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第九章「自意識」と稽古で到達する「無の境地」

目次

1.自意識に縛られた現代人

自意識とは何でしょうか?繰り返しになりますが、自意識とは環境に対応している自分を見る目のことをいいます。

なぜ人間は自意識を持つように進化したのでしょうか。

自意識がなくても、人間以外の「体で生きる生物」は充分にうまく暮らしています。しかし「心で生きる生物」である人間には「自意識」が必要でした。

人間は自意識を持つことによって、自己をモデルにして他者の心をシミュレーションして推測することができるようになり、他者の理解を飛躍的に促進しました。

それは他者の心に共感を生み、道徳的感情の基盤をつくることになりましたが、その反面、「他者操作」も可能にして、他者を欺くという非道徳行為をもするようになりました。

つまり自意識は「両刃の剣」でもあるのです。

この自意識の持つ罠から逃れるために、人間は「道徳」という規範をつくって、人間らしく生きる努力をすることを神に誓いました。

一三世紀になると、西ヨーロッパで「ルネッサンス」が興り、神との対話は自然との対話に置き換えられ、自我を絶対化する近代哲学が語られるようになりました。

フランスの近代哲学の創始者であるデカルトは、「我思う、故に我あり」という言葉を残しました。デカルトは、すべてを疑っても、その疑っている自我が存在していることを疑うことはできないとして、自我を近代哲学の出発点としました。

いわば、人間が地球のすべての支配者であり、人間が自然を征服するのは当然である、という概念がつくられたのです。これが西洋流の考え方です。

近代哲学は自我を第一原理として採用しています。自我が世界の支配者となって自然を自我に従わせることを善とするのです。

人間以外の生物は、自然の摂理に従って生きてきましたが、人間はその自然に代わって、世界を支配しようとし始めたといえるかもしれません。それがルネサンスでした。

しかし人間は、神や自然のように無私でもなく、完全でもないので、不毛の葛藤に悩むことになりました。

近代文明に漂う、いい知れない「抑圧感」は、神や自然に代わって人間の自我が世界を支配できるのか、という迷いでもあるのです。

人間の内面の「欲望と抑制の闘い」で、「精神性」が問われているのです。

2.意識の下部構造としての「無意識」、「意識下」、「暗黙知」

学問とは、意識の産物であり、いわば「思索三昧」の世界のことともいえるでしょう。知性も道徳も意識の世界の産物です。意識に上らない事柄は考えることができません。

従って人間は、自分が意識的に考えていることが最重要だと思うようになり、意識した事柄だけを頼りにして物事を判断するようになりました。

しかしその「自意識」自体が「両刃の剣」ということになれば、どのような方向に考えを進めたらよいのでしょうか。

近年、脳神経科学の発展によって、意識に上って処理されている事柄の下には、意識下で処理されている膨大な情報があることがわかってきました。

そうした視点から見ると、理性の名の下に意識的に処理されている事柄などはほんの氷山の一角にすぎないのではないか、ということになります。

そういう経緯で「無意識」、「意識下」、「暗黙知」の重要性を初めて指摘したのがジークムント・フロイト(一八五六~一九三九)でした。

しかし人間は、自分の中で、自分のあずかり知らないところで自分の行動が決められているとなれば、不安が生ずるのは当然です。

また、科学は再現性、測定可能なる物を対象とすべきとの建前からすると、無意識の世界を学問の対象とすることには抵抗があったため、無意識の世界は過小評価されてきました。

ある脳生理学者によると、人間の感覚器官に入り込む情報量は一秒間に一一〇〇万ビットという膨大な量なのだそうです。

しかし、人間が一秒間に認識できる情報量はせいぜい四〇ビット以下、おそらく一六ビット程度と考えられるといいます。

ビットとは情報量の単位で二の冪数です。したがって一六ビットは二の一六乗=六五、四三六となります。

このように、間断なく入ってくる膨大な情報を、私たち人間は意識下、つまり無意識のうちに選別して、生きていくために必要不可欠な、ごく一部の情報を、意識として取り出しているというのです。

そのために人間は、「生きるために必要な価値観」を常時用意しておいて、次から次に入ってくる情報を瞬時に捌いているのです。

人間になる前の動物では、行動の本能は脳に遺伝的に刷り込まれていますが、人間の場合、価値観は生後の道徳教育によって、伝統的養育環境刺激の中で、何度も繰り返し訓練され、しつけられ、人格の中に取り込まれて、当意即妙に表現されるようになっているのです。

3.オイゲン・ヘリゲルが体得した弓の極意

オイゲン・ヘリゲルはドイツ人の哲学者です。大正時代に来日し、東北大学で五年間、教鞭に立ちました。

ヘリゲルは、日本滞在の機会を生かし、日本の精神を学びたいと考えて、弓道の名人・阿波研造に弟子入りしました。

ヘリゲルはそのときの様子をドイツに帰国後、『弓と禅』という本に著しました。

弓道とはご承知の通り、弓に矢をつがえて両腕で引き絞り、的を目がけて射るという武道ですが、その極意となると奥深いものがあります。

ヘリゲルは、阿波研造から、「目で狙うな、体で狙え」という指導を受け、最初はその意味がわからずに混乱しています。

師匠は、「弓を引き絞るのに、腕の力を抜け」といいます。そういわれても力を入れなければ弓を引き絞ることはできません。

しかし、弓を引き絞っているときの師匠の腕を触らせてもらうと、本当に力が入っておらず、柔らかかったのです。

そんなはずはないと思っても、事実であれば納得するほかありませんでした。阿波は、ヘリゲルに、呼吸の仕方からやり直すようにいうのです。

「息を吸い込んで、腹壁が適度に張るように息を穏やかに押し下げ、そこからできるだけゆっくりと一様に息を吐く。少し休んで、急に一息で空気を吸う」

「①弓を手に取り、②矢をつがえ、③弓を高く捧げ、④いっぱいに引き絞って満を持し、⑤矢を放つ」という一連の動作が、吸気によって始められ、押し下げられた息の停止で支えられ、呼気によって完成するのです。

ヘリゲルは、一年くらいでこうした動作をすることができるようになりました。すると次の難題が待っていました。それが「放れ」です。

「放れ」とは、弦を強くはさんでいる親指と人差し指・中指・薬指を放すことです。この「放れ」の瞬間に強い衝撃が生じ、ぐらついてしまうのです。「放れ」の動作が、せっかく精神を込めて準備したそれまでの動作を乱してしまうのです。

強くはさんでいる指を放すには意識が必要ですが、阿波は、「射手が的を射ることを意識していることが邪魔になっている」と指摘し、「その意識を取り除きなさい」というのです。

「そんなことができるのか」と思うものの、阿波はそれをやってのけています。

「意図を持ちながら、意図のないようにしなければならない」そんなことができるのだろうか、と呆然としていると、「機が熟するまで待て」と諭されました。

そうして、練習を重ねていたある時、ヘリゲルを遠くから眺めていた阿波が、「今できた!それだ!でかしたぞ、できた!」と声をかけてくれたのです。

ところが、ヘリゲルは「何ができたのか」「なぜできたのか」がわかりませんでした。

しかし、無意識のうちに、難事成就の時機がきたのでした。まもなく彼は、阿波によって免許皆伝とされたのです。

結局、これらは自分への執着との闘いであり、自分への執着を棄てることができるかどうかが差となっていたのです。

4.中島敦の『名人伝』

ここでもう一つ、面白い話を紹介したいと思います。天才的文学者・中島敦(一九〇九~一九四二)が著した『名人伝』の話です。

昔、中国の趙の国の邯鄲に住む紀昌という若者が、当代一流の弓術の名手・飛衛に入門しました。

飛衛は「まず瞬きをしないことを学びなさい」と命じ、紀昌はそれを二年間の練習でやりとげ、目に蜘蛛が巣をかけるまでになりました。

次に、飛衛は、「小さなものをずっと見つめて大きく見えるようになったら来なさい」と命じました。

紀昌は虱を髪の毛で結んで軒の下に吊るし、終日にらんでいたら、三か月もすると蚤の大きさに見え、さらに馬のような大きさに見えるようになりました。

飛衛は「でかした!」と膝をたたき、紀昌に射術の奥の手を余すところなく伝授し、紀昌はやがて師の飛衛をしのぐ名人になったのです。

紀昌は九年間、山にこもって修行し、街に降りてきました。人々は、彼の容貌が変わったのに驚きます。負けず嫌いの精悍な面魂は影をひそめ、何の表情もない愚者のような顔つきだったからです。

彼の来訪を受けた飛衛は紀昌を一目見てこう叫びました。

「これこそ天下の名人だ!我らの遠く及ぶものではない」邯鄲の人々は、天下一の名人・紀昌の妙技を見てみたいと期待に沸き返ったのですが、紀昌はまったくその期待に応えようとしません。

弓さえ手にとろうとしませんでした。その訳を尋ねた人に、紀昌はこう答えたのです。

「至言は言を去り、至射は射ることなし」

道理のわかる邯鄲の人たちは、その言葉に合点し、「弓をとらざる弓の名人」として紀昌を誇りとしたというのです。

5.私のライフル射撃競技での体験

私自身、ヘリゲルの『弓と禅』や中島敦の『名人伝』に著されたことに通じる経験があります。それはライフル射撃です。

射撃は三百メートル先の幅一メートルの畳一畳の十等分一の同心円の的を狙う競技です。

私は旧制福岡高校と九州大学医学部の学生のとき、ライフル射撃の国体に出場し、二年連続で全国優勝をしました。それはちょうど戦時中のことでした。あのころは三年間、ただひたすら、黙々と練習を続けました。

陸軍の実弾射撃場は日曜日しか開放されていなかったので、必然的に日曜日は射撃の練習日になり、旧制高校時代、日曜休日はありませんでした。

射撃競技では、銃身は両肘と肩の三点に抱えられて宙に浮かせておかねばなりません。引き金を引くときに、その意識が強いと、弾がうまく的に当たりません。

「意識して撃つな」「無意識で撃て」が射撃の要諦だったのです。

意識して撃つと、発射の反動で誘発される「肩突き」が狙いを狂わせてしまうのです。それは、ヘリゲルのいう弓道の極意とぴったり重なるのです。

闇夜に霜が降るごとく、無我の境地で徐々に銃把を握りしめていくのです。そして轟然たる発射音とともに、はっと我に返るのです。するとその瞬間にはすべてが終わっているのです。それはなんとも不思議な感覚です。

そうした射撃の魅力に惹かれて、黙々と稽古に励みました。

実は、全国優勝の前年の京都でのインターハイで、私は最下点をとったのです。それを反省して、それから私は据銃の練習だけを黙々と続け、的に当てることをまったく考えなくなりました。

据銃すれば、自然に引き金を引けるようになりました。射撃は、一分以内に五発を撃って、その合計点を競います。私が全国優勝したときの得点は五〇点満点の四四点でした。

一発目が満点の一〇点。二~四発目は少し左にずれて九点でした。五発目はそれを修正しようと意識したら、右にずれすぎて七点になってしまいました。

このように、当てようと思う気持ちが出ると駄目になるのです。一点のずれは的では約五センチ。長さ約六〇センチの銃身の先端ではほぼ〇・一ミリの誤差です。

しかし、このとき、狙った的は大きく見えていました。

6.日本の武道・芸道の「型」

柔道や剣道、茶道や華道といった日本の武道や芸道には、必ずといっていいほど「型」や「手本」があります。すべての動作や所作の基本・模範となる動きや構えです。

武道や芸道を習うということは、それぞれの「型」が身につくまで、同じ姿勢や動作や所作を何度も繰り返すことといってもいいでしょう。それには膨大な時間が必要です。

そうした地道な努力を続けることが苦手な人や、人と同じことをするのは面白くない、という人の場合、途中で投げ出してしまう人もいるでしょう。

しかし、ひとたび「型」が身につけば、そこから先に自在の世界が広がるのです。「型」が身につくというのは、意識をしなくても、その動作や所作をすることができるということです。

いわば「無意識」のうちに、勝手に体が動いているような状態です。「無心」で「自然体」の状態といえるでしょう。日本の武道や芸道では、そうした「型」を身につけるための修練を「稽古」と呼んできました。 

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