していた明治生まれの親の話私の知った料亭のお上から聴いた話です。

彼女は小学校のころ(昭和一二~一三年のころ)、親の躾は特に厳しく、しばしば頭を叩かれながら行儀・作法の躾を受けていました。

女学校に入ったある日のこと、いつもの躾で頭を叩こうとした父の手を反射的に払ってしまったとき、父は「そうか、もう俺の役は済んだ」といって、それ以後はそれまでのような躾は一切しなくなったということです。

彼女はいまでもその父親のことをとても敬愛し、感謝しています。

彼女が反射的に父の叩こうとする手を払ったのは、第三期の「自我の目覚めの生理的現象」であり、父親が、「もう自分の躾の仕事は済んだ」といったのも、子育ての生理を無意識のうちに体得していたことを表しています。

昔の人の見事な子育ての身につけ方に感銘を覚えます。我々の先祖は無意識のうちに、子育てのポイントを祖先から受け継いできているのです。

自我の目覚めと自発的思考の時期

自分とは何者であるのか?生きることの意味を考え始める時期です。読書、黙想の中で、未知の世界、神秘の世界や諦めの心境に自然に入るのです。

「山のあなたの空遠く、『幸い』すむと人の言う、ああ我ひとと尋めゆきて、涙さしぐみ帰り着ぬ、山のあなたのなお遠く、『幸い』すむと人の言う」(カール・ブッセ)。

この詩のようなものに惹かれる多感な時期です。

第二期の模倣期を脱して、自発的思考期に入ります。それまでの具象的概念はここで知的抽象概念に変わり、感性の基盤の上で「知性の仕上げ」をします。判断力・批判力が培われます。

知性の仕上げの時期

現実には上級学校への受験準備の学校生活の時期でしょう。

第二期で読み・書き・計算の基礎学力だけはしっかりつけておき、充分に感性脳を充電して、幼年期らしい時期を過ごしていれば、第三期になると、機が熟して知的学習に自発性を発揮するようになります。

ねじり鉢巻きでの集中力の没頭、そして受験合格の達成感を味わうことも、人生において無駄ではないでしょう。

幼年期に第三期の前倒しのような学習塾通いなどに精を出し過ぎていると、第三期の本番で燃え尽き現象が起こります。

それは自発的学習の意欲の減退に留まらず、抽象概念、概念的思考という人間の高次元的思考への発展への道が閉ざされてしまうことにもつながります。

本格的読書、理想の素描期

第三期は理想の素描期です。

理想の人間像を描いた読み物、偉人の伝記等、また教養の世界を行脚する文学・哲学・芸術・科学の分野のものを本格的に熟読して、これからの人生を考える時期です。

【実例】『レ・ミゼラブル』を青年期に読んで、志を立てた男の話私の忘れることのできない敬愛する友人の庭師、松間一立(故人、一九一六年生まれ)の実話です。

彼は一六歳のときに母親が読んでいたビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読んで奮起し、そのようなヒューマニズムの人生を歩みたいと、当時の満洲に渡り、波乱万丈の文字どおり小説よりも奇なる人生を送ることになるのです。

私は『レ・ミゼラブル』は子どものとき、父が寝物語に話して聞かせてくれたので、大まかな筋は知っていましたが、何が彼を満蒙の馬賊になるように感銘させたのか確かめたいと思って、全文を読み直してみてなるほどと合点したことでした。

一八世紀末に成し遂げられたフランス革命は、現実にはナポレオン専制となり、それから一世紀近くは民主政治を模索する葛藤に続く葛藤となり、一八七〇年に第三共和制宣言で民主主義を勝ち取るまでの苦悶苦渋の連続となるのですが、この試練に民衆を耐えさせたのは何だったのか。

ユーゴーはここに一人の惨めな、しかし偉大な人格のジャン・バルジャンという男を登場させます。

神と悪魔との葛藤の中を勇ましく進んでいく「絶対の人間愛」を、一八三二年にパリで起こった暴動・市街戦を背景に投影させたロマンがこの小説ですが、これが昭和初年の経済不況の日本を前にして、自らの生き方を模索する松間青年に、鬱勃たる夢と冒険心を与えたことには充分の共感を覚えました。

人生の生き方に勇気を与えてくれるような読書、それもダイジェストでなくて、本物の原文を第三期の青年は少なくとも一つは読むべきでしょう。

日本でいえば、例えば司馬太郎です。彼の『竜馬がゆく』等の作品は今の青年に是非読んでもらいたいものです。

5.第四期(社会現役)──人生に手遅れはない!

心の成長生理の各ステップに支えられた第四期

これからが社会現役の時期となります。

第一期で生得性の感性に目覚め、第二期の訓練でその感性を仕上げ、第三期で習得性の知性を育て、感性と知性の調和のもとに自分なりの人格をまとめ、実社会に漕ぎ出すのが第四期です。

これまでの心の成長で身についた価値観を実生活においてどのように活かすかが問われるときがこの第四期です。

終戦までは旧制高校の制度がありました。エリートは旧制中学から旧制高校に進むと、旧制中学とはまったく異質の三年間が始まりました。ここは「高等人間教育」の期間です。

「普通人間教育」は小学校で終了し、「普通職業教育」が旧制中学で行われ、次の三年が「高等人間教育」として旧制高校で行われ、その次の三年(医学は四年)で「高等職業教育」が大学で行われていました。

社会に出るために直接必要な「高等職業教育」の前に「高等人間教育」の時期をおいたということは、今思えば大した慧眼でした。

現在では「普通人間教育」が小中学校で、「普通職業教育」が普通高校で行われ、大学で「高等人間教育・職業教育」が行われていて、「人間教育」に何のアクセントもありません。

人間教育の意味が曖昧になって、本来の幼年期の人間教育は職業教育の前倒しのために有名無実になっており、昔の「高等人間教育」の概念はまったく消滅しています。

旧制中学では現在と同じように受験勉強が目標でした。

旧制高校に入ると旧制中学ではまったく出てこなかったような「成人イニシエイション(initiation)」の雰囲気が現れたのです。

つまり、哲学・文学・芸術・科学論というような形而上的雰囲気が、必ずしも教師からというのではなく、上級生から、寮生活の高邁な雰囲気から与えられたのでした。

旧制高校生はここで初めて「自分自身」を大きな期待を持って自覚したのでした。

これはまさに「高等人間教育課程」ともいうべきものでした。

それは「俗世の穢れは我々青年が正してやる」「裸になれ、馬鹿になれ、裸にも馬鹿にもなれん者が、何で世を救うことができようか!」というような哲学的な気風に満ちたものでした。

このことを縷々話すことはできませんが、ここでいいたいことは、「ヒトを人間にした」第二期の後の第三後期において、「後期高等人間教育」、旧制高校の生徒間の切磋琢磨の中で行われていたということです。

昔の第三後期はこの「高等人間教育のイニシエイション」で始まったのでした。

この驚くべき幸いは、敗戦によってこの制度が消滅しました。

物質文明だけが独り歩きしていく世の中で、大脳の高等機能の啓発が見過ごされて、伝統の宝が失われていく現実が誠に残念無念です。

人生の生き方

余談はさて措き、第四期の心構えということになりますが、私は中国古典の『中庸』に出てくる簡潔な言葉、「天ノ命ゼル、コレヲ性トイウ、性ニ従ウコレヲ道トイウ、道ヲ修メルコレヲ教トイウ」が好きです。

「教育によって道徳を修め、その道徳の道を黙々粛々として歩め。時期来れば、天から与えてくださった徳性に気づくであろう。その天性に従って進め」

自分の意思で進むのではない、天の意思に従って歩むのです。

古典はすごい処世訓を示してくれたものだと思います。

私自身の経験で恐縮ですが、旧制福岡高校ではドイツ語で秋山六郎兵衛先生からニーチェの講義を受けました。

ただでさえ難解なニーチェがドイツ語で出て来るので、その難渋たるや推して知るべしです。ため息をつく生徒には無頓着に、先生は淡々と訳をつけていかれるのです。

「わが泪を携えて汝の孤独へ行け。我は自らを超えて創造し、かくて没落するものを愛す」創造という誇らしいことをやり遂げた者がどうして没落しなければならないのか?その非合理性に戸惑いながら、ノートに書き留めておきました。

「生よ、汝はかくのごとく悲劇的にして、かくのごとく空しきものか。しかれども我は汝を愛す、汝を限りなく愛す」悲劇の実相を直視して敢然としてこれに立ち向かうところに新しい生が生まれるというニーチェ独特の生の肯定です。

旧制高校のころに心を揺さぶったことが人生最後になっても頼りになっているというのは不思議なことです。

稽古をゆっくり、丁寧に!

このような高踏なことばかりでは人生は渡れません。具体的な人生の智慧というものも必要でしょう。

「人生に手遅れということはあるのでしょうか?」年齢に応じた脳の育て方・鍛え方について話すと、必ずこの質問があります。

ニューロン回路のつなぎ替えは強く決心すれば可能です。このことを脳の「可塑性(plasticity)」といいます。

「手遅れ」ということはありません。「叩けよ、さらば開かれん」です。「ゆっくり丁寧に」に繰り返すことです。

ここで「稽古」をおすすめします。

稽古とはなぜ古きを稽えるとなっているかと不思議に思って、手元の『広辞苑』を引いたら、何と最初に出てくるのは「昔のことを参考にして物事のわけを明らかにすること」とあり、武芸・遊芸の練習の意味は三番目に出てくるのです。

稽古とは元来深い意味を持っているのです。古人が編み出した営みを反復練習していると、意識しないで体が動くようになるのです。

自意識というのは頼りにならないもので、長年の習慣を自分の意識で直そうとしても容易なことではできません。

無意識のうちに体を動かすこと、すなわちゆっくり丁寧に稽古することが、自己調整を促すコツです。

誰でも稽古の対象になる趣味を持っています。

絵画、音楽、彫刻、書道、華道、茶道、俳諧、文学や職人芸、細工物、また囲碁、将棋など何であれ、いったんそれに没入すれば、そのときだけは無意識になることができます。

稽古三昧になると自分と向き合って自省の時間を持つことができます。これが自分の大脳を全体として調和よく機能させるコツではないかと思います。

6.第五期(高齢期)──感性は先祖との間を循環する

高齢で驚異的生涯を全うした尊敬すべき人物がいます。

先年一〇六歳の高齢で亡くなられた曹洞宗永平寺貫首の宮崎奕保禅師は、一一歳のときからひたすら座禅を続けて少しも変わることなく、「善き人」になれと釈迦の教えを説き続けておられました。

貝原益軒は五〇歳のころから三一巻の著書を著し、『養生訓』は八三歳でまとめ、八四歳でこの世を去りました。

画家の奥村土牛は六〇歳で東京芸術大学の教授を務め、日本美術院理事長を八九歳で務め、大作『吉野』を九〇歳ころに描いています。

カザルスとの共演で有名なポーランドのピアニストのホルショフスキーは八九歳で初婚、一〇一歳で死去する少し前まで現役で活動を続けていたといいます。

ヘルマン・ヘッセはいみじくも「人は成熟するにつれて若くなる」といいました。体は年齢とともに老化するが、精神・心は成熟するにつれて若くなるのです。

サミュエル・ウルマンは「二〇歳の青年よりも七〇歳の老人に青春がある。人は理想を失うときに初めて老いる」といいました。

「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を恐るるなかれ、一灯を頼れ」(佐藤一斎)

「理想の大道を行きつくして路上に斃るるその刹那、わが過去を一瞥のうちに縮め得てはじめて合点がいくのである」(夏目漱石)これらの先達の言葉が今の私にはとても身近に感じられます。

高齢になると知性よりも感性の豊かさに悦びを感じるようになります。

知性の無駄を知り、夾雑物を払い落として身軽になった「ポスト知性の高齢者」と、知性に憧れ、それに大きな期待を抱いているときの「プレ知性の青年」とは互いに引き合います。

ここに碇浩一氏がかねてから提唱している「幼老共生」の概念が生まれます。

感性は先祖からきて先祖に帰ります。つまり先祖との間を循環します。知性は一代限りで循環しません。現代の知性偏重の世相は「感性の循環不全症候群」です。

人間は生得性能力の感性と習得性能力の知性との調和が必須のように創られているのです。

7.心の成長各期の相互関連の仕組み

今までの教育は、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学というように年齢別に分断されていて、それぞれの特色の相互関係がはっきり理解されていませんでしたが、教育では全生涯を鳥瞰する視点が重要です。

本書では心の成長各期のポイントを記しましたが、生後間もなくのときからの養育・保育・教育の各期は、次の期の準備期です。

つまり、成長各期はその前期の支えによって本来の機能がよりよく発揮できるように仕組まれているのです。

そして終始一貫しているポイントは、子どもはよりよく生きるための訓練に励むようにつくられているということです。

当然、大人は幼年期の子どもの訓練に責任があり、子どもは訓練に励むのですが、青年期になると主役は子ども自身に代わり、主体的に自分自身を高めるための訓練を生涯続けるようになります。

昨今の憂うべきことは、人間になるための訓練という概念が薄くなってきていることです。

*ここに心の成長各期のポイントを要約してみます。

・生まれたばかりの赤ん坊は言葉は理解できないし、新しい脳は未熟ですが、古い脳の「パターン認識」という能力があるので、日常の生活規範はやさしさの中にも、厳しく繰り返し「躾」を行い、三歳ごろになったらむしろやさしくするという子育てのやり方が望ましいのです。

白紙の状態のときに、この世での「生活の掟」を刷り込んでおくのです。

・第二期に入るころに「社交性があって人に好かれるか、仕事に集中力があり、責任感があり、道徳心があるか」などの性格について、軌道修正をするようにします。

・第二期では本格的な訓練に入ります。

しかしここでは「好奇心・遊び・模倣」という「古い脳」の生物学的趨性を生かして基礎学力「読み・書き・計算(ソロバン)」を中心とした反復練習の訓練をします。

一通りやるというのではなくて一〇〇点を目指す訓練をします。スポーツ、芸事も反復練習の訓練という意味があります。

あとは「ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ」の精神でよいということはすでに述べました。

・第三期は「新しい脳」で知性が働き出す時期で、生き方の選択をして志を立て、感性・知性の調和で人格をまとめる人間総仕上げの時期です。

第三期以後の生涯は第二期までに蓄えられた内発力が支えになっています。第一・二期は第三期の隠れた下部構造であることを銘記しておくべきです。

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