進歩
無限の可能性を持っているはずだと信じ、 一生懸命努力をすることが大切です。 そのように可能性を信じ、 努力することでこそ、 人間は進歩し続けるのです。
人間の無限の可能性を追求する
私が、人間には等しく無限の可能性があると考え始めたのは、おそらく、大学の入 学試験に向けて勉強を始めた高校三年の頃だと思います。 神様は世の中を不公平につくっていないし、人間を不平等にもつくっていない。み んなそれぞれ同じように、素晴らしい無限の可能性を持つようにつくっている。その 素晴らしい可能性を発揮している人と、そうでない人がいるだけのことであり、本質 的に頭がいいとか悪いということではない。 このようなことを、私はいつの間にか信じるようになっていました。京セラを創業 してからも、それが唯一、私を励ますもとでした。 人間はそれぞれ素晴らしい可能性を持っており、それが発揮できるかどうかは、努 力で決まります。ですから、自分にはお金もなければ、頭脳も決して優秀でないとあ きらめてはなりません。無限の可能性を持っているはずだと信じ、 一生懸命努力をすることが大切です。そのように可能性を信じ、努力することでこそ、人間は進歩し続 けるのです。 何かを成し遂げる人は、困難にぶち当たったときでも、努力さえすれば必ず解決で きると、楽天的に可能性を信じています。 一瞬のためらいもなく、 一分の疑問もなく、 「無限の可能性を信じ、これから努力をすればいいだけのことだ」と信じ込む。そう いう人だけが、壁を突破していきます。 そのことを我々に教えてくれる、百年ほど前に活躍したイギリスの探検家がいます。 その名はアーネスト・シャクルトンで、三度、南極探検隊を率いた英雄として知られ ています。特に有名なのが、彼が出した南極探検隊員の募集広告でした。そこには次 のように書かれていたといいます。 わず 「求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の 保証なし。成功の暁には名誉と賞賛を得る。―アーネスト・シャクルトンー」 当時、シャクルトンは人類史上初となる南極大陸の横断を目指していました。南極 点への到達はすでに別の探検隊が果たしていましたが、大陸横断はいまだかつて誰も経験したことがない困難な挑戦でした。ひとたび旅路につけば、凍てつく寒さと激し い暴風にさらされ、生きて帰れる保証はどこにもありません。そのうえ、たとえ成功 したとしても、たいした報酬もないという過酷な条件です。 少しでも恐れやためらいがあれば、また、「できる」という可能性を信じることが できなければ、誰もこのようなリスクばかりの募集広告に応募しません。まさにそれ が、シャクルトンの意図したことだったのではないでしょうか。つまり、今まで誰も 成功していないが、可能性を求めて努力していけば、偉大なことを成し遂げることが できると本当に信じられる人にこそ、南極横断探検隊の隊員になってほしかったので はないか。また、そのような人が集まったチームでなければ、困難に遭遇したときに 挫けることなく、前進し続けることはできません。 実際に、シャクルトン率いる探検隊は想像を絶するほどの災難に襲われます。探検 隊二十八名を乗せたエンデュアランス号が流氷に閉じ込められ、壊れて沈没してしま うのです。南極大陸の手前で船を失った彼らは、十分な装備も食料もないまま、流氷 上に取り残されてしまいます。 この絶体絶命のピンチのなかでも、シャクルトンは強いリーダーシップを発揮し、ともすれば絶望にさいなまれる隊員たちを励まし、希望を与え続けました。 まず、氷上にキャンプを張り、少なくなった食料をできるだけ温存し、アザラシや ペンギンを捕獲し、アザラシの油を燃料にしながら命をつないでいきます。 そのうち、キャンプを張つていた浮氷が二つに割れると、シャクルトンは氷上を捨 て、全員で救命ボートに乗り込み、暴風が吹き荒れる南極の海のなか、上陸できる島 を目指していくことを決断します。エンジンもなく、ボートとオールだけで、マイナ ス四十度近い寒さのなか、凍てつく水しぶきに全身を濡らしながら、あるともわから ない目標に向かっていくその姿は、まさに悲壮そのものです。 しかし、そのような悲壮感は微塵も見せず、シャクルトンは隊員を率いて前進し続 けていきます。島から島へ、海峡を越え、山脈を越えていきます。そしてついには、 二十二カ月間、極寒の地で生き延び、隊員二十八名の誰ひとり欠けることなく生還を 果たします。 南極大陸横断という試みそのものは失敗しますが、死に直面しても決してあきらめ ることなく、常に自らの可能性を追求するその姿勢は生涯変わることがなかったとい います。このように失敗を恐れず未踏の地を目指して挑戦し続けた先にこそ、他の誰にも真似できない偉業があるのだと思います。 探検家だけではありません。人類の歴史を変えるほどの発明発見をした偉人たち も、自らの無限の可能性を信じ続けたからこそ、不可能と思えるようなことを成し遂 げることができたのだと思います。そして、その結果として、人間は進歩し、社会は 発展し続けていきます。はじめから「できない」とあきらめてしまえば、永遠に進歩 することはありません。 「これはちょっと難しい」と思っただけで、もうできません。「いや、少し実現が難 しいと思っただけです。何とかできると思っています」というような曖味な気持ちが 少しでもあればもう駄日です。少しでも疑間に思い、不安が頭をよぎってしまえば、 その後でいくら「努力をすればできるはずだ」と自分に言い聞かせても後の祭りです。 一瞬の邊巡、ためらい、疑間が、無限の可能性を萎えさせてしまうのです。 挑戦的で独創的な仕事ほど、粘りに粘り、努力を重ねていかなければ、達成できな いはずです。粘りに粘ってやり抜くことができるのは、心の底から「できる」と信じ ているからです。心のなかに「必ずできる」という信念があるからこそ、長期間にわたり力強く粘り続け、障害を乗り越えていく闘志が心の奥底から沸々と湧いてくるの です。
懸命
人は追い込まれ、 もがき苦しんでいるなかでも、 真摯な態度で物事にぶつかっていくことで、 ふだんでは考えられないような力を 発揮することができます。
ただひとつのことを、誰よりも一生懸命に実践する
私は、 一九三二年、鹿児島市に、七人きょうだいの次男として生まれました。印刷 業を営む比較的恵まれた家庭でしたが、第二次世界大戦中の一九四四年を境に、私の 運命は一変しました。その年、地元の難関中学の入学試験に落ち、翌年結核に罹病し て、死の淵をさまよい、さらに自宅が米軍による空襲で焼失してしまいました。 戦後は貧窮したのですが、担任の先生の強い勧めや親きょうだいの支援もあって、 なんとか高校進学を果たし、大学受験のチャンスにも恵まれました。しかし、希望す る大学の医学部には合格できず、やむなく新しくできた地元の大学の工学部に入学し ました。 大学では一生懸命に勉強に励んだものの、私が卒業した一九五五年は、運悪く朝鮮 戦争終結後の就職難の時代を迎えており、地方の新制大学卒業で、縁故もない私には、 なかなか就職口が見つかりませんでした。
恩師が、京都にある送電線用の碍子を生産する会社を探し出してくれ、ようやく採 用されたのですが、大学で専攻した有機化学と全く関連のない分野であり、この就職 は決して本意ではありませんでした。 当時の私は、大学をトップの成績で卒業したせいもあって、生意気な一面も持って いました。また入社してみると、給料の遅配が続くような赤字会社で、社屋や工場の 設備どころか、寮までもが老朽化し、劣悪な環境でした。そのせいもあって、私は入 社した瞬間から、見るもの聞くものすべてが不満に思えたのです。 そのうち同期入社の仲間は次々と会社を辞め、私も自衛隊に行くことを企てたもの かな の、家族の反対により入隊が叶わず、いよいよ赤字会社に私だけが取り残されてしま うことになりました。 ひとりになった私を支えてくれたのは二つ下の妹でした。何もない粗末な寮で自炊 をしていた私を見かね、勤めている鹿児島のデパートを辞めて、「兄ちゃんのお手伝 いをするんだ」と、京都に来てくれたのです。寮の近所には明治製菓の工場があり、 キャラメルをつくつていました。妹は、その工場でキャラメルの包装の仕事をしながら、私の寮に泊まって面倒を見てくれました。 一年半ほど、妹が朝と夜の食事をつくってくれました。ですから、私は夜遅くまで 研究を続けられました。私は妹が頼りでしたし、妹も私が頼りという関係でした。 「泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼いふたりして 故郷を捨てたかいがない」の歌 詞で始まる「人生の並木路」という演歌がありますが、この歌を聴くと、そのときの ことがまざまざと思い出されます。 このようななかで、私は気持ちを一八〇度切り替えようと思いました。「いつまで も嘆き、ふさぎ込んでいても仕方がない。不平不満を並べるよりは、与えられたフア インセラミックスの研究に没頭してみよう」と心に決めました。 覚悟を決めるまで半年ほどかかりましたが、腹をくくった瞬間、今までの不平不満 や迷いが吹っ切れた感じがしました。以来、鍋や釜といった自炊道具までも実験室に 持ち込んで寝泊まりし、実験を重ねながら、また図書館で最先端の論文に読みふけり ながら、新しいセラミックスの組成設計から、生産に至るプロセス開発技術の研究に 没頭しました。
ぶつぶつと文句を言っている間は、何をやつても本当にうまくいきませんでしたが、 研究に打ち込み始めると、次から次へと素晴らしい研究成果が出始めました。すると 上司から褒められ、さらには役員までもが若い私に声をかけてくれるようになり、仕 事が面白くなつてきました。 それを励みに一層努力を重ね、また高い評価を受けるというように、このときから 私の人生の「好循環」が始まりました。 研究を始めて一年半ほど経った頃、私はフオルステライトという新しい高周波絶縁 材料の合成に成功しました。劣悪な研究環境のなかにあつて、アメリカのGE (ゼネ ラル・エレクトリック)社に次ぐ、世界で二番目の合成の成功でした。 その新しいセラミック材料を使った製品を、日本の大手電機メーカーが、当時急速 に普及が進んでいたテレビの部品として採用してくれました。このことは、単に開発 者としての私の苦労が報われるだけでなく、赤字を続ける会社にとっても起死回生と なる受注でした。こうして会社から期待された私は、若くして現場のリーダーになり ました。しかしその後、新任の技術部長と衝突し、会社を辞めることになった私は、二十七 歳のとき、自らの技術をベースとして、支援してくださる方々とともに、京セラとい うフアインセラミックスの部品メlヵlを設立することになりました。 このような自分の人生に思いを馳せるたび、苦難に挫けず、前向きに必死に働いた ことで、今日の自分があることに気づき、 一生懸命働くことの大切さを痛感します。 人は追い込まれ、もがき苦しんでいるなかでも、真摯な態度で物事にぶつかってい くことで、ふだんでは考えられないような力を発揮することができます。 そして、その努力の向こうには、自分でも想像できないような、素晴らしい未来が 広がっているのです。
自燃
一生懸命に働くということは、苦しいことです。 その苦しいことを毎日続けていくには、 自分の仕事を好きになろうと 努めることが必要です。 仕事を愛し、仕事に喜びを見出だせる人が、 成功を収めることができるのです。
心に火をつけるのは自分自身
人間は、自ら燃えていく自燃性の人と、火を近づけると燃える可燃性の人、火を近 づけても燃えない不燃性の人の三つに大きく分けられます。 「明朗」の章で、「未来に対して限りないロマンテイストであつてほしい」というこ とを言いましたが、可燃性ならまだしも、不燃性の人はロマンテイストの対極の存在 です。ロマンティストは自ら燃え上がる自燃性の人でなければなりません。 何かをやり遂げるためにはたいへんなエネルギーが必要です。そしてそのエネル ギーは、自分自身を励まし、燃え上がらせることで起こってきます。人から言われた から、命令されたから仕事をするのではなく、言われる前に自分からやろうという積 極的な人が、「自ら燃える人」です。 では、自分が燃える一番よい方法とは、何でしょうか。それは仕事を好きになるこ とです。「惚れて通えば千里も一里」という言葉があるように、好きになれば苦労など感じません。嫌々やっていると、どんなことでも、つらく感じるものです。 仕事を好きになることで、どんな苦労の最中でも、「一生懸命に打ち込んでみよう」 と気持ちを前向きに切り替えることができます。全力を打ち込んでやり遂げれば、大 きな達成感と自信が生まれ、次の目標へ挑戦する意志が生まれます。その繰り返しの なかでさらに仕事を好きになり、ますます努力を惜しまなくなり、素晴らしい成果を 上げることができます。 これはまさに私の実感です。大学を出て入った会社で、「仕事を好きになつた」お かげで、今日の私があるとつくづく思います。仕事を好きになるための努力をするこ と、これこそが人生において、また仕事において、最も重要な要素だと思います。 先にお話ししたように、私は大学で有機化学を専攻していました。無機化学系の会 社に就職が内定したので、急遠セラミックスの研究を始めたものの、専攻ではありま せんから、決して好きな分野ではありませんでした。しかし、追い詰められた私には、 もはや自分の眼の前の研究テーマを好きになるより他に選択肢はなく、何としてもセ ラミックスを好きになろうと努めたのです。そもそも基礎知識がないものですから、文献を読むことから始めました。たとえ ば、過去の論文を大学図書館から引き出し、その内容を勉強する。アメリカのセラ ミックス協会の論文を、辞書と首っ引きで読む。当時はコピー機がないものですから、 必要な文献を抜粋するのに、重要なところだけを大学ノートに書き写していました。 こうした文献調査を綿密に行つたうえで、実験を進めていきました。 一生懸命に勉強をすると興味が出てきますから、さらに研究に熱が入ります。頻繁 に大学の図書館へ通つて文献をあさっては、実験や仕事に応用し、そしてまた図書館 へ行く。このように、好きになる努力を一生懸命重ねていくなかで、前にお話・しした ように、世界で二番目に新材料の合成に成功することができました。 偉大な業績を成し遂げた人は、やはり心から仕事を愛しています。それは、好きな 仕事に就くことができた幸運な人か、あるいは気持ちを切り替え、好きではなかった 仕事を、好きにしていった努力の人です。 実業に携わるにしろ、学問の道を進むにせよ、まずは自分がしている仕事を「好き になる」ということが大切です。「仕事を好きになる」ことで初めて、全身全霊をあげて、「仕事に打ち込む」ことができます。 もっとも、仕事が好きになり打ち込んでいくなかでも、ただ苦しいだけでは、長く 努力を継続することはできません。仕事の合間に、喜びや楽しみも見出ださなければ なりません。 私が最初に勤めた会社で新材料の量産が始まった頃、のちに京セラ創業メンバーと なる若手二人が、研究助手として入社してきました。私は仕事で気が滅入るようなこ とがあると、この二人とよく草野球をしたものです。 一人は身体は小さいけれども剛速球を投げ、コントロールもよく、なかなかの投手 でした。また、もう一人はいつも外野を守っていました。野球をやったことがないた めか、球が外野に上がった瞬間から、グロープを頭上に高く掲げ、その格好のまま走 りだします。 そんな不器用な格好で球が捕れるわけがないと思うのですが、意外にも彼は足が速 く、死にもの狂いで追いつき何とかキャッチしてしまいます。その姿を見て、みんな 腹を抱えて笑ったものでした。そんな草野球のあとは、寮に帰って焼酎を飲んで解散 するというのが、いつものパターンだ つたように記憶しています。野球ができない雨の日は、機械を拭くボロ布を丸めてグローブを作り、ボクシング の真似事をしていました。若い二人がボロ布のグローブをはめ、私が金属の器をゴン グ代わりに「カーン」と鳴らし、研究室で試合をしたこともありました。気持ちが張 りつめるばかりでは体も心ももちませんから、そんなことをして和らげていたのです。 また、恋もしました。最初に恋をしたのは、研究室で私の前に座っていた、四つぐ らい年上の女性でした。知的で、上品な女性だったので、「こんな人をお嫁さんにも らえたらいいな」と、片思いでしたが一途に憧れ、何か理由を見つけては、その人の ところに行くといった具合でした。 緊張した日々が続くなか、レクリエーションや恋愛に潤いを求めながら、努力を継 続していく。それが私の人生にとって、本当によかったと思います。 日常のささいな出来事に喜びや楽しみを見出だすことで、さらに一生懸命打ち込む ことができ、苦しい仕事を好きになることができます。そして、仕事を好きになるこ とでこそ成果も上がり、運命を好転させることができるのです。
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