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第二章なぜヒトには教育や道徳が必要なのか

目次

1.「体で生きる生物」の歴史

地球上の生物の進化の歴史

先史時代の生物はまず海の中で進化しました。

海綿動物は最も単純な生物で無数の穴から鞭毛の動きで海水を取り入れ、栄養を吸収しています。

クラゲは傘のような頭をポンプにして泳ぎ、毒による攻撃力を持っています。

この原始的な仕組みは永い進化の過程を経て、心臓・肺を分化して、ある種の魚は背骨を備えて脊椎動物となり、人類につながる最古の生物となりました。

生物の存在しない地球は岩石と塵の塊でしたが、そこに植物が生えました。有性生殖に昆虫が仲立ちをします。

動物は植物の枯葉や枯木をリサイクルして養分に変え、その死骸は土の養分を高め、植物の進化を助けます。土は生物によって循環し、無機的地球は生物によってその価値を高めました。

四億年前には魚類の脊椎動物が、三億年前には両生類、爬虫類、飛翔昆虫が、二億年前には哺乳類に似た爬虫類が現れ、ここで生物最大の絶滅の危機に遭遇します。

巨大な大陸が衝突してたくさんの火山が噴火しました。

有名な出来事は六五五〇万年前にメキシコ・ユタカン半島の突端に巨大隕石が衝突したことです。

直径一六〇キロメートルの巨大クレーターができ、半径千キロメートル以内を破壊し尽くし、衝突地点の岩盤が割れて、猛毒の硫黄が噴出して地球を包みました。

地球は猛毒ガスに覆われ、草木は枯れ、大型動物の恐竜は死に絶えました。

恐竜が消滅したために、生物界の片隅で細々と暮らしていた小動物の小型哺乳動物に生存の幸運がめぐってきて、そこから霊長類が現れました。

この霊長類は、はじめは樹上生活で枝から枝へと飛び移って、地上の捕食者から身を守り、食物の果実はいつも手の届くところにあって、効率の良い生活をしていました。

霊長類最大のグループの類人猿(チンパンジー、オランウータン、ゴリラ、ボノボ)から約七〇〇万年前に分派して人類が誕生しました。

樹上生活のヒト科の猿人は草原に降り、二足歩行しました。

一五〇万年前ごろの原人になると、脳の容積が大きくなり始め、自由になった両手で道具を創り、危険な火を使うことを覚え、言葉を話すようになりました。

脳はついにチンパンジーの三倍の巨大脳になりました。

原始生物が現れた三八億年前から現在までを二四時間とすると、人類が類人猿から分かれた七〇〇万年前は約三分前、現代人が文化を創り始めた一万年前は〇・二秒前となります。

巨大脳を保有する前の「体で生きる生物」の歴史は地球上の生物史の全体であり、「心で生きる生物」である人間の歴史はごく最近に始まったばかりで、歴史という概念にふさわしい時間がまだ経過していないことに驚きます。

生物体のスーパーシステム

この進化をうながしたのは、生物の環境への適応と遺伝子の突然変異といわれていますが、悠久の歴史の中で、一貫して変わらない「よりよく生きようとする生物的趨性」《TTG(tropismtowardsgoodness)》による進化の姿には心を打たれます。

このTTGは、生物の仕組みの中にいろいろな姿で組み込まれています。

その一つは多田富雄博士が提唱した「スーパーシステム」です。一例として、人体の造血機構を挙げます。赤血球、白血球、血小板、T細胞、B細胞、マクロファージュ(白血球の一種。死んだ細胞や細菌などの異物を捕食して消化する)等の多種類の細胞群は、たった一種類の造血幹細胞から分化して、一定周期で入れ替わります。

この場合、白血球なら白血球になる遺伝的運命で入れ替わりが起こっているものと思っていたところ、そうではなかったのです。

幹細胞が胸腺を通過するとT細胞に、骨髄を通過するとB細胞になるのです。

また、その時々の環境が出すサイトカイン(免疫システムの細胞から分泌されるタンパク質で、特定の細胞に情報伝達する)という物質の刺激によって、細胞の組成が生体にとって最適になるように、当意即妙なアドリブで調和がとれるように仕組まれています。

これが「自己組織化」であり、医学用語のホメオスタシスの実態なのです。この当意即妙さを多田博士は「スーパーシステム」と命名しました。

システム工学などの一般的な人工システムは特定の目的を持っていますが、スーパーシステムは特定の目的を持ちません。

生物の複雑系にその時々の新たな要素を追加しながら、一定の秩序を与えて進化を進めます。

生物の仕組みは通常の工学システムから考えると謎であり、非合理的ですが、それがTTGの「スーパーシステム」です。「スーパーシステム」の代表例が脳です。

大脳は、自意識を働かせて、外部情報を処理し、複雑な社会現象をまとめていかなければならないのですが、その大脳の根底には「スーパーシステム」があることを認識しておくことは重要です。

物質文明の考え方はとかくシステム工学的であり自転車操業的で、硬直していて柔軟性がありません。

人間の文化の根底には、生物の当意即妙なスーパーシステムが働いていることを認識しておくことが重要です。

知性に偏らず、感性を活性化させる必然性をこのスーパーシステムに求めたいと考えます。

2.巨大脳(心)で生きる生物、ヒトの出現

ヒトはなぜ巨大脳を持ったのか?

ところで、一体、何のためにヒトの大脳はチンパンジーの三倍にも大きくなったのでしょうか?チンパンジーの認識能力は比較的単純で、食物のありかを嗅ぐとか、敵か味方かを見分けるというような、生死と直接関連することへの認知能は備わっていますが、人間のように、モノをつくったり、自然の中から「真・善・美」を感じ取ったりする高度な感性的認識能力は未熟です。

脳以外の体の部分は細胞単位でエネルギーを獲得する仕組みで、進化に進化を重ねた結果、さらなる進化の余地はないところまでになりましたが、脳の認知能にはまだ進化の余地が残されました。

創造主はここに高次元の認知能を機能させるようにしようとお考えになったのかもしれません。

つまり「心で生きる生物」を創造するために、人間の大脳は巨大化されたと思われるのです。

巨大脳によって与えられた「自意識、自我」の光と影

ヒトに賦与された巨大脳は「自意識」を持ちます。自意識とは環境に対応している自分を見る目です。ではなぜ、人間は自意識を持つように進化したのでしょうか。

自意識がなくても万物は充分にうまく暮らしていけるので、「体で生きる動物」には自意識は必要ありません。

しかし「心で生きる動物」には必要です。

人間は自意識を持つことによって、自己をモデルにして他者の心をシミュレーションして推測できるようになり、他者の心を理解することが飛躍的に進みました。

それは他者の心に共感を覚え、「惻隠の情」などの道徳的感情の基盤をつくりますが、その反面、「他者操作」をも可能にして他者を欺くという非道徳的行為をも提供します。つまり、自意識は「両刃の剣」ともいえるのです。

道徳・教育の生物学的意味

この自意識の持つ罠から逃れるために、人間は「道徳という規範」をつくって人間の歩むべき道をつくりました。

自意識を持った人間が日常行わなければならないことは、「適正な価値判断」の直感です。

前出した「オオカミ少女」の発見者であるシング牧師の日記には、こう記してあります。

「彼ら(原住民)はとても勇敢であるが、もともと悪心の持ち合わせがないような善良な性格だった。

精神は単純だが厳しい道徳心を持ち、大変に誠実で嘘をつかず、そして運命に従順であった」(傍点筆者)私はこの「厳しい道徳心」に惹かれました。

道徳心は人間の生存に不可欠なものとして、原始人の時代から生得的に人間の心の中に組み込まれているのではないかと考えます。

人間の自我・わがままがこれを曖昧不明にしているだけのことではないのでしょうか。

「躾」がこの生得性の道徳心を目覚めさせる営みであり、それを徹底させるのが教育の務めなのです。

地球上では霊長類のあまたの種が入れ代わり立ち代わり現れては消えていきましたが、それらはすべて自然の進化の掟に従っていればよく、環境との調和は本能に任されていたのでした。

アニミズムの時代では神の声を聴いて、黙々と敬虔な気持ちでそれに従うことで満ち足りていました。

ところが、巨大脳の機能により、すべては外なる神に任せるのではあまりに自主性がなさすぎるので、神の心を知り、神のよき僕になるために、神の心を理解するために「外なる神」を自分の中に呼び込み、「内なる神」を創ろうと思うようになりました。

釈迦は修行の道に出て涅槃に入り、仏道を明らかにしました。

モーゼはエジプトを出てシナイ山に入り、神と契約をして十戒を持って山を下り、民を率いて約束の地に行きました。

キリストはその戒律の意味を「神の愛に昇華」させました。

人間はこのようにして宗教を意思決定の重要な指標として人類文化を築き上げました。

ルネッサンスによる道徳観の変容

ところが西ヨーロッパにおいては一三世紀ごろからルネッサンスが起こり、自然の発見と個人の自由に目覚め、神中心の中世文化から人間中心の近代文化へと時代は変わりました。

「神との対話」は「自然との対話」に置き換えられ、自我を絶対化する近代哲学が語られるようになりました。

デカルトは「我思う、故に我あり」といって、すべてを疑ってもその疑っている自我の存在を疑うことはできないとして、自我を近代哲学の出発点としました。

自意識の能力を持つ人間が自然を支配するのは当然との概念がつくられました。

これが西洋の考えのようですが、東洋の思想は違います。

東洋と西洋で異なる自意識・自我の評価

曹洞宗を興した道元は、「正法眼蔵」に「自己を運びて萬法を修証するを迷いとす」「萬法進みて自己を修証するを悟りとす」との名言を遺しました。

自意識を主体として萬法(環境万物)をまとめようとすると自己矛盾の迷いに入る。

萬法(万物)のありのままを受け入れてそのなかでの自己を見るとき悟りとなる、と説いたのです。

著名な数学者・哲学者の岡潔は「自我は無明」と指摘しました。既成宗教はすべて我欲の無制限の発散に否定的です。

「自我の抑制」は人間最大の課題です。

大脳新皮質系からの神経伝達物質には抑制的物質が圧倒的に多く(代表的なものはγ‐アミノ酪酸)、これらの物質によって大脳基底核は投射先を常に抑制しています。

脳はいつもブレーキを少し踏み込んだ状態で機能しているのです。我欲の抑制は徳であり、道徳の基本です。

先年一〇六歳で天寿を全うされた曹洞宗永平寺の宮崎奕保貫首は

「人間は善き人にならなければならない。善き人とは欲を抑えるスベを体得している人である」

と説いてやみませんでした。

科学技術を使いこなす精神において東洋思想は西洋思想に反省を求めているのです。

3.感性(内省)と知性(外向)

人間の認知能には内省(introspect)と外向(extrospect)があります。

内省は感性的機能で古い脳(大脳辺縁系:『ヒトの脳の三層構造』参照)がつかさどり、「より善く生きる」力を発揮するために物象の中から「真・善・美」を感じ取り、内的価値観をつくります。

内なる神を描き、情熱を燃やし、道徳を思い、宗教・芸術等の精神文化をつくります。

外向は知性的機能で、新しい脳(大脳新皮質系:『ヒトの脳の三層構造』参照)が関与して「うまく生きる手段」を考えます。

言語を使い、因果関係・論理で自然現象を分析し、発明・発見をして自然科学、哲学を体系づけ、物質文明社会をつくり、政治を行います。

感性と知性の属性は極めて対照的です。

感性は測定、再現が困難で、観念的で、それ自体が目的を持たず、実利とは無縁であり、時空を超越して、時代が経っても変わりません。

知性は測定でき、再現性があり、論理的・実用的で、経済を生み、現世・現実的で時代とともに激しく変わります。

知性・感性どちらを重視するかといえば、現実の処世のためには知性をとるでしょう。知性は、処世のための効率・要領に役立ち、「うまく生きる手段」としては有用です。

一方、感性は処世のためには役に立ちそうにありませんが、「善く生きる力」の根源となります。

人は感性によって「真・善・美」を解し、儒教の本質である「仁・義・礼・知・信」を身につけて人格・品格を備えます。

友人であるアメリカの医学哲学者ステイシイ・デイ教授(WHO名誉教授)にこの感性・知性の概念を話したら、諸手を挙げて共鳴されたので、「それは英語では何というのか」と尋ねると、「感性・知性に対応する英語はないから、日本語で『Kansei,Chisei』と書けばよい。それぞれに最も近い英語とすれば『essence,ego』だろう」といいました。

彼はこの私の考えを、彼一流のブリティッシュ・イングリッシュで書いてくれました(文献参照)。

それはそれとして、昨今のような物質文明の世になると、知性偏重の度はますます強くなります。

これは生物学的にいうと、大脳の中の新しい脳(知性脳、大脳新皮質系)だけを使い、古い脳(感性脳、大脳辺縁系)を疎かにすることになります。

これは大脳の使い方をアンバランスにすることであり、その大脳の誤用が価値観を狂わせ、人類の未来を危険に導きます。

ではどうすればよいのでしょう。「感性と知性の調和」を図らねばなりません。それは、具体的には自我を無くすように努めることです。

先述の「スーパーシステム」の仕組みを人間は持っているので、自意識のない「無の境地」になれば自我がなくなり、当意即妙のアドリブで調和するように人間は創られていると確信しています。

 

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