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努力を惜しまないこと ―頑張ることをあきらめない人に、真の充足感は訪れる

勤勉

真面目に一生懸命に働くという行為こそが、 人間を立派にしていきます。 苦労する経験を避けていった人で、 立派な人間性をつくり上げた人など いないはずです。

目次

真面目に、 一生懸命に働く

私は十三歳で終戦を迎えました。そうした時代ですから、私が生きるうえで、最初 に意識したことは「勤勉」ということでした。廃墟と化した国土に立ち、真面日に一 生懸命働くことしか、生きる術はなかったからです。 私の一家も当時、経済的にはたいへん困窮していましたが、不思議と不幸という感 覚はありませんでした。ただ誠実に、日々懸命に生きることで精いっぱいだったのです。 思い出すのは、私の母方のおじ、おばです。終戦後、満州から裸一貫で鹿児島に戻 り、野菜の行商をしていました。おじは戦前の小学校を出ただけの人でしたが、毎日 野菜を仕入れては、大八車を引いて行商をしていました。 日の悪い親戚たちは、そのおじのことを「あの人は学問もないし、知恵も足りない から、暑い日でも寒い日でも大きな大八車を引いて、汗水を垂らしながら行商してい るんだよ」と言って、いくらか軽蔑した日で見ていました。

身体の小さなおじでした。そのおじが、自分よりはるかに大きな大八車に野菜を積 み、過酷な日照りの夏の日も、寒風吹きすさぶ冬の日も行商をしているのを、幼い私 はよく見ていました。 おそらくおじは、商売とか会計ということは全く知らなかったと思います。しか し、ただ一生懸命に働くということで、やがて八百屋を営むようになり、晩年まで素 晴らしい経営を続けていました。 そのような様を見ていた私は、学問がなかろうと、黙々と真面目に一生懸命働くと いうことが、素晴らしい結果を招いていくのだということを、子供心に強く感じてい ました。 こうした「真面目に一生懸命働く」ということを、私たちはいつもできているで しょうか。自ら一生懸命働くこともせずに、身に降りかかる災難を人のせいにしたり、 社会のせいにしたりしている人がまま見受けられるように思えてしようがありません。 自分の境遇を変えることはできません。自らの外にばかり不幸の要因を求める限 り、心のうちは永遠に満たされることはないはずです。 一方、恵まれない境遇であっ たとしても、勤勉に働くことさえできれば、幸せをつかむことができます。そうした「勤勉」ということについて、我々が模範とするべきが、二宮尊徳(金次 郎)ではないかと私は考えています。 二宮尊徳は貧しい農家に生まれ、幼くして両親を亡くし、おじ夫婦に預けられて、 子供の頃からたいへんな苦労を重ねました。しかし、鍬一丁鋤一丁を持って、朝は朝 星、夕は夕星をいただくまで田畑に出て働き、やがて荒廃した村を次々に立て直して いきました。そのことを当時の藩主が知り、貧しい村を立て直すために、尊徳の力を 借ります。 尊徳は、村が荒廃するのは、農民の心が荒廃しているからだと考えていました。そ して、ただひたすら、鍬や鋤を手に、田畑を耕し続けます。その様を見て、農民も一 生懸命に働き始めます。そうやって尊徳は次々と貧しい村を立て直していきました。 尊徳は晩年、その実績を買われて、徳川幕府に召し抱えられ、殿中に呼ばれるまで になります。明治時代に、内村鑑三という人が、日本を西欧諸国に紹介しようと、 『代表的日本人』という本を出版したのですが、そのなかで、二宮尊徳のことを次の ように記しています。 「江戸時代に幕府に召し抱えられた二宮尊徳は、まさに貧農の生まれであつた。それにもかかわらず、尊徳 のごとく振る舞った」 かみしも が梓を着けて殿中にあがつたとき、まるで生まれながらの貴人 つまり、尊徳は高貴な生まれなのではないかと思わせるくらい、素晴らしく立派な 立ち居振る舞いで、その様は大名諸侯と変わらないくらいであったといいます。 それは、尊徳が農作業というものを一つの修行としてとらえ、自らの人生観をその なかで培っていったからです。それはまさに、「労働が人格をつくる」ということです。 真面目に一生懸命に働くという行為こそが、人間を立派にしていきます。苦労する 経験を避けていった人で、立派な人間性をつくり上げた人などいないはずです。若い ときから一生懸命に働き、苦労を重ね、自らを鍛え、磨いていった人こそが、人間性 を高め、素晴らしい人生を生きることができるのです。 今はどのような境遇であれ、人知れず、身を粉にして、懸命に働き続けることが大 切です。そのように苦労を重ねることが、立派な人間性をつくり、豊かな人生をつく ることになることをぜひ信じていただきたいと思います。

向上

一日一日を無駄に過ごすことなく 全力を尽くして生きていく。 そのような向上心を持って、 倦まず弛まず努力を重ねていくことを 忘れてはなりません。

一歩一歩の努力の繰り返しが必要不可欠

自分自身を、現在の能力でもって評価するのではなく、能力というのは、未来に向 かって開花していくということを信じることが大切です。 一日一日を無駄に過ごすことなく全力を尽くして生きていく。そのような向上心を 持って、倦まず弛まず努力を重ねていくことを私たちは忘れてはなりません。 植物の世界には、早く成長して実がなる「早生」と、遅れて成長するがより大きな 実をつける「晩生」があります。同じように子供にも、最初から利発で聡明なタイプ もいれば、はじめは勉強ができないけれど、だんだん頭角を現していくタイプもいま す。 小学校や中学校であまり出来が良くないという子供でも、決して悲観することはあ りません。自分は晩生で、遅れて成長するタイプの人間だと考え、心を入れ替えて努 力しさえすればいいのです。自分には、限りない可能性があるということを信じて、

誰にも負けない努力をしていけば、人間は必ず大きく成長することができるのです。 私の幼い頃を振り返ってみたいと思います。 小学校の頃は、あまり勉強はしませんでした。宿題が出てもやっていかないもので すから、しょつちゆう廊下に立たされ、先生に叱られるという、出来の悪い生徒でした。 私には学校の勉強よりももっとおもしろいことがありました。夏は、自宅のそばを 流れる甲突川でフナや鯉、エビやカニを捕るのに忙しく、冬は近くにそびえる城山で のメジロ獲りに夢中で、とても勉強どころではなかったのです。その結果、学校での 成績はあまり良いものではありませんでした。 そんな出来の良くない子でしたが、中学校に行くときには、何を思ったか、よい学 校に行きたくなって、鹿児島一の中学校を受験しました。しかし、当然のことながら 受かりません。翌年も受験したのですが、やはり受からず、 一年遅れで私立の中学校 に行きました。 中学校に入学して、勉強をしてこなかったことを恥ずかしく思い始めました。 実際に、代数や幾何などの難しい数学の授業が始まると、小学校で算数を真剣に勉強していなかったためについていけませんでした。そのため、小学校の五年から六年 の算数の教科書を引っ張り出して、 一カ月ぐらいかけて、すべてをおさらいしました。 すると、難しい数学にもついていけるようになったばかりか、数学が得意科目になり、 成績は学年でも一番か二番になりました。 しかし、根が怠け者にできているせいでしょうか、高校に入ると、私はまた努力を 怠るようになり、放課後に学校のグラウンドで野球に明け暮れていました。終戦で家 が焼け、貧乏になり、次男坊として親の手伝いもしなければならなかつたにもかかわ らず、遊び呆けていました。 そんなある日、おふくろに懇々と諭されました。 「生活にゆとりのある友達の家庭とは違って、うちはきょうだいも多く、たいへん貧 乏をしている。なのに、よう毎日毎日、放課後に野球をして遊んでおれるな。少しは お父さんやらお兄さんの苦労を考えて、家の手伝いをしたらどうだ」 そのとき、無理を言って高校に行かせてもらっていることに気がつき、大いに反省 をしました。以来、野球友達と遊ぶのをぷっつりと止め、早く家に帰つて、父親の手 伝いをするようにしました。父親が戦前に印刷屋を営んでいた関係で、ちょうど紙袋の商売を再開したところでしたので、近所の方々が内職でつくってくださった紙袋の 行商を始めたのです。 私と同じように、学校から早く帰っていくのは、真面目に勉強している同級生たち でした。彼らはみな大学進学を目指していました。そして、彼らから『蛍雪時代』と いう受験雑誌を見せてもらいました。私は高校を卒業したら就職しようと考えていま したので、全くそのような雑誌の存在を知らなかったのですが、その友達から月遅れ の『蛍雪時代』を借りて読んでいるうちに、「こんな世界があったのか、自分もその 世界に行きたい」と思い始めました。 以来、紙袋の行商をしながら、本当によく勉強をしました。もともと学校の成績は 上のほうではありましたが、そのときから勉強することに欲が出てきたのです。そし て、高校を卒業する頃には、学校でトップクラスの成績になっていました。 しかし、残念ながら、志望した大学には受からず、地元の鹿児島大学工学部に入学 することになりました。お金がありませんので、家から通える大学で良かったと正直 思っていました。そして、いつも下駄を履き、ジャンパーを着て、学校へ通っていま した。

高校の後半から勉強にがぜん興味が出てきたものですから、大学時代はガリ勉を通 しました。学問に対する興味が湧いてきて、学校帰りは必ず県立図書館に立ち寄り、 大好きな化学の本などを借りだして、よく勉強していました。大学の四年間は、誰よ りも勉強したと言えるくらい、努力したことを思い返します。また、試験の成績も常 に上位でした。 大学の試験では、たとえば物理はここからここまでの範囲で、いつに試験があると 決まっています。ですから、その決まった範囲を、試験日までに復習しておけば、い い点数が取れるに決まっています。 ところが多くの同級生は、そのような勉強ができません。たとえば、友達が遊びに 来て、「おい、映画を観に行こうや」と言われ、友達付き合いも必要だからと映画を 観に行く。試験があるから、勉強をしなければならないと分かっているのに遊んでし まう。そのようにして、試験日までに十分な時間があつたにもかかわらず、前曰くら いに慌ててにわか勉強するものの、中途半端な状態で試験当日を迎えてしまいます。 そうして試験場に行き、「ああ、十分に勉強ができなかつた。あそこをもっと調べてくればよかつた。あそこから出なければいいのにな」と思いながら、試験を受ける ことになります。すると案の定、その分野が出題され、「しまった」とほぞを噛むこ とになってしまうのです。 私は、そのようなことが大嫌いなのです。中学や高校のときに嫌と言うほどそのよ うなことを経験し、これほど悔しい思いをするなら、うんと前に勉強を終わらせよう と決意しました。 試験はいついつの日にあって、その日までに調べ終わればいいと思っていても、必 ず思わぬトラブルがあり、スケジュール通りに勉強ができないことがあります。そし て、「しまった」という思いをする。そんな思いをするくらいなら、ずつと前倒しで 勉強が終わるように計画をすれば、どんなことがあっても試験日までには勉強は全部 終わるはずです。 そこまで十分な余裕をみたスケジュールで勉強すべきだと考えて、大学時代に試験 勉強をするときは、だいたい試験日の十日ぐらい前にはすべて勉強を終え、満点が取 れるようにしていました。 私は子供の頃に結核を患ったことがあるせいか、風邪をひくと肺炎のようになり、高熱を出すことがよくあります。そうして試験が始まる前に寝込んでしまったことも 二度三度あったと思いますが、それでも満点を取っていました。 以上お話ししてきましたように、私はもともと、決して勉強ができるほうではあり ません。ただ、「もっと勉強ができるようになりたい」「試験に完壁に臨みたい」と強 く思い、地道な努力を重ねました。その一歩一歩は小さな歩みでしかありませんでし たが、確実に私を成長させてくれました。 たった一回しかない人生を、漠然と無意味に過ごすことほどもったいないことはあ りません。 一日一日をどのくらい真剣に生きるのか。日々の一歩一歩の努力の繰り返 しによって、人生や仕事は絶えず向上していくのです。また、それが我々人間の価値 をもつくっていくのです。

熱意

人生や経営では、 百メートルダッシュのスピードで 走り続けることは、 決して不可能なことではないのです。

誰にも負けない努力をする

私は、自分から会社をおこそうとしたゎけではぁりません。先にお話ししたように、 前の会社に勤めていたときに、技術的な問題で上司と衝突し、若気の至りで、「それ なら辞めます」と言って、会社を飛び出してしまったのです。 他に行く先もなく、以前パキスタンの陶磁器会社の御曹司が技術研修で日本に来た ときに、私が手とり足とり教えたことがあったのですが、その御曹司からの誘いを受 けていました。当時、私の給料は一万五千円くらいだつたと思いますが、そのパキス タンの会社は月給三十万円という、驚くような高給を用意してくれていたものですか ら、パキスタン行きを真剣に考えました。 しかし、大学時代の恩師から、「君は技術の切り売りをするのか。日本に帰ったと き、君は使いものにならない技術者になってしまう」と諭され、パキスタン行きを断 念しました。そのとき、前の会社で私の上司だった人が友人とともに、「このままあなたの技術を埋もれさせるのはもったいないから、事業を始めたらどうだ」と、 三百万円の資本金を出資し、会社をつくつてくださいました。 中心になって支援してくださった方は、京都大学の電気工学出身で私の父親と同年 代の方でした。お寺のご出身で、素晴らしい考え方の持ち主でもいらっしゃいました。 「私は資本家として出資するのではありません。あなたに惚れたから、この事業をや らせたいと思い、お金を出してあげるんです。だから、決してお金に使われるような 経営をするんじゃありませんよ」とよくおっしゃっていたのを覚えています。 実際に、会社経営どころか株式についても全く知識がなかった私に株を持たせてく ださり、「あなたが経営をしなさい」と全面的に信頼し、私にすべてを任せてくださ いました。それが京セラという会社の始まりでした。 また、その方はご自身の家屋敷を担保に銀行から一千万円の借金をして、会社の運 転資金まで用意してくださいました。奥さんも素晴らしい方で、自分の家が担保にな り、新しい会社がうまくいかなければ、家屋敷を失うことになるのに、「男が惚れた人 にお金を使ってもらえるなら、本望じゃないですか」とおつしやつてくださいました。 京セラとは、そのような人々の「心」をベースにしてつく つていただいた会社だけに、創業以来、絶対に潰してはならない、何としても借金を返さなければならないと、 私は昼夜分かたず、それこそ誰にも負けない努力と熱意で、必死に経営に取り組んで きました。 その様を、私はよくマラソンにたとえて社員に話していました。 「京セラとは京都に生まれたばかりの企業だ。いわば田舎出の青年のようなものだ。 その青年が、 一生懸命頑張って長距離走の練習をしていた。その出で立ちは、地下足 袋に股引をはいたような、みすぼらしいものでしかなかった。しかし、その走りっぷ りを見ていた人が、『少しは走れそうだ』と言って、後ろから背中を押してくれた。 青年は前につんのめって、マラソンコースに出てしまい、企業間競争という経営レー スを走ることになってしまった」 京セラの創業は、 一九五九年でした。敗戦によって日本経済が崩壊し、企業が新た なスタートを切つた一九四五年を、戦後日本における経営レースのスタートだとする と、たいへん遅れたスタートであったわけです。 レースには、老舗の大企業、つまり以前からマラソンの練習を重ね、経験や実績の豊富なベテラン有名選手が大勢走っていました。そのような企業は、四十二二九五 キロをどれくらいのペースで走破できるかというスタミナ配分をよく理解しています。 また、戦後のヤミ成金としてのしあがった企業家もたくさん走っていました。彼らは その凄まじい馬力を活かして、積極的なレースを展開します。そのように、 一九四五 年から、有名選手や有力新人が入り乱れ、 一斉にレースがスタートしていたわけです。 そこへ京セラという田舎出の新米ランナーが十四年も遅れてレースに参加したわけ です。 一年を一キロと考えれば、すでに十四キロ先を先頭集団が走っているという状 況です。そのようななか、田舎出のアマチュアランナーがちょろちょろとマイペース で走っていたのでは、勝負にもなりません。 そこで私は、全力疾走、つまリマラソンレースを百メートルダッシュのスピードで 走り始めたわけです。夜を日に継いで、それこそ死にもの狂いの熱意で仕事を続けま した。すると当然のこと、社員や出資してくださった方々から、「そんな無茶なス ピードで仕事をしたのでは身体を壊してしまう。企業経営というのは長丁場のレース であって、そんなに無茶苦茶に走っていたのでは、息切れしたり、途中で倒れてしま い、ゴールすることはできない」とよく注意されました。

しかし私は、どうせレースを走るなら、百メートルダッシュのスピードで走り、少 しでも先頭集団との距離をつめておきたい。また、最初から成り立たない勝負なら、 せめて前半くらいは飛ばしに飛ばして、自分たちの存在を少しは世間に認めてもらい たい、そう思って全力で走り続けたのです。 すると面白いもので、百メートルダッシュのスピードで走っても、潰れもせず、走 り続けることができました。また、会社は大きく発展し、前を行く先行大企業を追い 越し、業界ナンバーワンの会社となることができました。 現実のマラソンではともかく、人生や経営では、百メートルダッシュのスピードで 走り続けることは、決して不可能なことではないのです。 ぜひ皆さんも、人生において安易に楽な道を選ぶのではなく、誰にも負けない努力 とほとばしるような熱意を持って、 一日一日をど真剣に走り続けていただきたいと思 います。

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