プロローグ
「段取り力」とは社会を生き抜く力
特別な天才や芸術家を除けば、私たちの間にそれほど大きな才能や能力の差はない。ただ段取りのいい人と悪い人がいるだけだ、と私は思う。
普通は、何かに失敗したとき、自分には才能がないとか、能力がないと言ってしまう。
しかし才能や育ち、環境のせいにしてしまうと改善のしようがない。改善のしようがないから、努力もしない。
だが「段取りが悪かったからうまくいかないんだ」と考えることで、対処法が違ってくる。これが重要なポイントだ。
勉強を例にとっても、段取りが悪いことに気づくか気づかないかで、上達に雲泥の差が生まれてしまう。
試験の点数が悪いと、自分の頭が悪いとか「この科目は自分に向いていない」という方向へ持っていってしまうことが多い。
しかし試験ができなかったのは、準備の段取りが悪かった、あるいは試験の時間配分の段取りが悪かったのだと冷静に考えられるようになるとかなり上達していく。
家事や仕事をきちんと仕込まれた経験のある人は、「段取り命」ということを知っている。要するに段取りという言葉があることによって、自分自身を責める度合いが減ってくるのだ。
自己否定してしまうと、次のエネルギーがわかないが、「自分に力がなかったのではなく、段取りが悪かっただけだ」と考えることで、自己肯定を維持したまま改善できる。
日本人は反省するのが好きだ。
人間は反省すればうまくいくと考えているが、自分の人間性全体について反省しなくても、段取りを組み替えれば現実は変わっていく。
このあたりの発想の転換が重要だ。
「段取りが悪かったから、うまくいかなかったのだ」と考える癖をつけるために「段取り力」というコンセプトは非常に有効だ。
「段取り力」という考え方や言葉を獲得すると、いろいろな活動や局面もすべて段取りという切り口で見ていくことができる。
段取りは全部の活動にあることが分かってくるので、全然種類の違う活動をつなげて見ることができる。それが「段取り力」という言葉の効用だ。
たとえば料理を作ることと、論文を書くことは全然違う活動に見えるが、「段取り力」という包丁で切っていけば共通するものが浮かび上がってくる。
この概念のありがたさが分かれば、生きていくことに自信が持て、上達も早いだろう。そもそも「段取り」という言葉は、職人言葉に近く、実際的な場面で使われることが多い。
彫刻のような芸術作品を作る場合でさえ、段取りが大事だと彫刻家は言う。
芸術的才能は、もしかしたらほんの少しだけあればいいのであって、あとは段取りを覚えていくだけでかなりの線までいけるのではないか。
段取りを覚える力は努力次第で向上させることができる。芸術でさえ才能ではなく「段取り力」で決まるのだから、他の活動はもっと「段取り力」の働きが大きいだろう。
「段取り力」さえ身につければ、すべての活動が楽になるという発想は面白い。
自分の可能性を肯定でき、また失敗に対して冷静に対処できるようになるに違いない。
自分の中の「段取り力」に気づくことが出発点この「段取り力」という話をいろいろなところですると、自分には「段取り力」がないから身につける方法を教えてもらいたいと言う人が多い。
「私は『段取り力』があります」と胸を張って言う人にはあまりお目にかからなかった。
この本では「段取り力」とはどういうもので、どうやったら獲得できるかを述べていくが、しかし本題は自分の中にある「段取り力」に目覚めることだ。
自分の中に本当はちゃんと「段取り力」があるのに、それに気がつかず、自分は段取りが悪いと決めつけてしまっている例がけっこう多い。
段取りにもいろいろあって、自分の得意なタイプの段取りが必ずあることに気づくことが最初のステップだ。
たとえば、森鷗外のように非常にきちんと整理整頓して仕事をするタイプがいるかと思えば、一方で無頼派作家の坂口安吾のように、いろいろなものを部屋中にまき散らして小説を書くタイプもいる。
それぞれ生産性が上がっており、素晴らしい作品をたくさん残しているということは、2人の段取りはそれぞれにいいと言える。
鷗外の場合は外側を整理して、きちんと計画的にやる、そういう「段取り力」がある。それに対して坂口安吾は、部屋は乱雑だが、その乱雑さが小説作法だ。
散らかっていたほうが自分のエネルギーがわくというのであれば、乱雑にしたほうが効果的なわけである。
羽生善治という将棋の天才がいるが、彼は若い頃は旅館やホテルでなかなかリラックスできなかったらしい。
将棋の対局はホテルや旅館で行われるが、自宅ではないのですごく疲れてしまい、対局にも影響したという。
それをどうやって解決したかと言うと、まず旅館に着いたら、荷物を全部部屋にぶちまけて、自分の家のように散らかす。
すると自分の空間のような気がして、リラックスして対局に臨めるそうだ。羽生の場合、まず旅館で部屋を散らかすのが「段取り力」だ。
整理整頓できなければ段取りが悪いというものでもない。
職場でもよくデスクの上に山のように書類が積み上がっているが、どこに何があるかちゃんと分かっていて、ミスがなく、仕事が速い人がいるのと同じだ。
そういうものも含めて、自分に合った段取りのスタイルを見つけることが、本書の「段取り力」の一番大きな意義だと思う。
段取り一般はうまくできるが、自分に合った段取りを見つけていないのは不幸だ。
一般的な段取りを身につけるのではなく、自分のやり方を活かすような「段取り力」を技化するのが、本書の最終地点だ。
そのためには、まず最初の段階として、自分の中の「段取り力」の存在に気づくことが大切だ。仕事の段取りが悪いと思っている人でも、何か他の段取りがうまいことはある。
自分の得意なことに関してはすごく段取りがいいのに、それは当たり前のこととして気づかない。
家庭的なタイプで料理は上手だが、仕事はうまくいかないという人は、料理の「段取り力」を持っているが、それを仕事につなげる回路がないということだ。
自分の得意なものをモデルにして、苦手なものを克服していくのが、上達のコツだ。
自分にはある領域の「段取り力」はあるといった場合、その「段取り力」をきちんと見つめて、他のものに応用していけばいい。
すべての領域の別々の「段取り力」を全部手に入れることは不可能だし、方向として間違っている。
そうではなくて自分の中にある「段取り力」に気づき、それを増幅していくことが最初のスタートだ。
マニュアルと「段取り力」はちがう
マニュアルと「段取り力」とはちがうので、ここで説明しておきたい。私たちは「マニュアル人間」と聞くと悪い印象を持つ。
ただ、マニュアルは本来は手順という意味だから、これが分からない人間より、分かった人間のほうがいいに決まっている。
しかしなぜ「マニュアル人間」が使えない人間の典型として言われるかというと、言われたことしかできないからだ。
「マニュアル人間」は自分で組み立てたり、自分で手順を決めることができない。だから、状況に応じて臨機応変に行動することができない。
しかしマニュアルを作った人間は素晴らしい。手順や段取りを普遍化させていくわけだから、素晴らしい「段取り力」の持ち主である。
つまりマニュアル通りに動くということと、マニュアルを作る側になるというのは、似ているようで雲泥の差があるのだ。
今回、取り上げている「段取り力」には、段取りを自分で組むことが含まれている。
段取りという古くさい言葉をあえて使ったのは、その言葉の中に自分で組むという動きが含まれているからだ。マニュアル通りに動くこととはまったく意味が違う。
ハウツー本も同じだ。
世の中にはたくさんのハウツー本が出ているが、その通りにやっているだけでは「段取り力」はつかない。もちろん何もないよりましな気がするが、ハウツー本をいくら読んでも、本当のところが伝わりきらない。
本当のところとは、そのポイントに気がついてマニュアルにまとめた著者が持っている力のことである。ハウツー本を読む側になるか、書く側になるかは決定的な違いだ。
私は大学で教えているが、学生たちがよくマクドナルドやケンタッキーフライドチキンでアルバイトをしているので、授業の一環として、その段取りを他の学生に教えるプレゼンテーションをやってもらうことがある。
ケンタッキーフライドチキンにおけるチキンの揚げ方とか、マクドナルドにおけるハンバーガーの包み方などを簡潔に説明してもらうわけだ。
すると、教えるほうも教えられるほうも短時間で伝授が可能である。
アメリカナイズドされたファーストフードのチェーン店には、その日入ったアルバイトでも対応できるよう、優れたマニュアルが存在するからだ。
だが、その経験は何か他のことをするときの原動力にはならない。バイトはたくさんしたが、そのときの経験はマニュアル通りにしただけなので、本当の力がついたわけではないのだ。
マニュアルから学ぶとしたら、そのマニュアルがなぜそうなっているのか、意味を考えたり、自分以外の人のマニュアルを読み取ることだろう。
たとえば店全体を動かしている店長の動きを見て与えられた指令を読み取ることができれば、その人はすぐに店長になれる。
ある活動の裏にあるマニュアルを読み取れるということは、自分でマニュアルを作る能力があるということだ。
マニュアルを自分で作る、すなわち段取りを組む側になってしまえば、本当に力がついたことになる。やがて店長になり、ゆくゆくは独立することも可能だろう。
マニュアルが悪いのではない。そのマニュアルを作った人の意図が分かるように、あるいはマニュアルを自分が作れるレベルにまでなればいいのだ。
そのような方向を目指せばマニュアル人間と批判されているタイプの人でも、ひと皮むけて、もっと「段取り力」のある創造的な人間に脱皮できるきっかけがつかめるだろう。
「段取り力」は他に応用することができる料理は段取りが悪いと、結果としてまずくて食べられないものができ上がってしまう。ある決定的な素材が欠けていれば、料理にならない。
おいしい、おいしくないという感覚は人間にとって基本的なものだから、その感覚によって毎日厳しくチェックされている能力が「段取り力」だとしたら、料理が上手だということはおそらく何か他のことをするときにも大変な能力を発揮できるだろう。
自分は料理は得意だが、デスクワークはできない。家事は得意だが、会社勤めはできないなど、家事と仕事を分けて考えがちだが、専業主婦だから外へ行ったら何もできないと考えるのはおかしい。
料理ができる「段取り力」を政治や歴史を動かすような壮大な「段取り力」に持っていくのは飛躍としても、料理のスケールの「段取り力」を活かした仕事の仕方もあり得る。
「段取り力」にはスケールがあるという考え方を持てば、自分はどのスケールの段取りが得意なのかが分かるので、仕事においても、やれる仕事、得意な領域の幅が広げやすいのではないだろうか。
才能がないというのは、いくらやろうとしても素材が悪すぎてどうにもならないという状態のことである。
しかし「段取り力」がないだけなら、やり方次第で何とかなる。そういう体験が一つでもあれば、その成功体験を増幅して可能性を広げていくことができるだろう。料理ならできるという人は、ほかのことも料理と同じ感覚でやってしまえばいいのである。
このように「段取り力」という言葉は、領域に限定されない言葉である。何かで培った「段取り力」は他に移すことができる。これが非常に大きな自信になってくる。
一芸に秀でた人は他のことをやっても大丈夫だ、とよく言われる。
つまり一芸に精通すると、その内部の段取りが分かってきて、物事がうまくいくための段取りはこういうふうにするんだということが、身に染み込んでいるので、他の事にもそれが応用できるのだ。
「段取り力」を鍛えた経験がまったくない人は、何かに臨むときの段取りのイメージがつかめない。段取りのイメージをつかんだ上で入っていくのと、そうでないのとでは効率に大きな差ができてしまう。
この本で強調したいのは、まず「段取り力」という言葉に目覚めてもらうこと。
そしてその「段取り力」というイメージは、普通考えられているものより、ずっと広いとらえ方ができるということだ。
Aという人には「段取り力」があり、Bという人には「段取り力」がないという切り方ではなく、自分に得意なタイプの「段取り力」ならある、ということに気づいてもらえれば、非常に前向きな気持ちになれるだろう。
第一章生産性の高いプロの「段取り力」
1トヨタに見るコストパフォーマンスが高い「段取り力」
世界的なターム「KAIZEN」
まず初めに、優れた「段取り力」の手本を取り上げ、その「段取り力」を見抜いていきたい。
繰り返し段取りを見抜く訓練をしているうちに、その優れた段取りが技化され、自分の「段取り力」を鍛えることになる。
とくに、成功例と言われるものを見るときは、「段取り力」の観点から分析する習慣をつけておくことが大切だ。
世界を代表する自動車会社トヨタが、原価を2分の1にすることを目標に、改善を重ねた過程が『トヨタ式改善力』(若松義人・近藤哲夫著・ダイヤモンド社)に描かれている。
トヨタの生産方式は、現場に行くたびに発見される無駄を省いて、段取り替えをするやり方だ。
無駄をなくして流れがよくなった後に、また現場に行ってみると違う無駄が見えてくる。行くたびに新たに基準を設けて、無駄を省くのがトヨタの「改善」のやり方である。消化する項目を固定化してしまうと、一回改善すれば終わりになる。
しかし、トヨタのやり方でいけば、無駄は無限に生まれてくる。
「ムダは形を変えて現れる。ムダは進化する」とこの本には書かれているが、一度無駄をなくしても、無駄は形を変えて現れるから、進化した無駄をさらに摘み取っていくやり方を、トヨタでは実践しているのだ。
これを繰り返していくことによって、より優れた環境にブラッシュアップしていくのがトヨタの「改善」方式で、このやり方は「KAIZEN」というローマ字で世界的なタームになっているほどだ。
段取りは一度に作ってしまうという考え方もないわけではないが、段取りを組むためには経験知が積み重なっていなければならない。
経験知はどうやったら積み重ねることができるのかといえば、物事を見るときに「段取り力」という視点を導入することによって得られる。
もし、段取りがいいか悪いかという視点を持っていなければ、トヨタの工場を見ても小学生の社会科見学にしかならないだろう。
「へえ~、こんなふうになっているのか」で終わってしまう。ところが「段取り力」という観点で見れば、Aという工場とBという工場の段取りの違いが分かる。気づいたことは確実に経験になっていくから経験知が増えていく。その気づきがどこから来るのかというと、そういう視点でものを見ているからだ。
絵画を見るとき、知識は重要だ。知識が邪魔して名画が味わえないということはない。むしろいろいろな文脈を知っていたほうが、絵画の奥行きが分かるだろう。
物事を見るときも、「段取りを見る」という視点を導入すれば、見えてくるものがたくさんあるはずだ。
それが経験知となって積み重なってくる。
その経験知は視点が非常にクリアだから、あたかも整理された箱のように、たくさん経験を積み重ねていくことができる。
その観点でいいものをたくさん見ると、自分への取り込みが早くなってくる。トヨタのシステムにもそれが現れている。
「ある工程の改善をする。これはどこの会社もやるだろう。トヨタ式は、それで終わらない。その改善を他の生産ラインや工場に水平展開する。
そのままの改善を試みるところもあれば、それを上回る改善案を考えようとするところもある。トヨタはこれをグループ全体でやっている。
あるグループ企業が、段取り替えの素晴らしい改善を実施したとすれば、その情報はすぐ知らされる。他のグループ会社は、それをそっくり真似るのではなく、なんとか上回ろうと知恵を絞る。水平展開どころか、改善案のスパイラルアップが風土として当たり前のように根づいている。」(p82)
つまりあるグループで段取り替えをして、流れがよくなると、それが即座に他の部門に波及するのだ。
しかもただ同じことをやるのではなく、業種の違う部門では違ったものにアレンジして活かしていく。
改善案がらせん状にアップしていくスパイラルアップが起こり、グループ全体のレベルが上がっていくのだ。
すでにある段取りをアレンジする「段取り力」の重要な要素に、アレンジして使う力がある。
「段取り力」とはそもそも領域を超えても通用するものである。
まったく同じ仕事のものしか段取りが使えないのであれば、非常に狭い。
しかし少し変えれば、自分の領域にも通用するのではないかと発想するのが、「段取り力」のうまい活かし方だ。
拙著『「できる人」はどこがちがうのか』の「3つの力」であげた、真似て盗む力には「段取り力」が深く結びついている。真似て盗む対象はたいがいは段取りだ。段取りを盗むとは、技を盗むことそのものである。
しかし真似て盗むといっても、ほとんどの場合、そのまま自分に引き写すことはできない。自分に固有の文脈にアレンジできて初めて技を盗んだことになる。アレンジして取り入れる点が、まさに「段取り力」につながっている。
身体運動で言えば、自分の肉体的な資質が文脈である。
自分の身長、体重、筋力、あるいは何らかの運動経験などの文脈が積み重なって、自分の肉体が構成されている。新しいスポーツを始める場合は、そこに固有のアレンジが必要だ。
たとえばテニスをしていた人が卓球をすると、振りがテニス風に大きくなってしまう。
そういう文脈の人が卓球で上達するためには、球を卓球台という小さな枠に入れていくための、その人特有の練習を段取りに組み入れていかなければならない。
練習メニューの組み方は、自分の持つ文脈を理解していれば立てることができる。
技をそのまま真似るのではなく、外から持ってきたものをアレンジしたほうがうまくなるし、独自性も高くなるのだ。
トヨタでは、機械も自分たちで直してしまう。
「改善をするには、自分たちで機械や設備をいじれる能力が重要になる。なにか問題が生じたり、改善案を思いついたとして、いちいち設備メーカーの人を呼んでいては時間もかかるし、コストもかかる。その日の問題はその日に片づけるのがトヨタ式だ。共立金属工業の坂口政博社長は文科系の出身でありながら、たいていの改善は自分でやってしまう。
『鉄を切って、簡単な溶接ができればたいていの改善はできますよ』とこともなげに話す。社内で機械をいじれる人材を育てるのも大切だ。」(p73)
つまりトヨタ式とは、機械にいろいろな工夫を凝らして使いやすくすることも含んでいるのだ。普通は機械に仕事を合わせる。
だが、トヨタではむしろ仕事の段取りを優先させて、機械をそれに合わせる。
しかもいちいち機械を買い替えるのではなく、今ある機械を溶接して、工夫を加え、使いやすいように改善していく。機械とは固定化した機能のものであるが、トヨタではその発想が違うのだ。
納期を設定すると無駄がなくなる
さらにトヨタ式の発想はすごい。
「メーカーの人が、部品がどこにあるかを捜し回ったり、伝票を書き写すといった作業について、『これらの作業は付加価値を生みませんが、仕事を進めるうえで必要な作業かもしれません』と言っていた。こうした意識では改善は進まない。」(p73)
付加価値を生まない作業は無駄と認識する、というのは身もふたもない言い方だが、鋭いところをついている。
部品を捜したり、伝票を書き写す作業は付加価値を生まないが、必要な作業だと思っているから、普通は働いた気になってしまう。しかし稼いではいない。
区別すべきは働いているかどうかではなく、稼いでいるかどうか、付加価値や利潤を生んでいるかどうかである、という意味だ。ほとんどの場合、そこで勘違いが起こっている。
自分は働いているつもりでも、その働きによって果たして利潤が生まれたのだろうか。
企業では、自分の年収の3倍の利益をあげなければ、雇っている意味がないと言われる。会社を運営するためにはコストがかかっている。
社員は自分がもらう給料の3倍の利益を稼ぎださないと、給料分の働きをしたことにならないのだ。
「あなたは1カ月に給料の3倍の利益をあげているか」と問われた時、果たして自分が「はい」と言えるのか、という危機意識を当たり前に持つのがトヨタ式のやり方である。
トヨタ式システムの提言の一つに納期主義がある。今まではあらかじめ大量に生産し、倉庫に保管しておき、注文に応じて出荷していた。しかし大量生産、大量消費の時代は曲がり角に来ている。従来のやり方では危険な在庫を抱えることになるだろう。
今は注文が来たときだけ、納期にぴったり間に合うよう必要なものを作ってそろえるのが、効率のいいやり方と言える。とにかく無駄を作らない。在庫を多く抱えないやり方が重要だ。
毎日同じものを大量に作っていると、働いている気になるが、在庫として残っていくだけだから、稼いでいることにならない。
それどころか原料費を使って、倉庫を占拠していることを考えると、むしろマイナスかもしれない。だから仕事のないときはじっとしている。
注文があってから、納期に間に合わせるように動くことに全力を傾ける。そこにより一層優れた「段取り力」が必要とされるのだ。トヨタの納期主義は、「段取り力」の非常なヒントになるだろう。
予備を大量に作っておいて、その中からピックアップして総合するやり方と、何かの要求に対して、必要最小限のものだけで作るのとでは思惑が違う。
文章を書くのも同じだ。慣れていない人は、力んでしまっていろいろなものを調べてしまう。大量に部品を作っておけば、なんとかなるだろうというやり方である。
しかし、実際に書こうと思った時は在庫ばかりだ。コピーが山ほどあるが、結局、使ったのはごく一部の資料だったということが起こり得る。すると山ほど調べ、働いたと思っていた時間の多くは無駄になったわけである。
慣れていない人ほど、回り道をしてしまう。要するに段取りが悪いというわけだ。
しかし自分が目指す最終形があって、要求される提出期限、すなわち納期があれば、納期から逆算して大失敗がないよう主なところを押さえていく。
そのために倉庫の隅に眠っているような、あるいは図書館の隅に眠っているような資料は後回しにして、必要な資料の順位を決めていく。
そうやって一応の製品に仕上げていく。論文を製品と考えれば、無駄をなくしていく作業は生産的だ。
創造的な仕事とは、実は優れた段取りの中から生まれてくるのだ。頭の中ですっきりと段取りができていないと、クリエイティブな仕事に入れないのである。
クリエイティブな仕事とは、付加価値を生む仕事だ。
新しい価値が生まれるところにエネルギーを注ぐべきであって、価値を生まない下準備のところでいくら頑張っていても結果に反映されないのなら、仕事とは言えない。
トヨタの生産様式は非人間的であり、クリエイティブではないと言う人もいるが、それは逆だ。
あるものを仕上げるために徹底的に無駄を省けば、その余ったエネルギーをクリエイティブな活動に注ぎ込める。
ヴィジョンがしっかりしていて段取りがクリアに見えていれば、原材料の仕入れに無駄がなくなり、在庫は減る。
無駄なものを仕入れる時間とお金を省いた分、品質向上と納期厳守に力を集中できるわけだ。
品質を落とさない、納期を守る、コストは抑えるというこの3つをそれぞれハイレベルに保つことができたのは、段取り替えが行われたからだ。
この考え方は他の仕事をするときにも役立つ。納期という考え方は非常に有益だ。いつまでに終わらせなければいけない、という期限なしには改善は難しい。
納期があることで初めて他のことでも無駄を減らし、ブラッシュアップしていくことができるのだ。納期とは時間的制限だ。時間制限がない作業において段取りがよくなるはずはない。
まずは上手な時間制限を設けるのが、段取りを組むための段取りである。簡単にはできそうにない目標を設定する最近、コストパフォーマンスという言葉がよく使われる。
パフォーマンスとは実際にあげた結果・効果のことだ。コストパフォーマンスは効果に対して、どれだけのコストがかかっているかということだ。
パフォーマンスに対するコストの割合で見ていくから、莫大なコストをかけてかなりのパフォーマンスを得るよりも、非常に安いコストで、中の上程度のものを得るほうがいい、という考え方が生まれる。
品質も重要だが、コストパフォーマンスも段取りを組む上で重要になる。無限に時間とエネルギーがあるという考え方は学者に多い。
一つのテーマに20年取り組んでいたりすると、ほめられるのがいい例だ。だが本当にできる学者は、それほど悠長ではない。新しいテーマを見つけ、どんどん加速していく。
あるものをやっていたら次々と課題が見えてきて、その結果あるテーマに関して20年追っていたということになる。
ダラダラやっていた20年ではない。ブラッシュアップしながら、コストパフォーマンスをよい形で追求した結果での循環だ。創造性がある。
『トヨタ式改善力』で面白かったのは、最初から原価を2分の1に設定したことだ。普通は原価を10%あるいは20%カットあたりから始める。
そのためにいろいろな案が細かく出てくるが、実際にやってみると、10%、20%でも、なかなかカットするのは難しいらしい。
これは『仕事学』(三笠文庫)の中で稲盛和夫が紹介しているそうだが、3割値下げするのに悩んでいる社員に対して松下幸之助は、「半値にすると考えてみたらどうや」と言う。
「三割安くしようと思うから重箱の隅をつつくみたいなことを考えているのやろうけど、半値となれば、根本から考え直さなければならないから楽やで」と言って、笑いながら帰っていったそうである。(p122)
「楽やで」と言われても困るが、私はこの考え方にわりと共感できる。簡単にはできそうにない「半値」という目標を設定することによって、今までの常識を疑ってかかることから突破口が開けるのである。
1、2割の削減なら、主だったところは固定しておいて、一部を手直ししようとする。しかし原価を半額にするためには、根本から前提を突き崩していかなくてはいけない。
そうやっているうちに、まったく違うシステムが導き出される。
とりあえず一歩ずつ進むにしても、その原動力となるモチベーションはむしろ極端なほうがいいという提案だ。最近、この方法は開発部門で積極的に取り入れられているようだ。
マイナーチェンジという少しだけのアレンジだと、発想は根本的に切り替わらない。そこでまったく違った発想をせざるを得ないような目標を設定する。
それが原動力になって、今までにない手段や手法が編み出されてくるのだという。
「段取り力」をよくするためにも、動機付けの目標はある程度厳しさがあったほうがいいだろう。納期もなく、コストパフォーマンスもない設定では、段取りがよくなるはずはない。
受験勉強や中間試験、期末試験も同様である。
受験は人間性を疎外するという説もあるが、試験があることによって、段取りを組んでいく力が鍛えられるのは確かだ。福沢諭吉が在籍した緒方洪庵の適塾は試験の連続だった。
しかも席次がはっきり示されるので、皆が競い合うように勉強したという。何日に試験があるから、それまでにどういう勉強をしなくてはいけないという循環ができていた。
その環境で磨かれたものが人格的に見て曲がったものでないことは、そうそうたる適塾の出身者を見ても分かる。
段取りが厳しく組まれていることで、創造性や人間性が損なわれるわけではない。
モーツァルトの仕事ぶりを見ると、曲を作ることに関して恐ろしく段取りがいい。ヴィバルディやバッハもそうだった。彼らはものすごい量の曲を次々と作っている。段取りがよくなくてはとてもできないだろう。しかも、大量に作ったからといって彼らの音楽に精神性がないわけではない。
とかく段取りをよくすることと、人間らしさや精神性とを矛盾しているようにとらえる考え方もあるが、それは見当違いである。
2建築家、安藤忠雄に見るクリエイティブな「段取り力」
イメージトレーニングは「段取り力」そのもの優れた「段取り力」の持ち主の一人として、建築家の安藤忠雄を紹介したい。
朝日新聞に掲載されたインタビュー記事(2003年6月1日付日曜版)によると、彼が建築家を目指すきっかけになったのは、14歳のときの家の増築だった。
大工さんを手伝ったのが楽しくて、さらに高校2年生のときに帝国ホテルを見て感動した。
その後、大学に行くことが難しかったので、19歳の1年間は外に出ないで朝の9時から次の日の朝4時までいろいろなことを学び、大学4年分の勉強を独学で1年で終えたという。
そして、設計のアルバイト代をためて海外に出かける。シベリアからヨーロッパ、アフリカ、インド、タイ、フィリピンと回り、毎日歩き続けた。
1日15時間ひたすら歩きながら、一つの建築を見たらその建築物のことをずっと考えながら、次の建築物まで歩き続けた。
その後も吸収できる年齢は35歳くらいまでと考え、必死に勉強し、今は80歳まで若い心を持って仕事をするという。まさに人生の段取りがしっかりしている。土台作りのすごさは、さすが建築家だ。
「段取り力」を考えるとき、建築は象徴的である。彼は1日50キロ近くを歩き、建築について考え続けた。歩きながら考えたのが面白い。
「建築を頭の中で考えるトレーニングが、この厳しい旅で可能になり、今も私の大切な能力になっている。建築は本のように、読み取れる人だけが本当にわかる。それができなければならないのです。」と、このインタビューで述べている。
頭の中で建築を考えるトレーニングをやったことで、「段取り力」が鍛えられたはずだ。やはり段取りは、やる前に頭の中でいちおうその手順を組み立てておくものである。
これなしで突っ込んでしまうと、あまりいいことはない。スポーツでも優れた選手は、次の状態をいくつか想定しているはずだ。
テニスでサーブが来るとき、フォアハンドだったらこうしよう、バックハンドに来たらこうしようと、一応シミュレーションはしておくだろう。それがまったくなく、無心で待っていてもなかなか反応はできないものだ。
その意味で頭の中で映像化してシミュレーションができる能力は、実際の紙やモニターの上で描いて作る以上に、力としては実践的だ。
安藤は50キロの移動の最中、今見た建築のことについて自分がそれを組み立てたとしたらどうするか、手順をずっと頭の中で考えていたのだろう。
要するにでき上がりから製造工程を逆算して、組み立てていたのだと思う。
結果からプロセスを推測し、頭の中で何度も検証するトレーニングをすることで、今度は自分が仕事をするときにプロセスと結果がすぐ結びつく。
それはまさにイメージトレーニングであって、「段取り力」そのものと言えよう。「段取り力」とは手作業という意味合い以上に、イメージトレーニングの側面が強いと思う。
「こうなったら、こうなる」ということが頭の中で考えられる。安藤はそのトレーニングになったとはっきり言っているところからも、自分が何をしているのか、つねにクリアな人だったことが分かる。
彼は生き方そのものがまさに建築的だ。
でき上がりからそのプロセスをイメージする建築家的なものの見方は「段取り力」を鍛えるトレーニングに最適と言えよう。
現場との対話から発想力を得るその安藤が段取りを組んでいくとき、必ず行うのが現場との対話だ。実際には現地を見に行かなくても、設計することはできる。
しかし安藤は『連戦連敗』(東京大学出版会)という著書の中で、「これまで何の接点もなかったような場所では『その場所につくるのだ』というリアリティが感じられません。発想する力が出てこないのです。」(p47)と言っている。
つまり一回、その場所に行って敷地と対話することで、都市の文脈が分かるというのだ。都市といっても、京都と東京の成り立ちは違う。文脈とは流れだが、そこに組み込まれている流れは現地に行くことで、肌で感じられる。
段取りを組むとき、経験が積み重なっている領域では、頭の中でシミュレーションができる。その敷地にどんな色のビルが合うのかは、周りを実際に五感でとらえていれば、瞬時に感じ取ることができる。「文脈」が分かるとはそういうことだ。
今やろうとしている「点」だけを見ている人と、やろうとしていることの周りにつながっている「文脈」を見ることができる人とでは、段取りを組む力が違ってくる。
今、目標としている事柄だけを見て手順を組むと、でき上がったとき、自己充足的にはいいのだが、周りとのバランスが悪い。
だから自分が段取りを組むためには、一度でも現場に行って調べることが大切だ。
一見効率が悪いように見えるが、自分が調べたかった以上のことに気づいたり、それ以上の文脈をとらえることができる。
それは段取りを組むとき、大きなプラスになるだろう。現場は常に動いている。「百聞は一見にしかず」というのは、まさにこのことを言うのだ。
私は最初に東京に出てきたとき、不動産のことがまったく分からなかった。
アパートを借りる際、どういう条件を加味すればいいのか判断材料がなかったため、「サンライズ」という名前だけで、朝しか日が当たらない暗い部屋に住んでしまったことがある。
もしそのとき、最低でも10軒くらい物件を見ておけば選択も違っていただろう。最初の2、3軒を見てここでいいと思った物件があっても、もう少し見ていくと、さらにいい物件が出てくる。
最初にいいと思ったあの物件は何だったのか、と思うに違いない。要するに、自分の経験知が高まってくるわけだ。
不動産にまつわる基本的な項目が10項目くらいあるとすると、慣れていない人は、自分の気にしている項目3、4個だけを見る。
しかし、実際には現物を見ながら、項目を増やしていくのが正しい段取りだ。
たとえば、5軒目で非常に間取りのいいところに当たると、こういう間取りが使いやすいと分かるので、いい間取りの具体的なチェック項目がひとつ増える。
日当たりのいいところに行けば、それが基準になってチェック項目が増える。大事なのは出会った現物を見て、経験を積み重ねることによって、自分の中にチェック項目を増やしていくことだ。
現場に行く効用はそれだけではない。外側から枠を決めて、状況を設定することが力を引き出す段取りだと言ったが、現場に自分の体を持っていくことは、まさに段取りそのものと言える。
安藤は自分の事務所のスタッフを育てるため、ときどき事務所内で所内コンペを開くそうだが、そのコンペに安藤自身もチャレンジャーとして対等な立場で参加する。
そしてたいてい安藤の案が通るのだが、それは彼には他のスタッフにない決定的に有利な点があるからだ、と言っている。
「それは、どのような形で始まるプロジェクトにせよ、私は事務所の代表として必ずそのクライアントと顔を合わせているということ、そしてあらかじめ敷地を訪れていることの2点です。……(略)……敷地を実際に訪れ、周辺を含めた場の空気を身体で感じ取ってきた分、スケッチの1本1本の線にも否応なしにリアリティがこもってきます。結局、発想する力、構想力とは、建築にリアリティをもって臨めるか否か、この一点に大きく関わってくるのだと思います。」(p178)現場に行き、場の空気を感じ取ってくることで活動に差が出てしまう。
すでにその時点から段取りが始まっているのだ。この話はとても興味深い。膨大なデータを集めても、1回の体験にはかなわないということだ。
場が持つ力を重視していれば、自分で現地に行ったり、クライアントと直接顔を合わせて話をするだろう。そうすればいろいろなことを感じ取り、それを設計に活かすことができる。
設計する前の段取りとして、現地を訪れる段取りを組んでおけば、自分の建築家としての設計能力を引き出してくれる。
安藤の段取りには、常にそういう状況設定があるということだ。
最終ヴィジョンを明確にすると段取りが見えてくるトヨタでは、半値にするという目標を立てることで大胆なコストパフォーマンスを実現した。
このように目標の立て方で、根本的な段取りが変わってくる点は重要なキーポイントになる。
段取りを考えるのにマイナーチェンジでいくのか、それともかなり根本から発想を変えるのかでは大違いだ。目標の立て方とは、言葉を変えれば、テーマやコンセプトとも言える。
自分にとってテーマは何か。中心となるコンセプトや考え方、概念は何か。目標とするヴィジョン、最終的に見えてくる像、イメージとはどういうものなのか。それがその後の段取りを決めていく。
建築はテーマ性がはっきり出てくる領域だ。
たとえば京都駅に作る駅のイメージは、当然古い都である京都という都市の文脈をどう考えるか、それに対してどういうテーマで臨むのか、ということと密接に関わってくる。それがテーマ性だ。
安藤忠雄の『連戦連敗』には、西欧建築のテーマ性について次のように書かれている。
「石・煉瓦の組積造による西欧建築の歴史とは、即ち、重力に抗して内部空間のヴォリュームをいかにして獲得するか、そのヴォリュームを形成する石の覆いや側壁にいかに大きな開口部をつくり効果的に光を導入するか、その挑戦の歴史であったと見なすことができるでしょう。」(p202)
安藤忠雄は、建築家ル・コルビュジエが建てたスイスのロンシャン礼拝堂を見たとき、そこに光のドラマを発見する。
その建築から光の空間をどう作るのかというテーマを受け取り、1989年、大阪に「光の教会」を建築した。
これは礼拝堂の暗闇に光の十字架が浮かび上がるという画期的な設計になっている。コルビュジエの真似ではないが、テーマは同じだ。
「ロンシャンの礼拝堂を通じてル・コルビュジエから受け取ったもの、それは形の問題ではない、光を追い求めるだけでも建築ができるという建築の可能性だったのです。」(p202)光を追い求めるだけで建築はできる、というテーマを安藤はコルビュジエから教わった。
光の教会を建てるとき、結果的には違うものを作っても、光のドラマというテーマでは共通するものがある。
これが間接的な引用、すなわちアレンジして変形する力だ。テーマを盗んで来ても、それを自分の身体や感覚を通して表現すると、どうしても変形される。
安藤はもっと意識的にそれを語っている。
「しかし、ロンシャンやラ・トゥーレットのあの豊潤で官能的な光の空間は、建築家自身の本能によって創出されたものであって、決して他者と共有し得るように技法化し普遍化できるようなものではありません。
それはル・コルビュジエの肉体と深く結びついたものなのです。私も、その直接的な引用を試みようなどとは思ったことはありません。」(p202~203)
テーマを変形する力が、何かを生み出していく重要な部分だ。変形するということ自体が段取りそのものになるのが、非常に大切なところだ。
素材を限定することで創造性が喚起される安藤によると、建築の面白さは条件が限定されているところにあるという。
「建築家は、自らの思う建築概念の実現と地理的条件、力学的条件、技術的条件、法規による規制、経済的制約といった現実の諸条件の双方を考えながら、その状況における最適な解答を見つけていきます。このせめぎ合いの中で、概念に形が与えられるのです。」(p142)
これが段取りを組む時の重要なプロセスだ。まずは自分が作りたいもの、理想形がある。これなくして、段取りを組むのは難しい。しかしそこにはさまざまな制約や条件がある。
収納上手な人は、片づいた状態のイメージがあり、そこから逆算して、現実のそれぞれの家の条件や制約に応じて、どういう手が打てるか考えるのである。
つまり両側からアプローチしていくわけだ。
一つはある種の理想形、もう一つは現実の諸条件、そのせめぎ合いの中から生まれてくるのが形である。
その意味で建築は一つの象徴ともいえる。
理想と現実が対立していた時代があったが、本当の思想とは、こうしたせめぎ合いの中から出てきたものである。
創造性と「段取り力」は矛盾し合うのではなく、むしろ「段取り力」があるほうが創造性が高まるという例は、トヨタ式でも明らかだった。
建築の例で言えば、技術革新とエコロジーとは対立するが、現実的にはエコロジカルな建築物を建てるためには高度な最先端技術が必要だということになる。
安藤は、「ハイテクノロジー、即ち技術的進歩が、そうしたエコロジカルな建築というコンセプトの実現を可能にしたのです。」(p147)と述べている。
彼は日本の家屋に古くからある風の道を作ったり、水の循環利用といった自然エネルギーの効果的な使い方を実行するために、コンピューターによるシミュレーション実験など先端技術を使っている。
つまり技術や段取りのよさと、創造性やエコロジカルな観点とは矛盾しない。これらの条件があるから、創造性のあるものが生まれやすいと、安藤は言っている。面白いのは創造性を喚起するために素材を限定する、という方法をとることもあることだ。
「自ら用いる手立てを限定する、その不自由を乗り越えることで得られる可能性というものがあります。」(p208)たとえばスペインの建築家ガウディが活躍した時代は、エッフェル塔に象徴されるような鉄やコンクリートなどの近代的な工業材料が出現した。
しかしガウディはあえて古臭い石とレンガを使い、カタルーニャ地方固有の伝統的な工法を採用する建築を追求した。
風土的な、あるいは技術的な限定の下で実行することによって、ある種の創造性が生まれ、究極のサグラダ・ファミリア大聖堂に行き着くのである。
この発想は意外に使える。
段取っていくとき、ヴィジョンからいく方法と、素材からいく方法の両方向性があるが、素材を限定することによって手順がクリアに見えることがある。
簡単に言うと、自分の手持ちの道具はこれだけだとはっきりすれば、それを駆使することで作業効率を上げていくことができるのだ。
要するに素材に習熟するということだ。
安藤のやり方は、鉄とガラスとコンクリートという素材を中心にして、幾何学による構成で建築をするものである。
「誰にでも開かれた材料と構法をもって、誰にでもは決してできない建築空間を生みだしたいと思っているのです。」(p209)と彼は語っている。
それは自分へのチャレンジでもある。
いろいろな材料を使えば、建築のヴァリエーションは増えてくるが、それをやらずに素材を限定することで自分のスタイルを確立していく。
ガウディがサグラダ・ファミリアを作ったのと同じ段取りだ。このように素材を限定することによって行う段取りには、非常なアイディアが要求される。
たとえば、『料理の鉄人』は、2人の料理人の「段取り力」の差があからさまに出る番組だった。まず制限時間がある。そして素材が限定される。
「今日の素材はピーマンです」と言われたら、全部の料理にピーマンを使わなくてはいけない。素材の限定が生むある種の創造性やアイディアがクリアに分かる仕掛けだ。
もし素材が自由であれば、自分の得意な料理を作ってしまうだろう。それでは料理人自身にとっても驚きは少ない。自分の中にチャレンジも生まれにくいだろう。
またそれぞれが自由に素材を使ってしまえば、料理人同士、出来不出来を比較しづらい。
しかし、すべての料理に「ピーマン」を使わなければならないとしたら、その素材の味が活かされるような前菜からメイン、デザートまで、相当なアイディアが要求される。
他の料理人との比較も明らかになる。まさに不自由な制約である。だが、その不自由さの中でこそアイディアが刺激される。
そこからアイディアを生み出していくのが本当の「段取り力」であり、言ってみればプロの「段取り力」だ。私は学生に対してこのやり方を使っている。
限られた素材で授業を作るように言うと、1人1人の戦略やスタイルがクリアになる。素材を限定することで自分もアイディアの出し方を学ぶことができるのだ。
自分自身がどのようなスタイルを持っているのか、自分ではっきりするということだろう。もちろんテーマやコンセプトを決めて、授業を作らせることもある。
「子どもが読書する力がつく授業を作ってみなさい」というのは、テーマから出発した授業の作り方だ。
その場合には、読書力をつけるため素材は何なのか、絵本からいくのか、漫画からいくのか、それとも短い物語からいくのか、素材はたくさんある。
しかしある素材を与えて、これで何かを作ってくれ、テーマやコンセプトも自分で見つけてくれというやり方をすることもある。
両側からいくと、授業を作るとはこういうことかと分かってくる。
作るとは、すなわち自分のアイディアを組み込み、最終的なヴィジョンと素材の間をつなぐ階段を作るということだ。
自分が今そういう作業をしているのだと明確に分かっている人には、簡単なことだろう。だがいったい何をしているのか、自分のやっていることが分からない人にとっては、段取りを組む作業はいっこうにはかどらないことになる。
つまり、テーマを限定する、あるいは素材を限定するというやり方で、どちらかを固定して作業をしていくと、自分はどういうスタイルで仕事をするタイプなのかが分かるし、他の人とも比較できる。
建築家が、自分の得意な素材を持つのは分かる気がする。木ばかり使う人は木を使う。安藤はほとんどを鉄とガラスとコンクリートで作っておいて、最低限人間の体が触れるところを木で作ることが多い。
これは一つのスタイルだ。このように素材を設定することで「段取り力」が変わってくる。「段取り力」を鍛えるためには、ある程度限定した中で訓練をしたほうがいいだろう。
3ホテル再建に見る水も漏らさぬ緻密な「段取り力」
マニュアルを作る側に立つ「段取り力」を考えるとき、ホテルも参考になる。
ホテルは泊まる側からすると、建物とか入れ物というイメージがあるが、ホテルの本質は建物ではなくそれを動かしている段取り力にある。
たとえばどのホテルにもトイレがあるが、段取りが悪く、トイレ掃除の手順が一つでも欠けたら、そのホテルの質は落ちていく。ボイラー室にいる人間の手順が一つでも抜けたら、一気に苦情が出る。
そこで働いている人間1人1人の技としての「段取り力」の集積がホテルの質になるのだ。閉鎖されたホテルの建て直しを描いた『プロジェクト・ホテル』(小学館)には、その段取りの集積が描かれている。
著者の窪山哲雄は大学生のときホテルマンを目指し、アメリカのコーネル大学のホテル経営学部を受けたが、不合格になった。学科試験はできていたが、実務経験がなかったからだ。
そこで、日本の帝国ホテルでハウスキーピングのパートタイマーとして働くことになった。その実習の第1日目がトイレ掃除だった。
彼はここでトイレ掃除の方法を徹底的に学んだおかげで、今でもトイレ掃除は誰にも負けない自信があると言っている。
そのとき教えてくれた戸谷さんという先輩は、ゴム手袋があるのに、素手で便器を磨いたという。
ゴム手袋をしていると本当に汚れが落ちたかどうかが分からないが、指でじかに触れば、汚れを感じ取ることができると言うのだ。
窪山はそこでトイレ掃除の段取りを覚える。それをマスターしたらトイレに関しては自信がつく。一つずつ段取りの技を増やしていくわけである。
次に窪山が担当したのは客室の掃除だった。そこにもまたプロの技がある。
「客室に掃除機をかけるときには、まず靴を脱いで後ずさりしながらかける。こうすると、足跡が残らずきれいに掃除機がかけられるというわけだ。壁にかかっている額の後ろや棚の裏まできっちり磨きたてる。
こんなところまで掃除するのか、というほど徹底的にきれいにする。客室は商品なので、お客様のために完璧な状態にしておくのが仕事であるというプロの意識をいやというほど実感させられた。」(p74)
この経験のおかげで、窪山の部屋のチェックは今でも厳しい。少しでも汚れを見つけると、最初からすべてをやり直しさせるそうだ。ところで、窪山の勉強の仕方も非常に段取りができている。
帝国ホテルの勤務が午後の4時から夜の11時までだったが、残りの時間でフランチャイズレストランの勉強をするため、マクドナルドで朝7時から午後1時までアルバイトをした。
マクドナルドではアメリカ企業のマニュアルに接して驚くことばかりだった。たとえばシェイクの製造マシンは毎回解体して掃除する。
作ってから一定時間たったポテトやハンバーガーはすべて廃棄する。品質をつねに一定に保つため、細かいマニュアルが決められているのだ。
こうしたマニュアルを構築して、企業経営を行うアメリカに対して、彼はいっそう憧れが強くなったと述べている。
ここで注目したいのは、窪山が最初からマニュアルを作る側に自分を置いている点だ。
ただ働かされているだけなら、マニュアルを作った国に対して憧れがわいたとは言わない。
彼は、フランチャイズレストランの経営の勉強をしたいと思ってアルバイトをしている。
だからマックでバイトをしているにもかかわらず、アメリカ企業のマニュアルについての勉強をしているのだ。
自分がいる場所でただ言われたことだけをやっているのではなく、全体で何が起こっているのかを、マニュアルを構築する側の立場に立って見通す。
これがマニュアルを盗む力だ。
段取りを盗む力になる。
マニュアルは作る側から見ると知恵の結晶である。
アルバイトなのにマニュアル作りを見通せる人間は、窪山のように将来、経営者になっていくだろう。
裏段取りを仕込むプロのすごみそもそもホテルをマネージメントするのは、非常に細かい段取りを知らないとできない。
帝国ホテルでの実務経験をへて、窪山はめでたくコーネル大学のホテル経営学科に入学を許可されるのだが、その講義はすべてにおいて合理的だった。
たとえば大学の講義では食肉全般についてのミートサイエンスという授業がある。
最初に堵殺の現場を見て、肉を無駄なく使わなくてはいけないことを学ぶ。
次に肉の脂肪や肉質について勉強する。
肉の脂肪には2種類あって、熱を加えるとどうなるか、どんな料理に適しているかなど、肉を切り分ける教授の手元を見ながら、幅広く、理論的に学んでいくのだ。
「また食在庫の管理から発注、フォーキャスティング(使用量の予測)、ポーションコントロール、伝票の作り方、棚卸のやり方、食材の管理方法といったことをフードコストの面から徹底的に勉強する。
建築学では、ビルの強度を保つためのセメントと砂と水の配合から強度を割り出す計算式とチェック方法を学んだり、断熱材の効果について、部屋の温度を一度上げるのに必要な熱量の計算の仕方までの授業が行われる。
ホテルというと宿泊と料飲がイメージされるが、お客様の二十四時間を三百六十五日お預かりしているので、学ぶべき範囲は大げさではなく生活に関わるすべてに及んでいる。
そのためあらゆるジャンルにわたり学んでおかなければ対応ができない。
」(p76)こうした授業の他に、ホスピタリティやクレーム処理についても実習やディスカッションがあるという。
授業は毎日夜10時ごろまで続き、宿題は山のようにある。
コーネル大学のホテル経営学はアメリカンマネージメントそのもので、MBA(経営学修士)と酷似しているそうだ。
肉を切り分けたり、セメントと水の配合を学んだり、非常に具体性がある。
段取りの鬼という感じである。
これだけのことを教えてくれる大学なら、お金を払う価値があるというものだ。
窪山のホテルでの仕事の覚え方は、「段取り力」を鍛えていくプロセスそのものだ。
彼はコーネル大学を卒業後、ニューヨークのウォルドルフ・アストリアというホテルで働いた。
そのときは宴会営業の担当だったが、朝8時から深夜2時過ぎまで毎日働いたという。
宴会は、朝、昼、夜、サパーと深夜1時過ぎまであり、終了するのを待っていると2時を回ってしまう。
そこではいろいろなパーティが行われた。
フォードとカー
ターが争った大統領選の会場に、ウォルドルフの宴会場が使用されたこともあったという。
「宴会営業はバンケットアナリシスという役割を担っており、顧客、出席者、予算などすべてにわたり分析を行う必要がある。
単なる営業ではなく、プランを組み自分でメニューまで書けなければ一人前とは評価されなかった。
そこで、新しいグルメ本で料理を見つけると、すぐにシェフに相談に行って作れるかどうかを聞いた。
オーケーとなると、さっそく顧客のところに出向いて、新しいメニューでの提案を行った。
」(p91~92)ハードである。
だから日本に帰ってきてフロントの仕事をやったら、非常に暇だったらしい。
確かに宴会営業というと、聞いただけでは何の仕事をするのかよく分からないが、顧客と予算のすべてを管理し、食事の用意までするとなると、大変な「段取り力」が必要とされる。
仕事というのはこういうものかというすごみがある。
訪れる人たちが快適に過ごせるよう、その裏の仕込みや裏段取りをすべてするのがプロの仕事だ。
やはり、仕事らしい仕事には段取りがある。
段取りがいいと流れがよくなるから、サービスを受ける側の人は快適に過ごせる。
同様にホテルでも客が快適に過ごせるよう、裏方としての仕込みの作業、つまり裏段取りに大変な力を入れている。
ドアマンからベルボーイ、客室係まですべての人が気分のいいホテルがある。
1人に何かを頼むと、話が全員にスムーズに通っていく。
それは1人1人の性格がいいという問題よりも、段取りが鍛えられているのだ。
物事を俯瞰して見る視点を忘れない窪山は当時、一番経営がうまくいっていたマリオットホテルの年金システムを解読した。
そして問題点を洗い出し、いい点は残し、問題点だけを改善するという方法で新しい年金システムを作り上げた。
トイレ掃除でスタートしたときから、彼はつねに物事を俯瞰して見る視点を忘れなかった。
それが「段取り力」を鍛える秘訣である。
象徴的なエピソードがある。
窪山がハワイのニューオータニで働いていたときのことだ。
ホテル内の和食レストランの厨房が暑いので、改善してほしいと要望があった。
さっそく彼は厨房を視察する。
普通はエアコンのモーターに問題があると考えるのだが、窪山は設計図を取り出し、全館のエアフロー、つまり空気の流れを調べた。
するとレストランを9階から2階に移動した際、エアコンのエアフローを設計し直していなかったことが判明した。
厨房のエアコンモーターはエアフローを逆に押さえていたのだ。
窪山は厨房のモーターを取り外した。
その結果、空気の流れがよくなって涼しくなったというのである。
「ほんの少しガッツポーズしたい気分だった。
/暑いと聞いた瞬間に、暑さの原因をモーターに集約させることなく、館内全体の問題としてとらえて問題を解決できた。
意識もしないでエアフローを調べようと思ったことからすると、どうも自分はホテルの仕事が向いているらしい。
こうした小さなことの積み重ねを体験するうちに、自分にとってホテルマンは向いているかもしれないと思えるようになっていった。
」(p101)モーターの問題ではなく、館内全体の空気循環の問題として見直すという窪山の目のつけどころは、非常に段取り的である。
「段取り力」とは、全体を通して見る予測力のことだ。
一部だけしか見ないマニアでは段取りが組めない。
彼は自分がホテル経営に向いていると自信を持つのだが、それは正しい判断だ。
要するに自分には「段取り力」があると分かったということである。
その後、彼は北海道の「ウィンザーホテル洞爺」の再生プロジェクトに関わり、理想のホテルを実現する。
彼によれば、高級なホテルとは細部にわたってこだわりを持っていなければならない。
たとえば館内の花はすべて生花でないといけないというわけで、ITを利用して仕入れコストなどを下げて空輸する。
音楽に気を配り、時間帯や気候、季節に応じてBGMを変えている。
「スパでくつろぐためのバスローブは、その素材にこだわった。
エジプト綿は繊維が長いので肌ざわりがいいと言われているが、吸水性を考えると多少問題がある。
イギリスのホテルのバスローブは素材のよさで知られているが、それは長い植民地政策によって最高級の綿の供給が可能になったためと言われている。
イギリスと同じようにとはいかなくても、匹敵するような綿素材で作った。
その肌ざわりのよさを、実感してほしい。
」(p204)最高責任者がバスローブの素材まで知っているというのは強みである。
窪山はアメニティにもこだわった。
「そのかわり、男性のためにはレザーの切れ味にこだわった。
肌に直接触れるレザーの刃は、できるだけ薄く切れ味がいいものを用意することで肌へのダメージが極端に減る。
これによって最高の髭剃りあとを実感できるのだ。
」(p205)確かに、髭剃りにはこだわってほしい。
私はよくホテルで血だらけになる。
次の朝、講演会などというときは本当に困る。
怖くてホテルのレザーが使えないから、自分のを持っていくほどである。
さらに窪山は、ベッドのスプリングにもこだわった。
約400室にすでにあったベッドすべてを廃棄し、新しいベッドに入れ替えさせた。
ホテルのベッドで、家にいるより1時間でも多く眠れたら、それだけで幸せな気分になるだろうというわけだ。
シーツにもこだわりがある。
汗をかく夏と、寒い冬でシーツを変えることで快適性を追求した。
さらに滞在日数が多くても対応できるよう、オープンクローゼットを設け、ミニバーにも缶ビールではなく瓶ビールを置いた。
瓶のほうがおいしいような気がするからだという。
とにかく恐ろしく細かいこだわりがある。
スプリングやシーツ、バスローブの素材まで。
だが、これは趣味の問題ではない。
たまたまバスローブに興味があるとか、音楽が好きだったという問題ではない。
綿の素材から食材の仕入れ、建築や従業員の年金にいたるまで、トータルにできるのは「段取り力」がすごいのだ。
ホテルは総合的な流れのよさと快適さを味わうための空間だから、「段取り力」が勝負になる。
ちょうど血液のように、アメニティからサービスまですべての流れがよくなることで、ホテルは快適に機能するのだ。
ホテルは「段取り力」の集積である、ということが見えていれば、一流ホテルかどうかの区別も容易につくだろう。
ホテルの部屋一つをとっても、部屋に置かれたコップ1個、シーツ1枚、髭剃り一つにいたるまで、窪山のようなすべてを知り尽くした人がこだわって考えたものだとすると、「段取り力」のすごさを実感することができるだろう。
そういう視点で一流ホテルを訪ねるのも興味深い。
4雑誌『ポパイ』に見る余白の「段取り力」
先に石を投げて動きだす
段取り『証言構成「ポパイ」の時代』(太田出版)には、さまざまな段取りのパターンを見ることができる。
マガジンハウスが発行した『ポパイ』は70~80年代に一世を風靡した若者雑誌だが、その黄金期、つまり70年代後半から80年代初頭にかかる時代の、雑誌が一番元気だったころの『ポパイ』の話が書かれている。
今では雑誌作りの夢は経済の夢にすりかわってしまい、マーケティングをしてから雑誌を発行するのは当たり前になっているが、『ポパイ』が創刊された当時は、マーケティングをしてもいわゆる「ポパイ族」はいなかった。
雑誌が「ポパイ族」を作ったのだ。
マーケティングをやると、どうしてもスタートが遅くなってしまう。段取りをするときの悪いイメージは、何か本当の仕事をする前、事前の調査に時間をかけ過ぎることだ。手続きに時間をかけると後手になることが多い。
石を投げずに調査をしても、その調査自体の基準がないわけだから、調査したところでどうなるか分からない。むしろ総合的、直感的に捉えて、自分たちで石を投げ、その反応で動けばいい。まずは動いてみるというのが段取りとしては正しいやり方だろう。
そこで経験知が積み重なれば、大きな予算でチャレンジするときもリスクは少ない。
『証言構成「ポパイ」の時代』にはまさに、先に石を投げる雑誌作りの醍醐味が描かれている。フリーエディター寺央へのインタビューでは次のようなやり取りがある。
「……海外取材が、特に丹念に見えるんですが。寺丹念じゃないんだよね。網羅してるだけで。深くはやってない。
とにかく短時間でダダーッの取材になる。初めて見るものがわんさか。『あ、ヒラリーの靴屋だ』とか。
で、本当はそこで半日くらい丹念に取材しなきゃいけないんだろうけど、わずか1時間か2時間でワッワッワーッ。
写真撮って、資料もらって、じゃあ次行こうでしょ。……松山猛氏に訊いたら、海外取材では一日8時間くらい歩き回ってたと。寺外国行ったら、とにかく全部写真に撮る。使う使わないは別にして。……(略)/『ポパイ』じゃなくて、別の雑誌の仕事で外国行くと、カメラマンや編集がサッササッサと行かないんだよね。
今日はこの店とこの店やったら終わり、みたいな調子なの。おいおい、もったいないじゃないか。時間あるならどんどん次行こうよ、何があるんだかわかんないんだから撮っとこうよって思う。
ところが、予定通りの仕事しかやらないんだよね。……無駄打ちをしないと。寺そう。それが気にいらないんだ。おれなんか、時間もったいないから、どんどん撮ればいいじゃないのって思うけどね。」(p118~119)
海外に行ったら、とりあえず何でも撮影して来てしまう。
効率的に撮るものだけを決め打ちして行くやり方もあるが、ここではその場で使える、使えないという判断をしない。本当はつまらないものかもしれないが、その瑣末なことが面白い記事に発展していく可能性がある。その芽を摘まないようにエネルギッシュに動いているわけだ。
仕事では無駄打ちをしないのがいいことになっているが、この人たちはあえて無駄打ちをする。
これも段取りとしては一見雑然としているが、二度行くわけにはいかない海外という場所でネタをひたすら仕入れる段階だと考えれば、こういう段取りもありだろう。
この本にはいくつか面白いヒントがあって、たとえば編集上の誌面にも人の目の流れを意識した段取りがあった。
アートディレクターの新谷雅弘へのインタビューだ。
「……『ポパイ』のデザインは、誌面が大きく見えるんですよ。新谷目の流れがバーッと流れていくようにつくっているから、大きく見えるかもしれない。大きな写真がきたら、次はこうくる、その次はこうくるっていうので、流れをつくっていくというか。
ぼくはいつも『水が流れる』って言うんだけど。次のページに水を流していく。そのためにはどうまたがらせていくか。それはひとつわれわれの鉄則で、ぜったい切ったら駄目だっていうのがあったんだけど、今は、平気で切るね。
目の誘導っていうのは、雑誌をつくる場合、いちばん大切だから。カチッカチッと、目が止まってしまうように、スタティックになってしまうと、やっぱり本が狭く見えちゃうよね。」(p159)
目の流れがスムーズである、という基準が一つあれば、誌面をデザインしていくときの段取りも決まる。
『ポパイ』の場合、人間工学的な生理的快感を基準にしたので、それが読みやすさにつながっていったのだ。
さらに彼らは、レイアウト用紙を使わなかったらしい。レイアウト用紙を作ったが、それを使うと誌面がつまらなくなってしまうから、誰も使わなかった。
絵を描くように、白い紙にどんどんレイアウトをして、自由な感じを出したという。ずいぶん大胆な編集をしていたようだ。
スペースを作り、その範囲を確定するここに会議の話も出てくるのだが、『ポパイ』には基本的に会議嫌いの人が多かった。
会議室ではなく、喫茶店で一気にアイディアを出し合ったそうだ。喫茶店を上手に使うのも段取りの一つだ。
会社の会議室で「さあ」と構えてしまうと、どうしても雰囲気が硬くなってしまう。アイディアではなく意見が出てしまうことが多い。
喫茶店のようなところで気楽に話すと、思いつきを簡単に言える雰囲気になる。喫茶店は時間的にも空間的にも区切られているので、意外に仕事に使える場所だと思う。
面白かったのは、『ポパイ』は編集者が取材に行って原稿も書いたのだそうだ。取材イコール自分で車を運転してコーディネートして原稿も書く、ということだった。
今は編集者とは別にライターが同行して原稿を書くが、この雑誌では編集者がライター兼ドライバー兼コーディネーターだった。
企画を立てた人間が取材して、原稿まで書いてしまう。そういう時代だったから雑誌が活き活きしていた。効率的に分担すればいいものができるかというと、そうとは限らない。
企画を立てた人が趣旨を一番分かっているし、取材をした人が事情を一番分かっている。あまり分類しないで、そのスペースはその人に任せたという感じだろう。
だから、『ポパイ』には斬新なチャレンジがたくさんある。それから、同じマガジンハウスの雑誌『ブルータス』創刊2号の表紙は町で拾ったアルバムの写真だ。
編集者が拾って来たアルバムの写真が迫力があったので、そのまま表紙に使ったらしい。
「心当たりのある方はご一報ください」、と書いてある。面白い試みだ。
基本的に雑誌のコンセプトや取り組み方がしっかりしていれば、その中に盛り込むものはかなり自由な発想でいい。
偶然の出会いを大切にできる。段取りと言ったとき勘違いしてほしくないのは、あらかじめ決めた通りにしか動かず、出会いのパワーを摘み取ってしまうことだ。
しかし『ポパイ』の場合、決めた段取りだけでなく、時間があったら他のところもどんどん撮ってきてしまう。
そこで新たな出会いがあり、その出会いから新しいネタが生まれる。出会いという空気を残す大胆な雑誌だったと思う。
アイディアや出会いの入る余地を残すことが、段取りを組むコツである。そのためには2つ方法がある。
1つはスペースを空けるということだ。
段取りを組むとき全部を埋めつくしてしまうのではなく、あえてスペースを残しておく。サッカーでもスペースという考え方が重要で、わざと人がいないスペースを作る。
そこに走りこんで行くスピードを利用してゴールまで持っていく。段取りに残すスペースもそれに近いイメージだ。そこは空いているから、自由に何でもできる。
カラオケも同じだ。歌の部分を抜いてスペースにした。そこに素人が走りこんで、気持ちよく歌うことができる。
ただ、空いているところがどこなのか分かるように段取りを組む必要がある。意識的にスペースを作るのだ。
サッカーで言うと、フォワードがディフェンスを引き連れて行って、どこかへ移動をする。そのことによってスペースが空いて、そこに誰かが走りこむ。
これがスペースを意図的に作るということだ。
2つ目はスペースの範囲を確定することだ。文章で言えば「書く枚数は?」とか「書く期限は?」といったことが分かると、そこがスペースになるので、そこから逆算してどんなものを作るのか考えられる。
ライターはレイアウトが決まらないと、なかなか文章が書けない。写真がどのくらいの大きさで何行くらい入るから、と言われると、残りのスペースに文章を書ける。
しかし適当に書いておいてと言われると、入れるべきネタの選別も分量も違ってしまうので、うまく書けない。
ぎちぎちに段取りは組まないで、スペースを作っておくが、その大枠は決めておくということだ。
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