これまでの人生で、誰にでもすばらしい恋愛とか仕事の成功とか、いい思いをした経験があることでしょう。幸せの頂点で、「いつ死んでもいい」という言葉が口をついて出たことも、一度や二度ならずあったのではないでしょうか。しかし、たとえば人間ドックにかかった時。命にかかわる病気を疑われたりしてドキッとし、いざほんとうに「死」というものをリアルに感じるきっかけがあると、やっぱり、死ぬのは怖いと感じる。まだその覚悟はできていないということに、気づかされてしまいます。生きることへの未練と煩悩を抱えた私たちに、古代ギリシャ哲学を代表するプラトンなら、こういうのではないでしょうか。──死ぬのが怖い?それは「生き延びる」ことばかり考えているからだ。そして「もういつ死んでもいい」と思ったような幸福などは、しょせん物質的な幸福、「にせの快楽」にすぎないのだと。どういうことでしょうか。そしてどうしたら、死ぬことを怖れなくなるのでしょうか。プラトンの思考を決定づけた師にして西洋哲学の祖、ソクラテスの人生をたどりながら考えてみましょう。舞台は古代ギリシャのポリス、アテナイ。紀元前5世紀もすぎるころには直接民主制が確立し、市民が選挙や裁判といった公共の場にみずから出て話すことがさかんになります(〔1〕)。そこでは真実がどうであるかは関係なく、とにかく相手をやりこめ出しぬく、そのための弁論術を身につける需要が高まっていました。ギリシャの個人が、ポリスの一市民としての自覚をもったことにより、個人的な利益の追求と、そのテクニックの獲得に走った時代です。そこへ「ソフィスト(Sophist)」という、お金をもらって弁論術を教える職業教師があらわれ、人気を博すようになると、市民は個々の欲望をみたすことに邁進し、衆愚政治(ポピュリズム)が蔓延。世間の風潮は乱れます。プラトンの師ソクラテスが登場したのには、個人の欲望がもてはやされた、そんな時代背景がありました。ソフィストはこの世にはルールなどなく、何でもあり、白を黒、黒を白と言える口のうまいやつが勝つとうそぶき、弁舌技術の向上に明け暮れる、堕落したインテリでした。ソフィストから派生した英語の動詞「ソフィスティケイト(sophisticate)」には、「洗練させる」のほかに「詭弁を弄する」という意味があるほどです。現代においてもことは変わりません。テレビで人気が出た口のうまい有名人が地方自治体の首長に当選、瞬く間に政界で勢いづくのはポピュリズムの典型です。白を黒、黒を白と言いくるめる姿はソフィストそのままです。ソクラテスはポピュリズムで荒んだアテナイを立て直そうと、街頭で出くわした人たちに誰かれかまわず議論をふっかけました。ソフィストにかぎらず、道ゆく軍人をつかまえて「勇気とは何ですか?」と訊いてみたりもする。そのスタンスは「フィロソフォス(philo「愛する」+sophos「知」)」。つまり自分の無知を自覚しながら(無知の知)、それでも知を愛する者として、逆に相手の無知を暴くと〔※1〕、「大切なことは、ただ生きることではなく、よく生きることである」と説き伏せたのです〔※2〕。「ただ生きる」とは、ソクラテスによると、生存本能のおもむくまま、肉欲をみたすための金銭欲、名誉や地位への出世欲、(ソフィストのように)自己顕示欲をむやみに求める生きかたのこと。うまい立ち回りばかり考え、ひたすら保身を望む、この世の生にしがみつく生きかたです。そこには決定的に欠けているものがある、とソクラテスは断じます。では「よく生きる」とは、どう生きることでしょうか。それは、死を終わりとする肉体的な生の長さにこだわらない生きかた、何がなんでも生き延びようとする本能に逆らう生きかたのこと。欲望や快楽のおもむくままにならず、この世の「ほんとうのこと」を求める知的な欲求によって、与えられた人生の質をできるだけ高めようとする「知を愛し求める者(philosophos)」としての生きかた。この生きかたは「魂がすぐれてあること」とも表現されます(藤沢令夫『プラトンの哲学』第Ⅲ章)。「いつ死んでもいい」と思える「贅沢三昧」も「酒池肉林」も、しょせんは「ただ生きる」こと=物質的な幸福。いくらみたしてもきりのない「にせの快楽」にすぎません。「魂が健康」とはいえないからです。一方、「魂の配慮」をし、「ほんとうに大事なこと」を愛し求めることが「よく生きる」こと=真実の幸福。こちらの生きかたは「魂の健康」を与えてくれます〔※3〕。ソクラテスは、物質的・肉体的な快楽はむしろ魂の健康を邪魔するから、いっそ「魂は肉体を離れる」べきであるといいます。「魂が肉体を離れる」とは、生きながらにして「死」(と同じこと)を予行演習せよ、ということなのです。金も地位も名誉も、抜け目のない世渡りも、肉欲をみたして得られる快楽も、どこまで熟達させ、洗練させたところで、肝心の「魂」がすぐれていないかぎり、真実の幸福には着地しません。「魂」が劣悪なままでは、いつまでたってもみたされないのです。「死ぬのが怖い」とすれば、その生が「ただ生きる」という肉体的次元にとどまっているからでしょう。そして「魂」をすぐれたものにしようとする哲学者の努力とは、「死の練習」なのです(参照)。このことはソクラテスの最期が物語っています。保身ばかり考えるアテナイの市民に、ソクラテスは「魂の配慮」を訴え、彼らのあやまちを暴きたてますが、そのぶんソクラテスにやりこめられたソフィストの間で、反感が鬱積していきます。結果ソクラテスは多くの敵をつくったあげく、アテナイが負けた戦争の戦犯だった弟子の責任を押しつけられ、「神を冒瀆し、若者を堕落させた」かどで裁判にかけられると、ついに死刑を宣告されます。ソクラテスが牢獄に入れられた後も、弟子クリトンは脱獄をすすめ、同情する牢番は鉄格子の錠を開け、見ぬふりさえしましたが、彼は最後まで応じませんでした。四六時中『死の練習』として哲学をやってきた哲学者が、死に臨んでそれを恐れることがあるだろうか。いやむしろ安んじて受け入れるだろう。(『パイドン』より一部改変)と、潔く毒杯をあおって亡くなってしまいます。その死に弟子の一人であったプラトンは深いショックを受けます。ソクラテスが死ぬ前にアテナイ市民に発した次の言葉に、幾度となく悲しみに暮れ、同時に
励まされながら、彼は自分の哲学を出発させるのです。あなたたちは金や評判、名誉のことばかりに汲々として、恥ずかしくないのか!『知』と『真実』のことには、そして、魂をできるだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか!(『ソクラテスの弁明』)「金や評判、名誉」の後に、「保身」や「延命」を付け加えてもいいでしょう。ソクラテス自身の「知」と「真実」はラフ・アイデアにとどまりましたが、堕落したソフィストをアテナイから一掃し、のちに弟子プラトンやアリストテレス(参照)らが西洋哲学史を塗りかえる舞台を用意したのです。古代ギリシャの市民に投げ出されたソクラテスの最期のことば。それは二千数百年後のいま──グローバル資本主義が世界中でゆきづまり、「お金がすべて」という価値観に限界が見えかけている現代、また生命を永らえさえすればいいとする延命治療が疑われつつあるいま──を生きる私たちに突きつけられた、紀元前からの、射程の長い「警告」であると同時に、人々を「哲学(philosophia)」へと誘う、「知を愛し求める(philosophos)」言葉でありつづけています。〔1〕ソクラテスは「ほんとうの賢さ」をあらわす「無知の自覚」の具体例として「死」を挙げました。「死」ほど、生きている人間が身をもって体験することができず、「無知の自覚」で臨むほかないものもありません。「死は怖いもの、ネガティヴなもの」と決めつけているのは無知の証拠だとソクラテスは断じます。〔2〕街行く人を「無知の知」でやりこめる姿を現代から想像すると、実物のソクラテスはプラトンが描くソクラテスとは違って、街頭で飲んだくれては誰かれかまわず議論をふっかける、純粋だけれど面倒くさい男だったかもしれません(プラトンが出会った時も彼はそんな風でした)。ソクラテスの遺志を継いだ孫弟子にディオゲネスがいます。彼は樽の中で裸同然で生活する、シンプルライフを地で行く哲学者でした。「犬のような暮らし」ということで「犬儒派」とも呼ばれます。ディオゲネスが心から敬愛していたのは、プラトンによってかっこよく描かれたソクラテスではなく、世間的にはかっこいいどころか、往来で「何、あの人…」と言われるような「変人」だけれど、純粋で飾り気がなく、ただひたすら知を愛し、「魂がすぐれてある」よう配慮した、ありのままのソクラテスでした。〔3〕古代ギリシャ末期のエピクロスはギリシャ文化の黄昏にあって、「魂の平静(アタラクシア)」こそが幸福であり、それをもたらす生活こそ最重要であると考えました。たえず中毒的な快楽を追っかけがちな現代人にとって、この幸福の定義は知っておいて損はないでしょう。「思い煩うことがない」状態、つまり、一見退屈なようですが、ある種の静寂こそが真の幸福だというのです。「真の哲学への愛によって、平静な心境を乱すやっかいな欲望は、ことごとく解消される」(『断片(その二)』66)。そんなエピクロスは死についてどう考えていたのでしょうか。「自分が存在する間は死は存在せず、また死が存在するときに自分は存在しない」(『メノイケウス宛の手紙』より改変)のだから、死を恐れる必要はない。死を恐れるというのは、考える意味のないことを考えているのだと、彼は死への恐れを離れた魂の平静に人びとを誘いました。実際、エピクロスは晩年に膀胱を病んで死の淵にあっても、生きている間の楽しい出来事を思い出して苦痛を耐えしのいだといわれます。「東洋のエピクロス」ともいわれる中国の荘子もまた、死は恐れるものではないと語っています。「人は気の集まりのようなもので、気が集まれば生、気が散じれば死となる。生と死は一体なのだと気づけば、人間が思い悩むことなんて、だいたいが知れたものだ」と(『荘子』「知北遊篇」)。
生活が苦しい。借金を繰り返して、もう返せないぐらいにふくれあがっている。家族や身近な人間関係も、もはや修復可能なまでにこじれ、悪化してしまった。気力体力も、もうない。悩みが積み重なり、肉体的にも精神的にも追いつめられ、「死ぬしかない」と思ったとき。机上の空論のように思われる哲学が、有用な支えとなることを知っておいてほしいと思います。20世紀を代表するドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーならばこう言います。「本気で死を意識したということは、自分の生の全体性、いいかえれば、ほんとうの自己の生に目覚めたということである」と。どういうことでしょうか。人間のふだんの意識にあらわれるものをとらまえながら、誰にとっても身近な「死」を日常からあぶり出すハイデガーの思考を追ってみましょう。ハイデガーによれば、いまを生きる多くの人が、日々どうでもいい空疎なおしゃべりで過ごしています(この状態を「頽落」といいます)。どうでもいい世間話や盛り上がりで貴重な時間を空費し、本当はなにもなしえない、むなしい人生を送るだけで、自分の持つ固有の可能性である「死」のことを忘れて生きている。死ぬなんてことはふつう、まったくの他人ごとです。「死」を「親戚が亡くなった」とかいったかたちで、他人ごととしては理解できるけれども、自分ごととしてとらえられることはまず、ありません。それでもあるとき人は不意に、漠然とした「不安」に襲われることがあります。先行きへの、得体の知れない不安。ハイデガーによればその不安の正体は実は、自分という存在もまた、いつか死ぬ存在であることを告げ知らせようとする「死の不安」だというのです。その不安を先回りし、積極的な意味に転換することはできないだろうか。ハイデガーはこう考えました。というのも、人生における、「夢がかなう」「成功する」といった他のあらゆる可能性のあやふやさやままならなさに比べて、「自分が死ぬ」ということだけは、唯一手ごたえのある、確実に存在する可能性だからです。何びとといえども、誰か別の人が死ぬのを肩代わりしてやることはできない。[…]死ぬことを、どの現存在(人間)もそれぞれ自分で引き受けなくてはならない。[…]死は本質的にそれぞれ各自の死である。(『存在と時間』第47節)多くの人が空虚な無駄話や、盛り上がりでごまかしているけれども、だれにとっても死は必ずやってくる。「死ぬ」ということだけは、人は確実にできる。別に自分から死のうとしなくたって、人は確実にいつか死ぬことができてしまう。そのように本気で自分の死をとらえたとき、誰とも交換できない、一回かぎりの、かけがえのない自分という、存在の本来あるべき姿が立ち上がるのだ。しかし、そもそも死を本気で自分ごとと感じることはむずかしい。頭ではわかっていても、本音としてはだらだらと過ごしたいし、死なんて考えずに陽気に暮らしたいのが人間というもの。死を忘れて生きる「頽落」への衝動に、知識で打ち克つことは容易ではありません。肉体的・経済的・精神的な苦境に追いこまれ、いま本気で死を考えざるをえない人はどうでしょうか。「自分はいつでも死ぬことのできる存在」と、やむをえず実感している人は、死をまぢかに感じているぶん、生々しい感覚を持って自分の人生の全体を「先取り」しています。ハイデガーのいう「死への先駆」を、理屈でなく、生身をもって体感しているのです。このことは、あるいは価値のある大きい体験ではないでしょうか。今すぐにも「死にたい」、そんなどん底の淵にあっては、一歩間違えれば本当に死んでしまうかもしれません。しかし見かたを変えれば、死を生身で感じているからこその可能性がひらかれているともいえるのです〔※1〕。スイスの臨床心理学者カール・ユングは、人間の心理を「表と裏」の二面でとらえ、表の顔の裏側に、もうひとりの自分がうごめいていることを洞察しました。たとえば「死にたい」と訴える人は、自分が死ぬ夢をよく見るのだそうです。ユング派心理学者の河合隼雄はその夢を「今の自分を破壊して、生まれ変わりたい」願望であると分析します。「死にたい」と訴えるのは、肉体的に死にたいということではなく、社会的に死にたいということ、つまり「生まれ変わりたい」ということなのだと。そうだとすれば、肉体的に死ぬ自殺を思いとどまり、社会的に死ぬことを考えることはできないでしょうか?人生のどん底で首をくくって、あるいは電車に飛びこんで、肉体的に死んでしまうのなら、いっそ、自分はいっぺん死んだのだ!とひらきなおることはできないでしょうか。「どうせ死ぬんだったら、やれるだけのことはやってみよう」という、最期の覚悟をすることはできないでしょうか。その「最期の覚悟」でもって、生活苦でも仕事の失敗でも、人間関係の問題でも、いじめでも何でも、もうどうにもできないと思える困難に、体当たりでぶつかってみる。ひとは死を本気で決意したときこそ、根源的な時間である人生の残り時間を生きはじめるのです〔※2〕。ハイデガーの言葉を借りれば、死とは、追いこすことも、乗りこえることもできない究極の可能性であり、それが迫り続けていることを自覚した人にのみ、ほんとうの人生がひらかれるのです〔※3〕。太宰治や坂口安吾とともに無頼派と呼ばれた戦後の作家・石川淳は、ハイデガーの哲学を体現するような言葉を書きつけています。「じつはわたしはときどき深夜の床を蹴って立ち上り、突然『死のう』とさけぶことがあり[…]、わたしがまだ死なないでいる秘密はおそらくこのさけびに潜んでいるらしく、『死のう』ということばの活力が一刹那にわたしの息を吹きかえさせるのであろう…」(『普賢』、傍点引用者)
どうしても死にたくなったら、「死のう」と叫んで、真っ暗な深夜のベッドから飛びあがってみる。その時あなたの「死のう」という言葉の語気に、その言葉の意味するところとは裏腹の、生きることへのエネルギーが残っているのだとしたら──。これからどれだけ苦しい後始末が待っていようとも、あなたはいま真に自分の生を生きる、その最初の日に立っているのだ、と考えることができるのではないでしょうか。〔1〕サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジはアメリカ西海岸の自殺の名所として有名ですが、飛び降りようとした人を目撃者が説得し、実際に思いとどまらせた例が少なからずあります。その人たちのその後を追跡してみると、7年後に9割の人が生存していたというデータがあります。精神的にもっとも追いつめられた時を生き延びればその後も生きながらえることを示すデータであり、自殺は冷静に考えきった後の合理的な選択というよりは、やはり衝動的な選択である場合が多いのでしょうか。一方で、TEDトークで自殺未遂の記憶を語るスタンフォード大学講師J・D・シュラムによれば、1度目の自殺で失敗した自殺未遂の人が2度目の自殺で成功する確率は37倍にもなるそうです。死にたいという思いを抱えた人は、周囲のケアがないことには孤立を深め、また自殺衝動を抱えてしまうということかもしれません。〔2〕スタンフォード大学心理学部教授で高齢化センター所長のローラ・カーステンセンは、「社会情動的な選択理論」を提唱しています。ひとは残り時間を本気で感じるようになると、自分にとってもっとも大事なこと、人生レベルで満足できることだけにエネルギーを注ぎ、ネガティヴな情報よりポジティヴな情報に目を向けるようになる。そういう理論を実験から導き出しています。平たくいえば「年をとるほど幸せ」になるということです(彼女が登壇したTEDを参照のこと)。さらに注目に値するのは、カーステンセンがカーネマンの「プロスペクト理論(参照)」にも疑義をとなえていることです。人生の残り時間を感じた高齢者は、(ポジティヴな情報に目を向けるようになるため)損を避けようとする意識はさほど強くなくなる、というのです。〔3〕この「死への先駆的決意」の哲学によって、ハイデガー哲学が人びとを魅了し、またナチスの全体主義に加担したことは、戦後の哲学界にとって乗りこえなければならない重要な難問となりました。ハイデガー哲学に抵抗した代表的な哲学者に、レヴィナスとデリダがいます。家族をナチズムに皆殺しにされてしまった凄惨な過去をもつユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスは、ハイデガー哲学の自己完結性を批判しました。ハイデガー哲学では人間(現存在)は、死の不安から「自分本来のありかたに目覚めよ」という声を聞きますが、その「声」とはあくまで内なる自分の声、「死」とはあくまで自分の死でした。しかし、レヴィナスにとって「声」とは傷つきやすい「他者」からの呼びかけ、「死」もまた「他者」の死であるとして、他者に開かれ、迎え入れる「歓待」の倫理学を説きました。レヴィナスの理解者であり、よきライバルでもあったフランスの哲学者ジャック・デリダもまた、ハイデガーの「自らの内なる声」に強固に支えられた主体の哲学を、コミュニケーションにおける「郵便(自分の意志が誤って相手に届くこと)」という複数的な概念でバラバラにして、批判的に乗りこえようとする「脱構築」の哲学を試み、ひいてはヨーロッパ哲学全体の再構築を図りました。
重い病気にかかっていない人間が、重い病気にかかっている人の気持ちなどわかるものか、と思われるかもしれません。治る見込みの低い病気にかかっている人に、哲学は何を言うことができるのでしょうか。オーストリア出身の哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを取り上げたいと思います。ウィトゲンシュタインは鉄鋼王とよばれた富豪の名家に生まれ、生活苦に悩むことはないものの、自殺志向の強い家系だったらしく、兄弟8人中3人が自殺し、自らも幾度となく死を考えていた人物です。最終的に彼は自殺を踏みとどまり、著作は少ないものの、哲学史に偉大な足跡を残し、寿命を全うして亡くなりました。なぜ自死をずっと考えていたような人物が生きようと決めたのか。そのことから、この悩みに対する答えをみちびいてみます。彼が死ぬことを思いとどまれた(生きようと決めた)理由。それは「哲学」をやれること──哲学を考えること、書くこと、講義すること──が彼に魂の健康を与えたことは確かです。それともうひとつ、戦争体験があったということは間違いないでしょう。ウィトゲンシュタインが小学校教師をやっていた若い時分に、第1次世界大戦が勃発し、彼は教師を辞め、オーストリア軍への従軍を志願します。何度も死を考えていた彼にとって、死が間近にあるということを実感してみたかったというのも動機の一つでしょう。彼は小学校教師でも浮いた存在で、親や学校からクビにされたりしましたが、従軍した先でもブルジョワ出身と揶揄され、仲間はずれにされ、しばしば意気消沈していたようです。彼はその従軍の様子を『草稿』という形で生々しく書き残しています。夕方カフェで多くの将校と一緒になる。ほとんどは豚のように振舞う。ここには何かを打ち明けられる人がいないことをしばしばつらく感じる。しかしあらゆる力に抗して自分を保ってゆこう。(『草稿』)今でいう友達の少ない大学生のような、不器用で社交の苦手な、過剰な自意識が感じられます。居心地の悪さを感じながらも従軍を続けたウィトゲンシュタインは、オーストリア軍がロシア軍の前に圧倒的に劣勢である中、緊迫の度合いを強める東部戦線に送りこまれます。その戦場での戦いは苛烈をきわめていました。彼はその激しい戦場で、あえてひと際危険な「監視塔」の任務を志願するのです〔※1〕。先ほども引用した『草稿』にはこう記録されています。たぶん明日、照明灯係に志願し、上に昇る。そのときはじめて私にとっての戦争が始まるのだ。そして生もまた存在しうるのだ。たぶん死に近づくことが私の生に光をもたらすだろう。神よ私を照らしたまえ。(『草稿』)当時、ブルシーロフ攻勢として知られたロシア軍の大攻勢が開始され、ウィトゲンシュタインの所属する第7軍は総退却を余儀なくされます。将兵16000人のうち、3500人しか残らないような大敗北(鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』第3部より)。饒舌だったウィトゲンシュタインの草稿の記述はその前後、ぱたりと止みます。残された記録の中でも、当人にとってクリティカル(生死を分けるほど重要)な真実について多くを語らないということはよくあることです〔※2〕。ところが──。自軍の敗走のまっただ中、生と死が隣り合わせ、いつ死ぬかわからないぎりぎりの危機的な状況で、突然、『草稿』に彼の思考の言葉が迸り出るのです。それは彼の代表作『論理哲学論考』の方向性を決定づける、難解で荒削りですが、いまを生きる私たちにとっても真に迫る言葉です。私は知る、この世界があることを。私の眼が視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。[…]世界の意味が世界の中になく、その外にあることを。生が世界であることを。私の意志が世界を満たしていることを。[…]世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。(同)戦いの最前線にいる照明灯係のウィトゲンシュタインが、どれほど苛酷な戦況の光景を見ていたかはわかりません。内心「豚」と呼んでいたような同僚の将校が、同胞として撃たれ、叫びながらもがく。肉体ごと爆撃されて、血と内臓が吹き飛ぶ。そのような無残な光景だったかもしれません。ウィトゲンシュタイン本人も照明灯係として、ずっと書くこともままならず、ただもう「見る」しかない地獄絵図の中で、「世界の中の出来事はどうすることもできない」と悟ります。戦況はさらに悪化し、あえなく私は犬死にしてしまうかもしれない。あるいは命からがら生き延びるかもしれない。どうなるかはわからない。それはもう、運である。「私をとりまく世界の中の出来事がいかにあるか」を、私はコントロールすることができない。世界のできごとへの影響力を私は持つことができない。私は世界内の出来事に対して無力である。がしかし、とウィトゲンシュタインは書きつけるのです。私は出来事への影響を断念することによってのみ世界から独立できるし、それゆえある意味で世界を支配することができる。(同)世界の中の自分に起きる出来事について支配することやコントロールすることを、断念してみる。無関心になってみる。それはちょうど、雨霰と降る大小の爆撃が自軍の生命を脅かし、悲鳴と怒号と罵声が飛び交う目の前のむごたらしい戦況を、ウィトゲンシュタインはいったん、音も映像も、五感で感じるそれらをまるごと、引いて見つめてみた、といった感覚ではないでしょうか。そのことによって、自分はいってみれば、世界から独立することができる。世界の内部のできごとがどれほど最悪で最低で血まみれであろうとも、あるいは贅沢で豪奢で享楽にあふれていようとも、もはやそういったことには意味を認めない。無関心である。世界の内部のあれやこれやではなく、世界の「外」から世界の出来事を見て、私がその中にいる、私に生が開かれているという事実、そのこと自体を見る。そのことによって、自分はどんなに不遇であろうが、世界から「独立」することができるし、世界を外側から「支配」することさえできる。ウィトゲンシュタインはそう考えたのです。同じ生命の危機といっても、戦争と重い病気は、質的には異なるものかもしれません。しかし、この世界の内部に、自分の意志や力ではどうやっても、万事手を尽くしてがんばっても、どうにもならないことがある。そのことを了解しつつ、しかし、私にとってこの世界そのものがあること、そのこと自体を奇跡と考え、それを生きてやろう、しかも幸福に生きてやろうと意志することはできるのです〔※3〕。
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(『草稿』)いのちが続くかぎり、この自分が見て、感じているこの世界はあるのですから、いのちの続くかぎり、幸福に生きてやろうと意志することはできる。「世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である」というのはそういうことです。ウィトゲンシュタイン本人は幾度もの自殺の危機を生き延びました。「みんなに、僕はすばらしい一生を送ったと伝えてくれ」という言葉を残して、前立腺がんで64年の生涯を閉じます。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は「およそ語られうることは明晰に語られうる」という序文ではじまり、「語りえないものについては沈黙しなければならない」という言葉で締めくくられます。それ以上を語らない、そしてそのことで論理的な神秘性を帯びた書物ですが、『草稿』でははっきりとこう書きつけています。幸福に生きよ!(同)ウィトゲンシュタインが言う「幸福」について、この世のできごとのうれしいことやつらいことに惑わされないその意味を、ここまで読んできた方はもう十分おわかりいただけたのではないでしょうか。〔1〕パリに留学し、バタイユやモースなど当時最先端の哲学や人類学を学んだ当代一の日本のインテリである芸術家岡本太郎([2])にも似たエピソードがあります。彼が第2次世界大戦に従軍した際には、上官が部下を並ばせて殴ることが日常化していましたが、上官が部下を次々と殴り、その勢いがもっとも強くなる4番目の役を、太郎自ら毎回買って出たといいます。ブルジョワ出身、インテリ出身であることへの反骨精神もあったでしょうが、それ以上に、バタイユらに学んだ「死の哲学」すなわち「無目的に、まったく意味のない挑み」を現場で実践してみたい、という気持ちもあったのでしょう。〔2〕書き手にとって命運を分けるほど重要な瞬間。たとえば古代キリスト教最大の教父アウグスティヌスの主著『告白』における、放蕩者だった彼が32歳でキリスト教に回心する転機となった、神の啓示の瞬間は沈黙によって語られますし、フィクションではありますが『源氏物語』の主人公・光源氏の臨終の場面(『雲隠』)は本文がなく、何も語られません(黙説法)。〔3〕デレク・ジャーマンという映画監督がいます。彼は『ウィトゲンシュタイン』という伝記映画を撮るほどウィトゲンシュタインに惚れこんでいました。ジャーマンは同性愛者で、この映画を公開する前にエイズを発症します。当時は治療法も確立されていない中、彼はロンドン郊外で療養しつつ、宣告されてから亡くなるまでの6年間、庭づくりに精を出します。その庭はエイズという当時の「恐ろしい」病気があることを微塵も感じさせないような、まるでこの世界があること自体を寿ぐような美しい庭で、現在でもこの庭を観に多くの人びとが訪れます。ジャーマンはこの庭をつくりながら、「死は生を創造的(productive)にする」と言ってみせます。ウィトゲンシュタインが『草稿』で書いたような「むごたらしくあってもこの世界を肯定するしかた、幸福に生きるしかた」を彼は実践したのです。
おわりに生きること、それは苦しいことの連続です。好きな人にふられ、夢には破れ、人に裏切られ、いつか病んで、死んでいきます。人生は思い通りにならないものです。楽しさや幸せよりも、苦しむこと、悩むことの方が、ずっと多いのではないでしょうか。そんなごく当たり前の真実に思いをはせるとき、哲学者の中で思い出されるのは、やはりニーチェ(参照)です。信じるべきものが何もない、この世に何ら価値あるものなどないというニヒリズムにヨーロッパがおちいっていた時代。ニーチェ自身も、一世一代の恋に破れて苦しみ、悩み悶えますが、「時がただぐるぐると無意味に繰り返される」という認識をやがて肯定的にとらえ、「神は死んだ」という衝撃的な主張をきっかけに『ツァラトゥストラかく語りき』という作品で「運命愛」という考えに達します。人生の選択の局面で、選んだ道がかりに失敗だったとしても、その後どんなに悲惨な運命が待っていたとしても、一度きりの人生として、その運命を愛する。そして喜びだけでなく、苦しみ・悩みもまた再び自分にめぐってくることをうけいれる「永劫回帰」。人生の肯定のためのこのコンセプトは、ニーチェ自身がその後死ぬまで十年間発狂してしまったという痛ましい事実とともに、深く悩める私たちにも深く共感できるものではないでしょうか。夏目漱石は、当時では珍しかった文部省給費生としてロンドンに留学し、留学先で英文学やイギリス文化になじまず、深刻な鬱に苦しみますが、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』英訳版の存在を知り、膨大なメモをとりながらくりかえし読んでは励まされたといいます。その後漱石は「(世間に合わせるのでなく)自分本位に生きる」という思想を編み出し、帰国後、あの『吾輩は猫である』を書いて小説家デビュー、学界最高の権威といってもいい東大講師の座をかなぐり捨てて朝日新聞社に入社するのです。古代のアジアに目を向けてみれば、東洋思想の代表格にして仏教の始祖ゴータマ・シッダールタ(参照)がいます。生きることは生・老・病・死の「四苦」に加え、愛するものと別れる苦しみ、嫌いなものと会う苦しみ、欲しいものが手に入らぬ苦しみ、執着する苦しみと4つの苦しみがあり、生きることはまさに「四苦八苦」であると考えました。シッダールタは究極の「ネガティヴ思考」から出発し、そのまま居れば王になっていた生まれ故郷を離れ、諸国を遊行したのち、やがて「縁起」の思想を着想します。人生を「物語」として考えてしまう「煩悩」を滅して悟りを開き、シッダールタは歓喜も苦悩も超えた「涅槃」へと至るのですが、深く長い苦悩を経て「目覚めた人(ブッダ)」となるプロセスもまた、人生に悩む等身大のひとりの人間として、悩みながら日常を生きる私たちを励ますものではないでしょうか。日本曹洞宗を開いた道元はブッダの教理にたちかえり、「坐禅」こそが悟りであるとしました。時代がくだって、禅の教えを伝える鈴木大拙(参照)らの書物が英訳されてアメリカ西海岸に広まり、あのスティーヴ・ジョブズにも影響を与え、若きジョブズはインドを放浪します。ジョブズは自ら創業したアップルを追放されるという逆境にあっても、「何かを失い、貧しくなった方が、収穫は豊かになる」、「本質的でないことを捨て、大事なことだけに向き合うことで、大きな果実が得られる」といった禅の考えかたに支えられ、アップルのCEOに返り咲いてのち、iPhoneを発表するのです。古今東西の偉人にとっても私たちにとっても、悩みというものは人生における「親友」のようなものとして存在します。生きているかぎり、その苦しみからのがれることはできません。私たちのこの後の人生も、これまで以上に幾多の悩みや苦しみが待ち受けていることでしょう。そうであればこそ、やがて来る悩みに適切に対処するために、哲学者が苦悩の果てにたどり着いた哲学の思考を頭の中にたずさえておくことは、けっして無駄なことではありません。もし人生に絶望するような深い悩みに直面したら、悩める私たちの先達として、哲学者たちが人生を賭して書き遺した書物をひもといてみる。そのことで、悩みを乗りこえるヒントを得られるのではないでしょうか。つらいときに自分を救う哲学をもっておくことは心強いことです。かつての漱石やジョブズがそうであったように。生き延びるために、哲学を活用してまいりましょう。***最後になりましたが、お忙しい中ご丁寧に監修の労をとってくださった東京大学教養学部の古荘真敬准教授、貴重なアドバイスを下さった白鴎大学の青﨑智行教授、澤谷郁子さん、辻本沙織さん、講談社の故・原田隆さん、高田晋一さん、筆者を支えてくれた大事な人、そして両親に、心から感謝します。また、力強い装丁とブックデザインをしてくださったセプテンバーカウボーイの吉岡秀典さんにも厚く御礼を申し上げます。最後に、中学・高校からの旧友である水野敬也・山本周嗣両氏との長い友情に感謝します。2018年4月吉日小林昌平
参考文献菅野覚明・熊野純彦・山田忠彰監修文部科学省検定済教科書『高等学校新倫理新訂版』清水書院濱井修・小寺聡文部科学省検定済教科書高等学校公民科用『改訂版現代の倫理』山川出版社小寺聡編『もういちど読む山川倫理』山川出版社岸本美緒・羽田正ほか著文部省検定済教科書高等学校地理歴史科用『世界史B新世界史B』山川出版社田中正人著斎藤哲也編集・監修『哲学用語図鑑』ダイヤモンド社〈はじめに〉NHK「知られざる大英博物館」プロジェクト編著『NHKスペシャル知られざる大英博物館古代エジプト』NHK出版BobHolmesandJamesRandersonHumbleclaytabletsaregreatestlosstoscienceNewScientist2003.5.10〈1将来、食べていけるか心配〉アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳岩波文庫アリストテレス『形而上学』出隆訳岩波文庫鬼界彰夫『生き方と哲学』講談社桑子敏雄『エネルゲイアアリストテレス哲学の創造』東京大学出版会岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気自己啓発の源流「アドラー」の教え』ダイヤモンド社エピクロス『エピクロス──教説と手紙──』出隆・岩崎允胤訳岩波文庫NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」『妥協なき日々に、美は宿る歌舞伎役者・坂東玉三郎の仕事』DVD(2008.1.15放送)※「やるだけやったら、次がある。」は転職情報誌『DODA』のかつてのキャッチコピーです。〈2忙しい、時間がない〉ベルクソン『時間と自由』中村文郎訳岩波文庫アンリ・ベルクソン『物質と記憶』合田正人・松本力訳ちくま学芸文庫杉山直樹『「自由に生きること」とはベルクソン時間と自由』(左近司祥子編著『西洋哲学の10冊』(岩波ジュニア新書)所収)金森修『ベルクソン人は過去の奴隷なのだろうか』NHK出版小林秀雄『小林秀雄全作品〈別巻1〉感想(上)』新潮社瀧口範子『行動主義レム・コールハースドキュメント』TOTO出版石川善樹『疲れない脳をつくる生活習慣働く人のためのマインドフルネス講座』プレジデント社山口周『外資系コンサルのスライド作成術図解表現23のテクニック』東洋経済新報社ブログ「内田樹の研究室」『物質と記憶』2004.7.18〈3お金持ちになりたい〉マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(日経BPクラシックス)』中山元訳日経BP社マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳岩波文庫仲正昌樹『マックス・ウェーバーを読む』講談社現代新書小室直樹『日本人のための憲法原論』集英社インターナショナル渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫ブログ「世界史の目─vol.140─」『スイスの新しい風』ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史文明の構造と人類の幸福』柴田裕之訳河出書房新社NHK「クローズアップ現代」『〝幸福〟を探して人類250万年の旅~リーダーたちも注目!世界的ベストセラー』(2017.1.4放送)トマ・ピケティ『21世紀の資本』山形浩生・守岡桜・森本正史訳みすず書房〈4やりたいことはあるが、行動に移す勇気がない〉デカルト『方法序説』谷川多佳子訳岩波文庫谷川多佳子『デカルト「方法序説」を読む』岩波現代文庫小林道夫『デカルト入門』ちくま新書鈴木宏昭『教養としての認知科学』東京大学出版会ダン・アリエリー『予想どおりに不合理行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』熊谷淳子訳早川書房ブログ「いつやるか?今でしょ日記林修オフィシャルブログ」『多忙だった1月を回顧する⑥~WBS「方法序説」~』2014.2.1〈5会社を辞めたいが辞められない〉ジル・ドゥルーズ『アンチ・オイディプス資本主義と分裂症』宇野邦一訳河出文庫ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー資本主義と分裂症』宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳河出文庫ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグドゥルーズの思想』江川隆男・増田靖彦訳河出文庫ジル・ドゥルーズ『記号と事件1972-1990年の対話』宮林寛訳河出文庫アントニオ・ネグリマイケル・ハート『マルチチュード〈帝国〉時代の戦争と民主主義』幾島幸子訳NHK出版浅田彰『構造と力記号論を超えて』勁草書房浅田彰『逃走論スキゾ・キッズの冒険』ちくま文庫東浩紀『ゲンロン0観光客の哲学』株式会社ゲンロン千葉雅也『動きすぎてはいけないジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社ブログ「言語空間+備忘録」「『条里空間』と『平滑空間」』2011.10.13ブログ「PhilosophyGuides」「ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を解読する」〈6緊張してしまう〉ブッダ『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳岩波文庫ブッダ『ブッダ最後の旅大パリニッバーナ経』中村元訳岩波文庫中村元『原始仏教その思想と生活』NHKブックス植木雅俊『法華経、および中村元先生との出会い』(「図書」2008年12月号)魚川祐司『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か』新潮社地橋秀雄『ブッダの瞑想法ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』春秋社頼住光子『日本の仏教思想─原文で読む仏教入門─』北樹出版名越康文『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』PHP新書熊野宏昭『ストレスに負けない生活──心・身体・脳のセルフケア』ちくま新書『眠れぬ夜に試してみたい「シャッフル睡眠法」あっという間に眠りに落ちると海外で話題』NewSphere2017.5.17草薙龍瞬『反応しない練習』KADOKAWA「TIME」『THEMINDFULREVOLUTION』2014.2.3ティク・ナット・ハン『仏の教えビーイング・ピースほほえみが人を生かす』棚橋一晃訳中公文庫ティク・ナット・ハン『〈気づき〉の奇跡暮らしのなかの瞑想入門』池田久代訳春秋社
釈徹宗『NHKテレビテキスト100分de名著2017年6月「維摩経」』NHK出版〈7自分の顔が醜い〉ジャン=ポール・サルトル『存在と無現象学的存在論の試み』松浪信三郎訳ちくま学芸文庫ジャン=ポール・サルトル『嘔吐新訳』鈴木道彦訳人文書院ジャン=ポール・サルトル『実存主義とは何か』伊吹武彦訳人文書院松浪信三郎『実存主義』岩波新書海老坂武『NHKテレビテキスト100分de名著2015年11月「実存主義とは何か」』NHK出版NHKEテレ「ケンブリッジ白熱教室」第2回『美と醜悪の現象学』(2014.10.17放送)大澤真幸・市野川容孝対談『自由の困難=牢獄からいかに抜け出すか?』2015.5.29横山奈那『両義性の実存的絵画論──前期メルロ=ポンティにおける「セザンヌ」の意味──』東京藝術大学美術学部論叢創刊号2005.04ブログ「NAMS出版プロジェクト」『サルトルとドゥルーズ:メモ』2015.11.3〈8思い出したくない過去をフラッシュバックする〉ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』氷上英廣訳岩波文庫ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳岩波文庫ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳ちくま学芸文庫竹田青嗣『ニーチェ入門』ちくま新書浅田彰・島田雅彦『天使が通る』新潮文庫池田嘉郎・上野愼也・村上衛・森本一夫編『名著で読む世界史120』山川出版社〈9学歴や会社にコンプレックスがある〉M.チクセントミハイ『フロー体験喜びの現象学』今村浩明訳世界思想社M.チクセントミハイ『フロー体験入門楽しみと創造の心理学』大森弘訳世界思想社M.チクセントミハイ『フロー体験とグッドビジネス仕事と生きがい』大森弘訳世界思想社TED『ミハイ・チクセントミハイ:フローについて』2004.2丸山真男『日本の思想』岩波新書菊地成孔『「コンプレックス=劣等感」ではない菊地成孔氏が解説する多形倒錯の世界』Logmi2015.8.12「嫌われる勇気」オフィシャルウェブサイト『アドラー流お悩み相談室』三島由紀夫『「金閣寺」創作ノート』(新潮社「決定版三島由紀夫全集〈6〉長編小説(6)」所収)ショーペンハウアー『幸福について人生論』橋本文夫訳新潮文庫B.ラッセル『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳岩波文庫三島由紀夫『努力について』(ちくま文庫「三島由紀夫のエッセイ②新恋愛講座」所収)〈10もっと人から認められたい。チヤホヤされたい〉スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳紀伊國屋書店スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳青土社新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書ベン・パー「アテンション──『注目』で人を動かす7つの新戦略」『なぜ僕らは「いいね!」を切望するのか?』cakes2016.4.14蓮實重彦×浅田彰対談『「空白の時代」以後の二〇年』(中央公論新社「中央公論」2010年1月号)浅田彰×福田和也対談(扶桑社「SPA!」2014年2月11・18日合併号)ブログ「Lesyeuxclos」「『えらくなろう』という不滅の幼児願望」2014.2.10ブログ「かくかくしかじか日記…のようなもの」『幽霊的、エイリアン的、カント的』2009.6.17佐藤康宏『もっと知りたい伊藤若冲生涯と作品改訂版(アートビギナーズ・コレクション)』東京美術上野修『スピノザの世界神あるいは自然』講談社現代新書西研『「至高なもの」をめぐって』(竹田青嗣・西研著「完全解読ヘーゲル『精神現象学』」あとがき講談社選書メチエ)2007.11ピーター・ティール+ブレイク・マスターズ『ゼロ・トゥ・ワン君はゼロから何を生み出せるか』関美和訳NHK出版橘玲『シリコンバレーの起業家たちの思想と価値観──イーロン・マスクやピーター・ティールの考え方学校では学べない世界近現代史入門』文春オンライン2017.8.27RichardFeloniPeterThielexplainshowanesotericphilosophybookshapedhisworldviewBUSINESSINSIDER2014.11.10植島啓司『運は実力を超える』角川新書池田嘉郎・上野愼也・村上衛・森本一夫編『名著で読む世界史120』山川出版社〈11ダイエットが続かない〉J.S.ミル『功利主義論』伊原吉之助訳(中央公論社「世界の名著38」所収)J.S.ミル『功利主義論集』川名雄一郎・山本圭一郎訳京都大学学術出版会J.S.ミル『自由論』塩尻公明・木村健康訳岩波文庫J.S.ミル『ミル自伝』朱牟田夏雄訳岩波文庫小寺聡編『もういちど読む山川倫理』山川出版社永井均『倫理とは何か猫のアインジヒトの挑戦』ちくま学芸文庫藤永保『幼児教育を考える』岩波新書〈12常に漠然とした不安に襲われている〉ホッブズ『リヴァイアサン』水田洋訳岩波文庫ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳みすず書房飯野和夫『ホッブズ、ルソーの社会思想にみる恐怖恐怖をめぐる思想史のための一視座』名古屋大学大学院国際言語文化研究科言語文化研究叢書62007.3.31國分功一郎『近代政治哲学──自然・主権・行政』ちくま新書アンドリュー・S・グローブ『インテル戦略転換OnlytheParanoidSurvive』佐々木かをり訳七賢出版永井均『倫理とは何か猫のアインジヒトの挑戦』ちくま学芸文庫池田嘉郎・上野愼也・村上衛・森本一夫編『名著で読む世界史120』山川出版社ブログ「永井俊哉ドットコム」『ルソーのノスタルジーは正しいのか』1999.12.4エピクロス『エピクロス──教説と手紙──』出隆・岩崎允胤訳岩波文庫洪自誠『菜根譚』今井宇三郎訳岩波文庫ブログ「健康食品・サプリメントの素」『大麦若葉』〈13人の目が気になる〉ミシェル・フーコー『監獄の誕生─監視と処罰─』田村俶訳新潮社ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ知への意志』渡辺守章訳新潮社ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ快楽の活用』田村俶訳新潮社ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅲ自己への配慮』田村俶訳新潮社ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ198283自己/統治性/快楽』蓮實重彦・渡辺守章監修小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編筑摩書房ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』増田一夫訳哲学書房浅田彰・島田雅彦『天使が通る』新潮文庫浅田彰『構造と力記号論を超えて』勁草書房中山元『フーコー入門』ちくま新書桜井哲夫『現代思想の冒険者たちSelectフーコー知と権力』講談社重田園江『ミシェル・フーコー──近代を裏から読む』ちくま新書
東浩紀、大澤真幸『自由を考える9・11以降の現代思想』NHK出版國分功一郎『中動態の世界意志と責任の考古学』医学書院岡本裕一朗『フランス現代思想史構造主義からデリダ以後へ』中公新書岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社森博嗣『自由をつくる自在に生きる』集英社新書〈14友人から下に見られている〉アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学』岸見一郎訳アルテ岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気自己啓発の源流「アドラー」の教え』ダイヤモンド社「嫌われる勇気」オフィシャルウェブサイト『アドラー流お悩み相談室』河合隼雄著・河合俊雄編『ユング心理学入門〈心理療法〉コレクション』岩波現代文庫スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣成功には原則があった!』ジェームス・スキナー/川西茂訳キングベアー出版ブログ「野田俊作の補正項」『基礎講座応用編(2)』2016.2.21、『翻訳が終わったら凧揚げをする』2017.2.11ブログ「永井俊哉ドットコム」『ルソーのノスタルジーは正しいのか』1999.12.4岸見一郎『NHKテレビテキスト100分de名著2016年10月「人生の意味の心理学」』NHK出版ブログ「アドラー心理学による勇気づけ一筋30年『勇気の伝道師』ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ」『アドラー心理学ブームについて(16):課題の分離を巡って(2)』2014.4.18ドン・ディンクメイヤー、ルドルフ・ドライカース『子どもにやる気を起こさせる方法アドラー学派の実践的教育メソッド』柳平彬訳創元社岡本太郎『自分の中に毒を持てあなたは〝常識人間〟を捨てられるか』青春文庫〈15上司とうまくいっていない〉スピノザ『エチカ倫理学』畠中尚志訳岩波文庫スピノザ『神学・政治論』吉田量彦訳光文社古典新訳文庫G・ドゥルーズ『スピノザ実践の哲学』鈴木雅大訳平凡社ライブラリーアントニオ・R・ダマシオ『感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ』田中三彦訳ダイヤモンド社上野修『スピノザの世界神あるいは自然』講談社現代新書上野修『哲学者たちのワンダーランド様相の十七世紀』講談社山本貴光+吉川浩満『脳がわかれば心がわかるか脳科学リテラシー養成講座』太田出版清水礼子『破門の哲学スピノザの生涯と思想』みすず書房佐々木能章『ライプニッツ術モナドは世界を編集する』工作舎マキアヴェッリ『君主論』河島英昭訳岩波文庫鈴木博毅『戦略の教室』ダイヤモンド社〈16家族が憎い〉ハナ・アーレント『全体主義の起原1反ユダヤ主義』大久保和郎訳みすず書房ハナ・アーレント『全体主義の起原2帝国主義』大島通義・大島かおり訳みすず書房ハナ・アーレント『全体主義の起原3全体主義』大久保和郎・大島かおり訳みすず書房ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳ちくま学芸文庫ハンナ・アーレント『活動的生』森一郎訳みすず書房ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳みすず書房『赦しと約束──アーレントの〈活動〉をめぐって』(「哲学」1998年4月号)をはじめとする高橋哲哉氏の「赦し」の議論岡里勇希『過去問から見る倫理Ⅱ』『家族同士の殺し合いが増加昨年の殺人事件は親族間が53.5%』(特に精神科医・影山任佐氏の見解)「SAPIO」2015年1月号映画『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)矢野久美子『ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書NHK「視点・論点」矢野久美子『ハンナ・アーレントと〝悪の凡庸さ〟』(2014.6.25放送)ブログ「英語教育の哲学的探究2」『人間の複数性について:アレント「活動的生」より』2016.6.2岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書東浩紀『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』新潮社高橋源一郎「第4章哲学から考えるヴォルテール『寛容論』」(NHK出版『別冊NHK100分de名著「平和について考えよう」』所収ヴォルテール『寛容論』中川信訳中公文庫〈17恋人や妻(夫)とけんかが絶えない〉G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳作品社G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』樫山欽四郎訳平凡社G.W.F.ヘーゲル『歴史哲学講義』長谷川宏訳岩波文庫ヘーゲル『法の哲学』藤野渉・赤沢正敏訳中公クラシックスアレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門「精神現象学」を読む』上妻精・今野雅方訳国文社岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界ポストモダンのフクロウたち』ナカニシヤ出版竹田青嗣+西研「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」(講談社現代新書)三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳岩波文庫テオドール・W・アドルノ『ベートーヴェン音楽の哲学《改訂版》』大久保健治訳作品社鳥山明『ドラゴンボール』集英社高橋史彦『「発見!僕の私の電子書籍」【名作】少年漫画のフォーマットを変えた圧倒的人気作品「ドラゴンボール」』ニコニコ動画2013.4.6ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界哲学者からの不思議な手紙』池田香代子訳NHK出版須田朗著『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』NHK出版洪自誠著『菜根譚』今井宇三郎訳岩波文庫〈18不倫がやめられない〉カント『純粋理性批判』篠田英雄訳岩波文庫カント『純粋理性批判』中山元訳光文社古典新訳文庫カント『道徳形而上学原論』篠田英雄訳岩波文庫カント『道徳形而上学の基礎づけ』中山元訳光文社古典新訳文庫カント『実践理性批判』波多野精一、宮本和吉、篠田英雄訳岩波文庫カント『判断力批判』篠田英雄訳岩波文庫ドゥルーズ『カントの批判哲学』國分功一郎訳ちくま学芸文庫永井均『倫理とは何か猫のアインジヒトの挑戦』ちくま学芸文庫小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会石川文康『カント入門』ちくま新書御子柴善之『自分で考える勇気カント哲学入門』岩波ジュニア新書亀山早苗編『人はなぜ不倫をするのか』SB新書〈19不倫がやめられない【別解】〉金子大栄校注『歎異抄』岩波文庫親鸞『教行信証』金子大栄校訂岩波文庫頼住光子『日本の仏教思想──原文で読む仏教入門──』北樹出版
釈徹宗『NHKテレビテキスト100分de名著2016年4月「歎異抄」』NHK出版今村仁司『親鸞と学的精神』岩波書店今村仁司『清沢満之の思想』人文書院末木文美士『日本仏教史思想史としてのアプローチ』新潮文庫五木寛之『親鸞青春篇(下)』講談社文庫岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書飲茶『史上最強の哲学入門東洋の哲人たち』マガジン・マガジンマハトマ・ガンジー『ガンジー自伝』蝋山芳郎訳中公文庫BIBLIO20世紀近藤光博『ガンディーの禁欲(1)彼にとってのブラフマチャリアの必要性』東京大学宗教学年報121995.3.30中島岳志『NHKテレビテキスト100分de名著2017年2月「獄中からの手紙」』NHK出版ダニエル・カーネマン『ダニエル・カーネマン心理と経済を語る』友野典男監訳山内あゆ子訳楽工社〈20大切な人を失った〉ジークムント・フロイト『喪とメランコリー』中山元訳(光文社古典新訳文庫「人はなぜ戦争をするのか」所収)ジークムント・フロイト『快楽原則の彼岸』中山元訳(ちくま学芸文庫「自我論集」所収)エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー『永遠の別れ悲しみを癒す智恵の書』上野圭一訳日本教文社エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間死とその過程について』鈴木晶訳中公文庫堀江宗正『歴史のなかの宗教心理学その思想形成と布置』岩波書店ブログ「KeywordProject+Psychology:心理学事典のブログ」『ジークムント・フロイトのモーニングワーク(喪の仕事)と躁的防衛』2015.4.23ブログ「LadySatin’sEnglishProject」『訳詞の世界~TearsinHeavenEricClapton(和訳)』2013.11.17ジャレド・ダイヤモンドほか著吉成真由美インタビュー・編『知の逆転』NHK出版新書ブッダ『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳岩波文庫ブログ「旧心の栄養身体の食べ物」『愛別離苦パターチャーラーの逸話』2009.6.28ブログ「トーキング・マイノリティ」『子を亡くした母』2006.8.31瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』日本放送出版協会草薙龍瞬『反応しない練習』KADOKAWA大江健三郎『人生の親戚』新潮文庫村上春樹『ハナレイ・ベイHanaleiBay』(新潮社「めくらやなぎと眠る女」所収)木村純二『折口信夫──いきどほる心』講談社学術文庫〈21人生が楽しくない、やりたいことがない、毎日が楽しくない〉道元『典座教訓・赴粥飯法』中村璋八・石川力山・中村信幸全訳注講談社学術文庫『正法眼蔵』増谷文雄全訳注講談社学術文庫井筒俊彦『意識と本質精神的東洋を索めて』岩波文庫名越康文『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』PHP新書頼住光子『日本の仏教思想──原文で読む仏教入門──』北樹出版頼住光子『道元自己・時間・世界はどのように成立するのか』NHK出版頼住光子『道元の思想大乗仏教の真髄を読み解く』NHK出版頼住光子『道元に学ぶ生き方』中日新聞2013.2.2〈22人生の大切な決断を決められない〉ダニエル・カーネマン『ファスト&スローあなたの意思はどのように決まるか?』村井章子訳早川書房ダニエル・カーネマン『ダニエル・カーネマン心理と経済を語る』友野典男監訳山内あゆ子訳楽工社マイケル・ルイス『かくて行動経済学は生まれり』渡会圭子訳文藝春秋(原著MichaelLewisTheUndoingProject:AFriendshipthatChangedtheWorldPenguin)DanielKahnemanandAmosTverskyProspectTheory:AnAnalysisofDecisionunderRiskEconometrica1979.3AMOSTVERSKYandDANIELKAHNEMANAdvancesinProspectTheory:CumulativeRepresentationofUncertaintyJournalofRiskandUncertainty1992シーナ・アイエンガー『選択の科学』櫻井祐子訳文藝春秋依田高典『現代経済学(放送大学教材)』放送大学教育振興会鈴木宏昭『教養としての認知科学』東京大学出版会後藤順一郎「オヤジの幸福論」『人間が合理的な選択ができない』ダイヤモンド・オンライン2013.4.3清水勝彦『「理想論」は本当に良い「選択」につながらないシーナ・アイエンガー著「選択の科学」(4)』日経Bizアカデミー2014.5.27長谷川寿一、長谷川眞理子『進化と人間行動』東京大学出版会アトゥール・ガワンデ『死すべき定め死にゆく人に何ができるか』原井宏明訳みすず書房植島啓司『偶然のチカラ』集英社新書塩野七生『ローマ人の物語8ユリウス・カエサルルビコン以前(上)』新潮文庫塩野七生『痛快!ローマ学』集英社インターナショナル野口悠紀雄『世界史を創ったビジネスモデル』新潮選書ナシーム・ニコラス・タレブ『ブラック・スワン不確実性とリスクの本質』望月衛訳ダイヤモンド社ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器なぜ、人は動かされるのか』社会行動研究会訳誠信書房ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳中公クラシックスJonahLehrer『心の会計:人はなぜお金を非合理的に使うのか』高橋朋子・合原弘子訳WIRED2011.2.18アレン琴子『浪費の原因は「心の会計」どうすればお金が貯まるのか』ZUUonline2016.12.18ゲルト・ギーゲレンツァー『なぜ直感のほうが上手くいくのか?「無意識の知性」が決めている』小松淳子訳インターシフト〈23夜、孤独を感じる〉ショーペンハウアー『幸福について人生論』橋本文夫訳新潮文庫ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』西尾幹二訳中公クラシックスフリードリッヒ・ニーチェ『ニーチェ全集別巻1ニーチェ書簡集1』塚越敏訳ちくま学芸文庫ブログ「NAMS出版プロジェクト」『ニーチェ:メモ』2012.1.17※「ひとりじゃないから、ひとりでいられる。」はIBMのパソコン『ThinkPad』のかつてのキャッチコピーです。〈24死ぬのが怖い〉プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』久保勉訳岩波文庫プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』三嶋輝夫・田中享英訳講談社学術文庫プラトン『パイドン魂の不死について』岩田靖夫訳岩波文庫プラトン『ゴルギアス』加来彰俊訳岩波文庫プラトン『プロタゴラスソフィストたち』藤沢令夫訳岩波文庫プラトン『饗宴』久保勉訳岩波文庫プラトン『国家』藤沢令夫訳岩波文庫プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳岩波文庫藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書木田元『反哲学史』講談社学術文庫ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』加来彰俊訳岩波文庫ブログ『樽を知る?ディオゲネス』2008.1.12柄谷行人『ミシェル・フーコー講義集成13真理の勇気』朝日新聞書評2012.6.3
エピクロス『エピクロス──教説と手紙──』出隆・岩崎允胤訳岩波文庫『荘子第三冊[外篇・雑篇]』金谷治訳注岩波文庫スティーヴン・グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』河野純治訳柏書房〈25人生がつらい〉マルティン・ハイデッガー『存在と時間』細谷貞雄訳ちくま学芸文庫マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳作品社ハイデガー『存在と時間』中山元訳光文社古典新訳文庫竹田青嗣『ハイデガー入門』講談社選書メチエ河合隼雄著河合俊雄編『ユング心理学入門〈心理療法〉コレクションⅠ』岩波現代文庫河合隼雄『こころの処方箋』新潮文庫石川淳『普賢・佳人』講談社文芸文庫TED『J・D・シュラム:自殺未遂者の沈黙を破る』2011.3ブログ「英文翻訳のページ」『自殺衝動』byScottAnderson:TheNewYorkTimesMagazine2008.7.6TED『ローラ・カーステンセン:年をとるほど幸せになる』2011.9岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書東浩紀『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』新潮社〈26重い病気にかかっている〉ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳岩波文庫ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集第1巻論理哲学論考草稿19141916論理形式について』奥雅博訳大修館書店野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』ちくま学芸文庫鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた哲学的思考の全軌跡19121951』講談社現代新書永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書アウグスティヌス『告白』中公文庫山田晶訳角川書店編集『ビギナーズ・クラシックス源氏物語』角川ソフィア文庫NAVERまとめ『【世界の果ての風景】デレク・ジャーマンの庭【derekjarman’sgarden】』2014.4.20バーナード・レイトナー『ウィトゲンシュタインの建築新版』磯崎新訳青土社〈おわりに〉夏目漱石『吾輩は猫である』『行人』新潮文庫ダミアン・フラナガン『日本人が知らない夏目漱石』世界思想社杉田弘子『漱石の「猫」とニーチェ稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち』白水社齋藤孝『働く気持ちに火をつけるミッション、パッション、ハイテンション!』文藝春秋佐々木閑『NHKテレビテキスト100分de名著2015年4月「ブッダ最期のことば」』NHK出版魚川祐司『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か』新潮社石井清純監修角田泰隆編『禅と林檎スティーブ・ジョブズという生き方』宮帯出版社鈴木俊隆『禅マインドビギナーズ・マインド』松永太郎訳サンガ鈴木大拙『禅と日本文化』北川桃雄訳岩波新書鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫
小林昌平1976年生まれ。慶応義塾大学法学部卒業。専攻は哲学・美学。著書『ウケる技術』(共著、新潮文庫)は20万部のロングセラーとなり、東京大学i.schoolでのワークショップの教材となるなど、その後のビジネス書に大きな影響を与えた。大手企業に主任研究員として勤務する傍ら、学会招待講演、慶応義塾大学ゼミ講師も務める。テーマは人文科学の知見をビジネスに活用するHumanitiesonIndustry(HoI)。
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