まえがき
人望とは〝この人なら〟と思わせること
いまは、戦国時代と幕末開国時代の危機が同時に日本を襲っている状況だ。バブル崩壊以後の長引く不況のなかで、日本全体が沈滞ムードに覆われている。
不良債権の処理にしても、なかなかすっきりとかたづかないのが実状だ。経済だけでなく、政治も外交も含めて、日本人の意識も国際化が求められている(幕末開国時代の危機)。
ところが、バブル崩壊以降続く不況のなかで、日本人は、ちょうど応仁の大乱後のように、それまでの価値観や生き方のコンセンサス(規範)がすべて破壊されてしまった(戦国時代の危機)。
つまり、経済、政治など、日本のさまざまな体制を国際基準にせよという外圧がいよいよ強まっているにもかかわらず、これに対応する国内の〝受け皿〟が機能しないような状態だ。
経済の停滞とともに、それまで日本の成長を支えていた〝日本式経営〟というものが役に立たないとされ、これにもとづくリーダーシップも再検討を求められている。
が、果たしてそうなのだろうか。
つまり、日本式経営のすべてが悪く、日本式リーダーシップも役に立たないものになってしまったのだろうか。
そんなことはない、というのが私の主張である。なぜか。それは、日本式リーダーシップの基本は「人が決め手」だからである。
この基本は、いつの時代も変わらない。その〝人〟は、「知」と「情」の存在だ。それがリーダーシップを支える。
「何をやるのか、何のためにやるのか」という知的な動機だけでは、人は動かない。「だれのためにやるのか」という情的動機は、日本だけでなく世界中で生きている。
この〝だれのために〟という情念は、別ないい方をすれば、「あの人のいうことなら」「あの人のためなら」という〝なら〟につながっていく。
この、「あの人のいうことなら、あの人のためなら」という、〝なら〟の気持ちをもたせるのが、「人望」である。
その人から発散される「気(オーラ)」だ。中国では「風度」というのだそうだ。
この本は、いまの時代にもっとも必要なのは人望、すなわち風度であることを検証し、その実例を歴史の中から拾い出したものである。
巧みな編綴は、畏友の荒井敏由紀さんがみごとな包丁さばきによって実現してくれたものである。
人望力の要諦を「人間通」「世間通」「経済通」「(人に対する)影響力」「人間力」の五要件に分け、素材をそれぞれに分類、位置づけしてくださった。
この努力には、私自身、目からウロコの落ちる思いをしている。
この本に託す思いはただ一つ、多くのビジネスマンやリーダーたちが、「いまの自分は間違っていない」と、大きな自信をもち、「このままがんばろう」と、自分をはげましてくださることである。
二〇〇二年六月童門冬二
第一章人間通──人を見きわめる、人を動かす
第二章世間通──情報に通じる、時代を読む
第一節情報を集める吉田松陰の教育方法に学ぶ松陰のリーダーシップの根源は、すべて情報にあった織田信長を天下人にならしめた情報分析第二節情報を活用する原作者ではなく脚本家だった坂本龍馬龍馬にもできたが、われわれにもできること龍馬が龍馬たり得た人間関係のネットワーク第三節世間を読む徳川家康の「分断管理」の狙い権力と財力を分散させるトップに意見をいうのは至難の業
第三章経済通──無駄を省く、生きた金を使う
第一節節約する子どもながら経済感覚が発達していた日吉丸木下藤吉郎に徹底調査を命じた織田信長仲介業者をはずし、産地直結購買方法を取り入れるだれもが損をしない解決法を探る第二節斬新な経済感覚をもつ豊臣秀吉は城攻めも経済感覚にもとづいていた秀吉の新しい戦法に負けた吉川経家黒田如水の敵を抱き込む金の使い方如水のウルトラCによって、毛利家は和睦を承知した第三節時代を先取りする秀吉を黙らせた近江武士の金銭感覚武士なのに商人感覚をもっていた石田三成増田長盛は豊臣政権下の経済官僚の役割を果たした秀吉の政策を支えた長束正家の財テクゼニ勘定だけでなかった近江出身の豊臣官僚たち
第四章影響力──個性を見抜く、人を育てる
第一節個性を見抜く人材活用に役立つ武田信玄の人間分類法帆足万里のたった一人のための教育緒方洪庵が望ましく思っていた人間とは近代日本を背負う人材を育てた洪庵の教育方針第二節人を鍛える織田信長流の人の試し方努力によって身につけた才能を重く見た信長
土井利勝は部下に〝考えさせる時間〟を与えた将軍と部下をともに反省させた老中間違いを直接指摘せず、自分で考えさせる部下の指導に必要な温かいリーダーシップとは政治の極意は四角いものに丸いフタ第三節人を育てる不況時こそ人づくりを大切にした名君たち能力に応じて教えることを変えた細川重賢教育費は何があってもケチるな細川重賢とは逆の方針をとった上杉鷹山
第五章人間力──自分を育てる、人間の器を大きくする第一節自分を知る上に立つ者は批判に耳を傾けよという蜂須賀家政の戒めケチと倹約と無駄の差をつけた黒田如水如水の言葉に学んだ秀吉の部下「腹立たずの会」を活用して名将となった黒田長政十数年間の勉強を全部捨てた福沢諭吉の勇気〝国盗人〟による支配が評判のよかった理由相乗効果で同志の能力を発揮させた北条早雲のカリスマ性人を育てるということは自分を育てるということ現代にも通用する「一国一城の主」になる方法織田信長にも通じる戦国時代の生き抜き方第二節挫折を生かす不幸な経験をその後に生かす道不条理にも織田信長に追放された前田利家不遇なときにこそわかる真の仲間世の中には自分が正しくても通用しない場合があることを知る部下の傷の痛みがわかるリーダーたれ第三節自分をコントロールする松平定信を退けた田沼意次の陰謀徳川家斉が仇敵を老中筆頭にした理由ポストについている人間を再試験する効用町奉行から将軍まで指導した松平定信与えられた役割に徹することで自分を生かす
第一章人間通──人を見きわめる、人を動かす
人望力の要諦の第一は人間通である。人間通とは、人に通じていること、すなわち人間というものをよく知っていることである。
人間に通じていればこそ、相手に応じて人を見きわめることができる。人を見きわめてこそ、どうすれば相手が動くかがわかる。
上に立つ者は、ときに応じて、人を叱って指導しなければならないが、怒るのではなく、相手のために叱るには、人を見きわめることができる人間通でなければならない。ほんとうに自分のために働いてくれる人がいてこそ、人望力は生きる。
第一節人を動かす木下藤吉郎による現場の人間のやる気起こし
人を使わなければならない立場に立ったときに戸惑うのは、どうすれば人が動くかということだ。人が動くのは、本人がやる気になったときである。
正しい意味で部下にやる気を起こさせるということは、
- 自分の仕事の目的をキチンと把握させること。
- 自分のやった仕事が、その目的に対して、どれだけの寄与、貢献があるかを自覚させること。
- 部下のなしとげた仕事に対して正当な評価が行われること。
これがつまり、働くことに対する〝モチベーション(動機づけ)〟といわれるものだ。部下にしても間違っているときには、「キチンと叱ってほしい」と思っている。
ところが心ないリーダーは、この「叱る」と「怒る」の区別がつかない。叱るというのは、相手に潜んでいる能力を引き出す呼び水のようなものだ。だから、相手に対する愛情が前提になる。
相手に潜んでいる能力を引き出すということは、「部下の自主性を尊重し仕事をまかせる」ということだ。しかし、まかせっぱなしではだめだ。
リーダーはよく、「失敗を恐れずに、思いきって仕事をしてほしい。何か起こったときは私が責任を負う」という。
言葉は美しい。
しかし今の世の中を見ていると、ほんとうにこの言葉どおり責任を全うするリーダーが少ない。
部下の自主性を尊重するということは、そのまま部下のやったことに対する全面的責任を、勇気をもって負うという覚悟がなければならない。
戦国時代、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃の話である。かれは、諸国を放浪した後に、尾張(愛知県)の織田信長に仕えた。あるとき、台風で清洲城の石垣が壊れた。
戦国は危機連続の時代なので、これを聞きつけた敵がいつ襲ってくるかわからない。石垣の復旧は急がなければならない。信長は工事奉行に、「すぐ修理せよ」と命じた。ところが、幾日たっても石垣は直らない。
働く人間たちは、ぶつくさ文句をいっているだけでいい加減な仕事をしている。信長は苛立って工事奉行を呼び、質した。
「なぜ、石垣の復旧にこんなに時間がかかるのだ?」工事奉行は答えた。
「いくら叱っても、働く人間がいうことをきかないのです。あいつらは怠け者です。全員取り替えてください」信長は心の中で、(現場の働く人間が悪いわけではない。こいつのリーダーシップがなってないからだ)と感じた。
そこで、木下藤吉郎を呼んで、「おまえが工事奉行になれ」と命じて、その工事奉行を更迭した。
台風で壊れた石垣の修理を命じられた木下藤吉郎は、労働に従事する部下百人を集め、まず、一杯酒を飲ませた。
このあたりは藤吉郎のいつもの手だ。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人を「天下人」という。しかし、同じ天下人であっても、三人の時代と歴史に対する役割は違った。
信長──古い価値観を破壊する。
秀吉──新しい価値観による日本社会を建設する。
家康──二人の先輩が出現させた社会を、長期的に維持管理する。
やさしい言葉を使えば、信長は壊し、秀吉はつくり、家康は守ったのである。この「壊し・つくり・守る」という状況に応じて、それぞれリーダーシップの質が違う。
建設期を引き受けた秀吉が行ったのは、何をおいても、「現場の人間のやる気起こし」である。
上のほうがいくら理屈をこね、偉そうなことをいっても、現場の人間が動かなければ、絶対に新しい社会などできない。
その見本が、この石垣修復事件だった。
木下藤吉郎が、まず働く人間を集めて酒盛りを開いたのは、このやる気起こしに火をつけるためだった。
少し酒がまわってくると、藤吉郎は、だれともなく部下にきいた。
「なぜ、おまえたちは石垣の修復に力を入れないのだ?」部下の一人がこう答えた。「今、何のために石垣の修理を急がなければならないか、理由がよくわからないからです。
前の工事奉行に理由をきくと、生意気なことをいうなと怒られ、トップの信長様が直せといっているのだからさっさと仕事をしろと怒鳴るのです。
これでは、仕事をする気になれません」藤吉郎は別な男にきいたが、答えは同じだった。
(この連中は、仕事の目的をまったくつかんでいない。自分たちが何のために石垣の修理をさせられるのか、まったくわかっていないのだ)そう感じた藤吉郎はこういった。
「いまがどんな時代であるかは、おまえたちもよく知っているはずだ。石垣の一部が崩れたという情報は、この清洲城に隙があれば、攻め込もうと待ちかまえている敵にすぐ伝わる。
もし、敵が石垣の崩れたところから侵入して城に火をつけたら、この城の中に住んでいるおまえたちの家族も全部犠牲になってしまう。
石垣を直すということは、織田信長様のためだけではない。おまえたちの家族を守るためでもあるのだ」
皆は黙ってお互いに顔を見合わせた。しかし、やがてその目が輝き出した。納得したらしい。部下たちはいっせいに藤吉郎に向かってうなずいた。
「よくわかりました。で、どんな仕事のやり方をすればいいのですか?前の工事奉行からは何の指示もなく、ただ早くしろ、急げと怒鳴るばかりでした」藤吉郎はうなずいて、こういった。
「おまえたちの人数は百人いる。そこで、十人ずつの組をつくれ。十組になるはずだ」
「でも、だれとだれが組めばいいのですか?中にはお互いに気の合わない者もいます。嫌いな者同士が組んでも仕事がうまくいきません」
「そのとおりだ。だから、だれとだれが組むかはおまえたちが決めろ。俺は口を出さない」皆、いっせいにブーイングの声を立てた。
「そんな無責任な!」という声もあがった。
藤吉郎は首を横に振った。
「決して無責任ではない。これが俺の仕事はじめだ。だれとだれが組むかはおまえたちが決める。俺はそれを尊重する。そして俺が仕事を命ずるのはそれぞれの組だ。おまえたち一人一人の個人ではない」
はじめて聞く論法なので、部下たちは何が何だかわからなくなった。しかし、藤吉郎はニコニコ笑っていた。
個人のやる気を盛り上げて、組織のやる気を盛り上げる
「十人ずつ一組になれ。自分が仕事を頼むのはその組であって、個人ではない」という木下藤吉郎の言葉は、そのまま、「仕事というのは組織が行うのであって、個人が勝手なことをするのではない」ということだ。
この段階で、藤吉郎はすでに、〝チームワークの大切さ〟を提起している。
何だかんだとブツブツいいながら、いろいろな話し合いが行われ、ついに百人の部下は十の組をつくって藤吉郎のところに報告に来た。
藤吉郎は、「では、そのまま酒盛りを続けろ。俺は仕事がある」といって、その場から去った。
しかし、家に戻ったわけではない。
石垣が崩れたところに行って、丹念にその場所の点検をし、縄を使って崩れたところを十ヵ所に分けた。
酒盛りを行っているはずの部下たちが来て、代表がきいた。
「お頭は何をしているのですか?」藤吉郎は苦笑してこう答えた。
「おまえたちが自分たちの意思によってつくった十の組に、それぞれ一ヵ所ずつ工事個所を預けようと思う。そのために崩れた場所を十ヵ所に分けていたのだ」他の者がきいた。
「では、われわれ各組は、それぞれ一ヵ所ずつを修復すればいいということですか?」
「そうだ。十の組はそれぞれ競争しろ。一番早く修理が終わった組には、信長様から褒美をもらってやる」部下たちは驚いた。
というのは、当時の信長はダンプカーのようなトップリーダーで、自分だけ馬に乗ってどんどん前に進む。追いつく者だけを相手にし、追いつけない者は見捨ててしまう。
つまり、中世以来、日本に巣くっている古い価値観を壊すには、それくらい思いきったリーダーシップを発揮しなければだめだ、という考えをもっていた。
「そんな信長様が、褒美など出すはずがない」と皆思っていた。
藤吉郎はそんな気持ちを十分知ったうえで、「今夜はもう帰って寝ろ。明日からは一所懸命働いてもらわなければならないからな」といった。
しかし、部下たちは帰らなかった。かれらは新しい経験をしていた。
「木下さんは面白いリーダーだ」「発想が変わっている。やり方も新しい」「俺たちは何のために石垣の修理を急ぐのか、その理由をよく理解した。家族のためだと思えば、仕事にもはげみが出る」
「今夜このまま帰っても、落ち着いて寝られない。どこかの組が抜けがけをしないかと心配だ。それならいっそのこと、今晩から工事を進めたほうがいい」しまいにはそんな声まであがった。
翌朝、藤吉郎がやってきたときには、石垣は完全に直っていた。喜んだ藤吉郎はきいた。
「よくやった!しかし、十に分けた工事個所を、よくそれぞれの組が分担したな?」部下たちはいっせいに答えた。
「皆で話し合いました」「立派だ」藤吉郎は褒めたたえた。そして、一番早く工事が終わった組の代表に、用意してきた金の袋を渡した。
「信長様からの褒美だ」「わあ」と喜びの声がわいた。藤吉郎は約束を守った。
昨夜のうちに信長に話して、「もしご都合が悪ければ、私がお立て替えします」とまでいって、褒美を強要したのである。
この藤吉郎の部下のやる気起こしは、かれが生涯貫いたものだ。
かれは、「個人にやる気を起こさせ、それを組織する。つまり、個人のやる気を集めれば、組織としてのやる気が盛り上がる」と信じていたのである。
劉邦と項羽に見る、人にまかせる器量
リーダーには二つのタイプがある。それは「知型」と「情型」のほかに、「完全型」と「不足型」のことだ。
完全型というのは、リーダーとして備えるべき条件を全部身につけているタイプだ。不足型というのは、どこか欠けているタイプである。
中国の有名な歴史書に『史記』というのがある。司馬遷という人が書いた本だ。
この本には、「期待されるリーダー像」と、「期待される部下像」のいろいろな例がたくさん描かれている。
その中に、劉邦と項羽の話がある。劉邦というのは、いうまでもなく中国古代の「漢」という国をつくった人物だ。そのため劉邦は、漢の高祖と呼ばれた。
一方の項羽は、その劉邦に攻め立てられて自分の城で自決する。かれには愛人がいて、非常に美人だった。虞という名だった。
項羽は死ぬときに、この虞を抱きながら、「虞や、虞や、汝をいかにせん」(虞よ、虞よ、こんなことになって、いったいおまえをどうすればいいかなあ)と嘆いたという。
虞は大変な美人だったので、後に〝虞美人草〟などという花の名になった。劉邦と項羽は、まったく対照的なトップリーダーだった。
項羽はまじめで、若いときから役人生活を送り、民衆の気持ちをよく理解し、部下への愛に富んだリーダーだった。
反対に劉邦のほうは、若い時からヤクザ性があり、酒と女性が好きで、いつもいいかげんな生活を送っていた。
また、リーダーシップの取り方についてもまったく対照的だった。項羽のほうは、部下のことは何でも知っていた。部下だけでなく、その家族のことも知っていた。
たとえば毎日のように、重役に、「どこどこの職場にいる、何とかという男を呼んでこい」という。
その男が来ると、項羽は金の包みを出して、「今日はおまえの子どもの誕生日だろう。これで何か買ってやれ」という。
部下は感激する。胸の中で、(この人のためなら、命もいらない)と考える。このように項羽は、末端の部下の家族や私生活に至るすみずみまで知っていた。
かれの頭の中にあるマイクロフィルムには、そういうものがいっさい記憶されていたのである。
反対に、劉邦のほうはいいかげんだった。かれには、張良や韓信、蕭何などという有名な重臣がいた。
劉邦に、こと細かく部下のことを知っている項羽の話をすると、劉邦は「項羽はばかだ」といって笑った。
報告した者は驚いて、「項羽がなぜばかなのですか?」ときく。すると劉邦はこう答えた。
「そんな末端の部下の私生活まで知っていて、肝心な仕事をどうするのだ?リーダーというのはそういうものではない。
何のために組織があり、その組織にポストがあって、おまえたち幹部がいるのだ?」
まわりにいた者は顔を見合わせた。末端の部下の家族のことまで知っている項羽に対し、劉邦が、「項羽はばかだ」といったのは、次のような理由からである。
- 組織には必ずポストがあり、トップはそのポストにいるリーダーたちに権限の一部を与えている。
- その権限を受けた中間リーダーは、トップの分身であって、中間リーダー個人ではない。
- トップリーダーは、中間リーダーをいかにいきいきと働かせるかが責務になる。
- それなのに、項羽のように一般の従業員に対してまでいちいちロを出すことは、間にいるリーダーたちの職権を奪うことになる。また仕事に対する介入だ。
- あるべきトップは、中間リーダーだけを掌握し、その下の部下の管理については、すべて中間リーダーにまかせるべきである。
項羽を滅ぼした劉邦は、自分の重用する幹部である張良や韓信たちに仕事の権限を分け与え、「かれらにまかせておけば安心していられる」という信頼感をもっていた。
そうなると、まかされたほうは緊張する。
「これだけの権限を与えられてもし失敗したら、トップに迷惑が及ぶ。そのときは責任を取らなければならない」という考え方になるからだ。
劉邦の説は、一種の「組織論」である。組織というのは、必ず三つの職層に分かれる。
トップ層、ミドル層(中間管理職)、ロウ層(一般の職員)である。
武田信玄に、「人は城人は石垣人は堀」という有名な言葉がある。
この言葉は、組織のトップ、ミドル、ロウに対する信玄の気持ちを告げたものだ。信玄はこう考える。
「自分が仕事に対してもっている権限と責任は、たとえば一つの茶碗のようなものだ。分権というのは、この茶碗を叩き割ってたくさんのカケラをつくることだ。これをミドルとロウのすべての人間に分け与えることである。
分け与えるということは、部下の生活を保証する、つまり給与を与えるということである。
その代わり、どんなに小さなカケラでもこの給与をもらった者は、その給与についてはトップと同じ責任がある。
人は城、人は石垣、人は堀というのはそういう意味である」だから、ロウ層が末端で、たとえば対外者に接触する場合においても、信玄から見れば、「ロウの一職員でなく、私の一分身、あるいはひとカケラがその対外者に接触しているのだ。
対外者から見れば、その職員の対応の姿勢によって、この組織に対するイメージが決定してしまう。それだけの責任がある」ということである。
しかし、そうさせるためには、部下から見て、「この人のためなら」という気持ちを起こさせることが必要だ。
これはたんに、ふつうにいわれるリーダーの条件だけではなく、「そうさせる魅力」がなければだめだ。
「このリーダーは、自分のことばかり考えているのか、それとも部下に対して愛情をもっているのか」というモノサシである。
次節で詳しく述べる〝叱る〟と〝怒る〟の差は、その一例だ。
劉邦の考えによれば、「組織にはそれぞれポストがあり、自分がトップとして権限を分け与えたリーダーが中間にいるのだから、その下の部下の管理は中間リーダーにまかせる。その代わり、何か起こったときの最終責任は自分が負う」ということである。
これがなければだめだ。
何か起こったときに、「おまえに権限を委ねているのだから、おまえがすべて責任を負え」などといっていたのでは、中間リーダーだけでなく、ロウの職員からも見限られる。
第二節怒らずに叱る
怒り上手ではなく叱り上手だった黒田如水
上の立場に立ってむずかしいのは、「叱る」と「怒る」の差をどうつけるかだ。
「自分が叱っているのに、相手はちっともわかってくれない」と嘆く人が多い。この場合は、叱っているのではなく、「怒っている」からだ。
では「叱る」と「怒る」では、どう違うのか。
叱る──リーダーが、相手に愛情をもって潜んでいる可能性を引き出そうという気持ちを込め、きびしい態度で臨むこと。
怒る──相手に悪感情をもって、憎しみや怒りの感情を露骨に表して相手にきびしく迫ること。
この場合は、相手の可能性を引き出すよりも、むしろ自分の感情発散と一種の自己満足を得ることを目的としている。こういう差があるといわれる。
そして、相手は叱られたときはそれなりに感じとり、また怒られたときもそれなりに感じとる。だから、事後の態度が違う。
つまり叱られたときは、「ああ、自分は悪かったな」と思う。
ところが怒られたときは、「たしかに自分が悪いが、こんなにまでいわなくてもいいじゃないか。この人は自分の感情を発散するために私に怒鳴っているのだ」と受け止める。
前者では善意が生まれ、後者では悪意が生まれる。このあたりがむずかしい。
そのために自信のない上司は、いくら叱っても部下が反応しないので、しまいにはサジを投げてしまう。それだけではない。
今度は、自分の評判をよくするために、やたら部下の気持ちに迎合したり、あるいはおもねったりする。
つまり、「あの上司は好い人だ」といわれたいがために、そんな阿諛迎合の態度をとるのだ。これは間違っている。
後輩や部下は、決して自分がいまのままでいいとは思っていない。
「自分にもどこか欠陥があるはずだ。パーフェクトでは絶対にない」という不安感を常にもっている。
そういうときに、「おまえの欠点はこういうところにあるのだから、これを直せばもっといい能力が発揮できる」というような、いわば〝呼び水〟のような叱り方をしてくれれば、それはそれで感謝するはずだ。
それを、「いったい、おまえは何をやっているのだ!いくらいってもわからないやつだ」というような、頭ごなしな怒鳴りつけ方をすれば、もうそれだけで相手は萎縮してしまう。
萎縮してしまうだけではない。へこまされた直後から、今度は相手に対する怒りの情をわかせる。そうなったら、もう二度とそんな上司のいうことはきかない。このあたりが非常にむずかしい。
だから人の上に立つ人は、「自分は叱ろうとしているのか、怒ろうとしているのか」ということをまず考えるべきだろう。
私事だが、私はかつて先輩から、「後輩を怒ろうとするときは、胸の中でまず十数えてみろ。
一、二、と十まで数えて、それでもなお相手を怒ろうと思っていたら、そのときは怒れ。
十まで数えるうちに、自分の怒りが鎮まってしまうようだったら、それは一時的な感情がそうさせていると思って、やめたほうがいい」といわれたことがある。
その先輩から見れば、私がリーダーとして、若気の至りで、いつも叱るのではなく怒ってばかりいたからだろう。
歴史上の人物で名の残る人は、たいていはこの「叱り上手」であって、「怒り上手」ではない。戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた黒田如水もその一人である。
罰を与えても心くばりする
黒田如水は、「人使いの名人」といわれた。こんな話がある。
彼の部下で雑務係をつとめる竜若といわれる若者がいた。よく働くが、一人よがりで、とくに動作が乱暴だった。
あるとき、如水が大事にしている道具を壊してしまったので、こらしめのために如水は、この竜若を縛って柱につないだ。
「こらしめのために、おまえを三日間、こうしておく」と宣言した。ところが、二時間ばかりたつと、如水は竜若の縄を解いた。
竜若は、(勘弁してもらえるのか)と思ったが、そうではなかった。如水は一通の手紙を竜若に渡して、「これを藍原村の代官のところに持っていけ。代官はこの間から、うまい瓜があるのでお届けしたいといっていたから、私の代わりに瓜をもらってこい」と命じた。
竜若は飛ぶようにして藍原村に行った。やがて代官からたくさんの瓜をもらって戻ってきた。
如水はニコニコ笑って、「ごくろう。おまえも食え」といって、瓜を二つばかり竜若にも渡した。
ところが竜若が瓜を食い終わると、如水は「ここへ来い」といって、また竜若を縛って柱にくくりつけてしまった。
「許してくださったのではないのですか?」如水は笑って首を横に振った。
「いったはずだ。おまえの罰は三日間こうしておくことだ」竜若はあきれた。
まわりにいた者も、思わず顔を見合わせた。
如水は、その後も柱に縛りつけた竜若の縄を解き、いろんな用事をいいつけた。竜若もよくつとめた。しかし、それで罰が許されるわけではなかった。
如水は、「おまえの罰は三日間こうしておくことだ」と宣告したが、その言葉どおり、決して途中で竜若を許しはしなかった。
竜若もしまいには観念していろいろ考えた。
(如水様は、俺が憎いわけではない。俺の性格が乱暴なので、それを戒めようとなさっているのだ。
それには、やはり根気を養うことが必要だとお考えになって、俺の性格に潜んでいる根気を引き出そうとなさっているのだ。
そのためには、すぐ罪を許すよりも、宣告どおり三日間縛りつけておくことが大切だとお考えになっておられる)そう悟った。
三日目になると、竜若の行動はいままでとはまったく変わった。顔つきも変わった。
柔順さが目に見え、自分の中に潜んでいる別な能力を自分から引き出して、喜んで仕事をするようになった。
いってみれば、竜若は〝自己啓発〟を行ったのである。その〝呼び水〟を如水が与えた。
三日目の夕方になると、如水は竜若の縄を解いて解放し、「どうだ?こりたか?」ときいた。
竜若は苦笑して、「はい。お教えは身に沁みました。これからは乱暴はいたしません」といった。
如水は満足した。竜若が去ると、側近がやってきてきいた。
「なぜ、三日間柱に縛りつけにせずに、ときおり、縄を解いて用事をお命じになったのですか?ずいぶん変わったこらしめ方だと、みんなで噂しておりました」如水は笑いながら答えた。
「別に理由はない。縛りつけにしておいたら、あいつの腕に縄の跡がついて、いつまでも消えないだろう。かわいそうだから、ときどき縄を解いてやっただけだ。あいつも根は善良な人間だ。目をかけてやれ」
そんなことにまで心くばりをしていたのか、と側近たちは思わず顔を見合わせたという。
徳川家康流のひと味違う叱り方
徳川家康が独立したのは、岡崎城においてであった。
それまで松平元康と名乗っていたかれは、織田信長と同盟して徳川家康と名を変えた。
このとき、家康は、「これからは民政を大切にしなければならない」と考え、町奉行という役職を設けた。
家康の組織と人事に対する考え方は、「人間の能力の掛け算を行う」ということである。
能力の掛け算を行うというのは、「一つのポストを複数制にして、お互いに長所と短所を研究しあい、相乗効果を期待する」ということだ。
したがって、岡崎の城下町に設けた町奉行も、三人で仕事をさせた。この役職に対する複数制は、その後、家康が開いた徳川幕府ではルールになる。
明治維新までの二百六十年間、あらゆるポストが複数制だった。
家康のいう「能力の掛け算」だけでなく、「能力の競争」も期待できたからである。家康は岡崎城に宿直をおいた。これも複数制で三人でつとめさせた。ある夜、家康は宿直室にやってきた。
「慣れない仕事なので慰労してやろう」というつもりだった。差し入れも持ってきた。ところが宿直室をのぞくと、宿直員は一人しかいない。
家康は、「ほかの二人はどうした?」ときいた。突然、主人の家康がやってきたので、残っていた宿直員はびっくりした。パッと飛び下がり平伏し、ブルブル震え出した。
家康は、その様子を見て、(おかしいな)と感じた。そこで「ほかの二人はどこへ行ったのだ?」ともう一度きいた。
額を板の間にすりつけた宿直員は正直者だったので、「城下町の遊廓に行きました」と答えた。
家康は、「何、遊廓へ?」と驚いた声を出した。
宿直員が、宿直の晩に仕事を放り出して遊廓へ行くなどというのはとんでもない話である。
ふつうなら、その宿直員を叱りとばし、「すぐほかの二人を呼んでこい!」というだろう。ところが家康は違った。
そこへ座り込むと、持ってきた差し入れの飲食物を出して、「いっしょに食おう」といいながら、「おまえはばかだ」といった。
恐縮しきっている宿直員は、「は?」と家康の顔を見返した。自分がなぜばかだといわれたのか、理由がわからなかったからである。家康はその理由を説明しはじめた。
「いいか、俺が岡崎城の宿直員を三人にしたのは、一人では寝ずの番がつとまらないからだ。交代で睡眠をとりながら、城の中に異常がないかどうか確かめる。それが宿直だ。
にもかかわらず、ほかの二人はその仕事を放り出して遊廓に行ってしまった。ところが、おまえ一人は残って、二人の代わりをつとめようというわけだ。そんなことができるはずがない。おまえもすぐ遊廓へ行け」
突拍子もないことを家康がいい出したので、宿直員はいよいよ面食らった。家康はいった。
「町奉行をはじめ、岡崎城内のいろいろな役職を複数制にしたのは、連帯責任ということを考えさせるためだ。三人がいつも心を合わせ、同じことをするためだ。一つの仕事を三人で行うときには、常に同じことをしろ。悪事をするなら、いっしょに悪事をしろ。自分だけいい子になって、一人で仕事をしようなどという心がまえは俺はいやだ。
つまり、おまえは一人だけ残って、自分だけいい子になろうとしている。そういうことでは、俺がせっかく宿直を三人一組にしたのも意味がなくなる。
一人で残るくらいだったら、なぜほかの二人が遊廓へ行くのを止めなかったのだ?おそらくおまえは、自分が一人で残るから、おまえたちは遊んでこいとかっこいいことをいったのに違いない。それが間違いだ。ふつうの人間だったら、遊廓に行った人間を叱る。
しかし俺は違う。三人一組の秩序を乱したのは、ほかの二人ではなく、むしろおまえだ。ほかの二人が遊廓へ行くのを止めなかったおまえが一番悪い。わかったか?」
こんなヘンなことをいわれて、すぐわかるはずがない。
家康は、差し入れに持ってきた飲食物をさんざん食べた後、「すぐおまえも遊廓へ行け。いいな?」と命じた。
残っていた宿直員は大慌てで遊廓へ飛んでいった。しかし、遊ぶためではない。「コレコレだ」と家康のいったことを話した。
ほかの二人も真っ青になった。そして、すぐ城に戻ってきた。驚いたことに、宿直室に家康はまだ残っていた。一人で飲み、食っていた。三人が戻ってくると、ニコニコ笑った。
「戻ってきたな。では、仕事を引き継ごう。おまえたちが留守の間、俺が宿直をつとめたぞ」そういった。
そしてその後、三人に対しては何の罰も与えなかった。家康流のひと味違った叱り方である。
秋元喬知は息子たちを褒めながら叱った
秋元喬知は、川越城主で、五代将軍・徳川綱吉のときに老中(閣僚)をつとめた。川越城へ来る前は、甲州の谷村城主だった。
喬知は谷村で甲州の有名な郡内織を発見し、これをそのまま川越に持ってきた。川越で育てたのが川越平などの絹製品である。これは現在も川越の名産品として伝えられている。
喬知は〝人育ての名人〟と呼ばれた。こんな話がある。ある雪の日に、喬知は自分の子ども(長男と次男)を連れて町に出た。喬知は駕籠に乗っていたが、二人は歩かせた。
二人の子どもは、鼻を赤くし、手をかじかませながら一所懸命歩いた。喬知は駕籠の中から、チラリチラリと子どもたちの反応を見ていた。
やがて屋敷に戻ると、喬知は二人の子どもを呼んできいた。「今日の雪の日の散策をどう受け止めたか?」長男はこう答えた。
「とても冷とうございましたが、父上のお供をして散策ができたので、寒さは何とも感じませんでした」「そうか。おまえはどうだった?」弟にきいた。
弟は、まだ頰を赤くしたままこう答えた。
「寒うございました。いくら父上のお供でも、こんな散策は二度とご免だと思いました」「そうか」喬知は微笑んだ。
そして、二人の子どもにこういった。
「兄のほうは気持ちを偽っている。ほんとうは寒くて父の供などいやだったはずだ。にもかかわらず、おまえは父に孝行を尽くさなければいけないと思って、無理をしている。
弟のほうは、正直だ。自分が感じたそのままを語った。おまえたちはやがて大きくなったら政治を行う立場になる。
そういうときに、民の気持ちを自分の気持ちとして感じとることが大切だ。
それには兄のように無理をすることはよくない。弟のように、寒い日には寒いと素直に感じることだ。そして、民もさぞかし寒がっているだろうと思うことが大切だ。
しかしまた、武士である以上、寒いと感じたことをそのまま寒いというのは、今度は意気地がないと思われる。
政治を行う者はここがむずかしい。
一番大切なのは、民もさぞ寒かろうと思いつつ、武士としてはその寒いということを口に出さずに、民のための政治を行っていくことが大切なのだ。わかるか?」
二人の兄弟は、大きくコックリをした。喬知はニッコリ笑った。
「おまえたちのようにいい息子をもって、私は幸福だ。下がって、すぐ風呂に入って温まりなさい」といった。
秋元喬知の場合は、まさしく「叱っても怒らない」ということの見本である。
ほんとうをいえば喬知は、(弟のほうが政治家向きだ。兄のほうは、虚栄心にみちて負け惜しみをいっている)と思ったことだろう。
もっと悪く解釈すれば、(兄のほうには、父に対するおもねりがある)と思ったに違いない。
だから兄に対しては、喬知の本心は、「おまえには強い者、権力者に対する媚へつらいの気持ちがある。
子どものときからそんな気持ちをもつのは危険だ。改めろ」といいたかったに違いない。
しかし、それを弟の前でピシャリとやってしまったら、兄の立場がなくなる。まして自分は父だ。親子の関係を越えて、他人に対するようなことをすれば、兄はひがんでしまう。
そして、「父上は、弟のほうばかり信頼し、可愛がっている」と思い込んでしまうに違いない。そういう心をもったら、その後、どういう成長の仕方をするか非常に危険だ。
喬知はそのために、両方のいいところを褒め、自分で考えて悪いところは改めるように仕向けたのである。
この、「自分の欠点を自分で考えさせる」ということも、〝叱る〟ということの一つの目的だ。
これを、「おまえはなっていない!」とピシャリと叩きつけたら、その相手は二度と立ち上がる気力を失う。喬知は、そのへんなかなか巧妙だった。そして、それは自分の子どもに対しても部下に対するのと同じことを行ったのである。
怒るよりも許す度量をもつ
秋元喬知は誠実な大名だったので、将軍に愛され、やがて江戸城の重い役についた。しかし、この役目は非常に金が要った。
そこで喬知は折々、地元の川越藩に命じて、「金を届けてくれ」といった。あるとき、この金を届ける役目にAという武士が選ばれた。
Aは誠実な人間で、いつもまめまめしく働いていた。
たまたまこの役を命ぜられたとき、かれは体力を必要とする仕事をすませたばかりだったので、非常に疲れていた。
川越から江戸に行くのには、有名な〝川越夜舟〟というのがあった。昔の交通は、〝モノは水の道〟、〝ヒトは土の道〟といわれた。
モノを運ぶのには、海や川の水路を利用したほうが大量に運べたからである。しかし、水の道はモノだけでなくヒトも運んだ。
川越夜舟はその典型的なものである。そして、この川越夜舟には、特急便、急行便、普通便などの区別があった。
Aは特急便に乗ったが、昼間の疲れが出て、いつのまにかぐっすりと寝てしまった。このとき、Aは用心のために、藩で預かった金袋のヒモを首にかけていた。
舟が江戸近くに着いて、船頭に起こされた。ほかの客はとっくに上陸して、もうだれもいない。
「もう着いたのか」Aは照れくさそうに頭をかきながら、船頭に礼をいって上陸した。
首に手を触れて、「あっ」と叫んだ。金の袋がなくなっていた。Aは、(しまった!)と真っ青になった。
寝ているうちに、だれかに盗まれてしまったのだ。絶望と不安の念で胸をいっぱいにしながら、江戸の屋敷に行った。重役に報告すると怒鳴られた。
「ばかもの!あの金を失ったら、殿様が、お仕事ができなくなるではないか!」重役はすぐ秋元喬知のところに報告に行った。
喬知は眉を寄せて、「金を盗まれたか、それは弱ったな」と落胆した。重役は、「責任者を呼びます」といって、Aを連れてきた。Aは真っ青になっている。(切腹は、まぬかれない)と覚悟しているものの、不安の念でいっぱいだった。
喬知はAを見た。
「おまえか?金を盗まれたのは」「はい、さようでございます。まことに申し訳ございません」「金を入れた袋は、いったいどこに保管していたのか?」「盗まれてはいけないと思い、胸の中に入れて袋についたヒモを首にかけておりました」「それがなぜ盗まれたのだ?」「昼間の疲れが出て、思わず寝入ってしまったからでございます。すべて私の責任でございます。どんな重い罰をいただこうとも決して不平は申しません。存分にご処分くださいませ」
潔いAの言葉に、喬知は怒りを和らげた。そしてこういった。
「Aよ。これからは、大事な物は首にかけずに心にかけておけ」思わず顔を上げ喬知の顔を見るAを、喬知は穏やかな笑顔で見返した。
「居眠りをしたのは、川越城での仕事がつらかったからだろう。よい。金のことはもう忘れろ。下がれ」Aは思わず重役の顔を見た。
重役はまだ怒ってAをにらみつけていたが、その重役にも、喬知の温かい気持ちがわかった。
とくに喬知がいった、「大切な物は首にではなく、心にかけておけ」という言葉は、何という温かい言葉だろうと感動していた。
Aの命は助かった。
Aはいままでにもまして、喬知に忠節を尽くすようになった。
第三節人を見きわめる
おもねりを嫌い、気骨を買った蒲生氏郷
蒲生氏郷は戦国時代の武将だ。織田信長の婿になり、将来を大いに期待された。信長が死んだ後、豊臣秀吉に仕えた。
氏郷は、「若いけれど、人づくりの名人だ」といわれていた。
氏郷は常に、「情と給与は車の両輪だ」といっていた。
「人を教育する場合に、精神教育だけではだめで、本人の能力に応じた褒美をやらなければだめだ」ということである。
もちろんこれは仕事面のことで、教育面ではない。その氏郷にこんなエピソードがある。
ある重役が、「現場に玉川という若者がおりますが、なかなか才知にすぐれているので近習(秘書のこと)としてお使いになったらいかがですか?」と推薦した。
氏郷は自分の組織内に優秀な人物がいるといわれると、非常に喜ぶ性格だったので、「わかった。その玉川という若者を私のそばによこせ」といった。
玉川は推薦どおり才知に満ちあふれ、まめまめしく氏郷に仕えた。
先輩の近習たちは、「玉川はさすがにすごい。われわれも大いに学ぼう」と、感嘆の目で見た。
しばらくたつと、氏郷が重役を呼んでこういった。
「玉川を現場に戻せ」「は?」重役はけげんな表情で氏郷を見返した。
「何かお気に入らないことがございましたか?」「ある」氏郷ははっきりうなずいた。
重役は、「玉川のどこがお気に召しませんか?」ときいた。
氏郷は重役を見返し、こう応えた。
「おまえが推薦したとおり、玉川はたしかに才知に満ちた若者だ。仕事はよくできる。機転もよくきく。大変便利な近習であったことは確かだ。ただ一つ気に入らないことがある」「気に入らないこと?」重役は聞き返した。
氏郷は重役の目をまっすぐに見つめこういった。
「あまりにも才知が働きすぎるので、人の心を見抜くクセが強い。その例に、玉川は私の好きな人間と嫌いな人間を、はっきりつかんでいる。だから、私の好きな人間を話題にするときは褒めたたえる。
しかし、嫌いな人間が話題になったときは、メチャメチャにけなす。これはよくない。私は玉川に人物評をやれといって、近習を命じたわけではない。
好き嫌いは私の考えだ。
主人の私がそう考えているから、この人は褒めればお気に召すだろう、この人はけなせばご満足だろうと考えるのは、いきすぎだ。
私は若い者がそこまで他人の心に踏み込んでものを判断するクセを好まない。
近習役が、私を訪れる人間を、私の好き・嫌いというモノサシによってえりわけていたら、私の仕事は成り立たない。また蒲生家という組織も運営できない。これが玉川を現場に戻す理由だ」重役は言葉が返せなかった。
現場に戻された玉川は大いに不満だった。かれはしきりに氏郷の悪口をいった。やがて、気まずくなって蒲生家を辞めた。
そして、ほかの大名の家来になった。ところが氏郷が指摘した悪いクセを発揮したので、そこでもクビになった。
玉川は浪人になり、みじめな最期をとげたという。反対にこんなエピソードもある。西村という中年の家臣がいた。
性格がまっすぐなので、氏郷の悪いことには、いつもズケズケと意見をいっていた。が、あるとき、過ちを犯して浪人した。
一、二年たつと重役が心配して、「西村を呼び戻してください」といった。氏郷は、よかろうと応えた。西村が戻ってきた。
しかし、浪人生活を続けていたので瘦せていた。西村は、昔は相撲が強かった。そこで氏郷が、「おい、西村、相撲を取ろう」といった。
西村は、「かしこまりました」といって、氏郷の相手をした。浪人した後も、西村は体を鍛えていたので相変わらず強い。たちまち氏郷を投げ飛ばした。まわりにいた者はびっくりして顔を青くした。
氏郷はニコニコ笑いながら、「西村、相変わらず強いな。もう一番!」といった。まわりにいた者は心配して、西村にそっと「今度は負けろよ。また殿様を投げ飛ばしたら、おまえの再雇用はだめになるぞ」と注意した。
西村は黙ってうなずいた。みんな、西村は今度こそ負けるだろうと、いっせいに視線を注いだ。ところが、西村は今度も氏郷を投げ飛ばした。まわりにいた連中はがっかりした。(これで、再就職はだめになった)と思った。
ところが氏郷は、体についた砂を払いながら、ニコニコ笑ってこういった。
「西村、さすがだ。浪人して、生活は貧しくなったかもしれないが、心は相変わらず豊かだ。よく、節を曲げずに自分を大切に守り抜いた」と褒めた。
そして、「これからも、俺の悪いところはズケズケ意見をしてくれ」といった。西村は笑いもせずに、まじめな顔でうなずいた。
「そうするつもりでございます」「こいつめ」氏郷は豪快に笑った。西村も笑った。
そういう主人と家来の心の行き通いを、まわりにいた連中は、(氏郷様は、こういう方なのだ)と感じた。
そして氏郷がなぜ、玉川というあの才知に満ちた若者をクビにしたのか、改めてその理由を悟るのだった。
部下の性格を見抜いた加藤清正による〝適材適所〟
熊本城といえば、江戸時代藩主だった細川家が有名だ。しかし現地に行くと、意外と加藤清正の人気が高い。
熊本城の麓にも〝清正公〟といわれて、清正に関わりのある神社がある。
しかし、歴史小説の世界では、いま加藤清正を積極的に書くことは一種のタブーとなっている。
というのは、豊臣秀吉が朝鮮に侵略戦争を仕掛けたときに、加藤清正はその手足となって働いた。
そして、朝鮮から虎まで捕獲して連れてきたので、朝鮮側の清正に対する感情が著しく悪いというあたりに原因があるようだ。
しかし、国内においては、清正は「人使いの名人」といわれ、他の大名たちの追随を許さなかった。
こんな話がある。清正の脇には〝母衣衆〟と呼ばれる一群の武士がいた。母衣というのは布製の袋で、もともとは矢を防ぐ武具の一つだ。
が、これがやがて大名の直属の伝令将校の着るものになり、将校たちはそれぞれ自分の好む色でこの母衣を染めた。
馬に乗って走り出すと、この母衣が風をはらんで、ちょうどパラシュートのようになる。これが、敵の矢を防ぐ。
なかなかカラフルなもので、戦場にいる兵士たちは、「また母衣衆が走っていく。あれはだれだれだ」と母衣の色で判断した。
いってみれば、母衣衆は戦場におけるスターであった。加藤清正の母衣衆をつとめる武士に、森本と庄林という人物がいた。
清正は勇猛な武将だったので、それまでの合戦ではほとんど敵陣に攻め込んでいた。そして、そのときの母衣衆として使ったのが森本である。
森本はそのために鼻を高くし、「主人が一番信頼している母衣衆は俺だ」と思い込んでいた。
ところがあるとき、清正が突然、「庄林、母衣をつとめろ」といった。庄林はびっくりした。
森本の顔を見ると、森本は露骨にいやな顔をしている。森本は清正を見た。(なぜ、私ではないのですか?)という不満の色がありありと浮いていた。
清正はおかまいなしに、庄林に命じた。
「現場の指揮者に、退却しろと伝えろ」「は」庄林は馬に乗り、すぐ母衣をひるがえして現場に走っていった。
その後ろ姿を見送りながら森本がいった。
「大将」「なんだ?」「なぜ、今日は私をお使いにならないのですか?」これをきくと清正は、「後で話す」といった。
森本はプッとふくれて横を向いた。
胸の中で、(清正様は俺を見限ったのか)とひがんだ。
しかし、清正は森本の気持ちなどおかまいなく、じっと前方を見つめている。
何か気がかりなことがあるらしい。
やがて、前方から大勢の声がして、こちらへ向かってくる一群の軍勢がいた。
これを見ると、清正の目に喜びの色が浮かんだ。
やがて軍勢が戻ってきた。
先頭に立っていたのは、その軍勢の指揮者と庄林である。
馬から降りた二人は、「戻りました」と清正に報告した。
清正は、大きくうなずいて、「よかった。
よく無事に戻ってきてくれた」といって庄林に、「おまえもご苦労だった」と声をかけた。
森本はいよいよ面白くなくなった。
合戦が落ち着くと、清正は森本を呼んだ。
そして、「さっきのおまえの問いに答えよう」と、こういう話をした。
「いままで、俺はあまり合戦に負けたことはない。
常に勝ち戦だった。
だから連絡将校として、おまえを使ってきた。
ところが、今日は味方の旗色が悪い。
どうしても退却せざるを得ない。
しかし、勝ち戦に慣れたおまえを連絡将校として現地にやれば、おまえは果たして現地の将兵を退却させたかどうかわからない。
敵の情勢を見て、もう一度突っ込んだほうが勝てるかもしれないと思い、現地の指揮者といっしょに軍勢を敵陣に殴り込ませかねない。
今日はそれをやられたら、さらに多くの犠牲者が出る。
庄林は慎重な男だ。
かれは勝ち戦の指揮には向かないが、負け戦の引き揚げは得意だ。
だから今日、俺は庄林を現地に派遣して部下を全員無事に引き揚げさせたのだ。
庄林は役割を果たした。
いってみれば、おまえは勝ち戦向きの母衣衆であり、庄林は負け戦向きの母衣衆なのだ。
わかるか?」森本はもじもじした。
清正の説明が行き届いていたからである。
森本ははずかしくなった。
「大将、申し訳ないことをいたしました。
あんなことでひがんだ自分自身をはずかしく思います」「そういってくれれば、俺も助かる。
森本よ、今度、勝ち戦のときはまたおまえに苦労をかけるからな」そういう清正の言葉に、森本は、(俺はこの大将のために命を捨てるぞ)と思った。
加藤清正はこういうふうに部下の性格を見抜いて、ほんとうの〝適材適所〟を行っていたのである。
こういうことが、現在でも熊本で、「住民が自慢する人物は加藤清正だ」といわれるゆえんなのだろう。
財政難のときほど人べらしをしなかった徳川義直
徳川家康は自分の九男、十男、十一男の三人に分家をたてさせた。
九男に尾張徳川家、十男に紀伊徳川家、十一男に水戸徳川家である。
これを「御三家」といった。
徳川義直は家康の九男で、初代の尾張藩主である。
学問が深く、また外国の文化も積極的に尾張に取り入れた。
とくに中国の文化人を招き寄せたので、その頃、明という国が滅びた中国大陸から亡命者が続々と日本に渡ってきた。
亡命者の間では、「尾張の徳川義直様が、われわれを優遇してくださる」という噂が流れ、中国から日本に渡ってきた文化人たちは尾張に殺到した。
現在も名古屋市内には、これら中国からの渡来人の名をとった地域名などが数多く残っている。
義直はまた、当時つぶされた大名の家臣の中で有能な者をどんどん召し抱えていた。
まだ関ケ原の合戦や大坂の陣からそれほどたっていない頃だったので、日本中、浪人がウヨウヨしていた。
もちろん、義直は前々から自分の家に仕えてきた武士も大事にした。
そのため財政負担が重なり、尾張藩の財政は赤字だらけの火の車になった。
ところが、こういうように義直が次々と浪人を召し抱えているので、「尾張様は、徳川幕府に謀反を起こすのではないか?」というような噂が流れた。
ときの老中(閣僚)・松平信綱は、かねてから義直を尊敬していたので心配した。
あるとき、義直のところに行って、「最近、尾張様のなさることに幕府首脳部が疑問をもっております。
お台所(財政)がひどく傾いているとうかがいましたので、少し人べらしをなさったらいかがでしょうか?」といった。
人べらしをしろということは、暗に「やたらに浪人をお召し抱えになると、幕府の嫌疑を受けますぞ」という警告である。
義直は笑って、こういった。
「人べらしができるくらいなら何も苦労はしない。
昔から、よく主人と部下は一つムシロにくるまって寝るというではないか」「そのようなことを申しますか。
私は主人と部下は同じ釜の飯を食うという言葉は知っておりますが」「俺のところは、そんなことはとっくにやっている。
釜の飯をいっしょに食うだけではない、一つムシロにくるまって寝るぐらいの気持ちがある。
どんなに金に困っても、俺は人べらしなど絶対にしない。
いざとなったときに助けてくれるのは部下だけだ」現在、リストラがさかんで人べらしは日常茶飯事になっている。
義直のような言葉をきいたら、さぞかしだれもが目を潤ませることだろう。
義直はしかし単純に、「人は絶対にへらさない」と考えていたわけではなかった。
かれも藩の財政実態が容易ならざることは知っていた。
つまり、尾張徳川家を現代の一つの企業に見立てれば、企業環境が非常にきびしいことは十分認識していたのである。
義直は、●人はへらさない。
●しかし部下がいまのままの体質でいいとはいえない。
●自分なりに、自分の中に潜んでいる異能を発見すべきだ。
●それを自他ともに認めて、ほんとうの適材適所を実行すべきである。
と考えていた。
つまり、「財政難のときに、手持ちの資源は人以外にない。
なぜならば、人間は無限の可能性を秘めているからだ。
しかし案外、自他ともにその秘めている能力に気がつかないことが多い。
これは本人自身も自覚しなければいけない。
さらに本人の自己改革を促すために、指導者が本人に潜んでいる能力を発見して引き出すことが必要だ」と思っていた。
そのため、義直はかなり人事異動を活発に行った。
はりきりすぎる部下も困る
重役の寺尾土佐という人物が、あるとき、「近頃、殿様のところに来るお手紙や訪問客が増えました。
この整理がなかなかむずかしゅうございます。
えりわける基準を設けて対応しなければ、混乱するばかりでございます。
私の存じております武士に、渋谷弥太夫と申す実直な者がおります。
これをお使いになってはいかがでしょうか」と推薦した。
名古屋城内の仕事は、表と奥に分かれている。
表というのは一般の政務を扱う。
奥というのは、義直の個人的な用や秘書の仕事を果たす。
秘書長を番役といっていた。
寺尾土佐がいうのは、その番役に渋谷弥太夫をお使いになったらいかがかということである。
義直はこまかい人事に対しては、重役たちにまかせてあるので、「いいだろう」と答えた。
渋谷弥太夫がお目どおりした。
見ると寺尾土佐がいったように、まさに実直な顔つきをしている。
義直は、(少しまじめすぎるようだが、秘書のような複雑な仕事をこなせるかな)と、ちょっと不安に思った。
渋谷弥太夫は、「ふつつか者でございますが、よろしくお願い申し上げます」とお辞儀した。
義直はニコニコ笑って、「俺はわがまま者だ。
無理をいうことが
多いと思うが、よろしく頼む」と応じた。
渋谷弥太夫ははりきった。
かれは自分の詰め所に行くと、すぐ部下になる小姓や侍女を集めてこういった。
「渋谷弥太夫だ。
これからおまえたちといっしょに仕事をする。
よろしく頼む」弥太夫はすでに重役の寺尾土佐から、「今度おまえに奥の番役を頼みたい」と内示されたときからはりきっていた。
渋谷は寺尾の話をたいへん名誉に感じた。
(かねてから尊敬している殿様のおそばで仕事ができる。
なんという名誉なことだろう。
一所懸命がんばろう)と思った。
そのため、かれは実際に辞令が出る前から仕事についていろいろと計画を立てていた。
自分が考えたことを部下になる小姓や侍女に話した。
「お殿様のところには、いろいろなお手紙や訪問客がある。
これをそのまま取り次ぐのがわれわれの仕事ではない。
どう整理し、お殿様にお見せするのか、あるいは客を会わせるのか、一つのモノサシが必要だと思う。
そのモノサシを、俺は自分なりにつくってみた。
これがそれだ」こういって、渋谷はふところの中から、自分が書いてきた書き付けを取り出した。
そして、「みんな、まわし読みをしてくれ」といった。
書き付けには、「一、殿様への手紙の処理について」「二、殿様への訪問客の処理について」「三、尾張徳川家に関するいろいろな情報の処理について」などという項目が立てられ、それぞれ次のような区分が示されていた。
たとえば、「殿様への手紙の処理について」では、殿様にお見せすべき手紙、殿様にお見せしたほうがいい手紙、殿様にお見せしないほうがいい手紙、殿様にお見せすべきではない手紙、などと書いてあった。
訪問客についても、殿様に会わせるべき客、殿様に会わせたほうがいい客、殿様に会わせないほうがいい客、殿様に会わせるべきでない客、とある。
情報についても、殿様のお耳に入れるべき情報、殿様のお耳に入れたほうがいい情報、殿様のお耳に入れないほうがいい情報、殿様のお耳に入れるべきでない情報、などと細かく書かれていた。
小姓や侍女たちは顔を見合わせた。
小姓の一人がきいた。
「このモノサシはたいへんけっこうだと思いますが、殿様にお知らせすべきかすべきでないかの判断は、どういう基準によるのですか?」「いいことをきいてくれた」渋谷弥太夫は、うれしそうにニコリと笑った。
そして「それはだな」とうなずき、こういうことをいいだした。
「俺が考えたのは、殿様のお耳に入れるべきか、入れるべきでないかのモノサシは、殿様もやはりお一人の人間でいらっしゃるのだから、ご気分というものがおありになる。
同時にまた、殿様自身も仕事に対して、やる気を起こされたり、あるいは失ったりなさることもあるだろう。
そうなると、われわれ脇につく者がやることは、常に殿様がいいご気分でお仕事に専念なされるようにおぜん立てをすることではないかと思う。
そうなると、あまり愉快でない手紙や客は、見せたり、会わせたりしないほうがいいと思う。
つまり殿様のご気分が、常にほがらかで明るく仕事に専念できるようなご気分をわれわれがつくりだすのだ。
これが基準だ」質問した小姓は、同僚たちと顔を見合わせた。
(この番役はずいぶんとむずかしいことを考えたものだ)と目で語り合った。
しかし、渋谷弥太夫のいうことはよくわかった。
「秘書は、常に主人がすっきりした気分でいられるようなおぜん立てをしなければいけない」といういい方に説得力がある。
みんなも、(たしかにそのとおりだ)と思った。
そこで、一同は、「わかりました。
ご番役のご指示にしたがいます」といった。
渋谷は満足そうにうなずいた。
渋谷弥太夫が立てた基準は正しい。
渋谷弥太夫が考えたのは、こういうことだ。
「俺たち奥づとめは、いってみれば殿様の玄関番だ。
しかし玄関番は、手紙や訪ねてきた客を全部玄関を素通りさせて殿様に取り次げばいいというものではない。
チェックが必要だ。
チェックには判断力がいる。
その判断をするために、われわれ玄関番は給料をもらっているのだ」つまり渋谷弥太夫の考えは、「自分たちの給料は、秘書としての判断料である」ということだ。
一理ある。
たしかに来た手紙を全部トップに見せたり、あるいは訪ねてきた客をすべてトップに取り次いでいたのでは、トップはたまらない。
中には会いたくない客もいる。
そういうときには居留守を使うこともある。
そのあたりを要領よく処理するのが秘書の役目だ。
それを全部、「これをご覧ください」と、ドサッと手紙の山を机の上に置かれたり、あるいは、「次はだれだれ様です」と、分刻みで客を通されたのではたまったものではない。
「いい加減にしてくれ!俺にも仕事があるんだ」と怒鳴りたくなるだろう。
とくに徳川義直は気が短い。
すぐ怒る。
渋谷弥太夫はかねがねそのことを知っていた。
だからこそ、「殿様は気が短い。
そんな短気な殿様に、手紙をすべてお見せしたり、客をみんなお会わせしていたのではたまったものではない。
俺たちが弁慶のように玄関に立ちはだからなければだめだ」と考えた。
それが渋谷弥太夫なりの義直に対する忠誠心の披瀝であった。
渋谷弥太夫は部下たちにこういう指示を与えると、寺尾土佐のところに行って自分のやり方を報告した。
土佐はじっときいていたが、「けっこうだ。
殿様もお喜びになることだろう。
しっかりやれ」とはげました。
寺尾も自分が推薦した人間だったので、渋谷がそこまで考えてくれたことをうれしく思った。
がんばりが裏目に出てしまった部下の処遇
が、ことはそう簡単にはいかなかった。
それは渋谷の性格に問題があったからだ。
寺尾土佐は単純に、「渋谷弥太夫は実直だから、こういう交通整理もうまくやるだろう」と考えたのだ。
表面的にはそのとおりである。
ところが、人間というのは微妙な存在だから、ちょっとした仕草や言葉づかいでまるっきり別な反応を起こすこともある。
また、相手に本人が考えたとおりのインパクトを与えないこともある。
俗な言葉を使えば、「裏目に出る」ということが多々起こる。
渋谷弥太夫の場合がそうだった。
かれは自分が立てたモノサシを正しいと信じこんだ。
その限りにおいては正しい。
しかし、問題は、「その正しいモノサシをどう活用するか」ということが二番目の問題だ。
〝やり方〟である。
実行の方法がまずいと、せっかくのモノサシも狂う。
渋谷の場合がそうだった。
部下である小姓や侍女たちは、渋谷の立てたモノサシを必ずしも渋谷と同じように理解したわけではない。
モノサシを自分なりに判断する。
そうなると渋谷のおもわくを越えて、「見せてはならない手紙」が、義直のところに行ってしまうことがある。
義直は変な顔をして、「この手紙はなんだ?俺にどうしろというのだ?」と渋谷を呼んできく。
渋谷は見せられた手紙を見て、「たしかに、さようでございますな」とうなずく。
「申し訳ございませんでした。
こんなものをお見せして」控え室に戻ってくると、渋谷は大声を出す。
「だれだ?この手紙を殿様にお見せしたのは」「私です」小姓の一人が名乗る。
渋谷はその小姓をにらみつけた。
「おまえは俺がいったモノサシをまったく理解していない。
こんなものは殿にお見せすべきではない。
殿のご判断の必要のない手紙だ。
これからは気をつけろ」「はい」みんなの前で怒鳴りまくられた小姓は、顔色を変えてうなずく。
しかし、目はあきらかに渋谷に対して非難の色を浮かべている。
(こんな小さな失敗を、なにもそんな大声で怒らなくたっていいじゃないか。
みんなの前で怒られて、俺は面目を失った)といっていた。
渋谷は気がつく。
そこで、「なんだ、その目つきは」と、また怒る。
小姓は、「申し訳ありません」とヤケクソな謝り方をして、自分の席に戻っていく。
渋谷は、憎々しげにその小姓をにらみつけたままだ。
そして、持っていた手紙をバンと机に叩きつけると、「ばかものめ、俺の心がちっともわからない。
殿様もご不快な思いをなさったはずだ」と一人でブツブツ文句をいう。
みんなは顔を見合わせた。
中には舌を出す者もいた。
それを見ると渋谷は、「なんだ?」とに
らみつける。
始末に負えない。
職場の空気は目に見えて険悪になった。
こんなことも起こった。
「至急、殿様にお目にかかりたい」といってくる家臣がたくさんいる。
渋谷はすぐには取り次がない。
まず「用はなんですか?」ときく。
訪ねてきた武士はこれこれだという。
すると渋谷は首を横に振る。
「そんな程度のことで殿様にお会わせするわけにはいかない。
殿様はいまお忙しい。
そのことは、あなたの上司に話すべきだ」という。
その武士は、「上司に話してもラチがあかないから、殿様のところにきたのだ。
会わせろ」という。
渋谷は、「会わせるわけにはいかない」と断る。
武士が渋谷より上位者の場合は怒る。
「渋谷、きさまは玄関番だ。
玄関番は黙って客を通せばいい。
会わせろ」「そんなもののいい方はない。
私は、どなたをお会わせするか、しないかの判断をするために給与をいただいている。
殿にはお会わせできない」とつっぱる。
こういうことが毎日のように起こった。
対内的には部下たちとの間に軋轢が起こり、対外的には訪ねてくる家臣たちとの間に悶着が起こった。
渋谷はまじめだから、ときに大声を出す。
その怒鳴り合いの声が、しばしば義直の耳にも入った。
義直は考えた。
やがて、(実直だが、渋谷はこの仕事に向かない)と思うようになった。
仕事が終わって渋谷たちが城を出た後、義直は自分の居室から渋谷たちの控え室にやってきた。
そして机の上に整理されている書類を見た。
渋谷は几帳面だった。
自分だけでなく部下にも命じて、手紙や書類の類はきちんと整理してあった。
その整理ぶりはじつに目を見張るような正確さである。
渋谷は義直への手紙や客のモノサシをつくったほどだから、書類整理も完璧だった。
(あの男には、こういう才能がある)と、学問好きの義直は、ふっとあることを思った。
それは義直自身が集めた古文書や古書の整理がほったらかしになっていることだった。
義直は歴史が好きだ。
そのため、手当たりしだいに関係資料を集めている。
が、それはだれにも手をつけさせない。
たまたま見かねて、「整理いたしましょうか?」という部下がいても、「いや、自分でやるからいい」と手をつけさせなかった。
したがって、かれの部屋はそういう古い文書や本でいっぱいになっていた。
渋谷弥太夫もそのことを知っていたので、「整理いたしましょうか?」といったことがある。
渋谷にすれば、ほんとうをいえば手紙の整理や来客の整理などよりも、そっちの仕事がしたかった。
そのほうがはるかに義直に接近でき、名誉に思えたからだ。
やりがいもある。
義直は重役の寺尾土佐を呼んだ。
そして、「渋谷を表の詰め所にまわすように」と命じた。
寺尾は眉を寄せた。
「何か不都合なことがございましたか?」「何もない。
しかし、奥の番役は神経が疲れる仕事だ。
長くやらせておくとかわいそうだ。
表へ出せ」「はい」返事はしたものの、寺尾土佐の胸にはわだかまりが残った。
義直のいい方にひっかかるものを感じたからである。
寺尾土佐が感じたのは、(渋谷のやつはしくじったな)ということであった。
寺尾土佐は渋谷を呼び出して、このことを告げた。
渋谷は不満そうな顔をした。
「私を表へ出すについて、殿様から何か説明がございましたか?」「別にない」寺尾はそれ以上、何もいえなかった。
この時代は、人事異動は重役からの申し渡しで、藩主が直接やるわけではない。
したがって不満があっても、藩主のところにいって、直接「どういう理由で、私は異動させられるのですか?」などときくわけにはいかない。
渋谷は不服そうな顔をして、「わかりました」といった。
すぐ評判が立った。
「渋谷はしくじったのだ」「殿様のお気にさわった」というばかりか、「そうじゃない。
侍女の一人にちょっかいを出したのだ」とセクハラによって異動させられたのだなどという者まで出てきた。
そういう非難やからかいの声を身に受けながら、渋谷はしかし、表の役所で仕事に精励した。
ふつうだったら、ヤケクソになるだろう。
自分に何も落ち度がないのに、殿様が勝手に異動させた。
その異動について、城内スズメが勝手なことをいっている。
しかしそれにいちいち、「違う、それは違うぞ!」と言い訳をしてもはじまらない。
どうせ、いってもきいてはもらえない。
いえばいうほど、その噂を真実なものに近づけてしまう。
渋谷は黙った。
家の者が文句をいった。
「どんな失敗をなさったのですか?なぜ、奥から表に出されたのですか?せっかく奥で番役という名誉な仕事をしていたのに、あなたはほんとうにふがいないお方です」妻まで文句をいった。
が、渋谷は、「うるさい」といっただけで、それ以上口をきかなかった。
もともと実直な渋谷のことだから、表の仕事は性にあった。
かれの判断力は的確だったし、奥の番役になったときにも、「義直に見せるべきもの、見せてはならないもの」というように、手紙一本にしてもモノサシをつくって処理したくらいだから、表の仕事はテキパキとかたづいた。
かれを使う上役たちは、「こんなに有能な男を、殿はなぜお退けになったのだろう?」と疑問をもった。
左遷された人間を再登用する
半年ばかりたったある日、義直は重役の寺尾土佐を呼んで、こういった。
「渋谷をもう一度奥で使う」「はあ?」寺尾土佐はびっくりした。
「しかし、渋谷は先日まで奥の番役がつとまらずに表にお出しになったはずですが。
もう一度、秘書の番役をつとめさせようとおっしゃるのですか?」「いや、違う。
今度は俺の私的な文書の整理をさせる」「どうもよくわかりかねますが」まだ疑問の念を捨てない寺尾土佐に義直は説明した。
「おまえのいうとおり、たしかにあの男が奥の番役になったときに、俺のところに来る手紙や客を整理するためのモノサシをつくった。
俺も見せてもらったが、なかなかよくできている。
あいつらしい。
それにそうしてくれたほうが俺も助かる。
何もかも俺のところにすべて持ち込まれたのでは、俺も弱る。
しかし、問題は、あのモノサシの運用だ。
あいつは自分でつくったモノサシの運用の妙ということを知らない。
例外を認めない。
奥の仕事というのは理屈一辺倒ではいかない。
理屈のほかに情が必要だ。
たまには気をきかせるとか、あるいは便宜をはかるというようなことをしなければ、俺の脇で奥づとめはできない。
渋谷は実直な男だ。
汚れのない気持ちをもっている。
それは認める。
しかし、あいつが奥の番役になってから悶着ばかり起こった。
部下たちともうまく折り合えない。
訪ねてくる者はみんな追い返す。
俺は楽だが、しかし、いつもあいつの怒鳴り声が俺の部屋まできこえてきて、ハラハラしどおしだった。
追い返された客は、別な人間を使って、俺のところに文句をいってくる。
俺はそのたびに渋谷をかばったが、いつまでもそんなことばかりしていたのでは、俺の身ももたない。
また、ほんとうは会わせるべき人間、あるいは見せるべき手紙、あるいは伝えるべき伝言などがあったかもしれない。
そう考えると、俺は、あいつはどうも秘書役には向かないと判断した。
だから番役を免じ、表へ出した。
しかし、寺尾よ」ここで義直は言葉を切って、ニコリと笑った。
「俺が歴史好きで、いろいろ古い文書を集めていることは、おまえもよく知っているとおりだ。
しかし、集めた量が膨大で、俺一人では到底整理ができない。
渋
谷がつくった、俺に見せるべき文書、見せたほうがいい文書、見せないほうがいい文書、見せるべきではない文書などというモノサシの設定は、本来なら俺が集めた歴史的な文書のほうにこそ適用するべきだったのだ。
歴史的文書は、史実や事実を大切にしなければいけない。
そのためには、それこそ情を持ち込んではならない。
自分の好き嫌いなどという感情によって歴史的文書を仕分けするなどはもってのほかだ。
だから、渋谷がつくったモノサシを使って、あいつを秘書役ではなく、そういう文書の整理役にすればよかったのだ。
いってみれば、かれにとっての使い方を俺が誤った。
適材適所ではなかったということだ。
あいつにとってほんとうの適材適所というのは、俺が集めた歴史の文書を整理させることだったのだ。
そのことに気がついた」「はあ」寺尾土佐はあいまいな応じ方をした。
目は義直を凝視している。
土佐は頭の中でいろいろ考えていたが、まだ義直の真意がつかみきれない。
目の底に、疑問の色がありありと浮かんでいた。
だから、寺尾土佐はこういった。
「いまのお言葉どおりでしたら、奥の番役を免じたときに、そのまま歴史文書の整理役をお命じになるべきだったのではございませんか?」「そのとおりだ」義直はうなずいたが、すぐこう続けた。
「たしかにおまえのいうとおり、ほんとうなら奥の番役を免じたときに、俺の歴史文書の整理にまわすべきだった。
しかし、そんなことをすれば、あいつは増長する。
なぜ自分が奥の番役から歴史文書の整理役にまわされたかを深くは考えまい。
というのは、あいつはもともと歴史文書の整理がやりたくて仕方がなかったからだ。
だから、歴史文書の整理役にまわせば、あいつは奥の番役をみごとにつとめたから、俺がさらに大切な歴史文書の整理役にまわしたと思うだろう。
そうなると、あいつの鼻はいよいよ高くなる。
やはり、あいつの鼻の先を叩き折らなければだめだと考えた。
というのは、奥の番役をやっているときに設けたモノサシを、あいつは正しかったのだと信じ込んでしまう。
そうなると、歴史文書の整理にも自分のモノサシをつくって、そのモノサシどおり整理するだろう。
それは困るのだ。
俺にとって歴史文書の整理というのは、自分の考えをもたずに、俺の意志を意志として整理してくれることだ。
つまり、あいつ独自の歴史に対する考え方を、そのままモノサシとして、歴史文書を整理しはじめたら、いままで奥の番役でいろいろと問題を起こしたのと同じように、文書そのものが混乱してしまう。
だから、俺はいったんあいつを表へ出した。
ふつうなら、そんなことをされればひがむか、あるいはひねくれて仕事を投げやりにするだろう。
ところが、あいつはそれをきちんきちんとこなした。
不平は一言もいわない。
俺はじっとあいつの仕事ぶりを見つめてきた。
そして、こいつならだいじょうぶだと思った。
あいつはヘンな奴だ。
というのは、自分のやることに常に自信をもっていて、まわりがいくら何をいおうと、それによって動揺しないという芯の強さをもっている。
が、まわりの城内スズメにいろいろなことをいわれて、それがあいつの心にもまったく影を投げかけなかったとはいえない。
あいつはあいつなりにいろいろ反省したはずだ。
ただそれを表に出さなかっただけだ。
矛盾するようだが、あいつの芯の強さは歴史関係の文書の分類に絶対に欠くことができない。
それは冷静さにつながるからだ。
周囲の状況や自分の感情に支配されて分類を誤れば、歴史そのものがゆがんでしまう。
それでは俺がなそうとしていることの意図がかなえられない。
そのため半年の間、俺は表におけるあいつの仕事ぶりをずっと見つめてきた。
人からも聞いた。
しかし、奥の番役を免ぜられたことに対するあらぬ噂に対しても、あいつは眉一つ動かさなかったという。
みごとである。
ぜひ、あいつを新しい仕事に使いたい」懇々と説明されて、寺尾土佐もようやく義直の気持ちを理解した。
「ありがたき幸せにございます。
殿がそこまで渋谷のことをお考えいただいたことに、心からお礼を申し上げます。
渋谷もいかばかり喜ぶことでございましょうか」「渋谷を呼べ」「かしこまりました」寺尾土佐は喜んで渋谷弥太夫を呼び出した。
しかし、かれからは歴史文書の整理の話はしなかった。
渋谷は青い顔をして義直のところにやってきた。
また何か叱られると思ったからである。
ところが、義直はニコニコしてこういった。
「しばらくだった。
表でのおまえの仕事ぶりはいろいろときいている。
みんな褒めている。
ついては改めて、俺が集めた歴史文書や古書の整理を命ずる」「はあ?」渋谷はびっくりした。
義直は自分の気持ちを話した。
「半年の間、おまえを表へ出したのは、俺がおまえに認めている能力が、本物かどうか確かめたかったからだ。
能力というのは知識や技術だけではない。
心がまえが大事だ。
おまえの心がまえはみごとだ。
俺が集めた歴史の文書整理にもっとも適している。
手伝え」「は」渋谷弥太夫は平伏した。
顔をしばらくあげなかった。
やがてその肩が震え出した。
渋谷弥太夫は泣いていた。
そして、(この殿のためには命も捨てる)と、固く心の中で決意していた。
よく、「野に遺賢なし」ということがいわれる。
野というのは、枢要な部署以外の職場ということであり、遺賢というのは「能力者」のことをいう。
この言葉は、「能力のある者は、どんな場所にいても必ず上層部の目にとまり登用される。
だから、能力者は、自分でPRしなくても、必ずだれの目にもつくものなのだ」ということである。
しかし、この言葉はタテマエであってホンネではない。
現実には、いまの日本は、野には遺賢だらけだ。
なぜ、能力があっても登用されないのだろうか。
徳川義直の渋谷弥太夫に対する態度は、このことの答えをはっきり示している。
義直にすれば、「たとえ能力があっても、それを自分からひけらかし、自分は登用されて当然だというような思い上がりをもつ者は、心がまえにおいて欠けるところがある。
自分はそういう者は用いない」ということである。
そのために義直は、奥の番役を免じた渋谷弥太夫をいったん表に出し、雑用に従事させて、その心がまえを凝視していたのだ。
渋谷弥太夫は実直な人物だっただけに、義直を恨まなかった。
新しい職場でテキパキと仕事を処理した。
それが義直の気に入った。
したがって義直の、「野における遺賢」の態度は、非常にきびしいモノサシをもっていたことになる。
現在でも、「俺のような能力者を使わないのは、上がボンクラばかりだからだ」などとうそぶいている人間がたくさんいる。
しかし、義直のモノサシからすれば、そういう者こそ、「ほんとうの遺賢ではない。自己の能力を過信する思い上がり者だ」ということになる。
コメント