好機自分から心を開いて、拒否されたらどうするか?
なぜ、「可愛気」が、欠点を救ってくれるのか?
第一の「こころの技法」においては、「心の中で自分の非を認める」という技法について語った。
そして、人間関係においては、表情や眼差し、仕草や身振り、態度や雰囲気などの「言葉以外のメッセージ」が、言葉以上に多くのことを伝えるために、ただ心の中で自分の非を認めるだけで、それが相手に伝わり、人間関係が好転していくことを語った。
しかし、人間関係において、相手と感情がぶつかったり、心が離れたりした後は、やはり、心の中で自分の非を認めるだけでなく、それを、直接、相手に伝えることができれば、人間関係は、大きく好転していく。
しかし、仮に、心の中で自分の非を認めるということができても、それを、すぐに、昨日、感情がぶつかり、心が離れた相手に伝えることは難しい。
やはり、まだ、自分の心の中のどこかに、「非を認めたくない」という思いもあり、また、「自分の非を認めても、相手が、それを受け容れてくれるだろうか」との不安もあるからだ。
では、どうするか?そうしたときに思い起こして頂きたいのが、第二の「こころの技法」、自分から声をかけ、目を合わせるである。
これも、若き日の著者の体験を語ろう。三〇歳で大学での研究者生活を離れ、民間企業に就職したばかりの頃のことである。
社内での企画会議などで、プロジェクトの企画の方向性や進め方などで、ときおり、同僚と意見が違ってしまうことがあった。
ときには、互いに若い人間同士、自分の意見にこだわり、議論が白熱し、言葉が高ぶり、最後には感情がぶつかってしまうこともあった。
そうしたときには、会議が終わった後は、相手の顔もあまり見たくない気持ちになり、夜、帰宅の道を歩みながらも、その会議でのやりとりが思い起こされ、不愉快な気分が心を占めることもあった。
そして、そのような日の翌日は、朝起きると、やはり、昨日の会議のことが心に浮かび、同僚とのやりとりに自己嫌悪を感じ、しばし不愉快な気分に浸されるのだが、不思議なことに、しばらくすると、あのY教授の言葉が、その弟子に対する温かい眼差しとともに、心に浮かんでくるのだった。
「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」すると、これも不思議なことに、体の奥深くで、自分の非を認める「可愛気のある心」、「しなやかな心」が動き出し、こんな気持ちが湧き上がってくるのだった。
「そうだな・・。同僚のA君も、A君なりに、このプロジェクトのことを考えて、ああ言っていたんだな・・。自分は、それを、もう少し理解してあげるべきだった・・」
そして、こうした気持ちになり、自分の「非」を認める気持ちになってくると、自然に、心の奥から、こんな思いが浮かんでくるのだった。
「そうだな・・。今日、会社に行って、A君と会ったら、こちらから声をかけよう。そして、昨日のことを謝ろう・・」そう思い定めて出社すると、廊下の向こうから、A君が歩いてくる。
そのA君、自分に気がつくと、顔を合わせるのも気まずそうに歩いてくる。こちらも、やはり、昨日のことがある。A君と目を合わせるのは、どこか気まずい。
それでも、彼が近づいてきたタイミングで、目を合わせることができなくとも、心の中から絞り出すように、声をかけた。
「A君・・・、昨日は、すまなかったな・・・。自分が、少し言い過ぎた・・」これは、著者の若き日の未熟さを示す、恥ずかしい話だが、こうした形で声をかけることが、当時の著者にとって、「こころの修行」であった。
人間であるかぎり、誰もが、必ず、「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えて生きている。
そうした人間同士が出会うとき、それが、家庭であっても、職場であっても、学校であっても、必ず、互いの感情がぶつかるときや、互いの心が離れるときがある。
ましてや、職場とは、互いが、一つの仕事を成し遂げようと懸命に取り組む場。そこでは、なおさら、互いの心の不和や不信、反目や反発、対立や衝突が生じる。
著者もまた、一人の未熟な人間として、そうした人間関係の苦労を味わってきた。
そして、おかしくなった人間関係を修復することや、そこから良き人間関係を築くということも、若き日に、その修行を積ませて頂いた。
先ほどの話を続けよう。
互いの「固まった心」が、瞬時に溶けるとき
職場で、同僚と意見がぶつかり、感情がぶつかり、心が離れたとき、こうして自分から声をかけるということは、若き日の著者の「こころの修行」であった。
しかし、「自分から声をかける」ということは、言葉にすれば簡単だが、始めはなかなかできない。
そもそも、「自分の非を認める」ことも、容易ではないのだが、一晩寝て、そうした心境になれたとして、「自分から声をかける」ことは、なかなか難しい。
だからこそ、それを「修行」と呼ぶのだが、著者の場合、その背中を押してくれたのが、先に述べた、恩師のY教授から言われた「君は可愛気が無い」という一言であった。
自分から声をかけることをためらうとき、必ずと言って良いほど、この言葉が心に浮かび、「そうだ、だからこそ、自分から声をかけよう」と思うことができた。
先ほど、「生涯、心の中で鳴り響く言葉」と言ったが、著者にとって、この言葉は、人間関係で壁に突き当たったとき、必ず、心の中で鳴り響き、ときに警鐘となり、ときに自分を励ましてくれる鐘の音となった。
そして、著者が、こうした形で、自分の非を認め、自分から詫びるということを「こころの修行」とした背景には、実は、Y教授の教えだけでなく、もう一つの教えがあった。
それは、母の教えである。母が、その後姿を通じて教えてくれた「しなやかな心」の大切さであった。
著者は、若き日に、ときおり、母と厳しく意見がぶつかり、心がぶつかることがあった。
いま振り返れば、それは、私の未熟さゆえの出来事であり、苦労をして自分を育ててくれた親に対する感謝の無い姿が原因であったのだが、母もまた、息子に対する深い愛情を持っていたがゆえに、人間として筋の通らないことには、毅然として厳しい言葉を語る人物であった。
当時、こうした形で、母と心がぶつかったとき、私の心の中では、「納得できない!」という気持ちが渦巻き、その不愉快な気分のまま外出し、しばらくして、その気分をもう一度、母にぶつけようと、外から電話をすることがあった。
当然のことながら、母も生身の人間、感情もある人間、息子の筋の通らない理屈や理不尽な言葉に、腹が立たなかったわけではないだろう。心が波立たなかったわけではないだろう。
しかし、こうした衝突の後、私が母に電話をすると、電話に出た母が、最初に口にするのは、必ず、次の一言であった。
「広志・・、すまなかったね・・」気骨もあり、矜持も持ち、聡明な母であった。この息子の語る筋の通らない理屈も、理不尽な言葉も、すべて分かっていたはずである。
しかし、母は、私から電話があったとき、必ず、自分から、「すまなかったね・・」と語った。自分に非が無いときでも、「すまなかったね」と語った。
そして、深い思いの込められた、この母の言葉を聞くと、私は、いつも、固まってしまった自分の心が、静かに溶けていくことを感じていた。私は、若き日に、こうした母の姿から、「しなやかな心」の大切さを学んだ。
たとえ「自分には非が無い」と思える出来事においても、自分から心を開き、相手に対して声をかけ、ときに、相手に謝ることのできる「しなやかな心」が、相手の心に静かに沁み込んでいくことを学んだ。
もとより、その母の姿を見て、すぐに、私が、そうした「しなやかな心」を持つことができたわけではない。その「しなやかな心」を行ずることができたわけではない。
しかし、その母の姿が、私自身の心の奥深くに「しなやかな心」の種を植え、それが、後に、小さな芽を吹き、少しずつ育っていったことは確かである。
そして、私は、実社会に出てから、この母の姿、「自分に非の無い出来事に対しても、自分にも非があると思って、真摯に受け止める心の姿勢」が、「引き受け」という「こころの技法」であることを学んだ。
この技法については、次の第三の「こころの技法」において語ろう。
すなわち、このY教授と母の言葉。
人生において、人間関係の壁に突き当たったとき、誰かと心がぶつかったり、離れたとき、いつも、心の奥から聞こえてきたのは、Y教授が語った「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」という言葉であり、母が語った「広志・・、すまなかったね・・」という言葉であった。
そして、このY教授の言葉と、母の言葉が、いつも、自分の背中を押し、自分を励ましてくれた。
そのお陰で、未熟な自分も、心がぶつかり、心が離れた相手に対して、「自分から声をかける」ということができたのかと思う。
しかし、こうして「自分から声をかける」ということができたとしても、最初は、なかなか、ぎこちない。特に、声をかけることができても、「自分から目を合わせる」ことができない。
昔から、互いに嫌っている人間関係や、決裂した人間関係を評して、「目も合わせない」という言葉が使われるが、だからこそ、人間関係を修復し、好転させていくとき、この「自分から目を合わせる」ということが重要になる。
なぜなら、「目は、口ほどに物を言い」という言葉があるように、たとえ言葉を交わさなくとも、「目を合わせる」ことができるだけで、こちらの心の中の思いは、不思議なほど相手に伝わるからである。
第一の技法において、人間同士のコミュニケーションの八割は、言葉以外のメッセージ、すなわち、表情や眼差し、仕草や身振り、態度や雰囲気などのメッセージで伝わると述べたが、なかでも、目を合わせたとき、実に多くのものが伝わる。
しかし、このとき大切なことは、「表情を作らない」ことであろう。
いくら、コミュニケーションの多くは、表情や眼差しで伝わるといっても、それは、「表情を作る」という意味ではない。むしろ、我々が行うべきは、「表情を作る」のではなく、「心の置き所を正す」ことであろう。
すなわち、心の中で「自分の非を認める」という思いや「相手に謝りたい」という思い、さらには、「相手と和解したい」という思いがあれば、それは、ごく自然に、眼差しとなり、表情となって伝わる。
決して、不自然に「表情を作る」必要はない。
では、人間関係がおかしくなったとき、心の中で自分の非を認め、自分から声をかけ、目を合わせることができたならば、何が起こるか?素晴らしいことが起こる。
例えば、先ほどの著者の体験。
廊下の向こうからやってくるA君に対して、ぎこちないながらも、こう語りかけた。
「A君・・、昨日は、すまなかったな・・。自分が、少し言い過ぎた・・」こうした瞬間には、不思議なことに、自分から声をかけると、自然に、目を合わせることができる。
そして、ためらいながらも、詫びる言葉が口を衝いて出る。
そして、こうして自分から声をかけ、謝ることができたとき、相手から、一度たりとも、こう言われたことは無い。「田坂、そうなんだよ!お前に問題があるんだよ!」一度たりとも、相手から、そう言われたことは無い。
いや、自分から声をかけ、謝ることができたとき、相手からは、必ずと言って良いほど、次のような言葉が返ってきた。「いや、田坂・・、俺こそ、少し言い過ぎたよ・・」その瞬間は、いつも素晴らしい瞬間であった。
その一言で、互いの固まっていた心が溶け、言葉にならない温かいものが通う、心に残る瞬間であった。
そして、著者は、職場における人間関係を通じて、こうした心に残る瞬間を、何度も体験させて頂いたが、そこで、人間の心というものについて、大切なことを、二つ、学ぶことができた。
一つは、こうして、自分の非を認め、自分から声をかけ、謝ることができたとき、ほとんどの場合、相手もまた、自分の非を認め、謝る姿を示すということ。
すなわち、しばしば「相手の姿は、自分の姿の鏡である」ということが言われるが、この体験を通じて、その言葉が真実であることを学んだ。
もう一つは、こうして、互いが和解する瞬間とは、ただ、人間関係が元に「修復」される瞬間ではなく、互いが、さらに深いところで結びつく「深化」の瞬間であるということ。
すなわち、互いの「小さなエゴ」がぶつかるという体験は、処し方を誤らなければ、互いの関係を、さらに深める好機であるということを学んだ。そして、この二つのことを学んだことによって、人生を歩むときの大切な覚悟を教えられた。
人とぶつからない人生、心が離れない人生が、良き人生ではない。人とぶつかり、心が離れ、なお、それを超えて、深く結びつく人生。それこそが、良き人生である。
心がぶつかったときこそ、「絆」を深める好機
いま、互いの「小さなエゴ」がぶつかるという体験は、互いの関係を、さらに深める好機である、と述べた。
では、なぜ、互いの「小さなエゴ」がぶつかる体験は、人間の関係を深めるのか?その理由を、人間の「深層意識」の動きの視点から考えてみよう。
そもそも、誰かと意見がぶつかり、感情がぶつかり、心が離れたとき、我々の「表層意識」の世界では、相手に対する批判や非難、反感や嫌悪などの感情が動いている。しかし、実は、その一方で、「深層意識」の世界では、次の二つの感情が動いている。
- 第一は、自分に対する嫌悪感(自己嫌悪)
- 第二は、相手に対する不安感(他者不安)
例えば、誰かと感情がぶつかったときには、表面的には、「彼は、どうしてあんな物の言い方しかできないんだ」や「彼女は、どうして、素直に受け止められないんだ」といった形で、相手の言葉や態度に対する「批判や非難の感情」が動いているが、実は、その心の奥深くでは、「どうして、彼の言葉で、つい感情的になってしまったのか・・」や「ああ、彼女の気持ちを考えて、言葉を選ぶべきだったのに・・」といった反省とともに、「自己嫌悪」の感情が動いている。
また、誰かと感情がぶつかったときには、表面的には、「彼は、もう許せない!」や「彼女は、顔も見たくない!」といった形で、相手に対する「反感や嫌悪の感情」が動いているが、実は、その心の奥深くでは、「彼が、どこかで、自分を批判しているのではないか・・」や「彼女は、誰かに、自分の悪口を言っているのではないか・・」といった「他者不安」と呼ぶべき感情が動いている。
我々が、他人の前で、誰かを厳しく批判や非難したり、辛辣な悪口や陰口を言ったとき、そのときは、溜飲が下がったような錯覚に陥るが、しばらくして、何かの「後味の悪さ」を感じる。
実は、この「後味の悪さ」の正体は、多くの場合、「深層意識」に生まれる、この「自己嫌悪」や「他者不安」に他ならない。
そして、我々の心の中にある、この「深層意識」の世界を理解するならば、誰かと感情がぶつかったり、心が離れたりした後、自分から相手に声をかけ、謝ることがなぜ大切か、その深い意味が分かるだろう。
それは、ある意味で、自分と相手の心の中にある「自己嫌悪」と「他者不安」を、同時に緩和・解消していくための営みでもある。
すなわち、まず、自分から「すまなかった」と言って相手に謝ることによって、我々は、「人間関係の修復」ということを超え、自分の心の奥深くにある「自己嫌悪」と「他者不安」を緩和・解消することができる。
同時に、こちらから「すまなかった」と謝ることによって、相手もまた、「自分こそ、すまなかった」と謝りやすくなる。
そして、そのことによって、相手もまた、心の奥深くにある「自己嫌悪」と「他者不安」を緩和・解消することができる。
分かり易く言えば、互いにぶつかったとき、相手も、自分と同様、「深層意識」の世界では、「自己嫌悪」の感情から、相手に謝りたいと思っている。
そして、「他者不安」の感情から、相手と和解したいと思っている。
だからこそ、互いにぶつかったとき、「自分から素直に謝る」ということができるならば、それは、我々が思っている以上に、互いを、心の深い所で結びつけるのである。
これが、互いの「小さなエゴ」がぶつかるという体験が、互いの関係をさらに深める理由であるが、「深層意識」の世界での心の動きという点では、もう一つの理由がある。
それは、ぶつかったあと、互いに心を開き、謝り、和解すると、「深層意識」の世界に「受容感覚」が生まれるからである。
すなわち、「相手が自分を受け容れてくれるという安心感」が生まれるからである。
なぜなら、人間同士、ぶつかる前は、いかに表面的に良好な関係を築いていても、心の深いところに、「相手は、自分の欠点が出たとき、それも含めて、受け容れてくれるだろうか?」との不安があるからである。
しかし、たとえ、互いの「小さなエゴ」がぶつかり、互いに心が離れ、相手を批判や非難し、心を閉ざしても、それでも、互いに心を開き、謝り、和解するという心のプロセスを辿ることができると、心の深いところに、「相手は、自分の欠点や未熟さも含めて、受け容れてくれた」という安心感が生まれ、「受容感覚」が生まれる。
そして、我々は、誰もが、心の奥深くで、自分自身の欠点や未熟さを知っており、それゆえ、心の深層で、相手や周りの人々に対して「自分の欠点や未熟さも含めて、認め、受け容れてほしい」という密かな願いを持っている。
互いにぶつかった後の和解に伴って生まれる「受容感覚」が、互いの人間関係を、さらに深いところで結びつけるのは、それが理由でもある。
ちなみに、世の中で語られる「家族の絆の強さ」と呼ばれるものの一つの大きな意味は、この「受容感覚」である。
すなわち、永い年月、一つの屋根の下に住み、生活を共にし、互いの人間としての欠点や未熟さをさらけ出し、「小さなエゴ」がぶつかり合う「家族」という存在。
それは、まさに、「家族は、自分の欠点や未熟さも含めて、受け容れてくれている」という意味で、本来、最も深い「受容感覚」を感じられる場に他ならない。
自分から心を開いて、拒否されたらどうするか?
しかし、こう述べてくると、読者から疑問の声が挙がるかもしれない。
「ぶつかった相手に対して、こちらから心を開いて語りかけ、それでも、相手の心が開かなかったときは、どうするのか?」たしかに、世の中には様々な人間関係がある。
すべての人間関係が、こちらから心を開けば、相手も心を開くとはかぎらない。現実には、相手の心が開かない場合もあるだろう。
そして、そうなったとき、かえって、こちらの心が傷つくことがあるかもしれない。
もし、そのことを恐れる読者がいるならば、著者は、「それでも、心を開くべき」と語るつもりはない。しかし、そうした読者のために、敢えて、三つの視点をアドバイスしておきたい。
第一は、人間の心は、我々が思っている以上に、しなやかだ、ということである。
先ほどのエピソードにおいて述べたように、著者は、これまでの人生において、「自分の非を認め、心を開き、ときに、率直に謝る」ということを、自分自身の成長のための「こころの修行」として、様々な場面で行ってきたが、これを行って、相手が心を開いてくれなかった例は、実は、数えるほどしかない。
その経験から学んだものは、我々が思っている以上に、人間の心は「しなやかさ」を持っているということである。
「もう、どうしようもない。手の打ちようが無い」と思われた、こじれた人間関係が、こちらの心を込めた一言で氷解した場面も、いくつも体験してきた。
第二は、自分の心を開くことで、何よりも、自分の心が救われる、ということである。
先ほど述べたように、誰かとぶつかったとき、我々の表面意識の世界では、相手を批判したり、非難する感情も生まれるが、実は、深層意識の世界では、「自己嫌悪」の感情や「他者不安」の感情が生まれ、密やかに、自分を苦しめている。
しかし、もし、我々が、自分の非を認め、心を開き、ときに、率直に謝るということができたならば、その「自己嫌悪」や「他者不安」の感情が薄らいでいき、心が救われていく。
第三は、相手が心を開いてくれなくとも、こちらの心は伝わっている、ということである。
人によっては、心のブロックが硬く、こちらが非を認め、心を開き、率直に謝っても、心を開いてくれないときがある。しかし、相手が、そうして表面的には拒絶しても、実は、こちらの心は相手に届いている。
こちらの非を認める思い、心を開こうとする気持ち、率直に謝る心は、相手に届いている。そして、そのことが、やはり、相手の深層意識にある、「自己嫌悪」や「他者不安」の感情を和らげていることも事実である。
そして、この三つのアドバイスに加え、もう一つ、大切なことを伝えておこう。
では、もし、我々が、「どうせ、相手は、心を開いてくれることはない」と思い、和解の努力をしなかったならば、何が起こるか?最悪の場合には、何もしなくとも、ますます関係が悪化していく。
それは、なぜか?
人間関係がこじれていく「本当の理由」
人間の心には、「自己正当化」の性質と、「自己防衛」の性質があるからだ。分かり易く説明しよう。
先ほども述べたように、誰かとぶつかったとき、我々の深層意識の世界では、「自己嫌悪」の感情や「他者不安」の感情が生まれ、それが、密やかに、自分を苦しめる。
このとき、その「自己嫌悪」や「他者不安」の感情を消していくための最も良い方法は、「相手と和解する」ということなのだが、しばしば、我々の心の中の「小さなエゴ」は、逆に向かう。
すなわち、その「自己嫌悪」の感情を消していくために、さらに相手の欠点や問題点を探し始めるのである。
そして、そのことによって、「ああ、自分があの人を批判し、非難したことは、間違っていないのだ」と、自分の姿を、無意識に正当化しようとするのである。
心理学の世界では、例えば、ある新車の魅力を語ったパンフレットを読みたがるのは、すでにその新車を買った人であり、そのパンフレットを読むことによって、「自分の選択は間違っていなかった」と思おうとすると言われているが、このように、人間の心には、自分の過去の選択や行為を「正当化」しようとする傾向がある。
そのため、誰かと感情がぶつかり、心が離れたとき、その自分の行為を「正当化」するために、無意識に、相手の欠点や問題点を探し始めてしまうのである。
また、我々は、心の深いところに、「相手が、どこかで、自分を批判しているのではないか・・」や「相手は、誰かに、自分の悪口を言っているのではないか・・」といった「他者不安」の感情を抱くと、無意識に防衛本能が働き、「自己防衛」に向かい、その相手に対して、ますます批判的になり、ますます攻撃的になっていく傾向がある。
これは、世の中で人間関係がこじれていくときに共通の心理的プロセスでもあるが、もし、我々が、「どうせ、相手は、心を開いてくれることはない」と思い、和解の努力をしなかったならば、最悪の場合には、こうした心理的プロセスによって、ますます関係が悪化していくこともあることを、深く理解しておく必要がある。
しかし、ここで、また、読者から疑問の声が挙がるかもしれない。
「相手が心を開いてくれないときの処し方は、分かったが、そもそも、自分自身が、自分の非を認め、心を開き、率直に謝るという気持ちになれないときは、どうすれば良いのか?」その疑問である。
この疑問に対しては、「そこを努力して、心を開くべきだ」といった精神論的な答えは意味がない。
むしろ、この疑問に答えるためには、我々の心の中の「小さなエゴ」について、もう少し深く考えてみる必要がある。次の第三の技法では、そのことを考えてみよう。
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