第四の「こころの技法」その相手を好きになろうと思う
なぜ、「嫌いな人」を好きになれるのか?本来、「欠点」は存在しない、「個性」だけが存在する「嫌いな人」は、実は、自分に似ている「共感」とは、相手の姿が、自分の姿のように思えること相手の心に「正対する」だけで、関係は良くなる相手を好きになろうとすることは、最高の贈り物
第五の「こころの技法」言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす
「嫌悪の言葉」が「嫌悪の感情」を引き出してしまう怖さ「言葉」は、「身」を通じて「心」に働きかけるなぜ、「心」の深い世界は、「天邪鬼」なのか?深層意識に生まれる「自己嫌悪」や「他者不安」の危うさ感情的批判をすると、相手の欠点が目につくようになる感情的非難をすると、相手に対し、さらに攻撃的になる
心の中で相手を誉めるだけで、嫌悪感は薄れていく
第六の「こころの技法」別れても心の関係を絶たない
世界で最も実践的な「愛情」の定義とは?「将来の和解の余地を残す」という「しなやかな叡智」「和解」は、ときに、十年の歳月を超えて起こるすでに他界した人との和解はできるのか?
第七の「こころの技法」その出会いの意味を深く考える
「和解できない人」と和解する「こころの技法」「不幸な出会い」が「有り難い出会い」になるときどのような出会いにも、必ず、深い意味がある「卒業しない試験」は、追いかけてくるこの人生の出来事は、自分に何を問うている「試験」か?「人生の解釈力」とは、「人生の物語」を生み出す力のこと心がぶつかる出会いも、実は「深い縁」その出会いは、自分に、いかなる成長を求めているのか?
「人間を磨く」ことの真の意味
「人間を磨く」唯一の道は、人間と格闘すること「人間を磨く」とは、究極、何を磨くことなのか?謝辞さらに「人間を磨く」ことを求める読者のために
人間関係が好転する「こころの技法」
「人間を磨く」とは、「非の無い人間」をめざすことではない
「人間を磨く」という言葉。それは、誰もが惹かれる言葉であろう。著者自身、若き日に惹かれた言葉でもある。
当時、人生論の古典などを読むと、「生涯を賭けて人間を磨き、人格の完成をめざす」といった言葉が心に響き、そうした思いを心の片隅に抱きながら、道を歩んできた。
「人間を磨く」という言葉。それは、人生の経験を通じて、自分という人間を磨いていくこと。
あたかも、玉を磨いていくと、「曇り」や「汚れ」や「傷」が消えていくように、自分の人格を磨いていくと、「非」や「欠点」や「未熟さ」が消えていく。
その結果、磨かれた玉が光り輝き出すように、一人の人間として、自然に光り輝き出す。そして、その光や輝きが、周りの人を惹きつけ、多くの人々が周りに集まってくれる。
「人間を磨く」という言葉には、そうした響きがある。
若き日に、この「人間を磨く」という言葉に惹かれ、心の片隅にこの言葉を抱きながら、六五年の歳月を生きてきた。
振り返れば、一人の未熟な人間ながら、ささやかな人間成長の道を歩んで来ることはできた。そして、素晴らしい人々との縁も得ることができ、共に歩む人生が与えられた。
しかし、自分自身を虚心に見つめれば、いまだ「人格の完成」には、ほど遠く、人間として多くの未熟さを抱えて生きていることを感じる。
世の中には、「知識とは、風船の如きもの」という比喩がある。
風船が膨らめば膨らむほど、外界と接する表面積が増えていくように、知識が増えれば増えるほど、未知と接する表面積が増えていく、分からないことが増えていくという喩えである。
されば、「人間成長もまた、風船のごときもの」なのかもしれない。
人間として成長すればするほど、人間としてめざすべき高みが見えてきて、自分の未熟さを痛切に感じるようになる。それも、一つの真実なのであろう。
それにしても、若き日に惹かれた「人間を磨き、人格の完成をめざす」という言葉を思い起こすとき、いまだ、その「人格の完成」には、ほど遠く、人間としての未熟さを抱えて生きている自分の姿が、そこに、ある。
そのことを嘆く思いになるとき、ふと、一つの言葉が心に浮かび、救われる。浄土真宗の開祖、親鸞の言葉である。
「心は蛇蝎のごとくなり」親鸞ほどの宗教的人物でも、歳を重ねてなお、「人間の心は、へび、さそりのごときものだ」と述べている。
どれほど人間としての修行を積んで歩んでも、心の奥に未熟さを抱えて生きるのが人間の姿だと語っている。もし、そうであるならば、心に一つの疑問が浮かぶ。
はたして、「人間を磨く」とは、「非の無い人間」や「欠点の無い人間」をめざすことなのだろうか?いや、そうではない。
実は、人間は、自分の中に「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えたまま、周りの人々と良き人間関係を築いていくことができるのではないか?その関係を通じて、良き人生を歩めるのではないか?それが、六五年の歳月を生きてきた一人の人間の、率直な思いでもある。
それゆえ、本書においては、「非や欠点の無い人間をめざして生きる」という視点ではなく、「非も欠点もある未熟な自分を抱えて生きる」という視点から、「人間を磨く」ということの意味を語り、そのための具体的な技法について語っていこう。
しかし、その本題に入る前に、この「人間を磨く」という言葉とともに、多くの読者が心に抱く疑問に答えておこう。
それは、次の疑問である。
「世の中では、『人間を磨く』というと、しばしば、『古典を読め』『古典を読んで人間力を身につけよ』と言われるが、なぜ、古典を読んでも、なかなか『人間力』が身につかないのか?」
なぜ、「古典」を読んでも「人間力」が身につかないのか?
たしかに、「人間を磨く」という言葉を聞くと、「人間力」という言葉を思い浮かべる読者も多いだろう。
世の中では、魅力的な人物や優れた人物を評するとき、しばしば「人間力がある」という言葉を使う。
それは、我々が身につけていくべき、いわば「人間としての総合力」であり、「人間としての究極の力量」を意味する言葉だからであろう。
そして、世の中では、「人間を磨く」とは、この「人間力」を身につけていくことであり、「人間力」を高めていくことであるとも言われる。
では、その「人間力」は、どのようにすれば身につけることができるのか?その一つの方法として、多くの識者が薦めるのが、古今東西の「古典」と呼ばれる書を読むことである。
また、「古典」そのものでなくとも、『古典に学ぶ人間力』といった類の「古典解説書」も世に溢れている。
「古典」の一節を紹介し、分かり易く解説し、「人間として、かくあるべし」という教訓を語る書である。
さらに、古今東西の「賢人」の人生や言説を紹介し、「このような優れた人物に、学ぶべし」という教えを語る書も、世に多くある。
では、そうした書を読むことで、本当に、「人間力」が高まるのか?実は、「古典」を読んでも、なかなか、その「人間力」が身につかないと感じている読者は多いのではないだろうか。
古典を読み、そこに書かれてある「人間として、かくあるべし」という「理想的人間像」に深く共感する。そして、その人間像に近づこうと、日々の仕事や生活において努力をする。
しかし、すぐに人間としての未熟さが現れ、そうした人間像とは程遠い自分の姿を見て嘆息する。
こうした経験を持つ読者は、決して少なくないのではないか?例えば、一人の経営者として、古典に書かれている「私心を去る」「利他の心で生きる」という言葉に共感する。
しかし、日々の仕事に戻り、現実の問題に直面すると、当たり前のように、心の中に「自己中心的な自分」「計算高い自分」が現れてくる。
例えば、一人の親として、古典に書かれている「子供の可能性を信じる」という言葉に共感する。
しかし、日々の生活に戻り、学校での子供の成績が下がったという現実に直面するだけで、心の中に「この子は、こんな勉強もできないのか」と嘆く自分が現れてくる。
実は、誰もが、そうした経験を持っているのではないか?そして、こうした経験を繰り返すと、我々は、古典に書かれている「理想的人間像」に近づけない理由を、しばしば、「自分は、意志が弱い」「自分には、克己心が足りない」といった形で、自身の非力に求めてしまう。
しかし、実は、そうではない。我々が、優れた「古典」を読んでも、なかなか「人間力」を身につけることができないのは、「意志が弱い」からでも、「克己心が足りない」からでもない。
その真の理由は、我々が、「古典」を読むとき、その「読み方」を誤解しているからである。その誤解は、三つある。
古典からは「理想的人間像」ではなく「具体的修行法」を学ぶ
第一の誤解は、古典を読むとき、そこから「人間として、かくあるべし」といった「理想的人間像」を学ぼうとすることである。
しかし、古典を読むとき、むしろ大切なことは、「いかにして、人間として成長していくか」という「具体的修行法」を学ぶことである。
特に、その修行法の要諦としての「心の置き所」を学ぶことである。もとより、古典から「理想的人間像」を学ぶことも大切であろう。
しかし、どれほど「人間として、かくあるべし」を学んでも、そうした人間へと成長していく「具体的修行法」を学ばなければ、我々は、一歩も前に進んでいくことはできない。
これは、「人間を磨く」ということや、「人間力を高める」ということを「山登り」に喩えてみれば、容易に分かることである。
いかに多くの古典を読み、人間としてめざすべき「高き山の頂」を心に刻んでも、一人の未熟な人間が、いかにして、山の麓から、その山の頂めざして歩んでいくかという「山道の登り方」について学ばなければ、その山の頂に到達することはおろか、山道を登っていくことさえできない。
この「高き山の頂」(理想的人間像)と「山道の登り方」(具体的修行法)の違い、それを説明するために、分かり易いエピソードを紹介しよう。
かつて、ある雑誌の編集長が、永年の実績のある優れた経営者に、「経営の要諦」を聞いた。すると、その経営者は、短く、一言を語った。「社員を愛することです」
一方、ある雑誌の記者が、部下の教育に悪戦苦闘する中間管理職に、その苦労談を聞いた。すると、その中間管理職は、ためらいながら、こう答えた。
「正直に言って、あまりにも仕事の覚えが悪い部下を見ていると、ときおり、その部下の指導を諦めたくなるときがあります。『もう無理だ・・』という心境ですね。
しかし、一晩寝て、朝起きると、なぜか、彼と上司・部下の関係になったのも、何かの深い縁かなと思うんですね・・。そして、考えてみれば、自分の若い頃も『覚えの悪い部下』だったなとも思うんです。すると、不思議なことに、もう少し頑張ってみようかと思えるんですね・・」
さて、この二つのエピソード、どちらが、「人間力」を身につけていくために、参考になるだろうか?どちらが、山道を登っていく人間にとって、糧になるだろうか?答えは、明らかであろう。
前者の経営者は、決して間違ったことを言っていない。「社員を愛する」。それは、誰もが認める「人間として、かくあるべし」の姿であろう。
しかし、こうした言葉を聞かされても、一人の未熟な人間としては、「それは分かるが、しばしば目の前の一人の社員を愛せない心境になるから、苦しんでいる・・・」と呟きたくなるのではないか。
これに対して、後者の中間管理職の言葉は、そうした未熟な人間としても、励まされる言葉であり、何かを学べる言葉である。
誰もが、一度や二度は、諦めそうになること。一晩寝た後、人間の心境は変わること。相手と出会ったことの縁を思うこと。自身の若き日の未熟さを振り返ること。
いずれも、深く学べる言葉である。
そして、この言葉は、単に「職場での上司・部下」の人間関係だけでなく、「学校での教師・生徒」の人間関係や、「家庭での両親・子供」の人間関係においても、糧となる言葉であろう。
すなわち、この二人の人物が語った、二つの言葉。
一つは、優れた人間が、自身が登り到った高き山の頂を指し示し、「この高き山の頂に登るべし」と語る言葉。
一つは、心の弱さを抱えながらも、そして、遅き歩みながらも、高き山の頂をめざして一歩一歩登っていく人間が語る、「未熟な人間でも、このような心の置き所を大切に歩めば、少しずつでも登っていけるのではないか」との言葉。
実は、古典と呼ばれるものには、この二つの種類の言葉、「理想的人間像」を語る言葉と、「具体的修行法」を語る言葉が書かれている。
そして、未熟さと心の弱さを抱えて歩む、我々にとって、真に励ましとなり、糧となるのは、後者の言葉であり、こうした言葉をこそ、古典を読むとき、我々は、深く読み取るべきであろう。
そして、実は、「優れた古典」と呼ばれるものの中には、著者自身が、一人の人間としての未熟さと心の弱さを抱え、それでも、人間としての成長を求め、自分自身と格闘しながら山道を登っていくなかで書かれたものが、少なくない。
例えば、『歎異抄』という古典。
浄土真宗の開祖、親鸞の教えを学ぶとき、ほとんどの人が、この書から入っていく。しかし、実は、これは、親鸞の書いた書ではない。
それは、師である親鸞に付き従いながら、親鸞の教えを体得しようと修行を続けた弟子、唯円の書いたもの。
後に、親鸞の教えが世に広がっていったのは、この書に依るところが大きい。親鸞の教えを学ぶために、親鸞自ら遺した大著、『教行信証』から入っていく人は、ほとんどいない。
全く同様に、例えば、『正法眼蔵随聞記』という古典。曹洞宗の開祖、道元の教えを学ぶとき、ほとんどの人が、この書から入っていく。
しかし、実は、これもまた、道元の書いた書ではない。それは、師である道元に付き従いながら、道元の教えを体得しようと修行を続けた弟子、懐奘の書いたもの。
後に、道元の教えが世に広がっていったのは、この書に依るところが大きい。
これも、道元の教えを学ぶために、道元自ら遺した大著、『正法眼蔵』から入っていく人は、ほとんどいない。
このように、優れた古典の中には、一人の未熟な人間が、その未熟さを抱えながら、どのようにして高き頂に向かって山道を登っていったかを語ったものが少なくない。
そして、我々の胸を打つのは、一人の人間としての未熟さと弱さを抱えながらも、ひたすらに人間成長を求めて歩み続けた、その姿であり、自身の歩みの遅さに、ときに天を仰ぎ、溜め息をつきながらも、決して、その歩みをやめなかった、その姿である。
古典を通じて我々が深く学ぶべきは、登るべき「高き山の頂」(理想的人間像)だけではない。
その頂に向かってどのように歩んでいくか、その「山道の登り方」(具体的修行法)を学ぶべきであり、山道を登るときの「心の置き所」を学ぶべきであろう。
もとより、浅学の著者が、唯円や懐奘ほどの人物を「一人の未熟な人間」と評することは、僭越極まりないことである。
正確に言えば、あれほどの深い境涯に至っても、「自身の未熟さ」を見つめ続けた、その人間としての謙虚な姿が、我々の胸を打つのであろう。
世を見渡せば、古典を引用し、「人間として、かくあるべし」という教訓を語っている人物が、現実には、その「かくあるべし」とは、ほど遠い姿を示し、「人間力」に乏しいと言わざるを得ない姿も見てきた。
ときに、古典を語り、理想的人間像を語り続けた結果、いつのまにか、「自分はそうした人物である」という自己幻想に陥ってしまう姿も見てきた。
それゆえにこそ、古典を読むとき、その著者の示す「人間としての謙虚な姿」もまた、我々が、深く学ぶべきものなのであろう。
「我欲」や「私心」を否定せず、ただ静かに見つめる
では、第二の誤解は、何か?それは、古典を読むとき、多くの古典が語っている「我欲を捨てる」「私心を去る」といった言葉を、素朴かつ表面的に受け止め、自分の中の「我欲」や「私心」、言葉を換えれば「小さなエゴ(自我)」を、否定し、捨て去ろうとしてしまうことである。
では、なぜ、これが誤解か?我々の心の中の「小さなエゴ」は、捨て去ることはできないからである。
我々の心の中の「我欲」や「私心」「小さなエゴ」は、捨て去ったと思っても、消し去ったと思っても、実は、それは、ただ抑圧し、心の表面に出ないようにしているだけである。
従って、抑圧することによって、一時、心の奥に隠れるが、その「小さなエゴ」は、いずれ、必ず、心の奥深くで密やかに動き出す。
例えば、同僚が先に昇進したとき、心の中で「自分は、同僚の昇進を妬むことなどない」と思う。しかし、数か月後、その同僚が病気で休職になったとき、心の奥に、それを密かに喜ぶ自分が現れる。
そうした形で、「小さなエゴ」は、捨て去ったと思っても、必ず、心の奥深くで密やかに動き出す。そして、それは、ときに、極めて巧妙な形で、我々の心を支配する。
例えば、先ほど述べた「我欲を捨てる」「私心を去る」という言葉。こうした言葉を読むと、当初、我々は、この言葉を真摯に受け止め、自分も、そうした「我欲」や「私心」に振り回されない人間になりたいと考える。
しかし、自分自身の中で、「我欲を捨てよう」「私心を去ろう」と考えているうちは良いのだが、修行中の人間が、この言葉を周りに対して語り始めると、危うい状態が始まる。
なぜなら、周りに対して、「我欲を捨てるべし」「私心を去るべし」と語り始めると、いつのまにか、心の中に「私は、我欲を捨てた人間だ」「私は、私心を去った人間だ」という自己幻想が生まれてくるからだ。
そして、この自己幻想の背後には、必ず、「小さなエゴ」が忍び寄り、潜んでいる。
すなわち、周りに対して「我欲を捨てるべし」「私心を去るべし」と語ることによって、周りから「あの人は、我欲を捨てた人間だ」「あの人は、私心を去った人間だ」と思われたい、自分を立派な人間だと思われたいという「小さなエゴ」が、密やかに忍び込んでくる。
そして、さらに怖いことは、「我欲を捨てる」「私心を去る」と語っている人間自身が、自分の心の中で蠢く、その「小さなエゴ」に気がつかないことである。
なぜなら、我々の心の中の「小さなエゴ」は、ときに、「小さなエゴを捨てた高潔な人間の姿」を演じて、満足を得ようとすることさえあるからだ。
このように、我々が、自分の心の中の「我欲」や「私心」という「小さなエゴ」を、素朴に否定し、捨て去ろうとしても、ただ、ひととき、それを心の表面から抑圧するだけで、いずれ、その「小さなエゴ」は、心の奥深くで密やかに動き出す。
そして、この「小さなエゴ」は、ときに、「私は、小さなエゴを捨てた人間だ」という姿さえ演じて現れてくるときがある。
では、どうすれば良いのか?「小さなエゴ」というものが、否定することも、捨て去ることも、消し去ることもできないものであるならば、どうすればよいのか?その「小さなエゴ」が、心の奥深くで動き出し、ときに、嫉妬心、ときに、虚栄心、ときに、功名心となって現れるとき、それを否定することも、捨て去ることも、消し去ることもできないとすれば、どうすれば良いのか?その「小さなエゴ」に処する方法は、ただ一つである。
ただ、静かに見つめること。それが、唯一の方法である。
例えば、自身の心の中に、誰かに対する「嫉妬心」が生まれてきたとき、「ああ、自分の心の中で、あの人に対する嫉妬心が動いている・・」と、静かに見つめることである。ただ、このとき大切なことは、「静かに」見つめること。
その意味は、この「嫉妬心」を否定するのでもなく、肯定するのでもなく、ただ静かに見つめることである。
「ああ、こんな嫉妬心を持ってはならぬ」と否定するのでもなく、「いや、この嫉妬心こそが自分のバネになる」と肯定するのでもなく、「ああ、自分の心の中で、嫉妬心が動いている・・」と、ただ静かに見つめることである。
言葉にすれば、ただそれだけのことであるが、行ずるのは容易ではない。しかし、もし、それができたならば、不思議なほど、自分の心の中の「嫉妬心」の動きは、静まっていく。
実は、こうした「小さなエゴ」に処する、成熟した「こころの技法」は、古くから、仏教を始めとする古典において、様々な形で語られているのだが、近年の表層的な古典解釈においては、「我欲を捨てるべし」「私心を去るべし」といった単純なメッセージが、「高潔な人物」を演じたがる「小さなエゴ」の蠢きとともに、広がる傾向がある。
それゆえにこそ、我々は、古典を読むとき、「我欲を捨てる」「私心を去る」といった言葉を、素朴かつ表面的に受け止めるのではなく、自分の中の「我欲」や「私心」「小さなエゴ」を、ただ静かに見つめるという、成熟した「こころの技法」とともに学ばなければならない。
先ほど紹介した親鸞の言葉、「心は蛇蝎のごとくなり」は、ある意味で、古典を読み、人間成長の修行に取り組む人間が陥りがちな、「自分は、我欲を捨てた」「自分は、私心を去った」といった自己幻想への警句であり、「小さなエゴ」の巧妙な動きへの警鐘でもあろう。
自分の中に、「統一的人格」ではなく「様々な人格」を育てる
では、第三の誤解は、何か?それは、古典を読むとき、我々がめざすべき人間像として、一つの理想的な「統一的人格」を心に描き、その人間像を追い求めてしまうことである。
それを象徴するのが、例えば、「裏表のない高潔な人物」といった言葉である。
それは、「誰に対しても、裏も表もない一つの人格で接し、決して悪しきことをせず、誰からも尊敬される人物」といった意味の言葉であり、たしかに、もし我々が、そうした人物になれるのであれば、それは、生涯を賭けてめざすに値する人間像であろう。
しかし、では、実際に、我々は、そうした「裏表のない高潔な人物」になれるのだろうか?まず第一に、そもそも、我々は、「裏表のない人物」になれるのだろうか?実は、この言葉そのものが、すでに、一つの固定観念を、我々の心に刷り込んでいる。
なぜなら、「裏表」という言葉に、すでに「表=善なるもの」「裏=悪しきもの」といった価値観が含まれており、この言葉そのものに、「世間や他人に対して『表の顔』以外に『裏の顔』を持つことは許されない」という価値観が含まれている。
しかし、では、現実に、我々は、日々の仕事や生活を、ただ一つの「表の顔」だけで処しているだろうか?決して、そうではないだろう。
例えば、一人のビジネスパーソンを考えてみよう。彼は、家庭においては、子煩悩な父親であり、しばしば子供を甘やかしすぎると、妻から苦言を呈されている。
しかし、彼は、会社に行くと、辣腕の営業マネジャーとして、部下からも上司からも、一目、置かれている。
けれども、ときおり実家に帰って母親と過ごすと、昔ながらの一人息子の顔に戻り、母親にわがままを言って好きな料理を作ってもらう。
また、たまに高校の同窓会に行くと、気の置けない仲間と再会し、かつての冗談好きな楽しい雰囲気が表に出てくる。
すなわち、この人物は、「子煩悩な父親」「辣腕のマネジャー」「母に甘える一人息子」「冗談好きの仲間」といった幾つもの顔を持っており、幾つもの人格を、自然に使い分けて生きている。もし、我々が、周りを見渡してみるならば、こうした人物は、決して珍しくないだろう。
いや、我々自身も、家庭、会社、実家、友人仲間、それぞれの場において、それぞれ違った人格で処しているのではないだろうか。
このことは、拙著『人は、誰もが「多重人格」』でも語ったことであるが、実は、我々の中には、「幾つもの人格」があり、仕事や生活の場面や状況に応じて、我々は、それらの人格を使い分け、処している。
そのことを理解するならば、古典を読んだとき、我々がめざすべき人間像として、一つの理想的な「統一的人格」を心に描き、その人間像を追い求めてしまうことは、正しくない。
むしろ、我々がめざすべきは、自分の中に、「幾つもの人格」を見出し、育てることであり、それらの人格を、仕事や生活の場面や状況に応じて、適切に切り替える能力を磨いていくことである。
また、第二に、我々は、決して悪しきことをしない、誰からも尊敬される「高潔な人物」になれるのだろうか?例えば、仏教の古典に語られる「鬼手仏心」という言葉。
この言葉は、鬼のように厳しい処し方の背後に、仏のような慈愛に満ちた心があるという人間の姿を、ある状況における「理想的な姿」として語っているが、これは、「鬼」と「仏」という、一見矛盾する二つの人格が、一人の人間の中に共存することを意味している。
しかし、それゆえ、この人物は、ある人から見れば、とても尊敬できない「鬼」のように見え、ある人から見れば、深く尊敬できる「仏」のように見えるであろう。
また、昔から、経営の世界では、「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ」と語られてきた。
これは、自分の中に、「悪人」と呼ぶべき人格がありながらも、その人格を御していくことができる、「もう一つの人格」があることの大切さを語っている。
すなわち、「悪いことができる人格」を自分の中に抱くからこそ、部下や社員が「悪いこと」に走る心境を察知し、彼らが「悪」に手を染めることを未然に止めることができる。
また、取引先や競合企業が「悪いこと」を犯す可能性を考慮し、適切な予防対策の手を打つことができる。
「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ」という言葉は、そのことを意味している。
このように、我々の心の中には、幾つもの人格があるだけでなく、それらの中には、「鬼」と呼ぶべき人格や、「悪」と呼ぶべき人格も存在する。
そのことは、冒頭に述べた親鸞の「心は蛇蝎のごとくなり」という言葉にも示されており、また、文学も含め、人間というものを深く洞察した古典においては、すでに、様々な形で語られてきたことである。
大切なことは、自身の中にある「鬼」や「悪」と呼ぶべき部分から目を背けることなく、その存在を認めつつ、それらの人格を御していくことのできる「もう一つの人格」を育てていくことである。
すなわち、我々は、古典を読むとき、「善」なる姿しか持たない「統一的人格」を理想像として追い求めるべきではない。
それは、結果として、自身の内なる「悪」の部分から目を背け、それを抑圧してしまうため、逆に、思わぬところで、その「悪」の部分に足をすくわれてしまう。
その意味でも、我々が古典を通じて学ぶべきは、自身の中に、「鬼」も「悪」も「邪」も含めた幾つもの人格を見出し、それらの人格に光を当てる技法であり、また、自身の中に、様々な人格を育て、それらの人格を、日々の仕事や生活の場面や状況に応じて、適切に使い分ける技法である。
難しい人間関係に直面したときが、人間を磨く最高の機会
このように、我々が、人間を磨き、人間力を高めるために古典を読む場合には、これら「三つの誤解」を心に置いて、読むべきであろう。
そして、それゆえ、本書においても、この「三つの誤解」を踏まえ、次の「三つの視点」から、いかにして人間を磨いていくか、いかにして人間力を高めていくかについて、語っていこう。
第一の視点一つの理想的な「統一的人格」を持つ人間をめざすのではなく、自分の中に「様々な人格」を育て、それらの人格を場面や状況に応じて適切に使い分けることのできる人間をめざす。
第二の視点自分の心の中の「小さなエゴ」を捨て去ろうとするのではなく、その「小さなエゴ」の動きを、静かに見つめることのできる「もう一人の自分」を育てていく。
第三の視点ただ「理想的人間像」を論じるのではなく、そうした人間像に向かって一歩一歩成長していくための「具体的修行法」を身につける。
では、その「具体的修行法」とは何か?我々が、この人生において、人間を磨き、人間力を高めていくために、どのような場で、どのような修行をすればよいのか?端的に述べよう。
日々の仕事や生活における「人間関係」それが、最高の修行の場であろう。
我々は、日々、会社や職場での仕事において、家族や親戚との生活において、友人や知人との交友において、様々な人間関係の問題に直面し、迷い、悩みながら生きている。
もとより、人間関係には、素晴らしい巡り会いや心に残る出会いもあるが、一方、哲学者サルトルが語った「地獄とは、他者なり」の言葉のごとく、ときに、心が軋むような最悪の関係となってしまうときもある。
しかし、人間関係における、不和や不信、反目や反発、対立や衝突、嫌悪や憎悪などの痛苦な経験は、その処し方を間違えなければ、人間を磨き、人間力を高める最高の機会になる。
逆に、処し方を誤るならば、自分の人間性を寂しい次元に落としてしまうこともある。
では、その分かれ道は何か?その人間関係に処するときの「心の置き所」それが、分かれ道になる。
ここで、「心の置き所」とは、「心得」「心構え」「心の姿勢」「心の在り方」とも呼ばれるもの。
それは、「人間として、かくあるべし」といった大仰なものではなく、ほんの小さな「こころの技法」と呼ぶべきものである。
それは、日々の仕事や生活において、人間関係の問題に直面したとき、思い出し、少しだけの努力で実践することのできる「こころの技法」でもある。
本書では、それを「人間関係が好転する『こころの技法』」として、「七つの技法」を語ろう。
それは、次の七つである。
第一の技法心の中で自分の非を認める
第二の技法自分から声をかけ、目を合わせる
第三の技法心の中の「小さなエゴ」を見つめる
第四の技法その相手を好きになろうと思う
第五の技法言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす
第六の技法別れても心の関係を絶たない
第七の技法その出会いの意味を深く考える
これらの技法は、いずれも、極めて具体的な技法であり、読者が人間関係の問題に直面されたとき、すぐに実践できるものであるが、ひとたび、これを実践されるならば、まもなく、その技法の持つ「奥の深さ」に気がつかれるだろう。
もとより、真の「修行」というものは、日々の仕事や生活において容易に取り組めるものでありながら、奥の深いものである。
例えば、日々の仕事や生活において、誰かにお礼を言うとき、ただ「有り難うございます」という言葉を語るだけでなく、必ず、そこに「有り難い」という気持ちを添わせるという「修行」。
この「修行」は、極めて具体的な「こころの技法」の実践であり、誰でも容易に取り組めるものであるが、ひとたび、この技法に取り組むと、まもなく、その「奥の深さ」に気がつくだろう。
しかし、その「奥の深さ」を味わいながら、この「修行」を続けていくならば、いつか、自身の「言葉」に、静かな力が宿っていることに気がつくだろう。
そして、自身の「心」に、大きな変化が生まれていることに気がつくだろう。その変化こそが、「人間を磨く」ということの真の意味に他ならない。
読者は、日々の人間関係において壁に突き当たったとき、これから述べる「こころの技法」を思い出し、「七つの技法」のいずれでも良いので、取り組んでみて頂きたい。
どれも素朴な技法と思われるかもしれないが、それを真摯に実践されるならば、その人間関係が、大きく変わっていくだろう。
そして、これらの「こころの技法」を実践し、修行を続けていくならば、日々の人間関係は、自身の人間を磨き、人間力を高めていく、素晴らしい機会になっていくだろう。それでは、話を始めよう。
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