思いと環境
自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれるものである」ということを熟知しています。
人間の心は庭のようなものです。
それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからは、どちらの場合にも必ず何かが生えてきます。
もしあなたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。
すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。
同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育みつづけなくてはなりません。
もしあなたがその作業をつづけたならば、やがて必ず「自分は自分の心の園芸主任であり、自分の人生の総責任者である」という事実に気づくことになります。
自分の人格、環境、および運命の形成に、自分の思いがどのような影響を与えているのかを、日を追うごとに、より明確に理解していくことになるでしょう。
思いと人格はひとつです。
そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。
よって、私たちの環境は、私たちの内側の状態とつねに調和しています。
ただしそれは「私たちの環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、その時点における私たちの全人格のあらわれである」という意味ではありません。
そうではなく、「私たちの環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、私たちの人格を構成する特定の重要な要素のあらわれである」という意味です。
そして、それらの状況のすべてが、私たちのその時点以降の進歩にとって、決定的に重要なものなのです。
私たち人間は、私たちを存在させている法則でもある「原因と結果の法則」にしたがい、つねにいるべき場所にいます。
私たちが自分の人格のなかに組み込んできた思いの数々が、私たちをここに運んできたのです。
よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しません。
私たちの人生を構成しているあらゆる要素が、けっして誤ることを知らない法則が正確に機能した結果なのです。
環境に不満を感じていようと、満足していようと、同じことです。
私たちは、進歩し、進化する生き物であり、どんなときにも自分が学び、成長を遂げるために最適な場所にいます。
そして、もし私たちが、ある環境で必要な学習を積んだならば、その環境は間もなく、次の新しい環境に取って代わられることになります。
私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。
しかし、「自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。
自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれ出るものである」ということを熟知しています。
なぜならば、すでにかれらは、環境の変化と心の状態の変化が、つねに連動していることに気づいているからです。
人間は、自分自身の人格的な欠陥を意欲的に正し、素早い、目に見えた進歩を遂げたとき、それに見合った速やかな環境の変化を体験することになります。
心は、それ自身が密かに抱いているものを引き寄せます。
それは、それ自身がほんとうに愛しているもの、あるいは恐れているものを引き寄せるのです。
心は、清らかな熱望の高みにいたりもすれば、けがれた欲望の底にまで落ちもします。
そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。
「原因と結果の法則」のしくみ 心の中に蒔かれた(あるいは、そこに落下して根づくことを許された)思いという種のすべてが、それ自身と同種のものを生み出します。
それは遅かれ早かれ、行いとして花開き、やがては環境という実を結ぶことになります。
良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます。
外側の世界である環境は、心という内側の世界に合わせて形づくられます。
そして、好ましい環境と好ましからざる環境の双方が、究極的には、そこに住む人間の利益に貢献します。
人間は、自分自身の果実の収穫人として、苦悩と喜びの双方から学ぶことができるからです。
人間は、心の奥底の支配的な思いにつきしたがい、誤った行いをつづけながら、また正しい行いに努めながら、やがては、それらの果実である自分自身の外部環境に行き着くことになります。
「原因と結果の法則」はあらゆる場所で機能しているのです。
人々が刑務所に入ったり貧困に苦しんだりするのは、過酷な運命や環境のせいなどではけっしてありません。
かれらがそうなるのは、ひとえに、かれら自身の不純な思いと利己的な願望のせいなのです。
澄んだ心をもつ人間は、たとえどんな誘惑を受けようとも、けっして犯罪に走ったりすることはありません。
心の中で養われ、パワーを増した犯罪思考が、機会をとらえてそれ自身を外部に漏らしたとき、犯罪は発生します。
環境は人間を創りません。
私たちの環境は、私たち自身のことを外側に漏らすのみです。
気高い思いばかりをめぐらしている人が、邪悪な道に落ち、苦悩する、などということはけっして起こりません。
同様に、邪悪な思いばかりをめぐらしている人が、気高い目標を達成して真の幸せを感じる、などということも絶対に起こりません。
人間は自分の思いの主人です。
よって人間は、自分の人格の制作者であり、環境の設計者なのです。
私たちは、自分が望んでいるものではなく、自分と同種のものを引き寄せます。
口先だけのきれいごとやたんなる夢物語の類は、成長をことごとく阻まれますが、もっとも内奥にある真の思いや願望は、たとえそれが清らかなものであろうと、けがれたものであろうと、それ自身の食べ物をもち、それによって着々と育まれます。
私たちの魂さえも、誕生に際して、それと同種の肉体にやって来ます。
そして魂は、この世界における学習体験をひとつひとつ積み重ねながら、その時点における自身の気高さ(あるいは卑しさ)と強さ(あるいは弱さ)の如実な投影である環境を、次々と自身のもとに引き寄せます。
私たちの運命を決定する神は、私たち自身の内側にいます。
私たちの思いこそがそれなのです。
私たちは、自分自身によってのみ束縛されます。
思いや行いが「不運の悪魔」として機能するときにです。
そのときそれらは、私たちを束縛する忌まわしい「看守」たちです。
しかし、それらはまた「自由の天使」としても機能することがあります。
そして、そのときそれらは、私たちをあらゆる束縛から解放する「救済者」たちです。
まずは「原因」を改善すること 私たちが手にするものは、私たちが手にしたいと願い、祈るものではなく、私たちが公正な報酬として受け取るものです。
私たちの願いや祈りは、私たちの思いや行いがそれと調和したものであるときにのみ叶えられるのです。
この真実の光のもとで眺めたとき、「環境と戦う」とは、どういうことなのでしょう。
それは、自分自身の内側で「原因」を養いながら、外側の「結果」に戦いを挑むことにほかなりません。
その「原因」は、意識的にめぐらされている不純な思いかもしれませんし、無意識のうちに手にしている弱さかもしれません。
そして、たとえそれが何であっても、それは、それをもつ人間の環境を改善しようとする努力を、執拗に妨害しつづけます。
よって、「原因」こそがまず改善されなくてはならないのです。
人々の多くは、環境を改善することには、とても意欲的ですが、自分自身を改善することには、ひどく消極的です。
かれらがいつになっても環境を改善できないでいる理由が、ここにあります。
自分自身を改善するということは、真の意味での自己犠牲を払うということにほかなりません。
真の自己犠牲とは、心の中からあらゆる悪いものを取り払い、そこを良いものだけで満たそうとする作業です。
自分自身を意欲的に改善しようとする人間は、明確に設定した目標の達成に、けっして失敗することがありません。
物質的な目標をめざすときでも、知的、精神的な目標をめざすときでも、まったく同じことです。
たとえ富の獲得だけをめざしている人間でも、その目標を達成するためには、大きな自己犠牲を払わなくてはなりません。
もしあなたが、バランスのとれた真に幸せな人生を手にしたいと願うなら、なおさらそうしなくてはなりません。
ここに、悲しいまでに貧しい男がいます。
彼は、自分のあらゆる環境が改善されることを願っています。
しかし彼は、報酬が少ないということを理由に、仕事をさぼること、つまり、自分の雇い主をだますことを選んでいます。
彼は、真の豊かさを築くための原則を何ひとつ理解していません。
彼は、貧困からはい上がるにまったく値しないばかりか、怠け心、ずるい思い、卑屈な考えにふけり、それにしたがって行動することで、より深刻な貧しさを自分自身に引き寄せつつあります。
ここに、暴飲暴食の結果として深刻な慢性病を患っている、裕福な男がいます。
彼は、健康を取り戻すことにはとても意欲的で、そのために莫大なお金をつぎ込んでいます。
しかし、自分の欲望は何ひとつ犠牲にしようとはしていません。
異常な食欲を満たしたいと願ういっぽうで、健康も手にしたいと願っているのです。
言うまでもなく、彼は健康を手にするに値しない人間です。
健康に生きるための第一の原則を、まったく学んでいないからです。
ここに、自分自身の繁栄を願い、従業員に払うべき賃金を不当に削っている雇い主がいます。
しかし、そんな人間は、まったくもって繁栄するに値しません。
彼は、自分の会社が破産したり信用を落としたりすると、自分がそのいちばんの責任者であるにもかかわらず、それをすべて従業員や環境のせいにする、というタイプの人間です。
ここで以上の三例を紹介したのは、「私たちの環境を創っているのは、私たち自身である」ということに加えて、「私たちは、良い結果に狙いを定めながらも、その結果と調和しない思いをめぐらすことによって、その達成をみずから妨害しつづける傾向にある」という真実を指摘したかったからです。
この傾向は、放置されるとますます強まり、多様化する危険をはらんでいます。
しかしそれも、自分自身の心と人生内で機能している「原因と結果の法則」を意欲的に観察し、理解することに努めることで、消滅へと向かうようになります。
そして、その努力がなされるまでは、環境が私たちの魂の状態を理解するための目安となることは、ありえません。
宇宙はつねに公平です また、環境はきわめて複雑です。
そこには、個人のさまざまな思いが深く根づいています。
幸せの条件は個人によってさまざまである、という事実もあります。
よって、私たちの魂の総合的な状態を、私たちの人生の外面的特徴のみからほかの誰かが知ることは(私たち自身は知ることができるかもしれませんが)、とうてい不可能なことです。
とても正直そうに見えるのに、貧しさに苦しんでいる人がいます。
また、ひどく不正直に見えるのに、大きな富を手にしている人もいます。
そこで人々は、「あの人は正直すぎるからお金がたまらないんだ」あるいは、「あの人は不正直だからお金がたまるんだ」などということを、よく口にしています。
しかし、それはあまりにも表面的な判断です。
その判断は、特定のことに不正直な人間は、ほぼあらゆる面でけがれており、特定のことに正直な人間は、ほぼあらゆる面で清らかである、という仮定を基盤としています。
より深い知恵の光をあてたならば、その種の判断が誤りであることは誰の目にも明らかなものとなるはずです。
一見不正直で裕福な人間は、一見正直で貧しい人間がもたない美徳を大量にもっているかもしれませんし、逆に、後者は、前者がもたない不徳を大量にもっているかもしれません。
つまり、かれらの双方が、自分自身の正直な思いや行いの果実である良い結果と、自身の不正直さが創りだしている苦悩の双方を、同時に体験している可能性が、きわめて高いのです。
「あまりにも善人すぎると、苦悩が絶えない」などという迷信を受け入れることは、自分自身を改善する努力を放棄したい人にとっては、好都合なことかもしれません。
しかしながら、私たちは、自分自身の病的な思い、悪意に満ちた思い、不純な思いを、すべて撲滅し、心の中のあらゆるけがれを洗い流さないかぎり、「人間は善人すぎると苦労する」などということを口にする権利さえ手にできません。
知りもしないことを、どうして口にできるでしょう。
しかし、もしあなたが、その至高の峰をめざしつづけたならば、その過程で(峰にいたる、はるか以前の段階で)、「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。
この知識を手にした人間は、つづいて、自分のそれまでの無知と盲目をふり返りつつ、自分のそれまでの人生がつねに正当な秩序によって形づくられてきたことに気づくことになります。
そのとき人間は、とても自然に、自分の過去の体験のすべてが、たとえ良いものであれ悪いものであれ、自分の進歩しつつある(しかし未熟な)自己を如実に投影するものにほかならなかったことを知るでしょう。
良い思いや行いはけっして悪い結果を発生させませんし、悪い思いや行いはけっして良い結果を発生させません。
これは、トウモロコシからはトウモロコシ以外のものはけっして成長しないこと、あるいは、イラクサからはイラクサ以外のものはけっして成長しないことと同じくらい明らかなことです。
この法則が自然界のなかで機能していることは、誰もが知っています。
でも、それが個人の人生のなかでもまったく同じように機能しているという事実を認識している人は、とても少数です。
そしてそのために、ほとんどの人たちは、それと協調して生きていません。
苦悩は、つねに何らかの方面の誤った思いの結果です。
苦悩は、それを体験している個人が、自分を存在させている法則との調和に失敗していることの、明確なサインです。
苦悩の最大の、そしておそらく唯一の役割は、無益で不純なあらゆるものを浄化すること、あるいは焼き払うことです。
完璧に清らかな人間には、苦悩はけっして訪れません。
ドロス〔※金属を溶かしたときに、溶湯表面に浮上する金属酸化物〕を取り除いたあとで金を火にかけることに、何の意味があるでしょう。
完璧に浄化され、高められたものが苦悩を体験する必要など、どこにもないのです。
私たちに苦悩をもたらす環境は、私たち自身の精神的混乱の結果です。
私たちに喜びをもたらす環境は、私たち自身の精神的調和の結果です。
喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果なのです。
私たちは、苦悩を体験しながら富を手にすることもできますし、喜びを体験しながら貧しくなることもできます。
喜びと富は、富が正しく入手され、賢くもちいられたときにのみ、ひとつになります。
そして貧しい人たちは、自分の人生を不公平な重荷としてとらえたとき、より深い苦悩のなかへと落ち込んでいきます。
極端な貧しさと貪欲さは、不幸せのふたつの極致です。
それらは等しく不自然であり、どちらも精神的混乱の結果です。
人間は、幸せ、健康、およびある程度の豊かさを手にできないかぎり、人間としての機能をけっして十分には果たせません。
幸せ、健康、豊かさは、内側と外側、すなわち、心と環境との、争いのない平和な間柄の結果です。
私たちは、愚痴を言ったり罵ったりすることをやめ、自分の人生を調整している「隠れた正義」の存在を認識し、それに自分の心をしたがわせはじめたときから、真の人間として生きはじめます。
そのときから私たちは、自分の環境の悪さをほかの人たちのせいにするのをやめ、強く気高い思いをめぐらすことに努めつつ、自分自身を強化しはじめます。
環境と戦うことをやめ、それを、自分のより急速な進歩のために、また、自分の隠れた能力や可能性を発見するための場所として、有効に利用しはじめます。
宇宙の秩序を知りましょう この宇宙を動かしているのは、混乱ではなく秩序です。
その一部である私たちの人生や社会を根底で支配しているのも同じ秩序であり、それは、不正義や不公平さではなく、正義と公平さの上に成り立っているのです。
人間は、自分自身を正すことによって、はじめて宇宙の正義と公平さを知ることができます。
その過程で人間は、周囲の人たちや状況に対する自分自身の姿勢を改めると、自分に対するそれらの姿勢もまた、速やかに改まるものであることを、身をもって知ることになります。
この真実を立証することは、誰にでもできます。
これは、自分の心と環境の動きを謙虚に根気強く観察し、分析することによって、誰もが容易に認識できることなのです。
自分がめぐらす思いの内容を急激に変化させたとき、まずほとんどの人が、人生内の物理的な状況の急激な変化を体験して驚くことになります。
私たちの多くは、自分が密かにめぐらしつづけている思いを、隠し通せるものだと信じ込んでいます。
しかしながら、そんなことはとうてい不可能なことです。
それはまず生き方として、つづいて環境として、その姿を明確にあらわすことになるからです。
動物的な思いは、自制の利かない肉欲的な生き方として、つづいて貧しさや病気に満ちた環境として姿をあらわします。
あらゆる種類のけがれた思いが、活力を欠いた、混乱した生き方として、つづいて苦難に満ちた、不愉快な環境として姿をあらわします。
恐怖や疑いに満ちた思いは、優柔不断で臆病な生き方として、つづいて、失敗や困難に満ちた環境として姿をあらわします。
怠け心は不潔で不正直な生き方として、つづいて、よごれた貧しい環境として姿をあらわします。
敵意に満ちた意地悪な思いは、つねに他人を非難する生き方として、つづいて、不安と恐怖に満ちた環境として姿をあらわします。
あらゆる利己的な思いが、身勝手な生き方として、つづいて敵ばかりのいる環境として姿をあらわします。
いっぽう、気高い思いは、自制の利いた穏やかな生き方として、つづいて平和にあふれた静かな環境として姿をあらわします。
清らかな思いは、そのすべてが慈愛と思いやりに満ちた生き方として、つづいて明るい快適な環境として姿をあらわします。
勇気と信念に満ちた思いは、速やかに決断し、行動する生き方として、つづいて自由と成功と豊かさに満ちた環境として姿をあらわします。
活気にあふれた思いは、前向きで積極的な生き方として、つづいて喜びに満ちあふれた環境として姿をあらわします。
好意的で寛容な思いは、優しさにあふれた生き方として、つづいて安全と安心に満ちた環境として姿をあらわします。
愛に満ちた思いは、人々に奉仕する生き方として、つづいて永続的な繁栄と真の富に満ちた環境として姿をあらわします。
あなたの環境は、あなたの心を映す万華鏡です 心の中でくり返しめぐらされる思いは、たとえ良いものでも、悪いものでも、人格と環境内でそれ自身の結果を発生させることに、けっして失敗することがないのです。
私たちは、自分の環境を直接はコントロールできないかもしれません。
でも、自分の思いは完璧にコントロールできます。
よって、私たちは間接的に、しかし明らかに、自分の環境をコントロールすることができます。
宇宙は、私たちがめぐらす思いの具現化を、つねに援助してくれています。
私たちが良い思いをめぐらそうと、悪い思いをめぐらそうと、それをもっとも速やかに具現化させるための好機の数々が、私たちの前に休みなくあらわれつづけているのです。
もし私たちが、意地悪な思いを捨て去ったなら、そのときから世界中が私たちに優しく接し、私たちを援助しようとしはじめることになります。
もし私たちが、病的で弱々しい思いを放棄したならば、私たちの強い決意を援助すべく、あらゆる好機が湧き上がってくるでしょう。
もし、私たちが正しい思いのみをめぐらしつづけたならば、たとえいかなる不運であっても、私たちに悲しみや辱めを与えることはできなくなります。
あなたの環境は、あなた自身の心を映す万華鏡です。
その鏡のなかで刻一刻と変化する多様な色彩のコンビネーションは、動くことをやめないあなたの思いの数々が、絶妙に投影されたものにほかならないのです。
あなたは あなたがなろうとする人間になる卑しい心は 失敗の原因を見つけるべく 環境に目をやるかもしれないしかし 気高い心はそれをたしなめ つねに自由である気高い心は時間をしたがえ 空間を征服するそれは 偶然というほら吹きの詐欺師を怯えさせ環境という専制君主から王冠を奪い 意欲的に奉仕する人の意思 その不可視のパワー その不滅の魂の子孫はいかに分厚い岩壁をも貫き 目標への道を切り開く遅々とした歩みのなかでも 忍耐を崩してはならない理解する者として待つことだ気高い心が立ち上がり命じたならば 神々は必ずそれに応えてくる
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