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第一章コミュニケーション能力とは何か?

目次

コミュニケーション教育

二〇一一年六月某日、富良野市立布部小学校。

夕張山系の懐にある布部小は、全校生徒一一名、そのうち五名が外国籍の生徒という多文化共生社会の最先端を行くような学校だ。

外国籍の子どもの内訳は、アメリカ人二名、スイス人二名、シンガポール人とのハーフが一名。肌の色や瞳の色はそれぞれ違うが、みな、日本語を、ほぼ不自由なく話す。

今日はこの一一人と、半日かけて演劇を使った国語の授業をするのだ。

「六月でこの暑さは珍しい」と富良野の方たちは言うけれど、東京から来た私には、開け放たれた窓から入ってくる風が心地よい。

現在、こういった形で、芸術家が学校現場に入っていく活動が全国に広がっている。

二〇一〇年度からは、「コミュニケーション教育推進事業」という名で約二億円の予算がつき、試行段階だが、全国二九二校の小中高等学校で、実際に俳優や演出家、ダンサーなどが出向いていき、直接、身体や言葉を使ったコミュニケーション教育を進めてきた。

その後も、少しずつ規模を拡大して、この事業は継続している。

民主党の教育政策の中枢を担う鈴木寛元文部科学副大臣は、この施策を予算二〇〇億円まで伸ばして、希望する全国すべての教育機関で実施できるようにしたいと考えている。

この行財政の厳しい折に、そんな予算がつくものかと思われるかもしれないが、お隣の韓国では、すでに二〇〇九年度で六二五億ウォン(=約四四億円)の予算をつけて、ほぼ六割の小中学校でこの施策を実施している。

シンガポールも同様の教育を始めていて、この分野においてもアジアの先進国の中で日本だけが明らかな後れをとっているのだ。

「コミュニケーション能力」が求められている

日本でも、「コミュニケーション教育」という言葉が叫ばれて久しい。昨今はもう、いささかヒステリックなほどに、どこに行ってもコミュニケーションの必要性が喧伝される。

たとえば、企業の人事担当者が新卒採用にあたってもっとも重視した能力について、二五項目のうちから五項目を選んで回答するという日本経団連の経年調査では、「コミュニケーション能力」が九年連続でトップとなっている。

二〇一二年では、過去最高の八二・六パーセント。ここ数年は二位以下に、二〇ポイントもの差をつけている。ちなみに「語学力」は、ここ数年、六パーセント前後である。

それほどに企業がコミュニケーション能力を望んでいるのだとすれば、就職率を最優先する大学ならば、カリキュラムについて抜本的な改革を行わなければならなくなるだろう。

計算上は、週に一時間英語を教えるとすれば、週に一〇時間以上は「コミュニケーション」について教えなければならないことになる。と、これは極端な物言いだが、それほどに学校教育の内容と、企業の要求がずれてきているのだ。

もちろん、大学が企業の要求にすべてあわせて人材を育成しなければならないと言っているわけではない。

大学の役割は、たしかに他にもあるだろう。

しかし、社会の要請に応じて、教育のプログラムも変わっていくべきなのだが、それがまったくなされていないことは、やはり大きな問題だ。少なくとも、たとえば、語学だけができても、望む企業には就職できないという現実がここにある。

実際には、語学のできる学生とコミュニケーション能力の高い学生というのは多少の相関性があるから、やはり語学のできる学生は就職に強いわけだが、もしも語学しかできない学生というのがいると仮定すれば、おそらくその学生は、本人は国際的な企業への就職を望んでも、語学学校の先生くらいしか就職口がないことになる。

コミュニケーション能力のダブルバインド

ではしかし、企業がこうも強く要求している「コミュニケーション能力」とは、いったい何だろう?就活まっただ中の学生たちに聞いてみても、かえってくる答えはまちまちだ。

「きちんと意見が言えること」「人の話が聞けること」「空気を読むこと」結論から先に言ってしまえば、いま、企業が求めるコミュニケーション能力は、完全にダブルバインド(二重拘束)の状態にある。

ダブルバインドとは、簡単に言えば二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制されている状態を言う。

たとえば、「我が社は、社員の自主性を重んじる」と常日頃言われ、あるいは、何かの案件について相談に行くと「そんなことも自分で判断できんのか!いちいち相談に来るな」と言われながら、いったん事故が起こると、「重要な案件は、なんでもきちんと上司に報告しろ。なんで相談しなかったんだ」と怒られる。

このような偏ったコミュニケーションが続く状態を、心理学用語でダブルバインドと呼ぶ。

現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。

OECD(経済協力開発機構)もまた、PISA調査などを通じて、この能力を重視している。この点は、本書でもあとで詳しく触れる(第八章)。

「異文化理解能力」とは、おおよそ以下のようなイメージだろう。

異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。

まぁ、なんと素晴らしい能力であろうか。

これを企業が求めることも当然だろうし、私もまた、大学の教員として、一人でも多く、そのような学生を育てて社会に送り出したいと願う。

しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気がつかないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。

あるいはそのまったく別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。

日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。

いま就職活動をしている学生たちは、あきらかに、このような矛盾した二つの能力を同時に要求されている。しかも、何より始末に悪いのは、これを要求している側が、その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。パワハラの典型例とさえ言える。

なぜ、引きこもるのか

私はいま、本務校の大阪大学で、ロボットを使った演劇作品を創っている。その記念すべき第一作『働く私』は、ニートのロボットの話だった。

働くために作られたはずのロボットが働けなくなり、そのこと自体に悩むという設定の短編戯曲だ。

戯曲の執筆にあたって、この研究のパートナーである天才ロボット博士石黒浩先生に、実際に、このようなことが起こるかどうかを、あらかじめ確認した。

石黒先生の答えは、「未来においては、十分にありうる」というものだった。

現在でも、内容の異なるコマンドを矢継ぎ早に出せば、コンピューターはあっけなくフリーズする。未来の、すぐれた人工知能を搭載したロボットなら、おそらく簡単にはフリーズをせずに、「働かない」という状態になることも、十分に予想できると言うのだ。

私の劇団の演出部に、岩井秀人という劇作家がいる。

たいへんな才能の持ち主で、二〇一一年度にはテレビドラマのすぐれたシナリオに贈られる向田邦子賞を受賞した。

いまでこそ、劇作家として日の出の勢いの岩井君だが、彼は一六歳から二〇歳まで引きこもっていて、家から一歩も外に出られない状態が続いた。

その岩井君が『働く私』を観に来たので、石黒先生から聞いた先の話をしてあげたら、「うちがまさにそうでした」と言う。

彼の家では、典型的なダブルバインドのコミュニケーションが頻繁に行われていて、「まぁ勉強なんてできなくっても、身体だけ丈夫ならいいんだから」と言われながら、通信簿を持って行くと、「何だ、この成績は!」と突然怒られるような環境で育ったのだそうだ。

現在、この「ダブルバインド」は、統合失調症の原因の一つとも考えられている(これはあくまでも仮説だが)。

このような環境に長く置かれると、多くの人が、「操られ感」や「自分が自分でない感覚」「乖離感」などを感じるようになると言う。その結果として引きこもりなどが起きやすくなる。

いま、日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドにあっている。一つの小さな家庭の中でも、ダブルバインドが繰り返されれば、それが統合失調症や引きこもりの原因となる。

だとすれば、社会全体がダブルバインドの状態にあるいまの日本で、ニートや引きこもりが増えるのは当然ではないか。いや、そのような個別具体の現象面だけではなく、日本社会全体が内向きになっているとされる理由も、おそらくはここにある。

日本社会全体が、コミュニケーション能力に関するダブルバインドが原因で、内向きになり、引きこもってしまっている。

単語で喋る子どもたち

私は、このダブルバインドは、子どもの成長過程で、長い時間をかけた形でも行われてきたと考えている。

少し遠回りな説明になるが、表現教育の現場が抱える問題として、いくつかの角度からこの点を考えてみたい。

日本でも、この一〇年、二〇年、表現教育、コミュニケーション教育ということが、やかましいほどに言われてきた。

しかし、どうも私たち表現の専門家の側からすると、日本のこれまでの表現教育というものは、教師が子どもの首を絞めながら、「表現しろ、表現しろ!」と言っているようにしか見えない。

そういう教員は、たいていが熱心な先生で、周りも「なんか違うな」と思っていても口出しができない。私は、そういう熱心な先生には、そっと後ろから近づいていって肩を叩いて、「いや、まだ、その子は表現したいと思っていませんよ」と言ってあげたいといつも感じる。

この点が、現在の日本の表現教育が抱える一番の問題点ではないかと私は思っている。いまどきの子どもたちをどう捉えるかの、大事な観点がここにある。

私は一九六二年生まれ、高度経済成長のまっただ中で生まれ育った世代だ。

身体には競争原理が、自分でもいやになるほど染みついている。それに比して、いまの子どもたちは、もはや競争社会には生きていない。それは決して悪いことではない。いいことばかりとも言えないけれど、私はどちらかと言えば、「それも悪くないんじゃない」と思っている。

第一、日本の社会自体が、すでに成長の止まった社会なのだから、人を蹴落としてまで出世しようとする考え方よりは、限られた富をいかに分配して持続可能な社会を作っていくかを考えた方が、社会全体にとってはいいはずなのだ。

私は、いまの日本の子どもたちが、コミュニケーション能力が低下しているとは考えていない。この点はあとで詳しく記すが、もちろん、では問題がないかというと、そうでもない。

まずその一点目が、コミュニケーションに対する意欲の低下という問題だ。

いまの子どもたちは競争社会に生きていないから、コミュニケーションに対する欲求、あるいは必要性が低下しているのではないか。

私はこのことを、「単語で喋る子どもたち」という言葉で説明してきた。昨今、小学校の高学年、あるいは中学生になっても、単語でしか喋らない子どもが増えている。

喋れないのではない。喋らないのだ。そもそも子どもは、幼児期には単語でしか喋らない。

それが成長するにつれて、他者と出会い、単語だけでは通じないという経験を繰り返し、「文」というものを手に入れていく。この言語習得の過程が崩れているのではないかという危惧がある。

たとえば、兄弟が多ければ、「ケーキ!」とだけ言ったところで、無視されるのが関の山だろう。

しかしいまは少子化で、優しいお母さんなら、子どもが「ケーキ」と言えば、すぐにケーキを出してしまう。

あるいは、もっと優しいお母さんなら子どもの気持ちを察して、「ケーキ」と言う前にケーキを出してしまうかもしれない。

子どもに限らず、言語は、「言わなくて済むことは、言わないように言わないように変化する」という法則を持っている。

「ケーキ」をどうしたいのかを聞かずにケーキを出してしまっては、子どもが単語でしか喋らなくなってもしかたない。繰り返すが、単語でしか喋れないのではない。必要がないから喋らないのだ。

「喋れない」のなら能力の低下だが、「喋らない」のは意欲の低下の問題だ。これは一義的には、まず家庭の問題だろう。「ケーキ、ケーキ」と繰り返す子どもには、父親、母親が「ケーキをどうしたいの?」と聞いてあげなければならない。

あるいは、「お父さんやお母さんはわかるけど、それじゃあ他の人にはわからないよ」と言ってあげなければならない。しかしこれは、もはや家庭だけの問題でもない。学校でも、優しい先生が、子どもたちの気持ちを察して指導を行う。

クラスの中でも、いじめを受けるのはもちろん、する方だっていやなので、衝突を回避して、気のあった小さな仲間同士でしか喋らない、行動しない。こうして、わかりあう、察しあう、温室のようなコミュニケーションが続いていく。

あるいは、以下のような問題もある。

全国を回っていると、小学校一年生から中学校三年生まで三〇人一クラス、組替えなしといった地域がたくさんあることに気がつく。

こういった環境で、熱心な先生が、表現教育を行おうと張りきって、「さぁ、今日はスピーチの時間です。太郎君、前に出てきてください。先生もみんなもよく聞いてるからね、三分間、何喋ってもいいですよ」と言うわけだが、これではスピーチは成立しない。

なぜなら、太郎君以外の二九人は、もう太郎君のことをいやというほど知っているから。太郎君も、いまさら話すことなど何もない。少子化がボディブローのように効いて、子どもたちから表現への意欲を奪っていく。

表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない。

わかりあう、察しあうといった温室の中のコミュニケーションで育てられながら、高校、大学、あるいは私の勤務先のように大学院生になってから、さらには企業に入ってから、突然、やれ異文化コミュニケーションだ、グローバルスタンダードの説明責任だと追い立てられる。

繰り返す。子どもたちのコミュニケーション能力が低下しているわけではない。しかし年々、社会の要求するコミュニケーション能力は、それを上回る勢いで高まっていっている。

教育のプログラムは、それについて行っていない。子どもたちは、このギャップを敏感に感じ取り、大人になることを嫌がってしまう。

もちろん、大多数の子どもたちは、どうにかそこは折りあいをつけてうまくやっていくのだろう。しかし、少し心の弱い子は、引きこもってしまったり、ニートになってしまったり、あるいは心を病んでしまったりする。

それらは決して、その子の努力が不足していたとは言いきれない側面が多々ある。

だって、優しい先生も、優しいお母さんも、異なる意見を持った人とうまくつきあっていく方法なんて誰も教えてくれなかったのだから。みんなわかってくれたのだから。

そのような環境で子どもを育ててしまった以上は、その子どもたちが「どうして、みんなわかってくれないの?」と感じてしまうことを、単純に甘えだと切り捨てることはできないだろう。これもまた、時間を経た「ダブルバインド」とは言えまいか。

伝えたいという気持ち

私たち言語の教育に関わる者は、子どもの表現力をつけるという名目のもと、スピーチだ、ディベートだといろいろな試みを行ってきた。その一つ一つには、それぞれ意味があり、価値があったのだろう。

しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら、その技術は定着していかない。

では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。現行のコミュニケーション教育の問題点も、おそらくここに集約される。

この問題意識を前提とせずに、しゃかりきになって「表現だ!」「コミュニケーションだ!」と叫んだところで意味はない。

では、どうすればいいのだろうか?子どもたちを千尋の谷に落とせと言っているわけではない。おそらく、一番いいのは体験教育だ。

障害者施設や高齢者施設を訪問したり、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。あるいは外国人とコミュニケーションをとる機会を格段に増やしていく。

とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない。ただこれには、予算や人員の制約がある。

セキュリティの問題もあって、なかなか子どもたちを簡単に学校の外に出すことはできない。ここに、演劇、あるいは演劇的な授業の大きな役割がある。演劇は、常に他者を演じることができる。

実際の体験教育ほどの効果はないかもしれないが、異文化、他者への接触をフィクションの力を借りてシミュレート(疑似体験)することができる。

欧米において、異文化コミュニケーション教育の中核の一つに演劇が位置してきたのも、多くはこの点に依拠すると私は考えている。

そしてもう一点、演劇は、自分を出発点とすることができる。

無理に自己を変えるのではなく、自分と、演じるべき役柄の共有できる部分を見つけていくことによって、世間と折りあいをつける術を、子どもたちは学んでいく(この点については、第七章で詳しく述べる)。

「口べた」というハンディ

仕事柄、現代の若者たちのコミュニケーション問題について、たくさんのインタビューを受ける。

マスコミは当然、「いまどきの若者のコミュニケーション能力は危機に瀕している」とか、「子どもたちのコミュニケーション能力が急速に低下している」といったセンセーショナルな文言を並べたがる。

しかし、実際には、多くの言語学者、社会学者に聞いても、彼らが良心的な研究者であればあるほど、そういった学問的な統計は出してこない。

もちろん「近頃の若者は、コミュニケーション能力が低下していると思いますか?」といった類の、印象だけを聞くアンケート調査なら、「低下」「著しく低下」といった回答が多く出てくるだろうが、しかしそれを根拠づける学問的統計は、寡聞にして聞いたことがない。

では、いったい、何が問題になっているのだろうか。

私は、現今の「コミュニケーション問題」は、先に掲げた「意欲の低下」という問題以外に、大きく二つのポイントから見ていくべきだと考えている。

一つは「コミュニケーション問題の顕在化」という視点。もう一つは、「コミュニケーション能力の多様化」という視点。

若者全体のコミュニケーション能力は、どちらかと言えば向上している。

「近頃の若者は……」としたり顔で言うオヤジ評論家たちには、「でも、あなたたちより、いまの子たちの方がダンスはうまいですよ」と言ってあげたいといつも私は思う。

人間の気持ちを表現するのに、言葉ではなく、たとえばダンスをもって最高の表現とする文化体系であれば(いや、実際に、そういう国はいくらでもあるだろう)、日本の中高年の男性は、もっともコミュニケーション能力の低い劣った部族ということになるだろう。

リズム感や音感は、いまの子どもたちの方が明らかに発達しているし、ファッションのセンスもいい。異文化コミュニケーションの経験値も高い。けっしていまの若者たちは、表現力もコミュニケーション能力も低下していない。事態は、実は、逆なのではないか。

全体のコミュニケーション能力が上がっているからこそ、見えてくる問題があるのだと私は考えている。それを私は、「コミュニケーション問題の顕在化」と呼んできた。

さほど難しい話ではない。

どんなに若者のコミュニケーション能力が向上したとしても、やはり一定数、口べたな人はいるということだ。

これらの人びとは、かつては、旋盤工やオフセット印刷といった高度な技術を身につけ、文字通り「手に職をつける」ことによって生涯を保証されていた。

しかし、いまや日本の製造業はじり貧の状態で、こういった職人の卵たちの就職が極めて厳しい状態になってきている。

現在は、多くの工業高校で(工業高校だからこそ)、就職の事前指導に力を入れ面接の練習などを入念に行っている。

しかし、つい十数年前までは、「無口な職人」とは、プラスのイメージではなかったか。それがいつの間にか、無口では就職できない世知辛い世の中になってしまった。

いままでは問題にならなかったレベルの生徒が問題になる。これが「コミュニケーション問題の顕在化」だ。

あるいは、コミュニケーション教育に関する私の講習会に来ていた現役の先生からは、こんな質問を受けたこともある。

「少し誤解を受けやすい表現になってしまいますが、たとえば自閉症の子どもなら、周囲もそのように接しますし、教員も、できる限りのコミュニケーション能力をつけてあげたいと努力します。

でも一方で、必ず、クラスに一人か二人、無口な子、おとなしい子がいます。こういった子は、学力が極端に劣るわけでもないし、問題行動があるわけでもない。いままでは、いわば見過ごされてきた層です。

そんな子どもたちにも、小学校からコミュニケーション教育を行った方がいいでしょうか?たしかに、将来、就職とかは、不利になりそうだとは思うのですが……」これは悩ましい問題だ。

ただ、たとえばこう考えてはどうだろう。

世間でコミュニケーション能力と呼ばれるものの大半は、スキルやマナーの問題と捉えて解決できる。だとすればそれは、教育可能な事柄となる。

そう考えていけば、「理科の苦手な子」「音楽の苦手な子」と同じレベルで、「コミュニケーションの苦手な子」という捉え方もできるはずだ。

そして「苦手科目の克服」ということなら、どんな子どもでも、あるいはどんな教師でも、普通に取り組んでいる課題であって、それほど深刻に考える必要はない。

これはのちのち詳しく触れるが、日本では、コミュニケーション能力を先天的で決定的な個人の資質、あるいは本人の努力など人格に関わる深刻なものと捉える傾向があり、それが問題を無用に複雑化していると私は感じている。

理科の授業が多少苦手だからといって、その子の人格に問題があるとは誰も思わない。音楽が多少苦手な子でも、きちんとした指導を受ければカスタネットは叩けるようになるし、縦笛も吹けるようになるだろう。

誰もがモーツァルトのピアノソナタを弾ける必要はなく、できれば中学卒業までに縦笛くらいは吹けるようになっておこうよ、現代社会では、それくらいの音感やリズム感は必要だからというのが、社会的なコンセンサスであり、義務教育の役割だ。

だとすれば、コミュニケーション教育もまた、その程度のものだと考えられないか。コミュニケーション教育は、ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。

口べたな子でも、現代社会で生きていくための最低限の能力を身につけさせるための教育だ。口べたな子どもが、人格に問題があるわけでもない。だから、そういう子どもは、あと少しだけ、はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。

コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。

産業構造の変化

ただ、この「コミュニケーション問題の顕在化」は、新卒者の就職などに限ったことではない。

製造業に従事する方たちが失職すると再就職が難しいのも、多くの場合、コミュニケーション能力の問題が強く関係している。

いま、日本の労働人口の七割は、第三次産業に就いている。サービス業、人と関わる仕事では、コミュニケーション能力や柔軟性が不可欠だが、製造業に従事してきた方は、この分野が少し「苦手」だ。

繰り返し言うが、これは人格の問題などとはまったく関係がない、「音楽が苦手」といった程度の問題だ。

しかし現在、「その程度の能力の問題」が、就職の必要条件となっている以上、転職においても、その事情は同様で、だから製造業を失職した方々は、結局、こういった能力が問われない職業に就職先が限られてしまう。

さらに実は、これは製造業に関わる人びとの問題とも限らなくなってきている。

カンヌ国際映画祭で「ある視点」部門審査員賞を獲得した『トウキョウソナタ』(黒沢清監督)という映画をご覧になったことがあるだろうか。

香川照之さん演ずるこの映画の主人公は、一流企業の総務課長だったが、リストラの憂き目にあってしまう。

いったん企業を離れると、再就職しようにも、典型的な日本の企業人間だった彼は自己アピールの一つもできず、面接にことごとく落ちていく。

そして結局この主人公は、妻に内緒でビルの清掃業務に就く。警備員でも清掃員でも、もとより職業に貴賤はないが、しかし職業選択の幅が極端に狭くなってしまうことは、個々人にとっては、やはり不幸なことだろう。

産業構造が大きく変わったにもかかわらず、日本の教育制度は工業立国のスタイルのままではないか。上司の言うことを聞いて黙々と働く産業戦士だけを育てるような教育を続けていては、この問題はどこまでいっても解決はしない。

製造業関連の失職者の再就職難や派遣法の問題は、根本的には、コミュニケーション教育を放棄してきた教育行政の失政だと言えるだろう。その失政のつけを、個々人が払わされる謂れはない。

「コミュニケーション能力がないとされる人間が就職できないのは不当な差別だ」といった論調も現実にある。

私はこの心情には強く共感するが、教育の現場にいる人間としては、やはりその主張を全面的に受け入れるわけにもいかない。

教育の役割は、社会の要請に応じて、最低限度の生きるためのスキルを子どもたちに身につけさせて世間に送り出すことだからだ。

だから私は、市場原理ともどうにか折りあいをつけながら、この「コミュニケーション問題の顕在化」という事象に向かいあっていきたいと思う。

たとえばそれは、以下のような方策だ。

先に掲げた「失政」の、もっとも深い犠牲者となってしまった中高年の製造業従事者に関しては、保護政策として、いわゆる派遣法などを適用せずに、正規雇用を増やしていく。

雇用をどうにかして守るために、いままで以上のワークシェアリングを進める必要もあるだろう。そして、運悪く失職してしまった方々には、さらに手厚い雇用保険などの支給策を考えるべきだ。

一方で、いまからでも人生の路線変更が可能な若年層には、小手先の職業訓練ではなく、コミュニケーション教育を徹底して行っていく。

たとえばデンマークでは、失業した場合の就労支援は最長六年間だと聞く。

おそらく、「手に職をつける」という工業立国における職業訓練とは違い、サービス業中心の社会では、「自分にあった職業」を見つけるのに、たいへんな時間がかかる。

そしてそれを見つけるためには、インターンシップなど様々な職業体験の機会を保障し、トライアル・アンド・エラーの繰り返しを許す環境が必要となる。

さらに、そのような状態を、できるだけ生み出さないように、初等中等教育で、現代社会に生きるために最低限必要となるコミュニケーション教育を行っていく。

ペラペラと喋れるようになる必要はない。きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる。繰り返すが、「その程度のこと」でいいのだ。「その程度のこと」を楽しく学んでいくすべはきっとある。

慣れのレベルの問題

さて、ではもう一点の「コミュニケーション能力の多様化」とは何だろう。

これは、日本人のライフスタイルが多様化したために、子どもたち一人ひとりも、得意とするコミュニケーションの範疇が多様化しているという現象を指す。

たとえば、二〇年ほど前までは一人っ子は圧倒的に少数派だったが、いまではクラスの二、三割を占めている。おじいさん、おばあさんと一緒に暮らしているかどうか。近所に親戚がいるか。商店街で育ったか、団地で育ったか、セキュリティの厳しいマンションで育ったか。

帰国子女も必ずいるだろうし、日本語を母語としない子どもも珍しくはない。

そういったライフスタイルの多様化の中で、たとえば、大学に入るまで、親と教員以外の大人と話したことがなかったという学生が一定数、存在するのだ。あるいは、母親以外の年上の異性とほとんど話したことがないという男子学生も意外なほどに多い。

いま、中堅大学では、就職に強い学生は二つのタイプしかないと言われている。一つは体育会系の学生、もう一つはアルバイトをたくさん経験してきた学生。要するに大人(年長者)とのつきあいに慣れている学生ということだ。

これもまた、「そんなものは企業に都合のいい人材というだけのことではないか」という批判があることは十分に承知している。

私もその批判は正しいと思うが、これが就職活動の現実なのだ。だとすれば、「そんなものは、慣れてしまえばいいではないか」と私は思う。

ここで求められているコミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベルであって、これもまた、人格などの問題ではない。

そうであるならば、「就職差別だ」「企業の論理のゴリ押しだ」と騒ぐ前に、慣れてしまえばいいではないか。

私は、自分のクラスの大学院生たちには、常に次のように言っている。

「世間で言うコミュニケーション能力の大半は、たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね、二〇歳過ぎたら、慣れも実力のうちなんだよ」それはそうだろう。

就職試験の面接で、「いや、私は、実はコミュニケーション能力はあるんですが、大人とのコミュニケーションに慣れていないんです」と言ったところで、誰も聞いてはくれないだろう。

だから大学でも大学院でも、コミュニケーション教育がどうしても必要になってくる。

一人っ子で、両親の寵愛を一身に集め、セキュリティの厳しいマンションで育った中高一貫男子進学校の「恵まれない子どもたち」のためにも。

「現場」という幻想から離れる

大学、まして大阪大学の大学院で、演劇によるコミュニケーション教育の実践などをしていると、もちろん風当たりも強い。

「遊んでいるだけではないか」「大学院は教養を身につける場ではない」といったご批判だ。

さらに、こういった面と向かった批判より始末に負えないのが、「そんなもんは、昔は現場で学んだもんですけどなぁ、ワッハッハッ」といったことを仰る、悪気のない先生たちだ。

「そんなものは現場で……」という発言には、二つの問題が内包されている。

一つは、その「現場」というのが、まさに上意下達のコミュニケーションで成り立っている従来型の組織だという点。たしかにそのようなコミュニケーションは、現場で無理矢理学んでいくしかない類のものだったのだろう。

しかし、いま求められているのは、対等な人間関係の中で、いかに合意を形成していくかといった能力なのだから、これはやはり教育の中で、ある程度きちんと体系的に身につけさせていく必要がある。

もう一点は、やはり時代の変化という問題だ。

いま、医者の卵、たとえば二五歳くらいになっても、身近な人の死を一度も経験していないという学生は珍しくない。祖父、祖母が亡くなっても、一緒に暮らしていたかどうかによって感じ方も大きく違うだろう。

身近な人の死を一度も経験したこともなく医者や看護師になるというのは、一般市民からすれば、たしかに不安なことだ。そんなことで患者や家族の気持ちがわかるのだろうかと思ってしまう。

ではしかし、その学生を教育する立場の者が、「身近な人の死を経験もせずに医者になんかなれるか!とっとと経験して来い」と言えるだろうか。

いったい、この体験の欠如を、学生個人の責任に帰せるのだろうか。「現場で云々」という発言は、実はこの「とっとと経験して来い」という無茶な注文と同質なのだ。

こうして時代が変わった以上、あるいは、こういった少子化、核家族化の社会を作ってしまった以上、私たちは、これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。

もちろん、教室でのコミュニケーション教育だけが、これを補えるものではない。たとえば命の大切さを学ばせるのに一番いいのは、医者の卵たちを一年間ほど、途上国のボランティアにでも放り込むことだろう。

そのような新しい「現場」を作っていく以外に道はない。こういった参加型、体験型の授業を含めた総体を、コミュニケーション教育のプログラムと捉えるべきだと私は考えている。

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