1.ヒトの大脳の発生、チンパンジーの脳からヒトの脳へ
約七〇〇万年前、哺乳類の一種の類人猿が霊長類に進化しました。
オランウータンは樹上で生活し、チンパンジーとゴリラは地上で生活するようになり、二足歩行して草や実を食べるのに手を使いました。
三五〇万年前ごろに猿人アウストラロピテクスが現れると、狩猟をするために空間認知をつかさどる頭頂連合野が発達しました。
脳の容積はチンパンジーとほぼ同じく五〇〇ミリリットル程度でしたが、約二〇〇万年前には原人ホモ・ハビリスが現れ、石器を使い始め、脳の容積が増加し始めました。
八〇万年前には北京原人やジャワ原人が現れ、脳の容積は一〇〇〇ミリリットル程度まで増加し、洞窟に住み、火を使い、料理をして、さらに言語を使うようになったと思われます。
現代人のホモ・サピエンスが現れたのは二〇万年前といわれ、脳の容積は一四〇〇~一五〇〇ミリリットルと実にチンパンジーの三倍にも及ぶ巨大脳となりました。
2.脳の構造と機能
脳は大脳と小脳に分けられます。
小脳は運動・平衡をつかさどるところと考えられていましたが、今ではその他に、学習の記憶を蓄える機能もあるとされています。
大脳は左右大脳半球とその間に挟まれている棒状の脳幹、その上部に位置する古い脳(大脳辺縁系)と、それを外側から取り囲んでいる新しい脳(大脳新皮質系)から成っています。
つまり、次の図のように三層構造です。
脳幹
延髄、橋、中脳で構成され、多数の神経核を持っています。
脳幹の中央を貫いて網様体と呼ばれる神経組織層が走っていますが、そこには脳幹網様体賦活系という多数の神経核が集合して、生命を維持するための情報を大脳皮質に伝えています。
延髄は脊髄のすぐ上にあり、呼吸、心拍、消化に関わる働きをします。
橋は隣の小脳と情報のやりとりをします。
視床
上行神経の最後の中継点が視床と呼ばれる部位で、視床、視床上部、視床下部をまとめて間脳といいます。
視床上部には松果体(睡眠ホルモンであるメラトニンを分泌する中枢)などがあります。
視床下部は体の恒常性を保つ自動調節機能(ホメオスタシス)をつかさどる中枢で、体温、脈
拍、血圧の自動調節の他、性欲、睡眠、飲水、体温調節、免疫調節などの生命維持に必要な機能を行うために、脳下垂体に各種ホルモンの分泌指令を出しています。
網膜から後頭野の第一次視野に通じる神経経路の途中には「外側膝状体」があります(『外側膝状体の仕組みと働き』参照)。
古い脳(大脳辺縁系)
新しい皮質の下部で脳幹を取り巻く部分を古い脳(大脳辺縁系)と呼びます。
ヒトの辺縁系は扁桃体、海馬、帯状回を含みます。
ここは生命維持にとって枢要なところで、母子間のコミュニケーションをはかり、遊びなど、人間性の調和をつかさどります。
この部位の失調は反社会的行動にもなりかねません。
哺乳・霊長類以前の動物では、生きるために必要な機能は脳幹にまとめられていましたが、哺乳類では、辺縁系を発達させて、新しい脳の「知性」の本能的部分を分担して、「知性の辺縁」の性格を持つようになりました。
扁桃体は情動・感情の中枢です。
情動は喜怒哀楽を表し、扁桃体が壊れると恐れを感じなくなり、また学習することもできなくなります。扁桃体の働きによって自分にとって好ましいものには近づき、好ましくないものからは逃げます。
接近、回避、攻撃の行動は、快・不快の感覚と密接な関係を持ち、生存のためには不可欠なものです。
本来、感覚は視床を経由して大脳新皮質に入り、認知して感情を表します。例えば、美しい物を見て感動するといったことです。
海馬は種の保存のためには極めて大切な記憶に関連するところです。記憶は海馬でつくられ、大脳皮質のいくつかの場所、特に側頭連合野に蓄えられます。帯状回は相手の表情を読み取り、言語以前のコミュニケーションの役割を果たします。
新しい脳(大脳新皮質系)
大脳半球の表面にはたくさんの溝があります。
特に大きい溝は外側面のほぼ中央を上から下に走る中心溝(ローランド溝)と前方から後方に走る外側溝(シルヴィウス溝)です。
これらの溝によって大脳半球は前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉に区画されています。両半球をつなぐ部分を脳梁といいますが、これは神経線維の束です。
脳の表面の五ミリメートルの灰白質の層は神経細胞の集団で、大脳新皮質と呼ばれます。その内部は白色の神経線維の束で、白質または髄質といいます。
髄質の中に灰白質の塊(核)が埋もれています。
これを基底核といい、運動下降線維の中継点で、脳幹の運動に関係する赤核、黒質、網様体に線維を送っています。
視床は上行性神経の中継点として大脳新皮質に情報を送ります。この大脳新皮質系は理性脳とも知性脳ともいわれます。人間が何かを行おうとするときに働く機能が「知性」です。
そのとき、古い脳(大脳辺縁系)の快・不快の情動感情と連絡を取り合い、「よく生きること」と、「うまく生きること」とを調和させ、しかも教育によって調整された道徳観にも悖ることはないかどうかの価値判断を適切に下して最終意思決定をするのです。
そのために、言語野、高次視覚野、側頭連合野、頭頂連合野は相互に連絡し合い、最後に前頭連合野は辺縁系と密に交信して、感性的、知性的、論理的、意識的、予測的、計画的、未来的に調和の取れた思考・自意識を目標に大脳新皮質系は機能するのです。
このために教育・道徳・経験という生後の環境刺激の影響を多分に受けて大脳の総合機能が発揮されるように仕組まれているのです。
3.古い脳の人間化
巨大脳において巨大化した部位、つまり新しい脳(大脳新皮質系)が人間化を受け持つところと考えられるでしょうが、そう単純ではありません。
後述するように、新しい脳(大脳新皮質系)は出生時には未熟で、青年期になってから本来の機能を発揮します。
古い脳(大脳辺縁系)は、出生時には、ヒトとして人間になる準備状態にあり、オオカミに育てられたらオオカミになり、人間に育てられたら人間になるという、極めて微妙な状態にあるのです。
換言すれば、子育てによってヒトが人間化(humanize)するところ、感性の中枢ともいえる場所で、脳の高次機能にも関係しているのではないかと推測されています。
前頭野の眼窩前頭皮質と名づけられているところは、情動をつかさどる「扁桃体」と対峙していて、ヒトの動物的情動を抑える役割を持つといわれています。
例えば幼児虐待を受けると扁桃体は「眼窩前頭皮質」からの情動の抑制がきかなくなり、成人して区暴性を現して凶悪犯罪をすることにもなりかねません。
古い脳は、人間においては、生後の養育環境で人間化されて感性の確信の場となります。新しい脳で受信された超高度の認知情報は古い脳で確信され、新しい脳の前頭連合野で感性として統合されます。
4.人間の大脳の特質
体の生物学から心の生物学へ
体は細胞単位で機能している生化学反応によるエネルギー獲得の仕組みですが、心は大脳の神経細胞のニューロン回路による認識獲得の仕組みです。
体は胎内でほぼ完成して出産しますが、心(脳)は出産時には未熟で、生後の環境刺激によって創られるように仕組まれています。
「心は一〇年の生理的早産」といわれています(『心は一〇年の生理的早産!』参照)。
体細胞は一定の周期で新しいものと交代しますが、ニューロン回路は原則として交代しません。一生変わらないのです。これは「人生は経験の積み重ね」だということを示しています。
認識獲得の機能は「自意識」という認識を生みました。
自意識は「自我」のために適正な判断ができないので、「道徳・教育」という自律規範のための営みが人間の生活の中に組み込まれました。
教育・道徳を必須とする「自我の人間」
生物とは成長と繁殖の機能を持つ組織体です。
脳を除く体においては、体の機能が恒常的にうまく働くように無意識のうちに自動調節されています。これをホメオスタシスといいます。
ところが心(脳)で生きる生物である人間の脳のホメオスタシスは、はじめは意識的に自我を抑制することによって、環境との調和がうまく調節されるように自分の脳を訓練します。これが教育です。
道徳が人格に身につけば、無意識で心のホメオスタシスが行われるようになります。つまり、自らに与える適時適切な刺激が教育で、道徳はその行動規範です。
教育も道徳も社会生活を送るための便宜というより、人間として生きるための生物学的必須条件なのです。こうして、「暖衣飽食して教なければ禽獣にひとし」という格言が生まれます。
よりよく生きる心のための「外側膝状体」
視床における視覚の中枢に「外側膝状体(corpusgeniculatumlaterale)と名づけられた部位があります。
プロ野球のバッターは高速で飛んでくるボールが止まって見えるといいます。弓道の熟練の射手は、的が大きく見えるといいます。
訓練・修行を重ねると、感覚は増幅されると同時に、こうありたいと一途に思い続けると、脳はそれが現実化するようにバーチャル化してくれるのです。
人間は稽古・訓練によって、自らの大脳の機能をどこまでも高めることができます。形而下的なものを形而上に昇華することさえできるのです。ここに「人間性の尊厳」の生物学的な意味をうかがうことができます。
ヒトの脳から人間の脳へ
人間は強く望んで、反復の修行・稽古に打ち込むと、脳はその目的が成就するように自動調節してくれます。修行・稽古とは認識の変容を誘導する営みかもしれません。
万物の中で、人間だけに賦与された「自意識」、そこに現れる「自我」「傲慢」を自分で抑えて自律しなければならないように人間は創られているのです。
その自律の手段として「教育・道徳という智慧」を人間の理性は創ったのです。
脳の仕組みにはこの智慧の仕組みが含まれているのです。
「ヒトの脳」と「人間の脳」は同じではありません。「ヒトの脳」は「進化の系統発生」の姿です。「ヒトの脳」を教育・道徳によって「人間の脳」にまで育てるところに人間存在の意味があるのです。これが「人間の生物学」です。
この生物学の前に我々は襟を正さざるをえません。
マクリーンの息念の法
アメリカの脳科学者ポール・マクリーンの著作『三つの脳の進化』の中に、「息念の法」という記載があります。
まず、「握りこぶし」をつくり、親指を揃える形で両こぶしを合わせます。
親指の前方が前頭、付け根が後頭、親指や手の甲の外から見えるところが新しい脳(大脳新皮質系)で、握って折り込んだ四本の指の部分が古い脳(大脳辺縁系)、四本の指が隠れて外からのぞけないところが大脳基底核です。
マクリーンは次の所作を「息念の法」といっています。
息をできるだけゆっくり吐きながら、新しい脳から古い脳に意識を沈め人類の歴史を考えます。そして息を全部吐いたら、今度は息をゆっくり吸い上げながら、宇宙の中に生かされている自分を思い浮かべます。
5.ニューロン回路の驚異
ニューロン回路は環境刺激で発芽する
脳神経細胞は元来丸っこいものですが、環境から刺激が来ると軸索という突起が伸びて発芽して、隣の神経細胞とシナプスという接点で連絡してニューロン回路をつくります。
ニューロンとは軸索を出した神経細胞のことです。
脳の機能はニューロン回路による軸索内のイオンの移動と、シナプスでの神経伝達物質化学反応の共同作業、つまり電気化学現象の仕組みです。
ニューロンは三〇〇億とも五〇〇億ともいわれる膨大な数で、一個のニューロンは数千個のシナプスを持つと考えられるので、仮に一〇〇〇億のニューロンがあれば、一〇の一四乗の一〇〇兆個のシナプスで機能していることになります。
「ヒトは人によって人になる」ように仕組まれています。
ところが、刺激には人間になるために「良い刺激」と「悪い刺激」があるので、良い刺激を与え、悪いものを避けるように留意することが子育ての要点です。そして、生後三歳までの期間の刺激が一生を左右することになるのです。
物質から精神が生まれた!
ニューロンは物質から出来ているので、精神・心は物質から出来ているということになります。
ニューロン、シナプスの数は膨大なものなので、「量は質を変えるのか」という問題にも逢着します。
コンラート・ローレンツ(一九七三年ノーベル賞受賞の動物行動学者)は彼の友人ハッセンシュタインが行った説明を次のように紹介しています。
「ここに電池があり、一定の電圧がかかっている単純な電気回路を想定してみます。
この電極の間に誘導コイルを入れてスイッチを入れると、自己誘導のために、最初は大きな抵抗を示し、電極間の電圧はそのままだが、自己誘導が済めば電圧は次第にゼロに下がります。
次に誘導コイルの代わりに、電極間にコンデンサーを入れてスイッチを入れると、最初は電圧はコンデンサーに吸収されてゼロになるが、コンデンサーが充電されるに従って電圧は電池のそれに近づいていきます。
そこで誘導コイルとコンデンサーとを直列につなぎスイッチを入れると電気振動が起こります。電気振動は条件次第では空間を伝播します。電気振動の原理を知らない者が見たら、何が起こったのかと驚愕そのものでしょう」
ニューロン回路は電気抵抗とコンデンサーの複雑な組み合わせと見ることができるので、微妙な電気振動現象が起こる可能性があります。
精神現象に特別な神秘的概念を入れなくても、精神・心は物質から生まれたという飛躍性を説明することはできるかもしれないという、一つの考え方を紹介した次第です。
妊娠中の脳細胞発芽の準備
妊娠六か月のころ、胎児の脳神経細胞数はその子の一生で最大多数となります。
脳は丸っこい脳細胞がギッシリ詰まった状態となりますが、その後一定の割合で生理的細胞死(アポトーシス)という仕組みで脳細胞は減少を続けて出生を迎えます、すなわち、脳細胞は「細胞過多」の状態から、「細胞死」によって「間引き」で鬆をつくります。
この鬆は、神経細胞のニューロン化に必要な空間の準備のためのもので、自然の仕組みの用意周到さには驚くばかりです。
心は一〇年の生理的早産!
赤ん坊の大脳の表面の神経細胞はまだほとんどニューロン化されておらず、すなわち赤ん坊の心は眠っていますが、この状態は生後一変します。
養育環境の刺激を受けてニューロン化が進み、三歳ごろには大人の約八〇%、一〇歳ごろには漸近線的に一〇〇%に近づきます。
子育ては三歳までが大切といわれているのはこのことです。乳幼児では片時も油断なく、注意深く適切な刺激を与えてニューロン化を促さなければなりません。
三歳ごろになると、生得性の感性が目覚めて内部世界ができ、価値判断の基本ができるようになるので、四歳ごろからの外部世界に接触しての行動を見て、人間になるための躾・訓練を施して人格の基礎をつくります。
この幼児期をつかさどっているのが古い脳(大脳辺縁系)です。新しい脳(大脳新皮質系)は思春期のころから機能し始めます。
これが心の個体発生の姿です。では体の個体発生の仕組みはどうなっているでしょうか。体は母親の胎内でほぼ完成して出生します。赤ん坊の体の仕組みは大人のそれとほぼ同じです。
ですから、体は胎内で完成して生まれてくるのに対して、心は一〇年の生理的早産だといえるのです。
しかも、さらに注目すべきことは、生後の体の諸臓器の機能の働きや調整すべては無意識のもとで行われます。
もし体のことを意識したとしたらそれは病気のときです。ところが心の成熟は明確な意識のもとで行われなければなりません。このことは子育て・教育を反省する上で極めて重要なことです。
体は無意識のうちにスクスクと成長するので、心もそうだろうと思い込み、子どもの自由にさせる「子ども中心的育児法」はとんでもない間違いです。
これは後述します。
子育ての第一歩は「この子を人間に育てなければならないとの厳しい覚悟とそれに基づく躾」から始まるのです。
脳は経験を創造する
体細胞は一定の周期で入れ替わり、増殖・再生しますが、脳神経細胞は原則として増殖しません。
脳細胞は発芽するための存在なので、発芽しなければ死滅します。また植物の種子のように永く冬眠することもできません。
従って人生の要諦は「経験の積み重ね」です。経験を生かして、次の経験の踏み台にすれば、豊かな人生が期待できます。
神経細胞は増殖再生しませんが、シナプスのつなぎ替えは可能です。強く発心し、訓練を重ねれば可能なのです。これを「脳の可塑性」といいます。
人間は自分の経験を基にして、よりよく生きる智慧を生み出します。時空を超越して、大自然と一体になろうとする趨性を持ちます。
訓練によって、ニューロン回路がバラバラにならないで一定の方向性を保つように修練に努めます。それをコヒーレンス(coherence)といいます。
心身統一、念力、求道心、隠徳、静動一致、不動心、無の境地などの一連の東洋的修練の概念はコヒーレンスの姿です。よき経験と、一点に向けてのコヒーレンスの訓練が創造を生み出すのです。
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