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第一の「こころの技法」心の中で自分の非を認める

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非を改め、欠点を無くせば、人から好かれるのか?

さて、それでは、日々の仕事や生活における人間関係を通じて、人間を磨き、人間力を高めていくための「こころの技法」とは、どのようなものか?まず、第一の技法は、何か?心の中で自分の非を認めるそれが第一の「こころの技法」である。

しかし、こう述べると、早速、読者から疑問の声が挙がるだろう。

「非を認める」のではなく、「非を改める」のではないか?たしかに、「非を改める」ことができれば、それは素晴らしいことであろう。

誰もが、人から好かれる人間になりたいと願っている。そのため、自分の非を改め、欠点を直し、成熟した人間にならなければと思っている。

もっと人間を磨き、人間力を高め、人から好かれる人間になりたいと考えている。しかし、人間は、なかなか自分の持つ「非」や「欠点」や「未熟さ」を改めることはできない。

そもそも、もし、それが簡単にできるならば、人生における苦労や人間関係における悩みの大半は、たちどころに解消するだろう。

では、自分の持つ「非」や「欠点」や「未熟さ」を改めないと、我々は、周りの人々との人間関係を、良きものにできないのだろうか?決して、そうではない。

むしろ、周りの人々と良い人間関係を築いている人を見ていると、必ずしも、人間としての「非」や「欠点」や「未熟さ」が無い人ではない。

実は、世の中を見渡せば、「非」も「欠点」も「未熟さ」も抱えながら、周りの人々と良い人間関係を築いている人は、決して珍しくない。

では、なぜ、世の中には、そうした人物がいるのか?そのことを理解するためには、逆の人物を考えてみると良いだろう。

人間として、特に「非」も「欠点」も無いのだが、周りから、あまり好かれない人物。世の中には、そうした人物がいる。

すなわち、一般には「優等生」と呼ぶことのできる人物なのだが、なぜか、周りから好かれない人物がいる。

こうした不思議な現象は、なぜ起こるのだろうか?その理由を考えるために、一つのエピソードを紹介しよう、著者が、二〇代半ばの頃の、恥ずかしい失敗談である。

「優等生」が、周りから好かれない理由

著者は、一九七四年に大学の工学部を卒業した後、二年間、放射線医学を学ぶために、医学部の研究室で学んだ。その後、工学部の大学院に進み、原子力の環境安全性を研究するためであった。この医学部で師事したY教授は、厳しくも愛情に溢れた師であった。

ゼミでの発表で、話が分かりにくければ、「やめなさい!」と直ちに発表を中止させられた。また、いい加減なレポートを書こうものなら、「こんなものを読めるか!」と投げつけられていた。

著者にとっては、生涯に巡り会った師匠の中でも、並み外れて厳しい師匠であったが、物書きとして、また、語り手として仕事をさせて頂く今日の著者があるのは、何よりも、このY教授の厳しい薫陶のお陰である。

その意味で、この教授との邂逅は、著者にとっては、終生の感謝なのだが、その薫陶の中でも、生涯、最も心に残る指導を得たときがあった。

ある日、研究の必要から、放射性物質を用いた実験を行うことになったとき、教授から呼ばれて、こう言われた。

「君は、来週から、実験をやるそうだな。私が、君の実験の方法を見てあげるから、明日、自分の前で、その実験の手順をやってみなさい」

この瞬間、「ああ、実験の手順について、厳しい指導を受けるな・・」と感じた私は、すぐにK助手のところに行き、この放射性物質を使った難しい実験の手順について、手取り足取り、細かく教えてもらった。

そして、翌日、Y教授が実験室に来た。教授が、傍の椅子に座り、腕を組み、厳しい表情で見ている前で、私は、その難しい実験の手順を、一つ一つ丁寧に進めていった。

特に難しい操作のときには、声に出して「安全ピペット、目の位置確認!」など、実験の要点を復唱しながら、この実験を進めた。

教授は、終始、厳しい表情で私の実験を見ていたが、最後まで、「待ちなさい!その手順は違う!」といった形で厳しい指導を受けることはなかった。

すべてが終わったとき、教授は憮然として、私に、一言だけ聞いた。「誰に教わった・・」「K助手に教わりました・・」その会話だけで、教授は、実験室を出て行った。

その後ろ姿を見ながら、私は、内心、得意満面であった。あの厳しい教授から、実験手順の誤りを一つも指摘されることなく、やり遂げた。その満足感に浸っていた。

そして、この研究室における、私の姿は、いつも、こうした「優等生」であった。

この厳しい教授から、発表の仕方、レポートの書き方、実験の進め方を含めて、ほとんど「君、それは違うよ!」との叱責を受けずに、二年間を過ごした。

そして、この研究室での学びを終え、工学部の大学院に戻る日が来た。研究室の机を片付け、メンバーに挨拶をし、最後に、Y教授の部屋に、挨拶に伺った。

しかし、その最後の挨拶においてY教授が私に語った言葉が、私の人生を変えた。いや、私の人生を救ってくれたというべきか。

教授室で、Y教授に、最後の感謝の挨拶を述べると、教授も、「君も、よく頑張ったな」「君は、優秀だな」といった世辞を述べてくれたが、最後に、「しかしね・・」と続け、一言、私の目を見ながら言った。

それは、静かな一言であり、教授の眼差しは、弟子への愛情に溢れていたが、その一言は、私の胸に突き刺さり、生涯、心の中で鳴り響く言葉となった。

「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」それは、恩師からの終生の教えでもあった。

なぜなら、何年か後に大学院を終え、実社会に出て働き始め、様々な人間関係の問題に直面したとき、いつも自分を救ってくれたのは、この言葉だったからである。

「君は、可愛気が無い」この言葉は、実に的確に、当時の私の、人間としての「未熟さ」を指摘していた。

それは、私の心の中の「密やかな驕り」とでも呼ぶべきものを指摘する言葉でもあった。人間であれば、誰でも、非があり、欠点があり、未熟さがある。

それにもかかわらず、「自分には非が無い」「自分には欠点が無い」と思い込み、それを密かに誇る心の姿勢。

教授は、その「密やかな驕り」「無意識の傲慢さ」を、当時の私の姿から感じていたのであろう。たしかに、世の中を見渡すと、それほど大きな欠点も無いのに、周りから好かれない人物がいる。

ときに、嫌われる人物がいる。なぜ、こうした人物が、人の心を遠ざけてしまうのか?その理由は、若き日の自分の姿を思い返すならば、恥じる思いとともに、理解できる。

人間、誰でも、何がしかの欠点はある。至らぬところはある。

それにもかかわらず、欠点が無い人間になろうと考え、欠点が無い人間であると思い込み、欠点が無い人間として振る舞おうとする。

そうした人間の心の中に根を生やしていくのは、「自分に非は無い」「自分に欠点は無い」という密やかな驕りであり、さらには、「自分は優秀だ」「自分は優れている」という無意識の傲慢さであろう。

そして、その密やかな驕りと無意識の傲慢さを伴った「優等生意識」が、人の心を遠ざける。しかし、あの日、研究室を辞するときに恩師が教えてくれた、「可愛気」という言葉。

それは、素直に、自分の非を認め、欠点を認め、未熟さを認める、「しなやかな心」のことであった。

そして、その「しなやかな心」の大切さを教える「可愛気」という言葉が、三〇歳にして実社会に出た私の人生を支え、導いてくれた。

それから、実社会で三五年の歳月を歩み、この一人の未熟な人間が、有り難い人生を与えられ、いま、振り返って思う。

人は、非があり、欠点があり、未熟であるから、周りの人の心が離れていくのではない。人は、自分の非を認めず、欠点を認めず、自分には非が無い、欠点が無いと思い込むとき、周りの人の心は離れていく。

しかし、そうした人がいる一方で、人生においては、その逆の姿を示す人もいる。非もあり、欠点もあり、未熟さも抱えているのに、周りの人から好かれる人物がいる。それは、なぜか?

なぜ、欠点の多い人間が好かれるのか?

永年、様々な職場で仕事をして、多くの人を見てきたが、いつも不思議に感じることがある。人間としてみれば、色々な欠点があるのに、人から嫌われない人物がいる。いや、むしろ、人から好かれる人物がいる。

例えば、職場のリーダーや企業の経営者で、たしかに優れたところもあるのだが、色々と欠点もあり、そのため、ときに、部下や社員を困らせる人物、しかし、なぜか、部下や社員から好かれる人物だ。

ある企業の営業課のA課長。営業センスは光るものを持っており、周りも一目置いているのだが、どこか大雑把なところがあり、ときおり、会議の予定を忘れ、周りに迷惑をかける。

今日も、会議の始まる時刻になっても外回りから戻って来ない。そこで、部下が携帯電話に連絡をとり、急いで戻ってもらう。

待たされた会議のメンバーが、「またか、困ったな・・」と思っているところに、ようやく、A課長、戻ってくる。しかし、会議室に入るなり、次の一言。

「すまん、すまん!待たせて悪い!俺、またやっちゃったな・・」この一言で、会議のメンバー、苦笑交じりの笑い声。

会議の後、A課長の部下が、他部からの参加者に対し、「お待たせして、すみませんでした」とお詫びをすると、苦笑いをしながらも、どこか温かい一言。

「まったく、もう、いつもこうなんだから・・。勘弁してくれよ・・」このA課長、なぜか、あまり嫌われていない。

ある中小企業のB社長。人情に厚い人柄で家族的経営をしている。社員からは「親父さん」と呼ばれ親しまれているのだが、一つ、困ったところがある。ときおり、かっとなって怒り出すのだ。

社員からは「瞬間湯沸かし器」と言われているが、今日も、ちょっとした事務のミスで、社員のC君を怒鳴り、外に出て行った。

少し落ち込むC君。周りは、「またか・・」という風情。しばらくして、外の商談から帰ってきた社長、なぜか、手には、たい焼きの包みを持っている。

社員に頼んで、お茶を入れてもらい、職場全員で、しばしの「たい焼き休憩」だ。給湯室では、社員が、囁いている。

「社長らしいね・・」「うん、C君、たい焼き、好きだからね」「あれが、社長なりの気配りなんだな・・」「でも、C君、少し元気になったね」このB社長も、なぜか、嫌われていない。

読者の周りにも、こうしたA課長やB社長のような人物がいるのではないだろうか?色々と欠点もあり、ときに、部下や社員を困らせるのだが、なぜか、部下や社員から嫌われない、むしろ好かれる人物だ。

このA課長とB社長、その部下や社員に「あのA課長、困った人だね」「あのB社長、嫌にならないかい」と聞いても、おそらく、こうした答えが返ってくるだろう。

「たしかに、あの大雑把な性格は、困るんですが、あの課長、なんか憎めないんですよね・・」「それは、怒鳴られた瞬間は、少し頭にきますけど、あの社長、どこか可愛気があるんですよね・・」では、なぜ、このA課長とB社長、部下や社員から嫌われないのだろうか?もう少し、深く考えてみよう。

まず、A課長、彼は、色々と欠点はあるのだが、何よりも自分の欠点を良く知っている。そして、それを、素直に仲間の前で認めている。

それは、会議室に入るなり「すまん、すまん!」と申し訳なさそうに謝る風情にも現れている。そして、「俺、また、やっちゃったな・・」という言葉からも、自分の欠点を自覚していることが伝わってくる。

そして、B社長、彼は、「短気で、すぐ怒鳴る」という欠点が出た後、社員に対して、直接に詫びることはしないが、無言のメッセージで、「怒鳴って、すまなかったな」という反省と謝罪の思いを伝えている。

それが、彼なりの「たい焼き」の手土産であり、その無言のメッセージは、給湯室の会話のように、しっかりと社員に伝わっている。

すなわち、このB社長もまた、自分の欠点を、内心、素直に認め、反省している。そして、そのことを社員に対して、無言のメッセージで詫びている。

このように、A課長やB社長が、人間としての至らぬところ、非や欠点を持っているにもかかわらず、そして、その非や欠点がゆえに周りに迷惑をかけている

にもかかわらず、それが職場や会社の人間関係を甚だしく損ねていない理由は、二人が、自分の非や欠点を素直に自覚していることであり、さらに、その非や欠点を、周りの人間に対して率直に認めていることであろう。

こう述べると、「そんな簡単なことで、人間関係がうまくいくのか・・」という疑問を持たれる読者もいるかもしれない。

しかし、実は、この「自分の非や欠点を素直に自覚する」ことや「自分の非や欠点を率直に認める」ということは、言葉で言うほど簡単なことではない。

もとより、言葉だけで「誠に申し訳ない」と謝ることや、「自分の不徳の致すところです」と非を認めることは簡単にできる。また、そうした「形だけの謝罪の言葉」は、世の中に溢れている。

だが、こうした「形だけの謝罪の言葉」で非を認めても、我々の心の中の「小さなエゴ」は、しばしば、「自分は悪くない!」「自分は間違っていない!」「自分に非はない!」「自分の問題ではない!」と叫んでいる。

そして、周りの人々は、我々の「形だけの謝罪の言葉」よりも、その「小さなエゴの叫び」をこそ、無言のメッセージを通じて敏感に感じ取っている。

しかし、このA課長とB社長は、それぞれにスタイルは違うが、二人とも心の深いところで、自分の非や欠点を素直に自覚しており、自分の非や欠点を率直に認めている。

そして、そのことを、「言葉のメッセージ」として、また、「無言のメッセージ」として、周りの人々に伝えている。

すなわち、もし我々が、自分の非や欠点がゆえに、相手や周りの人々に迷惑をかけたとしても、心の中で自分に非や欠点があることを自覚し、自分の非や欠点を相手や周りに対して認めることができるならば、人間関係は、決しておかしくならない。

また、それができるならば、それだけで、こじれた人間関係が良くなっていくことさえある。

なぜなら、仕事や生活において人間関係がおかしくなるときというのは、必ずと言って良いほど、互いに「相手に非がある」「自分には非はない」と思っているからである。

しかし、こう述べると、読者から疑問の声が挙がるかもしれない。

「自分の非や欠点を、相手に対して認めろと言うが、そもそも、それができないから人間関係に苦労しているのではないか。

その原因は、心の中の『小さなエゴ』だと言うが、では、その『小さなエゴ』に対して、どう処すれば良いのか?」その疑問に対しては、この後、第三の「こころの技法」で語ろう。

また、次のような疑問を抱かれる読者がいるかもしれない。

「自分の非を認めろと言うが、そもそも、明らかに、自分に非が無いときに、それでも認めるべきなのか?」この疑問も、大切な疑問であろう。

これについては、我々は、「引き受け」という「こころの技法」を理解する必要がある。この技法についても、やはり、第三の「こころの技法」において語ろう。

「非を認める」ことに優る、「感謝をする」こと

さて、ここまで、第一の「こころの技法」として、「心の中で自分の非を認める」という技法について述べてきた。

我々の日々の人間関係は、たとえ「非を改める」ことや「欠点を改める」ことができなくとも、まず、「非を認める」ことや「欠点を認める」ことができるならば、決しておかしくならない。

しかし、実は、「こころの技法」という意味では、この「非を認める」ということを超えた、さらに深い世界がある。

それは、何か?一つのエピソードを語ろう。大学時代、ある文化系サークルに所属していたが、このサークルに、リーダーを務める一人の先輩がいた。

この先輩は、数十名のサークルのリーダーを務めるだけあり、なかなかのリーダーシップがある人物であったが、一方で、わがままなところもあり、また、負けん気が強い性格でもあった。

そのため、ときおり、仲間の言うことを聞かなくなるなど、周りが困るときもあったのだが、なぜか、誰も、彼のことを悪く言わなかった。

あるとき、この先輩と二人で酒を飲みに行き、少し深い酒になったのだが、そのとき、彼が酔った風情で、こう語った。

「有り難いよな・・。俺みたいな、わがままな奴に、みんな、よくついてきてくれるよな・・」

この言葉を聞いたとき、サークルの仲間が、彼をリーダーとして認め、彼に幾つかの欠点があっても、誰も悪く言わない理由を理解した。

彼は、自分の非や欠点を自覚し、認めているだけではなかった。その非や欠点を含めて、彼を受け容れてくれる仲間に、心の深くで、感謝していた。

このエピソードもまた、大切なことを、我々に教えてくれる。

もし、我々が、相手や周りの人々に対して「自分の非や欠点を認める」ことができるならば、それだけでも人間関係は好転していく。

しかし、さらにそれを超え、「自分の非や欠点を受け容れてくれる相手や周りの人々に感謝する」ことができるならば、そこには、素晴らしい人間関係が生まれてくる。

昔から、「感謝は、すべてを癒す」という言葉が語られるが、この言葉は、人間関係においても、究極の真実であろう。このエピソードは、そのことを教えてくれる。

なぜ、心の中の「思い」が、相手に伝わるのか?

そして、このエピソードが教える、もう一つ大切なことがある。このサークルの先輩は、仲間に対する「感謝の思い」を、いつも言葉にして語っていたわけではない。

それにもかかわらず、この「思い」は、サークルの仲間に伝わっていた。

それは、なぜか?なぜ、こうした「思い」は、言葉を超えて、相手や周りの人々に伝わるのだろうか?実は、先ほどのB社長のエピソードが教えるように、「非を認める」ということもまた、必ずしも、相手や周りの人々に対して「言葉」に出して語る必要はない。

心の中で「非を認める」だけで、不思議なほど、その「思い」は、相手や周りの人々に伝わっていく。

なぜなら、我々のコミュニケーションというものは、実は、「言葉のメッセージ」で伝わるものが「二割」であり、表情や眼差し、仕草や身振り、態度や雰囲気など「言葉以外のメッセージ」で伝わるものが「八割」だからである。

それゆえ、我々の心の中の「思い」は、「言葉のメッセージ」に表さなくとも、「言葉以外のメッセージ」を通じて、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。

そして、我々の心の中の「自分の非を認める思い」もまた、「言葉のメッセージ」に表さなくとも、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。

それが、この第一の技法として、「心の中で自分の非を認める」ということを述べる理由である。

ちなみに、著者は、若き日に、仕事の経験を通じて、この「心の中の思いは、言葉以外のメッセージを通じて、相手や周りの人々に伝わる」ということを学んだが、それゆえ、会議や会合における「こころの技法」として大切にしてきたことがある。

それは、会議や会合に際して、参加者一人ひとりに対して、心の中で「有り難うございます」と唱えるという技法である。

例えば、商談で、ある会社のA部長、B課長を訪問するとき、その会社のビルに入るとき、心の中で「A部長、有り難うございます。B課長、有り難うございます」と心の中で唱えることを習慣としてきた。

また、社内会議でも、その会議の席に着き、会議が始まる前の数分間、背筋を伸ばし、目を閉じ、参加者一人ひとりに対して、心の中で、「有り難うございます」と唱えるということも習慣としてきた。

こうした習慣は、難しい交渉が予想される商談や、厳しい議論が予想される社内会議において、事前に心を整え、心の中に「感謝の思い」を持つことによって、会議や会合の参加者に対して、ポジティブな「言葉以外のメッセージ」を伝えるために身につけたものである。

それは、商談での交渉や社内会議での議論において、しばしば心が乱れる自分の未熟さを痛感する中で身につけた「こころの技法」でもあった。

さて、このように、我々の心の中の「非を認める思い」は、「言葉」に表さなくとも、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。

しかし、やはり、その「非を認める思い」を相手に伝えることが求められるときがある。そのとき、我々は、どうすれば良いのか?そのことを、次に語ろう。

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