なぜ、「自分の非」を認められないのか?
日々の人間関係の中で人間を磨いていく、第三の「こころの技法」は、心の中の「小さなエゴ」を見つめるである。
なぜなら、第一の技法で、「心の中で自分の非を認める」という技法を述べたが、我々の心は、しばしば、「自分の非を認められない」という状況になるからである。
そして、その原因は、我々の心の中にある「小さなエゴ」が生み出している。
では、なぜ、我々は、自分の非を認められないのか?なぜ、我々の心の中の「小さなエゴ」が、その原因なのか?例えば、職場のリーダーA君が、ある仕事で大きなミスをする。
誰が見ても、彼の責任である。
A君自身も、それが分かっている。
しかし、上司から「どうして、こんなミスが起こったんだ?」と聞かれたとき、「自分の確認ミスです」と正直に言えない。
つい、「自分の確認ミスもあると思いますが、私もリーダーとしての仕事で忙しいので、サブリーダーのB君も、気がついていたら、教えてくれれば良かったのにと思います」と言ってしまう。
その言葉を上司から聞いたB君、A君への不信感を抱き、一緒に仕事をしたくないと言い出す。昨日から、職場で目も合わせなくなっている。
このA君、なぜ、ついB君に責任転嫁をしてしまったのか。A君自身、その理由を、本当は分かっている。自分の非を認めると、上司からの評価が下がる。
自分が無能な人間だと思われたくない。職場のメンバーの前で顔が立たない。そして、このミスの責任を認めてしまうと、自分に自信が無くなる。自分が価値の無い人間のように思えてしまう・・。
例えば、町内会に出席したC氏、今度の祭りの運営について、D氏と意見がぶつかる。
最初は、穏やかに議論していたのが、D氏のささいな一言で、プライドを傷つけられたように感じ、つい議論が熱くなり、言葉が激しくなってしまう。
相手のD氏も、こちらの言葉でプライドを傷つけられ、興奮してきて、最後は、言い合いになってしまう。他の出席者が仲裁に入り、その場は収まるが、このC氏、家に帰ってからも、憤懣は収まらない。
家族に対して、「Dは、偉そうに物を言う」「祭りのことを、何も分かっていない」「彼は、すぐに感情的になる」と批判する。
しかし、C氏は、心の片隅で思っている。
「なぜ、あの一言で、自分こそ感情的になってしまったのか・・」「たしかに、D氏の言うことも一理あるのだが・・」「やはり、自分も、少し言い過ぎた・・・」。
けれども、C氏、その自分の非を認められない。自分にも面子がある。D氏に、見下されたくない。そして、町内会のメンバーからの評判を落としたくない・・。
このA君やC氏の例に示したように、我々が、自分の非を認められないときというのは、ほとんどの場合、心の中で「小さなエゴ」が動いている。
A君の例で言えば、「上司からの評価を下げたくない」「自分が無能な人間だと思われたくない」「職場のメンバーの前で顔が立たない」「自分に自信が無くなる」「自分が価値の無い人間のように思いたくない」といった思い。
C氏の例で言えば、「自分にも面子がある」「D氏に、見下されたくない」「町内会のメンバーからの評判を落としたくない」といった思い。
そうした思いは、いずれも、心の中の「小さなエゴ」の動きの現れであるが、この「小さなエゴ」は、我々の心の奥底で、いつも、「自分は正しい!」「自分は悪くない!」「自分は優れている!」「自分に欠点は無い!」と叫び、「自分は変わりたくない!」「自分はこのままで良い!」と叫んでいる。
そして、それが、いつも、自分の非や欠点や未熟さを見つめ、認めることを拒む。
そして、我々の中の「小さなエゴ」は、自分の非や欠点や未熟さを認めざるを得ない状況になると、誰か他人に責任を転嫁することや、他人の非や欠点や未熟さをあげつらうことで、現実の自分の姿を直視することから逃れようとする。
「小さなエゴ」と「大きなエゴ」の目に見えない戦い
しかし、我々の心の中には、こうした性質を持つ「小さなエゴ」がある一方、「大きなエゴ」と呼ぶべきものもある。
この「大きなエゴ」は、「小さなエゴ」とは逆に、「いまの自分を変え、さらに成長したい」「いまの自分よりも、さらに成熟した人間になりたい」と願っている。
すなわち、我々が、自分の非を認めることができないときとは、自分の心の中で、「小さなエゴ」の「自分は正しい!」「自分は優れている!」「自分は変わりたくない!」という声が「大きなエゴ」の声に勝るときであり、逆に、素直に自分の非を認めることができるときとは、「大きなエゴ」の「自分の至らぬところを認め、さらに成長していこう」「この未熟さを超え、人間として、さらに成熟していこう」という声が、「小さなエゴ」の声に勝るときである。
実は、この「小さなエゴ」と「大きなエゴ」は、いつも、我々の心の中で「目に見えない戦い」をしているのだが、この戦いが表面に出てくるのは、特に、他人から「耳を傾けるべき批判」、しかし、「耳の痛い批判」をされたときである。
その批判を、どう受け止めるか?その批判に、どう処するか?そこに、我々の心の中の「小さなエゴ」と「大きなエゴ」の姿が、如実に現れる。
例えば、著者は仕事柄、永年、色々な経営者に出会ってきたが、ある年齢に達し、企業経営において優れた業績を残してきた経営者でも、その心の中には、やはり「小さなエゴ」があり、それが、ときに「大きなエゴ」との目に見えない戦いをする瞬間がある。
ある中小企業の経営者は、社外の人間から、経営者としての課題を指摘されたとき、「そんなことはありませんよ!」と言下に否定した。
その瞬間の「感情的な反発」に近い心の動きを見ると、それが耳の痛い指摘であったことは理解できるが、残念ながら、その瞬間の経営者の心は、「私は間違っていない!」と叫ぶ「小さなエゴ」の声に占められていた。
また、あるベンチャー企業の経営者は、やはり社外の人間から、経営における問題点を指摘されたとき、一瞬、納得できないという表情をしたが、直後に、心の中に別の人格が現れ、冷静に「そうかもしれませんね・・」と言った。
指摘された瞬間には、心の中で、「小さなエゴ」が動いたが、すぐに、「この話は、自分の経営者としての成長のために、一度、素直に受け止めておこう」という「大きなエゴ」が前に出てきた瞬間であった。
そして、ある大企業の経営者は、経営幹部との合宿で、敢えて幹部全員から、自分の経営トップとしての問題点を指摘してもらった。
それに対して、幹部諸氏は、率直に、忌憚の無い意見を次々に述べたが、最後に、その経営者、「いやあ、実に耳の痛いことを言ってくれた!冷たいシャワーを浴びた心境だよ。目が覚めた!」と苦笑しながらも、それらの言葉を正面から受け止めていた。
その表情は、心の中の「小さなエゴ」が、無理に謙虚さを装っている姿ではなく、経営者として成長していこうという「大きなエゴ」が勝った姿であった。
もとより、これは、経営者やマネジャーだけではない。
新入社員であろうとも、学生であろうとも、主婦であろうとも、老人であろうとも、人間であるならば、誰であれ、その心の中には、こうした「小さなエゴ」と「大きなエゴ」の目に見えない戦いがある。
そして、この三人の経営者の姿に示されるように、心の中の「大きなエゴ」の声に従って動く人物からは、人間としての「謙虚さ」が伝わってくるが、逆に、心の中の「小さなエゴ」の声に支配される人物からは、しばしば、「傲慢さ」と呼ぶべきものが伝わってくる。
それは、なぜだろうか?
自分に本当の自信がないと、謙虚になれない
かつて、臨床心理学の河合隼雄氏と対談をしたとき、話題が「謙虚さ」ということに及んだが、そのとき、河合氏が語った言葉が、心に残っている。
「人間、自分に本当の自信が無いと、謙虚になれないんですよ」この言葉を聞くと、すぐに、「それは、逆ではないか?」と感じる読者もいるだろう。
「人は、自分に自信が無いから、謙虚になるのではないか?」「人は、自分に自信がつくと、傲慢になっていくのではないか?」しかし、実は、そうではない。
この河合氏の指摘する通り、人間というものは、自分に本当の自信が無いと、謙虚になれない。
著者が過去に出会ってきた様々な人物を振り返ってみても、この河合氏の指摘は、まさにその通り。
たしかに、「謙虚さ」を身につけた人物を見ていると、その穏やかな人柄の奥から「静かな自信」とでも呼ぶべきものが伝わってくる。
ただし、ここで述べる「謙虚さ」とは、ただ表面的に「謙虚さ」を装って振る舞うことではない。
真の「謙虚さ」とは、まさに、「自分の非や欠点や未熟さを、素直に認められる」ということであり、その非や欠点や未熟さを、一つ一つ克服しながら成長していこうとする姿勢のことである。
先ほど紹介した三人の経営者を例にとれば、三人目の経営者は、まさに、その「謙虚さ」を持った人物であろう。
逆に、一人目の経営者は、自分に「本当の自信」を持たないがゆえに、謙虚に相手の意見に耳を傾けることができない人物の姿であろう。
ただ、こう述べると、やはり読者から疑問の声が挙がるだろう。
「しかし、その経営者は、企業経営においては、優れた業績を残してきた経営者ではないか?それならば、本当の自信を持っているのではないか?」
「競争に勝つ」ことでは得られない「本当の自信」
しかし、実は、そうではない。
傍から見ていると、それなりの業績を挙げてきた経営者でも、その内面に「本当の自信」を持たない人物は、決して珍しくない。
それは、なぜか?その経営者が、「競争」に勝つことによって「自信」を得ようとしてきたからである。しかし、「本当の自信」とは、人との「競争」に勝つことによって得ることはできない。
なぜなら、「競争」というものは、一つの競争に勝っても、必ず、次の競争が待っているからだ。
それゆえ、一つの競争において勝者となっても、得られるものは、その瞬間の「一時的で擬似的な自信」に過ぎず、むしろ心の奥深くに広がるのは、次の競争に負けるのではないかとの「不安」だからである。
あるベンチャー企業の経営者は、激しい市場競争の中で企業を率いているが、しばしば、社員に対して「俺は負けない!」と強気の発言をする。
その姿を見ていると、むしろ、その経営者の内面の「自信の無さ」と「不安」が伝わってくる。そして、それは、怖いことに、社員の深層意識にも伝わっていく。
そもそも、「本当の自信」を持つ人間は、「俺は負けない!」といったことを口にしない。競争の勝ち負けで、自分という人間の価値が決まると思っていないからである。
しかし、世の中には、競争に勝つことによって、自分が「価値ある人間」であることを証明しようとする人が少なくない。
だが、改めて言うまでもなく、人生における「人間の価値」とは、競争での勝敗とは全く違う次元のものである。
それは、市場競争の勝者となった経営者が、企業倫理に反することを行い、スポーツ競技で勝者となった選手が、社会倫理に反する行為に手を染める姿からも理解できることであろう。
そして、この「本当の自信」の欠如は、決して、経営者にかぎったことではない。
例えば、世の中を見渡すと、見事なほどの学歴を持っている人が、「本当の自信」を身につけていないという、不思議な姿が目につく。
それは、立派な学歴を持ち、ある年齢に達し、ある社会的地位に立って、なお、その身体から「傲慢さ」を滲ませている人物である。
河合隼雄氏が述べているように、人間というものは、自分に「本当の自信」が無ければ、「謙虚」になれない。
言葉を換えれば、人間というものは、「本当の自信」を持っているならば、自然に「謙虚さ」が醸し出されてくる。
逆に、ある年齢と社会的地位に達して、なお、「傲慢さ」を滲ませている人物は、その内面において、「本当の自信」を身につけていないのであろう。
では、なぜ、見事なほどの学歴を持っている人が、その内面に「本当の自信」を身につけていないのか?その「自信」から生まれる「謙虚さ」を身につけていないのか?それは、この国においては、「高学歴」というものが、「競争」に勝つことによって得られるものだからであろう。
改めて言うまでもなく、我が国において「学歴」というものは、激しい受験競争を勝ち抜いて獲得されるものであるため、どれほど、その競争に勝ち続けても、常に、さらに上位の競争に巻き込まれ、常に、他者との比較の世界に置かれ続ける。
そのため、常に「敗者となる不安」が、心の奥深くに広がり、決して「本当の自信」は得られない。
例えば、受験競争に勝ち抜いて有名大学に入っても、その大学での成績の競争がある。その競争に勝ち抜いて、仮に中央官庁に就職しても、官庁間の序列がある。主力官庁に就職しても、その中で、昇進を巡っての競争がある。
そうした「競争」の世界を歩むかぎり、そして、その「競争」に勝つことを自分の価値と考えているかぎり、競争に敗れることの「不安」と、競争に敗れたときの「劣等感」を味わうことはあっても、「本当の自信」と「真の謙虚さ」は、決して身につかない。
むしろ、その見事な学歴や経歴にもかかわらず、心の奥深くに「密やかな劣等感」を持ちながら、周りに対しては、人の心を遠ざける「無意識の傲慢さ」を滲ませる、奇妙な人物が生まれてくるだけであろう。
では、どうすれば「本当の自信」を身につけることができるのか?そのことを論じる前に、もう一つ、大切なことを語っておこう。
自分が本当に強くないと、感謝ができない
先ほど述べた、河合隼雄氏との対談において、河合氏は、「人間、自分に本当の自信が無いと、謙虚になれないんですね」という言葉に続いて、もう一つ、心に残る言葉を語った。
「人間、自分に本当の強さが無いと、感謝ができないんですね」これもまた、その通り。もとより、ただ「言葉」だけの感謝であれば、誰でもできる。日々、誰でも行っている。
自分のために何かをしてくれた人を目の前にして、「有り難うございます」と言う光景は、世に溢れている。
しかし、こうした言葉の背後に、本当に「感謝の気持ち」があるかと言えば、ただ「儀礼」として、反射的にそう語っている場合が大半であろう。
しかし、もし、目の前にその人がいないとき、一人、心の中で、その人に感謝できるとすれば、それが「本当の感謝」に他ならない。
例えば、長い結婚生活において、誰もが、何がしか、伴侶に対して、「ああして欲しい」「こうしてくれたら」という不満を抱いているだろう。
しかし、会社からの帰り道、一人、自宅に向かいながら、心の中で伴侶に対して、「ああ、いつも、自分を支えてくれて有り難う・・」と思えるとすれば、それは、「本当の感謝」であり、まさに河合氏の言う通り、その人の「心の強さ」の現れであろう。
たしかに、我々は、心が強くなければ、もしくは、心が弱っているときは、相手に対して「こうして欲しい」「なぜ、こうしてくれないのか」といった要求や不満の思いを抱くだけで、その相手に対して感謝の思いを抱くことはできない。
ある小さな企業の経営者は、朝起きたとき、心の中で、社員全員の顔を一人ひとり思い浮かべながら、「A君、有り難う」「Bさん、有り難う」との言葉を唱え、感謝の思いを抱くという。
この経営者は、「心の強さ」を持っている人物であろう。
たしかに、誰といえども、経営が苦しいとき、職場の雰囲気が悪くなっているとき、朝起きた瞬間に、社員のことを思い出し、「A君は、どうして、こうなんだ」「Bさんには、もっとこうして欲しいのに」という思いが浮かぶこともあるだろう。
しかし、その思いが浮かんだ瞬間に、その思いを振り払うように、たとえ数十秒でもよい、社員一人ひとりの顔を思い浮かべながら、心の中で、感謝の言葉を唱え、感謝の思いを抱くことができるならば、それは、見事な「心の強さ」であろう。そして、人間の心とは不思議なもの。
その数十秒、心の中で感謝の言葉を唱えた後、「A君は、どうして、こうなんだろう・・」「Bさんには、もっとこうして欲しいが・・」という思いに戻るならば、そのときの心境は、朝起きた瞬間の心境とは、全く違っている。
これは、「小さな企業の経営者」だけでなく、「小さな職場のマネジャー」「小さな組織のリーダー」にとっても、同様の真実であろう。
そして、実は、我が国には、「大企業の経営者」や「大組織のリーダー」にも、同様の感謝の行を求める言葉がある。
この日本という国に、永く伝わる言葉である。
「千人の頭となる人物は、千人に頭を垂れることができなければならぬ」これは、「頭」という字を二回使った格言であるが、日本において、リーダーを務める立場の人間ならば、誰もが心に刻むべき言葉であろう。
どうすれば、本当の自信と強さが身につくのか?
しかし、ここまで読まれて、読者は、一つの疑問を持たれたのではないだろうか?「もし、自分に『本当の自信』が無ければ、謙虚になれないならば、その『本当の自信』は、どのようにして身につければよいのか?」「もし、自分に『本当の強さ』が無ければ、感謝ができないならば、その『本当の強さ』は、どのようにして身につければよいのか?」その疑問である。
もとより、この問いに対して、安易な答えは無いが、一つ、大切なことを述べておこう。それは、この言葉は、「逆もまた真実である」ということである。
すなわち、人間、「謙虚さ」の修行を続けていると、自然に「本当の自信」が身についてくる。人間、「感謝」の修行を続けていると、自然に「本当の強さ」が身についてくる。
例えば、日々の仕事や生活において、「謙虚さ」の一つの表れである「自分の非を認める」という修行を続けていると、自然に「静かな自信」と呼ぶべきものが身についていく。
また、先ほど紹介した小さな企業の経営者のように、経営が苦しいときも、職場の雰囲気が悪いときも、朝起きた後、心の中で、社員一人ひとりに「感謝する」という修行を続けていくと、自然に「静かな強さ」が身についていく。
そして、実は、この二つの修行を兼ねたものとして、一つの優れた奥深い修行があり、「こころの技法」がある。
では、それは、どのような修行であり、「こころの技法」か?やはり、著者の若き時代のエピソードを紹介しよう。上司から、大切なことを学んだエピソードである。
本当の強さとは、「引き受け」ができること
著者が企業に就職し、新入社員として働き始めた頃のことである。あるとき、一人の上司から、食事に誘われた。
レストランで楽しく時を過ごし、食事を終え、最後のコーヒーを飲んでいるとき、その物静かな上司が、ふと、独り言のように、語り始めた。
「毎日、会社で色々な問題にぶつかって、苦労するよ。そのときは、会社の方針に原因があると思ったり、周りの誰かに責任があると思って、腹を立てたりもするのだけれど、家に帰って、一人で静かに考えていると、いつも、一つの結論にたどり着くのだね。すべては、自分に原因がある。そのことに気がつくのだね・・」
その言葉を聞いたとき、それは、上司が仕事の苦労を述懐しているのかと思ったのだが、帰途につき、一人、夜道を歩いていると、ふと、その言葉が心に蘇ってきた。
そして、気がついた。
あの上司は、自らを語る姿を通して、若く未熟な一人の人間に、大切なことを教えてくれていたのであった。
「引き受け」心の中で、すべてを、自分自身の責任として、引き受けること。
その上司は、当時、プロジェクトのトラブルで色々と苦労し、周囲に対して、やり場の無い不満を心に抱いていた私に、その心の姿勢の大切さを、そっと婉曲に教えてくれたのであった。
もとより、人生において問題に直面したとき、現実的には、誰か他人の責任を問うこともあるだろう。法律的には、明らかに他の人間の責任が問われることもあるだろう。
しかし、その場合においても、心の中で、「自分に責任があったのではないか?」「自分に問われていることがあるのではないか?」と問うこと、それが、この「引き受け」という心の姿勢である。
たしかに、この「引き受け」という心の姿勢で処することは、決して容易ではない。
しかし、もし、我々が、その心の姿勢を大切にして人生の問題に処していくならば、我々は、確実に、一人の職業人として、一人の人間として、成長できる。逆に、我々が成長の壁に突き当たるときは、この「引き受け」ができない。
仕事や生活において問題に直面したとき、常に、自分以外の誰かに、そして、自分以外の何かに、その原因を求めようとしてしまう。
その背後には、すでに述べたように、我々の心の中の「小さなエゴ」の叫びがある。それは、常に、我々の心の奥深くで、「自分は、悪くない!」「自分は、間違っていない!」と叫び続けている。
しかし、もし、我々が、人生を歩むとき、この「引き受け」という心の姿勢を大切に、道を歩むならば、すべての問題を、自分の成長の糧としていけるだけでなく、いつか、自分が大切なものを身につけていることに気がつくだろう。
静かな強さ静かな自信それは、「誰かに勝つ」ことや「競争に勝つ」ことによって得られる一時的で疑似的な「強さ」や「自信」ではなく、人間が、その生涯を通じて身につけていくべき「真の強さ」であり、「真の自信」であろう。
あのとき、あの物静かな上司から伝わってきたものは、その「静かな強さ」であり、「静かな自信」であった。
「心の中で、すべてを、自分自身の責任として、引き受ける」という、この「引き受け」。
もし、我々が、この「引き受け」を「こころの技法」として身につけるならば、それは、「自分に非の無いことも含めて、自分の非として認める」ものであり、「心の中で自分の非を認める」という「こころの技法」の中でも、最も高度な技法であろう。
さて、ここまで、仕事や生活において、誰かとの不信や不和、反目や反発、対立や衝突があったとき、その相手との人間関係を良き方向に転じるために、「心の中で自分の非を認める」「自分から声をかけ、目を合わせる」「心の中の『小さなエゴ』を見つめる」という三つの技法について語ってきた。
しかし、ここで、読者からの疑問の声が挙がるかもしれない。
「それは分かるが、やはり、人生においては、なかなか好きになれない人がいる。
その『感情の問題』は、どうしようもないのではないか?」では、誰かを「好きになれない」ということは、「感情の問題」なのだろうか?次に、そのことを考えてみよう。
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