正当なる努力をするからこそ
本章では、私が一人さんから学んだ、人間の器、そして器量を大きく育てる方法について、書いていきたいと思います。
まず、最初に私が伝えたいこと。
それは、人が自分の道を切り開き、成幸(幸せになるということ)するためには、それに見合った〝正当な努力〟が必要だということです。
お会いした方によく、「恵美子さんは一人さんと出逢ったから、成功できたんですよね」といったことを言われます。それは、ある意味、正解です。
一人さんと出逢わなければ、私がここまで成功、そして成幸することはなかったと思います。でもそれは、私自身が何もしてこなかったというわけではありません。
いきなり一人さんから商人としての器、お金が持てる器、人としての器量を上げてもらったわけではないのです。
私は仕事を始めた当初、営業から荷造りまで、すべて自分でやりました。
朝一番に出社するとその日の準備をし、お客様へのフォローの電話、かかってきた電話の対応、商品説明、お客様からの相談など、すべて自分で対応しました。荷造りなども全部やりました。
手際よくやらないと時間がかかってしまって集配の時間に間に合わないので、ゴミ袋を自分の体にくくりつけて作業をしました。
営業や発送が終わってからはその日の集計や明日の準備。朝の九時から深夜一時くらいまで、それこそがむしゃらに仕事をしてきました。
しかしそうやって、自分でやってきたからこそ得るものは非常に大きかったと思います。まずはみんなの苦労がすごくわかるのです。
営業の苦労、発送の大変さ、仕事がうまくいかなかったときのつらさなど、自分が経験したからこそアドバイスができ、その人たちに感謝できるようになりました。
それと、実体験だからこそ、出てくるアイデアが違います。お客様の声を直接聞けるので、それをすぐに仕事に反映できます。ダイレクトメールの折り方ひとつでも、効率のいい方法がわかるのです。そして何より、仕事をする喜びが違うのです。
「柴村さんのおかげで身体がずいぶんよくなったよ。ありがとね」と感謝されたり、「あなたからの電話を待ってたんだよ」とか、「今度、北海道に帰ってきたら必ず会いに行くね」など、お客様から直接、多くの愛ある言葉をいただきました。
それに、自分の体を動かし、額に汗して働くからこそ、仕事が終わった後に飲むビールの味は格別なのです(笑)。
「はたらく」ことで人の器は大きくなる
人が自分の器を大きくしていくためにいちばん役立つ方法は、「はたらく」ことです。
多くの人は、自分の生活を維持するために働きます。もちろん、それは必要なことです。
しかし、ただ〝自分のためだけ〟に働いていては、それは〝労働〟という役務を提供して、代わりにその対価を得ているだけで、そこから学びや成長を得ることはできません。
一人さんは私に、「『はたらく』とは『傍が楽になる』ことだよ」と教えてくれました。
つまり、「はたらく」とは単なる労働の提供ではなく、自分以外の人への奉仕の気持ちが大切だということです。
「奉仕の気持ちで働く」と言うと、多くの人はボランティアを思い浮かべたり、〝タダ働き〟しないといけないのではと考えるかもしれません。
しかし私が伝えたい「奉仕の気持ちで働く」とは、決して無償で働けということではありません。
「奉仕の気持ちで働く」ことによって人は活かされ、その仕事を通してさまざまな気づきや学びを得られるようになるのです。
具体的にはまず、自分の仕事をさっさと終わらせます。そして余った時間でまだ仕事が終わっていない人を手伝ってあげるのです。自分の仕事だけでもつつがなく終わらせるのは大変なことです。
さっさと終わらせるためには要領や段取りがよくなければできません。さらにそのうえ、人の仕事も手伝おうとなったとき、その人にはすごい力が身につくのです。
普通の人は、自分の仕事が終わったらさっさと帰ります。それで余った時間は自分のために使うのです。
しかしその貴重な時間を他人のために使うことができたとき、その人の器は一段と大きくなります。自分自身の仕事をこなす力が上がるだけではなく、まわりの人にも信頼され、愛される人になるのです。
人は「はたらく」ことを通して人間関係や、さまざまなことを学びます。ときにはつらいことや苦しいこともあるかもしれません。
しかし、人は「はたらく」ことで活かされ、さらに成長することができます。
滝に打たれるのも修行ですが、目の前の仕事で一生懸命「はたらく」ことこそ、最も楽しくて学びの多い修行だと思うのです。
器は使ってこそ育つもの
道具としての器もそうですが、人間の器も使うからこそ活かされ、大きく育っていくのではないでしょうか。
病気で入院したり、寝たきりになると、身体の筋肉はどんどん落ちていきます。人間の身体は、使わないものは衰えていくようになっているのです。逆に力をつけるためには、使わないとダメなのです。
それもただ使うだけではなく、〝ちょっとしんどいな〟というのを乗り越えたとき、今まで以上の力が身につきます。
筋肉をつけるのでも、〝ちょっとつらい〟ぐらいの負荷をかけないと、筋肉が発達しません。
たとえば腕立て伏せは一〇回が限界だという人が、いつまでも一〇回しかしないと、それ以上できるようにはなりません。
それを、ちょっとがんばって一一回やる。すると、一一回できるようになります。そこで一二回、一三回と増やしていけば、やがては二〇回、三〇回とできるようになるのです。
これと同じで人間の器もちょっと難しいこと、ちょっと困難なことにチャレンジすることで、大きくなっていくのだと私は思うのです。
人は知らないうちに、自分の限界を自分で決めています。なかには親やまわりから、「おまえにはどうせ、無理だ」などと言われて、あきらめている人もいるかもしれません。
でも、それも含めて自分の限界を決めているのは自分自身なのです。だから、自分の限界は「自分には無理だ」とあきらめたときに訪れるものだと言えます。
しかし、方法を一つとは考えず、自分の「目的」に思いを広げれば、可能性の幅はもっと広がっていくもの。あきらめずに行動していれば、必ず道は開けてくるのです。
目的に対してのやり方は無限にあります。
「何度かがんばってみたけど、うまくいかなかった」というのは、やり方が間違っているからではないでしょうか。そのときは他のやり方を探してやればいいのです。
※次章では、まだ私が二〇代のころ、一人さんとの体験から学んだ「目的」の具体例を書きます。
それでもうまくいかなかったときは、その目的が本当に自分にとって必要なことかをもう一度、見つめ直してみるといいかもしれません。
「千里の道も一歩から」と言いますが、行動をしていれば、必ず結果が出ます。
うまくいかなかったときは、うまくいかない方法がわかったと、違う方法を試す。うまくいったときはさらにその方法に磨きをかける。
そうして歩いた道のりは、必ずあなたの器を〝ひとまわり〟も〝ふたまわり〟も大きくしていくことでしょう。
器量を上げる脳の使い方
身体もそうですが、脳も使わないと衰えます。私たちの脳は、スーパーコンピューター以上の高性能な能力を持っています。
このすばらしい機能を使いこなすためには、実はちょっとしたコツが必要なのです。そのコツとは、「おかしい」と思うことだと一人さんは言います。
たとえば、あなたがもしお金持ちになりたいのであれば、「自分がお金持ちじゃないのはおかしい!」と思えばいいのです。
そうすると脳は、この〝おかしい〟と思う問題を解決しようとフルに働きだし、その解決策やアイデアを出してくれるのです。
つまりこの場合だと、具体的にお金持ちになるためにはどうすればいいかということを、脳は教えてくれるのです。ここで一つ、注意しなければならないことがあります。
それは、せっかく脳が出してきた解決策やアイデアを削除しようとする、コンピューター・ウイルスのようなものがあるということです。
それは言いかえると、〝間違った固定観念〟と言うことができるかもしれません。
このウイルス、つまり間違った固定観念は、過去の失敗や、まわりに言われたことの記憶が作りだしたものです。
それが何かをしようとすると、「どうせ無理」とか、「やっても無駄」というメッセージを発してくるのです。
このウイルスに対抗するためには、過去の「どうせ無理」「やっても無駄」といった記憶を「私はできる」に〝上書き〟していけばいいのです。
この、〝上書き〟をする行為が〝行動〟なのです。
具体的にはまず、自分で簡単にできそうなことから行動に移して、〝できた〟という結果を残します。そして、徐々にハードルを上げながら、この〝できた〟を増やしていくのです。
そうすると過去の〝できない〟という記憶が〝できた〟という記憶に上書きされ、さらにはまだやっていないことでも〝できる〟というふうになるのです。
一人さんの脳も、私の脳も、あなたの脳に比べて大きいわけではありません。同じ機能、能力を持っているのです。大切なのはこのすばらしい脳という器をどう使うかということなのです。
〝楽〟して成功する法
書店に行くと、たくさんの成功法則本が並んでいます。
これだけたくさんの成功法則本が世に出ているのですから、世の中にはもっと成功者が増えてもよさそうなものですが、なかなかそういうふうにはいかないようです。
世間の人は、「世の中はそんなに甘いもんじゃない」とか、「人生、山あれば谷あり」とか、「苦あれば楽あり」と言います。
ではやはり、楽して成功したり、幸せになることはできないのでしょうか? 私はこのことを聞かれたら、「楽して成功することも、幸せになることもできます」と答えます。
実際、私は〝楽〟して大金持ちになり、すばらしい仲間に囲まれて、幸せな毎日を送っています。
ただ、世間が思う〝楽〟と、私が言う〝楽〟は少し違うかもしれません。
私が思うに世間の人たちが言う〝楽〟とは、何もしないで手に入れる〝楽〟ではないでしょうか。
確かに何もしないで、または簡単に手に入れば〝楽〟ですが、その〝らく〟には〝苦〟が伴うのです。
これに対して私が言う〝楽〟とは〝楽しい〟です。私が事業を始め、商人として歩んできた道は、決して平たんな道ではありませんでした。それこそ〝山あり谷あり〟で、困難な出来事もたくさんあったのです。
でも、その旅の途中も、そして今、その来た道を振り返っても、その旅はずっと楽しいものでした。
ある意味で、困難を乗り越えれば乗り越えるほど、見える景色が変わり、さらに旅が楽しくなっていったのです。
つまり私が手に入れた成功や幸せは、決して何もしないで手に入れたものではないのですが、かといって、それを手に入れるのにすごくつらかったということもありません。
正当な努力もしましたし、いろんな困難なこともあったけど、その成功や幸せを手に入れる過程を楽しんでやることができたということなのです。
そしてその楽しく成功し、幸せになる方法を教えてくれたのが一人さんなのです。
「ゲームの達人」という発想法
一人さんの手にかかればつらい仕事も、難しい問題も、困難な出来事も、すべて楽しいゲームに変えられてしまいます。それはまさに仕事の、そして人生という名の〝ゲームの達人〟なのです。
たとえば、私にも先に紹介した〝間違った固定観念〟や〝思いこみ〟はたくさんありました。
そうした私の誤った考え方を、まるでゲームでもしているかのように楽しく変えてしまうのが一人さんなのです。
それはまるでオセロゲームでもしているかのようです。私が「これは黒だ!」と思っていることを、いとも簡単に全部、白に変えてしまいます。
私だけじゃなく、世間の人たちも「これは絶対、黒だ!」と思っていて、実際に黒の意見が圧倒的に多くても、それをいとも簡単に、そして楽しそうに次から次へと〝パッ、パッ、パッ〟と白に変えてしまうのです。一人さんの発想は、すべてこの〝ゲーム〟なのです。
しかもそれをただ勝つためだけにやるのではなく、いかに楽しくゲームにするかを徹底的に考えているのです。
たとえば納税で日本一になるのも、一人さんにとっては〝納税で日本一になるゲーム〟です。そこで考えるのは、ゲームは簡単だとおもしろくない。難しい問題を解くからおもしろい。
だから、高額納税者のほとんどは株や土地の売却で得た利益なのに対して、一人さんはあくまでも事業所得だけで勝負する。
その事業も、自分一人でやったほうが利益は大きくなるのに、どこまでも私たち弟子も得するように考えてくれる。
優秀な人材を募集したりスカウトしたほうが事業を拡大できるのに、そんなことは一切せず、ご縁のあった人をどこまでも大切にする。
そのことを一人さんはこう言います。
「サッカーでも〝手を使っちゃいけない〟というルールがあるからおもしろいんだよね。
それで俺は、仕事でもなんでもおもしろくするために、自分でルールを決めてゲームのようにやるの。
たとえば〝まるかん〟の本社は今も昔も東京の新小岩にある小さな事務所を借りて、五人だけでやっているんだけど、俺はこれで大企業に勝つためにはどうすればいいかという、ゲームをやっているの。それでゲームは難しいほうがおもしろいんです。簡単だとすぐに飽きちゃうの。
だから俺は六本木とか丸の内にビルを建てることはできるけど、それはしないんです。
だって六本木や丸の内に引っ越したら、今、ここに来てくれている人たちが通えなくなってしまうからね」
一人さんはこのゲームを、お金を得る手段としてやっているのではありません。だって、お金はもう一生どころか、一〇〇〇年経っても困らないほど、すでに持っているのですから。
一人さんの考えるゲームとは、どこまでも〝楽しさ〟と〝やさしさ〟を追求したゲームなのです。
勝って威張らない、負けていじけない
だから私たちの日常は、仕事をしているというよりも、ゲームをしているという感じなのです。
さらに言えば、会社に来て仕事を〝させられている〟ではなく、仕事というゲームを〝楽しんでいる〟という感覚なのです。ゲームですからもちろん、負けたときには罰ゲームもあります。
たとえば負けた人は一日、会社で小町娘や薄毛のおじさんのカツラをかぶるというのもありました。私もある日ゲームに負けて、一日カツラをかぶっていたことがありました。
そのとき、自分がカツラをかぶっていることをうっかり忘れ、そのまま買い物に出かけてしまうということがありました。
お店に入ると、やたらとまわりの人が私のことを見ます。なかにはクスクスと笑っている人もいます。そこで初めて、自分がカツラをかぶったままだということに気づきました。
それでもまわりの人があまりにも笑顔だから、「まぁ、いいか!」という気持ちになって、その場は笑顔でごまかして帰ってきたのです。
正直、すごく恥ずかしかったのですが、今となってはいい思い出です(笑)。
〝まるかん〟でやるゲームは、みんなが公平に参加できるような工夫を必ずしています。
次章で紹介する「国とりゲーム」でも、売り上げをその地域の人口比率で割るので、担当地域の規模や数が多いから有利ということはありません。
だからもちろん、勝つときもあれば負けるときもあるのです。このときにいちばん重要なのは、勝ったときに驕らない、威張らない。負けたときにいじけない、くじけない、そして妬まないということです。
ゲームに勝つと、誰でも気分がいいものです。さらにその勝ちが続くと、自分に自信が持てます。
しかしこの自信が自慢になって驕りにつながったとき、人は威張りだします。そして威張りだしたとき、まわりの人は離れていき、運や天にも見放されていくのだと思います。
ゲームのいいところは、〝負けることもある〟ということです。
負けたときの悔しさやみじめさを知っているからこそ、次こそがんばろうと思えるし、勝ったときに負けた人の気持ちがわかるから、驕ったり威張ったりすることがありません。
負けたときにいじけず、くじけずがんばったからこそ、勝ったときのうれしさはさらに大きなものになり、勝たせてもらえたことに感謝できるようになるのです。
それに、所詮は〝ゲーム〟なのです。ゲームに勝ったからといってその人が人間的に偉いわけではなく、負けたからといってその人が人間的に劣っているわけでもありません。
大切なのは、そこから何かを学び取り、次に活かせるかどうかなのです。
良きライバルと競い合う大切さ
ゲームにはもう一つ、重要なポイントがあります。それは、誰と競うかということです。私にはお互いを高め合い、そして競い合える良きライバルがいます。
私がここまで自分を高めてこられたのも、良きライバル、良き好敵手にめぐり合えたおかげと言っても過言ではありません。
私たち一人さんの弟子は、それぞれが一人さんから任された担当地域をもって、独立した会社を運営しています。
お互いが独立した会社同士ですから、特にうまくいったことを教え合ったり、報告したりする義務も責任もありません。
それでも私たちは自分たちがうまくいったことを他の人たちと教え合います。ときには自分のところの社員を他のお弟子さんのところに行かせて、実地で教えてもらったりもします。かといって、勝負に手を抜くということは絶対にありません。
今月は勝たせてもらったから、来月は勝たせてあげようというようなことはないのです。勝負はあくまでも勝負。真剣に、猛烈に、ゲームを楽しみます。
こうしたライバルとの良い関係を保つことができるのは、私たち弟子が一人さんから教えてもらった「渡り鳥経営」を実践しているからです。
渡り鳥は海を越えて遠い故郷に帰るときに、先頭の鳥を中心にして V字型になって飛んでいきます。すると前の鳥が羽ばたくことで後ろに上昇気流が起きます。
後ろを飛んでいる鳥たちはその上昇気流に乗ることで、前からの空気抵抗を減らして楽に飛ぶことができます。そして後ろの鳥たちは先頭で飛んでいる鳥に「がんばってね」と声をかけるのです。
それで先頭が疲れると、その鳥はスッと後ろに行き、それを見た元気な鳥がパッと前に出てきて先導します。
そうやって上昇気流を起こしながら、みんなで海を渡っていくのです。渡り鳥には、おんぶされている鳥はいません。引っ張ってもらっている鳥もいないのです。
それと同じで私たちが実践している「渡り鳥経営」では、お互いを助け合いますが、もたれ合ったりはしません。
お互いを高め合いながら楽しく〝きょうそう〟、つまり、共に創る〝共創〟をしているのです。
人生において良い師を持つのと同じぐらい、お互いを高め合える良きライバル、良き好敵手と共創することはとても重要なことだと思います。
「ビタミンふざけるな!」という悔しさの種
勝負に負けたときにいじけない、くじけない、そして妬まないことが大事だと書きました。でも私は正直、勝負に負けたときはすごく悔しかった。
そんな悔しい悔しい気持ちをバネにして、今までがんばってきたというところもあります。私の知り合いから、こんな話を聞いたことがあります。
ある村に旅人が流れてきました。その旅人は村の長の許しを得て、荒れ地を借りることができました。旅人はそこに小さな小屋を建て、残りの土地を一生懸命、耕しました。
それを見ていた村人たちは、「あんな土地を耕したところで、何も育つわけないのに」とバカにしていました。
ところが、その荒れた土地は見事な美田となったのです。
なぜあのような荒れた土地が、このような美田になったのかを村人がその旅人に聞くと、こう答えたそうです。
「私はこの土地を耕しながら、〝なにくそ〟という、種をまいたのです」 人に何を言われても気にしない、ゆるせるというのも器量ですが、ときには悔しさをバネにしてがんばることも大切ではないかと思うのです。
一人さんもこんな話をしてくれたことがあります。
「俺のファンの人たちって、すごくまじめなの。それと勉強熱心なの。でも、一つ足りないものがあるんだよね。それは何かというと、〝ビタミンふざけるな!〟なんです。会社で上司から理不尽なことを言われたとするよね。そのときにこの、〝ビタミンふざけるな!〟が心の中にないとダメなんだよ。面と向かってケンカするのは問題があるけど、心の中で『ふざけるな! 今に見てろ!』と思って、家に帰って猛勉強するの。それで偉くなって、その上司を見返してやればいいの。それで成功したときは『あなたのおかげです』と言えれば、その人の器が大きくなるの。
俺がみんなにお金をためなって言うのも、お弟子さんたちにも、特約店の人たちにも、イヤな客に頭を下げてまで〝まるかん〟の商品を売ってほしくないからなの。
それでお金に困っていなければ、イヤな客が来たら『あなたに売る商品はありません!』って言えるよね」
何ごとも「出し切る」かどうか
ゲームを通して私がやってきたこと。それは、〝自分の限界にチャレンジする〟ということでした。そのくり返しによって、少しずつ自分の〝器〟の大きさも変化してきたように思います。
ライバルに負けない。競合会社に負けないということも重要ですが、最終的にはやはり、己に負けないということが大事です。なぜならば、自分の限界は結局自分自身で決めているからなのです。
「必死でがんばる」と言いますが、必死とは〝必ず死ぬ〟と書きます。
たとえば、「あなたはこれができなければ、三日後に銃殺の刑に処する」と言われれば、誰もが死ぬ気になってがんばりますよね。
それでもできなかったとしたら、それは今の、あなたの限界なのです。必死でがんばるとはそういうことだと思います。
自分の限界にチャレンジするためには、自分の持っているものを出し切らなければなりません。
先にもふれましたが、筋力をつけるためには楽な運動ばかりしていては筋力はつきません。ちょっとつらいところを乗り越えていかないと、力は身につかないのです。一人さんも以前、こんな話をしてくれたことがあります。
「成功してない人や運の悪い人。すごくいい能力を持っているのに、いまいちだなぁという人たちにはある共通した特徴があります。それは、〝出し切ってない〟ということです。
たとえばの話なんだけど、田んぼを三〇〇坪も耕せる人と、五〇坪しか耕せない人がいたとするよね。
それで、三〇〇坪も耕せる人が、まわりは二〇〇坪ぐらいしか耕してないから自分も二〇〇坪ぐらいでいいやと、二〇〇坪しか耕さなかったとします。
かたや五〇坪しか耕せない人はその五〇坪を一生懸命、耕したとします。
するとどうなるかというと、五〇坪の人は一生懸命やってると、やがて筋肉がついてきて、六〇坪、七〇坪と、だんだんたくさん耕せるようになってきて、やがては二〇〇坪も耕せるようになるんです。
対して三〇〇坪も耕せるのに二〇〇坪しか耕さない人は、だんだん筋肉が衰えて、一五〇坪、一〇〇坪と耕せる量が減っていくんです。
それと、サボって二〇〇坪しか耕さない人と、一生懸命に五〇坪を耕す人とでは、なぜか五〇坪の人のほうが、運がよくなるんです。
なぜかっていうと、まずは世間がそれを見てるんです。
耕す量の大小よりも、人はその人が一生懸命がんばってたら応援したくなるし、怠けている人を見たら応援したくなくなるの。そして何よりも、がんばっている人は天が見ていてくれるんです。だから人間は、知恵でも力でも、自分の持っているものは出し切らないとダメなんだよ」
器は比較されてこそ大きくなる
人間の器を大きくするといっても、結局は自分の持っているものを出し切らないと大きくならないのではないかと思います。道具としての器も使わなければただの〝もの〟です。
どれほどの〝名器〟と言われる器でも、それが日の目を見ずにしまいこまれていたら、それこそ〝宝の持ち腐れ〟ですよね。
それと同じで私たちが持っている器も、使って、使って、使い切るところに活かされるし、そして生かされる道があるのです。
人は生まれも違えば顔かたち、性格も違ってさまざまです。人の器もさまざまな用途があって、それぞれに価値があります。
人間の器に価値のない器なんて、一つもありません。大切なのは、その価値に気づいて、活かし切ることです。
一人さんは、「この世の中は、必ず〝比べられる〟という仕組みを持っているんだよ」と言います。たとえば、あなたがスーパーへ買い物に行って、リンゴを買うとします。
リンゴとひと口に言っても、「ふじ」「つがる」「王林」「紅玉」「ジョナゴールド」など、さまざまな種類があります。値段も違えば味も違います。
そして同じ品種でも、大きさや傷み具合も違って、これらさまざまな選択肢の中から、あなたはそれぞれのリンゴを比べ、最終的には一つのリンゴを手にするのではないでしょうか。
人も世間に出れば、必ず比べられます。顔や身長や体型、学歴や勤務先、資格や能力の高さなど、さまざまな尺度で比べられます。あなたが読んでいるこの本も、他のたくさんの本と比べられます。
書店ではビジネス書の自己啓発というジャンルの中で比べられ、一人さんのファンの方からは他のお弟子さんたちの本と比べられ、出版社の中でも売れているかどうかと比べられます。
ここで大切なことは、「どうぞ、比べてください」ということだと、一人さんは言います。
「この世の中は必ず比べられるんです。『自分は誰かと比較されたくない』と言っても、洋服屋に行けば、『あっちよりも、こっちの服がいい』って自分は比較してるんだよね。
だから、『比較されるのがイヤだ』って逃げるんじゃなくて、『どうぞ比較してください』って生きていかなきゃダメなの。
それで、他人が比較する基準は他人が持っているのだから、これはどうしようもないけど、自分が比べる基準は自分が決めるわけだから、自分で幸せになる基準を決めちゃえばいいの。それと、器の大きさを決めるのも結局は他人なの。
ある人が会社で『あなたは器の大きな人ですね』と言われていたとしても、家に帰ったら奥さんに『あなたって器の小さい男ね!』って言われているかもしれないの。
大切なのは、あなたが誰にとって器の大きな人でありたいかってことなの。そして、それを決めるのは自分自身なんです。器って受け皿だから、大きいほうが、より多くの人を受け止めることができるの。
でも、一人の人を受け止めるだけの器も大切なんです。だから、あなたは誰のために器を大きくしたいですかっていうことなの。その誰かを受け止めるだけの器を、一生かけて大きくしていくのが人生なんです」
天が与える試練とは何か?
人生はよく、旅にたとえられます。
そして人生を旅にたとえるのなら、器とは天が与えてくれた、旅をするための乗り物ではないかと思うのです。
さらに言えば、人は生まれてくるときに、自分の人生をどう生きるかを決めて天と約束し、それに見合った器を選んで生まれてくるのではないかとも思います。
そういう意味では、人の一生とは天との約束を守るための、修行の旅と言えるのではないでしょうか。
だからときに天は、その約束を守れているかどうか、またはその人が成長して約束を果たせるように、試練という形で試しているのかもしれません。
これまでの私の人生の中にも、さまざまな試練がありました。そんなときに一人さんは、サッと解決策を教えてくれるのです。そこで私はあるとき、天が与える試練とは何かを聞いてみました。すると一人さんはこう答えてくれました。
「天が与える試練というのはその人の成長に合わせて与えられるんだけど、それは一見、なんの問題もなさそうなところに出るんだよね。
たとえば、お金がほしいという人ががんばって仕事をし、努力をすればある程度のお金を稼げる能力は身につくんだよね。
それでお金を持ったときは、今度はお金を維持する能力がいるんだよ。それを派手に使っていると、必ずそれを狙う人が現れるの。泥棒ってお金を盗むプロだからわかるんです。その人がお金を持っていて、しかも隙があるかどうかが。
それでこうしたことには防犯対策をするとか、怪しい人に注意するとか、いろんな対策があるんだけど、いちばん注意しなければいけないのは、自分の驕りなんだよ。
人におだてられて、やらなくていい仕事までして、借金だらけになるのはバカバカしいよね。自分の足元を見て、しっかり歩こうね。
器量は弱いところで試される
確かに私のところへたくさんの人が来ました。それで土地の購入や株式投資、自社ビルの建設など、さまざまな話をもちかけられました。そんなとき、一人さんは必ず前もって教えてくれるのです。
「そろそろ、恵美子さんのところにもいろんな人が来るから気をつけなよ。いろんな投資の話をして、融資の話をもちかけてくるからね。それで、そういうときはこう言いな。『私は、そんなにいろいろなことをするほど器量がありませんから』(笑)」
私たち弟子はこうして一人さんから前もって教わっているので大丈夫なのですが、私のまわりの知人や友人たちのなかには、投資話にだまされる人がすごく多いのです。
特に最近増えているのは、ボランティアや福祉をうたった投資話です。こうしたことに対処するためにはどうすればいいか、一人さんはこう話してくれました。
「人がお金を持ったときって、その人の器量が問われるんだよね。それがどんな形で現れるかというと、その人のいちばん弱いところに現れるの。
たとえば地位や名誉に弱い人には、そうした心をくすぐるような投資話が来るんです。それで見栄をはったりすると、その見栄に転ぶんです。
男性で女に弱い人は女で失敗したり、芸能人に弱い人は芸能人にハマって引っかかったりするの。
こうやって天の試練は必ずその人のいちばん弱いところに現れて、その人の器量を試すんです。人生はそうやって、弱いところを強くするという修行なんだよね」
お金が逃げてしまうときのこと
お金を持ったときは、その人の器量が問われるときだとつくづく思います。私自身がいちばん困るのは、借金や寄付を頼まれたときです。
こんなときは無下に断ると人間関係が悪くなったり、ケチだと思われたりしないかということが心配になります。そのことについて一人さんに相談すると、こう答えてくれました。
「お金を貸してあげるときに注意しないといけないのは、お金を貸してあげること自体が本当にその人のためになるかどうかということなの。その人がお金に困ってるんだとしたら、それはお金に困ってるんじゃなくて、お金のことを学びなさいということなんだよね。
だからその人は、お金の儲け方を学ばなければならないときかもしれないし、お金のありがたみを知るときかもしれない。
それなのに安易にお金を貸すと、せっかくの学びの機会を奪うことになるんだよね。
それでどうなるかというと、そのときはお金を借りてうまくいっても、必ずまた学びの機会が訪れて、またお金に困ることになるの。
だからお金に困っている人がいたら、お金をあげたり貸したりしてあげるよりも、お金の儲け方や仕事の仕方を教えてあげたほうがいいんだよね。
それとお金を貸す側の問題だけど、その人に心から出してあげたいと思ったときに、自分ができる範囲内で、あげてもいいと思う金額だけ出してあげるの。
それで恵美子さんが、『いっぱいお金を持っていても、死んだときには持っていけないじゃないですか』って言われたとしても、そんなことどうでもいいの。
出さないとケチだと思われるっていうけど、そういう話ではないんです。お金には法則があるんです。
自分の心にもない使い方をしたとき、お金を粗末に扱ったことになるの。そうするとお金が逃げて行くんです。
自分が本当に納得しない使い方をしているとき、お金は逃げて行って、入ってこなくなっちゃうの。
『いっぱいあるから別にいいや』って思うかもしれないけど、お金は粗末に扱ってはダメなんです。お金も人も大切なんです。
たとえば俺が一万人の軍隊を持っていて、『三〇〇人ぐらいなら死んでもいいから突撃させろ!』と言ったとしたら、その言われた人たちは、たまったもんじゃないんだよ。
一生懸命に作戦を考えて戦ったとしても、それは戦いだから死ぬ人はいるんだよ。でも、だからといって、二〇〇や三〇〇の兵隊が死んだって影響ないやって言うのはいけないの。
それと同じで、一万円でも一円でも同じなの。粗末に扱ってはいけないんです。それで、寄付も同じなの。その人が心から感銘したものに、出せるお金を出せばいいの。
それがどんなに立派ですばらしい話だったとしても、自分自身が感銘して、納得したものに出すんだよ。
たとえば俺は、『砂漠を緑に変えよう!』というのは大好きなんです。でも、『アフリカに学校を建てましょう!』というのには、あまり感銘しないんだよね。なぜかというと、俺は学校が嫌いだったから。
俺と同じように学校嫌いの子が、それで無理やり行かされると思うと胸が痛むの(笑)。だから、どれが正しいかではなくて、本当に心から賛同できるものに、自分に無理のない範囲でお金を出せばいいんです。
ロックフェラーがいろんな財団なんかを作って寄付したりしたんだけど、それは彼が心からやりたかったんだよ。
人間は、心からやりたいときが、そのときなんだよ。人はそれぞれに学ぶことが違うんです。
それで恵美子さんは、お金持ちでいることが修行なの。北海道の田舎から高校を出て、何も知らないで東京に出てきた一人の女性が、がんばって一生懸命に仕事をしていたら、こんなにお金持ちになりました。
こんな服も着られて、こんな立派なところにも住むことができました。その物語をこれからの人に知らせることが大切なの。
自分でもできるんだっていう、夢を持たせてあげることが恵美子さんの使命なんだよ。
だから、寄付は寄付としてとてもよい行為なんだけど、恵美子さんは寄付でお金を使い果たすより、自分の魅力を上げることに使ったほうがいいの。
それで多くの人に、『恵美子さんのようになりたい』と思ってもらえるような、あこがれの存在になるために、これからも修行していかないといけないんだよ」
できることが増える喜び
人間は未熟な生き物です。
他の動物が生後、まもなく歩けるようになるのに対して、人間の子供は歩けるようになるまで一年ぐらいかかります。
コミュニケーションの手段としての言葉も、簡単な会話をするまでに三年くらいかかり、大人として成人するまで二〇年かかります。
私はこの、人間が生まれもった未熟さがあるからこそ、成長する喜びを感じられるのではないかと思うのです。
何もできなかった赤ちゃんが、声を発するようになり、それが単語になって、やがて会話になります。
寝返りをうてるようになれば、次はハイハイができるようになり、つかまり立ちができるようになれば、次はよちよち歩きができるようになります。
こんな一つひとつの成長を見て、親やまわりの人たちは喜びます。人は自分が成長すると、まわりの人が喜んでくれることを知ります。そしてその成長は、自分自身の喜びであるということも知るのです。
ボールをうまく投げることができた喜び。うまくキャッチできたときの喜び。自転車に乗れるようになったときの喜び。その一つひとつの喜びが、その子を成長させていくのです。
小さいころは失敗を恐れません。よちよち歩きで転んだからといって、歩くのをやめてしまう子供はいないのです。
だって、失敗したときの痛さより、成功したときの喜びのほうが何倍も大きいのです。それに、自分にはそれができると信じているのです。
しかし大人になると、失敗を恐れるようになります。そして、自ら「それはできない」と、自分の限界を決めてしまいます。
でも、人間はいくつになっても成長する喜び、知らないことを知る喜び、できなかったことができるようなった喜びを感じることができます。
肉体的には衰えていったとしても、心はいつまでも、そしてどこまでも成長していけるのです。私は機械が苦手なので、パソコンやインターネットにまったく興味がありませんでした。
それが今、まわりの人にすすめられて、ブログやツイッター、フェイスブックを始めたのです。
最初は、今まで私が一人さんに教えてもらったことを発信するだけのつもりだったのですが、多くの人から反響をいただきました。
特に若い人たちからダイレクトに感想や意見をもらえることは私にとってよい刺激になり、新たな気づきと学びになりました。
すると自分の世界観がまた広がり、いろんなことに興味がわいてきます。好奇心が出てもっと知りたいと思い、勉強しようという意欲もわいてくるのです。
さらには若い人たちの考えていることにふれて、素直にすごいなって尊敬の念がわき、同時に自分が学んできたことをもっと教えてあげたいと思うようになったのです。
心の成長に終わりがないのと同様、自分の器を大きくしていくのにも終わりはありません。そして、それはいくつになっても人間の根本的な喜びなのだと思います。
器量とは多機能であること
できることが増えるとそれは喜びに変わるだけではなく、その人の魅力にもなります。
今から一〇年以上前に一人さんが、初めて私に〝魅力〟の話をしてくれたときに、「魅力とは多機能なんだよ」と説明してくれました。
「これからは携帯電話の時代なんだよ。
今までは電話をしようと思えば電話の置いてあるところまで行かなきゃいけなかったけど、これからは自由に持ち歩くことができるようになる。
それだけでもすごく便利なんだけど、さらに『これもできたらいい』とか『あれもできたらいい』ってなって、いろんな機能が付いてどんどん多機能になっていくの。
それと同じで人間も、できなかったことが一つ、また一つとできるようになって、そうやってできることを重ねていくとそれがその人の魅力になるんだよ」 この話を聞いた当初は携帯電話といっても、まだポケットに入るほどの大きさではなく、機能も電話としての機能以外は何もなかったので、私はあまりこの話がピンときませんでした。
でも今ならすごくわかります。
携帯電話は今や離れた人と話すだけではなく、メールを送ったり、写真を撮ったり、インターネットで調べたり、ゲームをして遊んだりと多機能になり、便利で生活には欠かせない、とても魅力的な商品になりました。
一人さんからこの〝多機能〟の話を聞いて私が最初にやったことは、自分にできることで、まわりの人にしてあげられることを増やすことでした。
次に私は、今の自分にはできないけど、もしできるようになればまわりの人たちに喜んでもらえることにチャレンジしました。
これは、ただ自分のやりたいことだけをやっていてもそれは魅力にならないと思ったからです。機能とは使う人に評価されて、初めて機能と言えます。
使う人の役に立ってこそ必要な機能であって、使われない機能は邪魔なだけです。人の役に立ち、喜んでもらえるからこそ、それが魅力へと変わっていくものなのです。
人が多機能になるためには、「どうせ自分にはできない」という観念も変えていかなければなりません。
そのためにはまずできることから始めていき、少しずつずつできなかったことで相手が喜ぶことにチャレンジしていけばよいのです。
そして一つの仕事もただできるだけではなく、笑顔でできるとか、早くて正確にできるとか、そのあとさらに余った時間で、まだできてない人を手伝ってあげるとか、そうやってできることを重ねていけば、それはあなたの魅力となり、あなたの器量となっていくのです。
〝あたま便秘〟にならないように
人間が体の健康を保つためには適度な運動、規則正しい生活、そして何より栄養が大切です。食欲というのは人間の生命維持に必要な、根本的な欲求です。
おなかがすくということは、体が栄養を欲しているからです。そしてそれは、体が成長している証なのです。
それと同じで心にも栄養が必要です。その心の栄養というのは、学ぶことです。新しいことを学ぶ喜び、知りたいという欲求は心の成長の証なのです。
ただ、ここで注意しなくてはならないことが一つあります。それは、せっかく得た栄養を、そのまま腐らせてはいませんか? ということです。
私がお会いする人たちのなかで、たまにこのような人を見かけます。
それは、たくさんの本を読み、いろんなセミナーなどにも参加して、すごく熱心に勉強しているのに、なぜかぜんぜん幸せそうじゃない人。
そういう人に限って、口から出るのは否定的な言葉ばかり。
「あの本は読んだけどつまらなかった」とか、「あのセミナーに出たけど、レベルが低かった」など、自分はさも勉強していて、知識があることを自慢したいだけにしか見えません。
私はこのような人に会うと、「この人は〝あたま便秘〟だなぁ」と思ってしまいます。つまり、頭に知識ばかり詰めこんで、実践が伴っていない人だということです。
体も腸が正常に動いていないと便秘になるように、頭に知識を入れたら、それを行動に移さないと、頭でっかちの頭便秘になってしまうのです。
「百聞は一見にしかず」と言います。だから、良いことを知ったら即、実践。知識は行動に移してこそ、知恵に変わるのです。
そして、その知恵をまわりにも教えてあげましょう。たくさん学び、たくさん実践すれば、人は必ず成功します。
そのうえ、そのことをまわりにも教えてあげたら、あなたは成功者のうえに、いい人になるのです。体のメタボリック症候群もいけませんが、心のメタボにも注意してくださいね。
助け合い、協力し合って器を育てる
結局、人は一生、勉強。一生、実践なのだと思うのです。
これだけ知ったからもう終わりということはなく、いくつになっても新しいことを知ることは喜びであり、その知ったことを活かせば、他の人にも喜んでもらえます。
その量が多くなるほど多くの人に喜んでもらうことができ、同時に自分の受け皿も増える。つまり、器が大きく育つのです。器って大きくないと、与えることも、受け取ることもできないのだと思うのです。
器が小さいとその中身は自分のことでいっぱいになって、せっかく受け取ってもこぼれ落ちてしまいます。
それはまるで、満杯のコップに水を継ぎ足すようなものです。でも、器が大きければ受け取ることもできるし、人に与えることもできますよね。
だから人は、一生をかけて勉強し、学んで器を大きくしていくのです。そしてそれは、器を大きくしていくという修行であり、人生という旅なのです。ただ、その旅のテーマは人によって違います。
ある人は歌で、ある人は技術で、ある人は商売で、ある人はスポーツで、ある人は子育てで、ある人は教育でと、人によって器を大きくする修行の場が、旅の目的が違うのです。
だからすべての人が大金持ちになる必要はないし、すべての人が天才である必要もないのです。
できることが少ないよりも、多いほうがいいのは当然です。でも、それを自分一人でできる必要はありません。
私だってまだまだ、できないことはたくさんあります。だからこそ、人には〝仲間〟が必要です。
自分の得意なことで器を大きくしていきながら、自分ができないことは助けてもらい、自分のできることで助けてあげる。
こうした、人生をともに助け合い、ともに修行し、ともに楽しみながら旅路を歩む仲間がいる。これこそが、人生で最も大切なことだと私は思います。
「上気元の行」で器を大きくする
今まで一人さんから数多くのことを学んできましたが、そのなかでもいちばん人の器を大きくすることができるのは、「上気元の行」です。
この〝上気元〟については後ほど一人さんのほうから詳しく解説していただきますので、ここでは簡単に説明しておきます。
「上気元の行」とは、自分の機嫌をいつも〝上気元〟にしていることです。
人の機嫌には「上気元(普通は上機嫌と書きますが、一人さんはこう書きます)」と「中機嫌」と「不機嫌」があります。
いつも「不機嫌」な人には、不機嫌な出来事がしょっちゅう起こります。「中機嫌」の人は、機嫌がいいときもあれば、悪いときもあります。つまり、普通の人です。だから普通の人には、普通のことしか起こりません。
これが「上気元」の人のところにはなぜかいいことばかりあって、さらには奇跡が起こるのです。
私がこの「上気元の行」、つまり、どんなことがあっても自分の気の持ち方を上向きにして、自分の機嫌を自分でとり、いつも上気元でいるという行をしだしたとき、なぜか私のまわりには、私を不機嫌にさせるようなことが頻繁に起こるようになりました。
そこで私は起こった出来事一つひとつに対して、なぜ不機嫌になったのか、なぜ上気元でいられなかったのかを突き詰めて考えてみることにしました。すると、自分の感情が邪魔をしていることがわかってきました。
そこでさらにその感情をひもといていくと、それは自分の〝我〟であることがわかってくるのです。
たとえば他人の成功を素直に喜べなかったり、人に言われたことやされたことがゆるせなかったりしたとき、「なんでそう思うの」と自分自身の心を省みるのです。
するとそれは、「自分のほうががんばっているのに、相手のほうが評価された」とか、「自分がバカにされていると感じた」とか、その理由がわかってきます。
そしてその理由を見ていくと、どれも「自分が……」という〝我〟が出ていることに気づきます。
そしてこの我が自分の心や行動に限界を作り、器を小さくしている原因であることがわかってくるのです。
そこで笑顔を出したり、自分に「別にいいんじゃないの」と言ってあげたりするのです。「自分はがんばっているんだし、愛されているんだから、相手のことは関係ないでしょ」と。
それでも不安や怒りの気持ちがおさまらなかったら、自分が自分自身のことを本当に愛せているか、まわりの人のことも愛せているかを省みて、さらに自分とまわりに対して「愛してます」という気持ちを唱えるのです。
そうすれば不思議と不安や怒りの気持ちがおさまり、相手をゆるせる気持ちになってきます。そして何より、自分の気持ちが軽くなってくるのです。それで自分の気持ちが軽くなったら、今度は相手やまわりの気持ちを軽くしてあげましょう。
「いつもありがとうね」とか「感謝してます」「いつもがんばってるね」「あなたがいてくれるから助かります」と、相手の気持ちを軽くしてあげる言葉を使っていると、自分に起こる出来事が変わってくることを実感することができます。
これは結局、人を愛せるキャパ、ゆるせるキャパが広がった結果です。そしてこれこそが、人の器なのです。
これからの時代は、技術やテクニックだけではお金を儲けることができなくなってきます。真の人間性が問われる時代になってくるのです。
そこで問われるのはその人の魅力であり、その人の器量です。器が大きいと、それだけ受け取れるものも大きくなります。
だから私たちが目指すべき道は、「いつも上気元で器の大きな人になる」ということに尽きるのではないかと思うのです。
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